掌の上の奇跡 2 (再掲)★New★

2024/12/17(火) 18世紀パラレル

アンドレは、パリを巡回中、その日の相方だったピエールとこの店を覗いた。そこで親爺さんの災難の話を聞いた時、大事な彼女のために、とあるアイデアが閃光のごとくひらめいたのである。

その年の冬、フランスは近来まれに見る飢饉に見舞われた。それに追い打ちをかけたのは、例年よりはるかに厳しい冬将軍だった。

来年開かれる三部会への期待が何とか歯止めになっていたものの、飢えたパリ市民の忍耐は限界に近づいていた。その波及がヴェルサイユにも届く中、治安を預かる身であるオスカルにかかる責任の重圧は苛烈であった。

職務に忠実なあまり、パリとヴェルサイユに常駐する外国人傭兵部隊や他国王軍との複雑な調整に日夜精神をすり減らすオスカルは、一旦課題の中に没頭すると、自分から出て来られなくなることがあった。

頭の回転が速く、マルチタスクが得意な彼女が次々に勃発する問題解決にその能力を発揮知ればするほど、男性社会の縮図である軍隊の上位組織の中で、風当たりは強くなる一方だった。

なぜなら、一点集中を得意とする男性は、オスカルの多視点についてこられないからである。

両者が互いに異なる性質を協調できれば、仕事効率は乗算的に上がるのだが、そんなことに気づく男は、まあざっと軽く見積もってもあと二百年は現れる予定はない。たった一人を除いては。

そのたった一人、並の男より二百年も新しい感覚を持つ男は、彼女のすぐ傍にありながら、残念なことに立場的に不利があった。そこで彼は何とか自分の立場でできる最大限の努力をする。

十八世紀のフランスではニュータイプとも言える彼氏は、化石タイプの同僚、上司に囲まれて煮詰まった彼女をリセットし、問題の中から引きずり出し、俯瞰視できる余裕を取り戻させることが自分の役目と心得ている。

それだけで、彼女に本領発揮する力が戻ることを、彼は本人以上に力強く確信している。

で、そろそろそのリセットとやらをしないと、大層危険なことになると、彼の長年のプロの勘が警鐘を鳴らしたので、ふたりは今ここにいるわけだが、その辺の説明は故意に省いてある。

「まあ、遊びだよ、オスカル。たまには童心に返るのもいいだろ?それに、今更改まって言うのも照れるけど、デートに誘ってみたかった。いやか?」

恋人からデートに誘われる。

オスカルにとって、宇宙からやってきたも同然なくらい新しい概念である。それでも一応大人な社会人なので、これが一般的な正しいデートコースではないことくらいの察しはついた。

けれど、彼の一言は効いた。一般的な女性の平均値からはぶっ飛んでいる彼女ではあるが、恋心だけはちゃんと普遍的な反応をした。つまり、胸がきゅうん、と鳴ったのである。

ただ、オスカルも伊達に長年この幼馴染と付き合ってきたわけではないので、彼が純粋にデートしたがっている、だけではないことはお見通しである。

だがまあ、騙されてみたところで彼が悪いようにするわけがないので、乗ってみることにした。

で、何を二人して始めたか。アンドレは、粘土でクレーシュを作ってみようと、提案したのだ。

この時期、どこの教会でもキリスト生誕を描く等身大の人型が、趣向を凝らした衣装とリアルな馬小屋の模型を背景に飾られる。

そのミニチュア版を土人形で作ってみるのもオスカルには非日常的な作業で面白いだろう、と彼は言うのだ。しかもささやかながら人助けにもなる。と、説得されたオスカルは、粘土と格闘することになった。

「くそ、どうやったら衣服の皺らしくなるのだ!あ、頭がとれた」

オスカルは端から苦戦を強いられた。アンドレはと見れば、彼女がまだ一つ目の作品と格闘しているというのに、器用にもう三体の人形を並べている。うまく特徴を捉えているので、単純な形ながら聖母と聖ジョゼフの区別がちゃんとつく。何と憎たらしい。

「オスカル、おまえ人は諦めてまず飼葉桶から始めたらどうだ?ほら、こうやって丸めた玉を台に押し付けて四面作ったら、一箇所だけこの丸材で穴をあければ・・・それだけでらしく見えるだろう?」
「・・・・・・・」

短気を起こして、もう止める!と怒り出さないか、アンドレはいささか不安だったが、煽るような言い方をしてみた。桶、と聞いただけで大いに不服そうなオスカルではあったが、彼の目論見通り、彼女の達成意欲と闘争本能に火をつけた。

但し、燃え上がりすぎると非常にデンジャラスなので、彼氏は適度に火力を調節する配慮も怠らない。

「だから、桶を幾つか作ってみたら手が慣れるから、それから大作の構想を練ればいい」
「ふむ、成るほど、やってみよう」

あっさりと納得したオスカルに、アンドレはひとまず、胸を撫で下ろした。

「どうだ!」
「おお、できたじゃないか!」
「よし、今度は賢者だ」
「聖母の方がシンプルだがな」
「何か言ったか」
「いいえ、天のお告げでも聞こえたんじゃないか」

             が。

彼女の手が慣れればいける、と踏んだアンドレの予想を事態はななめに超えた。人型を作ったはいいが、立たないのである。

何故こう見事に立たないのか不思議なくらい、オスカルの作った人型はおさまり悪く転んでしまう。解せないアンドレと、創りあげた人形を何の努力もなしに次々と立ち並べる彼が魔術師のように見えるオスカル。ちょいと沈黙が重くなった。

「オスカル、もう人は沢山あるから、ロバにしろ、ロバに。四足だからきっと立つよ」
「ロバ・・・」
「救世主に自分の飼葉桶を提供したんだぞ、考えようによっちゃ一番重要な役どころじゃないか」
「その言い草は、何故か妙に腹が立つ」
「・・・何て芸術的な桶なんだ。そうなればこの桶の持ち主を作れるのもおまえしかいない、うん」
「おまえが二十体作るのと同じ時間をかけたからなっ!さぞかし芸術的だろうっ!」
「拗ねるなよ」

ここから先の会話と行動は犬も食わないアレなので、この辺で割愛することにする。最終的にアンドレに説得されたオスカルはロバに挑戦することにした。

「やっぱり立たない」

アンドレは、辛抱強くオスカルを観察していたが、何かひらめいたように、ぽんと拳で手のひらを叩いた。

「わかったぞ、おまえの弱点が」
「嬉しそうに言うな」

「おまえ、頭良すぎて考え過ぎなんだよ。自在に馬を操り、剣を使うおまえにバランスの感覚が備わっていないはずはないのに、いちいち頭で理論立てて考えていないか?重心と支持面の位置関係とか、胴体と頭の比率とか、すべて辻褄を合わせようとしてるだろ」
「それは考えるに決まっている」

やっぱり、と合点がいったアンドレだった。

「考えるなよ。馬に乗る時、ずれた重心を矯正するために体幹軸を何度傾けるかなんて考えないだろ。それと同じだ。感覚的でいいんだよ。おまえ思考力フル回転しているだろう?」

「さっきからこれで立たない理由を百通りは考えて疲れてきたぞ」
「おいおい参ったな。おれは土いじっている時は何も考えてないから、だんだんリラックスしてきた」
「考えないでいる・・・。難しいな」

と、オスカルは考え込んだ。ああ、これは重症だ。こんな調子で仕事していたら、さぞかし疲れることだろう。しかしうまくいかないものだ。そうして欲しくない時ばっかり、考えるよりも先に行動するのが得意なんだよな。アンドレは仕方なしに彼女の誘導を始めた。

「よし、オスカル。まず粘土の手触りだけに集中しろ。そうだ、粘度、温度、指で押した時の弾力、感触、色、匂い・・・」

意外と素直にアンドレの誘導にオスカルは従った。

アンドレの言う通りに手を動かし、誘導に従ってふと思い立った形をそのまま形作る。時折、首はもっと短く太く、などと具体的な指示もされたが、とにかく考えずに感覚に従って。

出来上がった動物はちゃんと立った。

「立った!」

オスカルが無邪気に喜びの声を上げた。
アンドレは喉元までこみ上げた笑い弾をやっとの思いで腹の奥に押し戻すと、腹の中で笑い弾が炸裂する衝撃に耐えながら、すかさず次の指示を飛ばす。

「よし、その感覚を忘れないうちに二頭目、いくぞ」

オスカルは、自分の作品がバランスよく立った、という事実に今はひたすら感動している。ところが出来上がった四足の生き物はロバというより豚に近い、何とも形容しがたい奇妙奇天烈な姿態をしている。それを彼女に今気づかせてはいけない。アンドレは妙な使命感に燃えた。

アンドレが作った四組の人形と、四頭の牛に合わせて、オスカルは残りの三頭のロバ・・・と言っていいのだろうか、とにかく作り上げた。もうアンドレの細かな指示は必要なく、オスカルは土を捏ねるという単純作業とその感覚を楽しむことができていた。

童心に返って無心に土をいじるオスカルの表情から険しさが消え、驚くべき高速で情報処理能力にフル回転していた彼女の頭脳は、オーバーヒートで焼き切れる寸前でめでたく鎮火した。下手をすれば火に油を注ぐような試みだったが、成功のようだ。アンドレはようやく安堵した。

オスカルが最後の一頭を仕上げたのを確認すると、アンドレは大急ぎで席を立ってオスカルに帰り支度をさせる。

「親爺さん、今夜はありがとう。こいつが乾くにはどのくらいかかります?」
「この寒さじゃ四、五日ってとこだね」
「じゃ、またその頃に来ます」
「こっちこそありがとうよ。また天使さまにお会いできるとくりゃあ、それだけでご利益がつきそうだ」
「あはは、それは保障しますよ」
「おい、アンドレ!」

オスカルが不審そうな顔をして、テーブルの上に残された土人形に視線を戻している。

「さ、さあ、少し長居をしてしまったから早く帰ろう」
「アンドレ、よく見るとわたしの作ったロバ・・・」

オスカルが言い終わらないうちにアンドレは彼女を外に引っ張り出した。
「次はカフェ・ド・ラ・パルムに行こう。ノエル仕様のショコラとガトーが取りそろっている。席を予約してあるんだ」

オスカルは、ロバのことは瞬時に忘れた。
        

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5日後。親爺さんとの約束通り、できた作品に彩色するために工房を訪ねた二人だったが、今回オスカルは素晴らしい才能を発揮した。

「おい、隣り合わせに違う色を塗る時は、先に塗った色が乾いてからにしろ」

最初こそ、こんな初歩的な注意をくらっていたが、彩色のセンスは天性のものであることは間違いなかった。たちまちのうちに、アンドレの形作った聖家族が鮮やかに仕上がり、彼を唸らせた。

「凄いな・・・驚いた」
「ふふふっ、この間奥義を習得したのだ」

前回とは一転して余裕の笑みをかますオスカルだった。

「奥義?」
「おまえは無心になれと言ったが、それだけでは足りないのだ。わかるか?」
「是非お教えください」
「いいか、無心は無心でも全くなにも考えない訳ではない。考えずにぱっと心に浮かんだ画像を形にする時には思考力も使う。つまり、無心の状態と思考力を交互にコントロール下に置くことがミソだ」

・・・当ったり前じゃないか、と心の中でだけ突っ込み、それならとアンドレは最後まで出すか出さないか迷っていた、あのロバもどきを出した。🦬
「では巨匠、これを」
「ぐっ!」

余りにも調子良く作業を楽しんでいて忘れていた四頭のロバ。

「わたしが・・・作ったのだな」
「珠玉の名作だ。こんなものを作れるのはおまえだけだ」
確かに誰にもまねできないだろう。とてもユニークすぎて。

太く短い四足で踏ん張っているそれは、さらにせり出た腹も床につけて安定感をかもし出している。首もずんぐりと太く、胴体にめり込んでいる。

正面から見れば立ち姿に見えなくもないのだが、後ろから見るとでっぷりとしたお尻ばかりが目に入り、座っているんだか足がないんだかわからない不思議な形状だ。そういえば、尻尾が・・・無い。

左右の大きさの違う耳はそれぞれ明後日の方を向いている。特筆すべきはその表情で、中途半端にに潰れた鼻づらは天を向き、頬と目じりがでろんと垂れ下がっているのだが、それがまた情けないような上目使いの笑みを湛えている。

見ているだけでこう・・・一緒になってへろへろと力なく微笑んでから、どおっと脱力してしまいそうな、不思議に和む顔つきをしているのだ。

「これにも色をつけてやれよ」
それだけのたった一言を言うのに、アンドレは笑いを堪えきれずにひくひくと腹を押さえて苦しんでいる。

「この顔・・・、いい顔してるよなあ。親爺さんは正しい。おまえは天使だ」
「天使?」
「これ見て笑わない奴がいるだろうか。今生の敵だって戦意をなくすよ。おまえは平和の天・・・」

もう一度、ロバもどきを見て、アンドレは笑いに飲み込まれてしまい、どんどんとテーブルを叩いている。

「そ、そんなに気に入ったのならおまえがやれ!」

オスカルはすっかり拗ねてしまった。あわててアンドレが顔をあげる。

「お願い」
「いやだ」
「一番の傑作なのに、仕上がらないなんて、残念で力が抜けちゃうよ」
「だから、おまえが完成させればよい、と」
「だめだよ、おれの感性ノーマルすぎて、このユニークさを殺してしまう。手に負えるのはおまえだけだ」
「褒めているのか、それは」
「褒めるどころの騒ぎじゃない。崇め奉っているの。お願いだから筆取ってオスカル。おれの為に仕上げてくれないかな。これが欲しいな」

なつっこい笑顔を向けられて、しかも彼に何かをねだられるという新鮮すぎるこの攻防戦に、オスカルはあっけなく降伏した。



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組み木細工がはめ込まれたマホガ二ーのサイドテーブルの上、揺れる暖炉の明かりを受けて、四組の聖家族が揃って並んだ。

「ほら、そしてこれが」

勿体ぶったアンドレが布袋に手を突っ込んだ。そして取り出すと思いきや、また元に戻しては、

「心の準備はできたか?」
と楽しそうにオスカルの様子を伺ったりする。
オスカルはカリカリと焦れた。

「早く出すなり、ぶっ壊すなり、どっちかにしろ」

アンドレはオスカルの横に腰を降ろし、低気圧気味になってしまった金色頭を軽く引き寄せて、髪の上からくちづけると、取り出したものをオスカルの手に握らせた。

「ごめん、ごめん。あまりにも素敵な出来栄えだったから、過剰演出してしまった。ほら、思ったよりも落ち着いた色合いで、いい表情をしているだろう?見ているだけで和ませてくれる」

オスカルは渋々手の上のロバに目を落とした。あの奇抜に思えた形状が、色が乗って光沢が出たことによってそれなりに落ち着いている。最も、どこをどう割り引いてもロバには見えなかったが。

「う・・・ん、もっと滑稽な感じだったと思ったが、確かに焼き上げる前よりもぐっと印象が落ち着いて見える。だがこの顔は・・・」

それは作者の低気圧も和らげたようだった。肢体は栗色、ほんのり桃色に染まった頬と黒い鼻づら、垂れ下がった目じりと口元がくっきりと際立っている。ロバにも豚にも似ていないが、不思議なパーツが調和して、こういう生き物なんだと妙に納得してしまう説得力がある。

「四頭の中ではこいつが一番好きだな。こいつをおれにプレゼントしてくれないかな。おまえの次に大事にするから」

一番垂れ目で、悪さを見つかって決まり悪そうに、にまあっと笑った感じが情けない豚、もといロバをアンドレが手に取った。

プレゼントするも何も、おまえが欲しいと言ったから投げ出さずに仕上げたんだぞ、とは照れがあって言えないオスカル。アンドレの肩にぐりぐりと頭突きをくれて、まるで関係ないことを言う。

「おまえに褒めてもらっても、信憑性がない。おまえからわたしへの贔屓目を取り除いたら、何が残る?」

くすくすと笑いながら、オスカルの頭突き攻撃をがっちりと右腕で捕まえたアンドレは、もう片方の手で持ったロバを暖炉の明かりに掲げて検証する。

「酷いな。こいつは・・・ぷはっ、何度見ても笑いを誘うこいつは、もしかしたら世界を救うぞ」
「またずいぶんと話がでかいじゃないか」
「そうでもないさ、見ろ、一発で戦闘意欲を削ぐ力がこいつの顔つきにはある。一家に一頭の豚を。隊長、下手すればおまえは失業だ」
「ロバだ」

ごめんごめんと笑いながら、アンドレはオスカルの頬にこめかみに目蓋にキスの雨を降らせる。オスカルはたちまちぼうっと眩暈を起こし始めた。

「戦意を奪うなら・・・こっちの方がよっぽど効き目がある・・・」
「おまえにしか・・・効かない・・・」

そうでもないだろうが、他所で効能を試されてたまるか、と潤んだ瞳で彼女が彼の胸倉を鷲づかみにした時、急にぴたりとキスの雨が止んだ。

がば、と身を起こしたアンドレが勢い良くオスカルの両肩を掴んだ。

「そうだ、オスカル!凄いぞ!これはあの秘伝の経典のロバだ!おまえがあまりにも無心になっていたから、神の意思が舞い降りて、おまえにこれを作らせたのかも知れないぞ。この形、特徴。かのロバと驚くほど一致している!」

からかっているのかと思いきや、ことのほか真剣な眼差しのアンドレがオスカルの目の前にいた。

「秘伝の経典?かのロバ?」
聞き返すオスカルに、アンドレが驚きの眼差しを向け、一瞬絶句した。
「・・・オスカル・・・、おまえ、まさか、知らないのか・・・?」
ただ事ではないアンドレの驚愕振りであった。

「何のことだかわからんが、多分知らないぞ。何を驚いている」
アンドレは目を大きく見開いたまま、黙ってしまったが、明らかに困惑している。
「アンドレ・・・?」

覗き込むオスカルに、アンドレは大きく息をつき、意を決したように向き直った。目は完全に据わっている。・・・ようにオスカルには見えた。

「オスカル・・・。歴代ローマ法王だけが出入りできるという、密教典の収められた書庫に、キリスト降誕について詳しく書かれた経典があるのを知っているか?」
「いや」
やっぱり、と言うように、肩を落としてアンドレが苦悩の表情を浮かべた。

「十二年に一度だけ、ノエルのミサで、バチカン直系の各教会でその経典が読み上げられるのを許される」
「初めて聞いたな。内容は?」

「問題はそこだ。門外不出の経典で、口述されることによって不正確な内容が広まることを防ぐために、ミサで直接聞く以外、一切内容を教会外で口に出すことが厳しく禁じられている。オスカル、おまえも十年前に聞いているはずなんだが、覚えていないのか?おれは確かに聞いたが・・・まさか、居眠りしていたとか」
「えっ、そんなはずは・・・」

十年前、と言えば、近衛連隊長に就任して間もなくの頃だ。異例の大抜擢に古参の将校の恨み妬みを買い、いろいろと精神的に疲れていた頃だから、ミサ中の居眠りくらいのことはあったかも知れないが。

一生懸命に思い出そうとしているオスカルに、アンドレがやさしくなだめるように声をかける。

「よし、オスカル、話してやるよ。禁を破ることになるが、おまえなら、おれが負う危険は大したことはないだろう。もう火あぶりや、八つ裂きの刑の時代じゃなし」

昔のような残酷な刑罰は確かにないが、今だって教会の制裁は厳しい。下手して破門にでもなれば、アンドレは一切の秘蹟を受けることができなくなるかも知れない。結婚式も葬式も。

どっちも困るが、しかし葬式はともかく、アンドレがこの先結婚式を挙げられなくなるというのは、自分にとって少しばかり安心に繋がるのではないか、などと、穏やかではない考えがふと浮かび、オスカルは慌てて頭を振った。

「無理はしなくていい・・・」
「ここまで話したんだ。同じだよ。それにおまえはこのロバの作者なんだから、知っていていい話だ」

優しくそう言われて、オスカルはアンドレの腕を抱き、静かに話し始めたアンドレの声に身を預けた。

その声をずっと聞いていたいが為に本の朗読をねだるようになったのは、何時からだったろうか。本の内容など聞いていなくなったのは?もう思い出すのは無理だと思い、オスカルは目を閉じた。


初出 Dec.23.04

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