15.伝えることは

2017/10/05(木) 暁シリーズ
1789年7月23日

2頭の馬の蹄が街道を蹴る音と、手入れの良い車輪が立てるリズミカルな音を聞いていると、ジャルジェ家からフランス衛兵隊ベルサイユ駐屯地へ向かっているような錯覚に陥る。馬車が俺の体によく覚えのあるカーブを曲がった。体に馴染んだ方向感覚は直進を主張しているのに、馬車は再び右方向に向きを変えた。真っすぐ進めば王宮、右折すればパリだ。

夏至を迎えて間もない7月の空は、まだ真昼のように明るかった。窓の外を見るとまだまだ俺の目にも町並みの輪郭が辿れる。日中の強い日差しは随分と穏やかになり、車窓から入ってくる風は優しかった。身体は疲労と眩暈で辛かった。傷の痛みも酷かったが頭は冴えていた。何という長い一日だったのだろう。

当主夫妻との話を終えた後、俺は早々に屋敷を辞した。オスカルの様子を聞きたがるかつての同僚達に引き止められ、申し訳なくて胸が痛んだが、一刻も早くパリに戻りたかった。オスカルが今日の仕事を終えて帰還した時、真っ先に出迎えてやりたかった。

新しく発足した国民衛兵隊の中で、部下の立場が確保され、新しい環境の中で独り立ちするまで、上官として、指導者として、また必要な時には保護者として、彼らを守ろうとするあいつの意思が俺には手に取るようにわかる。勝手に貼り付けられてしまった『バスティーユの女神』というラベルが市民の集団心理に与える影響の大きさにはナーバスにならざるを得ない。

ピンと張リ詰められるだけ張った、オスカルの神経の糸は、下手に触れれば弾けて切れてしまいそうだった。だからプライバシーのない生活をするオスカルから、俺は一歩離れた距離を何とか保ち続けていたのだった。

だが、今朝のあいつはどうだ。もう限界だと、オスカルは全身で訴えていた。彼女の言葉通りに受け取ってはいけない。それは俺の中でもう確信になっている。ごめん、オスカルすぐに戻る。それに、今すぐ抱きしめれば、旦那様のぬくもりまでも伝えられるような気がしていた。

俺の体を気遣ってか、シャルルは俺一人を送るのには大きすぎる4輪荷馬車を操っている。とは言っても元は豪華な社交用のこの馬車は、昨今の時勢に合わせてわざわざ質素な荷馬車風に外装を変えただけで元の造りはしっかりしている。ジャルジェ家の馬車の中ではひょっとして一番スプリングがいいかも知れない馬車だ。二頭立てにしてあるので、揺れは穏やかだ。単調な音と振動に身を任せ、旦那さまが出かけられた後に俺の手を取って泣いた奥さまの言葉を、俺は思い起こした。

「傷を見せてください。あの子が…、あの子が受けていたかもしれなかった傷を」
「奥様…」
「見ておきたいと思います。私達の選択の結果として」
涙声に震えてはいても、奥様は静かな決意に満ちていた。この真摯な願いを聞かないでおくことなど、俺には到底できはしなかった。

黙ってシャツを脱いだ。傍にいたデュポール爺が包帯を外すのを手伝ってくれた。つい先刻、綺麗に消毒し、あて布を交換してもらったばかりだったが、布はもうすでに広範囲にわたって傷に張り付いていて、剥がす時に新たな鮮血が胸を伝い降りたのを感じた。

奥様は息を呑んで、一言も発しなかった。大丈夫だろうか、刺激が強すぎるのではないか。しばらくののち、奥様が合図でも送られたのか、入って来たマルタが傷の処置を手伝ってくれ、俺は身づくろいを終えた。その間奥様は無言だったが、気丈な姿勢を崩されることはなかった。

取り乱されてはいないことだけは分かったが、人の表情がわからないというのは、本当にコミュニケーション手段の大半を失ったようにもどかしい。しばしの沈黙は、あるいはほんの数回瞬きをするくらいの間だったのだろうが、奥様が次の言葉を発するまで、俺は罰を言い渡されるのを待つ子供のような目をしていたに違いない。

「何て深い…。受けたのがあの子の方だったら、確実に天国へ召されていたのでしょうね、どれほど…感謝してよいか」
息苦しい沈黙のあと、唐突に響いた奥様の声は、微かに震えていた。
「奥様」
奥様の手を探し当てて、軽く握る。使用人だった俺なら考えられない行動なのに、不思議と抵抗を感じない。違うのだ。俺がオスカルの身代わりに体を投げ出した、そう傍目には見えたかも知れないが、違うのだ。
「不躾をお許しください。私が望んだことでした。誰に求められたわけでもなく、私が己の為にしたことなのです。体に傷を負ったのは私でしたが、心に深く傷を負ったのはオスカルの方でした」

細く華奢な手が、力強く握り返してきた。その上からまたもう片方の手が被さる。その上に、俺は左手を重ねようとして、失敗した。麻痺した左手は大きく横にぶれて膝の上に力なく落ちた。
「早く、早く良くなってください。そして、あの子を…守って…」
搾り出すような奥様の言葉。奥様は膝に力なく落ちた俺の腕を拾い上げ、大切そうに両手で包んでくださった。俺は不甲斐なくて不甲斐なくて、ただ頭を下げた。

「教えてください、あの子は…オスカルは…」
顔を上げると、奥様が食い入るように俺を凝視している様子がわかった。オスカルと奥様が似ていると思うのはこんな時だ。奥様も決して現実から逃げることを潔しとしない。真っ直ぐに両手を広げてそれを受け、必要なら進んで傷つく勇気を持っている。優しげな姿には、しなやかな強さが確かにを裏打ちされている。だから、たとえそれが奥様の望まぬ現実だとしても、俺は真実を告げなければならない。

「マルタが、オスカルの暖炉でシーツと衣類の燃えさしを見つけました」
奥様がそう言うと、マルタが奥様の言葉に被さるようにその後に続いた。
「火を熾すような季節ではないのに暖炉に残っていた灰を不思議に思って見たら、オスカルさまのブラウスの絹とシーツの厚い絹が重なって燃え残っていて…。血がついていたわ」
「肖像画を見に皆でホールに集まっていた時、オスカルが酷く咳きみましたね。その後の行動もおかしかった。どうしても気になっていました」

俺は大きく頷いて身振りで告げた。もう、それ以上奥様が何も言わなくても良いように。奥様は真実が知りたいのだ。曖昧に誤魔化してしまう方が苦しまれるだろう。
「奥様の、お考えになっている通りです」
「お・・・お!」
「奥様、大丈夫でございますか?」
奥様の悲嘆の声にマルタが気遣う気配。

無力な自分が恨めしかった。何故、オスカルの傍にいるのがこんな俺なのだろう、と体にすっかり馴染んだ自己卑下の淵に引きずりこまれそうになる。いけない。もうそこには沈まないと決めたではないか。

もし、俺の失明をオスカルが事前に知っていたら、オスカルは俺を置いてパリへ出動しただろうか。俺を戦線からは外したかもしれない。だが俺を置いておまえはジャルジェ家を出て行けたか?否、否、否、だろう?

『おまえは残れ!』
オスカルが語気を強める時には言葉とは正反対の訴えが聞こえる時がある。助けを求める声が、あの時聞こえはしなかったか。

無力で無様な俺はあいつにはふさわしくない。そう繰り返し俺に警告するものは他でもない俺自身であり、オスカルではない。だから俺はそんな警告など何度でも振り切ろう。俺はおまえが選んだ俺だ。おまえのものだ。自分で自分を貶めてなどいる暇があれば他にすることがある。そう思った途端、自然に言葉が流れ出した。

「結果を決め付けて、絶望する必要はありません、奥様。冷静に調べて見れば、病を抱えたままでも健康な者と変わらない長い生を全うした例などいくらでも見つかるはずです。完治した例すらあるのです。それらは少数派でありましょうが、その中にオスカルが入らないと誰が断言できるでしょう。どうすれば予後良好な例の中に入れるのかを調べつくして、実行します」

自己嫌悪に陥っている場合ではない。手を伸ばすと、奥様の腕に触れた。細かく震えている。泣かないでください。打てる手は全て打ち尽くしますから。俺は心の中そう語りかける。奥様が俺の腕を掴んだ。
「オスカルは…軍を率いることを止めないでしょう。男性の身にすら厳しい条件の元で、私にはオスカルが命を削りこそすれ、健康を取り戻せるとはとても思えません」

無理も無い。シャルルの言っていたように、旦那様の諜報部隊がオスカルの動向を調べ上げ、逐一報告がなされているのなら、オスカルの置かれた立場が、どれほど多方面からの圧力を受けるかを痛いほどわかっておいでのはずだ。それにさっきの客。ああいう輩の情報も、奥様の処に次々と寄せられていることだろう。

「軍に身を置いていたとしても、必ず折り合い点を見つけます。オスカルはたとえ病んでも、檻の中では生きられない人間です。人の手から餌を与えられるのを拒む野生の獣の誇りを持つ者です。病室に閉じ込めてしまえばかえって生きる力をあいつから奪うことになるでしょう。どこかに…中庸の道があるはずです。必ず見つけます」

俺にしてもそんな手だてが見つかるのか否か、自信があるわけではなかった。だが、オスカルを信じていた。オスカルが最終的に下す決断を信じていた。オスカルが生き抜く、と決めることができれば、必ず道は現れる。

「貴方の手なら?」
奥様の声が珍しく興奮を帯びた。まるでわらの山の中で失くした指輪を見つけ出した時のような。
「奥様…」
「人に馴れぬ野生のものでも、まどろむ場所は欲するもの。まして手負いの獣なら、いくら牙をむいて威嚇したとしても、心休まる場所をを本当は求めて止まないはずです。心を許した人の手が触れれば、威嚇を止めて静かにうずくまるでしょう」

少女のようなひたむきな期待が薄い灰色がかった青い瞳に宿っているに違いなかった。それは真っ直ぐ俺に向かっている。温かい感触に包まれた。前にも、違う言葉と熱気で同じことを言われたことがなかったか。そうだ、あれはあいつだ。今頃くしゃみでもしているだろうか?

「心…します。どんなに牙をむかれても諦めません」
つい、こんな答えを返してしまった。今までの主従の関係だったら考えられない返事だ。まったく今日の俺はどうかしている。でも、奥様は笑ってくださった。
「あら、昔から貴方はジャルジェ家一の猛獣使いでしたよ。ついさっきも大物が一頭、喉を鳴らしたではありませんか。残るもう一頭も貴方になら爪を引っ込めるはずです」

俺は一瞬絶句したが、元気を取り戻した奥様の悪戯っぽい返しが嬉しくて、何と声を出して笑ってしまった。おばあちゃん…行儀悪くてごめん。
「す、済みません」
「ほら、その顔よ。今日初めて笑顔を見せてくれましたね。その笑顔と、この手があの子の傍にあることを感謝して止むことはありません。そうね、貴方の言うようになるような気がしてきました。いいえ、そうと信じます。これからも、この二つがあの子の傍にある限り」
「それだけは、お約束します」

何故、この人はこんな盲目の俺に全幅の信頼を寄せてくれるのだろうか。心元なくはないのだろうか。さっきから眩暈が止まらないのは、身に余りすぎる俺への温かい信認のせいだ。きっとそうだ。
「何か、心配ですか?私達にできることがあれば最善を尽くします。言ってください」

すっかりいつもの落ち着きを取り戻した奥様が、今度は俺を気遣うように尋ねられた。俺の表情の変化を正確に読み取られる。

俺はもうすっかり身ぐるみ剥がされたような、丸裸の心情になっていたから、思ったことをそのまま口にするしかなかった。
「何故そうまで私を信じてくださるのですか?ご存知なのでしょう、私はもう…」
「アンドレ」
きっぱりと奥様が俺を遮った。

「貴方にはいつも大変な責務を負わせてきました。けれど、期待以上の結果を返してもらわなかったことはありませんでした。厳しい人生を送ることになる娘に、護衛と世話係と仕事の補佐をつけてやりたくても、それぞれの分野に長けた人材を発掘してやることは、当初不可能のように思われました。難しい子だったし、どんなに彼女が努力家でも、男性職業軍人の中でたった一人、女性でいるというということは、どうしても特殊な問題を生みます。だから、側近としての能力だけでなく、相性の良さも重要でした。たまたま貴方がばあやの孫だったというご縁から始まったことだったけれど、オスカルが近衛に入隊した頃には、適任の人材を揃える心配を貴方がすっかり払拭してくれました。貴方がたった一人で必要な条件を全て満たしているとわかった時の安堵をどう言い表せばいいかしら」

「奥様、私はそんな…」
「そうね、言いたいことはわかります。それぞれのエキスパートを一人ずつ付けたと同じだけの仕事を貴方が一人でしてきたと言っているわけではないのよ。それではあまりにも人間離れし過ぎ」
奥様はそう言って笑った。少々、いやかなり奥様の総評に身をよじりたくなっていた俺は、その笑い声に救われた思いだった。奥様はおやおやといった風に続けた。

「穴があったら入りたそうな様子だこと。こう、言い換えましょう。いくら優秀な人材を何人もオスカルに付けても、あの子の性格では窮屈がって、そう過去に何人もの家庭教師を追い出してしまったように、結局は蹴散らしてしまったと思うのよ。プロ級の腕前の護衛兼秘書兼侍者ではなくても、多方面でバランスが取れてつぶしが利くというのも一つの能力だし、あの難しい子が素に戻れる空間を作り出す離れ業に関して言えば、プロと賛辞しても辞退しないわね?」

奥様の笑みが見えるようだ。品格溢れる慈愛に満ちた笑み。辞退はしないけれど、やっぱり勿体なくて微笑み返すのが精一杯だ。
「いい顔になりましたね。貴方がオスカルの前に現れたのは、天の恵みとも思ったけれど、でもね、アンドレ、それは貴方の資質が優れていただけではなくて、オスカルだったからではなくて?オスカルの相手をすることによって貴方の力も何倍にも増幅されて引き出されたのではないかしら」

仕えたのがオスカルでなかったら?想像することすら困難な仮定だが、もしそうだったら、今の俺はまったくの別人としてこの世に存在していただろう。もしかすると、太陽と水を与えられない植物のように枯れて、もうこの世には居なかったのではなかろうか。
「私の仕事の質はともかく、その通りだと思います」

ほら、わかったでしょうとでも言いたげに奥様はくすり、と笑いを漏らした。
「正直に言えば、貴方の失明は非常に大きな不安材料でした。でも、オスカルに貴方がいたように、貴方にもオスカルがいるでしょう?貴方に今更言うのも変だけど、私の娘は世界一手強い正直な不器用者ですよ。なお悪いことに愛情深さといったら天下一品です。失明くらいで簡単に愛想などつかしてくれるものですか。そんな彼女に付き合うとなれば、貴方も今まで以上の底力を引き出されるしかないでしょう?今日、実際に貴方と再会するまでは、先の不安はありました。でも、貴方の決意を聞いて、もう貴方が前を向いて進み出していることがわかりました。そして、その力を与えているのがオスカルね。環境がいかに変わっても、大切なことほど、何も変わりはしないのだと確信しました。私が信頼しているのは、あなた達の絆ですよ、アンドレ。絆があの子を守ってくれると信じます」

完璧に開け放した俺の心魂を、奥様の両の掌で直接触れられたようだった。体中に力がみなぎって来た。なんという力強さだろう。人は魂を触れ合わせることで、人に力を分け与えることができるのだ。

オスカルと俺は、奥様が仰るように互いを生かしあって生きて来たのに、それがあまりにも当たり前すぎて認識していなかったのだ。

オスカルを支え、守り抜く。長いこと俺の行動の基準となる信条だったものが、とたんに陳腐に思え始めた。俺が感じていた以上に、俺はオスカルに生かされていた。守られ、支えられていた。身分や立場の違いの縛りなど、到底力の及ばない深いところで。

「有難うごさいます…奥様」
俺はそれだけをやっと答えた。目の前に白い閃光が飛来し、頭が沸騰するように熱くなった。床が波打つ。魂の会話は…強烈だ。湧き出た力でこのまま自爆してしまいそうだ。
「アンドレ、まあ、つい無理をさせてしまったようね。遠慮しないで横におなりなさい。パリへは伝言を持たせますから、今夜は休んで行くといいわ」

いつの間にか俺は仮眠用寝台にひっくり返っていて、見えないはずの目の前には星が飛んでいた。眩暈のせいで、寝台が揺れているようだった。マルタが冷たい水に浸した布を額と目を覆うように当ててくれた。少し、落ち着いて、口が利けるようになった。

「いえ、パリに戻ります。どうぞ、おばあちゃんをよろしくお願いします。本当なら、俺が面倒を見なければならないのですが…」
起き上がろうとする俺を、今度はマルタが制した。すかさず奥様が勿体なくも俺に詫びの言葉をくださる。

「本当に無理をさせました。まだ呼び出したりするには貴方の負傷の状態から言って早すぎるのはわかっていたのだけれど、ばあやに会わせてあげるには、そろそろ遺体の保存が限界でした」
「感謝の言い表しようもありません、奥様」
「本当にすぐ戻るのですか?真っ青ですよ」
「おばあちゃんのこと、何から何まで甘えてしまって、無責任だとは思いますが、どうしても」
「何か、理由があるのですね」
「はい、オスカルがあまりいい状態ではありません。心身相方とも」

奥様の立ち直りがあまりにも見事だったので、俺は事実をそのまま伝えた。それにどの道奥様には旦那様経由で、オスカルの正確な情報が入るのだ。その場しのぎのことを言って、情報を交錯させては、かえって不安を煽るだろう。奥様はしばらく何か考えていたようだったが、やがて静かにこう言った。

「それでは、今薬湯を運ばせますから、全部飲み干すこと。オスカルも貴方も昔からこれが大嫌いだったのは知っていますけれど、私の祖母の代から病後の体力回復にはこれよりよく効く滋養はないと決まっています」
俺はあからさまに顔を引きつらせたらしい。奥様とマルタが吹き出した。

「まあ、ほほほ。懐かしい表情を見せてくれたわね。それから、ばあやの話をしましょう。これだけは話しておかなければならないわ。それと、貴方に無理やりサインさせてしまった証書を読んであげます。貴方はせめてその間だけでも身体を横たえて休みなさい。そうしたら帰してあげます。取引に応じますか?」

オスカルのことを聞いても、お茶目な物言いをする余裕を失わない奥様だった。おばあちゃんの臨終の様子はどうしても聞いておきたいが、心はパリへパリへと飛ぶ。
「身体が、二つ欲しいようね、アンドレ」
表情を読まれっぱなしだ。今日の俺はどうかしていると言うより、完全に子供に戻ってしまったようだ。事実上袂を分かったというのに、この家はそれほどまでに安心を与えてくれる場所になっていたのだ。

「私にばかり有利な取引を、逃すような馬鹿な真似はしません」
俺がそう答えると、奥様は鈴を鳴らすように笑い、いきなりマルタが俺にカップを握らせた。ああ、あの甘ったるい匂いだ。アーメン。
「さあ、一気にいきなさい、アンドレ。途中で躊躇すると地獄を見るわよ」
笑いを押し殺したマルタの声。
「蜂蜜入り?」
「当然」
うわ。じゃあ、蜂の子の粉末も入っているな。
「生姜にグローブに、あの例の東洋から取り寄せる根っこも?」
「レシピは永久に不変よ」
「・・・・・・」
「往生際が悪いわね、ほら鼻つまんで!…つまみ易い鼻ね」

それからしばらくのことは、思い出したくない。



奥様は、おばあちゃんのことを話してくださった。フランス衛兵隊が民衆側に寝返ったことは、おばあちゃんの病状を考慮して、伏せられていたそうだ。そして、動揺を外に出さないでいられるベテランの侍女だけがおばあちゃんの部屋に出入りし、世話にあたった。

それでもおばあちゃんは、何かいつもとは違う異変が起きたことを、空気を読んで悟っていたような素振りだったと言う。しかし、誰に問いただそうともせずに、蜀台と小さな聖母象で枕元に設えてもらった簡単な祭壇に向かって、時折黙って手を合わせている姿が見られたと言う。

翌日にはバスティーユの陥落とともに、俺が銃撃を受けたこともジャルジェ家には知らされたが、おばあちゃんに知らされることはなかった。ところがその日におばあちゃんは昏睡状態に陥った。

「三日間眠り続けて、4日目の朝、お医者様は奇跡的だと仰ったけれど、目を開けてくれました。あなた方のことをばあやに告げたわけではないけれど、その朝目を覚ましたばあやの面差しは、まるでこの世に存在するのは愛だけと言わんばかりに、何を見ても聞いても慈しみで包み込んでしまいたそうな様子でした」

「オスカルの出動前夜にはあんなに泣いていたのに…ですか?」

「もう意識が混濁していて、幻覚でも見ていたのだろうとお医者様は言われたけれど、私にはどうしてもそうは見えませんでした。話しぶりはいたって正気そのものでしたから」

「何を…言っていました?」

「まるで、それを言うために目を覚ましたかのように、美しい言葉できちんと整理された順序で、私達への感謝と変わらぬ愛と。それからオスカルのことを心配しないようにとも言いました。何かを見てきたのではないかと思えるほどの確固とした響きでした。人の顔があんなに美しいと思ったことはありませんでしたよ。最後に口にしたのは貴方のこと」

「私のことを?オスカルではなく?」

「貴方が見えていないことを私達が知ったのはその時です。ばあやは、許しを請いました。貴方が見えていないことを言えなかった。知らずに貴方を連れ出したオスカルは、後でその事を知って心を痛めただろうと。でも貴方の気持ちを考えるとどうしても言えなかった。最後の最後で、人生で初めてオスカルよりも貴方の気持ちを優先してしまった。けれど、仮にオスカルがそれを知っていたとしても何も変わりはしなかったはずだから、きちんと言っておくべきだった。後で知った方がよほど辛かっただろうと。それだけが気がかりだと、少しだけ泣いて、またすぐに童女のような安らかな笑みを浮かべて、終油の秘蹟を受けました。そして微笑みながらそのまままた眠りに落ちて、今度は二度と目を開けてはくれませんでした。本当に安らかな旅立ちでした」

奥様の話を聞いて、からだの奥にひっそりと沈殿していた重いものが流れて出て、そのあとにふっと何か温かいものが埋まった。

おばあちゃん、ありがとう。おばあちゃんがそんな風に思っていてくれたなんて思もよらないことだった。大人になってもなお、俺は一抹の寂しさを心の奥底に置き忘れたままでいたのだ。ジャルジェ家に来てから、俺の境遇を不憫がって、大勢の人が可愛がってくれたけれど、やっぱり一番愛して欲しかったのはおばあちゃんだった。ちゃんと愛されていたのに。今頃になって、馬鹿な俺。

俺すら知らなかった心の風穴を見つけだし、おばあちゃんは一撃でそれを埋めた。しかも死んでるくせに。おばあちゃんにかかれば関係ないか、そんなこと。

それからなかなか手厳しい。たった一つの気がかりって奴は、俺が見えないことを不幸の元にしている限り、解消しないってことだ。失明を完璧に乗り越えて見せろ、オスカルの心が痛まないように。そういうことだろ、おばあちゃん。

死んでも容赦ないんだな、おばあちゃん。難しいけどやって見る。だからヤキは勘弁…いや、ヤキ入れに戻って来るなら歓迎するけど。聞こえているね、愛しているよ。

俺は祖母に語りかけ、心地の良い透明な涙が溢れ出て、俺は一つの生が完結したことを納得し、人の繋がりの前に、死は無力なことを知った。
ベッドに仰向けになったまま、組んだ両手を裏返して額にのせて黙っている俺を、奥様はしばらくそっとしておいてくださった。

カタン、カタン、カタン…。
規則正しい車軸の音と、足並み揃えた馬の蹄の音が耳にだんだんはっきりと流れ込んで来て、俺は回想から自分の身体に戻ってきた。今日は今の俺には限界を多少超えた一日だった。胸のあちこちで拍動がどくどくと痛みを運んでくる。シートにもたせ掛けている頭を上げると、自分の頭とは思えない重量感。

しかし、一番容量を超えてしまったのは俺の心のようだ。あのあと、奥様が読み上げてくださった証書の内容も平静なまま聞いていられるものではなかったし、別れ際の言葉に込められた奥様の思いに、気付かない振りなどできるものではない。

最後まで一言もオスカルのことに触れなかった旦那様とは対照的に、奥様は始めから母の顔を隠さなかった。でも奥様もまた強い抑制の下、口に出さない、出せない望みがあったのだ。

「ばあやは明日、ミサのあとジャルジェの墓地に埋葬します。ミサは朝の10時。遺体は今夜のうちに祭壇に運び込まれます。深夜ミサの後から夜明けまでは完全に無人になります。ばあやには寂しい思いをさせてしまうわね」
「奥様、それは…」
「ばあやは大切に送り出します。気を付けて行きなさい」

何か、オスカルに伝えることは、と口に出していいものかどうか、俺は判断がつき兼ねて、奥様の前に立ったまま、別れを告げる機を見つけられないでいた。
「奥様、どうかお元気で…」
言ってから、喉元でごそっとつっかかるような違和を覚えた。もっと何か…。

「手抜きは許しませんよ。不器用な猛獣使いさん」
おどけた物言い。なのに俺はその声に引き寄せられるように自然に片膝を折り、床についた。見えずとも面は上を向く。

俺の左頬に華奢な手が添えられ、右頬に優しい頬と唇が触れた。スミレがほのかに香る。奥様は何も言わない。ただ温かい頬を俺の頬に乗せてじっと何かを味わうように、何度か頬を置き換えた。

奥様が顔を離した時、どちらの頬もしっとりと濡れていた。俺は奥様の手を取ってその指先に唇をあてて答えた。

伝えることは、愛。



ふぁさっと、風に煽られたカーテンが俺の顔を撫でた。低くなった太陽が投げ込む日差しをカーテンが遮るたびに、俺の目にも明るいものと薄暗いものが入れ替わる様子が映る。そこで、俺は見えないことを一時忘れていたのに驚いた。

仕事に没頭していたり、誰かと話が弾んでいたりする時、少々の身体の不調は忘れていられる。心配ごとや、悩みにしたって一日中継続して頭に張り付いているわけではない。

けれど、見えなくなって以来、見えないことが意識から消えることはなかった。何せそれは常に目の前に立ちふさがっているのだから。

ともすれば、失ったものを振り返り追い求めることにしがみ付く俺だった。今日、人の温かさを胸に一杯に満たして、見えない恐怖がほんの少し外に押し出された。
ああ、そうか。こうやって恐怖は克服していくことができるのか。

カタン、と車輪が石畳を乗り越え、蹄の音が柔らかくなった。ここからパリ市門まで、土の道が続く。俺ははちきれんばかりに抱えた胸の中のものを、少し落ち着かせたくなった。静かに凪いだところでオスカルに伝えるために。

「シャルル!シャルル、馬車を停めてくれ!」
車窓から首をだして、馬車を御するシャルルに叫んだ。大声が胸に響く。シャルルが怒鳴り返して来た。
「どうする気だ?」
「降ろしてくれ、ここから歩いて戻る」

馬が鼻を鳴らす音が交互に聞こえ、馬車は速度を落とし、道脇に付けて止まった。



                        ~to be continued~

2004.9.17
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