伝令兵が去った後、オスカルはしばらく暗闇を見つめていた。ついに出動命令が下った。対外戦争に赴くのではない。火器を向ける先は同胞であるはずの同じフランス国民だ。
ならばどちらに銃口を向けるか。すでに一度命令を拒否したこの身。答えは出ているも同然だった。
人間の歴史はそのまま戦史そのものだ。人間がいつの日か対立と争いを克服できるまで、銃前と銃後、人はそのどちら側にも愛する者を持ちながら、どちらか一方に立たねばならない。
有史以来、人はこの辛い選択を脈々と続けて来たのだ。何のことはない。わたしもただ同じことをするだけのこと。それなのに、愛する者に背を向けるとは、何と恐ろしいのだろう。何という悲しみだろう。
志を異にしても、愛することを止めるなどできはしない。教えて欲しい。人はどうやって愛する者を置き去りにする断腸の思いを耐える勇気を掘り起こすのだ?
オスカルは恋人の名を呼んだ。
『地獄の果てまで連れて行け。俺はおまえの影だ』
オスカルが選ぶ側にいる恋人はそう言い切った。けれど彼は知らない。地獄までも連れてゆけと言う男をオスカルは置き去りにするのだ。この世と言う過酷な場所に。
しかし、病に侵されたことを知らせたとしても、彼の決心が変わりはしないことをオスカルは知っている。彼を安全圏に残して行くことは不可能だ。オスカルが安全圏に留まらぬ限りは。
では、絶対的に安全な場所とはどこだ?
地盤から揺れ動くフランスで、今日安全圏と思われた場所がその翌日炎上しないとどうして断言できる?
激動に揺れるフランスに安全な場所があるのだろうか。魂の伴侶のいる場所以上にいるべき場所が。
中庭に面した回廊の手すりに腰を掛け、オスカルはアンドレの腰に腕をしっかりとまわして彼の心臓の音を聞いていた。自分の心臓も彼の胸に預けてしまったように、ふたつの鼓動が次第に共時を始める。
人生が大転換する決断を下す日を明後日に控え、本当は話しておかなければならないことがあるはずなのに、ふたりは言葉を交わす代わりにひとつになった鼓動をただ共有した。
本来なら中隊二個は各中隊長に任せるところだが、噴火直前のパリではデリケートな状況判断と率いる兵士との絶対的な信頼関係が必要なこと。兵士はオスカルの指揮でなければ服従しないだろうこと。
ジャルジェ家には戻れない可能性と、その場合に備えて当面の生活手段を考えておくこと。そして、何よりも命に関わるリスクへの覚悟。何が起きても変わらぬ心。話しておくべきことはいくらでもあった。
ふたりは何一つ口に出さなかった。何をどう論じても、結論は変わらない。命の危険さえ、突き詰めればたった一つの一点に収斂するだけだ。
ふたりでひとつの心臓。ふたりでひとつの命。それが究極の結論であることは口に出して確認するまでもなく、ふたりの魂が知っていた。魂の声に従い、一刻一刻を慈しみ生きる。未来を思い煩う時間はない。
恋人たちが星を眺めるにはもってこいの良く晴れた静かな夜だった。ふたりが黙って風に吹かれている中庭前の回廊は、灯りと戸締り管理係が行き来する通路であり、中央ホールとも直結しているから、誰の目についてもおかしくない。
しかし、いつもなら慎重に人目を避けるアンドレが今夜は何も言わずその場でオスカルに胸を貸している。今という一瞬をただ愛おしむより大切なことが見つからない、とでも言うように。
ヴェルサイユではパリの騒乱は聞こえなくても、確実に市民の怒りの炎が燻っている。眠れぬ夜を耐えている。他人事としてやり過ごすには純粋過ぎる恋人たちが時代の焔に身を差し出す前に、神が許したもうたひと時。この夜。他のことに心を煩わせる方が罪深い。
思いを交わして約半月。幼馴染という関係性が長かっただけに、恋人という新たな顔で見つめ合う時、可愛らしすぎる晴れ着を着たような気恥ずかしさがオスカルにあった。
今ではそんなものはすっかりかなぐり捨てている。むしろ、恋に落ちた人間が時に破滅に向かってひた走る理由がわかる。恋人に一目会うために命を懸ける価値があることも理解できる。
フランス王妃に立場をわきまえた行動をするように進言したことがあった。人を愛することを罪とは思わなかったし、王妃の恋の苦しみは理解しているつもりでいた。
それでもあえて苦言を呈した。個人の苦しみの域を超え、国益のために存在すべきお立場であるからこそ。
今ならわかる。王妃は立場をわきまえていないのではなかった。そうでなければ、フェルゼンと、例えば新大陸に逃げることもできただろう。フェルゼンの力があれば、事故死や誘拐を偽装することも可能だったろう。
王妃が一言、そう言えば彼は動いたはずだ。逃走が失敗して罪に問われても、別離よりは心中を選ぶだけの破壊的なエネルギーが恋にはある。今ならわかる。オスカルもそれを持っている。アンドレのそれも垣間見たことがある。
王妃は役目を全うすることを選ぶ強い意志があったのだ。世継ぎを生み育てることを貫いた。自分が指摘するまでもなく、王妃は自分の立場と役目に忠実であろうとし、それは魂を削るような努力だったのだ。
ただその魂の片割れを愛することはやめられない。今ならわかる。今ならわかる。
恋の持つ計り知れない力は自分にはどう働くのだろう。オスカルはアンドレの腕に顔を埋め、大きく息をついた。わたしは王妃さまのように強く勇気を持った選択ができるだろうか。答えはじきに出るだろう。容赦なく。
明後日。
「オスカル」
アンドレがオスカルに回していた腕を緩めた。
「うん?」
「良い子は寝る時間だ」
千々に乱れる境地はアンドレも同じこと。そんな時こそ彼は軽い言葉を使う。
「わたしが良い子だった覚えがあるか?」
オスカルも彼に倣う。憮然とした声音にわずかに混じる甘いものをアンドレの耳は余さずキャッチした。
「悪い子ならお仕置きだぞ 」
最近咳が気になるオスカルの身をアンドレはことのほか案じている。束の間の恋人の時間を惜しみながらもオスカルを長く引き止めることはしない。
その自制心は時にオスカルをいら立たせるほどだ。今夜もアンドレはオスカルを早めに休ませようとしているのだろう。しかし、アンドレの選んだ言葉の中に、わずかに違う熱が混じっていることにオスカルは気づいていた。
それはもうお仕置きにはなり得ない。毎夜くちづけが深く熱く燃える。唇ではない場所に恋人のくちづけが降りると、全身の肌が泡立つことをオスカルは知っている。
布越しにぴったりと合わせた身体は、触れ合ったところから溶け出すかのごとく熱くなる。その熱いうねりの延長線上にある異空間に身を投じ、彼と一つになってしまいたい。身体も心もそれを望んでいる。
けれど。
その場所では、わたしは私を保てるのだろうか。いっさいの制御を手放した時、用心深く隠し持っていたわたし自身の本当の姿が現れるのではないか。臆病で甘えた幼いただの女を、わたしは直視できるのだろうか。
怖い。
時間が何よりも貴重であるこの時に躊躇する愚をオスカルは恥じた。恋人を見上げると、どことなく焦点が合っていないように見える濡れた黒い瞳が緩んだ眼差しを返して来る。早くしっかりと捕まえてしまわないと、ゆるりとこの腕から抜け落ちてしまそうな恐怖におそわれる。
このまま、朝まで一緒にいて欲しい。たった一言そう言えばいいだけなのに、自分もそれを心から望んでいるのに、言葉に変換するのに必要な勇気と言ったら、今までの人生で要求された勇気の総量をはるかに上まわる。
『お仕置き』に敏感に反応した恋人にアンドレはああ、と納得した。ちょっとした含みを持たせた言い回しで煙に巻くことはもうできないんだな。
このお姫様には通じないことを前提に、自分の恋心を含ませた言葉を投げかけては自爆する、少々自虐的な感慨を味わう時期は過ぎ去ったんだ。
そして、黙ってしまった恋人に心のなかで小さく詫びた。ごめんよ、怖がらせるつもりも脅すつもりもなかったんだ。まさか、通じるとはね。それだけでも十分嬉しいよ。
アンドレは恋人の手を取った。
「行こうか」
どこへ?恋人の表情は見えなくても、オスカルの手先から感情が流れ込んで来る。大丈夫、寝室にご案内ではないよ。と恋人の手を柔らかく握りなおして伝えると、わかった、と少し間をおいた握り返しが返って来た。
そのほんのわずかの間が、オスカルの心の揺れを教えてくれる。アンドレは手を繋いだまま回廊を回り、メインホールに続く音楽室にオスカルを導くべく歩を進めた。
途中で照明係のアナに声をかけ、音楽室にライトアップを頼んだ。デュポール爺もホールで時計の調節をしていたので挨拶した。
回廊の手すりにふたりで腰をかけているところを何人の使用人が目にしただろう。公の場であからさまに抱きしめ合ったりくちづけを交わしているわけではなくても、主従とは違う距離感は明らかだったはず。
開き直ったと解釈されても仕方ないよな、と危機感が無いわけではなかったが、今夜はどうしても取り繕う気になれないアンドレはオスカルの手をさらに引いた。
視覚情報が限られていることから余計に視線や気配に敏感になっているアンドレに使用人仲間の変化は感じ取られない。
普通に日常の風景の一こまと自然に受け止められているような感覚しかない。もともとこういう二人だったし。そう解釈してしまおう。
「音楽室に行こう。早く!」
何だか懐かしい。昔はこんな風に四六時中一緒につるんで遊んで、手は・・・引いたのではなく引っぱられる専門だったけれど。
周囲がよく見えないアンドレの視界は、彼の記憶に置き換えられてゆく。オスカルの手を引いて小走りになると、まだ剣だこのない柔らかで小さかった頃の彼女の手を握っているような気がした。
「音楽室?」
「うん、お仕置きだ」
「何だって?」
「いいから!」
ふたりは駆け込むようにして音楽室に入り、アンドレに促されてオスカルも一緒にフォルテピアノの前に並んで座った。後から慌てて灯りを持ったアナが追いつき、壁燭台に灯りを灯して回った後、ピアノの上にも燭台を置いてくれた。
灯りが点る前に正確にオスカルをピアノ前に導いたアンドレにオスカルはふと違和感を覚えたが、じきに子供に戻ったようなアンドレの笑顔に引き込まれてしまった。
「覚えてる?」
オスカルの左側に座ったアンドレがピアノの蓋を開け、オスカルを振り返る。もちろん覚えていた。
11歳から12歳まで毎日夕食前にここで聖歌を練習した。聖歌隊でソロに選抜されるために。見事ソロに選抜されたアンドレの特訓のために。
思春期の甘酸っぱい涙をここで流したことも、大人になるために身をよじりながら子供時代を脱ぎ捨てたことも。
絶対的な性差を知った。現実を受け入れる困難さをここで味わった。いつも無条件で味方をしてくれる大親友のアンドレはその時最大の敵でもあった。
切なさときらきら輝く希望はいつも背中合わせでそこら中に満ち溢れていた。大人になる前の、ほろ苦い青春時代を彼とぴったり重ね合わせて共有したのだった。
「覚えている。ひとつ残らず」
ポーン、とオスカルは指先で鍵盤をひとつ叩いた。近衛に入隊してからはクラブサンよりもバイオリンに傾倒し、腕を磨いた。ビオラやコントラバスも好きだったので多少手掛けた。
音楽は、オスカルにとってこんがらがった心の結び目を解く妙薬だったが、たった一つ、何重にも鎖をかけて封印した楽器があった。
「何年・・・いや何十年ぶり?かな?歌ってみないか?」
「ふふ、何十年はないだろう」
恋人は、今夜その封印を解けと言う。
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