万聖節が来る前に 6

2022/08/28(日) 原作の隙間 1762晩秋
「あっ!いたたたっ!」

積み上がった荷物の隙間に身を潜めていたアンドレは頭を両膝の間に入れて背を丸めた。もう何回も野菜の詰まった木箱の角に頭をぶつけている。ジャルジェ家出入り農家の主ボーネルは、荷馬車に野菜箱をでたらめに詰め込んでいたので、アンドレが身を隠せるような隙間はいくらもあったが、体勢を自由に変えられるほどの余裕はなかった。

せっかちなボーネルは車輪が石やわだちに乗り上げてもスピードを落さず馬に鞭をくれる。御者台側の車輪はスプリングが効いているらしく、乱暴に操馬してもボーネルの尻は安泰なのだろう。しかし、荷台の車輪は悪路で激しく上下し、小さなアンドレの体は簡単に跳ね上がる。そして頭上にせり出ている大型の木箱に当たってしまうのだ。

木箱はロープで固定されていたが、カーブごとにギシギシと恐ろしげな音をたてて撓んだ。頭にはこぶができるし、朝採れ野菜の根から染み出た泥にまみれた荷台は、尻が凍り付くように冷えた。しかしアンドレにとって冷えよりも深刻だったのは、ジャルジェ家で誂えてもらったキュロットに泥染みが広がっていくことだった。

『どうしよう、こんなに汚しちゃったらもう使えなくなるかも知れないよ』
我ながら小心者だとアンドレは思った。オスカルなら思いつきさえしない憂慮だろう。

しかし、専任の洗濯係や縫製係が働く裏舞台や、出入りのお仕着せ用生地問屋と交渉する祖母の姿を見知ったアンドレは、たとえ靴下一足であっても、その管理に人手と金がかかっていることを、教えられずとも理解していた。

そこで、邸を抜け出す時に狼谷村時代の衣服をトランクから取り出そうと努力はしてみたのだ。ところが、父母の形見の貴金属なども一緒に収納してあるトランクにはしっかりと鍵がかけてあった。まさか開錠を祖母に頼むわけにはいかない。

仕方なくいつも通りの服装のまま出て来るしかなかった。一方、祖母の目を盗んでボーネル氏の荷台に潜り込むタイミングを計るのは簡単だった。昨日からオスカルが風邪で寝込んだため、祖母はほとんど自室に戻ることなく看病に詰めていたからだ。

アンドレは、オスカルに手伝ってもらいながら書いた母への手紙と、父から貰った宝物である小さな革袋を内ポケットに忍ばせ、ジャルジェ家厨房勝手口に寄せてあった荷馬車に誰にも見とがめられることなく潜り込むことに成功した。革袋には、去年の誕生日に貰ったエキュ銅貨が3つ、大切にしまわれていた。
まだ金を使う経験のないアンドレにとって、それは貨幣というよりはお守りのようなものだった。自分一人では思いもつかないような、オスカルが立てた計画をたった一人で実行に移すのだ。どんなにささやかなものでも、支えになる何かが必要だった。

「う~~っ!気持ち悪いよ~!」

ヴェルサイユ市街地を抜け、カーブが続く林道に入るとボーネルはややスピードを落したが、荷馬車は右に左に大きく揺れた。尻がジンジン冷え、容赦ない振動は頭のコブに響き、踏んだり蹴ったりの上に乗りもの酔いまでがアンドレを襲った。胃の奥から苦いものがせりあがって来る。しかし、朝食にありつけないまま出てきたアンドレに吐くものは何もなかった。

『あとどれくらいでパリに着くんだろう』

アンドレはすがるような気持ちで幌の隙間から外を見た。見えるのはただ延々と続く暗い林だけ、まだまだパリは遠い。幌を開けていると、頬が切れるような外気が吹き込み、幌を閉じてもじっとしているにはあまりにも寒すぎた。

震えながら幌を閉じ、また5分も経たぬうちに幌を開けることを延々と繰り返すうちに、冬の薄い朝日が落葉した森に透けて姿を現し、木の枝に凍りついた朝露がきらきらと光った。

うっすらと白く霜で覆われた木々の梢が風で揺れるたびに、細氷が粉砂糖が舞い散るよううに空気中にきらめく。寒さとめまいと頭の痛みを一瞬忘れ、アンドレは昇る朝日の輝きにくぎ付けになった。

雲が重く垂れ込む日が続く初冬にしてはめずらしい陽光の恵みだ。

『かあさんが応援してくれているんだ。母さんはきっと今夜帰って来る!』

熱い涙が急に盛り上がり、アンドレの頬を流れた。寒くても心細くてもおなかが空いても負けるもんか、負けるもんか。オスカルが計画してくれた通りに動けば絶対に狼谷村に帰れる。必ず母さんに会うんだ。会ったら、元気だと伝えるんだ。一人で狼谷村へ帰れるくらい強くなったところを見せるんだ。

右腕の袖が涙と鼻水でしみだらけになり、ポケットから慌ててハンカチを取り出すまで、アンドレは止まらない涙を拭っては声を殺して嗚咽した。


太陽が森の上まで登るころ、馬車はパリの市門を抜けシャンゼリゼ通りに入った。すると、にわかに人通りが増えて、人間と家畜がひしめき合いながら暮らす大都会の濃厚な生活の匂いが荷台の中まで流れ込んだ。

父に連れられて、何度もパリに来たことのあるアンドレは、都市の濃密な生活臭を覚えていた。騒がしい生活音と教会の鐘の音、市民の喧騒、ガチョウやアヒルが鳴き喚く声、馬の嘶き。林立する煙突からもくもくと吐き出される煙で空は朝から煙っている。

間違いなくパリだ!着いた!車酔いと寒さでぐったりしていたアンドレは顔を上げた。第一関門を突破したのだ。荷馬車はぐいっと強引に右折と左折を繰り返し、セーヌ川沿いに出たようだ。アンドレはそれをやはりセーヌ独特のドブ臭さで知った。

いよいよだ。アンドレの小さな心臓は破れんばかりに高鳴った。何とか見つからずに馬車を降りなければならない。その後は、自分の足だけを頼りにパリから狼谷村へ向かうのだ。からだの奥底からぞくぞくと震えが沸き起こる。

アンドレは身をよじりながら荷馬車の最後尾まで進むと幌を持ち上げ、外を見た。みっしりと3階から4階建ての家が立ち並んでいる。その町並みが切れた向こう側がセーヌだとすれば、オスカルとパリの地図で確認したとおり、じきにチュイルリー庭園と宮殿が見えてくるはずだ。

程なくして進行方向の左側に整然と植えられた並木が現れた。自然の森ではないところを見るとチュイルリー庭園だろう。右側には船着き場らしき桟橋と荷馬車の一団が見えるからセーヌに違いない。よしっ!ここがどこかわかったぞ!アンドレはガッツポーズを決めた。

ボーネルが目指す中央市場は市街の中ほどにあり、荷馬車はいずれ川沿いから街中に逸れて行く。現在位置がわかっているうちに馬車から降りた方が迷わなくていいだろう。

建物がひしめき立つ市街地の中に入ってしまうと、たちまち東西南北がわからなくなってしまう。パリに工房を構えていたアンドレの父ですら、時に迷うことがあったのだ。

ドキドキと高鳴る心臓をなだめつつ、アンドレは荷台の後尾から顔を出した。荷台の縁から地面までの距離は、アンドレの身長より少し長い。つまり、荷台の縁にぶら下がれば、地面はもう足に届くか届かないかの位置に来るはずだ。

しかも、ヴェルサイユから一度も休ませて貰っていない馬は可愛そうな程疲れ果て、スピードを落している。市に向かう荷馬車で往来が混み合い始めたこともあり、アンドレが荷台から飛び降りられるチャンスはありそうだ。

アンドレは荷台の縁によじ登り、そろそろと足を一本ずつ外側に出して座った。このままでも飛び降りられるような気もするが、万が一着地に失敗して地面に転がってしまったら全身が悲惨なほど泥まみれになるだろう。泥に見える地面の汚物が泥だけではないことを、アンドレは知っていた。

アンドレは両腕で体を浮かし、慎重に後ろ向きになった。そして、足をばたつかせて足場を探しながらそろそろと両肘を曲げ、体を降ろして行く。荷馬車の縁にしっかりと掴まり、四苦八苦しながら両肘を完全に曲げた状態まで体を下ろすと、アンドレは一息ついた。

ゆっくり走る荷馬車は時折路面に落ちている石や固まった泥に乗り上げてしぶきを上げた。アンドレはそのたびに足を縮めて跳ね上がる汚泥を避けた。

『よし、降りるぞ』

アンドレは今度はじりじりと両腕を伸ばし始めた。ヴェルサイユからパリに着くまでに冷え切っていた体は、額に汗がにじみ出るほど火照っていた。

「う~っ!ちくしょう!」

うっかり振り落とされないように、腕を半分まで伸ばしたところでこらえきれなくなりそうなほど肘が痛んだ。歯を食いしばって肘と荷台の縁を握る手にかかる自分の体重を耐え、アンドレは半ば落ちるように腕を完全に伸ばしたが、荷台の縁は決して離さなかった。

ようやく、縁にまっすぐぶら下がった状態になってから足元を見ると、地面まで一飛びで降りられそうだった。いけるぞ!。アンドレは目をこらし、路上の状態をくまなく観察した。泥やごみに覆われている箇所を避け、足元に石畳が姿を見せる瞬間を待って、飛び下りた。

アンドレは転ぶことなしに地面に降り立つことができた。
『やった!第一関門突破だ!』
躍り上がりたいほど高揚したアンドレはオスカルを思った。オスカルがいてくれたら、どんなにいいだろう。オスカルにもこの気持ちを味わって欲しい。ちがう、一緒にこの喜びを味わいたいんだ。

ふと目を上げると、遠ざかりつつあるボーネルの荷馬車が見えた。急に心細くなり、別の意味でオスカルにそばにいて欲しい、とアンドレは下唇を噛んだ。あんなに火照っていた体は急激に冷え、背中にかいた汗がぞくりと冷たくなった。大都会、パリにひとりきりだ。いや心細さが増したが、アンドレは泣かなかった。

『よし、行くぞ』

川沿いの道をアンドレは歩き出した。この先は、見覚えのあるマルヌ川へ分岐する水門まで延々と歩き続けなければならない。泥水を吸ってかじかんだつま先がちぎれそうに痛かったが、歩くうちに暖かくなるだろう。

とにかくへこたれずに歩き続ければ必ず狼谷村へ辿りつける場所に降り立ったのだ。見上げれば、セーヌ河の上をカモメが数羽弧を描いて高く回旋している。アンドレの心も気流に乗り高く飛翔した。さあ、狼谷村へ出発だ!

アンドレの地理感覚は大雑把なものだったので、セーヌの右岸を上流に少し歩けばじきに見覚えのあるマルヌ川分岐地点の水門が見えるものと思っていた。

しかし、世界は巨大だった。かじかんだ指先に息を吹きかけながら、アンドレがどれほど歩みを速めても、あらゆる人間の営みを飲み込むセーヌは、アンドレの存在など歯牙にもかけず、のたうつ生き物のように先へ先へと進んで行くようだった

川岸に幾つも連なる荷揚げ港には平底貨物船が接岸され、煤で真っ黒に汚れた荷運び人足がくるぶしまで泥に浸かりながら石灰の詰まったコンテナを運び出していた。川面には舫われた洗濯船が何隻もゆらぎ、その間をぬうように煉瓦や魚介などを満載した手漕ぎ船や筏が通り抜ける。

怒鳴り合う男や女の声、家畜の鳴き声、荷車のきしみ、馬の蹄が石畳を蹴る音。アンドレの耳に流れ込む生活音は増々騒がしくなってゆく。目覚めたパリが活気づくにつれ、自分がどんどん小さな存在になっていくようだった。次々と自分を追いこす荷馬車を見送るたびに、世界そのものから取り残される恐怖に襲われた。

恐怖よりもっと深刻な問題があった。8歳のこどもにとって、空腹ほど勇気を削いでしまうものはない。ありとあらゆる生活臭のはざまに煮炊きの匂いが流れてくると、アンドレの腹は細く切ない音を絞り出した。

ジャルジェ家の厨房にかご盛りにされていた丸パンが目に浮かぶ。切り分ける前の丸パンは、ポケットにねじ込むには大きすぎたので、あきらめて手ぶらで飛び出して来たのだった。アンドレの口の中は唾液でいっぱいになり、食べ物のことを考えることが止められなくなった。

毎朝鶏小屋へ行く下働きのポレットが見せてくれた産みたての卵はほかほかと温かかったっけ。もう今日の卵を集め終わっただろうな。リュシルはオムレツを焼く練習をしているかな。形を失敗したやつをよく食べさせてくれたけど、おいしかったな。

おばあちゃんは、日曜日には特別にはちみつかジャムをパンにのせてくれる。キイチゴのジャムははもう終わりだけれど、来週はオレンジの瓶を開けるって言ってたっけ。楽しみだな。酸っぱいリンゴもこれからジャムになるしね。

しぼりたてミルクは温めるとクリームが浮くから、気をつけないと口の周りに白いひげがつくんだ。昨日はジェラールが新作のかぼちゃのスープを味見させてくれたけど、何度もおかわりしたら、それじゃ味見とは言わないぞって笑われた。

でも、一番食べたいのは母さんがよく作ってくれた麦がゆだ。その日によって豆が入っていたり、栗が入っていたりしたっけ。何も入っていない時もあったけど、そんな時はいつもより長く嚙んでいると、ほんのりと甘くなる。からだもぽかぽかと温かくなる。

ジャルジェ家で初めて口にした贅沢な食事ではなく、母の素朴な手料理を思い出した途端、アンドレの口いっぱいに唾が沸いた。あわててそれを飲み込むと、鼻の奥がつんと痛んだ。

『かあさん』

泥にからめとられた靴が急に重くなり、足取りが遅くなる。空腹が辛いのか冷たいつま先が痛いのか、もうわからない。アンドレは立ち止まり、ポケットの中から小さな革袋を取り出した。この銅貨で何が買えるのか、そのためにはどこへ行けば良いのか、皆目見当がつかない。
この日何度目かの涙が溢れそうになった。食べものを売っているところを探しに一度でも川沿いを離れたら途端に迷子になる。迷子になれば今日中に狼谷村へ着けないかも知れない。それではここまで頑張った甲斐がない。

腹は減っても、このまま歩こう。アンドレは革袋をポケットに戻した。すると、もう一方のポケットにしまっておいた母への手紙がカサッと小さな音をたてた。綴りを間違えるたびにオスカルにどつかれながら書いたものだ。

自分の方から綴りは教えてやる、と言いながらオスカルはアンドレが書き損じると目を吊り上げて紙を奪った。アンドレとしては、書き損じたら二重線で打ち消せば十分なのだが、オスカルは最初から書き直せと譲らない。

しかも、文章にまでケチをつける。オスカルから見ると、アンドレの語彙は幼過ぎて物足りないのだ。アンドレの書字スピードに焦れて、ぼくが書いてやるとペンを取り上げようとする短気も見せた。

手紙ひとつ、オスカルは完成度を諦めない。一体誰のための手紙なのか、しまいにはわからなくなるほどオスカルが注文をつけるので、大層時間がかかった。短気なくせに最後まで付き合ってくれるお嬢様である。

『親切だとは思うけど、ほんとにわがままだよなオスカルって』

下唇を突き出して、両腰に手をあてた小生意気な姿が目に浮かび、アンドレはあわてて涙を堪えた。腹が減ったくらいで泣くオスカルなんて想像もつかない。実のところ、まだ一度だって泣いたところを見たことがない。

反面、自分はもう何度も泣き顔を見られている。オスカルが今ここにいなくて良かったような、いて欲しいような。アンドレは口を真一文字に引き締めると、顔を上げ、再び歩き出した。

スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。

COMMENT

ちょっと突いたら、鬼でも蛇でもなく、お話しが出てきた\(^o^)/

また、突つきまーす!
わーい!! おれんぢぺこ 2022/08/29(月) 12:19 EDIT DEL
わーい、万聖節の続きありがとうございます!
もう一度 1から読み直しました。改めてチビOA本当にかわいい。
O様の小生意気な感じもA君の健気に頑張っている姿も大好きです。
A君がんばれ!お母さんに会えるかな。

暁シリーズは黒歴史なんですか?!
10年ほど前 旧サイトで暁シリーズを見つけたときは感動のあまり寝るのも忘れて狼谷村までの話を一気に読んだことを思い出します。
私にとってはこのお話に出会えたことに感謝しかありません。
もしですけど当時と今でストーリーや設定に考えが変わったのかな?
その場合は2次なのですから好きなように創作しちゃっていいと思います。
すみません、勝手なことを言ってしまいました;;
でも暁シリーズのファンの方はたくさんいらっしゃいますよ~!
ではではまた。
NO-TITLE みかん55 2022/08/30(火) 12:40 EDIT DEL
>おれんぢぺこさま
突っつかれないとなかなか動けないのをよくご存じで…
いやはや、今後ともお手柔らかに突っついてくださいまし~
m(_ _)m
おれんぢぺこさま もんぶらん 2022/09/04(日) 11:15 EDIT DEL
>みかん55さま。 
お久し振りです。最初から読んで下さってありがとうございます。この更新頻度では、最初から読まないとなんのこっちゃ?状態になってしまいますよね。実は書く側も最初から読み直さないと、どう続くのかわからなくなるんですよ(^^ゞ

暁シリーズのことを【黒歴史】なんて言っちゃったために、実はメール等でも何でですか~とご質問頂きまして…

すみません、お騒がせしてしまいました。ファンであるとのお言葉、もう涙が出るほど嬉しいです。「お返事」カテゴリーで、暁シリーズ黒歴史発言について、補足をこれから書きますね。

みかん55さま もんぶらん 2022/09/04(日) 11:23 EDIT DEL

COMMENT FORM

メールアドレスやURLの記入は任意です。記入しても表示されることはありません。なお、絵文字を使うと、絵文字以降の投稿文が消える場合があるようです。絵文字を使った場合は、コピーをとっておくことをお勧めします。