一期一会の瞬間に宿る美というものがある。
それを結晶にしてしまおうとするなんて、馬鹿げていると思うだろう?
例えば、舞踊家の跳躍が空中で頂点を極める瞬間。
例えば、指揮者が振りかざしたタクトの先端に、音が一斉に焦点を結ぶ時。
例えば、生まれたての赤ん坊が初め微笑んだ瞬間に居合わせた幸運。
例えば、振り返ったおまえの髪が流線形を描きながら跳ね返す陽光の魔力に射抜かれる時。
おれが飽くことなく追及するショコラの結晶が完成形を極めたら、そこにはあらゆる奇跡の瞬間を閉じ込めることができるに違いないのだ。
星を数えるようなものだと思う。
あるいは、おまえのハートを射止めるために、フォンテーヌブローの木の葉全てに愛の言葉を書き付ける試みにも近い。
それでもおれは、今日も六感の全てを注ぎ込んで、一つの結晶を生み出そうとする。そう、口に含んだ途端に溶けて広がる幸福を、黒い結晶に凝縮しようと。
無骨な業務用冷蔵庫の扉を開けると、冷たい冷気がおれを通り過ぎて厨房に霧散した。中には十種類ほど並ぶ金属のバット。 試作を重ね、ようやく納得のいく出来に仕上がった会心の作だ。今日のあいつの顔を思い浮かべると、考えるよりも先に、その中の一つに手が伸びた。
常温よりやや低めの温度で厳重に管理されているのに、ショコラ・デ・クーベルチュールは、ふくよかで暖かくさえある香りを放つ。ラベルには55%の文字。今日のあいつに丁度いい苦み。カカオの香りは強く残ししながら、ミルクの芳醇な香りと甘みを併せ持つタイプで、疲れた体には適度にマイルドなはずだ。
本当なら使い捨て手袋を装着すべきなのだが、あいつにショコラ・ショーを調合する時は必ず素手だ。あいつの様子を脳裏に描きながら材料に直に触れると、不思議と彼女のコンディションに最適なブレンドができる。体温でショコラを温め過ぎないよう、手を冷やすために氷を張ったボウルを脇に用意した。
ミルクに細切りのオレンジの皮を落として、沸騰させないように注意深く沸かす。三分・・・四分・・・さらに二十八秒。ここだ!ここぞのタイミングで皮を取り出す。理屈なんてない。今日の加減はおれの指が知っている。
火力を強くして、生クリームとココアパウダーを加える。パウダーだって?無意識の選択だ。そうか、今日はほろ苦さがもっと必要なんだ。一気に沸騰させて、削ったクーベルチュール55%を溶かす。
濃厚で甘い香りが厨房を満たすが、うっとりと味わっている訳にはいかない。慎重に追加のかけらを落とす。香りが刻一刻と深みと奥行きを変化させるのを、総身のうぶ毛を逆立てて感じ取り、最適の量で止める。
よし、完璧だ。仕上げにグランマニエを少々。計量スプーンなんか使わない。使うのは六感のみ。二度と同じ味は作れないこの方法は商品化にそぐわないけれど。
祖母から譲り受けた古ぼけた銀のショコラティエールに移し、ゆっくりと空気を送り込む。モリネットが立てる音に注意深く耳を傾け、生まれる気泡の数まで我侭を尽くす。
用意したショコラカップは桃色の薔薇のレリーフがちりばめられた、マイセンの花のロンド、蓋つきだ。おまえは少女趣味だと笑うかも知れないけれど、今日は特別な日だから許してもらおう。
ショコラティエールの蓋を取ると、甘い香りが立ち上る。柑橘系の爽やかな香りとカカオの香ばしさが喧嘩することなく調和したブレンドはちょっと自慢してもいいだろう。カップに七分目まで注いだ時、厨房に続くダイニングに誰かが入ってくる気配がした。
香りを嗅ぎつけてやってくるタイミングはパーフェクトだな、オスカル。おまえのためだけの一杯が入ったところだよ。
💝 ☕ 💝 ☕ 💝 ☕
久しぶりに会った彼は、少し疲れた顔をしていた。わたしの髪よりも幾分うすいブロンドが心許なげに透けて見えた。
やあ久しぶり、元気だったか、ご招待ありがとう、と片手を上げながら招待客の合間を縫って彼が歩いてくる。忘れていたはずの痛みがスーツの袖を引っ張ると、するりとわたしの胸に滑り込んだ。ぼくの居場所はまだここにあると主張して。
気楽なパーティだから、平服でと招待状にあったわりには、ゴージャスな雰囲気だな、と笑う彼は、白いカシミヤのセーターが良く似合っていた。
彼を目の前にすると、こみ上げる懐かしさで泣きたくなった。それでもわたしは静かに大人の笑みを返す。いつの間にそんなことができるようになったのか。それを少し寂しく思うわたしがいる。
『もう、会うことはできないな』
彼ができる最大の思いやりだったあの言葉が、セピア色に風化して二人の間で宙ぶらりんになっていた。そろそろアルバムに貼り付けて、ページを閉じてもいい頃なのだ。言葉で確認などしなくとも、見つめ合った数秒でふたりとも理解した。
会えてよかった、と彼が言った。
君は勇気がある、とも言われた。
わたしも会えてよかった。勇気とは事業を新しく立ち上げたことか。
それとも決別を決めた勇気のことか。それは、どうかな。少し寂しげに笑う彼の笑顔は、何も語ってはくれなかった。
彼が我が家の古めかしいホールで談笑したのはせいぜい二十分程だったろうか。
じゃあ、また会おう。夏のバカンスにはオーロラと氷河でも見に来ないか、案内するよ。そう言っていとまを告げようとする彼に、わたしはいつも通りに握手の手を差し出した。
彼はわたしの手を取ると、甲に一つ、頬に二つ、キスをくれた。初めて女性扱いしてくれたんだな。それが今日だなんて、色男の名が泣くぞ。
不思議と寂しいとは思わなかった。去っていく彼の背中がぼやけて見えたけれど、気持ちのいい涙だった。また会おう。いい響きだ。
その時。
周囲の音が消えた。雪化粧した深い針葉樹の森と凍りついた湖水。その上では薄紫から緋色に変わる光のグラデーションがいく層も天から降り注ぐ。行ったことのない北の国が私の目の前に広がった。
ホールを埋め尽くしていた招待客は一人残らず姿を消し、彼の後姿だけが遠くに見えた。音一つなく、彼の後ろ姿はみるみる小さくなり、深い森に吸い込まれていった。
幻想は一瞬だった。わたしは再び賑やかなパーティの喧騒の中に引き戻されていた。彼は玄関ホールへ出ていくところでもう一度振り返り、笑顔で手を振ってくれた。わたしもそれに応えながら、とある感覚に包まれた。
デ・ジャ・ヴー。
この感じがそう呼ばれるものだろう。けれど、掴みどころのないその感触は、わたしの肩を掠めただけで消えてしまった。ケーキの箱を開けようとした手を滑らせて、床にぶちまけてしまった少女のような気分だった。
気がつくと、見送るわたしの後ろには長身の彼が立っていた。
少し痩せたみたいだな。後ろの彼はわたしが感じたと同じことを口にした。いつものように。
次期当主として、挨拶をしておかなければならない客と一通り杯を掲げると、わたしは疲れを覚え、一旦自室へ戻った。どさりと寝台に身を投げ出すと、マホガニーのコンソールに無造作に置かれた木の実に目が行った。
ラグビーボールのような形のカカオポッドだ。すっかり乾燥して、濃い茶色に変色したごつごつした肌からは、かつての瑞々しい緑色の衣など想像もつかない。この中に二十粒から四十粒ほどのカカオ豆が入っている。
軍役中に配属されたアフリカのコートジボワールで、正確に言えば隣国のガーナとの国境に跨る小さな村カンカンで、この最初のクリオロ種と思われるカカオポッドを見つけたのだ。
テオブロマ・カカオ。
ギリシア語で神の食べ物という学名を持つ植物。
非番中に、現地で親しくなった兵士に連れられて遊びに出かけた小村で見つけたそれが、幻のカカオと呼ばれるクリオロ種であったことなど、当時は知る由もなかった。
ただ、強烈に魅かれたのだ。
見つけたのはわたしではなく幼馴染の彼の方だった。へえ、これがショコラのもとか、不思議だな、初めて見るような気がしない。彼は、さも懐かしそうにその実を撫でたのだった。
何かに引かれるようにわたしは身を起こし、木の実を手にとってみた。この実との出会いがなければ、私がクラブ・デ・クロール・ド・ショコラのメンバーになることもなければ、趣味が高じてサロン・ド・ショコラにショコラバーを出展することもなかった。
言うまでもないが、幼馴染の彼が一緒になって熱を上げてくれることがなかったら、やはりそうはならなかった。そしてこの春、父の反対を押し切って、わたしは製菓用ショコラ工場を設立する。
そろそろ帰途につく客を見送りに出なければならない時刻だ。今日は将来の株主になってくれる友人知人を招待した内輪のヴァレンタインパーティーだった。ホスト役はあまり得意とするところではないけれど、わたしには強力な助っ人がいるのでこうして息抜きができる。しかし、いくら何でもこれ以上ホストが席を外しているわけにはいくまい。
立ち上がり、手に持っていたカカオポットを戻そうとしたその時、背後から熱い風が吹いたような気がした。
まただ。
デ・ジャ・ヴー。
湿気を含んだ大西洋からの海風。照りつける太陽の下、うっそうと茂るマングローブの林。海岸には大きく揺れるココ椰子が延々と続く。軍港から漂ってくる無粋な油の匂いが潮風に混じる。
ふと私の目の前をよぎった情景は、少し前に見た北欧の氷の国とはまるで違うのに、あの時と同じ感覚がわたしを包んだ。どこかで同じことがあったような、あの感覚。
そうだ、カンカン村で、子供たちと遊んだんだ。かつてフランスの植民地だったこの国では、未だにフランス語が公用語で、かなり奥まった村でも誰か彼かがフランス語を話す。遊び疲れて座った木陰で、子供たちも大人たちも、好奇心一杯の瞳で聞きたがったのは、雪と氷の話だった。
叙情的な話を聞かせるなら、幼馴染の彼の出番だ。彼は雪が音もなく降り積もり、町が砂糖菓子のように化粧する様子や、スノーマンの冒険の話、そり遊びやスケートや、氷に穴を開けてする魚釣りの楽しさを、童話を読み聞かせるような美しい言葉で語った。
沢山の黒い瞳が無垢な好奇心と憧れをきらきらさせてわたしたちを見詰めていた。太陽で焼きこんだような漆黒の肌。強く縮れた黒い髪も、素晴らしい光沢を持つ額も、肉厚な唇も、ひび割れて靴底のように分厚くなった素足の裏も、何もかもが、太陽の子と呼びたくなる健やかさだった。
わたしなど、陽のあたらない窓辺でひょろりと徒長した鉢植えの花の白い茎のようだ。一年の半分を冬が占め、太陽に焦がれ死にしそうに生活し、春を待ちわびる北ヨーロッパ。
そうか、わたしたちは同じ瞳をしているのだ。年間通して陽光を全身に浴びて生きているこの子たちは雪と氷の話に目を輝かせ、わたしたち北ヨーロッパ人は太陽の光に歓喜する。
北ヨーロッパの最果ての国からやって来た、氷と湖水と白夜の香りのする君をわたしは恋した。遥かなる極北の国はいつもわたしの満たされぬ憧憬の象徴だった。わたしには包んでくれる温かい日差しがあったのに。温かさに慣れすぎて、違うものに強烈に魅せられていた。
ああ、そうか。デ・ジャ・ヴーが繋がった。あ、だけど・・・。
もう一つ、別の何かがわたしに触れて、すっと消えた。温かい眼差し?太陽のような笑顔?
花咲乱れるパリの春は美しいし、南仏の香りはパリとは別物なほど南国だけど。わたしが思ったのはそれではない。では、何だ?
かっと頭の中が白くなった。わたしはまだ知りたくない。だからもうしばらくそっとしておこう。『何か』に出会えば、わたしごと全てが変わらざるを得ない予感がする。『何か』は、わたしの根源に関わる何かだから。
手に持ったカカオポットをぽん、と右手で放り上げ、くるくると回転しながら放物線を描くラグビーボールのような木の実を左手でキャッチした。こうやって、どんなに抵抗しようが無視を決め込もうが、『何か』はきっと必ず戻ってくる。ならば今はもう少し、ほろ苦い片恋の痛みをそっと慈しんでいたい。
🌴 🌞 🌴 🌞 🌴 🌞
ヴァレンタインパーティはお開きになった。あいつはどんなにか疲れているだろう。接客だって社交だって、あいつは完璧にこなせるし、だれをも魅了してしまうから、こうした内輪の集まりであっても、ビジネスチャンスを広げる強力な足がかりにしてしまう。反面、こういった仕事はあいつを酷く消耗させる。
それに、今夜はそれだけではなく。かつて学友だった北欧の、スウェーデン大使の不自然なほど短い滞在時間。あいつの友人であるファースト・レディの出席が直前にキャンセルされたこと。
ふたつのピースを合わせれば、裏の事情はすぐ見える。陸軍特殊部隊に配属された時に女性である利を買われて警護にあたったファースト・レディとあいつは今でも交流を持っている。彼女のプライベートナンバーから連絡があった時、あいつははじめから分かっていたような応対をしていた。
秘密の逢瀬の立役者になることを、あいつが自ら申し出たとは思えない。あいつの気持ちを知らないファースト・レディから頼まれたか。それとも、馬鹿な役回りを引き受けてでも、彼に会いたかったのか。
たとえそうだとしても、恋には理屈に合わぬ行動がつきものであることをおれもよく知っている。ただ、おまえが今以上に傷つかないことを祈るばかり。無力なおれ。
あいつの足音を確認すると、おれは固くあわ立てたフォームドミルクをショコラの上に流し入れた。その上にチョコレートシロップでスマイルを描く。会心の笑みができた。その脇に小さな円を一つ、二つ、もう一つくらいいいかな、三つ。
慎重に描いた円の中心に、切るように爪楊枝を走らせると、円は形を変え、ビッグスマイルの周りを小さなハートが三つ、取り囲んだ。
やあ、いいところに来たね、とカップを乗せたトレイを持って厨房を出る。パーティの名残が残るテーブルのうち、比較的片付いている一つに、あいつとおれは申し合わせたように腰をかけた。
思ったよりもすっきりとした顔つきをしたあいつだった。
Be my Valentine。
苦しめたくはないから、声に出しては言えないけれど、おれからのメッセージを受け取ってくれ。どう受け止めてくれてもいい。兄でも、不詳の弟でも仕事の相棒とでも。
思ったとおり、花柄のカップに苦笑してあいつは蓋を取った。オレンジの、いい香りがすると言いかけてカップを覗き込んだ目を丸くした。素直な反応でよろしい。どんな顔してもやっぱりおまえは美人だよ。
おれから、ハッピーヴァレンタイン、と言うとあいつは一瞬泣きそうな顔になった。そうか、辛かったか。おれも辛かったよ。しばらくじっとカップを見詰めて、おまえはくすりと笑い、勿体ないなと言ってカップに口を付けた。
☺ ☕ ☺ ☕ ☺ ☕
たっぷり半円を描いた大きな口元で、あらん限りの愛想を振り撒くビッグスマイルが蓋の下から現れた。シンプル極まりない顔して、魔法のように心を柔らかく揉みほぐしてくれる。カップの縁に沿って流れるように小さなハートが取り囲んでいた。
優しいひと言も加わって、誰かに心底思いやられる幸福をわたしは突然無防備に受け取った。
強がる間くらい与えてくれ。今日のおまえは気が利いているのか鈍いのか。そういえば、大事な人に思いを伝える日だったな。わたしを大切に思ってくれているのか。もちろんわたしはそれを知っている。
それでも伝えてもらえばもっと嬉しい、ありがとう。
今日のショコラも初めての味がした。彼がわたしに入れてくれるショコラは、一つとして同じ味がしない。その日のコンディションに合わせて、毎回わたし専用のオーダーメイドだから。
客にサーヴする商品なら、きっちりと変わらぬ味をキープすることなど簡単にできる彼なのに、わたしには、もう二度と同じ味は出せないからな、心して味わえと偉ぶって見せる。彼曰く、わたしにだけはそれができないのだ、と。それは果たして自慢なのか?
驚いたことに、噛み締めていたいと思ったほろ苦さが究極の加減で口の中に広がった。シトラスの香りは涙を流した後の爽やかさ。疲れた体に丁度良く染みとおる甘さはやや軽め。ビターだけど限りなくスウィートに近いぎりぎりのカカオの香り。わたしの体の細胞を一つ一つ目覚めさせていくようだ。
わたしも彼にヴァレンタインの贈り物があったけれど、出すのが恥ずかしくなってしまった。わたしが持ってきたものは、カップに浮かんだ三つのハートにも足りないような気がして。
傍にいてくれてありがとう。それを伝えることなしに、今日を終えてしまっては、聖ヴァレンティヌスに顔向けできない。聖人に、何の義理があるのかは良くわからないが。
💝 💐 💝 💐 💝
名を呼ばれて我に返った。あほ面さらしておまえに見とれていたらしい。大目に見てくれないか?おまえのこんなに近くにいて、クールにすかしてなんかいられない。
わたしからも、ハッピーヴァレンタイン。
耳元でおまえの声を聞いた。柔らかな髪と温かな頬が一瞬おれのものだった。右に一度、左に一度、そしてもう一度右。立ち上がって身を屈めたおまえから、頬にキスを受ける。
おいおい、せっかくならちゃんと予告してくれないか。心の準備ってものが必要なんだ、おれの場合。目を回してしまっては、千載一遇のチャンスを味わえないじゃないか、ああくらくらする。それが、たとえ友達のキスであってもさ。
友達の・・・?
ぼんやりと焦点の合わない目つきをしているだろうおれを、おまえは両手を腰に当てて呆れたように見下ろしている。先生ごめんなさいって言いたくなるよ、そのポーズ。ああ、今度は腕組みなんかしちゃって、おれ何か悪いことでもしたのかな?
友達の・・・。
ごめん、そうだった!
これは、おまえとおれの明日への約束。明日もまた遊ぼうのキス。毎日夕方になると交わした、今日と明日がいつまでも繋がりますようにとの祈り。どうして忘れてなどいたのだろう。
最高のショコラだった、とおまえが言う。
おれも気分は最高、と答えた。
おまえは、ショコラに関しては天才だな。
満足そうに笑うおまえ。
このひと時こそ、ショコラに閉じ込めてしまいたいおれがいる。
今夜は、もうなにもいらない。
♥ ♥ ♥ 💘 ♥
翌日、実は、こっちの方をおまえに贈ろうと思っていた、と何かを渡された。くしゃくしゃになった書類が一綴り。だが、それならおれも同じものを持っている。書き込みだらけで、もっとぼろぼろなやつを。
事業として稼動することになったショコラ工場のサテライトカフェの企画書だもの、当たり前だ。
どういうことだろう、と無言で問うと、良く見てみろ!と怒鳴られた。
あれ、昨日の続きかな、はい、先生。
ぱかっと丸めた書類で頭を叩かれたので、おれは一応神妙にして見せてから、よくよく書類を見直した。そこには未定だった店舗の名前が入っていた。
『黒い瞳亭』
おれはしばらくそれを見詰めていた。目玉商品がショコラだから、青い瞳亭よりも、らしいかも知れない。それに、そうか、全てはカンカン村から始まったのだから、黒い瞳。栽培が困難と言われるクリオロ種を、新しい技術を学んで生産してくれることになった彼らの瞳にかけたのか。うん、そうだ、そうに違いない。だから黒い瞳亭。いい名だと思うよ、オスカル。
担任の先生に正解を褒めてもらう気満々の小学生のように、自信たっぷりに発言した。
ぱかっ!あれ、また叩かれた。厳しいな、オスカル先生。
黒は全てにかかっている。関わる彼らの瞳にも、ショコラの色にも。でも瞳は!オスカルはそこまで言うと、少しはにかんで言葉を切った。そして、ぷいと横を向く。
瞳が単数形になっているのに、さっさと気づかんか!
昨日は今日へと続いていた。今日は明日へと続くだろう。
Bitter but so sweet days。
FIN
2.14. 2005 Uploaded
サイト名『黒い瞳亭』をCafe Blackeye と表記するのは、こういう訳なんです。Eyesにした方が自然なのですけれど、絶対に単数形eye. 変でもいいんです。これで決まり!
クラブ・デ・クロール・ド・ショコラ
150人限定のチョコレート好きオタククラブ。欠員が出ないと入れない。入会はかなり困難。フランス産チョコレートの品質向上、試食、産業保護がおもな活動内容。ミシュランガイドブックに相当するチョコレートランク付きのガイドブックを刊行。
カンカン村
同名の実在の村もありますが、ここでは架空の村。
それを結晶にしてしまおうとするなんて、馬鹿げていると思うだろう?
例えば、舞踊家の跳躍が空中で頂点を極める瞬間。
例えば、指揮者が振りかざしたタクトの先端に、音が一斉に焦点を結ぶ時。
例えば、生まれたての赤ん坊が初め微笑んだ瞬間に居合わせた幸運。
例えば、振り返ったおまえの髪が流線形を描きながら跳ね返す陽光の魔力に射抜かれる時。
おれが飽くことなく追及するショコラの結晶が完成形を極めたら、そこにはあらゆる奇跡の瞬間を閉じ込めることができるに違いないのだ。
星を数えるようなものだと思う。
あるいは、おまえのハートを射止めるために、フォンテーヌブローの木の葉全てに愛の言葉を書き付ける試みにも近い。
それでもおれは、今日も六感の全てを注ぎ込んで、一つの結晶を生み出そうとする。そう、口に含んだ途端に溶けて広がる幸福を、黒い結晶に凝縮しようと。
無骨な業務用冷蔵庫の扉を開けると、冷たい冷気がおれを通り過ぎて厨房に霧散した。中には十種類ほど並ぶ金属のバット。 試作を重ね、ようやく納得のいく出来に仕上がった会心の作だ。今日のあいつの顔を思い浮かべると、考えるよりも先に、その中の一つに手が伸びた。
常温よりやや低めの温度で厳重に管理されているのに、ショコラ・デ・クーベルチュールは、ふくよかで暖かくさえある香りを放つ。ラベルには55%の文字。今日のあいつに丁度いい苦み。カカオの香りは強く残ししながら、ミルクの芳醇な香りと甘みを併せ持つタイプで、疲れた体には適度にマイルドなはずだ。
本当なら使い捨て手袋を装着すべきなのだが、あいつにショコラ・ショーを調合する時は必ず素手だ。あいつの様子を脳裏に描きながら材料に直に触れると、不思議と彼女のコンディションに最適なブレンドができる。体温でショコラを温め過ぎないよう、手を冷やすために氷を張ったボウルを脇に用意した。
ミルクに細切りのオレンジの皮を落として、沸騰させないように注意深く沸かす。三分・・・四分・・・さらに二十八秒。ここだ!ここぞのタイミングで皮を取り出す。理屈なんてない。今日の加減はおれの指が知っている。
火力を強くして、生クリームとココアパウダーを加える。パウダーだって?無意識の選択だ。そうか、今日はほろ苦さがもっと必要なんだ。一気に沸騰させて、削ったクーベルチュール55%を溶かす。
濃厚で甘い香りが厨房を満たすが、うっとりと味わっている訳にはいかない。慎重に追加のかけらを落とす。香りが刻一刻と深みと奥行きを変化させるのを、総身のうぶ毛を逆立てて感じ取り、最適の量で止める。
よし、完璧だ。仕上げにグランマニエを少々。計量スプーンなんか使わない。使うのは六感のみ。二度と同じ味は作れないこの方法は商品化にそぐわないけれど。
祖母から譲り受けた古ぼけた銀のショコラティエールに移し、ゆっくりと空気を送り込む。モリネットが立てる音に注意深く耳を傾け、生まれる気泡の数まで我侭を尽くす。
用意したショコラカップは桃色の薔薇のレリーフがちりばめられた、マイセンの花のロンド、蓋つきだ。おまえは少女趣味だと笑うかも知れないけれど、今日は特別な日だから許してもらおう。
ショコラティエールの蓋を取ると、甘い香りが立ち上る。柑橘系の爽やかな香りとカカオの香ばしさが喧嘩することなく調和したブレンドはちょっと自慢してもいいだろう。カップに七分目まで注いだ時、厨房に続くダイニングに誰かが入ってくる気配がした。
香りを嗅ぎつけてやってくるタイミングはパーフェクトだな、オスカル。おまえのためだけの一杯が入ったところだよ。
💝 ☕ 💝 ☕ 💝 ☕
久しぶりに会った彼は、少し疲れた顔をしていた。わたしの髪よりも幾分うすいブロンドが心許なげに透けて見えた。
やあ久しぶり、元気だったか、ご招待ありがとう、と片手を上げながら招待客の合間を縫って彼が歩いてくる。忘れていたはずの痛みがスーツの袖を引っ張ると、するりとわたしの胸に滑り込んだ。ぼくの居場所はまだここにあると主張して。
気楽なパーティだから、平服でと招待状にあったわりには、ゴージャスな雰囲気だな、と笑う彼は、白いカシミヤのセーターが良く似合っていた。
彼を目の前にすると、こみ上げる懐かしさで泣きたくなった。それでもわたしは静かに大人の笑みを返す。いつの間にそんなことができるようになったのか。それを少し寂しく思うわたしがいる。
『もう、会うことはできないな』
彼ができる最大の思いやりだったあの言葉が、セピア色に風化して二人の間で宙ぶらりんになっていた。そろそろアルバムに貼り付けて、ページを閉じてもいい頃なのだ。言葉で確認などしなくとも、見つめ合った数秒でふたりとも理解した。
会えてよかった、と彼が言った。
君は勇気がある、とも言われた。
わたしも会えてよかった。勇気とは事業を新しく立ち上げたことか。
それとも決別を決めた勇気のことか。それは、どうかな。少し寂しげに笑う彼の笑顔は、何も語ってはくれなかった。
彼が我が家の古めかしいホールで談笑したのはせいぜい二十分程だったろうか。
じゃあ、また会おう。夏のバカンスにはオーロラと氷河でも見に来ないか、案内するよ。そう言っていとまを告げようとする彼に、わたしはいつも通りに握手の手を差し出した。
彼はわたしの手を取ると、甲に一つ、頬に二つ、キスをくれた。初めて女性扱いしてくれたんだな。それが今日だなんて、色男の名が泣くぞ。
不思議と寂しいとは思わなかった。去っていく彼の背中がぼやけて見えたけれど、気持ちのいい涙だった。また会おう。いい響きだ。
その時。
周囲の音が消えた。雪化粧した深い針葉樹の森と凍りついた湖水。その上では薄紫から緋色に変わる光のグラデーションがいく層も天から降り注ぐ。行ったことのない北の国が私の目の前に広がった。
ホールを埋め尽くしていた招待客は一人残らず姿を消し、彼の後姿だけが遠くに見えた。音一つなく、彼の後ろ姿はみるみる小さくなり、深い森に吸い込まれていった。
幻想は一瞬だった。わたしは再び賑やかなパーティの喧騒の中に引き戻されていた。彼は玄関ホールへ出ていくところでもう一度振り返り、笑顔で手を振ってくれた。わたしもそれに応えながら、とある感覚に包まれた。
デ・ジャ・ヴー。
この感じがそう呼ばれるものだろう。けれど、掴みどころのないその感触は、わたしの肩を掠めただけで消えてしまった。ケーキの箱を開けようとした手を滑らせて、床にぶちまけてしまった少女のような気分だった。
気がつくと、見送るわたしの後ろには長身の彼が立っていた。
少し痩せたみたいだな。後ろの彼はわたしが感じたと同じことを口にした。いつものように。
次期当主として、挨拶をしておかなければならない客と一通り杯を掲げると、わたしは疲れを覚え、一旦自室へ戻った。どさりと寝台に身を投げ出すと、マホガニーのコンソールに無造作に置かれた木の実に目が行った。
ラグビーボールのような形のカカオポッドだ。すっかり乾燥して、濃い茶色に変色したごつごつした肌からは、かつての瑞々しい緑色の衣など想像もつかない。この中に二十粒から四十粒ほどのカカオ豆が入っている。
軍役中に配属されたアフリカのコートジボワールで、正確に言えば隣国のガーナとの国境に跨る小さな村カンカンで、この最初のクリオロ種と思われるカカオポッドを見つけたのだ。
テオブロマ・カカオ。
ギリシア語で神の食べ物という学名を持つ植物。
非番中に、現地で親しくなった兵士に連れられて遊びに出かけた小村で見つけたそれが、幻のカカオと呼ばれるクリオロ種であったことなど、当時は知る由もなかった。
ただ、強烈に魅かれたのだ。
見つけたのはわたしではなく幼馴染の彼の方だった。へえ、これがショコラのもとか、不思議だな、初めて見るような気がしない。彼は、さも懐かしそうにその実を撫でたのだった。
何かに引かれるようにわたしは身を起こし、木の実を手にとってみた。この実との出会いがなければ、私がクラブ・デ・クロール・ド・ショコラのメンバーになることもなければ、趣味が高じてサロン・ド・ショコラにショコラバーを出展することもなかった。
言うまでもないが、幼馴染の彼が一緒になって熱を上げてくれることがなかったら、やはりそうはならなかった。そしてこの春、父の反対を押し切って、わたしは製菓用ショコラ工場を設立する。
そろそろ帰途につく客を見送りに出なければならない時刻だ。今日は将来の株主になってくれる友人知人を招待した内輪のヴァレンタインパーティーだった。ホスト役はあまり得意とするところではないけれど、わたしには強力な助っ人がいるのでこうして息抜きができる。しかし、いくら何でもこれ以上ホストが席を外しているわけにはいくまい。
立ち上がり、手に持っていたカカオポットを戻そうとしたその時、背後から熱い風が吹いたような気がした。
まただ。
デ・ジャ・ヴー。
湿気を含んだ大西洋からの海風。照りつける太陽の下、うっそうと茂るマングローブの林。海岸には大きく揺れるココ椰子が延々と続く。軍港から漂ってくる無粋な油の匂いが潮風に混じる。
ふと私の目の前をよぎった情景は、少し前に見た北欧の氷の国とはまるで違うのに、あの時と同じ感覚がわたしを包んだ。どこかで同じことがあったような、あの感覚。
そうだ、カンカン村で、子供たちと遊んだんだ。かつてフランスの植民地だったこの国では、未だにフランス語が公用語で、かなり奥まった村でも誰か彼かがフランス語を話す。遊び疲れて座った木陰で、子供たちも大人たちも、好奇心一杯の瞳で聞きたがったのは、雪と氷の話だった。
叙情的な話を聞かせるなら、幼馴染の彼の出番だ。彼は雪が音もなく降り積もり、町が砂糖菓子のように化粧する様子や、スノーマンの冒険の話、そり遊びやスケートや、氷に穴を開けてする魚釣りの楽しさを、童話を読み聞かせるような美しい言葉で語った。
沢山の黒い瞳が無垢な好奇心と憧れをきらきらさせてわたしたちを見詰めていた。太陽で焼きこんだような漆黒の肌。強く縮れた黒い髪も、素晴らしい光沢を持つ額も、肉厚な唇も、ひび割れて靴底のように分厚くなった素足の裏も、何もかもが、太陽の子と呼びたくなる健やかさだった。
わたしなど、陽のあたらない窓辺でひょろりと徒長した鉢植えの花の白い茎のようだ。一年の半分を冬が占め、太陽に焦がれ死にしそうに生活し、春を待ちわびる北ヨーロッパ。
そうか、わたしたちは同じ瞳をしているのだ。年間通して陽光を全身に浴びて生きているこの子たちは雪と氷の話に目を輝かせ、わたしたち北ヨーロッパ人は太陽の光に歓喜する。
北ヨーロッパの最果ての国からやって来た、氷と湖水と白夜の香りのする君をわたしは恋した。遥かなる極北の国はいつもわたしの満たされぬ憧憬の象徴だった。わたしには包んでくれる温かい日差しがあったのに。温かさに慣れすぎて、違うものに強烈に魅せられていた。
ああ、そうか。デ・ジャ・ヴーが繋がった。あ、だけど・・・。
もう一つ、別の何かがわたしに触れて、すっと消えた。温かい眼差し?太陽のような笑顔?
花咲乱れるパリの春は美しいし、南仏の香りはパリとは別物なほど南国だけど。わたしが思ったのはそれではない。では、何だ?
かっと頭の中が白くなった。わたしはまだ知りたくない。だからもうしばらくそっとしておこう。『何か』に出会えば、わたしごと全てが変わらざるを得ない予感がする。『何か』は、わたしの根源に関わる何かだから。
手に持ったカカオポットをぽん、と右手で放り上げ、くるくると回転しながら放物線を描くラグビーボールのような木の実を左手でキャッチした。こうやって、どんなに抵抗しようが無視を決め込もうが、『何か』はきっと必ず戻ってくる。ならば今はもう少し、ほろ苦い片恋の痛みをそっと慈しんでいたい。
🌴 🌞 🌴 🌞 🌴 🌞
ヴァレンタインパーティはお開きになった。あいつはどんなにか疲れているだろう。接客だって社交だって、あいつは完璧にこなせるし、だれをも魅了してしまうから、こうした内輪の集まりであっても、ビジネスチャンスを広げる強力な足がかりにしてしまう。反面、こういった仕事はあいつを酷く消耗させる。
それに、今夜はそれだけではなく。かつて学友だった北欧の、スウェーデン大使の不自然なほど短い滞在時間。あいつの友人であるファースト・レディの出席が直前にキャンセルされたこと。
ふたつのピースを合わせれば、裏の事情はすぐ見える。陸軍特殊部隊に配属された時に女性である利を買われて警護にあたったファースト・レディとあいつは今でも交流を持っている。彼女のプライベートナンバーから連絡があった時、あいつははじめから分かっていたような応対をしていた。
秘密の逢瀬の立役者になることを、あいつが自ら申し出たとは思えない。あいつの気持ちを知らないファースト・レディから頼まれたか。それとも、馬鹿な役回りを引き受けてでも、彼に会いたかったのか。
たとえそうだとしても、恋には理屈に合わぬ行動がつきものであることをおれもよく知っている。ただ、おまえが今以上に傷つかないことを祈るばかり。無力なおれ。
あいつの足音を確認すると、おれは固くあわ立てたフォームドミルクをショコラの上に流し入れた。その上にチョコレートシロップでスマイルを描く。会心の笑みができた。その脇に小さな円を一つ、二つ、もう一つくらいいいかな、三つ。
慎重に描いた円の中心に、切るように爪楊枝を走らせると、円は形を変え、ビッグスマイルの周りを小さなハートが三つ、取り囲んだ。
やあ、いいところに来たね、とカップを乗せたトレイを持って厨房を出る。パーティの名残が残るテーブルのうち、比較的片付いている一つに、あいつとおれは申し合わせたように腰をかけた。
思ったよりもすっきりとした顔つきをしたあいつだった。
Be my Valentine。
苦しめたくはないから、声に出しては言えないけれど、おれからのメッセージを受け取ってくれ。どう受け止めてくれてもいい。兄でも、不詳の弟でも仕事の相棒とでも。
思ったとおり、花柄のカップに苦笑してあいつは蓋を取った。オレンジの、いい香りがすると言いかけてカップを覗き込んだ目を丸くした。素直な反応でよろしい。どんな顔してもやっぱりおまえは美人だよ。
おれから、ハッピーヴァレンタイン、と言うとあいつは一瞬泣きそうな顔になった。そうか、辛かったか。おれも辛かったよ。しばらくじっとカップを見詰めて、おまえはくすりと笑い、勿体ないなと言ってカップに口を付けた。
☺ ☕ ☺ ☕ ☺ ☕
たっぷり半円を描いた大きな口元で、あらん限りの愛想を振り撒くビッグスマイルが蓋の下から現れた。シンプル極まりない顔して、魔法のように心を柔らかく揉みほぐしてくれる。カップの縁に沿って流れるように小さなハートが取り囲んでいた。
優しいひと言も加わって、誰かに心底思いやられる幸福をわたしは突然無防備に受け取った。
強がる間くらい与えてくれ。今日のおまえは気が利いているのか鈍いのか。そういえば、大事な人に思いを伝える日だったな。わたしを大切に思ってくれているのか。もちろんわたしはそれを知っている。
それでも伝えてもらえばもっと嬉しい、ありがとう。
今日のショコラも初めての味がした。彼がわたしに入れてくれるショコラは、一つとして同じ味がしない。その日のコンディションに合わせて、毎回わたし専用のオーダーメイドだから。
客にサーヴする商品なら、きっちりと変わらぬ味をキープすることなど簡単にできる彼なのに、わたしには、もう二度と同じ味は出せないからな、心して味わえと偉ぶって見せる。彼曰く、わたしにだけはそれができないのだ、と。それは果たして自慢なのか?
驚いたことに、噛み締めていたいと思ったほろ苦さが究極の加減で口の中に広がった。シトラスの香りは涙を流した後の爽やかさ。疲れた体に丁度良く染みとおる甘さはやや軽め。ビターだけど限りなくスウィートに近いぎりぎりのカカオの香り。わたしの体の細胞を一つ一つ目覚めさせていくようだ。
わたしも彼にヴァレンタインの贈り物があったけれど、出すのが恥ずかしくなってしまった。わたしが持ってきたものは、カップに浮かんだ三つのハートにも足りないような気がして。
傍にいてくれてありがとう。それを伝えることなしに、今日を終えてしまっては、聖ヴァレンティヌスに顔向けできない。聖人に、何の義理があるのかは良くわからないが。
💝 💐 💝 💐 💝
名を呼ばれて我に返った。あほ面さらしておまえに見とれていたらしい。大目に見てくれないか?おまえのこんなに近くにいて、クールにすかしてなんかいられない。
わたしからも、ハッピーヴァレンタイン。
耳元でおまえの声を聞いた。柔らかな髪と温かな頬が一瞬おれのものだった。右に一度、左に一度、そしてもう一度右。立ち上がって身を屈めたおまえから、頬にキスを受ける。
おいおい、せっかくならちゃんと予告してくれないか。心の準備ってものが必要なんだ、おれの場合。目を回してしまっては、千載一遇のチャンスを味わえないじゃないか、ああくらくらする。それが、たとえ友達のキスであってもさ。
友達の・・・?
ぼんやりと焦点の合わない目つきをしているだろうおれを、おまえは両手を腰に当てて呆れたように見下ろしている。先生ごめんなさいって言いたくなるよ、そのポーズ。ああ、今度は腕組みなんかしちゃって、おれ何か悪いことでもしたのかな?
友達の・・・。
ごめん、そうだった!
これは、おまえとおれの明日への約束。明日もまた遊ぼうのキス。毎日夕方になると交わした、今日と明日がいつまでも繋がりますようにとの祈り。どうして忘れてなどいたのだろう。
最高のショコラだった、とおまえが言う。
おれも気分は最高、と答えた。
おまえは、ショコラに関しては天才だな。
満足そうに笑うおまえ。
このひと時こそ、ショコラに閉じ込めてしまいたいおれがいる。
今夜は、もうなにもいらない。
♥ ♥ ♥ 💘 ♥
翌日、実は、こっちの方をおまえに贈ろうと思っていた、と何かを渡された。くしゃくしゃになった書類が一綴り。だが、それならおれも同じものを持っている。書き込みだらけで、もっとぼろぼろなやつを。
事業として稼動することになったショコラ工場のサテライトカフェの企画書だもの、当たり前だ。
どういうことだろう、と無言で問うと、良く見てみろ!と怒鳴られた。
あれ、昨日の続きかな、はい、先生。
ぱかっと丸めた書類で頭を叩かれたので、おれは一応神妙にして見せてから、よくよく書類を見直した。そこには未定だった店舗の名前が入っていた。
『黒い瞳亭』
おれはしばらくそれを見詰めていた。目玉商品がショコラだから、青い瞳亭よりも、らしいかも知れない。それに、そうか、全てはカンカン村から始まったのだから、黒い瞳。栽培が困難と言われるクリオロ種を、新しい技術を学んで生産してくれることになった彼らの瞳にかけたのか。うん、そうだ、そうに違いない。だから黒い瞳亭。いい名だと思うよ、オスカル。
担任の先生に正解を褒めてもらう気満々の小学生のように、自信たっぷりに発言した。
ぱかっ!あれ、また叩かれた。厳しいな、オスカル先生。
黒は全てにかかっている。関わる彼らの瞳にも、ショコラの色にも。でも瞳は!オスカルはそこまで言うと、少しはにかんで言葉を切った。そして、ぷいと横を向く。
瞳が単数形になっているのに、さっさと気づかんか!
昨日は今日へと続いていた。今日は明日へと続くだろう。
Bitter but so sweet days。
FIN
2.14. 2005 Uploaded
サイト名『黒い瞳亭』をCafe Blackeye と表記するのは、こういう訳なんです。Eyesにした方が自然なのですけれど、絶対に単数形eye. 変でもいいんです。これで決まり!
クラブ・デ・クロール・ド・ショコラ
150人限定のチョコレート好きオタククラブ。欠員が出ないと入れない。入会はかなり困難。フランス産チョコレートの品質向上、試食、産業保護がおもな活動内容。ミシュランガイドブックに相当するチョコレートランク付きのガイドブックを刊行。
カンカン村
同名の実在の村もありますが、ここでは架空の村。
Sponsored link
This advertisement is displayed when there is no update for a certain period of time.
It will return to non-display when content update is done.
Also, it will always be hidden when becoming a premium user.
新着コメント
COMMENT
ありがとうございます!
新作?じゃないんですね!
チョコストーリーてもしかして
他にもあるんでしょうか??(**)
シリーズだったんでしょうか?
え、え、読みたい~!読みたい~!
オスカルさまが切ない。
アンドレも切ない、でもしっかり
支えてるし。
北欧の貴公子め(>_<)
いや振ってくれてありがとうなんですけど、、、大変複雑な心境でございます。
黒い瞳亭は単数形だったのですね、
アンドレ同様気が付きませんでした。
オスカルさまの友情の?キスと
はにかみに♡
元祖ツンデレですよね、かわいすぎます、お嬢さま(^.^)
新作?じゃないんですね!
チョコストーリーてもしかして
他にもあるんでしょうか??(**)
シリーズだったんでしょうか?
え、え、読みたい~!読みたい~!
オスカルさまが切ない。
アンドレも切ない、でもしっかり
支えてるし。
北欧の貴公子め(>_<)
いや振ってくれてありがとうなんですけど、、、大変複雑な心境でございます。
黒い瞳亭は単数形だったのですね、
アンドレ同様気が付きませんでした。
オスカルさまの友情の?キスと
はにかみに♡
元祖ツンデレですよね、かわいすぎます、お嬢さま(^.^)
まここさま
いつもありがとうございます。
拙宅での数少ない現代物ですが、シリーズと呼べるほど話数はないんです。まだあと少しありますので、ヴァレンタインにはあと一個くらい出せるやも知れません。再掲になりますけど。
>振ってくれてありがとう
まさに!振ってくれなかったら困りますよ。
はい、黒い瞳亭、本当は Cafe Bkackeyes
と表記するのが自然なんですけど、あえて単数形にしています♥
いつもありがとうございます。
拙宅での数少ない現代物ですが、シリーズと呼べるほど話数はないんです。まだあと少しありますので、ヴァレンタインにはあと一個くらい出せるやも知れません。再掲になりますけど。
>振ってくれてありがとう
まさに!振ってくれなかったら困りますよ。
はい、黒い瞳亭、本当は Cafe Bkackeyes
と表記するのが自然なんですけど、あえて単数形にしています♥
COMMENT FORM