いのち謳うもの2

2018/08/26(日) 原作の隙間1762~1789


アンドレは、その日の仕事を終えた夜、彼の指定席になったオスカルの居間の窓辺に寄りかかって彼女のバイオリン演奏を聞くのを楽しみにしていた。楽しい時、充実感に満ち溢れるとき、オスカルは喜びを旋律に乗せ、共に育った幼馴染と分かち合ってくれた。

オスカルは、幼馴染の彼に得意のバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを聞かせるのが好きだ。興が乗れば、アレグロの主題だけをダイジェストに取り出して、高速スタッカートを寸分の狂いなく炸裂疾走させる芸当もやってのける。

そして、額の汗を拭うと邪道だったな、と悪戯っぽく口角を片方上げて見せる。邪道かどうかはともかく、彼女の遊び心が躍動するさまはアンドレをも高揚させた。

流すことのできない涙で抱えきれなくなった心をオスカルが弦に乗せるときもあった。そんな夜、彼女は共に育った幼馴染だけは傍にいてくれることを望んだ。何があったかなど話さない。彼も聞かない。ただ胸の奥深いところで波立つ振動を旋律に変え、彼に聞いていてもらうと、いつかは心凪ぎ、明日を迎える力が甦るのだった。

その夜。
壁を隔てても空気が震えるのが見えるような気がした。心臓を切り裂かないのが不思議なくらい鋭利に研ぎ澄まされた音が、カーテン越しに屋内で泣いているのが聞こえる。アンドレは外壁に寄りかかり夜露につま先を濡らし夜空を仰いだ。オスカルの居間のバルコニー下、晩秋の夜気がきっちり巻いたクラバットの隙間から忍び込む。

オスカルは気に入りのモーツアルトを今夜も奏でていた。珍しく短調のソナタだ。部屋を訪ねれば、いつものように挨拶も無しに招き入れてくれるに違いない。

しかし、この頃主人で親友でもある彼女の部屋のドアを叩けない日が増えている。今夜のように、彼女が自分の代わりに楽器を泣かせる夜、アンドレは自分を抑える自信がない。黙って傍で聞いていて欲しいと、彼女が望んでいるのを知っていても。

アンドレは、ふと気がつくと、白い息を吐きながらオスカルの奏でる物悲しいメロディを一緒に小さく口ずさんでいた。次第にやるせなさが旋律に重なってくる。そうしていると、狂気じみた男の熱情を何とか制御できそうな気がした。

ふと気づくと、凍てつく濃紺の夜空に星がひとつ流れていった。人は何故歌いたくなるのだろう。楽しい時自然に口をついて出る鼻歌もあれば、ろうろうと歌い上げる喜びもある。置き所のない恋情に身を切られる時も人は歌う。裏切りも、絶望も、死すら人は歌にする。

オスカルは決して歌わない。オスカルの聖歌隊での経歴を伝え聞いた王妃が是非聞かせて欲しいと哀願したときでさえ、困ったように微笑して固辞した。彼女は歌う代わりに愛器に心情を代弁させる。封印は固く凍りついたまま。

ポケットに手を入れると、冷たい金属と石がじゃら、と音を立てた。ランブイエ公爵夫人のルビーのネックレスに揃いのイヤリング、プレヴェール伯爵の金時計。

アンドレはもう幾小節か、オスカルの音色に声を合わせる。短調のソナタが、ゆったりと愛らしい長調に変わった。今度は出鱈目に茶化した歌詞をつけて歌ってみる。盗人の哀愁と悲喜劇の物語・・・なんちゃって。

そろそろ大丈夫そうな気がしてきた。アンドレは能天気でどんくさい幼馴染の顔をつくる。盗みの才能を開花した幼馴染が収穫した今夜の獲物を披露してやりに、彼女の部屋を訪ねよう。ハートを盗まれっぱなしの盗人は、黒いマントを翻した。


   ♬ ♬ ♬ ♬ ♬ ♬ ♬ ♬ ♬ ♬ ♬
                     


強烈な香水とおしろいと髪粉の匂いに長年鍛えられたせいだろうか。むんむんと汗臭い男達の匂いに耐えれれるのは収穫だった、と思いながら、オスカルはそっと建てつけの悪い食堂娯楽室の扉を押し開いた。

兵営の娯楽室にオスカルが顔を見せるなど誰も思いもよらなかったので、ドア近くの傾いだ丸テーブルでカード遊びをしていた二名の兵士が隊長の来訪に目を丸くした以外は、誰もオスカルの入室に気づかなかった。

オスカルは恐縮して立ち上がろうとする二人の兵士を手で制し、ただ寄っただけだから気遣うなと目配せする。そして、汗と人いきれでむせ返りそうな男の巣窟の片隅にもたれかかって、探し人を目で追った。

彼は歌っていた。
娯楽室の片隅に置かれたフォルテピアノに二十数人ばかりの兵が群がり、その中央で楽器に向かっているのはアンドレだった。髭のそり方をママンに教えてもらったらどうだと言いたくなるほど若い兵にあれこれせがまれて苦笑している。

兵士達は、「おお愛しのフローネ」がいいだとか、「薔薇と赤いシュミーズ」だとか、男が鼻の下を延ばすためのシャンソンとわかる曲名を口々に並べ立てていた。こうだったかな、とアンドレがメロディーを爪弾くと、誰かが無断で持ち出した行進用太鼓を競って打ち鳴らすものだから、喧いこと甚だしかった。

「よく素面でこうも浮かれ騒げるものだな」
つい口に出た正直な感想に、後から追いつたダグー大佐が解説する。
「地方から出てきた兵士らは、家族にそっくり給料を仕送っています。休暇に帰郷する金はなし、町に繰り出す余裕もなし、それでも若さでしょうね。木切れの一本でもあれば何かゲームを考え出して楽しもうとする。ピアノはなかなかいいプレゼントでしたよ、隊長」

娯楽室にピアノを置いてやったら兵士達の気晴らしになるかも知れない、と提案してくれたのはアンドレだった。言い出しっぺの責任でもないだろうが、彼が時折若い兵士に付き合っていることをオスカルは知っていたが、直接目にするのは初めてだった。

見ていれば、アンドレは単純な和音とアルペジオを合わせて、流行歌をせがまれるままにつっかえながら弾き語りしていた。オスカルにも聞き覚えのあるメロディも幾つかあった。

そこへ艶っぽい歌詞に浮かれた兵士の合唱がでたらめに追いかける。磨けば光りそうな期待の持てる声あり、救いようもなく外れたバンカラ声ありで、よほど耳を澄ませてもアンドレの声は切れ切れにしか聞こえなかった。

素面の兵士達は歌に酔っていた。リズムと旋律と艶っぽい詩にノリまくる若者の表情が純粋に楽しんでいるのを見れば、歌を楽しむのに芸術性など必ずしも必要ないのだろう。ただ、オスカルには彼らが楽しんでいるだけにも見えなかった。

何か、酔うものがなければやりきれない切なさが、笑いのそこここに隠れているように思える。故郷に帰るあては?家族に、恋人に最期に会ったのは?何を諦めて、何を切り捨ててここにいる?明日には何の希望を持っている?

本当は足りないものだらけなのだろう。だからこそ、笑い、歌い、踊る。笑いと涙の境界の何と曖昧なことよ。一節のメロディは、千の言葉より心を映す。

それぞれとんちんかんな記憶のまま、兵士達がてんでに歌うものだから段々収取がつかなくなってきた。俺が正しい、いや俺が知っている歌詞のほうが本式だ、とどうでもいい議論に発展した。業を煮やしたアンドレが一時手を止める。

「よし、それじゃいっそ、衛兵隊バージョンに変えちまおう」
アンドレが流行りの「娘っこより素敵なものはない」の主題を弾く。兵士のざわめきが一瞬静かになると、彼は最初の一小節分の詩を創作しつつ歌った。

「花の都と誘われて、はるばる故郷を旅立てば、たどり着いたは男臭い衛兵隊、どっちを向いても髭面ばかり。素晴らしきかな、軍生活。・・・・こんなとこかな?」
わあ~っと歓声と笑い声があがり、拍手が上がった。

ここ数日のアンドレの様子が心配で、従者の任を離れた彼の表情を覗きに来たオスカルだった。若い兵士と戯れるアンドレはことのほか明るかった。その明るさが逆に不安を呼ぶ。すぐに立ち去るつもりだったが、オスカルはその場にくぎ付けになった。

長身のわりにはテノールに近いアンドレの歌声が、この劣悪な音響環境の中ですら深く美しく響くのに胸が高鳴った。成人した彼がちゃんと歌うのをオスカルは聞いたことがない。

自分付き侍女から、アンドレがなかなかの歌手で、馬を相手に歌っているからジャルジェ家の馬は彼のいうことをよく聞くとか、使用人同士の集まりでは歌手に任命されているなどと聞いていたが、二人の間で話題になることは滅多になかった。オスカルが歌を封印して以来、二人の間では触れられない領域だった。

アンドレはオスカルに気づく様子もなく、先を続ける。アンドレが歌うと、兵士が入れ替わり立ち代り合いの手を入れる図式が自然と出来上がった。


美しきパリ、かぐわしきセーヌ、もっとかぐわしい兵舎
なんて素敵だ衛兵隊
彼女から届く手紙は香水つき
ホントは読めないけど匂いでくらくらできる
三度の食事は舌がとろける、喉が鳴る
塩でもかけなきゃたまんない
カードに賭け事し放題
勝ち金負け金ツケ放題
寂しい時に顔を埋めるおっぱいもある
厨房のおばちゃん、六十だけど

                  
どっと笑いが沸き起こり、兵士達が口笛を吹き鳴らす。他のテーブルでくだを巻いていた兵士達も集まり、賑やかさが倍増した。

俺達にゃなんにも不足がない、ここの暮らしは天国だ
たった一つを除けばね
見ろよ世の中美しいもので溢れてる、人生よかくあらん
世界がどんなに美しくたって
色も形も手触りも匂いも味もあれほどぐっと来るもの他にない
一体何が足りないんだ
決まってるぜい!なあ、兄弟

娯楽室に集まった兵士全員から声が上がった。

        娘っこほど素敵なものはない!

再び大爆笑。オスカルもつい唇をほころばせた。
ここ数日、何かを突き抜けたように気負いがなくなった彼は別人のようだった。毎夜訪問してくる求婚者に対して形ばかりの冷たい慇懃な態度はなりをひそめ、心から礼を尽くしている。

無理に用事を言いつけなくも、昔のように自然に傍にいてくれるようになったし、笑顔も見せてくれる。少し前までアンドレから垣間見える悲嘆があまりにも痛々しかっただけに、これを良い兆候と素直に喜んでいいのか、オスカルは計りかねていた。

縁起でもないことを決心したゆえの明るさだったらどうしたら良いのだろう。アンドレが不審な行動に出た夜を境に変化が起きたことが、オスカルをことのほか不安に駆り立てた。

しかし、兵士と一緒に少年のように戯れるアンドレは、やはり自然体で、昔からオスカルが知るユーモア溢れる彼にしか見えない。



世界中どこを探したって
娘っこほどイカスものはない
娘っこみたいに
いい匂いがするものはない
娘っこみたいに
ひっぱたいてくれるものはない
娘っこみたいに
拗ねる生き物はない
娘っこみたいに
強烈な引力はない
娘っこみたいに
噛み付くものはない
娘っこみたいに
天までぶっ飛ばしてくれるものはない

そう、娘っこみたいに綺麗で柔らかくて
くらくらして、危ないものはない
だのに何て不足だ、欠乏だ
俺達にゃ、むすめっこがいない!

だから俺達みな病気、イカレ野郎のこんこんちき
ああ、せめてつける薬があったなら 
あるともあるともとびきりが、
俺達癒せる唯一の薬
気をつけろ、良薬は口に苦く
紙一重で猛毒!中毒!
だから言ったろ

娘っこほど素敵なものはない!

           
注)オスカー&ハマースタインの古典ミュージカル『南太平洋』からのナンバー
  There is nothing like a dame からインスパイヤされた詩です。オリジナルとは大分衛兵隊仕様に替えてあります。
  
 *オリジナルでは、やんちゃな海兵隊員が女の子が足りない~と歌います。これを衛兵隊の皆さんにも是非歌って欲しかったのです。良かったらしたのリンクよりご覧ください。


   ←There's nothing like a dame 「映画 南太平洋より」

娯楽室にいる兵士全員が最後のフレーズをシャウトし大爆笑が沸き起こった。
アンドレも一緒になって腹を抱えている。本物の笑顔だった。アンドレは…きっと大丈夫だ。確証がすとんとオスカルの胸に落ち着き、鼻の奥がじんと熱くなった。


    ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ 

「あれ?早いな、もう戻っていたのか」
休憩時間を終え、司令官室に茶器のセット片手に戻って来たアンドレは、執務室ですでに上申書作成を始めているオスカルを認め、目を丸くした。オスカルが手元の書類から顔をあげ、気にするなと指先の仕草で合図を送ると、アンドレは了解、とばかりに口元で微笑んだ。

そして茶器のトレイをサイドテーブルに置き、香ばしく煎れたカフェをカップに注ぐ。流れるような手つきは静かな舞踊のようだ。オスカルの執務机の定位置に音もなく茶器を置いた彼は、今月購入した武器の伝票と帳簿をつき合わせ始めた。

オスカルは、アンドレが一連の手馴れた作業をしながら、聞こえるか聞こえないほどの鼻歌を口ずさんでいるのに気がついた。オスカル以外の人間が見ればポーカーフェイスに見える小憎らしく整った横顔をほんのりと覆っているのは、笑みだ。

恐いほどの険しさを纏っている時の彼と、今の彼では上辺は全く同じなのだが、別人のように空気が柔らかい。


オスカルがじっと見入っているのにも気づかず―これも珍しい―アンドレは帳尻の合わない箇所を見つけたか、下唇を左に引き下げ眉間に皺を寄せて頭を捻った。表情全体で『こいつはけしからん』と憤慨している。

懐かしい。こんな風に内面と外面が直結する彼は、すっかりガードを解いている証拠だ。なんと久しぶりだろう。オスカルは、そっと羽ペンをインク壷に戻し、改めて幼馴染の様子を見守った。

アンドレの右手が前髪をくしゃくしゃと掻き毟り、大きくため息がつかれた。『くそ、やり直しだ』と彼が心中でついた悪態がオスカルに聞こえるほど、アンドレは雄弁に仕草と表情で語っていた。時間にして一秒ほど、アンドレは肘をついて頭を抱え落胆していたが、顔を上げたところで青い視線とぶつかった。

「な、なに?」
虚をつかれたアンドレは、隙だらけの顔でうろたえた。昔のように自然体の彼にまた会えるとは思わなかったオスカルは嬉しくて、ただ嬉しくて、満面の笑みを湛えた。

厳しく鍛え抜かれた従者として、オンの彼は頭の先からつま先まで高性能の受容器であり、当事者が気づくより先に的確に主人のニーズを捉え、サービスを提供できる。オフの彼は―逆説的だが―オスカルと二人きりでいる時に一番緩んだ姿を見せた。髪の長かった頃までは。

「な、何だよ」
美しい幼馴染の緩んだ笑顔が自分を嬉しそうに眺めていることに気付いたアンドレはうろたえた。心臓はばくばくと酸欠を訴えている。いつから見ていたんだ。気恥ずかしさが追い討ちをかけ、十代の少年のように赤く染まった頬と、すっきりと整った容姿とのミスマッチが何とも魅力的だ。

オスカルは微笑んだまま、左片肘で頬杖をつき片眉を面白そうに吊り上げた。
「おまえも、料理係のマダム・ヨランドの胸を借りた口なのかと思ってな」

「ぶはっ」
とりあえず落ち着かねばと口にしたカフェを、アンドレは盛大に噴出した。
それを見たオスカルはさらに満足気に目を細めた。間違いない。彼は確かにリラックスしている。

従者モードの彼なら、たとえ誤ってカフェを鼻からすすったとしても命がけでこらえるはずだ。げほげほと涙目で咳き込みながら、アンドレは今度こそ決定的にやり直しになった帳簿類を次なる被害から救い出すべくかき集め、こぼれて広がった黒い液体から遠ざけた。

「で、娘っ子にひっぱたかれるだの噛みつかれるだのは、実体験か?ん?」
帳簿綴りを胸に抱きかかえ、乱れた癖ッ毛を逆立てた幼馴染はオスカルを恨めしそうに見返している。

そうだ、この近しい距離感、親密な空間、遠慮のなさ。すっかり無くしてしまったと思っていた。それが嬉しくて、オスカルはつい意地の悪い口を叩かずにいられない。
「実に真に迫っていた」
アンドレは見る見る内に赤面した。

「おまえ、見たな、聞いたな」
「ふふふ、見たとも聞いたとも」

アンドレは不意打ちのショックから数秒かけて体勢を立て直すと、わざとゆっくり書類を書棚に戻した。反撃準備をしているのは明らかだ。オスカルの胸は高揚した。ああ、アンドレ。それでこそ、私達だとも。

アンドレは俯き加減の面をこれまた演出効果を狙った大仰さで持ち上げた。深く刻まれた眉間の皺。吊り上げた眉。わざとカツ、カツと軍靴の音をたててオスカルの執務机に近づき、両手を腰に当てた彼は仁王立ちしてオスカルを威嚇した。もとい、しようとした。

「恐いな、アンドレ」
嘘だ、ちっとも恐くない。引き結んだ彼の唇の端は、笑いを堪えて小刻みに震えている。それでもアンドレは厳しく聞こえるように努力した咳払いを一つ鳴らして凄んで見せた。

「ブ、ラ、ボー」
オスカルは両手で口元を囲い、ふざけた賞賛をおくる。

アンドレは、派手な音をたてて両手を彼女の机に叩きつけると、腰を屈め、長い足は交差させて低い低い声で唸る。

「見られたなら仕方ない。白状する」
「ほう?」
「マダム・ヨランドは、確かに若い兵士のおふくろ的存在だが」

垂れ下がった前髪から険しい目つきの黒い瞳がオスカルを睨んでいるが、低く抑えた声は、明らかに面白がっていた。

「初めて明かす」
勿体をつけてアンドレが言葉を切る。オスカルは腕組みし、斜めに首を傾げて先を促してやった。挑戦を受けるようにアンドレが宣言した。
「俺は巨乳恐怖症だ」

室内がしん、と静まりかえり、突然壁掛け時計が時を刻む音が耳に響いた。オスカルの瞳が大きく見開かれ、重力に従うかのように唇が離れた。

ぽかんとした表情、弾力溢れる薔薇色の唇がゆっくりと開かれる様はあまりにも艶やかで、アンドレは攻撃をしかけたつもりがあっさりと墓穴にはまった。無理やりに視線をオスカルの肩章へずらす努力だけはする。そんなアンドレの緊張をぷつんとぶった切る物音をオスカルがたてた。

「ぷっ」
「プッ?」
「ふふふ、ふはは」
「オスカル、おまえ」
「ははは、あーっはっはっは!」

腹を抱えて笑い出したオスカルに、アンドレはがくりと膝を折り、机にすがる格好で肘に顎を乗せた。一応『巨乳恐怖症』に込めたつもりの含みは通じなかったらしい。通じたら通じたで困るが、そうせずにはいられないアンドレの悲しき抵抗は惨敗に帰した。

「おまえね、人の不幸を笑う奴は…」
「あはは、さ、幸いなるかな、天国はその人たちのものである…だったな。ふはは、マタイ伝五章だ!」
「嘘つき異教徒」

アンドレの顔と同じ高さになった卓上で、同じく肘を枕に頭を乗せたオスカルがくっくと笑っている。何がそんなに嬉しいのか、オスカルがこうして他愛なく喜んでいる姿を見るのはアンドレにとっても久しぶりだった。

からかわれていようが何であろうが、愛しい人の喜ぶ姿は嬉しい。未来に何が待っていようといまいと関係なく、今この瞬間を味わう。天国の扉は地上のあらゆる場所にあるのかも知れない。

笑いの嵐が一段落したオスカルが卓上で肘枕をしたままアンドレを見詰めた。眼差しが優しく交差する。微笑みと安らぎ。満ち足りたひと時を共有できる特別の人がいる。それだけで明日は遥か彼方に遠ざかり、友情だの主従だの、無理に名づける必要もなく幸せだ。

「恐怖症については」
立ち上がったアンドレにオスカルが晴れやかに問うた。
「何か原因があると見たが?」
「人の傷に塩を塗りこむ奴は…」
「人聞きの悪い。助けてやれないかと心配しているのだ」

仕事へ注意を戻す準備を始めたアンドレは、やれやれと幼馴染の顔のままで優しく振り返り、笑って種明かしをした。
「一生無理だ。原因はおばあちゃんだよ。あの巨乳に迫られると俺は魂を抜かれちまうんだ」

何だ、そんなことか。オスカルはアンドレのたった一言ですべて合点がいった。あまりにもドラマティックとは程遠い単純な原因にすっかり拍子抜けした様子を見せる彼女に、アンドレは苦笑した。全く、何を期待していたんだか、このご主人様は。

「私は好きだ。ばあやの胸は心地いい」
「俺だって好きだけど、それだけじゃいられないよ。ヤキが入る直前に立ちはだかるおばあちゃんは、見上げる程の巨人に見える」
「巨乳の」
「そう、巨乳の」
「いまだに恐いか」
「ああ、恐いね」

また二人で笑った。
巨乳はともかく、どっちが巨人だか。心優しき現在の巨人は、張り巡らせていた結界を解いてオスカルを再び傍に招き入れてくれている。素直に喜んでいいとオスカルは信じ始めていた。

解決のつかない人生の課題はそのままだ。すっかり元通りの二人に戻れたと安心してしまえば、また同じ過ちを繰り返す危険がある。けれど、彼との間には間違いなく新しい絆が再生されようとしている。

それを信じられなかったら、この世の何を信じられると言うのだ。少なくとも、アンドレが黙って自分から立ち去ることはないだろうし、都合よく彼に甘えるだけの思慮浅い自分からは離脱した。これからは。

「で、娘っ子にひっぱたかれた経験は傷を残さなかったのか?」
お嬢様、いいかげんにしてください、ハナシの方向がやばいです。俺にとっての娘っ子はあなたひとりしかおらんのです。アンドレは好奇心でその美貌をさらに鮮やかに輝かせた幼馴染に、諦めの心境で見とれるより他なかったので、そうした。

「ひっぱたかれたことはないよ」
だから困るのだ。一発ぐらい、いや何百発だって殴り返してくれた方が、涙を見るよりどれほど救いがあったか。泣かれたことはある、と口に出せない一言を呑み込んで、アンドレはつまらなさそうに頬を膨らませた軍服の美女に肩をすくめて見せた。

「まあ、いい。おまえは…」
もっと大事なことがあるとでも言いたげに、美女はさっさと切り替えた。そして、珍しくはにかんだ様子で、視線をアンドレから微妙にはずした。

「侍女らの言う通りだ。おまえは大した歌手だ」
恥ずかしがるのは俺のほうではないか?まだ十代の兵士と一緒に羽目をはずして騒いでいるところを見られただけでなく、ふざけた替え歌はどこにでもある男のぼやきだが、結構彼の本音だったりするのだ。特定の個人へ向けて。

アンドレが照れ隠しに本物の歌手と同じ、左手を胸に当て右足を引く大げさなお辞儀をして見せると、オスカルは声をたてて笑い、彼にならって肩をすくめ、ふと寂しそうに呟いた。
「私は最初から知っていたのにな、おまえが神から美しい楽器を与えられていることを」

おまえもね。とアンドレも言いたかったが、まだその時期ではないと思った。『まだ』と思う以上は『いつか』の予感が身体のどこかに潜んでいるのだろうが。

時々そんな風に感じる根拠のない確信は、深く考えない習慣がついていた。最初にそれを感じたのは、出会って間もなくの頃だ。根拠なく『そばに居てやらなければ』と思った。

彼女からそれを裏付ける思いがけない言葉をもらったのは、四半世紀も過ぎた頃、彼の暴挙が静かに不問に処された直後だった。だからいずれわかる。

もしかしたら、『いつか』はオスカルが花嫁衣裳を纏う時、自分の性を全て受け入れる日ではないだろうか。だったら、なおさら考えるまい。足繁く訪れる雅な求婚者がついにオスカルを射落とす日が来るとしても、自分が選ぶ道が脇にそれることはもう二度とないのだから。

今この手にしているオスカルとの絆を、信頼を、友情を越えた愛情は、二人だけのもの。オスカルがこの先誰とどんな未来を選ぼうと失われることなないもの。もともと与えられるはずのなかった至高の恵みを手にしたのだ。

これ以上を与えられないからと、悲嘆に埋もれ、嘆くことしか考えられなかった日々の何と不毛で愚かだったことか。オスカルを求める想いだけは止められないとしても、それは罪ではないだろう。秘めてさえいれば。

「いつか…」
深々と自身の思いに捕らわれていたアンドレは、彼女が呟いた一言に跳ね返るように我に返った。
「い、いつか?」

遠い将来の計画を夢見るように焦点をゆるく合わせた青い瞳と目が合った。
オスカルは二三度ゆっくりと睫毛を上下させる間、アンドレを見据えていたが、やがて首を横に振った。
「いや、今はいい」

『いつか、わたしのためにも歌ってくれないか』
なぜ言えなかったのだろう。過去に彼に強いた非常識かつ無遠慮な要求の数々を思い起こしてみれば、『歌ってほしい』など幼馴染への願い事としては至極他愛のないおねだりではないか。こん、と自嘲気味に額を叩いたオスカルを小首を傾げた男が優しく見守る。それ以上何も聞かないのは、無関心でもなく、もはや遠慮でもなく。息を吹き返し、強く成長した信頼。

掛け値なしの。

何事もなかったかのように二人は書類に意識を戻した。
「さあ、やっつけちまおうか」
「ああ、今日中に」
「そうか、明日はパリだったな」
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