いのち謳うもの1

2018/08/26(日) 原作の隙間1762~1789

彼女が本来女人禁制であるはずの少年聖歌隊に入隊を許されたのは、七歳の誕生日を過ぎたばかりの頃であった。神の気まぐれな遊びか、周到な計画の一端か、少女に与えれられた天恵は、容姿、知能、敏捷な身体能力、聡明たる精神に留まらず、音の世界においても芽吹きの兆しを見せていた。

しかし、いかな天才も、努力無しには、鉱山に埋もれたままの金剛石と変わらない。天は、ただギフトとして彼女の手の上へ才能を落としたのではなかった。彼女は意思と努力をもってそれを掘り出すことを知る子供だった。

彼女のために選りすぐられた音楽教師は、語学や科学、武道教師と同じように、教え子の資質に狂喜した。生まれ持った素材と、努力家という最強の組み合わせに。小さな体にみなぎるのは高みへの飽くなき情熱。燃えるような黄金の髪は、彼女の内なる炎を映し出すかのようだった。

ヴェルサイユにあるノートルダム寺院のコーラルで、少年聖歌隊員として選抜されるのは選り抜きの才能ある少年達だった。神の使徒の声を務めるためには、厳しい審査に合格しなければならなかったが、彼女に挑戦させない理由を探す方が難しかった。少女であるという理由を除いて。

そして、少女の才能は不利な条件をねじ伏せた。少女は凛とよく通る清らな声を持っていたが、武術で学ぶ呼吸法を応用し、豊かな声量をすべらかに調節できた。譜面は視界の片隅ですらすらと読めたし、ラテン語の発音は誰よりも美しかった。

半年後、少女の隣に新しく入隊を許可された少年が並んだ。黒々と濡れた瞳に悲しげな陰りを見せた少年は、どこを切り取っても完璧な少女とは違い、生れ落ちてやっと立ち上がったばかりの子馬のように頼りなげだった。

譜面が読めないことは明らかだったが、耳は良いらしく、じきに音を拾い始め、二三度も聞けば正確な音程で、旋律と意味のわからぬラテン語を再現することができた。訓練されたことのない歌唱は気まぐれにギャロップすることもあったが、泉よりも透き通る声質は間違いなく天使の一員だった。

少年が音楽教育を全く受けていない白紙の状態であったことが、返って素材の優秀さを引き立てた。審査の席で少年が何気なく発した問いが決め手となる。
『どうして音が違うのですか?』

審査に当たったコラール指導僧は、老齢の自分用にキーを低く転調した譜面にそって少年にオルガンで最初の音を与えた。ところが、わずか半音低く転調しただけのキリエに少年は違和感を訴えた。日曜のミサで聞く音と違うのはなぜか、と。

少年はミサで聞く楽曲経験を通して、絶対音感を身につけていた。今後の可能性が期待される八歳という年齢が考慮され、彼は入隊を許可された。もっとも、少年の入隊を強く願う少女のために、彼女の母親が書いてやった推薦状と寄進の力が不可欠だったが。彼は平民だった。

少年は自らの意志とは関係なくぶち込まれた集団の中で、異質の存在だった。丸裸に刈られた羊のように心許なげな少年の傍には、子猫を守る親猫のように総毛をおっ立てた少女が片時も離れず目を光らせていた。

皮肉にもそれが余計に少年コーラル達の好奇の目を引き付ける結果となってしまった。いくら能力において抜きん出ていようが、彼女もまた異質であることには変わりはなかったのだ。少女と少年が仲間の子供達と違うのは、二人の落ち度ではなかったとしても。

二人とも投げつけられる理不尽な嘲りに耐えてまで無理に聖歌隊員でいる必要はなかったが、二人はそれぞれの理由でやめようとはしなかった。

少女は持てる能力に相応しい場所に自然と身を置いたのだった。そしてそこは終生途切れることなく浴びせられることになる、『女のくせに』を聞く最初の場所となった。少女は『女』を認めるわけにはいかなかったし、除隊は敗北を意味した。女が劣性ではないことを証明するのではなく、彼女は自分の「男」を証明しなければならなかった。自分自身を失わないために。

少年の方は、単純に少女の希望に従ったまでだった。しかし、少女が幼いながら公平な倫理感を持っていることは生来の勘の良さで悟っていたから、嫌だと言えば無理強いはされないことも知っていた。

ただ、その頃少女の傍にいなければという天命めいたものが彼の中でふつふつと沸き起こり始めていた。頭は切れるし、度胸は据わり、腕っ節も強く弁も立つ少女には守られるばかり、お荷物でしかない自分が、なぜそんな風に感じるか見当もつかなかったが、離れてはいけないと思ったので、揶揄に耐えた。

そうはいっても、向かい風に挑むだけで何年も頑張れるものではない。二人とも音の世界に魅せられていたからこそ、突っ張りも効いたのである。

ノートルダム寺院の荘厳な典礼で欠くことのできないミサ賛歌は、芸術の頂点を目指そうとするあまり技巧に走り過ぎる嫌いに目をつぶれば、当時フランスで最も優秀な歌手やオーケストラを擁し、多分世界レベルでも最高峰の水準を持っていた。

壮麗なハーモニーに完璧に調和する一瞬、永遠なるものと繋がりを感じるのは子供でも同じである。いや、子供だからこそ、言語で説明できない真理の一端を歌を通して体感できたのだ。少女にとってのそれはまさに開放の一瞬だった。

社会との接点が増えていくたびに突きつけられる性差別の現実は容赦がない。少年として生きることは彼女にとってごく自然であっても、社会からは否を突きつけられる。教会もまたしかり。けれど、ミサで聖歌を捧げる時に訪れるそのひと時だけ、彼女はありのまま神に受け入れられる絶対的な確信を得ることができた。

少年も同じ高みを垣間見ていた。彼にとって、歌は姿のないものと対話する手段だった。破天荒なお嬢様と遊んだり無理やり色々なことを覚えさせられる忙しい毎日の中でも、ふと落ち込む空虚な谷間がある。

張り裂けんばかりに人恋しくなった時は言葉に出さずに母を呼んだ。毎夜一人になると、祈りの中で彼は亡き父母に語りかける。返事の返らない一方通行の会話。しかし、聖歌を習い、あわれみ、栄光、感謝、回心、とラテン語の意味を解するようになり、重厚なオルガン、オーケストラ、合唱と自分の声が一体となった時、全てとの全体感を知った。

両親の存在とともにあることができたのだ。姿は見えなくても、深く愛されていた。切り離されることなどないと歌が教えてくれた。



一年も過ぎるころ、呑み込みの早い少年の歌声は安定し、彼は顔をあげて微笑んだ。濡れたような大きな黒い瞳から、寂しげな陰は次第に薄れていった。聖歌隊の中で浮き上がっていた二人組みは、人懐っこい少年の笑みを通して聖歌隊メンバーの仲間と少しずつ馴染み、友ができた。

突っ張りまくった少女の肩肘の力が緩むにつれ、練習の合間などノートルダム寺院の裏庭で、ミサ曲とは打って変った可愛らしい民謡を仲間と歌うことが楽しみになった。

「きらきらぼし」や、「ママンきいて」などを輪唱合戦する姿は微笑ましかったが、聖歌隊の白いガウンを着たままで流行歌の「美しいフランソワーズ」や恋歌「ブロンド娘のそばで」を歌った時は、司教に大目玉を食らった。そんな騒ぎの真ん中には、ころころとよく笑うようになった二人が必ずいた。

少女が11歳になった時、クリスマスミサでソロを歌うチャンスがめぐって来た。ソロ選抜を目前に少女の屋敷では、朝な夕なの学習時間前後、二人が練習する歌声が響くようになり、屋敷中で働く者の手を止めた。

頭をつき合わせてともに勉強していた二人は、この頃から少しづつ違う日課を与えられつつあったが、巧みに時間を調整して練習時間をひねり出した。二つの異なる天使の声質は、単旋律を歌っても互いに共鳴し合う和音のような美しい奥行きを見せて、完璧に和合した。

少女の母か、姉の一人がクラブサンで伴奏をつけてやる夕べなどは、庭の菩提樹までが枝をゆらし天上の調べに聞き入るかのようだった。自分の才能に溺れる事無く、練習に練習を重ねた二人は少女がソロに選ばれることを確信していた。

しかし少女は選考から漏れた。技術のみならず、ソロの重圧を受け止める度量も間違いなくヴェルサイユ一の少女であったが、教会は女人禁制のコラールに少女を加えているだけでも犯しがたいリスクを負っていると考えていたので、少女にソロを歌わせるなど論外だったのだ。

発表のあった日、いつもと変わらぬ様子で練習とミサを終えた少女は、父母と乳母に選考結果を快活に報告した。その夜、庭の菩提樹を力いっぱい殴った少女は、傷だらけにした拳を少年に握られ、少年の質素な枕を濡らした。

翌年のクリスマスミサ前、ソロとして少年の名が呼ばれた。もう一人同じ名の聖歌隊員がいるに違いないとあたりを見回す少年を少女は力いっぱい小突き、事の次第が少年の脳天に達するより先に、両腕を彼の首にまわして荒っぽい祝福の抱擁を贈った。

少女を首にぶら下げたまま、少年は純粋に沸き起こる歓喜と、首にかかる重みへの申し訳なさと、恐怖を同時に経験した。

翌日から、少女の怒声に押しまくられ仕事の一部を免除された少年が、少女の伴奏で特訓を受ける姿が毎夕見られるようになった。

少女は、手放しで少年を祝福できたわけではなかったが、妬んだり拗ねたりしたら最後、自分を不当に扱った指導僧に今度こそ完敗だと思った。大好きな親友を精一杯後押しできる人間でありたかった。彼らの違いは少年が少年である、それだけだったとしても。

少年は、身分を越えて認められたことは素直に嬉しかった。けれど、彼女の複雑な思いも痛いほど理解していた。彼女を気遣って役割を辞退などしたら、余計に少女を傷つけることも。

だから、ただベストを尽くすことが、健気に振舞う少女にしてやれる最良のことだと思った。そうでなくても、二人ほぼ同じようだった華奢な体格が、このところ明らかに男女の差を顕著に現し始め、腕力や跳躍力など、幾つかの面で形勢逆転が起きていた。

少女がそれを憂いつつ、武道においてはスピードアップや間合いを読む高次技術を熱心に磨いていることも、時折切なげな瞳で自分の目方ほどもある飼葉を運んでいる少年の姿を見詰めているこも、少年は知っていた。

表面的には、正攻法において少年が少女を武道で降すことは滅多になかったし、通い始めて二年あまりになる陸軍士官学校でも、彼女は文武ともに首位を独走していた。

しかし、少女にとって絶対的な不条理としか思えない身体的変化は、容赦なく回る時の歯車に乗り、好まざる方向へ進んでいた。



クリスマスミサの朝、それは起きた。大事な日を前に風邪などひかぬよう、恐縮する少年の祖母である乳母を説得するという大仕事までこなして、少女は少年をベストなコンディションに調整していた。

それなのに、彼の体調に異変が起きたのだ。風邪の兆しもなかったのにどうしたんだろう、と言おうとした少年の声が掠れてひっくり返った。変声期の訪れだった。

少年も勿論衝撃を受けたが、少女はもっと深く打撃を受けた。少年が歌えなくなったことはもとより、容赦のない性差という現実に彼女の一番の親友を通して直面することになったからだ。

突然の変声期は少年聖歌隊ではまま起きることなので、ソロを歌う少年には控えの隊員がいた。しかし、少年が絶好調だったので、控えの隊員はどこか他人事のように考えており、いかんせん覚悟が座っていなかった。

当日朝、突然代役としてソロを歌うように命じられたとたんに彼は腹痛を起こしてしまった。急遽、毎日少年の練習に辛抱強く付き合った少女がソロを歌うことになり、彼女は動揺を制御して立派にやり遂げた。

素晴らしいミサだった。
そして、多分、言葉にできない思いを歌に託して祈りへ昇華する意味を、少女も少年もこの日に学んだ。

分身のような少年がどんどん自分と性質を異にしていく。一年前にあれほど悔しい思いをして諦めたソロを見事に歌いきり、観衆に神の声を届ける大役をこなしたというのに、少女は喜びからは程遠く、少年に取り残された寂しさで引き裂かれそうだった。

少女は長いこと、努力すれば父の望む息子になれると信じていた。しかし、性は変え様のない現実として、努力とは次元を異にした壁となって立ちはだかるのだ。

一生背負い続けるものが少女に見えた。十字架を背負うキリストの足元にも及ばないけれど、人にはみな、それぞれ与えられた十字架がある。少女は歌った。主よ、哀れみたまえ。

少女は怯ます堂々と背筋を伸ばして大観衆の前に立った。本番前、頼むからすぐ傍で聞いていてくれ、と少年に囁いたのは誰か別の人間だったのではないかと思えるほど、自信に溢れて見えた。

歌声は練習時よりもさらに冴え渡り、祈りを知らなくてもその声に気持ちを寄せるだけで神の傍に導いてくれる力さえ秘めていた。そう、彼女は光の当る道を進む者だ。

少年は、本番直前まで握りしめていた少女の手のぬくもりが残る掌を組み合わせたまま、たった一人で聖歌隊の控えの間に座り、心の中で声を合わせた。
こんな形でこの日が来るとは思わなかった。
聖歌隊は今日を限りにやめようと少年は決めた。ずっと前から祖母に言い含められていたし、少女が陸軍士官学校に入学した日から、歩む道はすでに分かれていた。

同じ机に並びラテン語の暗唱をし、競争で計算し、歴史物語に興奮し、クラブサンに並んで座ることを許された日々は楽しかったが、いつまでも同じではいられないことを彼は知っていた。

今では少女は兵法に国防論を学び、少年は経理と家政を学んでいる。少女がバイオリンとクラブサンのレッスンを受ける間、少年は馬の世話をする。

馬は好きだし、彼女の供をするために必要な乗馬は練習を許されている。剣の相手も必要だから、引き続き一緒に稽古もつけてもらえる。恵まれていると彼の祖母は言う。

この先、少年の領域は実務を学ぶことにあり、物事の本質を、真理を追求するための学問は少女のものだ。けれど、音楽と文学の世界を一度は垣間見た少年は、音符と文字が秘める無限の奥行きと、魔法の虜になっていた。

学問の世界を、自分の力でどこまで高く飛翔できるのかを知らないまま立ち去ることになる。それを思うと正直胸が塞がった。

しかし少年は、子供時代のひと時、金色の髪をした少女と供に学んだ時間は、早くから父母を亡くした埋め合わせとして、神様が特別に与えてくれた贈り物なのだと、自らに言い聞かせた。

もともと自分には与えられるはずのなかったものをひと時手にした幸福を感謝しこそすれ、その時間が終わるのを恨んではいけない。さあ、音楽を諦める日、幕引きの日が来た。

子供時代を終える日は、せめて自分で決めよう。主よ、今日がその日です。悲しくないなんて嘘はつきません。だからどうか、悲しむのは罪ではないと言ってください。控えの間で一人、少年はいつの間にかそう祈っていた。


歌い終わった少女が息せき切って走り寄って来た時、少年は力いっぱい少女を抱きしめて祝福した。心から。これからは、彼にとって彼女が歌えば同じことだった。

声が落ち着いたら、成人男性コラールへ参加しないかと少年に提案がなされた。彼の雇い主はあっさり許可したし、当然少年がその話を受けるものと少女は思った。

しかし、少年は自分の決断を曲げなかった。前から決めていたことだと。それ以上は黙して語らなかった。少女は少女で、見ぬふりのできない絶対的な違いと対峙しなければならなかった。成人男性コラール。武術や学問とは違い、努力と才能で乗り越えられない壁は確実に存在するのだった。

少女へは、時の皇太子の婚礼にあわせ、近衛入隊の打診があった。
少女は聡明だった。実力以外の諸条件が合致した抜擢であることを瞬時に理解した。しかし、チャンスだ。機会なくして、父の期待を越える息子にはなり得ない。

どの男よりも使える将校になるための足場は逃さない。いずれは、ご都合主義の抜擢理由など霧散するほど強くなればいいだけだ。私は次代当主に相応しい軍人になる。

少女は聡明なだけでなく、勇敢だった。
近衛への道は開けても、成人男性コラールへの道が行き止まりである現実が意味するところを勇気を振り絞って認めるかわり、唇から歌を切り離し封印した。私はもう一生歌わない。男であるために。その夜、少女は初潮をみた。

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