17.挨拶

2017/10/09(月) 暁シリーズ
1789年7月23日

シャルルって人は物知りっていうか、街中に顔が利くんだな。ヴェルサイユでは超有名人な隊長の姿を見ても、何も詮索しないで黙って泊めてくれる宿を探さなきゃいけなかったんだが、探し始めて3軒だったか4軒目にはもう話をつけちまった。もともとそう宿泊施設があるわけではない小さな街に、全国から議員が集結していたし、毎日議会の傍聴席を埋め尽くすギャラリーも大勢い座っている。どの宿屋も超満員な今どきのヴェルサイユでは、神業に近いことだった。

ま、隊長の事情なんて俺だってかなり後になるまで知らなかったけどさ。で、俺たちは何とか宿屋に入ることができた。

ヴェルサイユでも、もうすでに国民衛兵隊は稼動を始めていたし、制服はパリとさほど変わらなかったから、俺とユラン伍長は問題なく階下の食堂に入れたけれど、とっても残念なことに、隊長とアンドレは2階に用意された部屋で食事をとるということだった。

ちぇっ、隊長と差し向かいで一杯やれると思ったんだけどな。でもって、さりげな~くちょちょっと冷やかしちゃったりしたら、隊長がぽっと赤くなったりしてさ。く~~~っ!かっかっわいい~っ!が、まてよ、緊張して味も何もわからなくなっちゃったかも知れないか。アンドレが一緒だとぐっと雰囲気が寛ぐんだけど、あいつ完全に伸びちゃっているしな。どついてやりたいのも山々なんだけど、それもできないや。

まあ無理もないよね。一発しか弾食らっていないジャンだって、ようやく起き上がれるようになったばかりだというのにさ、三発も喰らったくせにもう起き上がって街を出歩いているんだぜ、目ぐらい回るだろ。アンドレっておっさんに片足突っ込んでいるくせに、冗談抜きで隊長のためだったら不死身にだってなれるんじゃね?それって驚異的だよな。

でもさ、せっかく好きなだけ食って飲んでよし、って言われたのに、一緒にいるのが真面目が服着て歩いているようなユラン伍長じゃ馬鹿な話の一つも出来ないよ。ああ、盛り上がりに欠けるったらありゃしない。

もと一班の連中が一緒だったら、今頃豚小屋に爆竹放り込んだような騒ぎになっているだろうな。集団失恋でこの宿屋の酒全部飲み干しちまっているか、ヤケクソで馬鹿陽気に歌って踊ってタイホされちゃったりしてね。一騒ぎした後、案外しみじみと二人への祝杯をあげている、なんてのもありな気がする。

隊長のあんな姿を見た日には納得するっきゃない。そりゃ、一応納得はしてたさ、バスティーユのあの日から。でも実際にこの目で見ちまうと、諦めるとか失恋に嘆くとか、そんなのを遥かに通り越して、感動するしかないよ。うん、心から祝福するしかないってもんでしょ。

あ、でもくっそ~っ。あん時一緒だったのがユラン伍長でさえなかったら、もっと良く覗き見・・・あわわ、そうじゃなくて、もっとしっかりと見守っていられたのにな・・・と同じことか。
伍長ったらどこまでくそ真面目なのよ。馬を移動させて隊長たち二人を隠すように陰を作った後、身を乗り出す俺の耳引っ張って馬車の裏側に引っ込むんだから、いやになっちゃうよ。紳士でいるのもいいけどさ、時と場合ってもんがあるだろ?あれじゃあただの真面目な困ったちゃんよ。えっと、そのお・・・・・・はい、すんません。

しっかりと抱き合った二人がその後どんなやりとりをしていたかはわからないけど、アンドレが大きな声で泣いていた。びっくりした。いつも静かに落ち着いていて、アランとはまた違うタイプの頼れる兄貴の印象が強いしね。最初は誰か別の人物が泣いているのかと思った位だった。

隊長って、見かけによらず凄いのかも。何が凄いって、うまく言えないけど、あんな大人の貫禄を持った男を子供のように泣かせる女、っていやあ凄いに決まっているじゃないか。今までは別の意味で、どっちかっていうと正反対の意味で凄い人だと思っていたけど。

泣かせるにもいろいろあるけどさ。よくわかんないけど、あんな風にだったら泣かせて欲しいよね。どう見たっていい涙だったんだろう。俺も一度いいおんなに抱かれて泣いてみたい・・・。なんちって。
「・・・エール、きこえているか?」
わあああ、そんな事を考えていたら、当の本人がいつの間にか目の前にいた。地味な服装していても、ド迫力~ん♡ 真正面から直視されると、この瞳の色に魂抜かれて凍り付いちゃいそうよん。そう言えばメドゥーサってのがいたっけね、その目を見ると石になっちゃうってバケモノ。案外あれはバケモノじゃなくて、めちゃくちゃな美人だったんじゃない?

「おい、あほ面止めてさっさと返事しろ」
わああ、伍長に横から突かれた。
「は、はいっ!あ、明日は早番の予定ですっ!」
あ、隊長笑った。すっげえ綺麗・・・。一晩中でも眺めていたい・・・。

「そうか、では、今夜はここで泊まって明日の朝出るなり、今から帰宅するなり、好きにしろ。今日は振り回して済まなかったな」
「は・・・い・・・」
う、わあ・・・これ、本当に生きてる人間の笑みなんだよなあ、捕り殺されたくなるってこんな気持ち?金色の波打つ海に、新雪みたいにまっさらな肌。氷に閉じ込められたようなサファイヤはなぜか熱く燃えていて、薔薇色に染まった唇の形といったら・・・何でこんなもんがこの世にあるんだよ~。

「隊長、こいつは酔いつぶれていますから今夜はここに置いといてください。私はこれからパリに戻って、誰か勤務明けの者をこっちに寄越します。だから絶対に単独では動かないでください、約束ですよ」
おいおいおい、素面かよ伍長!もしかして絶滅寸前の希少人種じゃね?氷漬けにして永久保存しちゃうぞおお。

「ありがとう、ユラン。お前達には苦労をかけるな」
「私達が隊長を必要としているからですよ。隊長にもしものことがあったら、隊長の意思を受け継ごうと、国民衛兵隊で必死に市民兵と貴族軍人との橋渡し役を担おうとしている連中がぶち切れます。一般人と協調してやっていくのは正直きついですからね」
よっ、天然記念物~。の割りにはいいこと言うじゃん。氷漬けは勘弁してやるぜっ!

隊長は優しく微笑んでうなずいた。それを見てトリップしないなんて、伍長、どっか男としておかしいんじゃないか?なんでそんなポーカーフェイスしてられんのよ。あ、隊長に肩を叩かれてにやけやがった。良かったな、伍長。一応は正常な男みたい。

シャルル、っておっさんも立ち上がった。このおっさんはいい味出してるよ。初めて会ったのに、何か一瞬で通じるところがあった。やあ、あんたもか、お互い苦労だが止められないな、って同士の感じ?

「オスカルさま・・・。どうか、くれぐれも御身大切になさってください。彼の言うとおりです。オスカルさまを大切に思う人間は大勢います。オスカルさまはお元気で幸せでおられなければなりません。見送る私達のためにも」
おっさ~~ん、ごつい顔して泣かせるじゃん。隊長は、何か言いたそうな眼差しでおっさんを見つめたけど、くっと言葉を飲み込んで、言葉少なだった。

「おまえにも世話になった。元気で・・・」
「思いがけずお会いできて幸運でした」
「皆に私からの感謝を、伝えてくれ」
「はい」
おっさんは深々と頭を下げ、名残惜しそうに振り返りながら出口へ向かって歩いていった。最後にもう一度、少々寂しくなった脳天を見せて腰よりも下まで頭を下げると、木戸を押して出ていった。隊長は起立したまま、最後まで微笑を絶やさずに彼を見送った。

アンドレじゃなくて、隊長が階上の部屋から降りて来たってことは、アンドレの奴まだ目をまわしているんだろうな。騒がしく飲み食いをする客の中に、ちらちらと隊長の方を気にする奴が出てきた。どんな格好してたって目立つもんな。大丈夫かな。けれど隊長はそんなことは気にもかけない様子で俺らを振り返った。

「ピエール、おまえももう休め。夜明け前に出かけなければならないところがある。ユランと入れ替わりに来る者と、一応おまえを起こすから、今のうちにな」
一応・・・ですかい。やれやれ仕方ないとでも言いた気な色が顔に浮かんでまっせ~。
「わかりましたっ!任せてくださいっ!隊長もお休みになった方がいいっすよ」
だ、ダメだ。声が上ずっちまう。
「ふふ、頼んだぞ」
「あっ、ひょっとしてアンドレと同じ部屋で~?わああ、危険だあ」
やべ、口が勝手に回り始めた。ユラン伍長に上着の裾をぎゅうぎゅうと引かれているのはわかるけど、あらら、目が回ると口も一緒に止まらないわん。

「女でも騎士道は心得ているぞ。抵抗できぬ負傷者を襲ったりはせん。心配するな」
隊長は顔色一つ変えずに悠然とかようなことをおっしゃる。口角上げてウィンクして。ひえ~、隊長大胆~素敵っ!
「お、俺はぴんぴんしてますっ!俺を是非襲ってくださ・・・」
うぐぐ、伍長に組み伏せられてしまった。だから、襲って欲しいのはあんたじゃないんだってばさ!

隊長は部屋へ引き取って行った。それを見送ると、ようやく伍長は俺を押さえる力を緩めて呆れたように呟いた。
「酔っ払いに過度な期待はせんがな、ピエール。隊長、平然として見えるが、身体は辛そうだし、眼は泣きはらした後みたいだったろ?アンドレだっていつものあいつと全然違ったじゃないか。何か辛いことがあったんだろさ。あまり騒ぎ立てるな、いいか?」

え?気がつかなかった・・・。隊長・・・泣きはらしていたんだ・・・。伍長、見直したよ。あんたはやっぱり貴重な奴だ。ねえ、もう一杯飲まない?

linetoricoroll


質素な部屋に戻ってみると、眠っているかと思いきや、アンドレは目を開けていた。私に気づいた彼はゆっくりと手を差し伸べる。導かれるようにして彼の枕元に座ると、彼は労わりを込めて私の手を握った。部下の手前、堪えていた涙がまた籍を切ったように溢れ出し、彼の枕にいくつも小さなしみをつくった。

宿に入って少し元気を取り戻したアンドレからばあやの訃報を聞いた。彼が今夜ヴェルサイユに留まることにこだわった理由も。そしてもうすでに小半時は彼に縋って声を嗄らして泣いたと言うのに、まだいくらでも泣けてくる私だった。
大きな腕が私の肩にまわされ、私は抱き取られるままに彼の隣に身を倒した。温かい掌が幾度も私の背を往復する。涙の最後の一滴まで出してくれるかのように。その手に全てを委ねて私はもうひとしきり泣いた。

「眠れそうか?」
私の嗚咽が静かになるのをじっと待っていたアンドレが私に額を合わせた。すっかり落ち着いた私は何だかとても懐かしい香りに気が付いた。とても馴染みのある香りなのに懐かしい。ああ、これは彼がジャルジェ家で使っていた石鹸の香りだ。ヒバの香料が入っている。そういえばアンドレはすっかり身なりが整えられて、ジャルジェ家にいた時と同じ姿に戻っている。私は赤ん坊のように甘えたくなって、彼の傷に触れないように気をつけながら、右側の胸にシャツの上から顔を埋めた。

アンドレは傷ついていない方の肩を下に、少し斜めに身を傾けて、私を全身で包み込むようにして囲んでくれた。見上げると、黒く澄んだ瞳は正確に私の瞳に視線を重ねている。見えてなどいないはずなのに、まっすくに私を見下ろしているとしか思えない彼の面差しは限りなく静かだ。一つベッドで眠ることに何の不思議も感じなかった幼少の頃と同じ温かさで、私に優しい体温を分けてくれている。

そんな彼の様子に許しを貰ったような気持ちになって、私は思ったように甘えてみた。
「このまま、同じベッドでなら眠れそうな気がする」
「うん、俺も。このまま眠ろう」
ごく自然に返って来た返事に安心して、彼の腰にそっと腕を回した。温かい唇が何度も額の上に降りて来る。それを受けて、涙の製造元のありかが場所を変えたようだった。悲嘆の涙は温かい何かを洗い流す心地よい涙に変わっていった。

私はもう一度、アンドレが母から聞いてきたという、ばあやの臨終の様子を話してくれるようにとねだった。彼がそれを拒むはずもなく、寝物語を話して聞かせるように語ってくれた。二度目に聞くそれは、一度目に聞いたそれよりも、私の心の隅々まで染みわたり、私の心臓の周りに居場所を見つけて収まった。

「私達は喪中だったのだな」
「そう・・・だな」
「ばあやは、わたしたちを祝福してくれると思わないか」
「保証する」

アンドレはそう請合うと、その代わりヤキが入るのが先だろうけどな、と笑った。彼が無防備に笑うと、下がった目尻や、口元の笑い皺が、危なっかしい魅力を発揮する。もともと端正な造作が完璧に配置されているだけに、そのバランスをやや崩す笑顔がなんとも愛おしい。職務上で彼が見せる完璧な微笑とは全く別物の素の笑顔は久しぶりだ。大笑いをする時に現われる小鼻脇の小さな横皺も実は大好きだが、それをもう長いこと見ていないのが少し寂しい。

青白い街灯の人工的な光が、薄っぺらな紅茶に浸したようなカーテンを通して、建てつけの悪い窓枠から、横たわる彼の左側の面に陰影をつける。穏やかな笑顔を私に向けて、亡きばあやの遺志を保障してくれる私の愛しい男は、もうこの世に一人の肉親も持たない身の上になってしまった。彼の笑顔の上に落ちる濃い陰が痛々しくて、私は身体を少し上にずらして彼の唇に何度もくちづけた。

それはいったいどんな感覚なのだろう。思想上の袂を分かったとは言え、同じ国土の上、同じ空の下、私には家族がいる。父が母が姉妹が生を営んでいると思えば、目に見えない繋がりを感じられる。もう二度と会えないとしても、大地にしっかりと自分の根が張られている安心感を与えてくれる。

もし家族が全て地上から消えてしまったら、この世から切り離されたような孤独を味わうだろう。アンドレ、おまえはそんな思いをしているのか?

繰り返しくちづける私に、アンドレは不思議そうに目を細めて微笑した。
「話すことはもっとあるけれど、今はもう眠ろうオスカル。おばあちゃんに会いたければ、暗いうちにここを出ないと」
「う・・・ん」
そうだ。明日にしよう。私たちには明日がある。

猫のように丸まってアンドレの懐に潜り込むと、懐かしい匂いにまじって消毒液の匂いと微かな血の匂いがした。何年も同じベッドで眠る者同士のように、アンドレはごく自然に腕枕をあてがってくれる。最後に恋人らしい時間を過ごしてから、もう何日もこうして触れ合っていなかったのに、アンドレも私も互いの肌のぬくもりと、腕の重みだけで十分に満たされた。愛しい者を抱いて眠る幸せだけを感じていたかった。

私の腰に置かれた不自由な方のアンドレの腕がすぐに重くなった。呼吸する胸の動きが深く、規則正しくなってきた。大変な日だったろう。疲れているのだ。だが、彼が良い夢を見られるように、眠りにつく前に伝えておきたい一言がある。彼の胸に頬をつけて小声で呼んでみた。
「う・・・ん?」
綺麗な曲線を描く睫毛が重たげに半分ほど持ち上がると、黒く濡れた私の宝石が現われた。街灯の鈍い光を反射して、彼を見上げる私の瞳を映し出す。

安普請の壁一枚を隔てた向こうでは賑やかに飲み食いする宿泊客の宴が続いている。定員を超えた客を収容した古い安宿にいるのに、ここはおまえと私だけの異次元空間のようだ。これから先どこでどう暮らそうと、環境がどう変化しようと、二人でいればそこが私達の場所なのだ。

アンドレの瞼がまた閉じてしまわないうちに、そっと耳打ちした。
「おまえには私がいる。忘れるな」
アンドレが半分閉じていた瞼をゆっくりと引き上げ、二、三度長い睫毛を瞬かせた。私の言わんとする意味を彼が理解するまでに要したわずかな刹那、鼻先を彼の頬に寄せて返事を待った。温かいしずくが私の頬に落ち、囁き声が聞こえた。

「忘れない」
寄せ合った頬を濡らす涙は、もうどちらのものだかわからない。こうして涙で繋がっている時でさえも、おまえの胸は温かくて安らかだ。だが、おまえは?おまえもわたしの腕に安らぎを感じているか?そうであって欲しいと、切に願う。私は絶対におまえをおいて逝きはしないから。


linetoricoroll


ジャルジェ家の敷地内にある小さな礼拝堂へは、正門横の通用口から入ることができた。夜間はきっちりと錠が下ろされるのがきまりだが、今夜―じきに朝だがーは錠が下ろされていないばかりか、館の主が帰宅する予定のない時は灯されないはずの常夜灯にも火が入っていた。

アンドレは、錠が下りていないことを知っているかのように門戸を開け、私の手を取った。もう二度と戻ることはないだろうと、屋敷の内側から開門を見るのはこれが最後と、開く鉄門の外側を、胸に収まりきらない感慨を込めて記憶に刻んだのは僅か10日前だった。

こんな形で戻って来ることになろうとは。足を止めてしまった私を促そうとするでもなく、アンドレがぴったりと私の背後を覆った。出立する時もそうだった。だから私の進む方向は前しかないのだ。アンドレ、知っていたか?人目を忍んでかつての我が家に入るという行為に感傷を感じるより大事なことがある。さあ会いに行こう、ばあやに。

朝露でしっとりと濡れた土の匂いが足元から立ち上り、ふとした風向きで、母の丹精するセンティフォリアの芳香が甘く漂い、私達を招き入れてくれる。家族用の小さな礼拝堂へ続く小石を敷き詰めた小道には、点々とトーチが並べられ、足元を照らしていた。そこにも母の手が見えるようで、私はいつの間にか先に感じた戸惑いを忘れ、アンドレの手を引くと、導かれるように灯された明かりに沿って歩を進めた。

ジャルジェ家の礼拝堂は、本館二翼棟のうち、朝一番に太陽の光を受ける東翼棟に続いて建てられている。母の大切にしている薔薇庭園に囲まれているため、奥方の礼拝堂と呼ばれるようになった。開花最盛期を過ぎ、咲き遅れたピンクの薔薇が朝露に濡れて、重たげに折り重なるように花首を垂れている。その間の小道を通り抜けると、冷たい雫が袖を濡らした。

祭壇周りは花で埋まっていた。母の丹精した薔薇は勿論のこと、マーガレットにアイリス、ゼラニウム、百合などが、死の門出には似つかわしくないほど華やかな色使いで、小さな祭壇を取り囲んでいた。祭壇中央奥には、交換されたばかりの長い蜜蝋燭が何重にも重なり灯され、花に埋もれるようにして安置されている小振りの棺を照らしていた。

黙って後ろからついて来るアンドレの手をもう一度握りなおすと、棺に近づいた。私に惜しみない愛情を注ぎ尽くしてくれた老女の姿が一回りも小さくなって、顔だけを花の中から覗かせていた。

面影はとどめているものの、土気色にしぼんだ顔は、取り囲む花々の生気とは対照的に、人形のようだ。棺の際まで近づいて頬に触れてみた。何という冷たさ、なんという硬さ。
「ばあや?」
返事は無論ない。ばあやの浅黒く変色した顔が急に歪み、よく見えなくなった。蝋燭の光の輪が何重にもぶれて重なり合い、周囲を舞った。

「愛しているよ、ばあや」
涙声が最後まできちんと言葉にならず、掠れて消えた。もう一度、その言葉を聞かせてくれと泣いたばあや。遅すぎた私をどうか許して欲しい。俯いた私の肩にアンドレの腕がまわされた。そのままもたれかかると、髪越しに幾分くぐもった優しい声が聞こえた。
「届いたよ、きっと」

『お嬢様』とばあやは私を呼んだ。ばあやだけは、どんなに私が苛立ってもその呼び方を一貫して崩そうとはしなかった。ある時は自信たっぷりに、ある時は申し訳なくて仕方ないといった口ぶりで、『お嬢様』と呼んだ。アンドレはそうとは気取らせず巧みに女である故に遭遇する諸問題を解決してくれたけれど、ばあやだけは面と向かって私を女性扱いし続けた。

それが気に障って苦しかったことも少なからずあったが、今から思えば、主人としてばあやに呼び方を変えるように厳命しなかったのは、私自身がそれを必要としていたからなのだろう、と思う。

どんなに努力しても、努力では父の期待に応えることのできない領域。生まれ持った性。その性を、誰かに認めていてもらわなければ、私の精神は亀裂を起こしてしまっただろう。ただ認めるだけではなく、問答無用に無条件で認めて欲しかった。ばあやだけがそれを与えてくれた。

父も、母も、愛情に変わりはなくても、大きすぎる将軍家当主という鎧を外して私を見ることなど、できはしなかった。それは本人である私だって同じだ。自分でそれを認めてやることができるようになるまで、ばあやはひたむきに私を守ってくれたのだ。出動前の別れの挨拶時に、私はこれまでにないほど自然に、『お嬢様』というばあやの呼びかけに答えていた。

「ただいま、ばあや」
自然に口に出た挨拶だった。目の前の小さくしぼんだ亡き骸に別れを告げるのは、何故か不自然な感じがした。悲しいけれど、私は何か絶対的な安心感に守られた穏やかな場所に立っていた。そこは長い年月をかけてばあやが私のために用意していてくれた場所だった。

ばあやが私を戻そうとした所に帰ってきたよ。ありがとう、ばあや。長くかかったけれど、ようやく自由になった。ばあやのアンドレは私が大切にするから心配しないでくれ。私がアンドレからばあやを奪ってしまった分も含めて。

「母さんが死んだ時・・・」
アンドレが思い出したようにつぶやいて、私の肩を抱き寄せた。私は、言葉を捜すように宙を仰ぐ彼の横顔が祭壇の光に照らし出されるのに見入った。

「すぐ翌日に埋葬した。遺体は綺麗でまだ生きているようだった。だから棺もなく布で包まれただけの母さんに土がかけられた時、土の中に母さんを置き去りにするなんて途方もなく残酷に思えて辛かった。けれどおばあちゃんに触れた時は、これはただの抜け殻だと思った。別れを告げるのは、おばあちゃんの入れ物にだけでいいんだ」

自分でも何故そんなことを言っているのかわからない、と微かな困惑の混じったアンドレの笑みが私の方を向いた。
「おまえがただいま、と言ったのを聞いて、ふと、ね」
私はこの男に毎瞬毎瞬、きっと死ぬまで魅せられ続ける。

朝一番の雲雀のさえずりが、開け放った礼拝堂の扉の向こうから、聞こえてきた。祭壇正面の聖母マリアをモチーフにしたステンドグラスにもうっすらと色がつき始めた。アンドレが軽く私の背を押した。夜が白み始めている。
「もう、行かないと、オスカル」
「あ・・・あ」

祭壇の周りだけを明るく浮き上がらせていた蝋燭の明かりが、やわらかくぼやけて、小さな礼拝堂全体に広がり、壁面の彫刻がかろうじて判別できるほどに明るくなった。私がばあやの固く皺の寄った頬に一つくちづけると、アンドレもそれに倣い、最後の挨拶を済ませた私達はばあやに背を向けた。礼拝堂の外に出ると、東側に植わっている薔薇を絡ませたオベリスクが、くっきりとそのシルエットを浮かび上がらせるほど、空は薄紫色に白んでいた。

門柱の陰から私の馬が鼻を鳴らしているのが聞こえた。目の前には夜明けの空を突き刺さんばかりに聳え立つ細い鉄柱。私の一つの季節が終わり、これから始まろうとしている次の季節はこの門外で待っている。夜明け前から私の私的な行動にまでついてきてくれる兵士が二人、門外で待機している。私にはこうして自発的に動いてくれる部下がいて、傍らには変わらず彼がいる。

ばあや、見ていてくれ。

ひんやりとした朝の湿気を含んだ風に煽られた髪を押さえようとして首を捻ると、視界の端に明るいものが映った。東翼棟2階の母の部屋に点る灯りだった。誰かいる?私は高鳴る胸をぐっと押さえて大きく一呼吸した。私の様子にアンドレが何かを察したか、背に彼の手が回された。促すように彼に軽く背を叩かれて、私はゆっくりと振り向いた。

母の薔薇園を真下に見下ろすバルコニーに、すっと背筋を伸ばした美しい婦人の立ち姿があった。母だ。細い肩と首筋に後れ毛が揺れても、それを払おうともせずに、私を見つめていた。私も黙って母を見上げた。私たちはしばらくそのまま言葉を交わすでもなく立ち尽くしていた。やがて、東の空が濃い紫色から薄空色に明け始め、朝日がその金色の縁を覗かせると、さっと母の顔を照らし出した。

母は微笑んでいた。見る見るうちに私の目に映る母の姿が滲んでぼやける。私の背に手を置いたまま、アンドレが深く頭を下げた。すると、母はそれに応えるようにドレスの縁を持って軽く膝を折って礼を返した。そして両手指を唇にあてると、そのまま両掌を私達の方へひるがえした。私はやっとの思いで母にくちづけを身振りで返す。
母はもう一度、太陽のように微笑んでくれた。

~ To be continued~



2004.10.13
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