16.二度目の約束

2017/10/09(月) 暁シリーズ
1789年7月23日


「また、無茶を言う。置いて行けるか、おまえみたいな半病人を!」
「少し頭を冷やしたいんだ」
車窓から覗き込むシャルルに一喝された。でかい図体で扉を抑え込まれ、外に出ることができない。まあ、そうだろうな。俺だって立場が逆転していれば同じことを言うだろうから。

「第一、おまえ一人送るのに、何でこんなでかい馬車を出して来たと思っている?」


シャルルがガキに説教垂れる時の口ぶりだ。片腕を腰に当て、もう片方は一本指が俺を向いているぞ、きっと。
「クッションがいいから?」
「あああああ、わかっちゃいないな、こんにゃろ」

何がそんなにショックなのか、俺の返事がよっぽど気が利かなかったのか、シャルルは大げさに嘆いて見せた。

わかっちゃいなくて申し訳ないが、彼の行動パターンならよくわかる。昔からオーバージェスチャーで有名な彼は、両手を上げてから、頭を抱えて天を仰ぐようにして嘆いているに違いない。有名っていったってジャルジェ家の中だけのことだけど。とにかく、しめた。
「あっ、おおい、出てくるな、アンドレ」
案の定、両手が留守になっていたシャルルは、俺に扉を開けさせる隙を与えた。

あたりを見回すと、町並みの黒いぼんやりしたシルエットと、空との境目がまだ何とか判別できる。風が幾分涼しさを増した。夏至を過ぎたばかりだから、日の入りまであと1時間くらいだろうか。それだけあれば、帰り着ける。消耗しきった体力に一抹の不安を感じないわけではなかったが、物悲しい夕刻の町並みと、一人で歩く孤独感が、胸の中で暴れまくるこの高揚感を冷やしてくれるだろう。オスカルに会うまでに、もう少し。

そんなことを思って現在地を把握しようとあたりを見回していると、ずしっと足音が迫り、シャルルにぐい、と腕を掴まれ、低い声で諭された。
「見ろ、これはなんだと思う?」
「え・・・っと」
何だ?見ろと言われても困るのだが。シャルルは、しまったとバツが悪そうにひとりごち、俺を荷台の際まで導いた。

「皆が総出で詰めた荷物が目いっぱい積んである。ほら、これなんかとっておきのブイヨンをフィリップが瓶詰にしたやつだ。伝言付きだぞ。えっと何だっけな、俺のコンソメのレシピを教えろたあ、ふてえ野郎だ。俺の25年の修行を何だと思っていやがる。オスカルさまのためでなかったらこんな馬鹿げたことはしないぞ。おまえがたとえ寸分たがわず材料を揃えて手順を追っても、俺の味が出せるわきゃないが、滋養には変わりがないから、しっかりやれ、バカヤロ。レシピは持っていけ。誰にも見せるんじゃないぞ。だったか。

こっちの荷物は侍女らがよってたかって造ったオスカルさまへの支度だな。俺にはさっぱりわからんが、なんかごしゃごしゃ言ってたぞ。手入れがどうのとか、オスカルさまの肌が荒れたらおまえを許さないとか」

手で触れて見ると、荷台から零れ落ちんばかりにトランクやら衣装箱やらが積み上げられ、ロープで頑丈に括られていた。馬車揺れの重量感や、カーブをことさらゆっくり曲がることを不思議に思っていたけれど、こういうことだったのか。

「こんなに、皆が・・・」
「皆心配してんだよ。だからおまえに無茶をしてもらっちゃ困るんだ。わかるか?」
俺は一人一人に挨拶もそこそこに出てきたと言うのに、皆はこんなに俺たちのことを案じてくれていたのだ。参った、また目頭が熱くなる。
「…ごめん。自分勝手で恥ずかしいよ」
荷に手を置いて俯いた俺の背にシャルルがごつい手を当てた。

「わかったら、乗れよ。途中で放り出したなんてバレたら、俺の命も危ない」
どちらからともなく、くすりと笑いが洩れた。天使の羽根が一枚、ふわりと風に乗って流れたような間があいた。温かい気持ちがからだ一杯に満ちた。

「悪いな、じゃあ少し遠回りしてくれるか?」
「おうよ、珍しく聞き分けがいいじゃないか。鍵を預かっている。ショセ・ダンタンに回って荷を降ろしてから行くか」
「?」
「マロン館だよ。おまえが譲り受けたんだろ?」

そう言えばおばあちゃんに与えられたというパリ郊外の館の名がマロン館だった。少し笑える名前だが、そんな別宅があったなんて初めて聞いた。というか、そんなものあったはずがない。日付を誤魔化しておばあちゃんの死後に買い入れたのだろう。オスカルのために。

「大荷物背負って投宿先へ行くわけにはいかんだろう?荷物はマロン館に置いてから行こう。おい、どうしちまったんだよ、その回転の悪さは」
だめだよ、そんなに急についてはいけない。俺は人の真心で一杯一杯。溺れそうになっているのだから。
「あ・・・、そうだった・・・っけ」
シャルルは呆れ果てたようなため息をつき、わかったようなわからないような歯切れの悪い返事を返す俺の背を豪快に車内へと押した。

「おい」
足台に片足をかけたところで、シャルルが訝しそうな声を短く上げた。俺の背を押していたはずの手が、今度は逆に腕を掴んで俺の動きを止めようとしている。
「あれは・・・向こうから来るのは・・・オスカルさまじゃないか?」

オスカルが?まさか?心臓がどくりと反転し、忙しく打ち始めた。急に身体の向きを変えた俺の勢いに突き飛ばされる格好で、シャルルは尻もちをついて悲鳴を上げたが、悪い、それどころじゃない。
「おお~っ、いってえ」
「どっちだシャルル!」
「おお、いきなり別人格だな。俺らの進行方向から、つまりパリ方面からだ。小指ほどの大きさだがあの金髪はどう見てもオスカルさまにしか思えん」
「一人か?」
「いや・・・後ろに一人、いや二人兵がいる。国民衛兵の青い制服だ。金髪の人影は市民のような格好をしているが・・・向こうも気がついたようだぞ。馬から下りた。ああ、そうだ間違いない!あれはオスカルさまだ!あっ、おいアンドレ走るな!」

オスカル、オスカル!ヴェルサイユに来ようとしていたのか。こんな町境の人気の無いところに来るなんて、なんて無茶をするんだ。尾行がついていたらどうする。王党派までもがおまえを欲しがっているというのに。今朝別れたばかりなのに、もう何日もおまえに会わないでいたように、俺はもどかしい気持ちで走った。

声が聞こえた。何を言っているオスカル。ああ、足音も聞こえる。おまえが軽やかに土を蹴る音。

「走るな、アンドレ!私が行くから走るんじゃない!」

おまえの声が近くなる。オスカル、おまえこそ走るな。ちゃんとわかるから。おまえのいるところには不思議な重力場があるんだ。だから気付かなかったろう、俺が見えないことを。おまえだけは、どんな仕草でどんな面持ちで、俺とどれ程の距離をあけてそこにいるのか手に取るようにわかるのだから。頼むから俺のために走るな。余計な体力を使うな。

「止まれ、アンドレ、私がおまえを捕まえるから、止まってくれ!」

泣いているのか、オスカル。済まない、俺はまたおまえを泣かせたのか。わかった、では捕まえてくれ。でもおまえが見えないから立ち止まるのではないぞ。おまえを受け止める準備がまだできていないんだ。おまえの手が俺に届くまであと100歩。その間に俺は切り替えよう。制御を失った俺の感情がおまえを押し流してしまわないように。おまえを受け止めても動じない足場を固めるために。

足を止めると、よりオスカルの走る靴音が浮き立った。どこにも行かないから、そんなに急ぐな。蜃気楼のようにぼんやりとした人影が揺らいで見える。風が俺を巻き込んだ。その風の形をなぞるように、光を湛えたおまえの髪が舞い踊る様が脳裏に映し出される。今目に映っているあやふやな影とは比べようも無いほど鮮やかに、俺は記憶の中のおまえの姿を見る。

雑多な生活臭と、乾ききった地面が巻き起こす埃の匂いに混じっておまえの香りがした。白い頬を上気させ、すこしだけ眉間に皺を寄せて、口元には微笑を浮かばせているおまえは、もう手が届くほどの距離だ。

オスカルの弾んだ足音が両腕を目一杯伸ばせば届くあたりで止まった。もうあたりはおまえの空気で包まれているよ。おまえの少し乱れた呼気が聞こえる。だめだ、オスカル間に合わない。早すぎる。俺の心はまだ剥き出しの丸裸のままだ。今お前に触れたら総崩れになってしまう。

「アンドレ・・・」

オスカルが俺を呼んだ。祈りのように美しい響きで。何も言うなオスカル。こんな所まで危険を冒してやってきてくれた。それ以上付け足さなければいけない何がある。両腕を伸ばしたくても言うことを聞かない左腕に苛立ちを覚え、未だに揺れる胸のうちを、諦め悪くも今一度制御しようと足掻いてはみたものの。

俺の名をもう一度呼ぶと、光り輝くものが羽のように軽々と俺の懐に舞い降りた。あたりは一瞬眩しい閃光が乱舞した。

オスカル。おまえは奇跡のようだ。
おばあちゃん、わかったよ。美しく微笑んだという死に顔のわけが。おばあちゃんは人生を捧げて悔いなし、そんなものと出会えたんだ。わかるよ、俺も同じだから。少々の孫の不出来具合なんか、かすんでしまったんだよね。

懐に飛び込んできたものの温かみを確かめる。もう何日もこうして触れずにいられたなんて嘘のようだ。懐かしい温度がもどってくると、俺の身体をかたち造る粒子の一つ一つが歓喜に沸き立ち、発火した。おまえは肩で息をしながら、掠れた声で確かめるように囁いた。

「誰も、おまえに手を触れなかったか?」
「ああ」
触れられたのは魂だったよ、オスカル。だが、それはあとで話そう。
俺の傷を気遣って、右側の肩にそっと頭を乗せ、そのくせ背に回した腕はきつく俺の右肩を掴んでいる。その力強さとは対照的に、オスカルの右腕は壊れ物を扱うようにそっと俺の左の腰へ回された。

俺の肩に預けられたおまえの頭に、斜めに首をかしげるようにして、俺も頭も預けてみた。爆発的にこみ上げるものがもう腹の上までせり上がって来ている。オスカルが腕の力を強めた。俺の胸の上で、オスカルの荒い息が彼女の胸を出入りするたび、愛しくて泣きたくなる。

落ち着かないのは俺ばかりではなく。オスカルは何度も俺の首元で頭を置き換え、小さくかぶりを振っては息をついた。だめだよ、おまえの吐息がかかったところから溶けてしまうじゃないか。頼むからもう少し大人しくしていてくれ。俺は自分の頬と、胸と、右腕で彼女の頭をがっちりと抱き抱えた。

オスカルは俺に応えるように静かになり、堪えきれない思いを解き放つ。
「嘘だ」
「何が?」
「今朝、私が言ったことは全部嘘だ」
オスカルがその魔法の一言を言い終えると、途端に彼女の身体の硬さが溶けた。生きようとする力があでやかに紅を放った。あたかも硬いつぼみを破ってほころびゆく花が命の不思議を謳うように。

自由になる右腕を大きくオスカルの背に回し、右肩を包んだ。愛しさが溢れ出し、俺は髪の上から彼女の額に何度も唇を押し当てる。
「最初からそう顔に書いてあったよ」
「ぬかせ」
オスカルが頭をもたげ、小さく抗議の意を唱えた。汗ばんだ額に何度もくちづける俺の唇に、おまえの鼻先が触れる。

もうだめだ、ここまでだ。もう喉元まで突き上げる熱い塊に押し流されずにはいられない。肩にまわした手を外して、オスカルの後ろの首筋を豊かな髪の束ごと鷲づかみにした。大人しく待ってさえいれば、天下の公道でこんなことにはならなかったんだぞ。だがもう遅い。

胸に収まりきらない情動をぶつけることができる唯一のところ。おまえの唇に引きずり込まれる。おまえは逃げなかった。いや、自分から進んで俺を受け止めようと、熱をおびたおまえの唇の方が先に俺を捉えた。

おまえを抱きとめようと急いで戻って来たのに、これでは俺が抱かれているみたいじゃないか。堰の切れた身勝手な濁流を、おまえは全て飲み込もうというのか。温かい唇が、俺の激情を躊躇なく受け入れる。包み込む。からだ全体でおまえに包まれているようだ。おまえの中には洋々たる大海が広がっているに違いない。

だから今日のくちづけは満潮の味がするのだな、オスカル。おまえが俺に準備をする間を与えてくれなかったから、俺は木偶の坊のように、おまえの暗くて温かい海原に抱かれるより術がない。海が人肌の温かさを持っているなんて今日まで知らなかったよ。

命の源泉に還るのは、きっとこういう感覚なんだ。初めて知った。なのに遥か昔から知っていた。気持ちのいい不思議な矛盾。

「アンドレ・・・、そんなに力を込めたら、傷に障る」
俺の唇の端でおまえの唇がそう動いた。そんなはずはない。抱かれているのは俺の方だ。
「アンドレ、力を抜いてくれ」
だめだ、オスカル。もう捕まってしまった。動けない。
「何故、そんなに泣く?わたしのせいだな?」
泣いてなどいない。潮が満ちて一杯なだけだ。おまえにはわからないのか?

「アンドレ、アンドレ、何かあったのか」
おまえは唇を離すと、伸びあがって何度も何度も俺の髪を梳いては背をさする。頬を寄せては俺の涙を吸い取った。

涙だって?

自分の激しい嗚咽が聞こえた。いつの間にか俺はオスカルを抱きしめ、号泣していたのだった。子供のように、思いのままに声を張り上げて咆哮していた。みっともないな、オスカル。呆れているだろう?

「何か、あったのだな」
腕の力を解かない俺を説得することを諦めたおまえが、再び俺の右肩に頭を預けた。背に回った手は子供をあやすように優しく滑る。
「あとで・・・はな・・・す・・・」
おばあちゃんが死んだんだ、オスカル。ああ、だから俺はこうしておまえの懐で泣いているのだな。おまえに抱かれてやっとまともに泣けたんだ。

「かっこ悪いな・・・俺」
「ふふ、悪くない」
オスカルが小さく笑った。
「悪いよ、みっともない」
かっこ悪くないはずがないじゃないか、大の大人が子供みたいに声を上げて泣きじゃくっているんだぞ。
「ああ、かっこ悪いし、みっともない。そんなおまえを見るのは・・・、悪くない」
本当だ。おまえ、妙に嬉しそうだな。
「恥ずかしいよ」

おまえは俺に回した腕に力を込め、ふたたび俺を導いた。誘い込まれた先は柔らかなおまえの唇。俺を溺死させる気だな。労わるようにおまえがくれたくちづけは、今度は涙の味だった。僅かに空気が通るほどの間を空けてから、もう一度おまえが唇を寄せる。そして、次のくちづけが与えられることを期待した俺に贈られたのは全く別のものだった。

「みっともないおまえをもっと見たい。おまえの我がままが聞きたい。たまには八つ当たりくらいして見せろ。まだまだ私に見せていないおまえがいるはずだ。今日のように泣きたい時は私が胸を貸してやる。だから・・・」

オスカルはそこまで言うと、俺の両頬を両手で包んだ。大輪の白薔薇がほころぶように、おまえが確かに微笑んだのがわかる。花びらの上には涙のしずくが転がり落ちそうに乗っている。見えなくてもわかるんだ。そんな俺を酔わすような笑みを浮かべておまえは何を言おうとしている?なぜこんなに胸が早鐘を打つ?

「さっさと、私を妻にしたらどうだ?」

半開きの薔薇が満開になり、つつっとしずくが花弁をころがり落ちるのを見ているようだった。いや、きっと実際に見えていたに違いない。だが、今何を言った?よくわからないよ、オスカル。

「初めて聞いたような顔をするな」
少し、憮然とした声。ちょっと待ってくれ。泣きっ面でうろたえる俺は、最高に無様で・・・、えっとこういう場合はどう言えばいいんだい、おばあちゃん。俺はぼんくらか?

「おまえがこんなへまをするから、結婚式がお預けになったままだ、と苦情を申し立てているのだ、わかるか?」
俺が黙ったまま呆けきって突っ立っているからだろう。オスカルは声をが険しく尖らせ、いきなりパチン、と俺の左胸を指で弾いた。い、痛いぞ。ああ、美人が台無しだ、と見えていれば言いたくなるような顔つきをしているだろう?。オスカルの眉間に指を這わせてみる。やっぱり思った通りだった。

オスカル。忘れるものか。出撃間際におまえが俺にくれた、あの一言を。俺にはそれだけで充分だった。だけど、いざそれを現実にすることを考えると、俺は不安でたまらない。意気地のない俺を笑ってくれ。

俺は、死ぬまでおまえの傍を離れない。何度だって誓えるよ。それはおまえも知っているだろう?けれど、たった一夜で勝者と敗者が逆転するこの時世だ。再び形勢が入れ替わる事だってあるだろう。貴族のおまえと平民の俺が結婚という社会的契約を結ぶことが、おまえにとって致命傷になっては悔やんでも悔やみきれない。それにもう一つ、考えないわけにはいかないことがある。

「オスカル・・・」
俺の声音に何かを感じ取ったのか、オスカルがぴくん、と肩を震わせた。
「何を考えているか、わかっているぞ。おまえは、わたしに逃げ道を残しておきたいのだろう?」
きつい語調。なのにおまえの表情を読み取ろうとしている俺の指の間を、大粒の涙がはらはらとこぼれて落ちた。

「政局がこの先どう転ぶかわからない。それに俺は今でこそ明暗と輪郭の判別がつくから一人歩きもできなくはないが、もしこの先真っ暗闇が訪れたら、おまえはとんでもない荷物を抱えることになるのだぞ?」
馬鹿正直で馬鹿な俺。もう少し言いようがあるだろうに。

「おまえが負傷していなかったら・・・」
オスカルが静かに激高した。青い怒りの焔が見える様だ。
「今頃は、地面に仰向けになって伸びているぞ!」
そう言って、オスカルは顔をなぞる俺の手を振り払った。

「おまえにだって、とびきり上等なリスクを負わせることになるのだぞ。何せ私はバスティーユの女神とか何とかいう有名人で、味方も多いが政敵も多い。加えて胸には爆弾だ。花嫁にするには世界一不都合な女だぞ。その私が雄雄しくおまえにプロポーズしてやっているのに、おまえがそんな理由で引くのか?」

オスカル、不利な条件勝負じゃないんだから。それに言葉通りに聞いてなどいないよ。何かまた別のことが顔に書いてあるのだろう?待ってろ、今読んでやる。

『それでもいいと言ってくれ』

勇気のいる一言だな。俺ではとても言えやしない。俺の負傷と失明に打ちひしがれて、一時は生きる勇気を失くしたおまえが見事に立ち直ってそこにいる。

意気地がないのは俺。

おまえの手を取る。振り払われるかと思ったが、予想に反しておまえは握り返してきた。その手を頬にあて、掌にくちづける。
「おまえの傍を離れはしない。それだけは約束する」
「足りないな」
「足りない?」

「月明りを避けておまえにくちづけるのはいやだ。太陽の下で堂々とおまえにくちづけて抱きしめたい。声を潜めず愛の言葉を口にしたい。おまえが私のために身を隠す日を恐れるのはごめんだ。結婚がもたらす社会的損得など考えたくない。そんな理由に振り回されるいわれなどないぞ。理由など、たった一つあれば充分だ」

小心者の俺。勇気溢れる大胆なおまえ。似合い・・・かもな。
「愛している」
オスカルの腕が俺の首に回った。弾丸を食らった左鎖骨を避けて、右手は俺の後頭部だ。髪の中にオスカルの長い指が差し込まれると、俺は吸い寄せられるようにオスカルの唇に捕まった。酔いがまわる。世界がまわる。

俺を虜にしたまま、俺の唇の上でおまえが囁く。
「おまえは?」
ごめんよ、催促されるなんて最低だ。
「愛しているよ」
「では妻にしろ。名実ともだ」

おまえにここまで言わせてしまう俺も最低だ。どう答えればいいんだ?『はい』か?間抜けすぎる。だが、今日の俺には何と相応しい。

「は・・・」
「おまえのためなら、生きていける!」

オスカル、オスカル、何て奴だ。何から何まで先回りして、俺に抜けた返事すら返させない。俺の出る幕など一つも残っちゃいないじゃないか。俺はおまえの髪に顔を埋め、ただ抱きしめるしか能がない。

思いがけずすぐ傍で、馬が鼻を鳴らす音と、馬具の金具がぶつかる音がした。俺達が街道から死角になるように、いつの間にかシャルルが馬車を移動させてくれていたのだった。粋な計らいを、有難う。悪いな、この際だ。もう少しだけ辛抱してくれないか。俺達はどうやら、人生の正念場を迎えているらしいから。いつか一杯奢らせてくれな。

別の馬が嘶く声もすぐ後ろから聞こえた。トルナードじゃないか。オスカルについていた奴も馬で陰を作ってくれていたのか。誰だか知らんが後で必ず奢ります。だから袋叩きは勘弁してくれ。でなければせめて手心くらいは加えてくれよ。

オスカルの金糸の海から顔をあげ、手に余る房を掻き分けて、彼女の表情を指で探る。瞼に触れるとオスカルは静かに睫毛を伏せ、雫が一粒、頬を伝い落ちる。それを指で追っていくと、吸い付くような弾力をした唇が、笑みを浮かべて待っていた。

どんなに美しいことだろう。俺の脳裏に鮮やかに映し出される、おまえの涙に濡れた微笑は、喩えようのないほどの美しさだけれど、実際に目にした時のおまえの美しさとの相違を、俺は永遠に知ることができないのだ。

その痛みを埋めようと、俺はおまえの顎に手をかけ、唇でおまえの輪郭を確かめる。おまえの唇がそれを追う仕草を返すのを受けて、今日初めての俺からのくちづけをおまえに贈る。これが返事だ、わかるな?おまえなら。

「いつにする?」
「今夜でもいい。でなければ明日」
「無茶だ」
「待てない。さっさとモノにしておかないと、おまえの気が変わる」
「まさか」
「絶対に逃がさない」

頬寄せ合って笑い合った。おまえの笑い声ほど俺の耳に心地よく響く音色はない。台風一過。嘘のように晴れた空の清清しさが胸の中に身広がるようだ。この先波風が立たないはずはないけれど、決めてしまえばこんなものか。今は希望と至福しか感じられない。こんな現金な奴だったか、俺。
「明日では指輪が間に合わないよ」
「支度などどうでもよい」
「贈りたい」

オスカルが大きく目を見開いた気配がした。意外だったか?実は俺もだ。
「ふふ、やっと少しはましな言い訳をするようになったな」
「少しだけ準備する猶予をください」
「夜逃げの準備ではないだろうな?」
「だから、逃げないって」
やれやれ、俺の及び腰のせいで、すっかり信用されなくなってしまった。オスカルはくすくすと笑いながら、半分解けかかっていた俺のクラバットを、締め上げる真似をした。

「では、一つだけ注文がある」
オスカルの茶目っ気を含んだ言い回し。ちょっとした危険の兆しだ。さあ、好きに料理してくれと、返事代わりに微笑み返す。オスカルは、俺の腰に両腕をまわした。
「指輪に石はつけないでくれ」
「どうして?俺の懐具合を心配してくれているのか?」
「ふふふ、そういうことにしてやってもいいが」
オスカルがぐっと俺の腰を引き寄せる。

「私がこの先、生涯とおして手にする宝石はたった一つだ」

さっきの悪戯っぽい口調とは打って変わり、一言、一言の奥行きに、深い思いを込めてオスカルが俺に言葉を繋ぐ。
思う通りに動かない左腕を、オスカルの背側で拾い上げ、俺もオスカルを両腕で囲った。危険な香りが腕の中に一杯に満ちて溢れて立ち上る。オスカルが言おうとしていることは、何かを根底から覆すだろうという予感。

「私はそれをもう持っている」

何故か急に跪きたくなった。精一杯の敬意をおまえに表して、次の言葉を待てと何かが俺に強く命じた。オスカルを全身で感じ取るために抱きしめ、しばしの間、彼女のしなやかな感触を肌で味わってから、俺はゆっくりと膝を地面についた。オスカルは、両手で俺の頬を挟んで、上向きに導くと身を屈めた。ふわりと彼女の柔らかな髪束が俺の顔に降りてくる。

「ここに」

オスカルの唇が俺の右瞼に静かに置かれた。

オスカル。

時折薄暗い世界がやって来るようになってから、俺はおまえと共にいられる時間の終わりを恐れ、不安を塗り重ねながら時を過ごして来た。

そうやって幾層も重ねてしまった心の闇に阻まれて、見るべきものを見ていなかった俺の視界を、おまえはいとも簡単に照らしてくれる。
おまえはやはり光だった。

機能しなくなった俺の瞳に宝石を見るおまえ。おまえの深々とした蒼い瞳こそ、本質そのものを見抜く力があることを、知らぬ俺ではなかったものを。なのに、見えなくなれば、おまえを失うかのように恐れていた。

そうだった。人は世界をありのままに見るのではなかった。そもそもそんなものがあるのかさえ疑わしい。人は、自分の目に映る世界を見るのだ。それぞれの瞳の持つ透度と屈折率をとおして。

おまえの瞳に映しだされる世界に俺がいるのなら、恐れることなどなにもなかったはずなのに。なのに、俺は勝手な思い込みで自分を縛っていたのだ。

長い一日が終わろうとしていた。茜色に染まった西の空には、教会のとがった屋根と、丸いドーム屋根が交互に黒いシルエットを影絵のようにくっきりと浮き上がっていることだろう。俺には淡いオレンジ色の明るみがぼんやりと暗闇に浮き上がっているようにしか見えないが。

本当に長い一日だった。人の心の無限に続く広がりを見た。ここ数日間、抑圧され続けた怒りと憎しみを、免罪符を手にしたかのように、暴力行為として噴出させる市民の一部が、憎い相手の血に手を染めて狂喜する様をつぶさに見てきた。

人の心は負の方向に際限なく暴走することができるけれど、そのエネルギーの爆発的な強さと同じくらいに、反対の方向へ広がり続けることもできることを俺は知った。その心が交わる時、何が起きるのか、人を支え助けることがどういうことなのか、おぼろげながらも学んだ一日だった。

だけど、俺に止めを刺してくれたのは、やっぱりおまえだった。
オスカル、俺もおまえのためなら生きていける。光を失ったこの身を持て余すことがあったとしても。ショックから立ち直ったらちゃんと言葉で伝えるよ。

薄闇のベールが街に降り、ぽつりぽつりと街頭の灯りが浮かび上がる。この日最後の陽光を背に立つおまえの輪郭は、ぶれにぶれて頭の一部分しかわからない。

俺はおまえのあやふやなシルエットをすがり付くように見つめたまま、空っぽになって静止していた。おまえのかけた魔法はあまりにも強烈すぎて、自分では解けやしない。

「注文は以上だ」
「オスカル・・・」
「行こう、アンドレ。日が落ちる」
「そうしたいんだが・・・」
「おまえも、何か条件があるのか?それは道々聞いてやる」
「そうじゃない」
「アンドレ?」
「腰が・・・抜けた」

一瞬、素っ頓狂な間があたりを支配した。
絶句したオスカルが、ぷっとそれを破ってから、高らかに笑い声を上げる。それを合図に、遠巻きに見守っていた連中がばらばらと駆け寄って来た。俺は情けないことに、肩を借りて助け起こされないと、本当に立つことが出来なかった。

俺は結局数人がかりで馬車に担ぎこまれた。最初は笑ったオスカルだったが、次第に意識まで遠のきそうな俺を見て、慌てて一緒に乗り込んだ。俺はパリへは戻らずに、ヴェルサイユの町のどこかに宿を探してくれるように言い終わるまで、何とか意識を保ったが、その約束を取り付けると、オスカルが俺の名を心配そうに呼び続ける声が遠くなるのを聞きながら、何もわからなくなった。

             ~To be continued~
                             2004.9.26
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