1788年12月24日、ヴェルサイユ宮殿、王の礼拝堂で執り行われるミサ・ド・ミニュイ(深夜ミサ)が間もなく始まろうとしていた。
礼拝堂内部から王族の居室までの間は近衛隊、宮殿内は王室警護隊、宮殿外周及びパリ大通りとサン・クルー大通りがフランス衛兵隊の警護担当区域だった。
近衛時代、連隊長だったオスカルは、父ジャルジェ将軍とともに王室ノエルの晩餐にあずかったものだ。深夜ミサに出席する国王夫妻と同じ二階のロッジ・ロワイヤル内への入場を許され、夫妻の後方に立ち、警護に当たった。アンドレは王族の侍従用待機室の外の廊下で待機した。
一時間ほどのミサが終了すると、オスカルは退場する王妃と居住区まで共をしたが、王妃は席を立つとすぐに『お誕生日おめでとう、オスカル』と小さな声で祝福をくれるのが常だった。王妃に甘い国王は、この恒例行事をニコニコと見ない振りをするのが恒例だった。
若い頃などは、お茶目だった王妃がミサの始まる0時の鐘が鳴ると同時に背後を振り向いて、パチンとウィンクを飛ばしてくるので気が気でないと、苦笑い交じりにオスカルはアンドレにこぼすのだった。
ノエルほど、環境の激変を痛感するときはないよなと、アンドレは早足で大通りを進むオスカルの斜め後ろを歩きながらしみじみ思う。
仕事とはいえ、国王夫妻以外、王族すらめったに立ち入れないロッジ・ロワイヤルで24日の0時を迎えていたオスカルなのに、衛兵隊に転属してからは、極寒の路上にいる。夕食は兵舎で済ませた。もちろん兵と同じメニューである。
兵の現場監督は本来下級将校の仕事である。衛兵隊赴任初年は、あまりにも行儀の悪い兵士達を現場に野放しにできなかったので夜通しオスカル自ら監督したが、兵の忠誠を勝ち取り、すっかり統制を掌握した今、オスカルが現場に出る必要はない。
しかし彼女は今年も部下の近くにいることを望んだ。監督するためではなく、ノエルに夜勤に当った兵士を労うためである。衛兵隊員が守る路地をくまなく歩き、オスカルは声を掛けていた。
ミサが終了し、王族が自室への移動を完了する午前1時半になれば、王宮外周に一部の夜勤者を残し、フランス衛兵は兵舎へ戻る。兵舎には、オスカルからレヴェイヨンの料理と酒が届けられているはずだ。オスカルはミサが開始した時点で自宅へ戻る予定である。
「風が強い。寒くないかオスカル」
「暑いくらいだ」
全くだ、とアンドレは頭を振った。立ち並ぶ部下に声をかけながら、往復1リュー(5キロ弱)あるパリ大通りを往復することもう2回目。外気は身を切るほど冷たいが、体は汗ばんでいる。
しかし、直立不動で街道を守る部下達には、寒さが体の芯まで浸みていることだろう。オスカルはひとりとりに『ご苦労』と労っている。声をかけられた兵士から嬉しそうな笑顔が返される。今年は昨年のように、懐に酒を隠し持っている者はいなさそうだった。
アンドレは懐中時計を取り出して松明に近づけて見た。0時まであと15分ほどだ。この分なら、宮殿前のダルム広場に着く頃に0時を迎えるだろう。
「どうしたアンドレ、へばったか」
振り向いたオスカルの髪がふわりと翻り、松明の焔と一緒に燃え上がるように煌めいた。逆光に照らされ、挑戦するように片側だけ上げた口角とばら色に染まった高い頬が少女時代を彷彿させる。
いったいいつまでドキドキさせられるのか、アンドレの恋心は焼死寸前のカウントダウンに入ったが。
「何の、まだまだ!」
恋心の方はともかく、体力はまだ余裕がある。余裕はなくてはならないのだ。なぜなら、もうじきもっと大事なカウントダウンが始まるからだ。
二十年ぶりに、日付が変わった瞬間に世界中の誰よりも早くオスカルの誕生日を祝福できるチャンスが回って来たのだ。路上も捨てたものではない。
オスカルが近衛に入隊する前までは、祖母の目をかい潜り、アンドレが一番におめでとうを言っていた。その後は王妃がそのポジションを独占し、衛兵隊へ転属してからは、不良兵士のお守りと二人の関係性の揺らぎがその機会を奪った。
今年こそ。
「いい心がけだ!それに約束は守って貰うからな!」
約束、を強調するようにオスカルはピシッとアンドレに一本指を指し、くるりと進行方向へ向きを戻した。その足どりは、身に染みこんだ軍人の無駄ない回転よりは、踊るように楽しげに見えた。
約束を楽しみにしているのだろうか。今夜は彼女も自分も子供みたいだ。アンドレはふっと頬を緩ませた。
-約束-
ここしばらくリュカの父親探しや子守にかまけて、今年は何も誕生日の贈り物が準備できなかったことをアンドレがオスカルに詫びたのは二日前だった。
衛兵隊に勤めながら、ノエル帰省させた使用人の穴埋めに奔走するアンドレだ。その時期にリュカが登場したのだから、無理からぬ状況であることはオスカルも承知していた。
オスカルとてモノが欲しいわけではなく、毎年彼が祝福の気持ちを何かしらの形に工夫してくれることが嬉しかったのだから、贈り物など間に合わなくても、おめでとうの一言を言ってもらえればそれで十分だったのだが。
天邪鬼な口は無慈悲な要求を突きつけた。
『何だと?それは聞き捨てならん!何でもいいからあと二日で過去最高の贈り物を持って来い。約束だぞ!』
約束とは、相互の合意の元になされるもの。オスカルの要求はただの一方的な命令であるにも関わらず、アンドレは首振り人形のように頷いた。その際のオスカルの表情が印象に残っている。
しまった、心にもない無茶を言ってしまった、と言ったそばから後悔していることが見え見えだった。もとよりオスカルの要求はモノではないことは百も承知。隠された甘えを嗅ぎ取ったアンドレは知恵を絞った。
アンドレはもう一度懐中時計を取り出した。あと5分。明々と灯された松明に照らされた王宮の黄金の門が遠目に見えてきた。
ノエルの前夜、広場は通常の倍増しの灯りが並んでいる。遠くには、宮殿が幻想的に夜空に浮かんで見える。丁度広場で0時を迎えられて良かったと、アンドレはほっとする。彼が用意したものは、暗がりでは何の意味もない。
あと3分。アンドレは内ポケットから小さな小瓶を、剣帯の裏からこっそりぶら下げていたおもちゃのピストルを取り出した。小瓶は、体の後ろでシャカシャカと高速で振る。何かの気配に気づいたオスカルがふっと振り向くたびに、何食わぬ顔を装い歩き続ける。あと1分くらいか。もう時計は取り出せない。
頃合いを見て、アンドレは歩く速度を上げ、オスカルとの距離を詰めた。そろそろか、と目星をつけたタイミングで横並びになる。広場は目の前だ。オスカルが立ち止まり、横に並んだアンドレに『どうした?』と見上げたとき。
ノートルダム教会、ヴェルサイユ大聖堂、サン・シンフォリアン教会の鐘楼が、一斉にミサ開始を告げた。少しずつ違う鐘の音が幾重にも重なり冬の夜空に吸い込まれていく。アンドレは、右手でシャカシャカ振っていた小瓶のコルク栓を抑えていた親指を外し、左手で持っていたおもちゃのピストルを空に向けて引き金を引いた。
ポン!ポン!プシュッ!
「Joyeux Anniversaire、オスカル!」
オスカルの目の前で、小瓶からコルク栓が飛び出すのと同時に紙吹雪が舞い上がり、ピストルの先に小さな色とりどりの花が咲いた。どちらも、オスカルとアンドレの間の空間だけでちんまりと収まってしまう規模だった。
ちゃちなピストルの先に咲いた花の中には、よくよくよ~~く見るとJoyeuxAnniversaire,Oscar!と書いたミニサイズの旗もポップアップしていた。タイミングは完璧だった。仕掛けも工夫を凝らしていた。しかし演出効果は大層ショボかった。
い、今のは何だ?
唖然としたオスカルが、それがアンドレからの誕生日の祝福であるということに気づくまでたっぷり30秒かかった。どう反応すべきか迷うのにさらに30秒。
「あ…ありがとう…アンドレ…」
瞬きするのを忘れたようなオスカルの目はあっけにとられて中央に寄っていた。
礼を言われるまで合計一分。アンドレに、この場から今すぐ逃げ出させてください、と神に祈らせるのに十分なほど長い一分だった。やっちまった、外したか。
「ま、そういうことだ。じゃ、じゃあ行こうかオスカル」
アンドレはオスカルの背を押して、そそくさと大厩舎方面へ向かおうとした。ノエル期間の人手不足を補うために騎乗で邸と本部を往復しているふたりの馬がそこにいる。
「ミサが始まったら帰宅する予定だったしな。さ、おばあちゃんが待っている」
珍妙な顔つきで硬化していたオスカルが、爆発的に笑い出したのはそのときだった。
「あーっはっはっはっは!な、何だ今のは!」
ライトアップされた宮殿はいつもより荘厳な姿でそびえ立ち、今宵が特別な夜であることを知らしめている。太陽のエンブレムを配した門は松明の光を反射して、神の威光を受けた王国を誇るように黄金色に光り輝いている。何重にも響き渡る鐘の音は止むことを知らぬように主の栄光を褒め称えている。
町中が、いや世界中が神の御子の誕生を諸手をあげて歓び讃える聖なる瞬間に、自分の誕生を祝う花がアンドレの掌の上でちんまりと咲いて散った。その激しい落差が、オスカルの笑いの引き金を引いた。面白すぎる。
「あははは、だめだ、アンドレ、く、苦しいぞあははは!」
腹を押さえ、二つ折りになって笑っているオスカルを広場に配された部下達が何事かと凝視している。アンドレは冷や汗をかきかき、オスカルを広場前から退場させた。
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馬を厩舎から引き出して騎乗しても、オスカルはまだ笑っていた。馬具の金具が彼女の笑いに合わせて音を立てる。
「そんなに笑うなよ。チャチに見えてあれでも苦労したんだ」
「くっくっ、なるほど、紙吹雪はコルク栓を二つに割った間に詰め込んだのか。考えたな」
「ポケットに入るサイズの瓶じゃ、ホコリが舞う程度がせいぜいだよな。まあ、おまえがキョトンとしたのも無理ないか」
「瓶の中身は?」
「一番強いシャンパン」
「何と、今年は酒を懐に忍ばせている不届き者はおまえか」
「あ、二口分ほど残っている、いただこう」
アンドレは懐から小瓶を取り出し、瓶底に残っていた薄い琥珀色の液体を一口飲んだ。振りまくった後なので、間の抜けた味だった。
「アンドレ!それはわたしの祝いではないか、よこせ」
見ると、オスカルが馬上から手を伸ばしている。
「いや、これはすっかり気が抜けて飲める味では…」
「よこせ!」
馬が吐く白い息がゆっくり流れ、並足が石畳を単調に蹴る音が深閑としたヴェルサイユの街に響く。話し声がことさら大きく響くような気がして、ふたりは声を潜めた。
オスカルは黙って手を伸ばしている。ふざけているかと思ったオスカルから真剣な眼差しが注がれていることに気づき、アンドレは導かれるように瓶を手渡した。
手袋を通して触れあった指が熱かった。自分が口をつけた瓶に躊躇なく口をつけようとするオスカルに目が釘付けになる。オスカルはぐいと一口飲むと顔をしかめ、瓶をもどしてきた。
「祝い酒、とは言えんな」
「だから言ったろう」
「まだ一口残っている。おまえが始末しろ」
有無を言わせない蒼い瞳の圧力に押されるまま、アンドレは瓶に口をつけた。液体は殆ど残っていなかったが、体がかっと熱くなった。オスカルは満足そうに片側だけくちびるの端を上げると、馬に拍車をかけた。
「よし、帰るぞ!」
熱く火照る身体を持て余し、アンドレは呆然とオスカルの後ろ姿を見送った。マントの背中に翻る金髪が夜の帳に溶けてゆく。何をしている早く来いと呼ばれ、アンドレは大きく空を振り仰いだ。
全く。リュカのいないところで無防備に距離を詰めて来ないでくれ、小悪魔め。でも、どれほどおまえが魅力的でも、もう二度と同じ轍を踏むもんか。アンドレはきつく目を閉じて手綱を握りしめた。
再び目を開いたアンドレの頭上に、懐かしいものが広がっていた。
「こ、これは…!いつだったか見たことがある…!」
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もう一つ、プレゼントするから少し寄り道しよう、15分でいいから、とせっつく幼馴染みにオスカルが連れて来られたのは、自宅のあるノートルダム地区の反対側、宮殿の南側を20分ほど西に駆け抜けた先にある、サン=ルイ王立軍学校だった。
「どこへ行くのだ?」
「この辺ならどこでも良さそうだけど、ここにしよう」
低い灌木の間の林道を抜けた先に現れた軍学校は、すっかり灯りが落とされ、暗闇の中に深閑と静まりかえっている。アンドレはカンテラで足下を照らしながら、王立軍学校の敷地を示す鉄柵に馬を繋いだ。
サン=シル=レコールと呼ばれるこの場所は、小さな森が島の様に点在しているほか、冬の収穫を終えた麦畑と枯れた草原が広大に広がる平原である。学校以外に人工物は見当たらず、人間の手が入らぬ自然が残る場所だ。
鞍にくくりつけてある非常用の毛布を手早く外し、アンドレはオスカルの手を引いてやや小高くなっている丘陵地に上った。アンドレが気負わず自然に手を引いてくれることが嬉しくて、オスカルはアンドレが持つ灯りにぼんやり浮かぶ手元だけを見ながらついて行った。
「よし、ここに座ってオスカル。隊長殿の手前、飲む用の酒瓶は持って来られなかったけれど、そこは勘弁してくれな」
二人で少し隙間をあけて一枚の毛布の上に腰を降ろした。以前なら、互いの体温で暖をとるために寄り添って座ることぐらい何のはばかりはなかったが、今は寂しい遠慮が立ちはだかる。残るもう一枚は、オスカルのコートの肩に掛けられた。
「さて、カンテラを消すよ」
「え?」
アンドレは灯りを消した後も絶対安全男であることを証明せんと、両掌を見せて笑った。オスカルも笑って幼馴染みの掌に軽く拳骨を食らわせる。おまえを警戒なぞしていない、と。カンテラを消すと、二人の目の前は漆黒の闇となった。
「アンドレ、一体何を…」
「目が暗闇に慣れてきたらわかるよ」
カンテラの残像が目蓋の裏から消え、次第に闇に目が慣れて来ると。頭上に現れたのは壮大な宇宙の絵巻図だった。
「これは…!」
オスカルが息を呑む。これを見せるために、わざわざ人工の光が届かない平原にオスカルを誘ったアンドレですら、声を失った。街で建物の間から見た星空とは、明るさ、豪華さが別物だった。
幻夢のように天空を横切る乳の川。粉々に砕いた宝石をぶちまけたような星々が終わりのない奥行きに向かっての狂乱を繰り広げる夜空。
凍るような冬の空気は限りなく澄み渡り、まるで星屑が雪のように降り注ぐ宇宙空間に吸い込まれて行くような一体感に捕われる。
灯りが一切ないだけでなく、遮蔽物がないので、広大な天の半球の中心ふたりきりでいるようだった。
「何と美しい…」
「真冬に見えるはずのない星空が見えたから、ここまで来てみたんだけど、街で見るのとは…」
「全然違う。素晴らしい」
二人は魂を抜かれたように夜空を眺めた。
一番先に目を引くのが、背後に比較的星が少ないオリオン座である。オリオンの三つ星の下にひときわ青白く輝くおおいぬ座のシリウス、少し左上に上がったところにこいぬ座のプロキオン。
「冬の大三角だ」
オスカルが指さす先をアンドレが追う。オスカルと同じ目線になるために、図らずとも身体を寄せることになったが、天体ショーの素晴らしさに心を奪われたふたりの意識には上がらない。
「オリオンの赤い肩の星の左を見ろ、縦に二つ明るい星がある。双子座のカストルとポルックスだ」
「へえ、あれが」
オリオンの上、天頂に見えるのが牡牛座のアルデバラン、さらに右上の明るい星が御者座のカペラ。オスカルが星を同定し、アンドレがそれを追う。目線が天頂を超え二人はいつしか毛布の上に寝そべった。
視界いっぱいに広がる星、星、星を敷き詰めた夜空。オスカルはいつの間にか星座を追うことを忘れ、我を忘れた。星が、後から後からひとつ、ふたつと流れて消える。澄んだベルの音がそのたびに響くようだ。
「ノエルの大饗宴だ」
アンドレがぽつりと呟いた。オスカルにも聞き覚えのあるフレーズだった。オスカルは頭を持ち上げアンドレを見た。
「誰かにそう教わった気がする。懐かしいような誰かに…。ノエルの頃に奇跡的に空が晴れわたった時だけ見える、って」
アンドレが遠い記憶を掘り起こそうとするように、空を見つめている。オスカルも記憶を辿った。確かに自分も昔聞いたことがある。見たこともあるような気がするが、これほど凄みのある空ではなかった。あれはいつだったか。
「思い出した!」
オスカルがむっくりと起き上がった。アンドレも続いて起き上がる。オスカルは興奮気味にアンドレの腕を掴んだ。
「父上が教えてくれた。あれは、おまえがジャルジェ家にやってくる前の年のノエルだった。プロセインでの戦いが終結して父上が帰宅された夜、秘密の屋根裏から見た空が今夜のように晴れていたんだ。それを父上がノエルの大饗宴と呼ぶのだと教えて下さった」
連鎖的にアンドレの記憶も甦る。ジャルジェ家に行く前のノエルと言えば。
「そうだ、おれも父さんと一緒に同じ空を見た。その時にノエルの夜空が晴れることをノエルの大饗宴と呼ぶことを教わったんだ。父さんとおふくろと過ごした最後のノエルに…」
オスカルがアンドレの腕を抱き寄り添った。アンドレがずり落ちてしまった毛布を拾い、今度はふたりを一緒に包んだ。ひとりより、ふたりで分け合った空間は温かかった。しばらく一緒に身を寄せ合って降り落ちる星を見ていたが、アンドレがぽつんと言葉を発した。
「そのすぐ後に、父さんが大陸に出兵することを知らされたんだっけ」
オスカルがコツンとアンドレの肩に頭を乗せて後を引き継ぐ。
「まだ会わぬ前から、ふたりとも同じ夜に同じ星を見上げて父と…同じことを教わっていたとはな」
「会う前から、気が合うな、おれたち」
陽気に返されて、クスクスと笑い返したオスカルだが、ふたりにはどうにもやり切れない対局的な違いがあることを口に出さずにはいられなかった。
「おまえは父を失い、わたしは父の生還を喜んでいた」
「昔のことだし、誰のせいでもないよ」
誰のせいでもないことはない。将軍だった父は生き残る可能性がより高いし、幼少期から訓練を受けていた。アンドレの父は職人だったのに、より危険な位置で慣れぬ任務を強いられた。その制度を作ったのは誰だ。人を使う側だ。
幼馴染みと自分の間に身分の隔たりを定めた誰かだ。
オスカルが口を噤んでしまったので、アンドレはふたりを包む毛布をぎゅっと引き絞り、俯いた幼馴染みの肩をくいくいと自分の肩で押してみた。彼女は押されるまま黙っている。
「何かひとつ違えば、父を失うのはおまえの方だったかも知れないぞ?」
それに、そんなことになったら、おまえに会えなかったしな~と、独り言を装って呟くアンドレの表情は闇の中だったが、運命の采配を嘆く余地など持ち合わせぬと言いたいのだろう。
「という訳で、おめでとう、オスカル。気持ち的には空を埋め尽くすくらいの花火を上げて祝いたかったが」
と、さっさと話題を変えた。
「ノエルの天体ショーにかなう花火なぞある訳がない。メルシ、アンドレ」
「たまたま天が味方してくれただけだよ、おまえに約束違反で伸されないように」
「たまたまだと?おまえがわたしのために天に特別な予約を入れてくれたのではないのか?」
「あっ、そうですそうですわたくしが!」
天があきれて笑ったのだろうか。一度に二十は数える星が流れて行った。こうして、いつまでも他愛のない会話ができることが嬉しい、一周回って元通りだ。と結論づけた途端、オスカルは激しい違和感に襲われた。アンドレはなおも楽しげに空に向かって話している。
「それでもさ、いつかでっかい花火で祝いたいな」
「掌サイズにしてくれ。救世主と張り合うわけにはいかんからな」
「さっき笑ったのは誰だよ」
違和感が胸の中でみるみる膨れ上がり、オスカルの全身に回った。わたしは、元通りの関係など望んではいない。わたしが欲しいのは…!オスカルの身じろぎを察知したアンドレがすぐさま反応する。
「そろそろ行こうか。さすがに冷えるし、これ以上遅くなると心配をかけてしまう。付き合ってくれて、ありがとな」
すっくと立ち上がり、パンパンと枯れ草を毛布とコートから払うアンドレの首にオスカルはかじりついた。冷え切った頬にくちびるを寄せる。アンドレの手から丸めた毛布がばさっと地面に落ちた。
「おっ?どうした?」
務めて平静を装うアンドレの鼓動が狂ったように早くなった。くちびるが触れたところから熱が広がってゆく。砂糖菓子に触れるようにそっとオスカルの肩に震える手をかけた。抱きしめてしまったら、その先を制御する自信がない。
幼馴染みの挨拶よりは幾分長い間、オスカルの腕はアンドレの首から離れなかった。
「わたしも、ありがとう。約束通り過去最高の贈り物だ」
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王家の宗教行事を警護する任を帯びたジャルジェ家のレヴェイヨン(夜通しの祝宴の意)は簡素に行われる。何事も王家優先、オスカルの誕生祝いの正餐は通常後日にまわされる。
夜通しの飲み食いをよしとする年齢を過ぎた父将軍は、王宮で晩餐に与ったのちはミサから帰宅すると夫人と共に静かに居室で過ごし、オスカルはカジュアルに居室で軽い夕餉をとり、新しい年への息気味などを語り合いながら、アンドレと飲み明かす。
衛兵隊に転属するまでは、多くの使用人が帰省する時期ならではの砕けたノエルの過ごし方が、オスカルの気に入りであった。今年は2年ぶりに幼馴染みとざっくばらんな夜明かしができそうな空気がふたりの間に戻っている。
そう望めば、彼は応えてくれるだろう。そうできたらどんなに幸せだろう。しかし、サン=シル=レコールから帰宅したオスカルは、疲れたから休みたいと早めに部屋に引き取った。早めと言っても帰宅が1時を回っていたのでそれなりの時間だった。
部屋にはオスカルの帰室のタイミングを計ったように、冷えたシャンパンが届けられていた。聖別されたブッシュ・ド・ノエルが暖炉で温かな焔をあげている。
シャンパンを一口飲むと、ミニ紙吹雪の発泡台に使われたのと同じものだとわかった。ふくよかで濃密な果実味のある白で、シャウルスとオレンジが添えられていた。
デュポールによると、オスカルの誕生祝いに使うなら、普通に使用して構わないと許可したにもかかわらず、自分からの祝いだから買い取りたいとアンドレが望んだらしい。オスカルは暖炉前に腰を降ろすと、薄琥珀色の透き通った酒に小さな気泡が生まれては消えてゆく様を眺めた。
もう一口、すっきりした酸味と果実味豊かな香りが喉を通り落ちていく感覚を味わい、グラスを置く。なぜわたしはひとりでいるのだろう。彼に側にいて欲しい。呼べば来てくれることはわかっている。
けれど、それはできない。なぜなら…。
オスカルは両手で顔を覆った。小刻みに肩が震える。
アンドレ。おまえが耐えていたものは、これなのか?近ければ近いほど、胸を突き破る激しさで猛る焔が人の中に存在し得るとは知らなかった。こんなものを抱えたまま、おまえは気の良い幼馴染みでいてくれたのか。
こんなもので身の内を焼かれながら、おまえは求婚者だった男に礼を尽くしたのか。わたしの側で踏みとどまってくれたのか。吐息がかかる距離で、自分とは別の人格を持つような情念を制御してくれたのか。
今ならわかる。
見知らぬ男に豹変したおまえの中で何が起きていたか。本来のおまえが、暴走を始めた激情をねじふせるために、どれほど激しく戦ってくれたのか。
割れたワイングラス。わたしの頬を濡らしたおまえの涙。一旦は制御を振り切ったおまえの暗い熱情に、決して支配を許さず打ち勝ったおまえの深い愛の強さを。
わたしは、認めることが恐ろしかった。認めてしまえば、向き合わなければならぬ。ぐらつき始めた人生の秩序全てに。わたしを形作る、全ての信念体系に、正義の概念に。
わたしを取り巻く世界の成り立ちが、全て崩れ落ちる予感があったから。
しかし、これ以上耳を閉ざすには、身を震撼させる叫び声が大きすぎる。
「愛してい…る…」
オスカルは、両手で顔を覆ったまま言葉を零した。堰は、切れた。
「あ…あ!愛している!愛している!愛している!」
激流のように堰き止められていた想いが流れ出す。身体が丸ごと裏返しになりそうな程、恋慕の嵐がオスカルを飲み込み押し流した。今夜、ふたりで見上げた広大な宇宙の隅々まで満ちて広がりゆく程の想い。
これほどの想いが、身分だとか、名誉だとか、慣習の枠組みの中に秩序よく納められなければならないとするならば、それは人間の尊厳を踏みにじる理に違いない。しかし、そのような作られたられた理によって社会が運行しているのであれば。
この想いは告げられぬ。今はまだ。
オスカル自身と、属する階級との関係を何らかの形で精算しなければ、この想いは彼を窮地に送り込むだろう。彼が、オスカルよりも保身を優先するならば、血反吐を吐いても彼を安全な場所に送り出そう。
しかし、そうはならないだろう。彼が諸手を広げて、いかような逆境でも受け入れることを、オスカルは臓腑の底から知っている。だからこそ、無責任に告げることはできぬ。
与えられた官職への責任、家への責任、家族への愛。これらとどう向き合うか、オスカルが決断を下すまでは。
「ふ…、諦めたつもりの初恋は、ただの小娘の戯言だったとはな…」
オスカルは顔を上げた。滂沱となった涙が頬を洗う。何のことはない。はじめから成就を諦めていた恋など、子供だましの夢物語だ。自分の地位も名誉も王妃の信頼も父の期待も、手放すつもりはさらさらなかったのだ。軍人としてのアイデンティティーの方が大切だったのだ。
それら大切なものと引き換えにできるほど、アンドレを愛している。彼をもぎ取られるならば、残る自分はもはや自分ではないほどに。
アンドレ、おまえもそうなのか。だから、今でもそばにいてくれるのか。わたしと違って、バランスの良い家庭的な男なのに、享受しようと思えば手に入る堅実な幸せを求めもせずに。
おまえを決して玩びはしない。おまえよりも称号と地位と家督が重要なのであれば、これからも決してこの想いは告げぬ。おまえの退路を防ぐこともせぬ。だが、おまえより大切なものがこの世に存在しないのであれば。
「ふっ、ふ、ふ、ふ…」
オスカルは手の甲で涙を拭いながら含み笑いをした。考えるまでもなく、答えは出ているではないか、と。残るは自分の持ち物とどう向き合うのか、これからどう生きたいのか、決着をつけるだけだ。
不要品を手放すように簡単な決断ではない。今まで持てる力の全てを注いで積んだ研鑽の意味合いを変容させるのだ。一朝一夕にいくはずがない。それでも。
もう逃げないと約束する。
この胸の内をおまえに開いて見せられる日まで。
それまでは、おまえが耐えた心を秘匿する試練を耐え抜くことを誓おう。
*婚約者どのに問われて「わからない」などとのたまったオスカルさまが、アンドレへの想いを顕在化させたのがどのタイミングだったのか、原作からは伺い知れません。だから、どこに設定してもありだと思います。この「天使の寄り道」を書いていたら、オスカルさまがアンドレを好きだ好きだと訴え始めてしまいましたので、1788年ノエルに自覚していただくことにしました。これから、6月23日(29日説もありますね)まで約半年間、オスカルさまには、アンドレが味わったと同じような抑制を体験し、のたうちまわっていただくことになりました。生真面目なオスカルさまなので、いくら好きでもいわゆる愛人のポジションをアンドレに与えたくないと思うのです。原作でも、命令違反を通して、自分の社会的な地位よりも、人間の平等な絶対価値を重んずる立場を選んだ瞬間に、アンドレへの想いを口にする資格を自分に与えたのではないかと思うのです。
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COMMENT
番外編が読めるとは!
ありがとうございます♡
出会う前の2人のお話とリンクしているのですね、その巧妙な構成にうっとり。
最高のプレゼントですね。
ふつふつと沸き上がるオスカルさまの
想いが、溢れでた想いが、愛から逃げないと決意した彼女の想いが、言葉はなくとも半身である
アンドレに伝わりますように。
生真面目なオスカルさまにもだもだしますが、それがオスカルさまですものね。
あー6月の告白記念日まで長い(^^;
私は長らく23日説を信じてましたが、
色々な考察を読み29日説に揺らいでます。
少しでも長くラブラブしてほしいのですが(^^;
まあ、でも彼らは精神的には出会ってからずっと愛だったと思うのでよしとします(^^)
ありがとうございます♡
出会う前の2人のお話とリンクしているのですね、その巧妙な構成にうっとり。
最高のプレゼントですね。
ふつふつと沸き上がるオスカルさまの
想いが、溢れでた想いが、愛から逃げないと決意した彼女の想いが、言葉はなくとも半身である
アンドレに伝わりますように。
生真面目なオスカルさまにもだもだしますが、それがオスカルさまですものね。
あー6月の告白記念日まで長い(^^;
私は長らく23日説を信じてましたが、
色々な考察を読み29日説に揺らいでます。
少しでも長くラブラブしてほしいのですが(^^;
まあ、でも彼らは精神的には出会ってからずっと愛だったと思うのでよしとします(^^)
まここさま
明けましておめでとうございます。新年からさっそくお越し下さってありがとうございます!
ふたりの縁が出会う前から繋がっていたところ、どう巡り巡っても交差し続けるようなストーリーにしたかったのですけど、まだまだ修行不足でした。
いわゆる『両片思い』期間、ふたりの間の空気には、非言語のコミュニケーションが自然に飛び交ってしまうと思うのです。だから余計に胸に秘めておくことはきつかったのでは。ふと立ち上る甘い雰囲気をごまかし、むりやり気づかなかった振りをしたり。
>言葉はなくとも半身であるアンドレに伝わりますように
伝わっちゃうよね~。だから、余計に互いに距離とったり、いろいろ涙ぐましい牽制の仕合いがあったのではないでしょうか。
>精神的には出会ってからずっと愛だった
さすがです!それそれ!通常は後から積み重ね育んでいくであろう愛を先に育んでしまったふたりだから、その後で恋人になったらもうどうしようもなく離れられないですよね。
いつもありがとうございます。今年もどうぞ、よろしくお願い致します!
明けましておめでとうございます。新年からさっそくお越し下さってありがとうございます!
ふたりの縁が出会う前から繋がっていたところ、どう巡り巡っても交差し続けるようなストーリーにしたかったのですけど、まだまだ修行不足でした。
いわゆる『両片思い』期間、ふたりの間の空気には、非言語のコミュニケーションが自然に飛び交ってしまうと思うのです。だから余計に胸に秘めておくことはきつかったのでは。ふと立ち上る甘い雰囲気をごまかし、むりやり気づかなかった振りをしたり。
>言葉はなくとも半身であるアンドレに伝わりますように
伝わっちゃうよね~。だから、余計に互いに距離とったり、いろいろ涙ぐましい牽制の仕合いがあったのではないでしょうか。
>精神的には出会ってからずっと愛だった
さすがです!それそれ!通常は後から積み重ね育んでいくであろう愛を先に育んでしまったふたりだから、その後で恋人になったらもうどうしようもなく離れられないですよね。
いつもありがとうございます。今年もどうぞ、よろしくお願い致します!
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