祝福のかたち 7月13日

2022/07/14(木) 原作の隙間1789.7月

「今こそ武器をとれ!」
―パレロワイヤルから始まった市民の波はチュイルリー庭園を埋め尽くした―

チュイルリー庭園を埋め尽くした数千の市民を排除するべく、プザンヴァル将軍から命を受けたランべスク公爵はルイ15世広場側から群衆にドイツ人騎兵を突入させた。

パリに進軍した外国人傭兵は、もう何日も市民の投石や家材を使った攻撃を耐えに耐えていた。我慢の限界だった彼らは、ついに発令された発砲許可に時の声を上げた。

高く盛り土をされたチュイルリー庭園めがけ、広場から緩い階段を駆け上がった騎兵は遠慮なく人垣に突っ込み、何人かの市民を踏みつぶし、躊躇なく軍刀を振り下ろし血しぶきを上げた。

騎兵の後方からは、援護する歩兵が隊伍を組んで発砲し、銃弾が何人かの市民に命中した。恐怖に震え上がった悲鳴があちこちで上がり、方向性を失った群衆は庭園の東奥へと追い詰められていく。

人数だけを盾に意気込んではみたものの、いざ火器の威力と職業軍人の戦い慣れた動きを前にして、丸腰の市民は己が判断の甘さを思い知った。次々と胸元から血しぶきを吹いて倒れる同胞を目の当たりにし、ただ逃げ間惑うことしかできない。チュイルリー広場は阿鼻叫喚のるつぼと化し、ついに万事休すかと誰もが天に向かって十字を切った。

その時。別の進軍太鼓の音が近づいて来た。音の聞こえる方を見やれば、青い軍服に身を包んだ騎兵が隊列を組んだ歩兵を従えてシャンゼリゼ遊歩道から進軍して来るではないか。

これでは挟み撃ちだ!広場側に逃げた市民は恐怖にあらん限りの叫び声を上げ、方向感なく我先にと逃げ出した。ところが、ほどなく広場に到着したフランス衛兵は市民には目もくれず、もくもくと広場を前進した。

広場中央に座するルイ15世騎馬像を過ぎ、ドイツ人騎兵の背後に迫るやいなや、フランス衛兵隊指揮官の凛とした号令が響いた。衛兵は一糸乱れぬ動きで縦隊からやや湾曲した横隊に陣形を展開させた。広場に残っている市民を後方に守り、ドイツ人騎兵隊を正面に臨む形である。

市民は何かがおかしいことに気がついた。フランス衛兵隊が一斉に構えた銃口は自分たちと反対方向を向いている。

再び良く通る声が響き、突撃が命じられると、フランス衛兵は雄叫びを轟かせながら反転したドイツ人連隊と銃撃戦に突入した。

「お…おい、何がどうなっているんだ」
「フランス衛兵がドイツ人連隊と戦っているぞ!」
「おらっちの兄貴はフランス衛兵だ。そうか!た…助けに来てくれたんだよ!」

市民の大歓声がルイ15世広場に湧き上がる。フランス衛兵が救援に来てくれた!フランス衛兵は人民の味方だ!ニュースは瞬く間に市民の間に広がり、一度は逃げ出した市民の多くがルイ15世広場に再び集まり始めた。

ドイツ人連隊を率いるランべスク公爵は、味方の歩兵に守られながら、隊列を整然と正確に展開させるフランス衛兵を目の当たりにし、驚きを禁じ得なかった。

同じ国王軍であるはずの衛兵隊が市民側に立った!その衝撃から覚める間もなく見せつけられたのは、一心同体のごとく呼応する指揮官と兵の呼吸だった。兵士の不服従と反乱が横行する昨今、これほど統率された軍はついぞお目にかかったことがない。

しかも兵士の気迫が違う。一見しただけで士気が桁外れに高いことがわかる。敵ながら見事。羨ましいほどだ。つまり、この危険な敵の正面突破を試みるリスクを冒してはならない。ランべスク侯爵の背に冷たい汗が落ちた。

加えてフランス衛兵の寝返りを聞きつけた市民が続々と広場に集まりつつあった。膨れ上がる人数に比例して市民の意気も上がる。投石でフランス衛兵を援護しようとする市民が現れ、その存在も侮れなくなって来た。

丸腰の市民ひとりひとりの威力こそ取るに足らないが、狭い市内に追い込まれればガラクタを積み上げたバリケードと人垣に隊を分断されるリスクがある。

分断されたら最後、狭い路地でフランス衛兵と人垣に囲まれて順番になぶり殺しだ。現に味方の騎手がひとり、市民の手によって馬から引きずり降ろされ八つ裂きにされていた。

軍規を叩きこまれ命令で動く職業兵士とは違い、戦いの作法を知らない市民の原動力は私怨だ。一度復讐心に火がつくと、限りなく残酷になれる。

ランべスク公は考えた。フランス衛兵はチュイルリー庭園より低地になっているルイ15世広場で隊列を組んでいる。今ならまだわが軍の方が地形的に有利だ。

今のうちにさっさと指揮官を倒し、フランス衛兵が隊伍を崩した隙に一旦撤退して体勢を立て直さなければ―我ながら信じられないが―負けてしまうかも知れない。

ランべスク公は護衛の将校に命じた。
「指揮官を仕留めろ!その隙に一時撤退だ!」

ランべスク公の命令を受け、味方のマスケット銃が一斉に火を噴いた。指揮官が倒れたかどうかはわからなかったが、少なくとも騎兵が一人落馬し、もう一人の騎兵の姿も消えた。しかしながらそれも一瞬のことで、歩兵の一人が即座に指揮を取って替わったと報告が入った。

指揮官が交代した後も、フランス衛兵の士気は下がらず味方をじりじりと後退させた。活気をとりもどした群集が退路を塞いでいるせいで、身動きが取れない上に、フランス衛兵は隊形を崩すことなく集中銃撃を浴びせてくる。

なりふりを構っている場合ではなかった。ランべスク公は忸怩たる思いで不名誉な敵前後退を選んだ。反転を命じて庭園を無理やり横断する形で脱出に成功すると、セーヌ左岸に降り、ロワイヤル橋を目指した。

その間、市民は公園内に築いた即席のバリケードの陰から投げられるものなら何でも投げていたが、やがて銃声が止んだことに気が付いた。

樹木や彫刻の陰から、バリケードの隙間から恐る恐る覗いてみると、植樹の間を土ぼこりを上げて遠ざかる騎兵隊と歩兵の姿が見えた。

わらわらと物陰から出て来た市民は去りゆくドイツ人連隊を唖然として見送った。そして、しばらく間をおいてから何が起きたかを悟った。人民が王の軍隊に勝ったのだ。

「か…勝ったぞ…!」

誰かが恐る恐る勝どきの声を上げた。それを合図にひとり、またひとりと市民が勝利を声高に宣言し始める。次第にそれは大歓声となって広場を揺らさんばかりに轟いた。

「やったあ!ドイツ人騎兵を追い払ったぞ!」
「ざまあみやがれ!今度来やがったらケツの穴に爆竹を突っ込んでやるからな!」
「フランス衛兵ばんざい!」

ひとつの大きな生き物のように、興奮した市民の雄叫びは止むことを知らぬがごとく続いた。


*******************************



「撃て!わたしを撃て!お願いだ!撃ってくれーっ!」
「隊長!」

―『武官はどんな時でも感情で行動するものじゃない』―




この世にこれほどの慟哭が存在し得るとは。真二つに身を引き裂かれたまま、永遠に死ねずにのたうち回れと神に命じられたようだ。身体中の血が汗となって噴き出しているような痛み。石畳についた両手と両ひざから冷感が刺すように全身にまわり、身体が凍りつく。ならば、いっそ永遠に凍りついてしまえばいいものを、心臓は焦熱の苦しみを吼え立てる。

左の袖口からしたたり落ちる恋人の血が石と石の間に吸い込まれていった。オスカルの魂も彼の血とともに身体から抜け落ちて行く。この先、抜け殻になった肉体だけで生き永らえて何になる。この身が踏みしめる大地は、一歩一歩足を降ろす度に砂漠に姿を変えるだろう。

喉が焼き切れんばかりに咆哮するオスカルの嘆きは、銃撃戦の興奮冷めやらぬ市民の喧噪の中にただ吸い込まれてゆく。勝利に沸き返る市民でごった返す広場は夕暮れて、オスカルはたった一人絶望の暗闇に落ちていった。

狂喜乱舞する市民の群れの中、石畳の上で蹲るオスカルには何も聞こえていなかった。このまま放置していれば、間もなく狂気の牢獄に捕えられる。その境界線上に立つ自分を、オスカルは遠く離れた場所から知覚していた。

心も魂も凍り付き、人間の形をした残骸になってしまえば、もう何も感じずにいられる。その考えは、むしろ甘い蜜の香りでオスカルを向こう側の異界に誘った。


自失状態のオスカルを、アランは何とかルイ16世広場中央から庭園入口の北端まで誘導し、階段に腰を降ろさせた。駆け付けた新聞記者と、何人かの市民が丁寧にアンドレの遺体を水平に保ったまま運んでくれた。

その男らは自分たちのために命を落としたフランス衛兵に帽子を取って敬意を表し、短い祈りを捧げると、勝利の喜びに沸き返る群衆の中に消えて行った。アンドレは口元に微笑みを残したままオスカルの足元で静かに横たわっている。 後には青ざめた顔の新聞記者が残った。

動かなくなった上官の傍で、アランは興奮した市民に彼女が傷つけられないようガードするより他になす術を持たなかった。

アランには上官が足をかけている絶望の淵がはっきりと見えていた。彼もかつて同じ場所に足を踏み入れ、そこで精神が捕らわれたことがあるからだ。その場所では、死の誘惑がいかに甘く強く人を誘うかも知っていた。

この状態では、何かのトリガーに触れたら最後、その腰に帯びた短銃で彼女は全てを終わらせてしまうだろう。

銃弾を受けたフランソワとジャンの安否が気になるが、敬愛する上官から一時も目を離すわけにはいかない。アランはそっと彼女の銃帯から武器を抜き取り毒づいた。

『ユランあんにゃろめ、早く戻って来やがれ』

ドイツ人部隊の撤退を確認すればユランは隊長のいる場所に隊を率いて戻って来るはずだが、広場は集まった市民で埋め尽くされ、わずか中隊二個と言えど容易に動ける状態ではなくなっていた。こうしているうちにフランソワもジャンも手遅れになってしまうかも知れない。アランは歯噛みをして焦れた。

そうやってじりじりと仲間を待つアランの軍服に目を留めた市民が次々に『フランス衛兵、やってくれたな!』と歓呼しにやってくる。うずくまるオスカルにも声をかけようとする。そのたびにアランはオスカルを庇い吠えまくった。

「うるせえ、失せろ!」

そんなアランと、もの言わぬオスカルをベルナールはしばらく見ていたが、荒れ狂う兵士を刺激しないようゆっくりと正面に回り、話しかけた。

「手伝わせてくれないか。その二人とは知り合いなんだ」
「何だと!?」

オスカルに近づく者は問答無用で切り捨てる構えのアランに、無抵抗の意を示すために両掌を見せながらベルナールはそろそろと距離を詰め、自己紹介をした。

「おれはベルナール・シャトレ。新聞記者だ。妻はオスカル・フランソワの養い子だった。何年も仕えていたから、こんな時は役に立つだろうから呼びにやっている。どう見ても・・・」

ベルナールは一旦言葉を切り、両膝の間に頭部をいれたまま動かないオスカルと、横たわるアンドレを代わる代わる見た。

「オスカル・フランソワには誰かが必要だ」

アランは敵意をむき出しにベルナールを睨みつけた。隊長に何が必要とか必要でないとか、誰にも何も言わせたくなかった。何よりも誰よりも必要としている存在をたった今失ったところなのだ。今更どんな知り合いが束になっても、死んだ男の埋め合わせができるはずはない。

当然、そこには自分も含まれる。

『この俺だって、隊長にとっちゃ何の慰めにもならない』
ベルナールに向けた怒りの鉾先は、本当は自分自身に向いているのだが、当面の的を得てアランの苛立ちは火を吹いた。

「どいつもこいつも浮かれやがって。国王軍は一時撤退しただけだ。そのうち体勢立て直して攻めてくるぞ」
「だろうな」
「今夜中にヴェルサイユに報告が行く。あっちにゃスイス人衛兵が2万も待機してんだ!」
「なるほど」
「たかが二個中隊の俺らは負け戦に挑んでんだぜ。わかって浮かれてんだろうな!」
「じゃあ、なぜ寝返った?」
「あん?」
「なぜ、おとなしく国王軍に納まっていなかったんだ?」

アランは虚をつかれたように言葉につまった。ベルナールは興味深そうに荒くれる兵士を見据えると目を細めた。

「おまえさんも命令拒否のかどでアベイに投獄された口か?」
「な・・・・っ、何でそれをっ」
「そうか、ならば同士だ」

男が軽く口角を上げた。その親し気な様子に煮えたぎった怒りに隙が生まれたアランは改めて男をしげしげと観察した。

新聞記者と言ったなこの男。そう言えば、獄から出所できた顛末をアンドレに根掘り葉掘り聞いたとき、奴はことばを濁しながら『知り合いの新聞記者が協力してくれた』と言っていなかったか。俄然興味が沸き、『そいつに会わせろ』と無理やりアンドレに約束させたのではなかったか。

妻が隊長の養い子だって?いつだったか、ディアンヌが生きていたころ、隊長が切なそうに言っていなかったか?『わたしも妹のような娘を嫁がせたが、寂しいものだな』と。

もし、その新聞記者がこの男なら。いや、おそらくこいつに間違いない。アランは物言わぬアンドレを見下ろした。

「ちくしょう。こんな形で約束を守りやがって・・・。守るなら約束よりも隊長だろう。どうすんだよ隊長を!」

新聞記者も同じことを考えていたのだろう。やはりアンドレを見ながらつぶやいた。

「面白い男が衛兵隊にいるから、今度会わせると言われていた。それがあんたのことだったのか・・・もう聞けないな」

男たちは沈黙し、勝利に酔いしれる市民の大歓声が二人を包んだ。その浮かれ騒ぎの中に突然異質な声が聞こえた。

「医術の心得のある者はいないか!けが人を集めるんだ。今ならまだ助けられる」

声の主の姿は見えなかったが、若く力強い男の声が協力を求めている。アランとベルナールは顔を見合わせた。幾分外国人なまりのあるフランス語だ。ややもすればヒステリックにすら聞こえる市民の歓声の中で、男の声は物堅く、よく通った。

「現実的なやつが少なくとも一人はいるみたいだぞ」
「医療用物資なら積んできた。協力できる」

アランとベルナールは同時にそう言うと薄く笑い合い、互いに手を差し出した。

「アラン・ド・ソワソン」
「よろしく」


************************



何も見えず、何も聞こえない漆黒の闇の中で、オスカルは誰かの声を聞き、固く閉ざしていた意識をわずかに開いた。なぜか看過できない響きを持つ声だった。何を言っている?オスカルは声の主に注意を向けた。彼女の意思の力が戻った瞬間だった。また再び声が聞こえた。

「けが人を集めるんだ!今ならまだ助けられる」

男の声が更に明確に聴こえた。聞いたことのない男の声なのに、なぜかオスカルの最も懐かしい声を呼び覚ました。もう二度と聞くことはないけれど、オスカルの中では響くことをやめないであろうあの声を。二つの声がひとつになる。

『武官はどんな時でも感情で行動するものじゃない』

オスカルの心が再び閉じそうになった。そんなことは聞きたくない。耳を閉じてしまいたい、何も見たくない。わたしは武官である前に人間なんだ。血も涙も流す、体温を持った生き物で、機械ではないんだ!

しかし、オスカルが意識を手放そうとするたびにその声は同じ言葉を繰り返す。体はぴくりとも動かない中で、苦しいせめぎ合いが繰り広げられた。

『武官はどんな時でも感情で行動するものじゃない』
もうやめてくれ、わたしにこれ以上何も望むな。

それでも声はやまなかった。オスカルが耳を傾けるまでやめないという強い意思が声の響きにあった。聞きたくない真実をオスカルがつかむまでやめはしない、と。頭を深く垂れ、体はうずくまったまま、オスカルの精神は激しくのたうったが、懐かしい声は続ける。

『おまえは血肉を持つ人間で機械じゃない。だが、感情そのものでもない。巻き込まれるな!』
やめろ。やめてくれ…。

『おまえは肉体も、感情もはるかに越えた存在だ。思い出せ、おまえは何者だ!』
違う!わたしはひとりでは何もできない、ただの弱い人間だ。

『逃げるな!おまえは何者だ!』
わたしは…!

懐かしい声は幾重にもこだまするように問いをやめない。おまえは何者だ。激しい内面の葛藤が、完全に途絶していたオスカルの神経系に触れ、肩がわずかに震えた。

『おまえは何者だ!』
わたしは…武官…
『おまえにとって武官とは何だ』
武官とは…国に仕え武力で守る官人だ。
『おまえにとって国とは?』
国とは…フランス…フランスとは…
『それは国王か?』
…違う…
『おまえはずっと国王に仕えていたのではなかったか?』

そうだ。国王に仕えていた。そのために人生のすべてを研鑽に費やしたのだ。だが、違う!違う!違う!国王のためではない。なぜなら…!国王を国母を守ることを通してわたしはもっと大きなものを守ろうとしていたのだ。それは国の礎になるもの。それは一体何なのだ?

声はいっとき止んだ。オスカルの中で激しい意識の火花が散るにまかせるために。オスカルは問いの答えに集中した。わたしは武官として誰を何から守りたいのだ。これほどの代償を支払ってでも守りたいのは…!

『おまえが武官として守るべきものは何だ?』
声が再び響く。

わたしは…人間の尊厳を守りたいのだ。

答えを叩き出した瞬間、それは腹の底に落ちていった。同時に愛しい声は静かになってオスカルと一体となり、意識が目覚め始めた。固く緊張していた頸部が緩み、首が頭部の重みにまかせてぐらりと揺れる。

うつむいたまま、その唇から渇いた息のような声が漏れた。
「武官は…どんな時でも…」
「隊長…?」

ただ付き添うことしかできなかったアランはオスカルの変化に気づき、身構えた。体が動くようになるのはいいが、万が一この人が衝動的に自傷行為に及ぶことがあったら、絶対に阻まなくてはならない。

そっと上官の肩に手をかけようとして、アランははっとして体を引いた。オスカルの面がゆっくりと上ったのだ。首を持ち上げる力すら残っていなかったオスカルの体躯の中心にわずかながら力が甦った。

「武官は、ど…んな時でも…じゃない」

オスカルの唇が再び動き、同じ言葉を何度も繰り返した。その言葉が、まるで生命力を再生させる呼び水であるかのように。唯一の原動力であるかのように。両腕がぎこちなく動き、階段の縁に手が置かれ、体躯がゆっくりと持ち上がる。

手を触れて支えていいものか、アランが手をこまねいているうちに、オスカルはよろよろと立ち上がりはじめた。いつでも抱き留められるようにアランは上官の後ろで待機したが、彼女はふらつきながらも自力で大地を踏みしめ立った。

「武官は…どんな時でも感情で行動するものじゃない」

酷く掠れてはいるが、今度ははっきりと聞き取れる明瞭さでオスカルは繰り返した。焦点を失い、開ききっていた蒼い瞳孔が縮瞳し、生命力が瞳にともる。ほぼ同時にオスカルは五感をすべて取り戻した。

とたんにチュイルリー庭園を埋めた人々の騒然とした騒ぎがオスカルの耳にどっと流れ込む。

ここはどこだ?

たった数刻のことであるが、ここが戦場であることを失念していたことを思い出し、オスカルは戦慄した。何ということだ。わたしはいったいどのくらいの間、隊を放置していたのだ!

「隊長!」

振り向けばアランががっしりと腕を支えてくれていた。軍服の肩はアンドレの血でべっとりと赤く濡れている。その色がオスカルを残酷な現実に引き戻した。そうだ、彼が逝ってしまった。彼が残した命の名残り色。赤。 昨夜の喀血と同じ色。

数日前に死病を自覚した時、オスカルが最初に恐れたことは、迫りくる死よりも愛する人との別離だった。 彼はオスカルの最後の一息まで寄り添ってくれるだろう。だから、オスカルが現世で彼を失うことはないとしても。

オスカルは彼をひとり後に残さねばならない。彼は長い孤独の中に一人投じられるのだ。その月日を想像すればするほどオスカルは神の采配を呪いたくなった。なぜなら、それはオスカル自身が最も味わいたくない苦しみそのものだから。

愛する人にそれを課さねばならないとは。それこそが耐えがたい現実だった。

『神よ、わが愛する人にそのような苦しみを与えたもうな』
オスカルは神に祈りながら、生まれて初めて神を恨んだのだった。

足元を見れば、アンドレは安らかな表情で静かに眠っていた。その姿はたちまち涙で歪み、大粒の涙はオスカルのあごを伝い落ち、軍服の胸に吸い込まれて行った。まだ乾かぬアンドレの血と混ざり合って。

オスカルの喉の奥から新たな嗚咽がとめどなくせり上がってくる。体が揺れるたびに後ろからがっしりと支えてくれる腕の力強さが悲しい。彼の手ではなかったから。オスカルは愛しい人を求めて天を仰いだ。まだ力ない頸部ががくりと後ろに大きく揺らぎ、支え手が一層力をこめるのがわかった。

オスカルは一度恨んだ神に祈った。
『神よ、感謝します。彼ではなく、わたしにこの苦しみを授けてくださったことを』

絞り出すようにささげた祈りだったが、言葉にした瞬間、身がそがれるような胸痛の中に福音が一筋の光となって差し込んだ。オスカルの願い通り、アンドレは後に残された者の切り刻まれるような苦しみを味わうことはない。

神はこのような形で願いを聞き入れてくださったのだ。

そして、もう一つの事実がオスカルに頭を上げさせた。

『二人が分かたれる時間はほんの僅かだ。今となれば、胸に巣食う病魔は神の福音に他ならない。わたしには残された短い時間分の使命があるのだとしたら。

それをやり遂げたら、神はアンドレの元にわたしを導いてくれるだろう。使命を果たして会いに行くからその時は褒めてくれ、アンドレ』

オスカルは熱い涙の向こうに滲むアンドレに呼びかけた。

『長くは待たせない、待っていろ。だから、今なすべき事をなす力をくれアンドレ』

アランの腕から自分の腕を外し、オスカルは自らの力だけで背筋を伸ばして立った。滂沱の涙に洗われていてはいるが、その瞳から狂気は消えている。アランは畏怖の念をもって上官を見つめ返した。

「ユランに伝えろ。第二中隊はヴェルサイユへの連絡通路を固める。これ以上一兵たりとも国王軍をパリへ入れてはならん。 シャン・ド・マルスとアンヴァリッドへは私服斥候を送り、ドイツ人騎兵の動きを逐一報告しろ。シャンゼリゼに詰めている砲兵隊の監視も怠るな。それから市民が築き始めたバリケードの個所を確認して正確に地図に記録するのだ。急げ!」

咆哮の限りを尽くした後の上官の声は無残なほど枯れていた。しかし、眼光は冴え冴えと澄んでいる。

アランは背筋を伸ばし、直立した。
「わ、わかりました!それで一班はどうすればいいのでしょうか?」
オスカルはふっと唇のはしに色を失ったような笑みを浮かべた。

「フランソワとジャンを助けるぞ。あの男に協力する。おまえも命令を伝えたら戻って来い」

オスカルはそう言うと救護活動に協力を求めている長身の男を指さした。男は、騎兵に踏みつぶされたらしい老人を確認し、近くにいた若者に救護場所へ運ぶように指示を出している。

「わかりました!でも彼を…どうします?」
アランは躊躇しながらアンドレを指した。
「負傷者が先だ。ア…アンドレは…待っていてくれる」
「はいっ!」
「衛生兵も救護に派遣しろ。積んで来た軍用テントと医薬品は全て放出して構わん。救護所を設営する!」
「はっ!」

軍人として、数えきれないほどの敬礼を歴代の上官に返して来たアランだったが、これほどまでの敬意を込めて誰かに敬礼したことがあっただろうか。
心がうち震えて止まらない。

『妹を失った時、俺はあの人に引っ張り出されるまで何日も狂気の中にいた。なのに、見ろ、彼女はもう立ち上がって前を向いている。何という強い人だ。 ちくしょう、あの人がどう思おうが、嫌がられようが憎まれようが、俺は何が何でもあの人を守る。アンドレのくそったれ。おまえのためなんかじゃないぞ』

アランは身をひるがえして走り出した。何の打ち合わせもしなかったが、隊長のそばについていてくれる新聞記者への信頼が芽生えた今、もう余計な心配はしていなかった。

市民をかき分け、本隊に合流すべく走るうちに腹の底から沸き上がる熱いものが涙となって溢れ出した。友を見取った時には一滴も流れなかった涙が。アンドレ、おまえは大馬鹿だ、どうしようもないクソ馬鹿野郎だ、こんちくしょう!アランは走りながら、何度も腕で涙をぬぐい号泣した。

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COMMENT

もんぶらんさま、ほぼ初めまして&ご無沙汰しております。このちょっとアホっぽいHNで、もしかしたら記憶の片隅にわずかに引っかけてくださっているかもしれません。騎士カミーユと申します。その節は、PWをありがとうございました。

7月13日は、ともすればどす黒い慟哭といった雰囲気で描かれることが多い記念日ですが、もんぶらんさまの作品は...透き通る群青の悲しみと形容させていただきます。こんなに爽やかで切なくて、生命力に溢れた13日には、今まで出会ったことがありません。オスカルさまが、アンドレの待つ光り輝く空に向かって、とびきりの笑顔で羽ばたく姿が見えるようです。
ふたりの地上の肉体は滅びても、愛と志は明るい光の中で人々に受け継がれていく。そんな形の死があってもいいよな、と思いました。
爽やかな... 騎士カミーユ 2022/07/14(木) 23:29 EDIT DEL
もんぶらん様、お久しぶりです。
SSのアップ、ありがとうございます♪
楽しみに待っておりました。
絶望の淵から見事に力を甦らせたオスカル様、本当に強くてステキです。
OAの2人が銃弾に倒れたことはとても悲しいけれど、だからこその三が日なんだろうなって思います。
あ、でも私は2人が生き残った暁シリーズのお話も大好きです。
またいつかお話の続きが読めたらうれしいです。
NO-TITLE みかん55 2022/07/16(土) 00:45 EDIT DEL
もんぶらん様、アップありがとうございました。アップされてすぐに拝読させて頂いたのですが、あまりのリアルな描写に心の整理がつかずコメント欄をそっと閉じしてしまいました。すみません(笑)

オスカル様ならきっとこうして姿は見えないアンドレに支えられ14日を迎えただろうなとふたりの絆の奇跡を改めて感じることができました。原作における祝福のかたちなんですね。。本当にありがとうございました。

さて、三が日も過ぎ昨夜はテレビの大画面で声付きの彼を見てときめきすぎてしまったので、三連休はいのち謳うものからの暁シリーズで明るい未来を楽しませて頂こうと思います(*˘˘*).。.:*♡

天候不順なおり、どうぞご自愛くださいませ。
NO-TITLE Roseキャベツ MAIL 2022/07/16(土) 08:54 EDIT DEL
覚えておりますとも、覚えておりますとも。その節はありがとうございました。で、何ですか、何て詩的な感想なんでしょう。これで一つの叙情詩として完成しているではありませんか。シャッポ脱いでひれ伏すしかありません。

>肉体は滅びても… はい、人間は肉体を超えた存在だと信じたいです。いや、きっとそうです。早速のコメントをありがとうございました。また、たまに覗いてやってください。
騎士カミーユさまへ もんぶらん 2022/07/25(月) 18:13 EDIT DEL
ほんとうにお久しぶりです。こんなにテキトウな更新頻度であるにも関わらず、待っていましたと仰っていただくと嬉しいやらもったいないやら。でも、胸がほわんと温かくなります。

今回の小品は、人によっては受け入れがたいだろうなという予感はありました。受け入れがたいからこその二次創作ですものね。ラブラブな二人もまた書いてみたいと思いますが、なんせ人間がだんだん古びてくると、ラブラブストーリーのハードルが上がって来るんですわ。「暁」の続き…。せめて当初予定のエンディングまではこぎつけたいものです。
みかん55さまへ もんぶらん 2022/07/25(月) 18:27 EDIT DEL
アップしてすぐに読んでくださっただけで本当に光栄です。メインキャラが亡くなる原作通りのシーンは「黒い瞳亭」では
初めての試みでした。うちは、「もっと幸せな二人の姿をみたい」方が集まるサイトなので、アップを迷いましたが、いつかは書いてみたかった瞬間だったのでGOしちまいました。

オスカルさまは一番強さを見せたのは、この瞬間だったと思うのです。書いてみたら、表現したかったことのほんの一部しか描写できませんでした。まだまだ修行の道は続きます。

>テレビの大画面で声付きの彼を見て・・・

誰だろう?確か14日にはベルばらの特番があったのですよね。もんぶらんは残念ながら見逃してしまいましたが、それかなあ。

さて、ああ「暁」。もうもんぶらんの中で暁シリーズはほとんど黒歴史化しているんですよ。あまりにも独りよがりの分を書き連ねてしまって。ああ恥ずかしい。三連休のお供に加えていただけるなんて、もったいないことでございます。また、お寄りくださいませ。 ^^
Roseキャベツさまへ もんぶらん 2022/07/25(月) 18:41 EDIT DEL
もんぶらん様、大変ご無沙汰しておりまして今更のこのこコメントもどうか、と思ったのですが、やはり素晴らしい新作を拝読させていただいたお礼を一言でもお伝えしたく思い切って出て参りましたm(__)m

軍人としてのオスカルさま、そしてアラン。
まるであの日の二人のやり取りを少し離れたところからじっと見つめている自分がいる様な、そんな感覚になりました。
辛く悲しいけれど素晴らしい作品を本当にありがとうございましたm(__)m
大変ご無沙汰しておりますm(__)m またたび 2022/08/01(月) 21:52 EDIT DEL
ご無沙汰しておりました。m(__)m
今更も何も、いつでもコメントは嬉しいものです。ありがとうごさいます。それに、ご無沙汰しちゃうのはひとえに私の更新頻度のせいです、ホント。ちょっとヘビーな回だったかと思いますが。読んで頂けて嬉しいです。また、たっま~に覗いてくださいね。よろしくお願いします。
またたびさまへ もんぶらん 2022/08/03(水) 13:59 EDIT DEL

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