いのち謳うもの5

2018/08/26(日) 原作の隙間1762~1789



執事のデュポールは次期当主とその従者が駆け込むようにして音楽ホールに入って行く様子を目を細めて見送った。照明係があたふたと二人のあとに続く。懐かしい風景の再現だ。

仲良く手を取り合って音楽ホールへ駆け込んだふたりはすっかり成長したいい大人で、照明係も三代ほど代替わりしていたが。

いやいや、昔は勢いよく少年の手を引っ張っていたのはお嬢様の方だった。今回はお嬢様の方が引っ張られていたところが目新しいとデュポールは思い直した。

程なく音楽ホールをライトアップし終えたアナが出て来た。デュポールと目が合うと、『何なのかしら、あれは』と肩をすくめて見せる。

アナはジャルジェ家に勤めて10年ほどだから、少年時代の次期当主とその従者がかつてジャルジェ家で天使のデュオと呼ばれていたことを知らない。

父将軍命じる英才教育の合間をぬって時間をつくると、ふたりは音楽ホールで熱心に聖歌の練習をしたものだ。

負けん気の強いお嬢様が聖歌隊で受ける性差別を蹴散らすために実力を磨かんとムキになっていた訳だが、付き合わされる少年の方は気の毒なくらい振り回されていた。

ところが蓋を開けてみると、彼もなかなかの才能の持ち主で、発声や譜面の読み方の手ほどきを受けるようになると、白紙の状態からめきめきと力をつけた。

もともと歌は好きだったのだろう。あっと言う間にお嬢様と遜色ないほどに歌えるようになった。

ふたりの声質はよく似ていて、ひょっとしたら双子ではないかと勘繰りたくなるほど息が合った。興に乗ったふたりが無心の域に入った時など、調和したふたりの声はその魅力を何倍にも増幅したので、それこそ天上の調べが地上に降りて来たようだった。

ジャルジェ夫人は最初から一番の観客だった。夫人が時々開くサロンの客がある日天使の調べを耳にして魅せられたことをきっかけに、夫人の友人や嫁いだ姉が観客席に座るようになった。

このエンジェリックデュオの容姿がまた絵画から抜け出した天使のように愛くるしかったことも手伝って、それを目当の客も増えた。そんな時はお姉さま方や夫人も一緒に伴奏をつけ、ちょっとしたコンサートになることもあった。

客に見られることあまり好まないお嬢様と、褒められれば素直に嬉しさを顔に出す少年従者のあいだでちょっとした諍いが勃発したことも懐かしく思い出される。

いつしか、使用人も天使の歌声が聞こえ始めると仕事の手を休めて聞き入るようになって来た。そこで、仕事の手を止めない真面目な使用人と、うっとり聞き惚れてしまう使用人の間でちょっとしたトラブルになったものだから、デュポールが執事権限で規則を決めた。

『腰を降ろして聞いてよし。ジャルジェ家に勤務する特権である』

つまり、ジャルジェ夫人とマロン・グラッセを別にすれば、当時一番のファンは執事だったのである。11歳を過ぎた頃からソロポジションを巡ってお嬢様の練習に一層熱が入った。

同時に執事は規則に若干の修正を加えなければならなくなった。『但し、二曲まで』そしてお嬢様にはお願いを申し上げるに至った。

『爺が時間調整のお手伝いを全力で致しますから、時々は夕食前でなく夕食後に練習をなさってくださいませんか?厨房関係の者らからお嬢様のお歌が聞けないと苦情が出ております』   

さて、音楽ホールでは何やら話が弾んでいる様子だった。アンドレがオスカルさまにピアノを弾いて欲しいとねだったのだろうか、珍しい、老執事は訝しんだ。

ピアノの単旋律が何度か聞こえ、音合わせしているような伴奏がついた。デュポールが意識を仕事に再び向けた時、物語を語るようなアンドレの歌声にしっとりと絡まるようなピアノの音色が流れて来た。なんと!デュポールは再び手を止め回想する。

少年アンドレは声変わりをきっかけに聖歌隊を退いた。時を同じくしてオスカルお嬢様も卒業を宣言し、その後一切歌わなくなった。鼻歌さえ聞いたことがない。

一方、発声の基本をしっかり学んだアンドレは、大人の声になってもその声質の良さで、使用人の集まりなどがあると歌手を務めさせられることがあった。しかし、歌を封印したお嬢様の前で歌うことは一度もなかったし、話題にあげることもしなかった。

そのアンドレがオスカルさまの前で歌を?しかもその歌にオスカルさまが伴奏をつけている?これは役得だ。

デュポールは聴きの態勢に入った。二人の共演は十数年ぶりであるにも関わらず、相変わらずぴったりと息が合っている。選んだ歌曲は聖歌とはまったく趣きが違うロマンティックな曲想だった。

良家の子女が歌うにははしたないとされる種類の恋歌だが、聞くからに愛が溢れる音が老執事の胸を締めつけた。つい目頭に涙が浮かぶ。執事がハンカチを探してポケットを探っていると、さらに老人を驚かせる音色が響いた。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


「今日のお仕置きはこれでいいことにするから、どう?」
「な…!」

オスカルの頬が発火した。いきなり上昇した体温で見えないアンドレにもそれがわかる。

こういう比喩的な、特に特定のオトナな領域を取り扱った含みのある会話がすんなりと通じるようになったことは嬉しい反面、今夜は襲わないから安心しろ、というメッセージも伝わってしまったということだ。

男としては残念な展開に自ら導いてしまったけれど、今夜のところはこれでいいのかも知れない。オスカルが肩の力を抜いたのは十中八九安堵のためだ。オスカルのそういう反応に抗する自信はない。

実際のところ、オスカルもそれを望んでくれているという手ごたえはあった。本来ならば自分の方から一押しするべきなのだ。オスカルにその役目を負わせるのは余りにも無体と言うものだろう。

アンドレはわからないようにそっとため息をついた。二度とおまえに触れないという誓いは、毎夜彼女を抱きしめくちづけている今、すでに形骸化したものだ。にもかかわらず、ここまで自分を制御してしまうのは過去の過ちの呪縛から逃れられないせいだ。

自分で自分を許せないのは今や自分の問題でしかないのに、そのせいでオスカルに中途半端な思いをさせている。

お仕置きされるのは俺の方だ。と、言うよりこの状況がお仕置きだよな。アンドレは気を取り直して明るく邪心を振り払った。

「何だか様子が違うなあ、こんなに小さかったかな」

連弾ができる長い椅子に並んで腰かけた感じがやけに窮屈だ。この密着度にハートがきゅんきゅんと大歓迎しているのはよしとしても、ふたり揃ってのびのびと好き放題成長したお蔭で、鍵盤の高さも足の置き場も目測とは大違いだ。

昔は二人並んで座っても、向かい合って喧嘩する時も十分に広々していた。アンドレはごそごそと収まりの良い姿勢を探した。

「で、どうするのだ?歌は大かた忘れたぞ」
「昔は聖歌専門だったから忘れて結構。今夜は神様には目をつぶっていて頂くとして、やはりラブソングでしょう」

恋人は絶句したらしい。喉の奥からグッという音が聞こえた。その隙にアンドレは注意深く鍵盤を探った。見えていないことがばれるような触れ方をしてはいけない。さり気なく黒鍵の位置を中指でかすめ、位置を確認すると最初の音をとった。

「簡単だよ。歌うから一小節ずつ遅れてついて来い」

ピアノの練習は聖歌隊を卒業した時にきっぱりとやめたアンドレは初歩的な技術しか持っていない。

片手で主旋律をつま弾く程度なら何とかなるが、見えなくなってしまった今、衛兵隊で兵士らと楽しんでいた時のようにコードをつけることはもうできない。

胸の奥にこみあげるものを押し殺し、アンドレは最初の数小節を片手でメロディを拾いながら歌って見せた。

僕が恋に落ちる時
それは永遠の恋になる
そうでなければ
恋に落ちはしない
こんな不確かな世界では
恋は始まる前に終わってしまうよ
月明りの下で朝までキスしたって
太陽の光で冷え切ってしまう

「メロディーは美しいが、投げやりな歌詞だな」
「後半の歌詞もまだある。それよりちゃんと歌ってくれよ」

曲はシンプルなバラードだった。アンドレの言う通り一小節遅れてついて行けそうだったが、オスカルは間近で聞くアンドレの声に聞き入ってしまった。

伸びの良いバリトンは程よい甘さと力強さを持っていて、発声の基本ができているせいか、リラックスした余裕のある響きが耳に心地よい。

衛兵隊でちょっとした空き時間に兵士らに付き合ったり、使用人同士の集まりでアンドレが歌を乞われて歌うことがあるとは聞き及んでいたが、オスカルは遠くから距離を置いていた。

兵士の団欒に隊長が紛れ込んでは彼らがリラックスできないし、使用人に関しても同様だ。アンドレと二人でいる時は、歌の話題は禁忌のようなものだった。大人になった彼の歌声を初めて間近で聴き、オスカルは感嘆した。こいつはこんなにいい声をしていたのか。

夢想に入り込んだオスカルをアンドレが引き戻す。
「もう一度、最初から」
「わかった」

アンドレの後について鼻歌程度の声量で歌ってみた。聞くからに女の声だ。これで声量を上げたらどうなるのだろう。アンドレの声が心地よいのでそこに自分の声が入り込むのは聞きたくない気がした。

「何を遠慮しているんだ。おまえらしくもない」
「遠慮などしていない。歌詞に注意が行っていた。成る程、最後まで聞けばラブソングだ。おまえが作ったのか?」
「流行歌だよ。少しアレンジしたけど」

2、3度も繰り返すと短く単純なメロディと歌詞はすぐオスカルの頭に入り、アンドレに乞われて即興で伴奏をつけてやるまでなった。単純な和音が次第に複雑になり分散和音も加えられ、副旋律まで添えた即興伴奏はアンドレを唸らせた。

「やっぱり違うなあ、おまえにかかると。素晴らしい。衛兵隊ではこうはいかないよ」
「そうか。このくらいならお安い御用だ。この次はわたしを呼べ」

この次。オスカルの一言にふたりは言葉に詰まった。再びそんな日が果たして来ることがあるのだろうか。

もし、そのような機会が得られるならば、何を差し出しても惜しくない。何でもない日常の時間がこんなに愛おしいものだとは知らなかった。

下がり始めた気持ちを拾おうとアンドレが切り替える。

「オスカル、伴奏は素晴らしい。でもおまえと一緒に歌いたいんだ、昔みたいに。あれは楽しかった。おまえと一つになったようで嬉しかった。

上手く歌おうとか、音程がどうとか、そういう考えが全部消えておまえと俺の声だけを感じた時、世界中におまえと俺しかいない特別な場所に飛んだような気がした。今でも、あれは魂が重なった瞬間だったと思う。

おまえはもう13歳の傷つきやすかった子供じゃない。大丈夫だ。そのままのおまえの声で一緒に歌ってくれ」


そう促されて、オスカルの気持ちがことりと動いた。歌は聖歌隊を卒業以来、かたくなに拒んで来た。しかし、四半世紀を超える彼との歴史の中で、まだ体験したことのない未知の領域が残っている。

大人になった男女の声を合わせたことは一度もなかった。ならば味わって見たいと好奇心がむくむくと頭をもたげた。

軍職では、遥か昔に勉強した歌唱法とは真逆の使い方で声帯を酷使して久しいが、アンドレの選んだメロディーは流行歌らしく音域狭くシンプルだ。何とかなる。

大人になった彼とわたしが初めて共演する。

「一緒に合わせる?遅れてついて来る?」
「合わせてみよう。歌詞も覚えた」
「よし。懐かしいな」

深みを増したオスカルの即興伴奏で二人は声を合わせた。勘の良いアンドレはハーモニーを加える。昔の記憶が鮮やかに甦り、今の自分たちの姿と重なった。

そうだ、こんな風にふたり肩を並べて聖歌の練習をしたのだ。朝な夕なに何度も何度も。懐かしい。懐かしいが、記憶の声とは何もかもが違った。

聖歌練習を繰り返していた時の少年と少女の声は、やや声質を異にしていても合わせると同じ楽器が奏でる和音として美しく調和した。ふたりの間に何らかの違いがあるなど、思いつきもしなかった。

長い時を経て、再び合わせたふたりの声は木管楽器と弦楽器ほどに異なる声質で響いた。少年時代の記憶が鮮明なだけに、大人として完成した身体が奏でる音が別物のよう変化している当たり前の現象にふたりは新鮮な驚きを覚えた。

日常会話と違い、同じ音階で合わせる歌声は男女の違いをくっきりと際立たせる。オスカルが歌を封印したのはそれが理由だったはずだ。努力がまったく意味を成さない領域。声。

アンドレのバリトンは胸腔内の共鳴が素晴らしく響き、少しハスキーなオスカルのメゾソプラノはベルベットのような上品な艶と豊かな声量があった。そして、文句なしの女声だった。オスカルは自分の女の声に不思議と嫌悪感がないことに驚いた。むしろアンドレの男声とらせん状に絡まりながら違いを楽しめることが嬉しい。自分の女声をあんなに嫌悪した時代が遥か遠くに見える。

離れたり重なり合いを繰り返し、二人の声はあらかじめ神によって対で響かせるためだけに創られたかのように、完璧に共鳴した。

恋歌は静かに余韻を残して終わった。

「わお」

大人になっても素直にシンプルな恋人は思わず称賛の声を上げた。しかも大げさなジェスチャーつきの大絶賛である。

「目眩がするよ、凄く…この先を言ってもいい?」

と、彼がわざわざお伺いを立てる時はほぼ間違いなく碌なことを言わないと分かっていたが、手放しで褒められたことがそばゆくて、オスカルは挑戦的な態度を見せた。

「言ってみろ。わたしはお仕置きを受けている身だからな」
アンドレはオスカルの耳元に唇を寄せ、金髪の一房を持ち上げて囁いた。

「官・能・的」

しん、と一瞬会話が途切れた。アンドレはすぐに身を離し、行儀よく期待を込めて恋人の反応を待つ。ロマンティックに見つめ合うにしてはやや緊張感の高い長めの間が空いた。

「おまえは…」
「はい!」
「お、おまえは本当にあの可愛らしくて純真な目をした小さなアンドレと同じ人物か?わたしの知らないうちに、どこかで入れ替わったなっ!」

手元に武器になるものを見つけられなかった恋人に直接襟首をつかみ上げられて、アンドレは尚も嬉しそうに火に油を注いだ。

「おまえの方は同じオスカルに間違いないな。姿こそゴージャスに育ったが、反応は昔懐かしいおまえのままだ」

一見すると無体な主人が哀れな召使いを折檻する図、しかしその実態は愛し合う恋人達の愛情表現の交歓、がしばし繰り広げられた。

いい年をした大人が非言語的愛情表現を交歓するなら、もう少し他のやり方があるだろうことはともかく、折檻ではなく愛情表現である証拠に、間もなくふたりは再びピアノに向かった。

「もう一度やろう。もっとハーモニーを効かせてみたい。おまえは遠慮しないで声量マックスに上げろ。おまえが20年閉じ込めた歌を解放してやらないとな」
「算数が違うぞ」
「およそあっているだろ?細かいこと言うなって」
「もう一度、もう一度と練習続行を強制するのはわたしの役割だったはずだがな」
「だから、細かいこと言いっこなし」

不承不承は表向き、アンドレが喜ぶ姿が嬉しくて、オスカルは和声楽の規則に合わせて伴奏を膨らまし、前奏もつけた。シンプルなメロディーなので造作ない。

そして、ふたりは再び声を合わせた。

僕が恋に落ちる時
それは永遠の恋になる
そうでなければ
恋に落ちはしない
こんな不確かな世界では
恋は始まる前に終わってしまうよ
月明りの下で朝までキスしたって
太陽の光で冷え切ってしまう

僕が心を捧げるならば
それは全てを捧げること
そうでなければ
心を捧げたりなんかしない

そして君が僕と同じように
感じてくれていることを
感じた時こそ

僕は恋に落ちるんだ



わたしが恋に落ちる時
それは永遠の恋になる
そうでなければ
恋に落ちはしない
こんな不確かな世界では
恋は始まる前に終わってしまう
月明りの下で朝までキスしても
太陽が昇れば冷え切ってしまう

わたしが心を捧げるならば
それは全てを捧げること
そうでなければ
心を捧げたりなんかしない

そして君がわたしと同じように
感じてくれていることを
感じた時こそ

わたしは恋に落ちる


*ちょっぴりベル風意訳
When I fall in love →  
セリーヌ・デイオン/ブライアン・マックナイト盤  英歌詞つき
 
   ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪

余韻が完全に消えるまで、ふたりは無言で待った。恋に落ちた時期は違っても、全ては今ここに繋がっていたのだろう。もう言葉は必要なかった。

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