ジャクリーヌは幼い頃から服飾や宝飾よりも、テーブルウェアやキッチンウェアに心惹かれる少女だった。母親の影響であるのは間違いない。彼女の母親は、由緒ある貴族旧家で育児と家政一般を切り盛りする辣腕侍女頭である。
元は旧家の跡取り息子の乳母であった母の元、物心つく頃から家政の手ほどきを受けて育ったジャクリーヌである。母の影響を受けずに育つより、かぼちゃの花にりんごを結実させる方が容易いだろう。
毎日の生活を丁寧に音楽を奏でるように営むこと。それがジャク
蔦がモチーフのダマスク織りのテーブルクロスは、結婚した年のノエルに贈られたもの。その上には白いレースのふち飾りつきクロスを直角にずらして置く。これは確か四年前のノエルのギフトで、やっぱり白いダマスク織り。
高価なドロンワークレースを縁にあしらった純白のクロスが贈り物の箱から現れた時、ジャクリーヌは夫の思い切った買い物に悲鳴を上げたものだ。テーブルの上で二枚はまるで元から対であったように、蔦と小花のモチーフと織りの光沢がしっくりと調和する。
ジャクリーヌは、若草色と白色のコントラストの美しさに思わず見惚れ、立ち働いていた手を止めた。
三連の銀燭台がテーブルの中央に置かれた。クリスタルのカットワークが美しいベネチア製赤ワイン用グラスを二つ、向かい合わせに並べる。食器はこれで全てだ。白ワイン用と水用のグラスやデカンターはこれから揃える予定だからまだない。
やや寂しい食卓だが、特別な日にだけ使うことにしている上等の蜜蝋燭を燭台に灯せば、美しくカットされたクリスタルの模様がクロスの上にダイヤモンドを撒いたように落ちるだろう。
花も飾りたいところだが、冬場に温室栽培の花を買うだけの余裕はない。かわりにモミの小枝に赤い薔薇の実をあしらって燭台をぐるりと飾った。白いクロスの上に濃いグリーンが映え、赤い小さな粒がぴりっと引き立つ。針葉樹の爽やかな香りがほのかに香るのを楽しみながら、我ながら洒落たアイデアだったわ、ジャクリーヌは一人悦に入った。
彼女とその家族が住む家は、元は大きな厩舎だった。がっしりと厚い石造りの壁には、太く、硬い一本使いの胡桃材建具が埋め込まれている。築百年は経っているが、まだ数百年はそのままの姿を保ちそうなほど、強健なつくりの建物だ。
室内は、壁紙や塗装などの人工色は無いが、白い化粧漆喰で塗り重ねられた石壁をあめ色に艶出しした梁や柱、窓枠、扉が力強く縁取っている。素材のままの自然な色彩がしっくりと調和して落ち着ける空間だ。
少女の頃に習い覚えた手織りのタペストリーや、手縫いのカーテンが温もりある色味を添える。台所の窓枠には本物の羊毛で作ったフェルトの羊がひょうきんにおどけたポーズで何頭も居並んでいる。彼女の息子が作製した会心の作だ。
素朴な室内へこつ然と登場した豪華なテーブルセッティングが浮いていないと言えば、嘘になる。三客しかない椅子は、きつく編んだ麻縄の座面に、真っ直ぐでシンプルな脚がついている質素なもので、どう見ても豪華な食卓とはつり合わない。
陶磁器や銀器もないから、いざ晩餐となれば、木皿や厚ぼったい陶器が登場してバランスはぶち壊れるだろう。銀器や陶磁器がセットで揃うまでにはあと二十年くらいかかる計算だった。
でも、ほら、フランス窓をバックにしてテーブルを眺めれば、いい感じよ。ジャクリーヌは自作品に視線を固定したまま、自慢のフランス窓とは反対の壁際まで後ずさった。
窓の外では昨夜降った真新しい雪で純白に衣替えした麦畑が幾重にも白く美しい稜線を重ねている。斜めに引き伸ばされた淡い朱色の夕日が、刻一刻と色合いを違えながら白い畑を朱色に染めている。黄昏時は殊のほか幻想的だ。
近くには三本のポプラ、遠くには教会と風車小屋のシルエットが小さく濃く、切り絵のように浮かび上がっていた。
このフランス窓は去年のプレゼントだった。分厚い石壁を一部取り壊して、床から天井近くまで届く両開きの窓をはめ込んでくれた時、夫はこう言った。
『クロード・ロランの絵を買ったと思えば、安いものだろう?季節ごと、いや時間ごとに変化する風景画だ。一枚で千枚の価値。お得じゃないか』
希少な大判ガラスは非常に高価なものだ。貴族の館では、窓の大きさはそのまま富の象徴になるほどである。我が家の他の窓と比べて、一つだけ極端に大きすぎるし、第一クロード・ロランなんて知らないわ、とジャクリーヌは夫のあまりに分を越えた買い物に恐れをなした。
が、今思えば、夫も多少不安だったのだと思う。妻を説得しようとするさまが、妙に一生懸命だった。十年も経たないうちに、窓のお陰で浮いた照明代でもとが取れるさ、などととまるで自分に言い聞かせているようだった。
窓が完成してみると、フランス窓のある居間が家族にもたらした恩恵は期待以上だとわかった。居間から続く台所まで一段と明るくなり、家事の効率が上がったし、広い部屋の隅々まで光が届くと、遊んでいる子供の様子も手に取るようにわかる。
何よりもお互いの顔がよく見えるのはいいものだ。明度は想像以上に人の気持ちに作用する。冬季など、昼間でも夜のように薄暗かった室内が格段に明るくなると、厳しく長い冬のつらさが半減した。高くついた埋め合わせに、一年間夫は仕事を増やさねばならなかったが、その甲斐は十分にあった。
厩舎を家屋に改造したのは夫の祖父の代だったらしいが、夫は仕事の合間を見ては、より住みやするべく改造を続けている。手を入れる箇所については、二人で納得がゆくまで話し合って決めた。家族と共に成長する家。ジャクリーヌはこの家の変化を一人息子の成長と重ね合わせて愛していた。
ジャクリーヌの息子は今年満七歳になった。親の贔屓目を差し引いても、心優しく思いやりに溢れた子供で、生き生きと良く動く潤んだ大きな濃い瞳と、くるくると飛び跳ねる豊かな黒い巻き毛を持つ愛くるしい容姿に加え、実年齢以上の思慮分別を備えている。
しかし、何かに夢中になれば、それ以外のものは注意の範疇からあっさりと転げ落ちてしまうのは他の子供と同様だ。最近の彼は、鳥肉から胸骨を形を崩さず掘り出すことに情熱を燃やしているし、毎日の発見や武勇伝を母親に報告する身振り手振りは日ごとに勇ましくなる。
だから毎年少しずつ揃えたテーブルウェアは、子供が十分成長し、破損や汚染の心配がなくなってからデビューさせるつもりだった。最低でも彼が十歳になるまで待とう。ジャクリーヌは去年まで、いやつい昨日までそう決めていた。
しかし、昨夜、夫が下した重大な決断を受けて、ジャクリーヌは予定を急遽変更した。今夜は特別なノエルの晩にしたかった。大切な一夜だからこそ、夫の愛情が形になった品々を全て揃えて演出したい。
後のことは何も考えず、家族そろって楽しく過ごそう。そう自分に言い聞かせるほど、目頭に熱いものがこみ上げるけれど。
「母さん!」
居間のフランス窓が勢い良く開き、つむじ風と一緒に巨大な緑の塊のようなものが目に飛び込んで来た。ジャクリーヌは慌てて涙をぬぐい、母の顔に戻る。声は息子のものだったが、目に入ったのは、大きなボール状に絡まりあったつる草の塊だった。
緑の塊はジャクリーヌを探して、よたよたと左右に揺れながら、掃除したばかりの床に枯れ葉やらつるの切れ端やらを落とした。ちいさな靴底の形をした雪の塊が転々と窓から続いている。
緑のお化けはそのままジャクリーヌにふぁさっと衝突し、中からもそもそと得意そうに目を輝かせた子供が顔を出した。
「どう?村一番だと思わない?」
緑のお化けは巨大なヤドリギの一塊だった。冬でも美しい緑を保つ聖なる植物であるヤドリギは、伝統的なノエルの装飾として居間の天井や、玄関先に吊るされる。
ノエルの十二時過ぎ、ヤドリギの下でキスをして願い事をするとかなうと広く言い伝えられている。ジャクリーヌはとある心配事と、ノエルの晩餐と、テーブルセッティングで頭を一杯にしていたので、すっかりヤドリギ採取のことを失念していた。
「まあ、何て見事なの」
息子であるアンドレは、戦利品を苦労して床に置くと、自分も一歩下がって誇らしげに胸を張った。
「今年はうちが一番大きなヤドリギを玄関に吊るすんだ。新年になったら村中の人がうちのヤドリギの下までキスしに来るよ。だって、こんなに大きいんだもの。きっとどんな願い事もかなうよ」
「そうねえ。それにしても大きいわ。吊るすのは父さんが帰ってからお願いしないと。あら、あら、いくつも小さな玉が連なっているじゃないの」
「小さいのは母さんのテーブル用だよ。それに暖炉の上にも飾れるよ。すぐに切ってあげる!」
こいつが目覚めている時は、無駄に何百本もランタンを灯したようだな、とジャクリーヌの夫は口癖のように言っては笑う。今夜も息子と囲む夕食に間に合うように、パリにある仕事場から急ぎ帰って来るはずだ。
本来は仕事の虫なのだが息子の引力には適わないらしい。『君とは一生の付き合いだけど、こいつとは今のうちに親睦を深めておかないとね』と言うのが夫の持論だった。
ランタンどころか、息子の存在は太陽のようなものだ。彼がいなくなったら、我が家は冬の麦畑のように枯れてしまうだろう。ジャクリーヌは、くりくりとくせ毛のはねる我が子の日向くさい頭を、しっかりとエプロンに押し付けてからかがみ込むと、真っ赤に染まった鼻頭と頬にキスをした。
「とても素敵だわ。ありがとう、アンドレ。外套の埃と雪を払って手を洗ったら、母さんを手伝ってちょうだい。今夜はご馳走よ。父さんを唸らせてやりましょう」
子供の顔がさらに輝き、母親の首に冷たく凍えた小さな腕が巻きつき、期待に満ちた声が弾んだ。
「雉は?煮込んじゃった?」
「まさか。ローストにしたから、願い骨(*)はそのままよ」
「やったあ。じゃあ、今夜は母さんと勝負だ」
「あら、光栄だこと。負けないわよ。母さんだって願いごとはあるのだから」
「うふふ、あはは、やめてよ母さん。手、洗って来る」
(*)願い骨=ウィッシュ・ボーン
v字型に繋がっている鳥の鎖骨。その両端を2人で持ち、願をかけて左右に引っ張って裂く。
鎖骨の関節部が手元に残った者の願い事がかなうと言われている。しかし、非常にもろく、無傷で取り出すのは難しいため、無事に取り出せた時点ですでにラック(幸運)を手にしたとも考えられている。
イギリスから大陸に伝わった風習で、現在でも感謝祭やクリスマスのディナーの席での子どもの楽しみである。
18世紀のフランスでこの風習が実際にあったかどうかは未確認デス。
ジャクリーヌは子供の弱点であるわき腹をくすぐってやった。弾ける笑顔をあらゆる方向に歪めて身を捻ると、子供は母の手を逃れ、寝室へ一目散に逃げて行った。その小さな背中に向け、母はぴしっと一本釘を刺す。子供の柔らかな頬に、引っかき傷が無数についていたのを、母は見逃してはいなかった。
「で、あなたがどうやって、この立派なヤドリギを手に入れたかは、明日話しましょう。今夜は楽しいことだけ考えたいわ」
子供は一瞬弾かれたように飛び上がり、けつまづいた。
上手くいけば、ノエルの準備に紛れて母の注意をそらせる事ができるとアンドレは期待していたが、甘かった。
ノエルが近づくと、低い木の枝にある手ごろなヤドリギは大方収穫されつくしてしまうので、大きな株が欲しければ、かなり高い枝まで上らなければならない。
アンドレは大きなヤドリギを求めてブナの木のてっぺんまで上ったはいいが、しっかりと木の幹に根を張ったヤドリギは小さな彼の手に余った。力任せに引っ張ったところ、彼は勢い余ってヤドリギの株ごと転落しかけた。
辛うじて剥がれなかったヤドリギの根に支えられ、中空にぶら下がっているところを通りがかった木こりのジョルジュ・シモンに助けられたアンドレだった。
狭くて小さな村のことだ。いずれシモンかその家族から事の次第が父母の耳に入るだろう。実際、彼が通りかからなければ、状況はかなり際どかった。
理由はわからないが、昨日から母が悲しみに沈んでいることを察知していたアンドレは、何とかして母を喜ばせたい一心でブナに挑んだのだが。結局母に心配をかけるへまをやらかしたことに気落ちしていた。
『そうだ、今夜は雉の願い骨を無傷で取り出したら、母さんの願い事がかなうように太い側を持たせてあげよう。でも、母さんの願いごとが、ぼくがもっといい子になりますように、だったら困るよ』
アンドレにとって、子供でいるのは結構しんどいのであった。したいことと、できることが途方もなくかけ離れているからである。どれほど心躍る計画を思いついても、実際に行動した結果は潰れたペン先で穴をあけた書き取りより悲惨に終わる。
失敗なくできる程度で止めておくこともちゃんと測れるアンドレであったが、それでは毎日が味気なさすぎるのだ。
アンドレにはしたいことが山ほどあった。納戸で生まれた三匹の子猫の餌付け、半地下に貯蔵された藁山の中に作りかけた迷路、木樽に張った氷を重ねて氷の砦を作ること、裏山の頂上からノンストップで滑り降りるそりのコースの開発。
アンドレにはどれをとっても広大な構想があり、大人になるまで待つなんてとんでもない相談だったが、彼の挑戦にどのあたりで大人が待ったをかけるか、幼い彼の予測は大抵当るのだ。
アンドレはしゅんとした気持ちを引っ張り挙げるように、背筋を伸ばすと外套を脱いだ。上着の背中にできたかぎ裂きは、気がつかなかったことにして、椅子の背にかけた。
台所からは肉の脂が焦げる香ばしい匂いと、甘酸っぱい焼きりんごとシナモンの香りが漂ってくる。年に数えるほどしかありつけない贅沢な献立の匂いは、アンドレの気分を立て直すには大層役に立った。
よし、この次は母さんに心配をさせる隙もないほど上手くやればいいだけじゃないか。ブナに挑戦する前も確か同じことを考えたことなどすっかり忘れ、父が帰宅するまで腹の虫が辛抱できるかどうかという当面の問題にアンドレはため息をついた。
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急いで書類を処理してもらう必要があったため、役人には普段より余計に袖の下を握らせなければならなかったが何とか間に合った。無気力な役人はノエル以降新年まで全く働く気をなくすので、今日を逃せば賄賂もきかなくなる。
ばかばかしい出費であったが、とにかく今大切なのは、今年中に持っている特許権をすべて妻名義にしておくことだった。一度許可が下りさえすれば権利は永続的に妻のものになる。
郊外なのでさほど資産価値はないが、地所と家屋の方は息子名義にした。いくら法的に権利を持っていても、女と子供では狡猾な役人にあっさりと搾取されてしまう危険があったから、二人に権利を分散していくらかでもリスクを低くしておきたかった。
年明けにアメリカ大陸に出兵することが決まった。もし、自分が生きて再びフランスの地を踏むことができなかった時に家族が生きていけるように、持っている資産の全ての名義を妻と息子に移しておく必要があった。
妻は縁起でもないと泣いて怒ったが、そんな感傷よりも現実に対処する方を優先させたレオン・グランディエだった。
とりあえず、その気の重い仕事が片付き、少し気持ちが軽くなった。さあ、家に帰ろう。今日はもう明日のことは考えまい。市門が閉じる前にパリを出られれば、門番にまで賄賂をやらなくても済む。
もう役人とのやり取りは十分だ。早く帰って愛しいものの顔を見たい。レオン・グランディエはパリの雑踏をかき分けて馬を預けてある旅籠に急いだ。
レオンは、ある予感に突き動かされるように行動していた。それは高級将校だろうと一兵卒だろうと、アメリカ大陸へ渡る兵なら誰もが抱く予感だ。
植民地での戦局は思わしくなく、フランス軍はハドソン川流域の砦をすでに幾つもイギリス軍に占拠され、カナダのケベックは陥落し、前線は南北に分かれて後退するばかりと新聞は書きたてている。兵の一人としてレオンがこれから旅立つのはそんな場所であった。
だからと言って、今年のノエルが最後になると決めつけているわけではない。しかし、「予感」はレオンの中で不気味な静けさで沈黙したまま居座り続け、彼は「予感」を前提にした行動を選んだ。
けれど、最後のノエル、と心に刻み付けるように過ごすよりも、毎年当たり前のようにめぐってくる恒例行事の一つとして、聖夜を過ごしたい。家族で幾重にも重ねていく年輪の中のひとつとして、なんら普段と変わりなく過ごそう。
ノエルが終われば、父が工兵として大陸へ赴くことを息子に告げなければならない。彼はその事実を悲しむだけでは終わらないだろう。聡明な息子は一晩で少年時代の臨界期まで成長を遂げるだろう。
彼が初めて出会う厳然たる現実は、子供のやわらかな心を震撼させた後、一歩成長するだろう。彼は必ず母親の保護者たらんとして面を上げる。
傷ついた野生動物や、近隣の年少の遊び仲間や老人へ見せる息子の心配りは、彼の優しい資質を端的に現していた。今はまだ子供らしい無邪気な思いやりの域を出ることはないが、息子は誰かに心を寄せる時、自分の存在を消してしまうほど、全ての意識を相手に注ぐのだ。
今のところ、彼が保護欲を掻き立てられる対象は、野生に返す小動物や、近所の幼児くらいのものだから遊びの延長に過ぎない。彼の時間は子供らしい好奇心を満たす遊びや家事仕事、教会学校、父の仕事のまねごとなどに費やされている。
レオンは意図してそのような環境を用意してやっていた。仕事仲間からは職人の子どもには早くから仕事を覚えさせるべきだと再三諭されたが、レオンが意に介すことはなかった。
驚くほど素直な少年の心は、荒ぶる厳しい世の不条理を素手で受け止め、子供に似合わぬ早熟さで学んでしまうだろう。レオンは大人になり急ぐふしのある息子に、できるだけ子供でいる時間を長く与えてやりたかったのだ。
母子は親密だったので、レオンは傍目には滑稽に見えるほど、母の保護者は自分であることを息子に印象付けることを心がけた。と、言えば聞こえはいいが、何のことはない、親子で母を取り合っている、と言い換えても差し支えない構図である。
ジャクリーヌはしばしば大小の男どもの間に立っては裁判官の役目を負うことになった。多少うんざりしないでもないこの役目は、幸せと同義語でもあった。
息子は、父が母をいたわり、母が父を敬うのを一生懸命に真似た。そして母を守ろうとしては挫折感を学んだ。絶対に越えられない壁としての父がいつも少年の前にあったが、それは彼にとって絶対な安心の源でもあった。
パリ南東の市門を時間ぎりぎりの五時にくぐり抜けると、馬の早足なら三十分ほどで我が家に着く。市壁の外側に広がるヴァンゼンヌの森を突っ切ればセーヌを迂回しなくても良いからもっと早い。
ノエルの晩なら狩猟に出る王族はまずいない。王家の狩猟場である森を、レオンは思い切って突っ切った。すっかり落葉した森は見通しがよく、白く縁取られた木々の枝から雪を振り落としながらレオンは駆けた。
**************
「母さんちがうよ、こう持つんだ」
母に願い骨の持ち方を伝授するアンドレは真剣そのものだ。
「もっと付け根の方を持って、引っ張る時にはおもいっきりねじり上げるようにするんだよ」
「おや、そんなこと教えない方がいいんじゃないの」
「フェアファイトにならないでしょ、母さんにも教えておかないと」
食事前、父と取っ組み合った時に教わった言葉をアンドレは正確に使って答えた。
「まあ、何て騎士道精神かしら。じゃあ、準備はこれでいいわね、一、二、の…」
「待って!」
アンドレが無事に掘り出した鳥の鎖骨の一端を持ったジャクリーヌは、もう何度めかの待ったをかけられて、うんざりとした視線を夫に投げた。夫はただにこにことことの成り行きを楽しそうに見守っている。
アンドレは母の手からV字型をした胸骨を取り上げると、ためつすがめつ骨の接合部を観察した。どっち側が太くて丈夫そうだろう。さっきも確かめたのに、いさ勝負となると自分の手元側の骨の方が太く見える。
アンドレは生意気にも眉間に皺を寄せて検証を重ねた。それだけなら渋い目つきが格好いいのだが、ついでにより目になって骨を睨むものだから、どうしても笑いを誘わずにはいられない。
母は笑いを抑えてそっと彼の周りからグラスや食器を遠ざけた。父は母子のやり取りを眺めながら黙ってワインを傾ける。幸せそうな妻がいて息子がいる。完璧な時間とはこのことを言うのだろう。このひと時に、人生に必要な喜びが全て凝縮している。
今、このひと時には何も足りないものがない。画家が最後の一塗りをキャンバスに乗せた瞬間のような、この世の全てが完璧に出揃った夜、レオンは深く納得した。いい人生だった。
地上の水が形を変えるように森羅万象は揺らぎ、姿を変える。雪になり、雨になり、乾き、溢れ、逆巻く激流となって岩を砕く。けれど、何も減らなければ、何も増えることもない。
夏枯れした湖水が、次の年に豊かに水を湛え、瑞々しい樹木の息吹を甦らせるように、森羅万象もまた何も失うこと無しに繰り返し、繰り返し、大いなる循環を重ねるのだ。そして自分もその中の一粒のしずくなら、ずっと彼らの傍にいる。何かに当って砕け散っても、失われることなく彼らの一部となって戻ってくる。
けれど、妻や息子の未来を考えれば胸が潰れそうになる。いつまでも傍にいてやりたい、どれほど手をかけても足りることはない。それもまた、違う次元での偽らざる叫びだ。
アンドレが口をへの字にまげ、体も不自然な捻りかたをしながら腕を引いた。大きく椅子を仰け反らせた彼は、引きちぎった骨を食い入るように見詰めてから、母の手元に急いで目をやった。
果たして、願い骨の関節部は母の持った側に残っていた。見る間にアンドレの表情が晴れ上がる。非常にわかりやすい奴だ。レオンはくっくと口の中で笑った。
「母さん、ほら勝ったよ!」
椅子から飛び上がらんばかりの勢いである。ジャクリーヌが微笑むのは彼の喜び勇む姿が可愛らしいからのだが、アンドレは母が勝利の喜びを手にしたと確信し、それに関与できたことが嬉しくてしかたない。
勝負など始める前からジャクリーヌの息子は母を幸せにしているのだが、そんなことを言えば、逆にがっかりするのが彼だ。どんな風に育つやら。息子を見詰める父に、それを見届けることができない予感がいよいよ現実として背後に近く迫る。
子供は、特に男の子は、可能な限り早くに生きるための仕事を身につけさせよ、糧を得ることを覚えさせよ。農村でも都会でも生き抜くためにはそれが常識だった。
あえてその常識に逆らうように、息子を子供らしく育ててきたのは、彼への深い信頼があったからだ。仕事も技術も必要に駆られれば、すぐ覚えるだけの力をアンドレは持っている。
だから、少年時代は自由な好奇心、探究心、想像力を思う存分伸ばしてやりたい。いつか見えない社会の檻に気づくときに、それらが檻を開錠する力になるはずだ。
莫迦なことをしているのかも知れない。豊かな想像力を持てば、人民を幾重にも囲う体制の支配の存在を容易に感じ取るだろう。多くの労働者はそれに気づくことなく、生きるために過酷な労働をそういうものだと受け止めている。
一生をそのまま終えるしかないのなら、知らない方が幸福なのではないか。多くの人間にとって生まれた場所で生きていくより他はない時代なのだ。
レオン自身、窒息しそうに息苦しい社会の縛りの中で機械技師として生きてきた。村人の生活を少しでも向上させたいという動機から、製粉所用の脱穀機器を開発しようとしても、組合の壁に阻まれる。
低コストで高品質な小麦を量産できても、パン規制(身分別に買えるパンのグレードが定められていた)のために絶対に小作農や工場労働者の食卓には上らない。
国がまだなかった戦乱の世なら、または職人の力が非常に弱かった時代なら、確かに僅かな利益を守ってくれたであろう数々の組合規制は古くなりすぎて、錆びついた鎖となって労働者に巻きついている。
一般大衆の生活を支える、より良いものを作りたい。技師として自然な欲求をことごとく押しつぶす体制の数々の奴隷にならないよう面を上げ続けるには、心の自由が必要だった。
息子にも、精神の豊かさを与えてやりたい。厳しい現実の中、それは諸刃の刃となるだろうが、彼ならきっとうまく扱える。
「父さん、母さんったら酷いんだ!」
憤慨して湯気の立ったアンドレが父の膝に駆け寄った。
「どうした?」
「聞いてなかったの?」
レオンは膝によじ登る息子の両脇に手を添えて助けてやった。食事中に子どもを膝に上げると妻が怒るので、ちらと彼女の様子を伺う。
「折角勝ったのに、願い事を言っちゃったんだ」
そりゃあ、一大事だ。願い事は一度口に出してしまったら、舌の上で雪が解けるように空気になって消えてしまう。物事を心得ていない大人がいかにも犯しそうな失態だ。レオンが妻を見やると、彼女はうっかりしちゃったのよ、と目で合図を送ってきた。しめしめ、食卓で子供を膝に乗せたことは怒られないで済みそうだ。
「で、母さんの願い事は何だって?」
「いつまでも三人仲良く暮らせますようにって」
一瞬、レオンは息が詰まった。じっと、見返してくる真っ黒な大きな瞳は、幼いながら何かを悟っているのではないかと空恐ろしくなるほど深い色だ。
「アンドレ」
レオンは、息子を膝に上に深く座り直させ、不服そうに膨れた頬を両手で挟んだ。子供は子ども扱いされたことが悔しくて、父の手に逆らって更に頬を膨らませる。父は務めて明るく笑いながら、粘土を捏ねるようにその頬を左右から押しつぶした。
「ぶうううう~」
「いつまでも三人ってのは問題だな」
カタン、とジャクリーヌが空になった木皿を取り落とす音がした。妻を視界の端に入れながら、レオンは息子に語りかける。
「例えば…、弟か、妹は欲しくないか?」
「!」
アンドレのふくれっ面が激変した。レオンは噴出すのを辛うじて堪える。顔中どんぐり目になったじゃないか、こいつ。この子の瞬間百面相より面白いものがこの世にあったら教えてもらいたいものだ。
「父さん、父さん、ほんと?」
こいつは何でも覚えは早いが、早飲み込みも得意だな。もう興奮して息が上がっている。妻は目を見開いて夫を見ていた。妻にウィンクを返してから、レオンは早とちりで変わり身の早いわが子を抱えて立ち上がった。
「まあ神様の領域だからな。保障はできんが可能性はあるだろ?」
「なあんだ、もしもの話?」
「つまりだ、家族は三人だと決めてしまうことはないじゃないか、という話」
「いい考えだね。じゃあお祈りするよ」
「よし、それはおまえに任せた。おまえの願いの方が聞いてもらえそうだからな」
「そうだ!その前にヤドリギの下でお願いすればいいんだ!うちのヤドリギは村で一番大きいんだもの」
「そうだったな。あれは重かったぞ」
「ね!兄弟ができますようにって…あ!」
うっかり願い事を口に出しかけた子供はあわてて両手で口をふさいでもごもご言ったので、レオンは聞こえなかった振りをして息子を片腕で抱きかかえたまま、フランス窓の傍に立った。
指先で曇った窓ガラスを大きく拭うと、息子も小さな手でそれにならう。すると、視界の開けた二人の目の前には凍てつく天空を埋める素晴らしく見事な星空が広がっていた。
ノエルの時期にしては、奇跡のように晴れ渡った夜空だった。
くっきり見えるミルキーウェィは手を伸ばせば届きそうなほど近くに迫って来る。三ツ星のオリオン、一際青く明るい大犬のシリウスが麦畑のすぐ上に輝き、少し天上へ視線を上げると雄牛の赤い星とすばるもよく見える。ミルキーウェイの反対側には双子座と仔犬座。滅多に姿を見せないか細い光のかに座もその姿をはっきりとあらわした。
子供は祈りも忘れて空を見上げた。
「ほう、ノエルの大饗宴だ、アンドレ。父さんも生まれてこのかた一度か二度しか見たことがない。実は星が一番華やかに天空に集まるのがノエルの頃なんだよ。だけど、冬の空は雲が厚くて滅多に見ることはできない。これはラッキーだ。母さん、君も見てごらん」
ジャクリーヌは夫に並んで同じく空にじっと見入った。冴え冴えと澄んだ星空は天界を垣間見たように荘厳だった。これは何かの掲示だろうか。魂を奪われたかのように空を見つめる妻の肩をレオンは力を込めて抱き寄せた。大切な、愛しい者たち。どうか、よく助け合って健やかに生きて欲しい。
「ずっとまえからあったの?見えなくても?」
子供は初めて見る銀河の狂乱に身震いして父親にしがみついた。
「そうだ、アンドレ。目に見えるものは、冬のイレーヌ川から顔をだしている小岩のようなものだ。今はほんの少しだけ氷から突き出ているだけだが、春になれば小鮒やザリガニが岩穴から出てくるし、葦が芽吹くだろう?よく気をつけて探してごらん。見えなくても確かにそこにあるものはいくらでもある」
ジャクリーヌはいち早くレオンの意図を察し、堪えきれずに夫の胸に頭を押し付けた。レオンは身を屈めて自分の肩より低い位置にある妻の頭に唇をつけた。
「う~んと、あそこ!杏の木はまるはだかだけど、必ず春になると花が咲く。夏には実がなる!」
「いい着眼だ。そう樹木は目に見えない力を蓄えて冬を越す。それから?」
「おじいちゃんの掘った井戸だ。去年イレーヌ川もマルヌ川も干上がった時、村の皆にわけて上げられるくらいの水が出た」
「ああ、おじいちゃんは死ぬまで自慢していたな。うちの井戸の水脈は川とは別なんだ。もっと深いところの地下水をくみ上げていて、じいさんが言うには、まだ一度も枯れたことがない。本当かどうかは知らんがね」
子供は目を輝かせて次から次へと、見えないけれどあるものを数え、ついにネタ切れになり、再び夜空を見上げた。
「お星さまが一番凄い」
じっと目をこらしていると、自分もいつの間にか星屑になって宇宙空間に取り込まれてしまうかのように、星空はここぞとばかりに輝きを増す。星々の光が音となって世界を包み込むシンフォニーを奏でているようだ。
これは、ノエルの贈り物だろうか。父が、息子に現実に立ち向かう力を残してやれるようにとの、神の計らいか。アンドレの夜空より濃い瞳には無数の光が映っていた。
「こんな真冬に素晴らしく晴れ渡った夜空はもう二度と見ることはないかも知れない。けれど暗い雲の上にはいつでもこの星空がちゃんと輝いていることを、もうおまえは知っている。世の中も同じだ。人には、神様が創った壮大な世界の、ほんの先っぽしか見えていない。希望を見失ったときは、そのことを思い出せ。目に見えるものは全てではない。暗い雲の向こうにはこの星空が必ずあることを」
普段なら、難しすぎる言葉と出会うとその意味を質問攻めにするアンドレだったが、しばらく父の目を凝視すると、考え深げな面持ちで黙って頷いた。言葉を超える、決して動かすことのできないことわりを父から聞き取ったかのように。
賢い子だ。悲しいまでに。父は静かに微笑んだ。
「デザートを用意してくるわ」
ジャクリーヌはとうとう涙を抑えきれずに、逃げるように台所へ走り去った。アンドレは、母の後ろ姿を目で追ったが、今は追いかけてはいけないことを正確に汲み取った。父に抱かれ、今はなにもかも大きな父に委ねていればいい。
父も母も何も話してくれないけれど、何かが起きているのはわかっていた。そして、父が自分に語りかけてくれていることを、一言も聞き漏らしてはいけないと、彼の生存本能が静かに神経の糸を引いていた。父の言葉は低く、温かく続いた。
「家族は減ったり増えたりするものだ。いつまでも同じではいられない。おばあちゃんとおじいちゃんが生きていた時を覚えているかい?」
「覚えてる」
「賑やかだったな。おまえはもっと小さくて泣き虫で、三日とあけずに寝小便をした」
「ぶうううう~」
「はは、でも泣き虫で寝小便たれの子供はいつの間にかいなくなった。ちょっと寂しくもあるね」
「おじいちゃんもおばあちゃんもいない」
子供は少しむくれた。父は大きな手でくりくり跳ねる巻き毛を撫で回す。
「時は止められない。おじいちゃんとおばあちゃんの時も、誰の時も。だからこそ、甘ったれ坊主が勇気のある賢い子に成長して、有り難くもシーツは乾いたままになる。
この先妹か弟が生まれてもっと賑やかになるかも知れないし、おまえは大きくなれば、父さんが母さんに出会ったように、誰かと出会い、新しい家族をつくるために私達と別れる日が来る」
子供は父の首にかじりつき、黙って聞いている。理解が深いだけに不安になるのだ。レオンは子供の背中をゆっくりと撫でてやった。
「家族が変わっていくのを怖がることはない。素敵なことだよ。別れは辛いが、雲の上の星空のように、見えなくても傍にいる。本当に愛する人は、失うことなんかできないんだよ」
「父さんはおじいちゃんが死んでも平気なの?」
「平気じゃない、悲しいよ。でも、おじいちゃんは天に帰ったとしても、父さんの大事な父さんだ」
「おじいちゃんの顔…、ほんとはあんまりよく覚えていない」
子供は懺悔でもするようにつぶやくと、父の首もとに一層顔を深く埋めた。
「アンドレ、いいんだ。死んだものを自然に忘れる日が来ても」
「どうして?見えなくてもお空にいるから?」
レオンは小さな背中をきゅうと抱きしめた。この子は、ちょっとした道しるべさえ示してやれば、言葉以上の真理を理解できる。けれどこんなに早くその手を離したくはなかった。レオンは締め付けられるような胸の痛みを覚え、今度は自分にも言い聞かせつつ、言葉を繋いだ。
「そうだね。それに忘れることは、悲しみに負けずに幸せになるために神様が授けてくださった贈り物だ。愛する者はもうすでにおまえの一部になっている。だからたとえ忘れてしまっても、他の誰かを愛するようになっても、決して失うことはないんだ。遠慮せずに幸せになっていいんだよ」
今度はよくわからない、と黒々と見開いた瞳が父に問うように向けられた。
「おまえが生まれて来なかったら、今の父さんも母さんももっと違う人間だったろう。おまえを息子として授かったから今の父さんがいる。おまえがもし他の誰かの子どもとして生まれていたら、やはり今のおまえとは違う子どもに成長しているに違いない。おまえが愛したり愛された者をすべてひっくるめて今のおまえがいる。決して消えたりはしない」
「見えなくても?」
「そうだ。父さんの中にもいつだっておまえがいる」
「母さんも?」
「もちろん」
「見えなくても…あるんだ」
子供は再び空を見上げた。
「おまえは森で拾った子うさぎを育てて、森へ返したね。ああ、そう目をむくな。あの時泣いたのを泣き虫とは言わないよ。あのうさぎは今頃家族を持っているだろう。子うさぎが沢山生まれたかも知れない。いくら可愛くても、野生動物を閉じ込めておくのは残酷だとおまえがちゃんと知っていたお陰でね」
「・・・狼に食べられちゃったかもしれないよ」
「あるいは、ね。それでもうさぎには森で生きる力がある。その力は見えないけれど、あると信じて見送らなきゃいけないんだ。ところで父さんもおまえを信じているよ。だからおまえが木から落ちるのを心配して家に閉じ込めておこうとは思わないんだ」
アンドレは、父の胸に埋めていた顔を勢い良く上げた。
「父さん…シモンおじさんに」
「会ったよ、帰り道で」
こぼした水がリネンに浸み込むようにすーっとアンドレの顔から色味が引いた。ばれていた。どの辺まで詳しくばれた?木こりで森番のシモンおじさんはどちらかと言えば言葉数は少ない方だが、村の子供には分け隔てなく厳しい。
アンドレが墜落と紙一重だった危険について、ずばっと父さんに話したろう。詳細ははぶいて。夕食を家で食べてから、また森に戻る途中だったおじさんが通りかかってくれたのは助かったけど、何でまた森で父さんと出くわしたんだ…?あ、そうか!
レオンが再び百面相を始めた息子を愛しげに見詰めていると、息子は重大な発見に自分の窮地を忘れて真顔になった。
「父さん、森を突っ切って帰ってきたの?母さんに怒られ…」
「しっ、声がでかい。だから取引をしないか」
声をひそめるように身振りで示しながら、レオンは息子に悪戯を持ちかけるかのように片方の眉を持ち上げ、息子はごくりと唾を飲み込んだ。
「おまえには父さんからよく注意をしておくから、母さんの耳には入れないようにして欲しいとシモンには頼んで来た。だから、おまえも父さんの秘密を母さんに喋らない」
子供は、男同士、秘密を共有することに高揚してこれ以上考えられないほど真剣な顔で頷いた。
まるで天界への扉の鍵を預かった新米天使だな。レオンは、子供にこれ以上何も言う必要がないのを確信した。アンドレはちゃんと向こう見ずだった自分の行動を自覚して反省している。
「一つだけ聞かせてくれ。なぜそんな無茶をした?」
「母さんに喜んで欲しかった」
目を伏せて、消え入りそうな細い声でそう答えるアンドレは、後悔と悔しさが入り混じった感情を一生懸命に抑えている。子供なりに両親の心境を感じ取って、何かせずにはいられなかったか。可哀相に。レオンは息子に精一杯の明るい笑顔を向けた。
「おまえは生まれて来ただけで十分に母さんを幸せにしているさ。それより、父さんが母さんを喜ばせようとしてやっちまった失態を聞いたら驚くぞ」
「え?どんな」
「一晩や二晩では話しきれんなあ。おまえが生まれる前からのことだしな。少しずつ話してやるとするか」
「父さんが…。うそみたいだ」
「失敗しないことよりも、失態を見せた後にどう行動するかが肝心だとだけ今夜は言っておこう」
案の定、息子はきょとんとして大きな瞳をしばたいて首を傾げた。レオンは声をたてて笑った。
女性に理屈で筋を通して感情を扱いそこねた場合の危険についてとか、いざ女性がラテン語よりも不可解な言動を爆発させた時、その嵐を漕ぎ切るコツだとか。いつかそんな話をこいつとできたなら。手の届く幸せがあれば、届かないそれもあるのが人生だとしても、望まずにはいられない。
手にした幸福を抱きしめて、レオンは短い祈りを捧げた。かなえられぬと知る願いを。すると、天井の太い梁を見上げた息子が、レオンの腕を引っ張った。
「失敗を怖がっちゃいけないのは知ってる」
「ははあ、勇者の虫がまた湧いて出たか」
レオンは了解の意を込めて、子供の額を突いた。
ひとしきり声を殺して泣いて、息を整えたジャクリーヌは、シナモンと砂糖を効かせて焼いた林檎に、お屋敷勤めの母が孫へと届けてくれた、とっておきのシャンティクリームを乗せた皿を持って台所から出てきた。そして信じられない光景を目にする。
嘘でしょう、大小の男どもったら!
居間の壁際に立つ、背の高い戸棚の上によじ登った息子が、背伸びをして居間の天上を貫く太い梁に這い上がろうとしている。下ではにこにこしながら夫が息子に足場の位置を指示していた。大小二人のやんちゃ坊主が、また勇者ごっこを始める気なのだ。
この家の広い居間の天井はぶち抜かれており、二階と屋根裏部屋がない。その代わり天井の名残である太い梁がむき出しで壁から壁まで何本か通っている。
その中の一本に、たった今彼女の息子がしているように、壁際の食器戸棚の上からよじ登ることができる。父子はこの梁を勇者の道と呼び、壁から壁まで梁を伝っていけることが勇者の証明と定めているのだ。
大の大人でも両腕を廻しきれるかきれないかの太い梁の上を、息子は這って進むやり方ではすでに目標に到達している。
今父子が熱中しているのは、梁に両手足で抱きいつた姿勢で反対側の壁まで移動する試みだった。このところ、父子の挑戦は毎晩続けられ、八分がたまでは成功しつつある。つまり、残りの二割の確率で息子は梁から落下する。
それは梁の下で、父が落下してくる息子を常に受け止められる状況下でのみ許された冒険だったが、今夜は、梁の真下にノエルの晩餐テーブルがセットしてある。
「レオン・グランディエ!アンドレ・グランディエ!さっさとそこから降りてちょうだい。そのばかげたゲームをここですると言うなら、薪割斧で今すぐ叩き切るわよ!」
「お、母さんだ。急げアンドレ」
父がおどけた風にアンドレを急かす。アンドレは丁度よじ登った梁からぶら下がるところで、今更梁の上に這い上がるのは無理だ。
「聞こえなかったようね、レオン・グランディエ」
母が声に凄みを効かせた。
「やあ、早かったね。な、何を叩き切るのかなあ」
「決まってるでしょ。そのいまいましい梁と、戸棚の横に何故かそびえ立つ巨木よ!」
ジャクリーヌはデザートの皿を窓際のビューローに置くやいなや、足音をわざわざ派手に立てながら食器棚の横で息子を見上げていたレオンに向かって来る。
「おお、遥か彼方の足元に愛らしいパケレット(雛菊)が咲いているのが見えるが、何故だろう、可憐な姿に似合わぬ物騒なことを叫んでいる」
妻より頭二つ分は長身のレオンがおどけて見せるが妻は容赦しない構えだ。すでに梁の下にぶら下がってしまったアンドレは両親のやり取りの間で冷や汗をかいた。
多分村では一番背の高い父と、小柄で丸い童顔が少女のような母が、互いを巨木とパケレットと呼び合う時は半分じゃれあっている時と相場は決まっているから、大丈夫なはずだがどうしよう。
ぶら下がっていられる時間は限られている。止めるのならともかく、このまま梁渡りに挑むなら、一時も待たずに出発しなければならない。
「アンドレ、行け」
困惑しきった息子に父がエールを送った。アンドレは両腕に力を込め、ぶら下がった両足を満身の力で持ち上げて梁にがっしりと巻きつけスタートを切った。もう余計なことを考える間はない。
目前の黒光りする梁の木肌を前進することのみに集中する。もうここまでだ、と思ったらあともう一手だけ前進することだけを考えろ。父の助言だけが頭の中でこだました。
ジャクリーヌは薪割り斧で夫と対戦するよりも現実的な行動に移った。とりあえず一番危険な燭台とグラスをテーブルから降ろす。それからナイフとフォーク類をよけたところで息子の真下をガードしながら移動していた夫がテーブルにぶち当たった。
「おっとと、手伝いましょう、奥さん」
ジャクリーヌは返事の代わりに夫の足を踏みつけて自分の作業を続行した。苦笑いしながらレオンは雉のローストの大皿を捧げ持って後に続いた。アンドレはまだ道程半ば、今すぐ落ちて来ることはないはずだ。
「父さん!」
皿を置き、レオンが息子の方へ振り向いたと同時に小さな手足が梁からずり落ちようとしている光景が目に飛び込んで来た。いつもならテーブルのある位置など軽くクリアするのだが、今夜はいつになく早いギブアップだ、傍を離れたのはまずかった。
「こらえろ、アンドレ!」
「う~~~っ」
息子の手はずるずると梁をすべり落ちながらも、尚先へ進もうと宙を泳ぐ。そうだ、こいつは願い骨を取り出すのに奮闘したせいで、手に鳥の油脂がふんだんに付着しているに違いない。
その推測を裏付ける息子の手形を自分のシャツの胸元に発見してレオンは自説の確信を深めたが、あとの祭りもいいところ、何の役にもたたなかった。息子の手は次に掴むものを得られないまま空を切り、巻き毛の頭ががくんと胴よりも下方に落ちる。
レオンは飛ぶように息子の下に身を躍らせ、ゆっくりと落下する子供の頭部を保護するように腕を伸ばし、胸で子供の体を受け止めた。背中がテーブルの上にたたきつけられたが何とか子供を抱えたまま一回転してから床に転がった。
双方とも無事だったようだ。ひっくり返った姿勢のまま閉じた目を恐る恐る開けると、目前には上下逆転した妻のスカートの裾とフェルトの室内履きが見えた。
何だっけな、アメリカから来たベンジャミンなんとかという男がカミナリをよける装置を発明したと聞いたが、なぜさっさと実用化しないんだ、今こそそれが必要だと言うのに。
レオンは往生際悪く見知らぬアメリカ人を責めてみたがやはり何の役にもたたない。そろそろと視線を上に上げていくと、両手を腰に当てて睨みを効かせた細君がレオンを見下ろしていた。
「いや、かたじけない。今夜こそこいつは成功するはずだったんだが」
父の腕の中でアンドレもできるだけ小さく縮こまった。
「冬の鳥は脂が乗っているんだ、母さん」
次の瞬間、雷鳴を浴びながら、次に特許を取るなら家庭内避雷針にしよう、さっさと実用化すれば長者番付世界ランキング一桁内は確実だぞ、と心に決めたレオンだった。
***************
「精が出るね。まだ仕事かい。アンドレはすっかり夢の中だよ」
レオンは子どもを寝かしつけた後、深夜ミサへ出かける準備を終えたところだったが、妻はまだ台所で忙しく立ち働いていた。
「聖ニコラウス(*)は忙しいのよ」
「ほう、随分沢山作るんだね。我が家の息子は決して少食ではないがこれは…」
炉の明かりにぼんやりと照らし出された妻の小さな手は、職人技の力強さで的確に粉を捏ね、様々な形のガレットを形成しては積み上げていく。しかし大量だ。
「ええ、その我が家の大食漢が大見得を切ってしまったの。親のいない子のうちには聖ニコラウスが来ないとプラスローさんとこのガストンが言い張ったらしいんだけど、そんなことないって大喧嘩になって」
「へえ」
「ニコレットでしょ、セヴァスでしょ、ジャンでしょ、ミシェルでしょ…」
(*)サンタクロース伝説のもとになった聖人
聖ニコラウスの祝日に子ども達にお菓子を配って歩くと言われている。祝日は正しくは12月6日
成るほど、それで聖ニコラウスの贈り物が届きそうもない村の子ども達の分まで妻が菓子を焼く羽目になったのか。レオンは妻の首と肩を労わるようにもみほぐしてやった。
「それはご苦労さん」
「いいのよ。母さんがお屋敷から分けていただいた上等な小麦粉と砂糖を届けてくれたから…ねえ」
妻の手が止まった。伏せた顔は影になっていて良く見えない。
「来年、聖ニコラウスはまたうちにも来てくれるかしら?」
レオンの手も止まった。
答えに窮した夫の手に粉だらけの手が重ねられた。
「ごめんなさい、いいのよ答えなくて。神様の思し召しがあれば…でしょ」
「パケレット…」
「お人よしの大馬鹿見栄っ張り」
「ごめん」
「あなたが、もっと小心者で卑怯者で臆病者だったら良かったのに。自分勝手な大馬鹿ヤローだったらよかった」
「あるいは君がそうだったら…パケレット」
土木と機械両方こなす技師であるレオンは工兵として陸軍から望まれた。レオンが志願すれば、残った家族の生活は保障され、狼谷村の男たちから一切徴兵はしない、という交換条件が提示された。
徴兵は独身男子に限るという慣例があったので、レオンの場合は志願兵扱いになる。しかしレオンには選択肢があってないようなものだった。
レオンが志願しなければ、村の若者が何人も兵に取られることになる。壮年の働き手をなくしても生活が立ち行く家族など村にはいない。みなぎりぎりのところで生活しているのだ。
戦争も徴兵もレオンの責任ではないが、困窮崩壊していく家族をよそに自分達だけが幸せに生きていけるだろうか。息子に父として胸を張ることができるだろうか。
否、否。
『アンドレを卑怯者の息子にしたくないんだ』
レオンが自分の意思を告げた時、妻は大粒の涙をこぼしながら頷いた。妻もまた、自分の幸せのみを追求できる人間ではなかった。
『他の誰よりも、私達の方がまだ恵まれているもの…仕方ないわ』
妻が、息子が、恨みに押しつぶされて生きていけないほど弱かったら、またはレオンの選択を理解できない人間だったら。レオンは妻子のために卑怯者の汚名を被ったかも知れなかった。が、そうではなかったのだ。
「アンドレはあなたにそっくりよ。あなたを見ていると不安になる。あの子までどこかに…」
粉がふわりと舞い上がった。レオンは外出用の上着が粉まみれになるのも構わず後ろから妻を抱きしめた。
「俺の帰る場所は君のところだ。必ず君の元へ帰る。帰って来る」
バチパチと炉の中で薪がはぜる音だけが響く。妻の後れ毛が炉の明かりに揺れた。妻の胸が大きく上下し、声を押し殺した嗚咽が漏れた。
「ただ帰って来るだけじゃ許さないわよ」
やがて呼吸が落ち着いた妻が粉だらけの手でレオンの腕をつかんだ。
「帰って来たら、あなたが汚してしまったテーブルクロスの染み抜きをしてもらうわ。それから…」
「真っ先に踏み台を作ろう」
レオンが妻を抱き上げた。
「この身長差は腰痛のもとだからね。だがその前にすることがある」
「レオンたら、ガレットを焼き上げてしまわないと」
「後で手伝うよ」
レオンはずんずんと妻を抱えて歩き出す。
「何をするの?」
「決まっているだろ、村一番のヤドリギの下でキスしないと。今度こそ、願い事は口に出さないように」
「アンドレに兄弟を?」
「しっ」
来年のノエルも夫と過ごせますように
私達の息子が一生涯孤独なノエルを過ごすことがありませんように
私達の息子に兄妹がさずかりますように
2008.1.2
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元は旧家の跡取り息子の乳母であった母の元、物心つく頃から家政の手ほどきを受けて育ったジャクリーヌである。母の影響を受けずに育つより、かぼちゃの花にりんごを結実させる方が容易いだろう。
毎日の生活を丁寧に音楽を奏でるように営むこと。それがジャク
蔦がモチーフのダマスク織りのテーブルクロスは、結婚した年のノエルに贈られたもの。その上には白いレースのふち飾りつきクロスを直角にずらして置く。これは確か四年前のノエルのギフトで、やっぱり白いダマスク織り。
高価なドロンワークレースを縁にあしらった純白のクロスが贈り物の箱から現れた時、ジャクリーヌは夫の思い切った買い物に悲鳴を上げたものだ。テーブルの上で二枚はまるで元から対であったように、蔦と小花のモチーフと織りの光沢がしっくりと調和する。
ジャクリーヌは、若草色と白色のコントラストの美しさに思わず見惚れ、立ち働いていた手を止めた。
三連の銀燭台がテーブルの中央に置かれた。クリスタルのカットワークが美しいベネチア製赤ワイン用グラスを二つ、向かい合わせに並べる。食器はこれで全てだ。白ワイン用と水用のグラスやデカンターはこれから揃える予定だからまだない。
やや寂しい食卓だが、特別な日にだけ使うことにしている上等の蜜蝋燭を燭台に灯せば、美しくカットされたクリスタルの模様がクロスの上にダイヤモンドを撒いたように落ちるだろう。
花も飾りたいところだが、冬場に温室栽培の花を買うだけの余裕はない。かわりにモミの小枝に赤い薔薇の実をあしらって燭台をぐるりと飾った。白いクロスの上に濃いグリーンが映え、赤い小さな粒がぴりっと引き立つ。針葉樹の爽やかな香りがほのかに香るのを楽しみながら、我ながら洒落たアイデアだったわ、ジャクリーヌは一人悦に入った。
彼女とその家族が住む家は、元は大きな厩舎だった。がっしりと厚い石造りの壁には、太く、硬い一本使いの胡桃材建具が埋め込まれている。築百年は経っているが、まだ数百年はそのままの姿を保ちそうなほど、強健なつくりの建物だ。
室内は、壁紙や塗装などの人工色は無いが、白い化粧漆喰で塗り重ねられた石壁をあめ色に艶出しした梁や柱、窓枠、扉が力強く縁取っている。素材のままの自然な色彩がしっくりと調和して落ち着ける空間だ。
少女の頃に習い覚えた手織りのタペストリーや、手縫いのカーテンが温もりある色味を添える。台所の窓枠には本物の羊毛で作ったフェルトの羊がひょうきんにおどけたポーズで何頭も居並んでいる。彼女の息子が作製した会心の作だ。
素朴な室内へこつ然と登場した豪華なテーブルセッティングが浮いていないと言えば、嘘になる。三客しかない椅子は、きつく編んだ麻縄の座面に、真っ直ぐでシンプルな脚がついている質素なもので、どう見ても豪華な食卓とはつり合わない。
陶磁器や銀器もないから、いざ晩餐となれば、木皿や厚ぼったい陶器が登場してバランスはぶち壊れるだろう。銀器や陶磁器がセットで揃うまでにはあと二十年くらいかかる計算だった。
でも、ほら、フランス窓をバックにしてテーブルを眺めれば、いい感じよ。ジャクリーヌは自作品に視線を固定したまま、自慢のフランス窓とは反対の壁際まで後ずさった。
窓の外では昨夜降った真新しい雪で純白に衣替えした麦畑が幾重にも白く美しい稜線を重ねている。斜めに引き伸ばされた淡い朱色の夕日が、刻一刻と色合いを違えながら白い畑を朱色に染めている。黄昏時は殊のほか幻想的だ。
近くには三本のポプラ、遠くには教会と風車小屋のシルエットが小さく濃く、切り絵のように浮かび上がっていた。
このフランス窓は去年のプレゼントだった。分厚い石壁を一部取り壊して、床から天井近くまで届く両開きの窓をはめ込んでくれた時、夫はこう言った。
『クロード・ロランの絵を買ったと思えば、安いものだろう?季節ごと、いや時間ごとに変化する風景画だ。一枚で千枚の価値。お得じゃないか』
希少な大判ガラスは非常に高価なものだ。貴族の館では、窓の大きさはそのまま富の象徴になるほどである。我が家の他の窓と比べて、一つだけ極端に大きすぎるし、第一クロード・ロランなんて知らないわ、とジャクリーヌは夫のあまりに分を越えた買い物に恐れをなした。
が、今思えば、夫も多少不安だったのだと思う。妻を説得しようとするさまが、妙に一生懸命だった。十年も経たないうちに、窓のお陰で浮いた照明代でもとが取れるさ、などととまるで自分に言い聞かせているようだった。
窓が完成してみると、フランス窓のある居間が家族にもたらした恩恵は期待以上だとわかった。居間から続く台所まで一段と明るくなり、家事の効率が上がったし、広い部屋の隅々まで光が届くと、遊んでいる子供の様子も手に取るようにわかる。
何よりもお互いの顔がよく見えるのはいいものだ。明度は想像以上に人の気持ちに作用する。冬季など、昼間でも夜のように薄暗かった室内が格段に明るくなると、厳しく長い冬のつらさが半減した。高くついた埋め合わせに、一年間夫は仕事を増やさねばならなかったが、その甲斐は十分にあった。
厩舎を家屋に改造したのは夫の祖父の代だったらしいが、夫は仕事の合間を見ては、より住みやするべく改造を続けている。手を入れる箇所については、二人で納得がゆくまで話し合って決めた。家族と共に成長する家。ジャクリーヌはこの家の変化を一人息子の成長と重ね合わせて愛していた。
ジャクリーヌの息子は今年満七歳になった。親の贔屓目を差し引いても、心優しく思いやりに溢れた子供で、生き生きと良く動く潤んだ大きな濃い瞳と、くるくると飛び跳ねる豊かな黒い巻き毛を持つ愛くるしい容姿に加え、実年齢以上の思慮分別を備えている。
しかし、何かに夢中になれば、それ以外のものは注意の範疇からあっさりと転げ落ちてしまうのは他の子供と同様だ。最近の彼は、鳥肉から胸骨を形を崩さず掘り出すことに情熱を燃やしているし、毎日の発見や武勇伝を母親に報告する身振り手振りは日ごとに勇ましくなる。
だから毎年少しずつ揃えたテーブルウェアは、子供が十分成長し、破損や汚染の心配がなくなってからデビューさせるつもりだった。最低でも彼が十歳になるまで待とう。ジャクリーヌは去年まで、いやつい昨日までそう決めていた。
しかし、昨夜、夫が下した重大な決断を受けて、ジャクリーヌは予定を急遽変更した。今夜は特別なノエルの晩にしたかった。大切な一夜だからこそ、夫の愛情が形になった品々を全て揃えて演出したい。
後のことは何も考えず、家族そろって楽しく過ごそう。そう自分に言い聞かせるほど、目頭に熱いものがこみ上げるけれど。
「母さん!」
居間のフランス窓が勢い良く開き、つむじ風と一緒に巨大な緑の塊のようなものが目に飛び込んで来た。ジャクリーヌは慌てて涙をぬぐい、母の顔に戻る。声は息子のものだったが、目に入ったのは、大きなボール状に絡まりあったつる草の塊だった。
緑の塊はジャクリーヌを探して、よたよたと左右に揺れながら、掃除したばかりの床に枯れ葉やらつるの切れ端やらを落とした。ちいさな靴底の形をした雪の塊が転々と窓から続いている。
緑のお化けはそのままジャクリーヌにふぁさっと衝突し、中からもそもそと得意そうに目を輝かせた子供が顔を出した。
「どう?村一番だと思わない?」
緑のお化けは巨大なヤドリギの一塊だった。冬でも美しい緑を保つ聖なる植物であるヤドリギは、伝統的なノエルの装飾として居間の天井や、玄関先に吊るされる。
ノエルの十二時過ぎ、ヤドリギの下でキスをして願い事をするとかなうと広く言い伝えられている。ジャクリーヌはとある心配事と、ノエルの晩餐と、テーブルセッティングで頭を一杯にしていたので、すっかりヤドリギ採取のことを失念していた。
「まあ、何て見事なの」
息子であるアンドレは、戦利品を苦労して床に置くと、自分も一歩下がって誇らしげに胸を張った。
「今年はうちが一番大きなヤドリギを玄関に吊るすんだ。新年になったら村中の人がうちのヤドリギの下までキスしに来るよ。だって、こんなに大きいんだもの。きっとどんな願い事もかなうよ」
「そうねえ。それにしても大きいわ。吊るすのは父さんが帰ってからお願いしないと。あら、あら、いくつも小さな玉が連なっているじゃないの」
「小さいのは母さんのテーブル用だよ。それに暖炉の上にも飾れるよ。すぐに切ってあげる!」
こいつが目覚めている時は、無駄に何百本もランタンを灯したようだな、とジャクリーヌの夫は口癖のように言っては笑う。今夜も息子と囲む夕食に間に合うように、パリにある仕事場から急ぎ帰って来るはずだ。
本来は仕事の虫なのだが息子の引力には適わないらしい。『君とは一生の付き合いだけど、こいつとは今のうちに親睦を深めておかないとね』と言うのが夫の持論だった。
ランタンどころか、息子の存在は太陽のようなものだ。彼がいなくなったら、我が家は冬の麦畑のように枯れてしまうだろう。ジャクリーヌは、くりくりとくせ毛のはねる我が子の日向くさい頭を、しっかりとエプロンに押し付けてからかがみ込むと、真っ赤に染まった鼻頭と頬にキスをした。
「とても素敵だわ。ありがとう、アンドレ。外套の埃と雪を払って手を洗ったら、母さんを手伝ってちょうだい。今夜はご馳走よ。父さんを唸らせてやりましょう」
子供の顔がさらに輝き、母親の首に冷たく凍えた小さな腕が巻きつき、期待に満ちた声が弾んだ。
「雉は?煮込んじゃった?」
「まさか。ローストにしたから、願い骨(*)はそのままよ」
「やったあ。じゃあ、今夜は母さんと勝負だ」
「あら、光栄だこと。負けないわよ。母さんだって願いごとはあるのだから」
「うふふ、あはは、やめてよ母さん。手、洗って来る」
(*)願い骨=ウィッシュ・ボーン
v字型に繋がっている鳥の鎖骨。その両端を2人で持ち、願をかけて左右に引っ張って裂く。
鎖骨の関節部が手元に残った者の願い事がかなうと言われている。しかし、非常にもろく、無傷で取り出すのは難しいため、無事に取り出せた時点ですでにラック(幸運)を手にしたとも考えられている。
イギリスから大陸に伝わった風習で、現在でも感謝祭やクリスマスのディナーの席での子どもの楽しみである。
18世紀のフランスでこの風習が実際にあったかどうかは未確認デス。
ジャクリーヌは子供の弱点であるわき腹をくすぐってやった。弾ける笑顔をあらゆる方向に歪めて身を捻ると、子供は母の手を逃れ、寝室へ一目散に逃げて行った。その小さな背中に向け、母はぴしっと一本釘を刺す。子供の柔らかな頬に、引っかき傷が無数についていたのを、母は見逃してはいなかった。
「で、あなたがどうやって、この立派なヤドリギを手に入れたかは、明日話しましょう。今夜は楽しいことだけ考えたいわ」
子供は一瞬弾かれたように飛び上がり、けつまづいた。
上手くいけば、ノエルの準備に紛れて母の注意をそらせる事ができるとアンドレは期待していたが、甘かった。
ノエルが近づくと、低い木の枝にある手ごろなヤドリギは大方収穫されつくしてしまうので、大きな株が欲しければ、かなり高い枝まで上らなければならない。
アンドレは大きなヤドリギを求めてブナの木のてっぺんまで上ったはいいが、しっかりと木の幹に根を張ったヤドリギは小さな彼の手に余った。力任せに引っ張ったところ、彼は勢い余ってヤドリギの株ごと転落しかけた。
辛うじて剥がれなかったヤドリギの根に支えられ、中空にぶら下がっているところを通りがかった木こりのジョルジュ・シモンに助けられたアンドレだった。
狭くて小さな村のことだ。いずれシモンかその家族から事の次第が父母の耳に入るだろう。実際、彼が通りかからなければ、状況はかなり際どかった。
理由はわからないが、昨日から母が悲しみに沈んでいることを察知していたアンドレは、何とかして母を喜ばせたい一心でブナに挑んだのだが。結局母に心配をかけるへまをやらかしたことに気落ちしていた。
『そうだ、今夜は雉の願い骨を無傷で取り出したら、母さんの願い事がかなうように太い側を持たせてあげよう。でも、母さんの願いごとが、ぼくがもっといい子になりますように、だったら困るよ』
アンドレにとって、子供でいるのは結構しんどいのであった。したいことと、できることが途方もなくかけ離れているからである。どれほど心躍る計画を思いついても、実際に行動した結果は潰れたペン先で穴をあけた書き取りより悲惨に終わる。
失敗なくできる程度で止めておくこともちゃんと測れるアンドレであったが、それでは毎日が味気なさすぎるのだ。
アンドレにはしたいことが山ほどあった。納戸で生まれた三匹の子猫の餌付け、半地下に貯蔵された藁山の中に作りかけた迷路、木樽に張った氷を重ねて氷の砦を作ること、裏山の頂上からノンストップで滑り降りるそりのコースの開発。
アンドレにはどれをとっても広大な構想があり、大人になるまで待つなんてとんでもない相談だったが、彼の挑戦にどのあたりで大人が待ったをかけるか、幼い彼の予測は大抵当るのだ。
アンドレはしゅんとした気持ちを引っ張り挙げるように、背筋を伸ばすと外套を脱いだ。上着の背中にできたかぎ裂きは、気がつかなかったことにして、椅子の背にかけた。
台所からは肉の脂が焦げる香ばしい匂いと、甘酸っぱい焼きりんごとシナモンの香りが漂ってくる。年に数えるほどしかありつけない贅沢な献立の匂いは、アンドレの気分を立て直すには大層役に立った。
よし、この次は母さんに心配をさせる隙もないほど上手くやればいいだけじゃないか。ブナに挑戦する前も確か同じことを考えたことなどすっかり忘れ、父が帰宅するまで腹の虫が辛抱できるかどうかという当面の問題にアンドレはため息をついた。
**************
急いで書類を処理してもらう必要があったため、役人には普段より余計に袖の下を握らせなければならなかったが何とか間に合った。無気力な役人はノエル以降新年まで全く働く気をなくすので、今日を逃せば賄賂もきかなくなる。
ばかばかしい出費であったが、とにかく今大切なのは、今年中に持っている特許権をすべて妻名義にしておくことだった。一度許可が下りさえすれば権利は永続的に妻のものになる。
郊外なのでさほど資産価値はないが、地所と家屋の方は息子名義にした。いくら法的に権利を持っていても、女と子供では狡猾な役人にあっさりと搾取されてしまう危険があったから、二人に権利を分散していくらかでもリスクを低くしておきたかった。
年明けにアメリカ大陸に出兵することが決まった。もし、自分が生きて再びフランスの地を踏むことができなかった時に家族が生きていけるように、持っている資産の全ての名義を妻と息子に移しておく必要があった。
妻は縁起でもないと泣いて怒ったが、そんな感傷よりも現実に対処する方を優先させたレオン・グランディエだった。
とりあえず、その気の重い仕事が片付き、少し気持ちが軽くなった。さあ、家に帰ろう。今日はもう明日のことは考えまい。市門が閉じる前にパリを出られれば、門番にまで賄賂をやらなくても済む。
もう役人とのやり取りは十分だ。早く帰って愛しいものの顔を見たい。レオン・グランディエはパリの雑踏をかき分けて馬を預けてある旅籠に急いだ。
レオンは、ある予感に突き動かされるように行動していた。それは高級将校だろうと一兵卒だろうと、アメリカ大陸へ渡る兵なら誰もが抱く予感だ。
植民地での戦局は思わしくなく、フランス軍はハドソン川流域の砦をすでに幾つもイギリス軍に占拠され、カナダのケベックは陥落し、前線は南北に分かれて後退するばかりと新聞は書きたてている。兵の一人としてレオンがこれから旅立つのはそんな場所であった。
だからと言って、今年のノエルが最後になると決めつけているわけではない。しかし、「予感」はレオンの中で不気味な静けさで沈黙したまま居座り続け、彼は「予感」を前提にした行動を選んだ。
けれど、最後のノエル、と心に刻み付けるように過ごすよりも、毎年当たり前のようにめぐってくる恒例行事の一つとして、聖夜を過ごしたい。家族で幾重にも重ねていく年輪の中のひとつとして、なんら普段と変わりなく過ごそう。
ノエルが終われば、父が工兵として大陸へ赴くことを息子に告げなければならない。彼はその事実を悲しむだけでは終わらないだろう。聡明な息子は一晩で少年時代の臨界期まで成長を遂げるだろう。
彼が初めて出会う厳然たる現実は、子供のやわらかな心を震撼させた後、一歩成長するだろう。彼は必ず母親の保護者たらんとして面を上げる。
傷ついた野生動物や、近隣の年少の遊び仲間や老人へ見せる息子の心配りは、彼の優しい資質を端的に現していた。今はまだ子供らしい無邪気な思いやりの域を出ることはないが、息子は誰かに心を寄せる時、自分の存在を消してしまうほど、全ての意識を相手に注ぐのだ。
今のところ、彼が保護欲を掻き立てられる対象は、野生に返す小動物や、近所の幼児くらいのものだから遊びの延長に過ぎない。彼の時間は子供らしい好奇心を満たす遊びや家事仕事、教会学校、父の仕事のまねごとなどに費やされている。
レオンは意図してそのような環境を用意してやっていた。仕事仲間からは職人の子どもには早くから仕事を覚えさせるべきだと再三諭されたが、レオンが意に介すことはなかった。
驚くほど素直な少年の心は、荒ぶる厳しい世の不条理を素手で受け止め、子供に似合わぬ早熟さで学んでしまうだろう。レオンは大人になり急ぐふしのある息子に、できるだけ子供でいる時間を長く与えてやりたかったのだ。
母子は親密だったので、レオンは傍目には滑稽に見えるほど、母の保護者は自分であることを息子に印象付けることを心がけた。と、言えば聞こえはいいが、何のことはない、親子で母を取り合っている、と言い換えても差し支えない構図である。
ジャクリーヌはしばしば大小の男どもの間に立っては裁判官の役目を負うことになった。多少うんざりしないでもないこの役目は、幸せと同義語でもあった。
息子は、父が母をいたわり、母が父を敬うのを一生懸命に真似た。そして母を守ろうとしては挫折感を学んだ。絶対に越えられない壁としての父がいつも少年の前にあったが、それは彼にとって絶対な安心の源でもあった。
パリ南東の市門を時間ぎりぎりの五時にくぐり抜けると、馬の早足なら三十分ほどで我が家に着く。市壁の外側に広がるヴァンゼンヌの森を突っ切ればセーヌを迂回しなくても良いからもっと早い。
ノエルの晩なら狩猟に出る王族はまずいない。王家の狩猟場である森を、レオンは思い切って突っ切った。すっかり落葉した森は見通しがよく、白く縁取られた木々の枝から雪を振り落としながらレオンは駆けた。
**************
「母さんちがうよ、こう持つんだ」
母に願い骨の持ち方を伝授するアンドレは真剣そのものだ。
「もっと付け根の方を持って、引っ張る時にはおもいっきりねじり上げるようにするんだよ」
「おや、そんなこと教えない方がいいんじゃないの」
「フェアファイトにならないでしょ、母さんにも教えておかないと」
食事前、父と取っ組み合った時に教わった言葉をアンドレは正確に使って答えた。
「まあ、何て騎士道精神かしら。じゃあ、準備はこれでいいわね、一、二、の…」
「待って!」
アンドレが無事に掘り出した鳥の鎖骨の一端を持ったジャクリーヌは、もう何度めかの待ったをかけられて、うんざりとした視線を夫に投げた。夫はただにこにことことの成り行きを楽しそうに見守っている。
アンドレは母の手からV字型をした胸骨を取り上げると、ためつすがめつ骨の接合部を観察した。どっち側が太くて丈夫そうだろう。さっきも確かめたのに、いさ勝負となると自分の手元側の骨の方が太く見える。
アンドレは生意気にも眉間に皺を寄せて検証を重ねた。それだけなら渋い目つきが格好いいのだが、ついでにより目になって骨を睨むものだから、どうしても笑いを誘わずにはいられない。
母は笑いを抑えてそっと彼の周りからグラスや食器を遠ざけた。父は母子のやり取りを眺めながら黙ってワインを傾ける。幸せそうな妻がいて息子がいる。完璧な時間とはこのことを言うのだろう。このひと時に、人生に必要な喜びが全て凝縮している。
今、このひと時には何も足りないものがない。画家が最後の一塗りをキャンバスに乗せた瞬間のような、この世の全てが完璧に出揃った夜、レオンは深く納得した。いい人生だった。
地上の水が形を変えるように森羅万象は揺らぎ、姿を変える。雪になり、雨になり、乾き、溢れ、逆巻く激流となって岩を砕く。けれど、何も減らなければ、何も増えることもない。
夏枯れした湖水が、次の年に豊かに水を湛え、瑞々しい樹木の息吹を甦らせるように、森羅万象もまた何も失うこと無しに繰り返し、繰り返し、大いなる循環を重ねるのだ。そして自分もその中の一粒のしずくなら、ずっと彼らの傍にいる。何かに当って砕け散っても、失われることなく彼らの一部となって戻ってくる。
けれど、妻や息子の未来を考えれば胸が潰れそうになる。いつまでも傍にいてやりたい、どれほど手をかけても足りることはない。それもまた、違う次元での偽らざる叫びだ。
アンドレが口をへの字にまげ、体も不自然な捻りかたをしながら腕を引いた。大きく椅子を仰け反らせた彼は、引きちぎった骨を食い入るように見詰めてから、母の手元に急いで目をやった。
果たして、願い骨の関節部は母の持った側に残っていた。見る間にアンドレの表情が晴れ上がる。非常にわかりやすい奴だ。レオンはくっくと口の中で笑った。
「母さん、ほら勝ったよ!」
椅子から飛び上がらんばかりの勢いである。ジャクリーヌが微笑むのは彼の喜び勇む姿が可愛らしいからのだが、アンドレは母が勝利の喜びを手にしたと確信し、それに関与できたことが嬉しくてしかたない。
勝負など始める前からジャクリーヌの息子は母を幸せにしているのだが、そんなことを言えば、逆にがっかりするのが彼だ。どんな風に育つやら。息子を見詰める父に、それを見届けることができない予感がいよいよ現実として背後に近く迫る。
子供は、特に男の子は、可能な限り早くに生きるための仕事を身につけさせよ、糧を得ることを覚えさせよ。農村でも都会でも生き抜くためにはそれが常識だった。
あえてその常識に逆らうように、息子を子供らしく育ててきたのは、彼への深い信頼があったからだ。仕事も技術も必要に駆られれば、すぐ覚えるだけの力をアンドレは持っている。
だから、少年時代は自由な好奇心、探究心、想像力を思う存分伸ばしてやりたい。いつか見えない社会の檻に気づくときに、それらが檻を開錠する力になるはずだ。
莫迦なことをしているのかも知れない。豊かな想像力を持てば、人民を幾重にも囲う体制の支配の存在を容易に感じ取るだろう。多くの労働者はそれに気づくことなく、生きるために過酷な労働をそういうものだと受け止めている。
一生をそのまま終えるしかないのなら、知らない方が幸福なのではないか。多くの人間にとって生まれた場所で生きていくより他はない時代なのだ。
レオン自身、窒息しそうに息苦しい社会の縛りの中で機械技師として生きてきた。村人の生活を少しでも向上させたいという動機から、製粉所用の脱穀機器を開発しようとしても、組合の壁に阻まれる。
低コストで高品質な小麦を量産できても、パン規制(身分別に買えるパンのグレードが定められていた)のために絶対に小作農や工場労働者の食卓には上らない。
国がまだなかった戦乱の世なら、または職人の力が非常に弱かった時代なら、確かに僅かな利益を守ってくれたであろう数々の組合規制は古くなりすぎて、錆びついた鎖となって労働者に巻きついている。
一般大衆の生活を支える、より良いものを作りたい。技師として自然な欲求をことごとく押しつぶす体制の数々の奴隷にならないよう面を上げ続けるには、心の自由が必要だった。
息子にも、精神の豊かさを与えてやりたい。厳しい現実の中、それは諸刃の刃となるだろうが、彼ならきっとうまく扱える。
「父さん、母さんったら酷いんだ!」
憤慨して湯気の立ったアンドレが父の膝に駆け寄った。
「どうした?」
「聞いてなかったの?」
レオンは膝によじ登る息子の両脇に手を添えて助けてやった。食事中に子どもを膝に上げると妻が怒るので、ちらと彼女の様子を伺う。
「折角勝ったのに、願い事を言っちゃったんだ」
そりゃあ、一大事だ。願い事は一度口に出してしまったら、舌の上で雪が解けるように空気になって消えてしまう。物事を心得ていない大人がいかにも犯しそうな失態だ。レオンが妻を見やると、彼女はうっかりしちゃったのよ、と目で合図を送ってきた。しめしめ、食卓で子供を膝に乗せたことは怒られないで済みそうだ。
「で、母さんの願い事は何だって?」
「いつまでも三人仲良く暮らせますようにって」
一瞬、レオンは息が詰まった。じっと、見返してくる真っ黒な大きな瞳は、幼いながら何かを悟っているのではないかと空恐ろしくなるほど深い色だ。
「アンドレ」
レオンは、息子を膝に上に深く座り直させ、不服そうに膨れた頬を両手で挟んだ。子供は子ども扱いされたことが悔しくて、父の手に逆らって更に頬を膨らませる。父は務めて明るく笑いながら、粘土を捏ねるようにその頬を左右から押しつぶした。
「ぶうううう~」
「いつまでも三人ってのは問題だな」
カタン、とジャクリーヌが空になった木皿を取り落とす音がした。妻を視界の端に入れながら、レオンは息子に語りかける。
「例えば…、弟か、妹は欲しくないか?」
「!」
アンドレのふくれっ面が激変した。レオンは噴出すのを辛うじて堪える。顔中どんぐり目になったじゃないか、こいつ。この子の瞬間百面相より面白いものがこの世にあったら教えてもらいたいものだ。
「父さん、父さん、ほんと?」
こいつは何でも覚えは早いが、早飲み込みも得意だな。もう興奮して息が上がっている。妻は目を見開いて夫を見ていた。妻にウィンクを返してから、レオンは早とちりで変わり身の早いわが子を抱えて立ち上がった。
「まあ神様の領域だからな。保障はできんが可能性はあるだろ?」
「なあんだ、もしもの話?」
「つまりだ、家族は三人だと決めてしまうことはないじゃないか、という話」
「いい考えだね。じゃあお祈りするよ」
「よし、それはおまえに任せた。おまえの願いの方が聞いてもらえそうだからな」
「そうだ!その前にヤドリギの下でお願いすればいいんだ!うちのヤドリギは村で一番大きいんだもの」
「そうだったな。あれは重かったぞ」
「ね!兄弟ができますようにって…あ!」
うっかり願い事を口に出しかけた子供はあわてて両手で口をふさいでもごもご言ったので、レオンは聞こえなかった振りをして息子を片腕で抱きかかえたまま、フランス窓の傍に立った。
指先で曇った窓ガラスを大きく拭うと、息子も小さな手でそれにならう。すると、視界の開けた二人の目の前には凍てつく天空を埋める素晴らしく見事な星空が広がっていた。
ノエルの時期にしては、奇跡のように晴れ渡った夜空だった。
くっきり見えるミルキーウェィは手を伸ばせば届きそうなほど近くに迫って来る。三ツ星のオリオン、一際青く明るい大犬のシリウスが麦畑のすぐ上に輝き、少し天上へ視線を上げると雄牛の赤い星とすばるもよく見える。ミルキーウェイの反対側には双子座と仔犬座。滅多に姿を見せないか細い光のかに座もその姿をはっきりとあらわした。
子供は祈りも忘れて空を見上げた。
「ほう、ノエルの大饗宴だ、アンドレ。父さんも生まれてこのかた一度か二度しか見たことがない。実は星が一番華やかに天空に集まるのがノエルの頃なんだよ。だけど、冬の空は雲が厚くて滅多に見ることはできない。これはラッキーだ。母さん、君も見てごらん」
ジャクリーヌは夫に並んで同じく空にじっと見入った。冴え冴えと澄んだ星空は天界を垣間見たように荘厳だった。これは何かの掲示だろうか。魂を奪われたかのように空を見つめる妻の肩をレオンは力を込めて抱き寄せた。大切な、愛しい者たち。どうか、よく助け合って健やかに生きて欲しい。
「ずっとまえからあったの?見えなくても?」
子供は初めて見る銀河の狂乱に身震いして父親にしがみついた。
「そうだ、アンドレ。目に見えるものは、冬のイレーヌ川から顔をだしている小岩のようなものだ。今はほんの少しだけ氷から突き出ているだけだが、春になれば小鮒やザリガニが岩穴から出てくるし、葦が芽吹くだろう?よく気をつけて探してごらん。見えなくても確かにそこにあるものはいくらでもある」
ジャクリーヌはいち早くレオンの意図を察し、堪えきれずに夫の胸に頭を押し付けた。レオンは身を屈めて自分の肩より低い位置にある妻の頭に唇をつけた。
「う~んと、あそこ!杏の木はまるはだかだけど、必ず春になると花が咲く。夏には実がなる!」
「いい着眼だ。そう樹木は目に見えない力を蓄えて冬を越す。それから?」
「おじいちゃんの掘った井戸だ。去年イレーヌ川もマルヌ川も干上がった時、村の皆にわけて上げられるくらいの水が出た」
「ああ、おじいちゃんは死ぬまで自慢していたな。うちの井戸の水脈は川とは別なんだ。もっと深いところの地下水をくみ上げていて、じいさんが言うには、まだ一度も枯れたことがない。本当かどうかは知らんがね」
子供は目を輝かせて次から次へと、見えないけれどあるものを数え、ついにネタ切れになり、再び夜空を見上げた。
「お星さまが一番凄い」
じっと目をこらしていると、自分もいつの間にか星屑になって宇宙空間に取り込まれてしまうかのように、星空はここぞとばかりに輝きを増す。星々の光が音となって世界を包み込むシンフォニーを奏でているようだ。
これは、ノエルの贈り物だろうか。父が、息子に現実に立ち向かう力を残してやれるようにとの、神の計らいか。アンドレの夜空より濃い瞳には無数の光が映っていた。
「こんな真冬に素晴らしく晴れ渡った夜空はもう二度と見ることはないかも知れない。けれど暗い雲の上にはいつでもこの星空がちゃんと輝いていることを、もうおまえは知っている。世の中も同じだ。人には、神様が創った壮大な世界の、ほんの先っぽしか見えていない。希望を見失ったときは、そのことを思い出せ。目に見えるものは全てではない。暗い雲の向こうにはこの星空が必ずあることを」
普段なら、難しすぎる言葉と出会うとその意味を質問攻めにするアンドレだったが、しばらく父の目を凝視すると、考え深げな面持ちで黙って頷いた。言葉を超える、決して動かすことのできないことわりを父から聞き取ったかのように。
賢い子だ。悲しいまでに。父は静かに微笑んだ。
「デザートを用意してくるわ」
ジャクリーヌはとうとう涙を抑えきれずに、逃げるように台所へ走り去った。アンドレは、母の後ろ姿を目で追ったが、今は追いかけてはいけないことを正確に汲み取った。父に抱かれ、今はなにもかも大きな父に委ねていればいい。
父も母も何も話してくれないけれど、何かが起きているのはわかっていた。そして、父が自分に語りかけてくれていることを、一言も聞き漏らしてはいけないと、彼の生存本能が静かに神経の糸を引いていた。父の言葉は低く、温かく続いた。
「家族は減ったり増えたりするものだ。いつまでも同じではいられない。おばあちゃんとおじいちゃんが生きていた時を覚えているかい?」
「覚えてる」
「賑やかだったな。おまえはもっと小さくて泣き虫で、三日とあけずに寝小便をした」
「ぶうううう~」
「はは、でも泣き虫で寝小便たれの子供はいつの間にかいなくなった。ちょっと寂しくもあるね」
「おじいちゃんもおばあちゃんもいない」
子供は少しむくれた。父は大きな手でくりくり跳ねる巻き毛を撫で回す。
「時は止められない。おじいちゃんとおばあちゃんの時も、誰の時も。だからこそ、甘ったれ坊主が勇気のある賢い子に成長して、有り難くもシーツは乾いたままになる。
この先妹か弟が生まれてもっと賑やかになるかも知れないし、おまえは大きくなれば、父さんが母さんに出会ったように、誰かと出会い、新しい家族をつくるために私達と別れる日が来る」
子供は父の首にかじりつき、黙って聞いている。理解が深いだけに不安になるのだ。レオンは子供の背中をゆっくりと撫でてやった。
「家族が変わっていくのを怖がることはない。素敵なことだよ。別れは辛いが、雲の上の星空のように、見えなくても傍にいる。本当に愛する人は、失うことなんかできないんだよ」
「父さんはおじいちゃんが死んでも平気なの?」
「平気じゃない、悲しいよ。でも、おじいちゃんは天に帰ったとしても、父さんの大事な父さんだ」
「おじいちゃんの顔…、ほんとはあんまりよく覚えていない」
子供は懺悔でもするようにつぶやくと、父の首もとに一層顔を深く埋めた。
「アンドレ、いいんだ。死んだものを自然に忘れる日が来ても」
「どうして?見えなくてもお空にいるから?」
レオンは小さな背中をきゅうと抱きしめた。この子は、ちょっとした道しるべさえ示してやれば、言葉以上の真理を理解できる。けれどこんなに早くその手を離したくはなかった。レオンは締め付けられるような胸の痛みを覚え、今度は自分にも言い聞かせつつ、言葉を繋いだ。
「そうだね。それに忘れることは、悲しみに負けずに幸せになるために神様が授けてくださった贈り物だ。愛する者はもうすでにおまえの一部になっている。だからたとえ忘れてしまっても、他の誰かを愛するようになっても、決して失うことはないんだ。遠慮せずに幸せになっていいんだよ」
今度はよくわからない、と黒々と見開いた瞳が父に問うように向けられた。
「おまえが生まれて来なかったら、今の父さんも母さんももっと違う人間だったろう。おまえを息子として授かったから今の父さんがいる。おまえがもし他の誰かの子どもとして生まれていたら、やはり今のおまえとは違う子どもに成長しているに違いない。おまえが愛したり愛された者をすべてひっくるめて今のおまえがいる。決して消えたりはしない」
「見えなくても?」
「そうだ。父さんの中にもいつだっておまえがいる」
「母さんも?」
「もちろん」
「見えなくても…あるんだ」
子供は再び空を見上げた。
「おまえは森で拾った子うさぎを育てて、森へ返したね。ああ、そう目をむくな。あの時泣いたのを泣き虫とは言わないよ。あのうさぎは今頃家族を持っているだろう。子うさぎが沢山生まれたかも知れない。いくら可愛くても、野生動物を閉じ込めておくのは残酷だとおまえがちゃんと知っていたお陰でね」
「・・・狼に食べられちゃったかもしれないよ」
「あるいは、ね。それでもうさぎには森で生きる力がある。その力は見えないけれど、あると信じて見送らなきゃいけないんだ。ところで父さんもおまえを信じているよ。だからおまえが木から落ちるのを心配して家に閉じ込めておこうとは思わないんだ」
アンドレは、父の胸に埋めていた顔を勢い良く上げた。
「父さん…シモンおじさんに」
「会ったよ、帰り道で」
こぼした水がリネンに浸み込むようにすーっとアンドレの顔から色味が引いた。ばれていた。どの辺まで詳しくばれた?木こりで森番のシモンおじさんはどちらかと言えば言葉数は少ない方だが、村の子供には分け隔てなく厳しい。
アンドレが墜落と紙一重だった危険について、ずばっと父さんに話したろう。詳細ははぶいて。夕食を家で食べてから、また森に戻る途中だったおじさんが通りかかってくれたのは助かったけど、何でまた森で父さんと出くわしたんだ…?あ、そうか!
レオンが再び百面相を始めた息子を愛しげに見詰めていると、息子は重大な発見に自分の窮地を忘れて真顔になった。
「父さん、森を突っ切って帰ってきたの?母さんに怒られ…」
「しっ、声がでかい。だから取引をしないか」
声をひそめるように身振りで示しながら、レオンは息子に悪戯を持ちかけるかのように片方の眉を持ち上げ、息子はごくりと唾を飲み込んだ。
「おまえには父さんからよく注意をしておくから、母さんの耳には入れないようにして欲しいとシモンには頼んで来た。だから、おまえも父さんの秘密を母さんに喋らない」
子供は、男同士、秘密を共有することに高揚してこれ以上考えられないほど真剣な顔で頷いた。
まるで天界への扉の鍵を預かった新米天使だな。レオンは、子供にこれ以上何も言う必要がないのを確信した。アンドレはちゃんと向こう見ずだった自分の行動を自覚して反省している。
「一つだけ聞かせてくれ。なぜそんな無茶をした?」
「母さんに喜んで欲しかった」
目を伏せて、消え入りそうな細い声でそう答えるアンドレは、後悔と悔しさが入り混じった感情を一生懸命に抑えている。子供なりに両親の心境を感じ取って、何かせずにはいられなかったか。可哀相に。レオンは息子に精一杯の明るい笑顔を向けた。
「おまえは生まれて来ただけで十分に母さんを幸せにしているさ。それより、父さんが母さんを喜ばせようとしてやっちまった失態を聞いたら驚くぞ」
「え?どんな」
「一晩や二晩では話しきれんなあ。おまえが生まれる前からのことだしな。少しずつ話してやるとするか」
「父さんが…。うそみたいだ」
「失敗しないことよりも、失態を見せた後にどう行動するかが肝心だとだけ今夜は言っておこう」
案の定、息子はきょとんとして大きな瞳をしばたいて首を傾げた。レオンは声をたてて笑った。
女性に理屈で筋を通して感情を扱いそこねた場合の危険についてとか、いざ女性がラテン語よりも不可解な言動を爆発させた時、その嵐を漕ぎ切るコツだとか。いつかそんな話をこいつとできたなら。手の届く幸せがあれば、届かないそれもあるのが人生だとしても、望まずにはいられない。
手にした幸福を抱きしめて、レオンは短い祈りを捧げた。かなえられぬと知る願いを。すると、天井の太い梁を見上げた息子が、レオンの腕を引っ張った。
「失敗を怖がっちゃいけないのは知ってる」
「ははあ、勇者の虫がまた湧いて出たか」
レオンは了解の意を込めて、子供の額を突いた。
ひとしきり声を殺して泣いて、息を整えたジャクリーヌは、シナモンと砂糖を効かせて焼いた林檎に、お屋敷勤めの母が孫へと届けてくれた、とっておきのシャンティクリームを乗せた皿を持って台所から出てきた。そして信じられない光景を目にする。
嘘でしょう、大小の男どもったら!
居間の壁際に立つ、背の高い戸棚の上によじ登った息子が、背伸びをして居間の天上を貫く太い梁に這い上がろうとしている。下ではにこにこしながら夫が息子に足場の位置を指示していた。大小二人のやんちゃ坊主が、また勇者ごっこを始める気なのだ。
この家の広い居間の天井はぶち抜かれており、二階と屋根裏部屋がない。その代わり天井の名残である太い梁がむき出しで壁から壁まで何本か通っている。
その中の一本に、たった今彼女の息子がしているように、壁際の食器戸棚の上からよじ登ることができる。父子はこの梁を勇者の道と呼び、壁から壁まで梁を伝っていけることが勇者の証明と定めているのだ。
大の大人でも両腕を廻しきれるかきれないかの太い梁の上を、息子は這って進むやり方ではすでに目標に到達している。
今父子が熱中しているのは、梁に両手足で抱きいつた姿勢で反対側の壁まで移動する試みだった。このところ、父子の挑戦は毎晩続けられ、八分がたまでは成功しつつある。つまり、残りの二割の確率で息子は梁から落下する。
それは梁の下で、父が落下してくる息子を常に受け止められる状況下でのみ許された冒険だったが、今夜は、梁の真下にノエルの晩餐テーブルがセットしてある。
「レオン・グランディエ!アンドレ・グランディエ!さっさとそこから降りてちょうだい。そのばかげたゲームをここですると言うなら、薪割斧で今すぐ叩き切るわよ!」
「お、母さんだ。急げアンドレ」
父がおどけた風にアンドレを急かす。アンドレは丁度よじ登った梁からぶら下がるところで、今更梁の上に這い上がるのは無理だ。
「聞こえなかったようね、レオン・グランディエ」
母が声に凄みを効かせた。
「やあ、早かったね。な、何を叩き切るのかなあ」
「決まってるでしょ。そのいまいましい梁と、戸棚の横に何故かそびえ立つ巨木よ!」
ジャクリーヌはデザートの皿を窓際のビューローに置くやいなや、足音をわざわざ派手に立てながら食器棚の横で息子を見上げていたレオンに向かって来る。
「おお、遥か彼方の足元に愛らしいパケレット(雛菊)が咲いているのが見えるが、何故だろう、可憐な姿に似合わぬ物騒なことを叫んでいる」
妻より頭二つ分は長身のレオンがおどけて見せるが妻は容赦しない構えだ。すでに梁の下にぶら下がってしまったアンドレは両親のやり取りの間で冷や汗をかいた。
多分村では一番背の高い父と、小柄で丸い童顔が少女のような母が、互いを巨木とパケレットと呼び合う時は半分じゃれあっている時と相場は決まっているから、大丈夫なはずだがどうしよう。
ぶら下がっていられる時間は限られている。止めるのならともかく、このまま梁渡りに挑むなら、一時も待たずに出発しなければならない。
「アンドレ、行け」
困惑しきった息子に父がエールを送った。アンドレは両腕に力を込め、ぶら下がった両足を満身の力で持ち上げて梁にがっしりと巻きつけスタートを切った。もう余計なことを考える間はない。
目前の黒光りする梁の木肌を前進することのみに集中する。もうここまでだ、と思ったらあともう一手だけ前進することだけを考えろ。父の助言だけが頭の中でこだました。
ジャクリーヌは薪割り斧で夫と対戦するよりも現実的な行動に移った。とりあえず一番危険な燭台とグラスをテーブルから降ろす。それからナイフとフォーク類をよけたところで息子の真下をガードしながら移動していた夫がテーブルにぶち当たった。
「おっとと、手伝いましょう、奥さん」
ジャクリーヌは返事の代わりに夫の足を踏みつけて自分の作業を続行した。苦笑いしながらレオンは雉のローストの大皿を捧げ持って後に続いた。アンドレはまだ道程半ば、今すぐ落ちて来ることはないはずだ。
「父さん!」
皿を置き、レオンが息子の方へ振り向いたと同時に小さな手足が梁からずり落ちようとしている光景が目に飛び込んで来た。いつもならテーブルのある位置など軽くクリアするのだが、今夜はいつになく早いギブアップだ、傍を離れたのはまずかった。
「こらえろ、アンドレ!」
「う~~~っ」
息子の手はずるずると梁をすべり落ちながらも、尚先へ進もうと宙を泳ぐ。そうだ、こいつは願い骨を取り出すのに奮闘したせいで、手に鳥の油脂がふんだんに付着しているに違いない。
その推測を裏付ける息子の手形を自分のシャツの胸元に発見してレオンは自説の確信を深めたが、あとの祭りもいいところ、何の役にもたたなかった。息子の手は次に掴むものを得られないまま空を切り、巻き毛の頭ががくんと胴よりも下方に落ちる。
レオンは飛ぶように息子の下に身を躍らせ、ゆっくりと落下する子供の頭部を保護するように腕を伸ばし、胸で子供の体を受け止めた。背中がテーブルの上にたたきつけられたが何とか子供を抱えたまま一回転してから床に転がった。
双方とも無事だったようだ。ひっくり返った姿勢のまま閉じた目を恐る恐る開けると、目前には上下逆転した妻のスカートの裾とフェルトの室内履きが見えた。
何だっけな、アメリカから来たベンジャミンなんとかという男がカミナリをよける装置を発明したと聞いたが、なぜさっさと実用化しないんだ、今こそそれが必要だと言うのに。
レオンは往生際悪く見知らぬアメリカ人を責めてみたがやはり何の役にもたたない。そろそろと視線を上に上げていくと、両手を腰に当てて睨みを効かせた細君がレオンを見下ろしていた。
「いや、かたじけない。今夜こそこいつは成功するはずだったんだが」
父の腕の中でアンドレもできるだけ小さく縮こまった。
「冬の鳥は脂が乗っているんだ、母さん」
次の瞬間、雷鳴を浴びながら、次に特許を取るなら家庭内避雷針にしよう、さっさと実用化すれば長者番付世界ランキング一桁内は確実だぞ、と心に決めたレオンだった。
***************
「精が出るね。まだ仕事かい。アンドレはすっかり夢の中だよ」
レオンは子どもを寝かしつけた後、深夜ミサへ出かける準備を終えたところだったが、妻はまだ台所で忙しく立ち働いていた。
「聖ニコラウス(*)は忙しいのよ」
「ほう、随分沢山作るんだね。我が家の息子は決して少食ではないがこれは…」
炉の明かりにぼんやりと照らし出された妻の小さな手は、職人技の力強さで的確に粉を捏ね、様々な形のガレットを形成しては積み上げていく。しかし大量だ。
「ええ、その我が家の大食漢が大見得を切ってしまったの。親のいない子のうちには聖ニコラウスが来ないとプラスローさんとこのガストンが言い張ったらしいんだけど、そんなことないって大喧嘩になって」
「へえ」
「ニコレットでしょ、セヴァスでしょ、ジャンでしょ、ミシェルでしょ…」
(*)サンタクロース伝説のもとになった聖人
聖ニコラウスの祝日に子ども達にお菓子を配って歩くと言われている。祝日は正しくは12月6日
成るほど、それで聖ニコラウスの贈り物が届きそうもない村の子ども達の分まで妻が菓子を焼く羽目になったのか。レオンは妻の首と肩を労わるようにもみほぐしてやった。
「それはご苦労さん」
「いいのよ。母さんがお屋敷から分けていただいた上等な小麦粉と砂糖を届けてくれたから…ねえ」
妻の手が止まった。伏せた顔は影になっていて良く見えない。
「来年、聖ニコラウスはまたうちにも来てくれるかしら?」
レオンの手も止まった。
答えに窮した夫の手に粉だらけの手が重ねられた。
「ごめんなさい、いいのよ答えなくて。神様の思し召しがあれば…でしょ」
「パケレット…」
「お人よしの大馬鹿見栄っ張り」
「ごめん」
「あなたが、もっと小心者で卑怯者で臆病者だったら良かったのに。自分勝手な大馬鹿ヤローだったらよかった」
「あるいは君がそうだったら…パケレット」
土木と機械両方こなす技師であるレオンは工兵として陸軍から望まれた。レオンが志願すれば、残った家族の生活は保障され、狼谷村の男たちから一切徴兵はしない、という交換条件が提示された。
徴兵は独身男子に限るという慣例があったので、レオンの場合は志願兵扱いになる。しかしレオンには選択肢があってないようなものだった。
レオンが志願しなければ、村の若者が何人も兵に取られることになる。壮年の働き手をなくしても生活が立ち行く家族など村にはいない。みなぎりぎりのところで生活しているのだ。
戦争も徴兵もレオンの責任ではないが、困窮崩壊していく家族をよそに自分達だけが幸せに生きていけるだろうか。息子に父として胸を張ることができるだろうか。
否、否。
『アンドレを卑怯者の息子にしたくないんだ』
レオンが自分の意思を告げた時、妻は大粒の涙をこぼしながら頷いた。妻もまた、自分の幸せのみを追求できる人間ではなかった。
『他の誰よりも、私達の方がまだ恵まれているもの…仕方ないわ』
妻が、息子が、恨みに押しつぶされて生きていけないほど弱かったら、またはレオンの選択を理解できない人間だったら。レオンは妻子のために卑怯者の汚名を被ったかも知れなかった。が、そうではなかったのだ。
「アンドレはあなたにそっくりよ。あなたを見ていると不安になる。あの子までどこかに…」
粉がふわりと舞い上がった。レオンは外出用の上着が粉まみれになるのも構わず後ろから妻を抱きしめた。
「俺の帰る場所は君のところだ。必ず君の元へ帰る。帰って来る」
バチパチと炉の中で薪がはぜる音だけが響く。妻の後れ毛が炉の明かりに揺れた。妻の胸が大きく上下し、声を押し殺した嗚咽が漏れた。
「ただ帰って来るだけじゃ許さないわよ」
やがて呼吸が落ち着いた妻が粉だらけの手でレオンの腕をつかんだ。
「帰って来たら、あなたが汚してしまったテーブルクロスの染み抜きをしてもらうわ。それから…」
「真っ先に踏み台を作ろう」
レオンが妻を抱き上げた。
「この身長差は腰痛のもとだからね。だがその前にすることがある」
「レオンたら、ガレットを焼き上げてしまわないと」
「後で手伝うよ」
レオンはずんずんと妻を抱えて歩き出す。
「何をするの?」
「決まっているだろ、村一番のヤドリギの下でキスしないと。今度こそ、願い事は口に出さないように」
「アンドレに兄弟を?」
「しっ」
来年のノエルも夫と過ごせますように
私達の息子が一生涯孤独なノエルを過ごすことがありませんように
私達の息子に兄妹がさずかりますように
2008.1.2
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もんぶらん様いつもステキなお話ありがとうございます!
村一番…の再掲も嬉しいです。
冒頭の文章が、お引越し時に少しズレているようなので、いちおう連絡いたします。(でも意味は十分伝わります!)
いつももんぶの作品から、生きる滋養を頂戴しています!
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ゆささま!
お久しぶりです!お越し下さってありがとうございます。コピペミスのお知らせもありがとうございました。これ、めっちゃ助かります。直して来ました。
ゆささま、師走に入って色々慌ただしいことと思いますが、そんな中お声かけ嬉しいです。ありがとう~~
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ゆささま、師走に入って色々慌ただしいことと思いますが、そんな中お声かけ嬉しいです。ありがとう~~
もんぶらんさま
こんばんは、今みたらワタシのコメント、途中で文字がどこかに行方不明です。
でも、お伝えしたかったことは、
もんぶらん様のお話、大好きです!
私の心のオアシスです!
天使の寄り道も大好きです!
ということでした。
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私の心のオアシスです!
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ゆささま
ま~ったく大丈夫です。意味も通じるし、
お気持ち頂きました。
また、楽しく書けそうです。
天使の寄り道、結構たのしく書いています。
また寄り道してくださいね!
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お気持ち頂きました。
また、楽しく書けそうです。
天使の寄り道、結構たのしく書いています。
また寄り道してくださいね!
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