パリと狼谷村の二拠点生活が始まった。わたしは週に3日ほど国民衛兵隊に出仕し、その間はマロン館に滞在する。アンドレは5日から6日の出勤だ。わたし出仕しない日は、アンドレは狼谷村からパリへ通うことになった。
狼谷村はパリの中心地まで約2リュー(約10㎞)強。盲目のアンドレが単独で移動するには距離的にも環境的にも厳しい。そこで、アンドレだけがパリへ出勤する日は、狼谷村から農作物を運ぶ荷車隊に同行することになった。
パリの食料供給元の一つである狼谷村からは、毎朝十数台の荷車がパリの中央市場へ野菜や乳製品を出荷しに行くので、それに便乗するわけだ。市政も国政もカオス状態な中、治安は非常に不安定なので、騎兵姿のアンドレが同行することを村人は有り難がった。
パリに隣接した狼谷村では、情報の混乱が少なかったため、バスティーユ後に各地で吹き荒れた領主館焼き討ち強奪の嵐は見られなかったが、街道には食い詰めた物取りが出現する。
7月13日にはオクトワ(通行税)を徴収するための市門が焼き討ちにあったことで、徴税は事実上停止している。村人は徴税されないことを喜ぶ反面、憲兵の立ち会いがなくなったことに不安を募らせていたので利害が一致したわけだ。
荷車の列は1時間かけてパリへ着く。単騎で駆け抜けるより倍以上の時間がかかるが、荷車について行くよう調教した馬がアンドレを安全に運んでくれる。馬は中央市場の一角に借りた馬房に預ける手配をした。
少々の手間賃を払うと、交代で誰かが国民衛兵隊本部付近までアンドレと一緒に歩いてくれる。市場内は運び込まれる荷の位置刻々と変わるし、ぬかるみの酷い地面には、縦横無尽に木板が敷いてあり、足場が非常に悪いからだ。
この方法には、帰宅時刻を荷車隊と合わせることが難しいという問題があったが、それもじきに解決した。まあ、これを解決と言って良ければだが。
「やっほー、美味そうな匂いだ、いっただきま~す」
「すげえ、ベーコンが入っているぞ、ラッキー」
「すいませんねえ、新婚家庭にズカズカ入り込んじゃって」
狼谷村の我が家で、今夜一緒に食卓を囲むのはアラン、ラサール、アントワーヌ、ジョルジュ、そしてユランだ。彼らはパリから帰宅するアンドレに同行してくれたあと、そのまま我が家に尻を落ち着けている。
こうなったきっかけは、司令部で門衛当番を終えたメルキオールが、退勤しようとしていたアンドレに村まで同行しようと申し出てくれたことだった。
帰宅を急ぐアンドレはありがたく好意を受け取り、我が家まで誘導してくれた彼を夕食に誘ったのは自然な流れだった。パリの食糧事情は依然厳しく、兵も食には苦労していた。狼谷村では野菜や卵を農家から直接買うことができたので、贅沢を言わなければ、食客のひとりやふたり、どうとでもなった。
メルキオールが夕食にありついた上にわたしと会ってきたという噂は、旧衛兵隊バスティーユ組を中心にあっという間に広がった。
『アンドレを送っていき隊』が瞬く間に結成され、シフトまで組まれたらしい。気づけば一度に5~6人ほどがやって来るようになった。
順番で決めたシフト日以外の訪問禁止、長居厳禁、片付け必須、村人とのトラブル厳禁など、一応の紳士協定が連中の間で結ばれたと聞いている。
そこで、家具調度が何もなかった我が家岩窟館に、アンドレは急遽大テーブルと椅子10脚、食器10組を仕入れた。ほろ酔い加減で寝込んでしまう兵士が続出したので、屋根裏部屋には雑魚寝用わら布団と毛布10組も用意した。長居厳禁条例はあっさり反故にになった。
わら布団ではあんまりだろう、と一応意見はしたが、十分過ぎるとアンドレは取り合わず、わたしを起こしたくないときなど、ときどき自分もそこで寝ている。
以来、我が家では週2度ほど賑やかな夜を迎える運びになった訳だ。
「おい、おまえ達ジャガイモ残すなよ!腹一杯食いたかったら早く慣れるんだな」
ふかし芋の大皿を持ったアンドレがキッチンから出てきた。それを見ていたアランがさっと立ち上がり、素早く歩み寄る。
「そら、それ貸せ」
「え?メルシ」
兵士との会食のために準備した大テーブルは、思いがけずアンドレの移動を助ける良い指標になっていて、彼は皿をテーブル運ぶくらい難なくできるのだが、ここに来るとアランはやけに過保護になる。
奴は『アンドレ送り隊』シフトとは別枠らしく、毎週少なくとも1日はやってくる。ただ飯はしっかり食らうが、真の目的は他の兵士らが羽目を外したり、夜通し騒いでわたしを寝不足にしないよう、監視に来ているみたいだ、とはアンドレの見立てだ。
しかも、何かとアンドレを手伝ってくれている。
「おらおらおめえら、皿どけて場所空けろ」
アンドレから大皿を取り上げたアランがドンと音を立てて皿を置き、ジャガイモにまだ馴染みのない兵士に食べ方を説明する。何度も我が家に来ているので慣れたものだ。アンドレは後ろに下がり、腕組みをして苦笑いしている。
ジャガイモは、料理人を抱えるような階級の間では食用として認知が進んだが、庶民の間ではまだ家畜の餌という認識が根強い。その見かけから、病気の元になる不吉な食べ物という迷信も残っている。
今年は幸い小麦の豊作が見込めそうだが、まだ端境期だ。亡命貴族が持ち出した大量の通貨のせいで流通は混乱し、この夏は川枯れが相次ぎ製粉が滞っている事情もあり、パンの値は右肩上がりを続けている。
兵士らを満腹させるに足りるパンを確保することは難しく、我が家では毎食ジャガイモが主食として登場する。兵士の中にはまだ抵抗を示す者がいるので、この非常に優秀な代替食料に慣れさせるべく、我が家でささやかな意識改革中と言えば大げさか。
「いいか、こうして潰してだな、塩こしょう振ればうまい。汁物に入れればぱさつかない。パン食わなきゃ力が出ねえなんざ、ただの思い込みだ、そら食え」
アランは乱暴にいもをヘラで潰し、尻込みする兵士のスープ椀に端から勝手にぶち込むので、アンドレが止めに入った。
「まあ、そう無理強いするなよ。そうだ、熱いうちにバターをのせてやれば食べやすくなるんじゃないか」
「こいつらにバターなんぞ勿体ないねえ、隊長にとっておけよ」
「牛乳は近所の酪農農家から買えるし、またおまえが樽を回して作ってくれればいいさ」
「おい簡単に言うな、あれ4時間くらいかかるんだぞ」
「あはは、大したもんだ。普通は6時間かかるとさ」
アンドレの子供の頃の友人、ガストン・プラスローがその酪農農家だが、先日牛乳を買いに行った際に見せてもらったのが、樽を利用したバター製造機、バターチャーンと呼ばれるものだった。
樽を高速回転させる機械軸が取り付けてあり、取っ手を回して作動させる。遠心力を使って牛乳からバターを生成する道具だが、何とアンドレの父、レオン・グランディエが作ったものだから、とわざわざ納屋から出して見せてくれたのだ。
レオン・グランディエの遺品は殆ど残っていないが、村のあちこちに彼の仕事が残っており、現役で活躍中なのだそうだ。彼は脱穀や製粉効率を上げる遠心調速機の設計で有名で、今もその技術は活用されている。
レオン・グランディエは、自村には特許料を免除していたばかりでなく、耕作機やハーベスター(収穫機)の車軸に手持ちの技術を応用して農作業の効率化に寄与していた。
プラスロー家のバターチャーンもその一つなのだが、残念なことに、人手の問題で、バターは商品化できず自家用にとどまっていると聞いた。そこで、アンドレがたまたま屋根裏で寝ていた人手(アラン)を差し出したところ、なかなか質の良いバターができたと言うわけだ。
「ベルナールのところにおまえが作ったバター持ち帰ったんだろ?ロザリーが喜んでいたぞ。今は貴重品だ。いいじゃないか」
アンドレはアランの返事を待たずにさっさとキッチンに戻って行った。残されたアランはちっと舌打ちした。わたしはジャガイモをひとさじ掬うと、ゆっくり口に入れ、4人の兵士に向かってウインクした。
「うん、うまい。アラン、おまえの塩加減なかなかいけるぞ」
アランはぷい、と横を向き、バター壺を持って来たアンドレからそれを奪うと肘で突いた。
「おまえは早く隊長の隣に戻って世話しろよ」
わたしはもうおまえ達の隊長ではないのだがな。だから、実は、このささやかな夕食会が始まったことに感謝している。
元フランス衛兵隊は、素人軍団である国民衛兵隊を指導する基軸兵として、国民衛兵隊の小隊ごとに分散配属された。わたしが率いる第三師団に配属された一部の元衛兵を除き、部下はわたしの手を離れて行った。
それが、こんなリラックスした形で再び会えるようになったのは嬉しい誤算だった。直に顔を見て、近況を聞いたり、個人的な相談に乗りつつ、雑談の中で編成中の国民衛兵隊の課題が浮き彫りになったりする。最も、今のところは課題しかないが。
今夜は、どうやらユランが熱弁を振るう夜になりそうだ。
「射撃訓練ばかりやりたがるので手を焼いています。そのくせ、手入れはずさん、武器の安全管理の意識が育たない。基本陣形訓練は退屈すぎると苦情が出る始末で。毎日が忍耐勝負です」
現在一地区につき5中隊が配属されていて、うち1中隊がユランのように軍経験のある有給専任兵で構成されている。残りの4中隊400人をある程度軍の形に仕上げるのは専任兵の仕事だ。
「徴用でない自発的な市民軍を組織するのは初めての試みだ。挑戦し甲斐のある仕事じゃないか。しかし、職業軍人である我々の常識を市民に押しつけるのは当然無理があるし、おまえ達には厳しい任務なのは間違いない。何もかも一度に教えようとするな。反発を食らうぞ」
「もうしっかり食らっていますよ」
礼儀正しいユランにしてはめずらしい憮然とした態度だ。ユランの年齢なら、年上の新兵に舐められることは少ないと思っていたが、そうでもなかったか。
「当面、市民兵の戦争適用は想定外だから、陣形訓練はひとまず脇に置いて、基本の隊列をマスターする程度でいいだろう。殺傷能力のある武器携帯倫理と安全管理は徹底してたたき込め」
そう言ってやると、真面目なユランは頭を抱えた。
「ですが、あまりにも酷すぎます。そもそも命令に従うことの何たるかが全くわかっていない」
「それが理解できれば、基礎訓練は半分終了したも同じだ。焦るな、ユラン。装備を自前で揃えることができる市民の集まりを指導するのだぞ。彼らのほとんどが事業主だろう。命令されるよりは、命令する方に慣れている面々だ。一朝一夕で切り替えられるはずはない」
「そうですね。少し急ぎすぎたかも知れません。限られた訓練時間で、伝えられる限り伝えようとしていました」
「彼らは本業を持つ無給のボランティアだということも忘れてはいかんな。時間の制約は当然だし、正規軍並の規律を押しつける訳にはいかん」
「はい。わかってはいるのですが、いざ訓練となるとつい」
「おまえの実直さは宝だな、ユラン。担当地区はどこだ?」
「第二師団、コルドリエです」
「そうか、急進的な地区だな。師団長はロシエール伯だったか。訓練内容について具体的な指示は出ているか?」
「いえ、特には」
元フランス衛兵の希望者は全て専任兵として送り込んだが、いくら軍経験があると言っても指導技術まで兼ね備えているわけではない。各師団長が部下に細かく指示を与えるなりサポートするなり、しっかり統率して欲しいところだが、実情は若い彼らに丸投げ状態だ。
地区によって隊運営のばらつきが激しいことがかねてから懸念されているが、せめて基本理念くらいは統一しないとただの威張りくさった自警団の集まりになってしまう。
「ラファイエット候は議会で忙しいが、少し話をする必要があるな。運営基準と訓練要項の統一について、提案してみよう」
ラファイエット侯の名が出ると、アランが憮然としてダン!と音を立ててマグをテーブルに叩きつけた。彼に言わせれば、候はわたしの功績を横取りして司令官にふんぞり返る、アメリカかぶれの孔雀野郎なのだそうだ。
「あいつは人気取りしか考えてねえよ。面倒なことは丸投げで」
「なら、尚のこと都合がいい。あっさりと裁可してくださるだろう」
「隊長の根回しで全体の統制ができ上がるのを待って、奴が司令官面しに来るだけですよ」
「構わん。その方がやりやすい」
アランも専任兵でユランと同じ立場だが、性分からしてユランより苦労していることは想像に難くない。しかし、今夜はユランのサポート日と心得ているらしく、訓練内容には口出しせずにいるところに成長が見える。少し感動してしまった。
感慨に浸るわたしを尻目に、アンドレは天井を斜めに見上げるように笑いを堪えている。何を考えているか、丸わかりだ。差し詰め『去年までのおまえらだって似たようなもんじゃないか』か。口に出して言わないのは、彼自身の荒れっぷりも良い勝負だったからに違いない。
給仕を終えて、ようやくわたしの隣に座ったアンドレが、自分のためにスープと芋を取り分けようとしたので、小声で『右30度だ』指示を出す。見えているかのような手つきで大皿を引き寄せながら、アンドレがふと思いついたように言った。
「訓練の一環として、専任兵チーム対新兵チームで模擬戦なんかどうかな」
模擬戦か。近衛でもフランス衛兵でも実施することがあったが、ここ国民衛兵では実力差が大きすぎて考えもしなかった。
「実際に勝負してコテンパンに負ければ、弾薬充填のスピードとか陣形の維持とか、指揮官に反応する速度が勝っているほうが強い、って実感するんじゃないか?理屈で説明するよりもさ」
なるほど、とわたしが反応する前にアランが、おもしれえじゃんか、それ、と腰を浮かした。ユランもほう!と手を打っている。
「実戦の形はまだ無理かも知れないが、個々の技術ごとに分けた勝負ならば可能かも知れないな」
コマンドに合わせ、一斉射撃の構えが早く揃った方や、隊列を維持したまま先に決まった距離を移動できた方にポイントをつけるとか、勝敗がわかりやすく決まる形にして競わせれば、闘争心に火が付くかも知れない。と、わたしの気分も上がったところにアンドレが水を差した。
「おまえはルール決める係ね。指揮しちゃだめだ」
「え?それはないだろう?」
「やっぱり。絶対に指揮官やるつもりになっていると思った」
わたしの考えもアンドレに筒抜けだ。テーブルがわっと盛り上がった。
「そうですよ、隊長。おれらに任してくださいよ」
「ぜ~ったいやっつけますから」
「目にもの見せてくれますよ!」
「隊長はふんぞり返って是非高みの見物をば!」
失笑するしかなかった。子供のように無邪気に喜ぶ部下達。楽しいのは結構だが、その油断はひょっとしたらひょっとすると負けに繋がるぞ、と危惧したらアランが一喝した。
「おまえら調子に乗って負けたら目も当てらんないぞ!かえって連中を助長させるだけだからな」
のんびりとアンドレが同意する。
「全くな~」
「何だよ、言い出しっぺが」
「おまえが一番先に乗ったよな」
「見ていたようなこと言うなよ」
「地獄耳でね」
アランとアンドレは、不思議な絆を育てている。わたしが言うのも面はゆいが、アランの中には複雑な感情が渦巻いてもおかしくないのに、もう何十年もの付き合いがある友人同士のようだ。
アンドレがアランに変な遠慮を一切しないことが、アランにとって気安いのだろう。だから、わたしも自宅では夫婦の距離でアンドレと会話する。アランは自分の意思でここにいるのだから。
「わたしはもう実戦には出ないのだから、模擬戦くらいやらせろ」
「おまえの立場で特定の大隊に肩入れはまずいだろ?」
「肩入れじゃない、訓練だ」
「おまえを指揮官に持ったチームは、その時点で勝負が決まったも同然だろ?部下に花持たせろよ」
そうだ、そうだ、と部下達がまた盛り上がったので、仕方ないな、頼んだぞと頷いてやったら、拍手が上がった。やれやれだ。上機嫌なノリの流れで、ラサールが、邪気なく疑問を呈す。
「隊長、どうしてもう実戦に出ないんですか?あっ、いてて」
すかさずアランが彼の脳天に拳骨をくれた。結構繊細な男だ。荒っぽく見せて実は気遣いが細やかなのだ。
「わたしの身体はポンコツだからな。命を預かるのは無責任が過ぎるだろう?」
わたしは、余裕の笑みを浮かべ、軽くいなした。いや、そうしたつもりだったが、口に出して見ると思ったよりも身に堪えた。本当は、不甲斐なくて辛いのだ。部下に対しても、夫に対しても。作り笑いをしようとしたら、ふと、肩を抱かれた。
「ポンコツとか言うな。只今メンテ中だから大事にしてるの」
アンドレだ。抱き寄せて髪をわしゃわしゃとかき回した挙げ句、こめかみに長めのキスまでするものだから、若い部下らが口笛を鳴らし、囃し立てた。対するアンドレは、おれんちだぞ、文句あるか、と言い返している。
凍りそうになった場の空気は、たちまち和んだ。わたしと部下の間をリラックスした空間にするのは彼の十八番なのだ。わたしだけでは引き出せない部下の本音は、彼が同席していてこそ聞くことができる。
アンドレはメンテ発言が出たのを機に、わたしに退席を促した。
「じゃあ、ご期待に応えて化粧直しに行こうか、オスカル」
「ひゅ~っ!羨ましい~」
「だろ?じゃあな」
実は、十時をまわる前に、わたしが寝室に引き取るのもひとつの約束事になっている。だから、予定通りなのだが、わざと思わせぶりな台詞を吐いて、アンドレは男らを煽った。おまえたちは遠慮しないで勝手にやってくれ、と彼は言外に匂わせて客人を寛がせるのだ。
そういうところは憎らしいほど上手いと思う。だから、わたしも首に縄をかけられた身振りをして見せて協力した。本当は、わたしも夜通し他愛のない雑談に興じたい。彼らとの時間はとても楽しくて、わずかな酒量で幸せになれる。それなのに、こうしておとなしく連行されるのだから、わたしもヤキがまわったものだ。
「可愛そうな隊長」
「名残惜しいですけど、お体大事ですよ」
アンドレは、洗面の準備をするために席を立った。つい、その背中を目で追うわたしをアランがチラ見しながら一気にワインをあおった。
「美味いっすね、これ」
「そうか?まだ若すぎると思うが」
「おれらには十分ですよ、酒も食事も。でも、隊長はどうなんです?」
妙に真面目に切り込んでくるアランに、わたしはどういう意味だ?と眉を動かし問い返した。
「ここじゃおれら気安く長居できます。でも、隊長にとって快適なんすか?生活の質、えらく下がったんじゃないですか?慣れない環境で、実際身体休まるんですか?」
アラン以外、誰もそんなことは考えていなかったのだろう。楽しそうに飲んでいた他の4人の視線が一斉にわたしに集中した。
「う・・・ん、そうだな」
わたしはしばし考えた。渋くて酸味の強いワイン、ベーコンと野菜を煮込んだだけのシンプルなメイン、一種類だけのチーズ、むき出しのテーブルに錫製のマグ、木製のスプーンに素焼き陶器。慣れないと言えば、その通りだが。
「わたしは一点豪華主義でな、これだけは譲れない贅沢をひとつ享受しているから、他はあまり気にならない」
それを聞いたアランは眉間を歪ませ口角を上げた。ほう、意味がわかったか。無邪気にラサールとジョルジュが好奇心一杯に身を乗り出した。
「え~っ、何ですか隊長の贅沢って?」
わたしの寝支度準備を終えたアンドレが居間に戻って来る気配を感じ、わたしは急いで勿体をつけた。
「ふふ、知れたこと」
「何ですか、教えてくださいよ」
苦笑いをかみ殺したアランは行儀悪く頬杖をつき、視線で同僚を牽制しようとしているが、全く気づかない4人はざわついた。いいだろう、教えてやるとも。アンドレがリネンを腕にかけて戻って来たので、わたしは親指で彼をくいっと指し示した。
「湯の準備ができている、オスカル。時間だよ」
「伴侶だ」
一瞬の間をおいて、居間にアンドレの悲鳴が上がった。
賑やかな夜が更けていく。多分今夜も全員が泊まって行くことになるだろう。部下たちが泊まる夜は、アンドレも一緒に屋根裏で雑魚寝する。わたしに一人寝の時間を確保できるし、客人が妙な気を使うことがないから丁度良いと彼は言う。
正直、寂しいが、男達の楽しげな雑談を遠くに聞きながら眠りに落ちる幸せを噛みしめるのも悪くない。喉の奥からこみ上げる小さな咳が教えてくれる。わたしにはまだやり残したことがあると。この身体と病魔とは何としてでも折り合って見せよう。
狼谷村はパリの中心地まで約2リュー(約10㎞)強。盲目のアンドレが単独で移動するには距離的にも環境的にも厳しい。そこで、アンドレだけがパリへ出勤する日は、狼谷村から農作物を運ぶ荷車隊に同行することになった。
パリの食料供給元の一つである狼谷村からは、毎朝十数台の荷車がパリの中央市場へ野菜や乳製品を出荷しに行くので、それに便乗するわけだ。市政も国政もカオス状態な中、治安は非常に不安定なので、騎兵姿のアンドレが同行することを村人は有り難がった。
パリに隣接した狼谷村では、情報の混乱が少なかったため、バスティーユ後に各地で吹き荒れた領主館焼き討ち強奪の嵐は見られなかったが、街道には食い詰めた物取りが出現する。
7月13日にはオクトワ(通行税)を徴収するための市門が焼き討ちにあったことで、徴税は事実上停止している。村人は徴税されないことを喜ぶ反面、憲兵の立ち会いがなくなったことに不安を募らせていたので利害が一致したわけだ。
荷車の列は1時間かけてパリへ着く。単騎で駆け抜けるより倍以上の時間がかかるが、荷車について行くよう調教した馬がアンドレを安全に運んでくれる。馬は中央市場の一角に借りた馬房に預ける手配をした。
少々の手間賃を払うと、交代で誰かが国民衛兵隊本部付近までアンドレと一緒に歩いてくれる。市場内は運び込まれる荷の位置刻々と変わるし、ぬかるみの酷い地面には、縦横無尽に木板が敷いてあり、足場が非常に悪いからだ。
この方法には、帰宅時刻を荷車隊と合わせることが難しいという問題があったが、それもじきに解決した。まあ、これを解決と言って良ければだが。
「やっほー、美味そうな匂いだ、いっただきま~す」
「すげえ、ベーコンが入っているぞ、ラッキー」
「すいませんねえ、新婚家庭にズカズカ入り込んじゃって」
狼谷村の我が家で、今夜一緒に食卓を囲むのはアラン、ラサール、アントワーヌ、ジョルジュ、そしてユランだ。彼らはパリから帰宅するアンドレに同行してくれたあと、そのまま我が家に尻を落ち着けている。
こうなったきっかけは、司令部で門衛当番を終えたメルキオールが、退勤しようとしていたアンドレに村まで同行しようと申し出てくれたことだった。
帰宅を急ぐアンドレはありがたく好意を受け取り、我が家まで誘導してくれた彼を夕食に誘ったのは自然な流れだった。パリの食糧事情は依然厳しく、兵も食には苦労していた。狼谷村では野菜や卵を農家から直接買うことができたので、贅沢を言わなければ、食客のひとりやふたり、どうとでもなった。
メルキオールが夕食にありついた上にわたしと会ってきたという噂は、旧衛兵隊バスティーユ組を中心にあっという間に広がった。
『アンドレを送っていき隊』が瞬く間に結成され、シフトまで組まれたらしい。気づけば一度に5~6人ほどがやって来るようになった。
順番で決めたシフト日以外の訪問禁止、長居厳禁、片付け必須、村人とのトラブル厳禁など、一応の紳士協定が連中の間で結ばれたと聞いている。
そこで、家具調度が何もなかった我が家岩窟館に、アンドレは急遽大テーブルと椅子10脚、食器10組を仕入れた。ほろ酔い加減で寝込んでしまう兵士が続出したので、屋根裏部屋には雑魚寝用わら布団と毛布10組も用意した。長居厳禁条例はあっさり反故にになった。
わら布団ではあんまりだろう、と一応意見はしたが、十分過ぎるとアンドレは取り合わず、わたしを起こしたくないときなど、ときどき自分もそこで寝ている。
以来、我が家では週2度ほど賑やかな夜を迎える運びになった訳だ。
「おい、おまえ達ジャガイモ残すなよ!腹一杯食いたかったら早く慣れるんだな」
ふかし芋の大皿を持ったアンドレがキッチンから出てきた。それを見ていたアランがさっと立ち上がり、素早く歩み寄る。
「そら、それ貸せ」
「え?メルシ」
兵士との会食のために準備した大テーブルは、思いがけずアンドレの移動を助ける良い指標になっていて、彼は皿をテーブル運ぶくらい難なくできるのだが、ここに来るとアランはやけに過保護になる。
奴は『アンドレ送り隊』シフトとは別枠らしく、毎週少なくとも1日はやってくる。ただ飯はしっかり食らうが、真の目的は他の兵士らが羽目を外したり、夜通し騒いでわたしを寝不足にしないよう、監視に来ているみたいだ、とはアンドレの見立てだ。
しかも、何かとアンドレを手伝ってくれている。
「おらおらおめえら、皿どけて場所空けろ」
アンドレから大皿を取り上げたアランがドンと音を立てて皿を置き、ジャガイモにまだ馴染みのない兵士に食べ方を説明する。何度も我が家に来ているので慣れたものだ。アンドレは後ろに下がり、腕組みをして苦笑いしている。
ジャガイモは、料理人を抱えるような階級の間では食用として認知が進んだが、庶民の間ではまだ家畜の餌という認識が根強い。その見かけから、病気の元になる不吉な食べ物という迷信も残っている。
今年は幸い小麦の豊作が見込めそうだが、まだ端境期だ。亡命貴族が持ち出した大量の通貨のせいで流通は混乱し、この夏は川枯れが相次ぎ製粉が滞っている事情もあり、パンの値は右肩上がりを続けている。
兵士らを満腹させるに足りるパンを確保することは難しく、我が家では毎食ジャガイモが主食として登場する。兵士の中にはまだ抵抗を示す者がいるので、この非常に優秀な代替食料に慣れさせるべく、我が家でささやかな意識改革中と言えば大げさか。
「いいか、こうして潰してだな、塩こしょう振ればうまい。汁物に入れればぱさつかない。パン食わなきゃ力が出ねえなんざ、ただの思い込みだ、そら食え」
アランは乱暴にいもをヘラで潰し、尻込みする兵士のスープ椀に端から勝手にぶち込むので、アンドレが止めに入った。
「まあ、そう無理強いするなよ。そうだ、熱いうちにバターをのせてやれば食べやすくなるんじゃないか」
「こいつらにバターなんぞ勿体ないねえ、隊長にとっておけよ」
「牛乳は近所の酪農農家から買えるし、またおまえが樽を回して作ってくれればいいさ」
「おい簡単に言うな、あれ4時間くらいかかるんだぞ」
「あはは、大したもんだ。普通は6時間かかるとさ」
アンドレの子供の頃の友人、ガストン・プラスローがその酪農農家だが、先日牛乳を買いに行った際に見せてもらったのが、樽を利用したバター製造機、バターチャーンと呼ばれるものだった。
樽を高速回転させる機械軸が取り付けてあり、取っ手を回して作動させる。遠心力を使って牛乳からバターを生成する道具だが、何とアンドレの父、レオン・グランディエが作ったものだから、とわざわざ納屋から出して見せてくれたのだ。
レオン・グランディエの遺品は殆ど残っていないが、村のあちこちに彼の仕事が残っており、現役で活躍中なのだそうだ。彼は脱穀や製粉効率を上げる遠心調速機の設計で有名で、今もその技術は活用されている。
レオン・グランディエは、自村には特許料を免除していたばかりでなく、耕作機やハーベスター(収穫機)の車軸に手持ちの技術を応用して農作業の効率化に寄与していた。
プラスロー家のバターチャーンもその一つなのだが、残念なことに、人手の問題で、バターは商品化できず自家用にとどまっていると聞いた。そこで、アンドレがたまたま屋根裏で寝ていた人手(アラン)を差し出したところ、なかなか質の良いバターができたと言うわけだ。
「ベルナールのところにおまえが作ったバター持ち帰ったんだろ?ロザリーが喜んでいたぞ。今は貴重品だ。いいじゃないか」
アンドレはアランの返事を待たずにさっさとキッチンに戻って行った。残されたアランはちっと舌打ちした。わたしはジャガイモをひとさじ掬うと、ゆっくり口に入れ、4人の兵士に向かってウインクした。
「うん、うまい。アラン、おまえの塩加減なかなかいけるぞ」
アランはぷい、と横を向き、バター壺を持って来たアンドレからそれを奪うと肘で突いた。
「おまえは早く隊長の隣に戻って世話しろよ」
わたしはもうおまえ達の隊長ではないのだがな。だから、実は、このささやかな夕食会が始まったことに感謝している。
元フランス衛兵隊は、素人軍団である国民衛兵隊を指導する基軸兵として、国民衛兵隊の小隊ごとに分散配属された。わたしが率いる第三師団に配属された一部の元衛兵を除き、部下はわたしの手を離れて行った。
それが、こんなリラックスした形で再び会えるようになったのは嬉しい誤算だった。直に顔を見て、近況を聞いたり、個人的な相談に乗りつつ、雑談の中で編成中の国民衛兵隊の課題が浮き彫りになったりする。最も、今のところは課題しかないが。
今夜は、どうやらユランが熱弁を振るう夜になりそうだ。
「射撃訓練ばかりやりたがるので手を焼いています。そのくせ、手入れはずさん、武器の安全管理の意識が育たない。基本陣形訓練は退屈すぎると苦情が出る始末で。毎日が忍耐勝負です」
現在一地区につき5中隊が配属されていて、うち1中隊がユランのように軍経験のある有給専任兵で構成されている。残りの4中隊400人をある程度軍の形に仕上げるのは専任兵の仕事だ。
「徴用でない自発的な市民軍を組織するのは初めての試みだ。挑戦し甲斐のある仕事じゃないか。しかし、職業軍人である我々の常識を市民に押しつけるのは当然無理があるし、おまえ達には厳しい任務なのは間違いない。何もかも一度に教えようとするな。反発を食らうぞ」
「もうしっかり食らっていますよ」
礼儀正しいユランにしてはめずらしい憮然とした態度だ。ユランの年齢なら、年上の新兵に舐められることは少ないと思っていたが、そうでもなかったか。
「当面、市民兵の戦争適用は想定外だから、陣形訓練はひとまず脇に置いて、基本の隊列をマスターする程度でいいだろう。殺傷能力のある武器携帯倫理と安全管理は徹底してたたき込め」
そう言ってやると、真面目なユランは頭を抱えた。
「ですが、あまりにも酷すぎます。そもそも命令に従うことの何たるかが全くわかっていない」
「それが理解できれば、基礎訓練は半分終了したも同じだ。焦るな、ユラン。装備を自前で揃えることができる市民の集まりを指導するのだぞ。彼らのほとんどが事業主だろう。命令されるよりは、命令する方に慣れている面々だ。一朝一夕で切り替えられるはずはない」
「そうですね。少し急ぎすぎたかも知れません。限られた訓練時間で、伝えられる限り伝えようとしていました」
「彼らは本業を持つ無給のボランティアだということも忘れてはいかんな。時間の制約は当然だし、正規軍並の規律を押しつける訳にはいかん」
「はい。わかってはいるのですが、いざ訓練となるとつい」
「おまえの実直さは宝だな、ユラン。担当地区はどこだ?」
「第二師団、コルドリエです」
「そうか、急進的な地区だな。師団長はロシエール伯だったか。訓練内容について具体的な指示は出ているか?」
「いえ、特には」
元フランス衛兵の希望者は全て専任兵として送り込んだが、いくら軍経験があると言っても指導技術まで兼ね備えているわけではない。各師団長が部下に細かく指示を与えるなりサポートするなり、しっかり統率して欲しいところだが、実情は若い彼らに丸投げ状態だ。
地区によって隊運営のばらつきが激しいことがかねてから懸念されているが、せめて基本理念くらいは統一しないとただの威張りくさった自警団の集まりになってしまう。
「ラファイエット候は議会で忙しいが、少し話をする必要があるな。運営基準と訓練要項の統一について、提案してみよう」
ラファイエット侯の名が出ると、アランが憮然としてダン!と音を立ててマグをテーブルに叩きつけた。彼に言わせれば、候はわたしの功績を横取りして司令官にふんぞり返る、アメリカかぶれの孔雀野郎なのだそうだ。
「あいつは人気取りしか考えてねえよ。面倒なことは丸投げで」
「なら、尚のこと都合がいい。あっさりと裁可してくださるだろう」
「隊長の根回しで全体の統制ができ上がるのを待って、奴が司令官面しに来るだけですよ」
「構わん。その方がやりやすい」
アランも専任兵でユランと同じ立場だが、性分からしてユランより苦労していることは想像に難くない。しかし、今夜はユランのサポート日と心得ているらしく、訓練内容には口出しせずにいるところに成長が見える。少し感動してしまった。
感慨に浸るわたしを尻目に、アンドレは天井を斜めに見上げるように笑いを堪えている。何を考えているか、丸わかりだ。差し詰め『去年までのおまえらだって似たようなもんじゃないか』か。口に出して言わないのは、彼自身の荒れっぷりも良い勝負だったからに違いない。
給仕を終えて、ようやくわたしの隣に座ったアンドレが、自分のためにスープと芋を取り分けようとしたので、小声で『右30度だ』指示を出す。見えているかのような手つきで大皿を引き寄せながら、アンドレがふと思いついたように言った。
「訓練の一環として、専任兵チーム対新兵チームで模擬戦なんかどうかな」
模擬戦か。近衛でもフランス衛兵でも実施することがあったが、ここ国民衛兵では実力差が大きすぎて考えもしなかった。
「実際に勝負してコテンパンに負ければ、弾薬充填のスピードとか陣形の維持とか、指揮官に反応する速度が勝っているほうが強い、って実感するんじゃないか?理屈で説明するよりもさ」
なるほど、とわたしが反応する前にアランが、おもしれえじゃんか、それ、と腰を浮かした。ユランもほう!と手を打っている。
「実戦の形はまだ無理かも知れないが、個々の技術ごとに分けた勝負ならば可能かも知れないな」
コマンドに合わせ、一斉射撃の構えが早く揃った方や、隊列を維持したまま先に決まった距離を移動できた方にポイントをつけるとか、勝敗がわかりやすく決まる形にして競わせれば、闘争心に火が付くかも知れない。と、わたしの気分も上がったところにアンドレが水を差した。
「おまえはルール決める係ね。指揮しちゃだめだ」
「え?それはないだろう?」
「やっぱり。絶対に指揮官やるつもりになっていると思った」
わたしの考えもアンドレに筒抜けだ。テーブルがわっと盛り上がった。
「そうですよ、隊長。おれらに任してくださいよ」
「ぜ~ったいやっつけますから」
「目にもの見せてくれますよ!」
「隊長はふんぞり返って是非高みの見物をば!」
失笑するしかなかった。子供のように無邪気に喜ぶ部下達。楽しいのは結構だが、その油断はひょっとしたらひょっとすると負けに繋がるぞ、と危惧したらアランが一喝した。
「おまえら調子に乗って負けたら目も当てらんないぞ!かえって連中を助長させるだけだからな」
のんびりとアンドレが同意する。
「全くな~」
「何だよ、言い出しっぺが」
「おまえが一番先に乗ったよな」
「見ていたようなこと言うなよ」
「地獄耳でね」
アランとアンドレは、不思議な絆を育てている。わたしが言うのも面はゆいが、アランの中には複雑な感情が渦巻いてもおかしくないのに、もう何十年もの付き合いがある友人同士のようだ。
アンドレがアランに変な遠慮を一切しないことが、アランにとって気安いのだろう。だから、わたしも自宅では夫婦の距離でアンドレと会話する。アランは自分の意思でここにいるのだから。
「わたしはもう実戦には出ないのだから、模擬戦くらいやらせろ」
「おまえの立場で特定の大隊に肩入れはまずいだろ?」
「肩入れじゃない、訓練だ」
「おまえを指揮官に持ったチームは、その時点で勝負が決まったも同然だろ?部下に花持たせろよ」
そうだ、そうだ、と部下達がまた盛り上がったので、仕方ないな、頼んだぞと頷いてやったら、拍手が上がった。やれやれだ。上機嫌なノリの流れで、ラサールが、邪気なく疑問を呈す。
「隊長、どうしてもう実戦に出ないんですか?あっ、いてて」
すかさずアランが彼の脳天に拳骨をくれた。結構繊細な男だ。荒っぽく見せて実は気遣いが細やかなのだ。
「わたしの身体はポンコツだからな。命を預かるのは無責任が過ぎるだろう?」
わたしは、余裕の笑みを浮かべ、軽くいなした。いや、そうしたつもりだったが、口に出して見ると思ったよりも身に堪えた。本当は、不甲斐なくて辛いのだ。部下に対しても、夫に対しても。作り笑いをしようとしたら、ふと、肩を抱かれた。
「ポンコツとか言うな。只今メンテ中だから大事にしてるの」
アンドレだ。抱き寄せて髪をわしゃわしゃとかき回した挙げ句、こめかみに長めのキスまでするものだから、若い部下らが口笛を鳴らし、囃し立てた。対するアンドレは、おれんちだぞ、文句あるか、と言い返している。
凍りそうになった場の空気は、たちまち和んだ。わたしと部下の間をリラックスした空間にするのは彼の十八番なのだ。わたしだけでは引き出せない部下の本音は、彼が同席していてこそ聞くことができる。
アンドレはメンテ発言が出たのを機に、わたしに退席を促した。
「じゃあ、ご期待に応えて化粧直しに行こうか、オスカル」
「ひゅ~っ!羨ましい~」
「だろ?じゃあな」
実は、十時をまわる前に、わたしが寝室に引き取るのもひとつの約束事になっている。だから、予定通りなのだが、わざと思わせぶりな台詞を吐いて、アンドレは男らを煽った。おまえたちは遠慮しないで勝手にやってくれ、と彼は言外に匂わせて客人を寛がせるのだ。
そういうところは憎らしいほど上手いと思う。だから、わたしも首に縄をかけられた身振りをして見せて協力した。本当は、わたしも夜通し他愛のない雑談に興じたい。彼らとの時間はとても楽しくて、わずかな酒量で幸せになれる。それなのに、こうしておとなしく連行されるのだから、わたしもヤキがまわったものだ。
「可愛そうな隊長」
「名残惜しいですけど、お体大事ですよ」
アンドレは、洗面の準備をするために席を立った。つい、その背中を目で追うわたしをアランがチラ見しながら一気にワインをあおった。
「美味いっすね、これ」
「そうか?まだ若すぎると思うが」
「おれらには十分ですよ、酒も食事も。でも、隊長はどうなんです?」
妙に真面目に切り込んでくるアランに、わたしはどういう意味だ?と眉を動かし問い返した。
「ここじゃおれら気安く長居できます。でも、隊長にとって快適なんすか?生活の質、えらく下がったんじゃないですか?慣れない環境で、実際身体休まるんですか?」
アラン以外、誰もそんなことは考えていなかったのだろう。楽しそうに飲んでいた他の4人の視線が一斉にわたしに集中した。
「う・・・ん、そうだな」
わたしはしばし考えた。渋くて酸味の強いワイン、ベーコンと野菜を煮込んだだけのシンプルなメイン、一種類だけのチーズ、むき出しのテーブルに錫製のマグ、木製のスプーンに素焼き陶器。慣れないと言えば、その通りだが。
「わたしは一点豪華主義でな、これだけは譲れない贅沢をひとつ享受しているから、他はあまり気にならない」
それを聞いたアランは眉間を歪ませ口角を上げた。ほう、意味がわかったか。無邪気にラサールとジョルジュが好奇心一杯に身を乗り出した。
「え~っ、何ですか隊長の贅沢って?」
わたしの寝支度準備を終えたアンドレが居間に戻って来る気配を感じ、わたしは急いで勿体をつけた。
「ふふ、知れたこと」
「何ですか、教えてくださいよ」
苦笑いをかみ殺したアランは行儀悪く頬杖をつき、視線で同僚を牽制しようとしているが、全く気づかない4人はざわついた。いいだろう、教えてやるとも。アンドレがリネンを腕にかけて戻って来たので、わたしは親指で彼をくいっと指し示した。
「湯の準備ができている、オスカル。時間だよ」
「伴侶だ」
一瞬の間をおいて、居間にアンドレの悲鳴が上がった。
賑やかな夜が更けていく。多分今夜も全員が泊まって行くことになるだろう。部下たちが泊まる夜は、アンドレも一緒に屋根裏で雑魚寝する。わたしに一人寝の時間を確保できるし、客人が妙な気を使うことがないから丁度良いと彼は言う。
正直、寂しいが、男達の楽しげな雑談を遠くに聞きながら眠りに落ちる幸せを噛みしめるのも悪くない。喉の奥からこみ上げる小さな咳が教えてくれる。わたしにはまだやり残したことがあると。この身体と病魔とは何としてでも折り合って見せよう。
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身悶えするほど(私が)の幸福をありがとうございました(T^T)目の前に幸せな風景が見えるようです。『アンドレを送っていき隊』最高です!
今日読むことが出来て心の平穏を保てそうです。ありがとうございました。
今日読むことが出来て心の平穏を保てそうです。ありがとうございました。
身悶えするほど(私が)の幸福をありがとうございました(T^T)目の前に幸せな風景が見えるようです。『アンドレを送っていき隊』最高です!
今日読むことが出来て心の平穏を保てそうです。ありがとうございました。
今日読むことが出来て心の平穏を保てそうです。ありがとうございました。
もんぶらんさま
暁シリーズの新作!嬉しいです。
またまた背景に詰め込まれた知識が素晴らしくて勉強になります。
オスカル様ったら堂々と最上級のお惚気を…アランせつないなあ 笑 心温まるお話をありがとうございます♡
37.狼谷村Ⅳ
暁シリーズの新作!嬉しいです。
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オスカル様ったら堂々と最上級のお惚気を…アランせつないなあ 笑 心温まるお話をありがとうございます♡
37.狼谷村Ⅳ
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