夜明け前

2019/07/12(金) 原作の隙間1789.7月
パリの細い路地を細心の注意を払って通り抜け街道へ出ると、アンドレは低い掛け声と鞭の音とともに速度を上げた。街灯はすっかり落ち、帰路を照らすのは月明りと馬車に灯した小さなカンテラだけであるが、夜盗が跋扈するこの時間帯は速度を上げた方がより安全だと判断したのだろう。

激動の長い一日がようやく終わろうとしていた。

何という一日だったろう。これほどまでに人生が一度に激変した日がいまだかつてあっただろうか。オスカルは高ぶる神経を鎮めるためにゆっくりと深い呼吸を数えながら、気に入りのクッションに深く身を沈めた。

一時間ほどの移動時間中に少しでも休めるようにという配慮だろう。慌ただしく邸を出て来たにも拘わらず、車内にはオスカルの愛用品がぬかりなく用意されていたのだった。


衛兵隊に転属してからこの方、充実した毎日ではあったが方向性がつかめないことに苦しんだ。闇雲にもがいてばかりいたように思う。

今日、緊迫した状況下でオスカルの内なる声が沈黙を破った。魂の叫びが声になった時、迷いの霧が晴れ、気づいた時にはその声に従って行動していた。

しかし、魂の声に従うならば、信じてきた正義も、積み重ねた努力の意義も、自分像も崩壊するだろう。伝統に従って生きる人々との優しい関係を手放すことにもなるだろう。

そして、その中にはオスカルの愛する人々が少なからず含まれているのだ。オスカルの属する世界そのものが崩れ落ちる。それをどこかで感じていたから気づかぬふりをしていた。答えはすでにオスカルの中にあったにもかかわらず。

もう後戻りはできない。本当に生きるべき人生が目の前にはっきりと姿を現したのだ。まるごと新しい人生を再構築することになるだろう。それは既存の社会常識とは相容れない険しい道になるに違いない。

新しい仲間を得るかわりに、同じだけ敵も作るだろう。もう社会的規範を理由に自己を偽ることはできないし、あらゆる行動の全責任は自分で負うのだ。

恐ろしくないと言えば嘘になる。いや、恐ろしくてたまらない。嵐に翻弄される小舟の舵を取るかのように、オスカルは理性の細い細い末端を手放さないように、両拳をきつく握りしめた。

アンドレの丁寧な手綱さばきはそんな夜でも何時もと変わらなかった。車輪の軽やかな振動が心地よくオスカルの緊張をほぐしてくれる。単騎ならもっと身軽に往復できたが、一人で心を鎮静化するこの時間がオスカルにはどうしても必要だった。

パリへの往路では、ついに半身と一体になった魂の震えを落ち着かせるために、帰路では救出作戦を正確に実行する冷静さを整えるために。そして、目の前に開けた新しい世界に踏み込む勇気を集めるために。

オスカルは頭を空っぽにし、ただ揺れに身をまかせた。目を閉じて、自分が振動そのものになったように車輪が刻む規則正しいリズムに五感を集中させる。

そうしていると不安がやさしい振動と一緒に少しづつ解き放たれていくようだった。そして、入れ替わりに冷静な思考力が戻って来る。ぶれない自分自身に戻ることができる。ひとりではないことを思い出す。

アンドレに馬車運航の手ほどきしたのは長年ジャルジェ家で馭者を務めるジャン・ポールだった。馬車と輓馬の選定から調馬、メンテナンス、車従、口取りの育成など一切合切を取り仕切る責任者でもある。

ジャン・ポールが幅広く持つ技術は文句なしに素晴らしいと父将軍も認めるところである。しかし、乗員に加速、減速、遠心力を感じさせない繊細な操馬に関してはアンドレがピカ一だとオスカルは思う。贔屓目ではなく。

贔屓目ではなく?本当だろうか?

オスカルはひとりで頬を染め、指で眉間をぐりぐりと押さえた。どちらでもいいではないか。誰かに何を言われたわけでもないのに、そんなことでムキになっている自分が可笑しかった。

贔屓目を排除できぬ理由が確かに自分にあることを認めろ、オスカル・フランソワ。

彼の御する馬車に揺られているだけで、ゆるゆると溶け出してしまいそうなくらいに彼に恋しているというのに。しかもあろうことか、人の命を懸けて大勝負に出ようとしている大事な時に。

ふと我に返ると、オスカルは馬車が速歩から常歩にスピードを落としていることに気が付いた。ヴェルサイユ市街地に入ったのだ。車内で一人オスカルが汗をかいている間も、変わらずに仕事を均質に保つ彼の存在はオスカルにとって小憎らしくもあり、未踏の挑戦の前に心強くもあった。


出発時にこっそりとジャルジェ邸の副門を開けておいたので、馬車はよどみなく邸内に進入した。良く言えばフットワーク軽い活動家であるオスカルのために、通常3人の人手を要する納車をアンドレは一人でこなせる。しかも手早い。

しかし、今夜は替え馬もせずにパリ往復させてしまった馬が汗まみれで疲れ果てていたから、納車だけでなく念入りに馬の世話もしなければならない。二人の動きを知る人間は少なければ少ないほど望ましいので、馬丁を起こしたくはなかった。

「わたしが口取りをしよう」
「お・・・まえが?」
「手早く済ませる方が先決だ」
「それはそうだが…」
「おまえは納車しておけ」
「わかった」

身分の低い人間の仕事にオスカルが手を出しても、アンドレは小言のひとつを言うではなく馬を引いて厩舎へ消えるオスカルを黙って見送った。納車を済ませたアンドレが厩舎へ急ぐと、オスカルがひとりで馬装を解いている。これにはさすがのアンドレも一瞬ぎょっとしたが、なにも言わず仕事に加わった。

「時間がない」
「ああ」 

馬具の微かな金属音と、馬がたてる鼻音の合間に言葉少なに会話を交わす。
「早朝からおまえに動いてもらわねばならん」
「わかっているよ」
「馬の世話が終わったらおまえは少しでも眠れ。明朝までに各所に届けてもらう伝文を仕上げておく。デュポールを巻き込みたくないから、わたしの武器宝飾類をいくらか売却してもらわねばならん。おまえは忙しくな…」

アンドレはオスカルに最後まで言わせなかった。
「終わったらおまえの部屋へ行く」
二人の繋がりに大きな変化があったばかりとは思えないほど声に甘さはない。アンドレが救出計画に一点集中していることがわかる。

「朝までかかるぞ」
「何枚も複写が必要だろう?朝までに終わらなかったらどうする?」

アンドレの言う通り、実際明け方までいくらも時間は残っていない。何も説明しなくてもかなり鋭角にオスカルの考えていることを予測しているアンドレの見立て通り、手助けは必要だった。しかし出来ることなら少しでも休ませてやりたい。表立って動けないオスカルのために明日から彼を走り回らせることになる。

「明日も長い一日になる。おまえは休め」
「そこまで。早く部屋へ戻れ」

語勢は優し気ながら、問答無用に遮られてしまった。通常、意思決定はオスカルが主導するが、ごくまれにアンドレが立場を逆転させる。そんな時彼はてこでも譲らない。また、そのベストタイミングをよく知っている。

「わかった」

ポンポンと背を叩かれ、体よく厩舎から出されたオスカルだったが、屋敷に戻る方向へいくらも歩かないうちに突然猛烈に人恋しさに駆られ、矢も楯もたまらず厩舎にとって返った。

「アンドレ!」

馬の汗を拭く手を止めずに振り返ったアンドレにずかすかと歩み寄ると、オスカルは古毛布の切れ端を拾い上げ馬腹をこすり始めた。

「おいおい、どうした」
  
はあ、と呆れたため息を漏らすアンドレの方を見ようともせず、オスカルは黙ったままがむしゃらに馬をこすり続ける。アンドレの作業の手が止まった。
「お嬢様、拭いてくださるなら反対側にしてくれないかな。こっちはもう終わるところだ」
「うるさい」
「どうしたんだよ」
「わかった!右側を拭けばいいんだろう!」
「おいおい、声がでかいぞ」
「わたしを軽蔑するか?」
「え“?」

ひとつだけ灯したカンテラがゆらゆらとオスカルの頬を照らした。表情は馬首の影で見えないが、微妙にアンドレから視線を外している。途切れた会話を埋めるように、馬がぶるると生暖かい鼻息を立てた。

唐突な問い面食らったアンドレは、答える代わりにそっとオスカルの右手首を取り引き寄せた。うっかり馬糞を踏まないよう足元に細心の注意を払いながら、恋人を真正面に立たせたものの、ロマンよりは馬の匂いが香った。

「ケイベツ?」
「そうだ。王妃様から恩情を受けたその足で画策に走るわたしは、目的のために匿名で市民を利用するアジテーターだ。正直…自分に嫌気が刺す」
「へ?」

アンドレは恋人が言わんとするところを理解するのに少し時間を要した。オスカルはそのちょっとした間がいたたまれず、恋人の素っ頓狂な反応に気づかない。ただ恋人の胸に額を押し付け、古毛布を無茶苦茶に握った。

「いや、いい。ぼやいてどうなるものでは…」
「ぷっ!」

ぷっ?聞こえた音が信じられずにオスカルは背けた顔を上に上げた。その時すでに眉尻を下げられるだけ下げていた恋人は、噛みつかんばかりに憤慨した恋人の様子に爆笑をこらえなければならなかった。

「…なぜ笑う」

オスカルの声はゆうに一オクターブ下がった。アンドレは喉の奥に笑いを無理やり押し込むが、それでもくっくと忍び笑いがもれてしまう。

「アンドレ」
どすの効いた声で名を呼ばれた恋人は、慌てて凶器に使われる可能性がある古毛布を奪取した。

「えっと、そうだなあ。言うなればしつけの良い乱暴者が正直な詐欺師に聞く訳だ。乱暴を働くわたしを軽蔑するか?って。詐欺師はなんて答えればいいんだ?」
「しつけの良い乱暴者…。また随分なたとえじゃないか、正直な詐欺師殿」
詐欺師はごめんごめん、と大切な乱暴者の手を取った。

「つまりだな。俺はついさっき目的のためなら手段を選ばない人間であることを暴露したばかりで…。忘れてた?」

今度はオスカルの方が一瞬きょとんとした。とられた指先にくちづけが落ち、すっと一歩引き寄せられ、恋人が何を指してモノ申しているかを汲み取り脱力する。

忘れるも何も、あの生涯忘れることなどあり得ない出来事をそんな風に描写するなんて、こいつはどこの宇宙人かと思いたくなる。オスカルは沈黙で話の続きを促した。

「正直、自分に嫌気が刺したのは俺の方だった。誤解するなよ、後悔はしていない。また同じことが起きれば同じ行動をとる。だけど、旦那様には言い尽くせない大恩があるし、人として尊敬している。しかもおまえと同じ性質を沢山持っておられる方だから、その…」

アンドレは恋人の手を両手で深く包みなおし、照れたようにうつむいた。

「なんだ、歯切れが悪くなったな」

わたしまで照れるから照れないでくれ。などと素直に言えるはずもないオスカルは少々意地悪く切り返す。

「不敬な言い方だけれど、心から愛すべきお方なんだよ、俺にとっては」

返って来たのは間接的な素朴な愛の言葉。

魑魅魍魎住むところ、ヴェルサイユ宮殿で磨かれた超絶器用な舌鋒も持つくせに、この恋人はすとんと真正直な言葉も使えてしまう。

これがこの男の愛すべき至宝の一つ、と言っていいのか悪いのか。はたまた殺し文句の投下チャンスを読む天才か、ただの天然か。どちらにしても、彼の言葉はオスカルの心臓を直撃した。父に似ていると言われるのは嫌いであるにもかかわらず、である。

「その旦那さまに刃物を突き付け脅迫した恩知らずぶりには…自分でも参っている」

アンドレは一度言葉を切ると、オスカルの手を握ったまま自分の胸に当て、傷ついた大型の草食動物の目でオスカルを見つめた。本当に心底参っているらしく、一段低くなった声は掠れていた。

「俺を…軽蔑する?」

殺し文句を吐いている自覚などないらしいところが、憎らしい。

「そんな風に思っていたのか」

「ずっと考えていたよ。パリを往復する道中で」
「それだけか?他には?」
「おまえのことと、これからのこと。一班の連中には悪いけど」

今度はオスカルが目を細めて唇に微笑みを浮かべる番だった。ああ彼も同じように思いは千路に乱れていたのだ。会話は途切れ、二人はもう一歩近づいた。二人の胸の間には握り合った両手が拳一つ分の空間が開いている。二人は何方からともなくこつん、と額を合わせた。

ぶひひひん、とオスカルの愛馬が柵の向こうから高く嘶いた。
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