シャトレ家にて

2019/07/12(金) 原作の隙間1789.7月
久しぶりの再会だった。無我夢中でオスカルの胸に飛び込み、生き別れた恋人と再会したかのように抱擁を交わしたロザリーだったが、溢れる涙のせいで大好きな人の顔はどうしてもぼやけて歪んで見えた。

再会の感動に高まる胸がようやく落ち着いたロザリーは茶器のトレイをキッチンに下げながらオスカルの後ろ姿を振り返った。改めて懐かしいオスカルの姿を瞼に焼き付けようとしてロザリーはおや?と思った。

ロザリーが全身で記憶しているオスカルの姿と目の前のオスカルの輪郭が微妙に違う。少しお痩せになったのかしら?命令拒否で逮捕されることがどれほど体力気力を消耗させることか、ロザリーには想像もつかないが、とにかく大変な一日だったろう。途方もなく高い精神的障壁を乗り越えての決断だったに違いないから、消耗していても不思議はない。

しかし、夫と兵士救出作戦会議に熱を込めるオスカルに疲れは見られない。むしろ、力が溢れんばかりに漲っている。それでもどこかロザリーの知るオスカルとは印象が違うのだ。ついじっと見つめていると、オスカルがふと振り向いてロザリーの視線に気づき、軽く手を挙げて微笑んだ。

ほつれた髪と、泥はねで汚れた軍服。それなのに、微笑は大輪の花が開いたかと錯覚しそうな艶やかさ。ロザリーはくぎ付けになった。軍服のオスカルが女性にしか見えない。そればかりか、オスカルがどこか遠くに行ってしまいそうな予感に不安になる。それほど、透明な清々しさは、鮮烈だった。

アベイ牢獄から部下を救出するために、オスカルが水面下で関与していることが知れれば、今度こそ投獄されることは予測がつく。ベルナールを見逃してくれた時と同じく、信条のためにリスクを冒すことを厭わないオスカルの潔さを心から敬愛せずにはいられない。けれど、この不確かな時代を生き抜くにはこの人は高潔過ぎる。ロザリーは救いを求めるようにアンドレに視線を移した。

時折意見を差し挟みながらオスカルの隣で静かに彼女を見守るアンドレの姿も昔と全く変わらないようでいて、どことなく印象が違うように見える。軍生活が過酷だったのか、彼もやや頬の肉が落ち、精悍な顔立ちになったような気がするが、そういった見かけ上の変化とは違う何か、憑き物が落ちたかのような透明感がある。彼が傍にいればきっと大丈夫。ロザリーは幾度も自分に納得させるように言い聞かせた。


「すると、今日の親臨会議の様子は」
「ああ、正午前にはパリに知らされた。第三身分議員は侮辱的扱いを受け、国王は一方的に第三身分に不利な条件を押し付けた。ネッケルは罷免された、とな」
「それを聞いて憤慨した市民が即刻ヴェルサイユへ徒歩で向かった、という訳か」

オスカルは顎に拳をあてて考え込んだ。代わりにアンドレがベルナールに確認する。
「ネッケル罷免は誤報だ。彼は親臨会議には欠席したが、集まった群衆を宥めるために呼び出されて姿を現し、大歓声を受けた。この事実はパリで話題に上がったか?」
「市内でその噂は聞かなかったそうだ。俺はヴェルサイユに取材に行ったから知っていたが。どうだ。ロザリー?」

ベルナールがロザリーを振り返る。ロザリーはきっぱりと首を振った。
「いいえ、夕方になってカフェ・ド・フォアにお店から届け物をお持ちした時もネッケル氏が罷免されたことで皆怒り心頭だったわ」
「カフェ・ド・フォアだって?」

今、パリで一番過激な論客が口角泡を飛ばし合うカフェの名を聞いたベルナールの顔色が変わった。

「ひとりで使いに行ったのか!」
パレ・ロワイヤルという場所柄、当然気の荒い男らも、商売女の出入りもある場所だ。
「ミシェルおばさんと一緒よ。心配ないわ」
そんな夫に妻はにっこりとこともなげに笑う。しかし夫はさらに表情を険しくした。
「いや、契約では配達業務はしない約束だったじゃないか。よし、明日、抗議にいくぞ!」

明日、と言いながら夫は今にも立ち上がりそうな勢いである。
「ベルナール!」
少女のような微笑を浮かべたまま、ロザリーは両手を腰に当てた。
「そんなことをしてごらんなさい」

そんなことをしたら、どんなことになるのだろう。声はあくまでやさしく、口元は微笑み、目は笑っているが、僅かに上げた眉で愛らしい妻は空恐ろしい圧力を夫にかけた。

「え?い、いや、しかし・・・」
「寂しがり屋のぼうや扱いされるだけよ。特に女将さんから」
「うっ・・・」
夫君の勢いは瞬時にしぼんだ。


『すっかり尻に敷いているぞ、大したものだ』
『勝負あったな』

突然本題を逸れて始まった夫婦の攻防戦を目の当たりにし、オスカルとアンドレは思わず目を合わせ、笑いをかみ殺した。
「ま、まあいい。それについては後で話そう」
ベルナールはばつが悪そうに会話を作戦会議に戻した。

「やはり、負の情報の方が伝わる速度は圧倒的に早いか」
「もしくは、内通者が市民を刺激する情報を選んで拡散しているかだな。ネッケル罷免の噂で市民が行動を起こすタイミングも自然発生的にしては早すぎる」
「なるほど、雇われた扇動者の存在は否定できないということだな」

ベルナールの指摘はふたりとも同様に感じていたことだった。ベルナールはさらに続ける。
「いずれにせよ、市民の不満は臨界点に達していることは確かだ。パリには扇動者のアジテーションに簡単に乗ってしまう土壌が出来上がっている。

兵士救出を訴えたつもりが、一歩間違えれば食い詰めた貧しい市民がパンを要求する騒ぎにすり替わるぞ。そうなったら最後、制御不能だ」

制御不能。不気味な響きだった。議会警護を通じて毎日市民の怒りを前面に受けるようになったオスカルは、群衆心理の衝動的な力と制御の難しさを日々体感している。

絶対服従と個人的感情を排除することを訓練された兵と違い、ひとたび興奮すれば、理性を失った大きな生き物のように動き出す集合的パワーは銃器をもっても抗えない。たとえ犠牲者が出ても、その上を踏みつけて前進する。その潜在力が圧縮され爆発する機を待っている。それがパリだ。

「暴動発生…という訳だな」


三人は討議を繰り返した。オスカルが絶対に譲れない条件は二つ。救出活動を暴動に発展させないこと、兵士の脱走扶助ではなく、正当な釈放を勝ち取ることだ。それら条件を満たす方法には限りがある。よって計画はすぐに纏まった。

協力者となる市民を事前に選別する。第三身分議員を議会から武力排除することを拒否した兵士に共感を持つ立場の市民だ。数は多ければ多いほど良い。効率よく協力者の共感に訴え、間髪を置かずにアベイ牢獄前に集結、兵士釈放を求める。他のアジテーターが入り込む余地を作らぬ短期決戦が命綱だ。

行動開始よりかっきり二時間後、ヴェルサイユでは協力議員が国民議会でフランス衛兵釈放要求動議を提出する。世論は兵士側にあり、兵士の処刑は体制側にとって不利に働くことを論説する。

二時間のタイムラグを設定することで、動議が成立した時点でアベイ牢獄が市民に包囲されたニュースが丁度飛び込んで来る寸法だ。危機感を利用し、議会では即刻採決に持ち込む。王の承認を勝ち取れば、兵士は合法的に自由になる。タイミングが成否を左右するすべてだ。行動計画は綿密に立てねばならない。

「兵士が命令拒否した経緯と裁判なしで死刑が決定された不条理を可能な限り正確に適切な人間に拡散する必要があるな。しかも短時間で」
「ビラがいいだろう。街頭演説に先立って文書で情報を拡散した方がいい。最初に情報が行きわたる対象が識字層に限られれば暴動を誘発するリスクが格段に下がる」

「では、同時多発的に市内何か所かで一斉にビラを配布し、情報が行渡った時点で街頭演説で行動を促すのはどうだ」
「大筋ではそんなところでいいだろう。細部は短時間で結果を出すためにも綿密に詰める必要はある。原稿作成、印刷所の確保、ビラ配布場所の選定、ビラ配布要員、各区リーダーと連絡係の選定、連絡用の馬の調達、資金もそれなりに必要だ」

「資金は何とかする。ロベスピエールを始め第三身分議員と少し話ができたが、協力してくれるそうだ」
「議員に協力者を得られるなら、パリの選挙委員会にも働きかけてもらえないか?」
「明日、早速聞いてみよう」

オスカルとベルナールのやり取りを聞きながらアンドレはふとロザリーに目をやった。この二年余り、時折彼女からオスカル宛に届く便りは当然のごとくアンドレ宛てでもあったから、彼女が息災でいることは知っていた。

実際に再会すると想像以上に若奥様ぶりも初々しく幸せそうだ。茶を入れ替えるタイミングを測りながら居間とキッチンの間を往復するロザリーも丁度アンドレの方を見たところで、視線が合った。

『元気そうだ』
『ええ、あなたも』

懐かしい。何かとオスカルのサポートに協力してくれた彼女とは、昔もよくこうやってアイコンタクトで会話したっけ。自然と微笑みがこぼれたアンドレにロザリーも微笑み返した。

討議を続けるオスカルとベルナールの邪魔にならないよう、ロザリーは左目を何度か瞬くことでアンドレに問うた。
『目の調子はどう?』
アンドレは親指を立て答えた。
『まあまあだよ』

自分たちができる無言の意志相通はこのくらいが精いっぱいだけれど、オスカルとアンドレがもっと複雑な非言語的会話を容易にやってのけていたことをロザリーは懐かしく思い出した。そして、新聞記者はそんな二人のやり取りを目ざとく見ていた。

「よし、話は纏まった。おい、そこ二人、何をハンドサインで会話している?」

焼きもち焼きのご亭主以外の3人は、目を丸くして顔を見合わせた後、仲良く同時に爆笑し、ご亭主様はますます不貞腐れた。

スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。