見送る者達1

2019/07/14(日) 原作の隙間1789.7月
あなたを刺し、オスカルを連れて逃げます。

あらかじめ準備していた一言ではなかった。そんな考えが頭をよぎったことすら無かった。ただ、主人の怒りが本物であることを見て取った時、自然に体が動いた。後悔はしていない。

今一度、同じことが起きれば再び主人に刃を向けることを厭いはしない。しかし、主家夫婦に対するアンドレの敬愛と忠誠心はそのままだ。大恩ある将軍に対して、恩知らずな行動を起こした事実はアンドレの心に痛かった。

人生の殆どを過ごしたジャルジェ家は今やアンドレにとって家と呼べる唯一の場所である。極刑に値する狼藉を働いたにも拘わらず、与えられたのは寛容だった。どれほど自分は主人に恵まれていたのか。わかっていたつもりがわかっていなかったことを痛感させられた。

だからこそ。
二度目に裏切る時、それはより辛いものになるだろう。恐らくその日は遠くない。

オスカルの命令拒否に対しても、国王および父将軍から咎めは無かった。しかし、オスカルの命令拒否は彼女がついに出自を踏み越えた道を選んだことを意味する。

黒い騎士であったベルナールとの対話、衛兵隊転属、婚約破棄。人生の転機に彼女が選択してきた全ての道が今日の彼女に収斂している。期が満ちたのだ。魂が欲する道が明らかになった今、オスカルはもう決して後戻りしない。

いずれ、大きな決断を迫られる時が来る。彼女が彼女自身であるために支払う代償は莫大なものになるだろう。身分と地位財産のみならず、彼女は深く愛する家族を失うのだ。

心の準備をしておこう。いや、覚悟を決めておこう。その時が来たらオスカルを支え抜くことができるように。

床に伏している祖母は嘆くだろう。心底申し訳ないと思うが、死を避けられないのと同じように、魂の求めを聞かないわけにはいかない。

せめて、人生の終焉にある祖母に最後に与えるかも知れない悲しみが出来るだけ優しくなるように、アンドレは考えを巡らせた。

そんな思いとは裏腹に、アンドレがやっと祖母の寝室を訪れる機会を得たのはオスカルの命令拒否から3日後の朝だった。

床に伏してはいても、マロン・グラッセはオスカルの動向をぬかりなく把握している。マロンに面と向かって尋ねられたら、執事であろうと、侍従長であろうと、誰も誤魔化すことは出来ないし、そんなことをしたら恐ろしい泣き落としの嵐に見舞われる。

老女の体力を無駄に消耗させるよりは、真実を話した方が結果的に老女を労わることになることは誰もが理解しているから、マロンがおよその経緯を知っているとアンドレは踏んでいた。それでも、マロンが誰よりオスカルの近くにいるアンドレからの報告を待っていることに疑いの余地はなかった。

「おばあちゃん、入るよ。起きているかい?」
軽くノックすると、アンドレは返事を待たずに祖母の部屋に入った。まるっこく愛らしいかんばせを拝む前に、アンドレの視界は突然真っ白になった。

「ようやく姿をお見せだね、この陶片僕!」

顔面で受けた枕を両手でキャッチしたアンドレは、相変わらずの怒号に安堵する。良かった元気だ。

「やあ、おばあちゃん、驚異的コントロール健在だね、結構結構」

一班救出に関わる連絡調整やら資金調達などでこの三日間寝ずの働きをしていたアンドレは腰を降ろしたら最後、その場で意識が飛びそうなほど疲れ果てていたが、明るくおどけて見せた。

「そこにお座り!」
「はいはい」

祖母はどっこいしょとやおら起き上がり、いきなりアンドレに親指と人差し指を突き付けた。
「指は何本だい」
「えっ?に、2本じゃないか」
「見えているんだね」
「見えているよ、何で?」
「それじゃ、これは?」
「4本」
「・・・・・・」

祖母は簡単に信用してなるものかと言わんばかりに額のしわを複雑に寄せ合わせた。そして、眼鏡の位置を直してから疑り深くまじまじと孫を観察し、起こした半身を不承不承寝台に横たえようとした。

アンドレはキャッチした枕を祖母の動きに合わせて頭の下にすっと差し込んでやる。老女の頭部は魔法のようなタイミングで枕に支えられた。

「ふ、ふん、どうやら本当に見えているようだね」
完璧な良位置に一秒の遅れもなく差し入れられた枕に沈み込み、老女はようやく納得した。

「これでもサービス道極めること四半世紀だよ。舐めないで頂きたいな」
「ふん、ひよっこが」
「はは、おばあちゃんには適わないけどね」
アンドレは明るく笑うと深く腰をかがめ、祖母の頬にビズを落した。
「ただいま。ちょっと忙しくて顔を出せなかったんだ。ごめん」

三日ぶりに顔を見る孫息子は、軽口をたたいてはいるが疲労困憊していることは明らかだった。最後に髭を剃ってから24時間以上は経っているだろう。ビズはざらついて汗と埃の匂いがした。

たった一つの左目は赤く充血し、隈ができている。大事なお嬢様の従者として、幼い頃から身だしなみには厳格に躾て来た老女には許し難い乱れた姿である。

しかし、謹慎中の大事なお嬢様の命を受け、孫がこの3日間昼夜を問わず奔走していたことは察しがついていたし、今にも昏倒しそうなほど疲労困憊している。平素なら理由の如何を問わず一喝しているが、今回は黙認することにした。

マロンは大事なお嬢様が謹慎中である理由も知っていた。孫息子のキャリアを鼻であしらえるだけではなく、伊達にお嬢様の隠密活動の補佐を何度も経験しているわけではない。一度なぞ孫息子を盗賊に仕立て上げる手伝いまでしたが、秘密は墓に埋める覚悟はできている。

けれど、今度だけは何か取り返しのつかない事が起きそうな予感がしてならなかった。お嬢様は何を考えている?問うのが恐ろしい。だから余計に何も問えない。

勢いが尻つぼみになってしまった祖母を訝しんだ孫息子が心配そうに覗き込んだ。
「おばあちゃん、大丈夫かい?」
「ほんとに汗臭い子だねっ、オスカルさまにお顔をお見せする前になんとかおし」
「えっ?そんなに酷いかい?そりゃまずいな」

憎まれ口と裏腹にマロンの目頭は熱くなった。そんなことを言いたかった訳じゃない。オスカルさまもおまえもどこか遠くに行ってしまいそうで怖いんだよ。でも言ってしまったら最後、現実になりそうで怖いんだよ。マロンは口をつぐんだ。

3日前、重大な叛逆行為を犯した主家の跡取り娘を当主である将軍が成敗しようとした。将軍は何人たりとも手出し無用、近づけば同罪で切ると家人に厳命し、跡取りと二人きりで部屋に籠った。

邸内の誰もが最悪の結果を恐れてお嬢様のお部屋を遠巻きに見つめていた。奥様でさえ将軍を下手に刺激することを恐れ、動くことが出来なかった。凍り付いたように皆が息をひそめる中、孫息子だけが一人旦那様の後を追った。

しばらくして旦那様おひとりだけがお嬢様のお部屋から出ていらした時には、ついに二人とも成敗されてしまったかと生きた心地がしなかったと執事のデュポール氏が後に語ってくれた。

ひとりで退室された旦那様に奥様が駆け寄ると、旦那さまは奥様に持っていた剣を手渡し、何かを告げられると出廷の支度を命じられ、慌ただしく出かけて行かれた。奥様は剣を抱きしめたまま崩れ落ちるように座り込み、安堵の涙をこぼされた。

旦那様から手渡された剣はくもりひとつなく綺麗なままで、固唾を呑んで見守る家臣一同胸をなで下ろした。オスカルさまのご様子を見に行かれた奥様はすぐにお戻りになられて、ふたりとも怪我はないこと、ここはアンドレに任せてそっとしておきましょう、と皆を下がらせた、と。

マロンが侍女と執事から根掘り葉掘り聞いた全てはそれだけであった。夫人からは国王よりオスカルへの処分が見送られたこと、孫息子が身を投げ出してお嬢様の命乞いをしたことを聞かされた。お嬢様は現在謹慎中であることも。

あの場で鞘に刃をおさめる理由をアンドレが作ってくれなかったら、夫は振り上げた太刀を振り下ろすしかなかったでしょう、どれほど感謝しても足りることはありません、と涙ながらに手を取られた上、心配をかけたことを殊の外丁寧に詫びられて、マロンは恐縮した。

それなのに、旦那様を別にすれば一番事情を知っているはずのバカ息子は3日も顔を出さなかった。いくらオスカルさまの命で動いているとは言え、一言の挨拶もないとはふざけるにもほどがある。

そもそもオスカルさまから受けた命とは何なのだ。軍の機密を聞き出したいわけではない。ふたりが何か危険な橋を渡ろうとしていないか、目の前から去って行くような事が起きないか、孫の馬鹿面を見ない日が長くなるにつれ、不安が膨れ上がってしまったのだ。

大きく変わろうとしている時代の潮流は、そのままマロンの大切な2人の人生に反映されるに違いない。一件落着のように見えて何も解決していないかりそめの平和に縋りつき、孫を待つ一日は時計の針を力ずくで押し回してしまいたいほど長かった。嗚呼、それなのにこのバカ息子は。

「オスカルの人使いの容赦の無さと来たら、この先どこまで磨きがかかるのか空恐ろしいよ。忙しくてさ、洗濯を頼み損なったままため込んじゃってね。

それにしても困ったな、水浴びして髪洗ってもシャツが汗臭かったら同じだよね。もしかしておばあちゃんが気を利かせて洗濯頼んでおいてくれたかな…?って期待しているんだけど…あり得ないか、あはは」

これが皆を死ぬほど心配させて、生きるか死ぬかの狭間をギリギリ渡りきった『らしい』男の吐く台詞かい。マロンはじっとりねばつく視線で孫息子を弄ってみたが、彼はくんくんと左右のシャツの腕の匂いを嗅いでは呑気な御託を並べている。

「このシャツが一番マシだと思うんだけど、駄目かな。ああそれにしても腹が減った。おばあちゃんの引き出しに何かない?」
「大の大人に誰がそんな世話を焼くもんかね、しっかりおし!」
「いって~っ!な、な、何でそんなところから足が出るんだ!頭に直接足が生えているんじゃないか妖怪ばばあ!」
「あんたが無駄にひょろ長く育ったからそう見えるんだよ、このウドの大木男」
「言ってくれるね、お蔭さまでこれでも何かと重宝がられているんだよ」
「おやそうかい。じゃあ、台風が来たら厩のつっかい棒にでも使っておもらい!」

憎まれ口を叩けば叩くほど、マロンの胸は締め付けられた。この孫が8歳でお屋敷に引き取られて以来、どれだけこんなやり取りを交わしたろう。そこにオスカルさまが加わるとさらに騒ぎが大きくなり、小言も出るけれど、最後には必ず大笑いして。

ほんの少年の頃から、この子は突っ込まれ役を買って出て皆の圧抜きをしてくれるようになった。今もこうして張りつめた神経を緩めて和ませてくれているのだろう。

神様、お願いです。すっかりバカでかくなってしまったけれど、この子と、あたしとこの子の大事なオスカルさまをお守りください。

何が起きているか知らないけれど、大切な子供たちです。もっともっと幸せに値する子供たちです。あたしの命と引き換えでも構いません。どうか、神様。

「あれ、おばあちゃん、何で?」
「お~い、おいおいおいおい、ひ~っくひっく…!」
「人のこと蹴っ飛ばしておいて何で泣くんだよ?おばあちゃんっ!」

マロンは小さな背中を丸めてシーツをくちゃくちゃに握りしめて泣き伏した。マロンの丸い背中を一なでで往復できてしまう大きな孫の手が何度も何度も撫でさする。

「ごめん、おばあちゃん、ごめん」
「心配したんだよ、心配で心配でもうどうにかなりそうだったんだよ」
「うん、ごめんよ、本当に心配かけてごめん」
「莫迦言ってんじゃないよ。今まで心配しない日なんてありゃしなかったさね!オスカルさまはやんちゃであんたは大馬鹿で!」
「えっ?酷い言われようだなあ。でも、まあその通りだけど」
「お蔭で寿命が縮みっ放しだよ」
「ええっ!その年で縮んでいるって?どれだけ生きる予定なんだ、ばあちゃん…」
「旦那様はあたしに免じて許して下さったって話じゃないか!あたしがしつこく長生きしてなきゃおまえもオスカルさまも今頃どうなっていたか!」
「う…!何で知ってる…?」
「だから心配で心配でいつまでも死ぬに死ねないんだよ」
「死にたいのか生きたいのかどっちなんだ…」
「オスカルさまとおまえに幸せに長生きして欲しいんだよ!」

マロンはそこで言葉に詰まると、またおいおいと号泣を始め、アンドレは弱り果てた。祖母が何をどこまで知っているのかわからないが、オスカルが大きな転機に差し掛かかっていることを感じるところがあるのだろう。

多分自分は彼女が行く方角を知っている。けれど、それを話したとしても祖母は価値観の変化について行けないだろう。オスカルでさえ新しい世界観を腹に落とすまで何年もかけたのだ。

アンドレは泣きじゃくる祖母の背を抱いた。他にどうしてやることもできない。オスカルがオスカルでしかいられないように、祖母も祖母でしかいられない。そして、それは自分も同じだ。皆それぞれの在り様で生きて行くしかない。けれど、共有している思いが少なくても一つある。

「おばあちゃん、愛しているよ」
「うそお言い、おまえのやることなすことと来たら気が休まらないことばかりだよ」
「うん、ごめん。でも大好きだよ」
「頭から足が生えていてもかい?」
「うん、それだけじゃなくて頭の中がこき下ろし百科事典でも、手足が焼きゴテでできていても、愛してるよ」

マロンのしゃくり上げが止まった。
「おまえのその減らず口にはまだヤキを入れたことが無かったねえ」
「む…グっ」

両手で口をふさぐ孫息子の腕を祖母が掴む。
「いいかい、良くお聞き」
「はい、耳はいい方です」
「耳だけ良くても総身に知恵が回るとは思えないね」
「無駄にひょろ長いもので」
「頭からつま先まで全部耳にしてよくお聞き。もしこの先、同じようなことが起きたら、命を賭けるような事があったら」

老女は真剣な眼差しを孫息子に向けた。大きな孫も茶化すことを止め、静かに祖母の次の言葉を待つ。

「あたしが替われるならば、いいかい、それはあたしの仕事だよ。あたしはもう十分に生きた。亡くした家族の代わりに余りあるほど素晴らしい主家に恵まれた。旦那さまと奥様、お嬢様方とオスカルさまのお世話はあたしの喜びだった。

おまえとも一緒に住まわせて頂いて、大切な人にばかり囲まれたいい人生だった。だから、残ったあたしの命はどうにでも使っておくれ。若い者が命を粗末にするんじゃない。オスカルさまが大事なら、オスカルさまのために死のうなんて考えないでオスカルさまのために生きることを考えておくれ」
「おばあちゃん…」
「わかったかい」

孫息子は一回り小さくなってしまった祖母を慎重に抱きしめた。以前力任せに抱擁して蹴り飛ばされたからではなく、このところ目に見えて加齢と衰えを感じるようになったからだ。

「わかったよ」

おばあちゃんのその気持ちはわかったと言う意味で、孫息子は答えた。自分も祖母の立場だったら、同じことを考えるだろうが、実際に行動に出る時はそのような思考が入り込む余地がないことを経験したばかりだった。

内側から大きな力が動く時、頭で考えた理屈などあっさりと吹き飛んでしまうのだ。年齢を理由に祖母を犠牲にする行動などとれるはずがない。

「それじゃあ行くよ。オスカルに報告しなきゃいけないことがあるんだ」

この3日間何をしていたか根堀り葉掘り聞かれるかと思っていたが、祖母は何も尋ねなかった。多分意図的に自制してくれたのだ。

勿論、アベイ牢獄から一班を救出するまでは誰にも何も言えないので、祖母の配慮は有り難かった。その替わり、もう少し頻繁に顔を出そうと心に決め、アンドレは立ち上がった。すると、祖母が思いがけないことを口にした。

「厨房に行けばすぐ食事ができるように準備してある。先に腹ごしらえしておいで」
孫息子の目が驚きに大きく見開かれた。
「今から?本当?しかもオスカルを差し置いて?もしかしてそこに居るのはやっぱりおばあちゃんの皮を被った妖怪じゃないのかい?」

そんなに驚くほど意外だったかと思うと、マロンは不憫半分、腹立ち半分、いつでも攻撃を仕掛けられるよう、枕を抱えた。

見舞いに来てくれた侍女頭のマルゴに、いつ戻ってくるかわからない孫息子のために時間にかかわらず食事が出来るようにしてやってくれないか、と頭を下げたら、奥様とオスカル様からもいつ戻っても温かい食事を出してやってくれとそれぞれ同じことを頼まれたよ、と笑われた。

自分が厳しく躾け過ぎてしまったせいだろう。この孫は自分も労わられるべき存在であることを知らなさ過ぎる。だから自分の身を犠牲にしてでもなどと考えるのだ。

「オスカル様が直々にそう仰ったんだよ。おまえが帰って来たらそうしてやれとさ」
「へえええええ…」

孫息子はそれを聞いて恐縮するかと思いきや、意外にもだらしなくふにゃりとにやけた。前言撤回!スパルタ上等だ!マロンは枕を投げた。

「さっさとお行き!オスカル様をお待たせするんじゃないよ」
今回、枕は見事にアンドレの脳天で大きくバウンドして明後日の方へ飛んだ。キャッチし損ねた枕を慌てて拾った孫息子は祖母の枕元に駆け戻った。

「また来るよ!」
頬にキスを受け、枕を戻してもらったマロンは孫息子の髪を引っ張った。
「身支度もちゃんとするんだよ。洗濯は頼んでおいたからシルヴィに聞いてご覧」
「うわお!一体全体どうしちゃったんだ!」
「この道60年を舐めんじゃない。おまえのためじゃない、オスカルさまや奥様に不愉快な思いをさせないためだよ。食ったらさっさと水浴びといで!耳の後ろを洗うのをお忘れじゃないよ!」
「さっすが、おばあちゃんメルシ!愛しているよ!」

パタン。
閉じられた扉を見つめ、マロンはまた大粒の涙をこぼした。
『あたしも愛しているよ』

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