いのち謳うもの3

2018/08/26(日) 原作の隙間1762~1789



「早いな、オスカル」

アンドレがゆっくりと振り向いた。朝日を背に受けた長身のシルエットがくっきりと濃く浮かび上がる。雨上がりの透明な逆光が彼のゆれる髪を貫いてはじけた。

ジャルジェ家の馬車止めで二頭の馬にくつわを装着させていたアンドレは作業の手を止めると、歩み寄るオスカルに少年のように人懐っこく笑った。この世に彼女がいることが極上の喜びであると言わんばかりの笑み。

何かに似ている、とオスカルは思った。何かとても清々しくて新しいものに。

この世に変わらないものがあるとすれば、オスカルにとってそれは彼だった。いつも、いつも彼は彼女の傍らにいて、微笑んでいてくれた。けれど、これほど輝いた彼の笑顔を見たことがあったろうか。オスカルは新しい彼を毎日発見する。

そうだ、アラン以下十二名の兵士がアベイ牢獄から釈放された朝、切れた雲間から力強く差し込んだ陽光に似ているんだ。雨に洗い流された後の限りなく透明に澄んだ光。ただ真っ直ぐ地上を照らす。真っ直ぐな彼の想い。

こんな風に彼を輝かせるのは私なのだと思うと、オスカルの胸に歓喜が満ち溢れる。同時に引き裂かれんばかりの悲嘆に襲われる。

一度は与えておきながら、彼からそれを引きちぎるのも、私だ。もう二度と、二度と再び彼を傷つけはしまい、と誓ったのもつかの間。昨夜見た喀血はその誓いを守ることが不可能であることをオスカルに黙示した。

御者のシャルルと門番のジャン・ピエールが馬車の座面の埃を叩き、車軸のスプリングを点検している。アンドレは甘える馬の鼻づらに肩を押しまくられ笑い声を上げた。

オスカルの胸が絞めつけられる。耳に心地良い明るい声。いつまでも聞いていたい。けれど、彼の笑い声が凍りつく日が遠くない未来にやってくるのだ。わたしのせいで。

「おはようごさいます、オスカルさま、早朝のお散歩ですか」
地面に屈みこんでいたジャン・ピエールが油に汚れた髭面をあげて不ぞろいな歯を見せて笑った。

「ああ、おはよう。このごろ朝が待ち遠しくなった」
毎朝一刻も早く逢いたい人がいる。けれど、夜は次の一日が始まらなければいいと、願わくば一刻でも時がゆっくり進めばいいと、祈る。

結末を知りたくてうずうずしているくせに、物語が終わりに近づくことが悲しくて、本のページをめくる指を躊躇させる子供のように、オスカルは朝を迎えるようになった。

「ようやくいい季節になりましたからね。今年の長雨は酷うござんした」
ジャン・ピエールが目じりに皺を寄せて空を仰ぎ見つつ額の汗を拭った。

空気はクリスタルよりも透明で空の蒼は手が届きそうに近い。
「うん、美しい朝だ」

しめった土、つゆに濡れた夏草、瑞々しい薔薇の香り、木漏れ日踊る歩道、涼風になびく馬の尾。何もかも生まれ変わったように、この夏は美しく輝いている。

恋人と迎える新しい季節が放つきらめきだろうか。それとも最後の日々を飾る彩りか。あるいは、両方。

先へ、先へと急ぎ生きてきた。春が過ぎれば盛夏の予感に胸を熱くした。明日は今日より遠くへ飛翔するためにあった。

しかしこの朝、オスカルは生まれて初めて過ぎ行く季節を惜しんだ。流れて行く朝と昼と夜。恋人の呼気一つ一つさえ、愛しくて切ない。

「朝食のテーブルに薔薇を切って届けるよ、リクエストは?」
ポケットに忍ばせて来たミントキャンデイで馬のご機嫌とりに成功したアンドレは作業を終え、オスカルのもとへやって来た。

高鳴る胸をなだめつつ、オスカルはゆったりと笑みを返す。
「そうだな、うす紅色のセンティフォーリアなど、どうだ?」
「ええっ?」

オスカルらしからぬ少女趣味な選択にアンドレはよろよろとおどけて見せた。彼以上に自分でも驚いたオスカルは照れ隠しに拳骨で彼の胸を一発突いた。

シャツ一枚の彼の胸が大きく波打ち、ぬくもりがふわりと手を包む。愛しい感触を忘れすに掌に写し取ろうと、オスカルは拳をきつく握り締めた。


   ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ 


諦めることは得意な方だ。だから、今度もうまくやれるはず。最初に目が霞んだ時から、ゆっくりゆっくりと少しずつ希望を手放してきたから心の準備はできている。自分を見失うほど悲嘆に暮れないですむはずだ。大丈夫、平静を保てるとも。

光のない世界に備える時間を与えられたのはせめてもの神の配慮だろうか。緩やかな坂道を降りるようにすこしずつ光を失って来たから、準備を周到に重ねることができた。

だから、うす紅色の薔薇が植わっている場所にだって迷わず行き着いた。多少余計な引っ掻き傷を負うくらい、どうということはない。

耐えられないのは見えないことでではなく、彼女が最も危険な場所にいる時、傍にいられないことだ。除隊させられるわけにはいかない。

肉眼で見る彼女の姿を永遠に失うことを悲しんでいるヒマはない。だから、うまくやれる。やらなくては。準備怠りなく。
ああ、でも。


    ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
                        

「おまえらしくない指だ」
無数の細かい傷が走るアンドレの指をオスカルは一本一本愛撫していた。そして、今朝方薔薇で引っ掻いたらしい一番新しい傷に唇を寄せる。

「いつからこんな粗忽者になったのだ?日に日に傷が増える」
「大昔」

アンドレはオスカルのくちびるの上で中指と環指を静かにすべらせ、柔らかな唇の輪郭を壊さぬよう二本指の甲で大切にたどった。オスカルの頬がその動きを追うようにして押し付けられる。

指先にこれほど鋭敏な感覚があるとは知らなかった。ワイングラスをテーブルに置く。グラスから響く振動で深紅の酒に広がる波紋がわかる。そのかすかなさざなみの数さえ言い当てられるような気がする。

彼の指の甲で触れているオスカルのくちびるがわななきを必死で抑制しようとしているさまも。軽く折り曲げた環指が思わず息を呑んだオスカルのくちびるの間に僅かに入り込む。

吐息の熱さに眩暈がする。肉感的に震えるオスカルの口唇は視覚よりも、真に迫る。指から流れ込む熱い衝撃は彼の脳髄で官能の火花を散らした。

アンドレは胸いっぱいに空気取り込んで、呼気とともに身体の奥から突き上げる熱を体外に逃がそうと、長く長く息を吐いた。呼応するようオスカルも大きく胸を上下させる。

衣服越しに胸を合わせると、薄い絹のドレープでV字に切り取られた彼女の胸がしっとりと汗ばんでいることや、鎖骨が落とす影と魅惑的な中央の谷が、彼女の呼吸に合わせて動くさまが直接アンドレの意識に映し出される。

月光を受けて鈍い光沢を放つ金糸の束が風にそよいでいる様も、肉眼で見ていると錯覚してしまいそうなほどに鮮やかに見える。

アンドレはオスカルに触れていた手の甲を裏返して掌で彼女の頬を包んだ。指の腹側はさらに感覚がするどくなる。右の親指で綺麗に弓を描く長いまつ毛の先端をそっとなぞった。オスカルが問いかけるようにまばたきをする。


「ずっと前から触れてみたかった。琴の音がするかと思って」
「莫迦」
「恋する男には聞こえるんだ」
「どんな音だ」
「秘密」

眉を指で辿ると、抗議のしるしにきっと吊り上がっていた。眼窩の形を確かめて、すっきりと伸びた鼻梁をすべり降りて、形の良い頬骨に触れてから再びくちびるを愛撫したかった。

しかし、見えないことを悟られそうな触れ方をするわけにはいかない。

彼が彼女の面差しを確かめるには、見るどころか触れる必要すらなかったが、『必要』が何だというのだ。いつまでも見つめていたい。どんな方法でも。気が狂いそうなほどの渇望。

アンドレはオスカルの目蓋を食むように羽が触れる程度にくちづけた。右に左、交互に何度も。オスカルが声にならない嗚咽をもらし、アンドレの両腕にしがみついて背を弓なりに反らせる。

体の反応は雄弁だ。彼女が少しずつとまどいを官能という未知の感覚に置き換える準備をしている。急かそうとは思わないが、触れていると彼女が彼のために精一杯急いでいるのがわかる。

そんな彼女がいじらしくて、己の欲望などいくらでも押し殺してやろうとアンドレは思う。それよりも気がかりなことがあった。昨日のこと、らしからぬ脅えた様子でオスカルがアンドレの胸に飛び込んで来た時以来、何かが変わった。彼女が急ぐ理由と関係があるのだろうか。

「アンドレ」

空気の層を一枚間に挟んだようなアンドレのくちづけに焦れたか、経験したことのない感覚にやるせなくなったか、オスカルがアンドレの首に両腕をまわして強く頬を押し当てて来た。アンドレもオスカルの顔から手を離して彼女の背に腕をまわす。

オスカルは腕に力をこめてアンドレを抱きしめた。渾身の力というほどではない。けれどアンドレは感じる。あの日以来、オスカルがこれが今生最後の抱擁とばかりにアンドレを抱くことを。

別々の肉体で生きていることが不条理だと言わんばかりに。触れ合った皮膚を離す時の名残惜しげなため息は、まるで別れを告げられているようで、身を引き裂かれる思がした。

「愛している、オスカル」
包み込むように恋人を抱きしめ、アンドレは二人して寄りかかっていたオスカルの部屋のバルコニーからはためくモスリンのカーテンを抜けて部屋に入った。

抑制が効くように、鍵のかかった屋内で抱き合うことはなるべく避けていたが、部屋に踏み込むないなや、優しく重ねていたくちびるの堰が切れた。どちらからともなく、長椅子に崩れ落ちる。アンドレはかろうじて彼女の下に身を滑り込ませた。


    ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


恋人のやさしい指が波打つ髪をなだめるようになでている。こうして身を寄せ合っていると、身に巣食う病など遠く離れた別世界の出来事のように思えてくる。

しかし、短い逢瀬が終り、身を離す瞬間、オスカルは近くおとずれる別れに思い至らずにはいられない。

「何が不安だ、オスカル」
「おまえなしで生きることを時々想像する。すると、息ができなくなる」
「何を莫迦なことを」
恋人の手が止まった。両手で頬を包まれ、互いのくちびるがふれるところまで近づく。

「俺はおまえのものだよ。ずっと昔からお前だけのものだった」

オスカルは返事の代わりに彼の首を引き寄せてくちびるを与えた。嬉しい。でも辛いのだ。おまえは私を失ったらどうする?一人で生きていけるのか?私には・・・できない。

今のうちにおまえを手放すべきだろうか。戦時によくある乱心、一時の気の迷いだったのだ。お前を愛してなどいない、これ以上私がおまえを傷つけるまえに何処へでも行け。

そう突き放された方が傷は浅いか?しばらくののち、私の大切なその笑顔を取り戻して生きていけるか?

だめだ、アンドレ。
許してくれ。
私はお前を手放せない。
私はお前から奪うばかり。

「オスカル?」
終わることを知らぬごとく深いくちづけを繰り返すオスカルをアンドレが引き離した。アンドレの抑制の手綱は限界まで張り詰められ、頭の中で警報が鳴り響いている。

「おまえとひとつになれたら・・・いいのに」
オスカルが不満気に、がつん、とアンドレの後頭部を豪打する一言を耳元で放った。

並の男ならここで女の膝裏をすくい上げ、寝台に直行するところだ。並々ならぬ年月を重ねた男、アンドレは悲しいかな正確にオスカルの真意を受け取った。

「どうして、ひとつじゃないと思う?」
胸郭が破れそうなほど早鐘を打つ心臓をなだめつつ、禁欲で死んだものはいないと呪文のように『男』をいさめ、アンドレは恋人を膝の上に抱き上げた。

オスカルは虚をつかれたような様子でのろのろと彼の肩に腕をまわし、頭を預け、考えてもみなかったと、ぼそっとつぶやいた。

「うん、確かに頭も手足も何でもそれぞれ二セット、別々に持っているけれど」
本当は持っていないセットもあるのだが、とりあえずは禁句である。
「でも、見えないものはどうだ?おまえと共有していると思っているのは俺だけ?」

オスカルがアンドレの肩の上で小さく頭を横にふる。
「おまえの声は何度も心で聞こえた。おまえが何を考えているのか、自分のことのようにわかる瞬間がある。初めて会ったとき・・・」

アンドレの口調が悪戯っぽくなったところでオスカルが顔を上げた。
「俺は多分命乞いの代償におまえに魂を売り渡したんだ、あわわ」

オスカルがアンドレの両頬を指でつまんでぐいと引っ張った。
「ほう、魂まで私のものとな?」

「はひ」
「そうだ、だから私は・・・」

オスカルが何かの考えに取り付かれたように手を止めた。
「ほへ?」

考え込む前に手を放してください、マ・シェリ。痛いです。
「ははや?」
「ふふふ、秘密だ」

ふっとオスカルが軽やかに切り替わったのがわかった。良かった、アンドレはひとまず安堵する。

何かがオスカルを苛んでいることは確かだが、それに潰されてしまう彼女ではない。それより自分のほっぺたが潰されそうだったので、アンドレは脱出を図った。

「痛かったぞ、何をする」
「おまえをつねったら、私も同じように痛いかどうか、実験してみた」
「そりゃ痛かったろ」
「痛かったとも」

オスカルは笑ってアンドレの頭を抱いた。痛かったのは頬ではない。

指摘されるまで思いつかなかったが、彼への気持ちに気づいたきっかけは、彼の痛みを自分の痛みとして感じている自分を見つけたことだった。それに。

「秘密を知りたいか」
「タダなら」
「不景気なことを言う」
「売り渡すものがもうないんだ」
「おまえのキス一生分」
「売った」

キス以上に売り渡したいものもあるのだが、まあとりあえずはご所望のものを。アンドレは明るさを取り戻したオスカルにキスを進呈する。くちびるをあわせたまま、オスカルは囁いた。

「おまえが幸せでないと、私も幸せになれない。おまえが幸せなら・・・そういうことだ」

婚約者になろうとしていた男にかつてそう語った。意識にはっきり上ったのはその時だったが、思い起こせば二人の幸不幸は子供の頃から分かちがたくリンクしていた。

「ずっとひとつだったのだな、私たちは」

アンドレはだらしないほど破顔してオスカルを抱きしめた。
「なんて激しい愛の告白だ、オスカル!」

恋人は無邪気に喜んで鼻づらを首筋に突っ込んで来た。一方のオスカルは固まった。あれは愛の告白だった?今振り返れば確かにそうだ。

つまり私は、当の本人よりも先に、違う男に告白していたのか。『違う男』にしても、そう受け止めたに違いない。だから静かに去ってくれたのだ。

何てことだ!どうしてこの男は次から次へと私が見落としていた恥ずかしい視点を掘り起こすのだ。

硬直したオスカルをいぶかしげにアンドレが軽く揺さぶる。

「何だよ」
「な、何でもない」
「いや、おまえは今非常に後ろめたい気分でいる、俺にはわかる。何せ・・・」
「うるさいうるさいっ」
「二人はひとつ・・・」
「だから、知らぬほうが幸せなこともあるだろう!おまえの幸せは私の幸せ。だから追求するな!」

完璧にらしさを取り戻したオスカルであった。

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