潮境に立つ

2019/07/09(火) 原作の隙間1789.7月

その日、国王夫妻の議会臨席が急遽決定した。王族警護を担当する近衛隊では警護計画の練り直しを余儀なくされ、ジャルジェ将軍は早朝から司令官室に詰めていた。

警護計画作成は本来なら参謀と各騎兵連隊長の仕事であるが、将軍は自らの手で陣頭指揮を執りたかった。王族の安全が危機的状況にあったからだ。

ただでさえ、連日の議会内身分対立の緊張が市民の興奮を煽り立てているというのに、当日になって親臨会議が一般非公開とされたことに市民は激怒した。

腹を立てたパリ市民の一団が議場を取り巻き、周辺は不穏な空気で包まれた。続々と市民が議場に集結する混沌の中で国王夫妻の安全を確保するとなると、近衛兵をどう配置しても足りなかった。

ジャルジェ将軍が頭を悩ませている間も傍聴を求める市民は誰一人としてその場を去ろうとせず、朝から降り始めた雨が彼らの粗末な衣服を芯まで濡らし、時間の経過と共に彼らの怒りは増悪する一方だった。

そこへ来て、市民のヒーロー的存在であるネッケル氏が親臨会議に姿を見せていないことが濡れそぼる市民に知れ渡る。

『王族の陰謀でネッケル氏が罷免されたに違いない!我々の強力な味方を奪い取ろうとしているのだ!』彼らのいら立ちはいよいよ高まった。

一触即発の緊張が空気の中に張りつめているというのに、状況を読めないー読む気のないと言った方が正確だろうー儀典長ドルー・ブルゼ候は無意味な差別的采配を第三身分議員に加え、市民の怒りの炎に油を注いだ。

時代は転換期を迎えている。第三身分の一部はかつてないほどの力をつけつつある。経済活動が洗練されるに従い、ブルジョアの発言力は看過できないほど強くなった。

かつては一部知識人のものだった啓蒙思想は力のある一般市民に影響力を持つようになった。もう、彼らをあなどってはならないのだ。

第三身分議員に対し、自分たちの優越性を誇示する行動がどれほど怒れる市民を刺激し、王族の安全を脅かすことか。

状況把握ができていれば、国王一家の安全のためにおのずと取るべき行動がわかるだろうに、既得権への執着、保身、野心の追求しか眼中にない同胞の思考停止にはあきれ返る。国王一族の警護に心血を注ぐ近衛隊総司令官は臍を噛む思いだった。

議会の傍聴を求めて押し寄せた市民の数が予測以上に膨れ上がり、議場周辺の治安を守るフランス衛兵の許容範囲を遥かに超える厳しい状況であることは容易に察しがついた。

平時編成を布いているフランスはぎりぎりまで軍縮している。娘の苦慮も並大抵ではないだろう。が、ここは何としてでも水際で暴徒を食い止めて欲しい。

頼むオスカル。おまえが頼りだ。

議場を囲む群衆の数現在5千。まだ増え続けている。驚異的な数だ。一般人が相手の場合、政治的リスクがけた外れに高くなるが、ジャルジェ将軍にはオスカルなら潮目を読み違えることはないだろうという確信があった。

娘が勝手に衛兵隊に転属した時は激怒したが、予想に反し見事平民兵を掌握したオスカルがフランス衛兵ベルサイユ部隊を率いていることに今では頼もしさすら覚える。

この難しい局面はきっと切り抜けられる。フランス衛兵との連携が初めて信頼に足るのだ。衛兵は必ずオスカルの命令に従うことに疑いの余地もなかった。

ジャルジェ将軍の胸は、迫り来る危機とは裏腹に、感慨で一杯になった。人の上に立つ指揮官として今こそ頼りに足る成長を遂げた娘。近衛の外にオスカルがいることが、これほど心強いとは。オスカルが近衛を率いていた時には一度も味わったことのない感動だった。

そんな折だった。

「ジャルジェ将軍。ブイエ将軍からの急使が取次ぎを願っておりますがいかがいたしましょう」
参謀のシャレット少佐が将軍に耳打ちした。ブイエ将軍からの連絡は文書を通すことが多い。
「あとで見る。受け取っておけ」

将軍は取り合わなかった。火急の用件なら悠長に文書など使わないし、いつもの定期便なら後回し上等だ。表立っては言えないが、本当に重要な案件はブイエを飛び越えて娘の従者経由で調整している。

ところが、バタンと大きな音を立てて執務室の扉が開いたかと思うと、扉係の近侍を振り切って司令官室に駆け込んで来たらしいブイエ将軍の急使が突然目の前に現れた。よほど急いで走って来たのか、兵帽はあごひもでぶら下がり、肩を大きく上下させゼイゼイと息を切らしている。

それなのに、顔つきは上気していると言うより、むしろ蒼白で異様に緊張している。と、見ればいつもの伝令係の下士官ではなく、少佐の肩章をつけた将校だ。見覚えはある将校だが名前はつと思い出せなかった。

一呼吸遅れ、ふいをつかれて外部者の無許可入室を許してしまった扉係の少年近衛兵が伝令係を取り押さえにかかった。こちらも真っ青な顔をしている。侵入を許してしまい、どんな叱責を受けるか恐ろしくて縮み上っているのだ。

「無礼だぞ!君、控えたまえ!も…申し訳ありませんジャルジェ将軍!」
「離せ!こんちくしょうめ!」

二人がかりで羽交い絞めされた伝令兵は二人を引きずったままさらに将軍に近付こうとする。当然、執務室にいた他の将官も一斉に軍刀を抜き、周りを囲んだ。伝令兵はついに拘束に屈したが、悲壮な声を上げた。

「お願いです。どうか!どうか!緊急事態です!」
ジャルジェ将軍は立ち上がった。見たところ、伝令兵は職務を果たそうとしているだけのようだ。将軍は手振りで『離してやれ』と部下に命じた。

軍刀を鞘に納める音が何重にも響いた。二人の少年近衛兵が取り押さえていた手を離し、飛びのくように直立すると、伝令兵は床に崩れ落ちるように膝をついた。

「いつもの伝令係ではないな。君は確か…」
若い兵は乱れた息のままよろよろと立ち上がり、踵を鳴らして敬礼し、封書を差し出した。

「ベルトワーズであります!どうかこちらをすぐご開封ください!」
つと嫌な予感が走ったが、将軍は努めて穏やかに尋ねた。
「何か火急な連絡かね、少佐?」

部下をここまで慌てさせる要件にわざわざご丁寧に封印までしおって、妙なところが律儀と言うか、使えないと言うか、相変わらず食えない御仁だ。ジャルジェ将軍はやれやれとため息をつき、封蝋を剥がすと紙片を取り出した。かろうじて読める乱れた走り書きが現れた。

『ムニュ・プレジールに居座る平民議員を排除せよと下りし王令を、フランス衛兵ヴェルサイユ部隊長及び一部兵士拒否す。至急、近衛連隊を議場に派兵されたし。尚謀反人はすべて拘束済』

「?!」

一度で内容が頭に入って来ない。『ヴェルサイユ部隊長』『王令拒否』の二語だけが意味を持って認識できた。将軍の表情が険しくなる。

ベルトワーズと名乗った将校が殆ど悲鳴のような声を上げた。
「必ず返答を持ち帰れ、と言いつかりました!将軍・・・どうか!!」

ジャルジェ将軍は何かを訴えようとするベルトワーズを手振りで制し、もう一度文面に目を走らせる。ようやく文字が意味をなして将軍の意識に浸透を始めた。

驚愕の内容だった。一斉射撃を鳩尾に喰らったような衝撃をジャルジェ将軍は覚えた。支えを求めてカーテンを鷲掴みする。全身の血の気が引いてゆく音だろうか、耳の奥に甲高い金属音が鳴り響いた。目の前が回り、冷たいいやな汗が首元を流れ落ちてゆく。床はたわみ、地球から滑り落ちて行くように揺れた。

「将軍!」
遠くで若い将校の縋り付くような声が聞こえる。
「どうか・・・どうか・・・助けてください!ブイエ将軍は誰の言葉にも耳を貸しません!このままでは隊長が・・・!どうかお願いします!」

助ける・・・?誰を?ブイエがオスカルを拘束した?ジャルジェ将軍は掴んだカーテンを頼りに何とか立ち上がった。

「あい分かったとブイエに伝えよ。行け」
「え?」

ベルトワーズ少佐が絶望的な目を向けた。
「承諾した、と言ったのだ。派兵に応じる。ブイエにそう伝えよ!行け!」
「将軍・・・それだけですか?オスカル隊長は・・・・」
「聞こえぬか!行けと申した・・・ゆ・・・行け!」
「はっ!」

ベルトワーズ少佐は今にも泣きだしそうにきつく目をつぶったまま敬礼し、一度だけ振り返り、力なく走り去って行った。

将軍は倒れ込まないようにカーテンを掴んだままきつく目を閉じた。他に在室していた参謀とスイス人連隊長、王族付き連隊長はどうしたものか手をこまねき、それぞれの副官も遠巻きに将軍を見ているだけだった。

「いかがなされた将軍!」

駆け寄って肩を支え、椅子に座らせてくれたのは王妃付き騎兵連隊長、ジェローデル大佐だった。将軍は着座した後も胸をかきむしるように鷲掴みしたまま、荒い息を繰り返している。

『衛生班を呼べ』と部下に目で合図を送り、ジェロ-デルは将軍の背中を何度もさすったが、自身も言いようのない不吉な予感に襲われた。

今にも泣きそうな様子で去って行った衛兵隊将校が口にした、『助けてください』『オスカル隊長』。あれは何なのだ。何が起きたのだ。

逸る胸を押え、ジェローデルは将軍の呼吸が少し落ち着くのを待って、その手に握りしめたままの伝文書を指した。

「わたくしも拝見してよろしいでしょうか」

将軍は黙って身内の不祥事が記されているくしゃくしゃになった紙片を部下に手渡した。将官の地位を利用し身内の不始末を隠蔽することは可能かもしれない。しかし、今それを考える余裕は微塵もなかった。それ程の衝撃を受けていた。

折り曲げられた紙片を開くのももどかしくジェローデルは内容を確認する。そして、滅多に感情を顔に出さない彼もその内容に吃驚のあまり瞠目した。

「将軍…これは…!」

胃からせりあがる苦いものを飲み下し、将軍はしばし目を閉じて冷静さを取り戻すべく大きく息をついた。

王宮と議場周辺の治安維持を担当するフランス衛兵隊ヴェルサイユ部隊と

第三身分を多く擁するフランス衛兵隊も昨今の潮流に漏れず、体制に反発を覚える兵士の不服従事件や脱走が相次ぎ、コントロールを欠く危険な状況だった。その中で娘の率いるヴェルサイユ部隊だけは日を追って統制が取れてきていた。

昔から何かとかみ合わないブイエ将軍も、最近では娘の統制力に一目置いているらしく、近衛連隊と協力体制を取る希望が見えてきたところだった。

ジャルジェ将軍は、これからの両軍は平時編成という厳しい条件を、一致団結して共闘することで実兵力以上の結果を叩き出せると信じていたし、そうしなければならなかった。

なぜなら、パリもヴェルサイユも現状は平時どころか事実上厳戒態勢をとるべき状況だったからだ。

ヴェルサイユ市民だけではなく、パリからも続々と市民が議場に集結し、議場を囲む人垣が5千を超えたあともパリとヴェルサイユを結ぶ街道にはいまだに延々と人の列が途切れることなく続いていると報告が入っている。

殆どが無産階級の市民であることから、暴動に繋がる危険も刻一刻と高まっている状況だった。

そんな中での娘の命令拒否!あり得ない!むしろ通常以上に連携を強化する時ではないか!全身の血管に轟音を立てて灼熱の怒りが将軍の体を駆け巡った。

怒りはブイエ将軍にも向けられた。造反した衛兵は全体の一部であろう。他の兵を自分で動かせば良いところを近衛連隊に泣きついて来るとはブイエの腰抜けが。

オスカルを拘束したまではいいが、オスカルを失った残りの兵士が奴の命令を拒否すれば面目丸つぶれという訳だ。それを恐れたか腑抜け爺。

それでも国王の命令は遂行せねばならない。私情に流され、ブイエ将軍と議論する暇などない。しかも造反の筆頭者が我が娘となれば責任も取らねばならない。

青ざめた顔で指示を待つ部下は一度は娘の許婚だった男だ。彼を使う残酷さを思わないでもなかったが、軍務に私情を差し挟む愚を犯す男ではない。将軍は重い口を開いた。

「行ってくれるか、ジェローデル大佐」
ジェローデルは血色を失いながら表情は一つも変えずに深く頷いた。
「はい」

部下は軍靴の踵を揃えて敬礼すると、いかにも軍人らしい切れの良い身のこなしで身を翻したが、数歩歩いたところで将軍を振り返った。冷静沈着な美丈夫である彼もやはり動揺は隠しきれない。部下は何度か逡巡した後で将軍に懇願の瞳を向けた。

「ジャルジェ将軍…どうか…」

彼らしからぬ歯切れの悪さでそれだけの言葉をかろうじて絞り出すと、後の言葉を口に
することができない、とでも言いたげに部下は小さく首を振るともう一度頭を下げた。
「失礼しました。行ってまいります」

そして、今度こそ振り向かずに背筋を伸ばし、司令官室をきびきびと退出して行った。司令官室に在室している将軍の参謀と他連隊長は一言も発さずに将軍の様子を見守るより他はなかった。

『どうか…』の後に続くはずだった言葉は娘への恩情を請うものだろう。将軍は部下が退出した扉の中央をしばらく不動で見つめていた。

慟哭と身を焼くような怒りがもたらした火急の身体反応は次第に落ち着きを見せ、霧に覆われたようだった視野は元に戻った。思考力も戻って来た。それでも怒りは止まるところを知らず噴出し背中は嫌な汗でぐっしょり濡れている。

直ぐにでも国王陛下にお詫びの言葉を申し上げにはせ参じたい。しかし、理性の指示は『待て』だった。将軍はその声に従った。

出口の見えない三身分の軋轢の間で国王陛下の苦悩は今や最高潮に達している。そこに来て王太子殿下の御逝去が追い打ちをかけたばかりだ。

僅かばかりの日数を喪に服された後、国務に復帰された国王陛下は虚ろな心で身体だけを何とか公務に置いていらっしゃる。それは見るからに痛々しい御姿だった。

そこへつけ込むように既得権を死守したい偽王党派と、王位を狙う王族の手下が国王陛下の懐柔を図っている。国王陛下はそれをよくご理解されながら、疲労と悲嘆のために連中を御することが出来ないでいらっしゃる。

そんな国王陛下を何度も煩わせるよりは、ジェローデル大佐が見事平民議員を排除してから、少しでも明るい報告を持ってお詫びを申し上げ、処分をお受けしよう。将軍はそう決めた。その時だった。再び荒々しく司令官室の扉が開かれた。

「失礼します!暴徒が宮殿内に進入しました!王妃様の居室を目指して乱入中です!」
伝令の若い近衛兵の形相は恐怖に引きつっていた。将軍はすぐさま立ち上がり司令官室から飛び出す傍ら参謀の二人に叫んだ。

「ブリサック候は後をよろしくお願い致しますぞ!デュフール伯爵はついて来れられよ!お子様方を頼みます!私は国王陛下のもとへ参りますゆえ!」

ジェローデル大佐と彼の小隊二個は議場に送ってしまった。宮殿内はすでに要所要所に目いっぱい近衛兵を配置していて増兵の余地はない。

群衆はそれを振り切った。ブイエの能無しは外苑で群衆を抑止できなかったのだ!オスカルが拘束されていなかったら、衛兵を総動員させて群衆を止めたろうに、ブイエでは兵が動かないのだ。

思いつく限りの罵倒をブイエ将軍に浴びせながら、謀反人はオスカルの方だったと思い出す。こんな非常時に我を通す大ばか者めが、自分の不始末の結果を見るが良い!こんな日を見るために私は今まで生きてきたのか!

王の居室までの短い距離を走りながら、走馬灯のようにオスカルの幼少期の姿が将軍の脳裏に浮かんだ。初めて剣の稽古をつけてやった時の嬉しそうな顔。早く真剣を持たせろと喰らいついてきた時のこと。

最初のポニーに1人で跨った時の誇らしげな姿。国のために尽くす心得を語って聞かせた時に見せたきらきらした瞳。

娘に天才的な才覚があることを知った時の喜びと、『これが本当に息子であったなら』と神の采配を恨んだ日々。

『跡取り息子』として目覚ましい成長を遂げる娘に有頂天になる余り、娘としての幸せを置き去りにさせてしまったことに気づいたものの、すでに遅過ぎたことを痛感した事件。

そして、軍神マルスの子として生きる、と娘自らが人生を選び直したあの日。全てが今日この日に繋がっているのなら、おお神よ、私を怒りの稲妻で今すぐ八つ裂きにされよ!


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ルイはバルコニーからぼんやりと人の群れを見ていた。

辞職を決意していたネッケルに現職に留まるよう王妃と共に説き伏せた後、つい先ほどネッケルと共にバルコニーに立ち、抗議に集まった市民へ人気の財務総監の健在をアピールしたところだ。

ネッケルはヒーローの帰還に狂喜する市民の歓声と人垣の間を、さながら紅海を割って進むモーゼのように悠々と凱旋して帰宅した。パリ大通りの沿道を埋め尽くした人垣は彼の自宅まで続き、邸宅周辺ではお祭り騒ぎが繰り広げられているらしい。

つめかけた多数の市民が宮殿を後にし、市内の居酒屋や安宿に場所を移したので、群勢は半数ほどに縮小し、人で埋め尽くされていたバルコニー下の中庭は再び碁盤目模様を見せていた。

日銭を持たない貧しいパリ市民は一晩を宮殿にとどまるつもりなのだろう。今は思い思いの場所でグループを作り厩舎や衛兵詰所の軒下で雨やどりをしている。

ネッケル更迭の噂にパリから徒歩で押し寄せた群衆は一時王妃の寝室手前、衛兵の間まで入り込み、抗議の声でマリー・テレーズとルイ・シャルルを怯えさせた。その二人をしっかりと抱きしめた王妃は気丈に面を上げていた。

幸い、宮殿に進入した群衆は暴力行為に及ぶ前にネッケル氏の在職続行の知らせに落ち着き、素直に近衛兵の誘導に従って宮殿を出て行った。

ムニュ・プレジールでは議員の不可侵権を要求する平民議員がまだ居座り続けている。ルイが受けた報告によると、議員は自らの流血を辞さない覚悟でその身を火器さらし、少数の自由派貴族が帯剣して彼らを守っている。

武力行使による議員排除命令を拒否したジャルジェ准将は一度逮捕されたが、拘束を振り切り、衛兵隊に代わって議員排除に向かった近衛連隊長を退けたと言う。その後再度拘束されたが、ブイエ将軍によって自宅謹慎を言い渡されたと聞いた。

ブイエ将軍の意外にも寛容な措置にルイは驚いたが、すぐに彼の意図に合点が行った。自ら処分したとしても伯爵令嬢が相手となればせいぜい軍籍はく奪と禁固刑が関の山だ。

しかし自宅に戻せば、王家に忠実なる父将軍がおのれの面子にかけても仁義にかけても自ら娘を成敗せずにはいられないだろう。

オスカル・フランソワ本人はもとより、父将軍にも深い痛手を負わせるべく、残酷な方法をブイエ将軍は選んだのだ。だがそんなことになれば、王妃の悲しみはいかばかりだろう。王子を失ったばかりの王妃にそんな思いはさせられない。

そこで、ルイは気づいてすぐに使者を送った。『ジャルジェ准将にとがめなし。私刑は厳禁する』間に合っただろうか。

ルイは孤独だった。今日、騒動の中王妃は立派に子を守った。王太子を亡くしたばかりだというのに王妃としての誇りを失わない妻にルイは敬服した。妻は全く素晴らしい母親だ。子供たちの育成と教育にこれほど直接貢献した王妃がかつていただろうか。

しかも子供たちはただの子供ではない、王位継承者なのだ。だから、妻が子供たちを守ることに集中するあまり、守りの姿勢に固執することを責めることはできない。妻の国民に対する不信は、子を守ろうとする母であれば当然だ。

国王ルイの立場と望みを王妃が正確に理解できなくても責めることはできない。家族を深く愛している。が、同時に王は全ての国民の父でもあったし、常にそうありたいと努力して来た。それは孤独な戦いだった。

しかも、国父の心は子である国民に永遠に伝わらないかのようだ。国王に即位してこの方、考え付く限りの改革を進めてきた。しかし、先々代から累積した財政赤字を解消し、三身分が同時に満足する魔法のような政策などあり得なかったから、常に反発の声が上がった。

今日の親臨会議では第二身分の要望を取り入れた身分別討議の続行を宣言することで彼らの特権は守る傍ら、第三身分にも譲歩したはずだったのだ。

ネッケルの改革案はあまりにも市民寄りが過ぎたので退けたものの、ネッケルが提案した案の一部を、幾つかの税制改革という形で反映させた。事実上の減税である。数か月前であれば大喝采を浴びたはずの第三身分への譲歩だった。

それなのに、三部会へ市民が寄せる期待が大きく膨らんだ今では振り向きもされなかった。

結局、交渉と調整を繰り返し改政に成功しても、それ以上の不満の声が上がり、ルイの功績が評価されることはなかった。ルイの望みは全ての国民に幸せを与える王たること、それだけなのに誰も理解してはくれない。

国民への永遠の片思いを耐える王。それが余だ。ルイは段々卑屈な考えに捕らわれていく。

国民は王に期待する。陳情する。保護を求める。判断を求める。利得を得ようと画策する。国民は王に求めはしても王の求めに耳を貸そうとはしない。

では、王は。王は、誰に何を求めれば、報われるのだ。

2階中央棟バルコニー側の窓から中庭をぼんやりと見下ろしていたルイは窓に背を向けると、執務机ではなく長椅子に倒れる様に腰を降ろした。部屋付きの侍従が慌てて足台を持って国王の足元に跪く。

自分でもかなり精神が疲弊していることがわかる。こんな状態で重要な決定などできるはずもなかった。今夜の就寝前謁見の儀は取り止めを命じ、早めに就寝しよう。ルイは呼び鈴を鳴らそうとした。

「王侯陛下、御なりでございます」

執務室扉係が王妃の来訪を告げた。子供たちをポリニャック夫人に託した王妃が執務室に入室する姿を目に留めた王は斜めに崩していた姿勢を正した。王妃は王に近付くと優雅な所作で礼をとった。

「お休みの御挨拶に参りました、陛下。今夜は早めに休ませて頂きます」

疲労と不安のため青白い顔をしている王妃だが、あくまでも王妃としての洗練された振る舞いを崩さない。この美しく強く誇り高き人は傍にいてくれるだけで支えになってくれる。ルイは幾分孤独感を手放した。

「うむ、そうしなさい。今夜は衛兵の間に兵を増員させよう。余も早めに休むことにする」

ルイは腰を降ろしたばかりの重い体を持ち上げ、王妃に挨拶を返すために立ち上がった。これで、今日はもう何も考えないで休んでしまおう。二人とも執務室を退出しようとした、その時だった。

「ムニュ・プレジールの議員の動向についてご報告したいとジャルジェ将軍が控えの間でお待ちになっておりますが、いかがいたしましょう」


衛兵の増員を命じようとしていた矢先、にタイミング良く現れた近衛隊総司令官にルイはさらに援軍を得たように気分を上げた。そして、議事場には第三身分議員が未だ居座り、王令として発令した解散命令に背いていることを思い出した。

親臨会議にて、辞任を視野に入れ親臨会議を欠席したネッケルが市民の支持を盾に国王に勝利し、国王が事実上敗北するという衝撃の事件に心を大きく奪われて、すっかり失念していた。

結託した議員が王令に背き立てこもった。一種のクーデターとも解釈できる事態であったが、深く考える気力は果て、正直どうとでもなれと投げやりに頭の片隅に追いやっていたのだ。

「通しなさい」

ルイはそう命じると、妻の手を取り、将軍を迎えるために夫妻並んで腰を降ろした。許可を得た近衛連隊総司令官はかくしゃくとした軍人らしい足取りで入室し、国王夫妻の御前で帽子を取り一度敬礼すると、膝を折り頭を深々と下げた。

「ご報告申し上げます。ムニュ・プレジールを占拠している平民議員は未だ不可侵権を要求して居座っております」

将軍は驚くほど憔悴して見えた。そして、一瞬言葉を切ってから、告解する罪人の様に言葉を一息に吐いた。

「オスカル・フランソワが議員の武力排除を拒否したため、近衛連隊から小隊を二個派遣いたしましたが不備に終わりました。オスカル・フランソワが小隊と議員の間に身を投げ出し、小隊を退けたためにございます」

そこまでを言い切ると将軍は面を上げ、国王夫妻を真っすぐ見上げ、剣帯から軍刀を外し床に置いた。

改めて将軍の顔を見ると、目の下には隈が目立ち、眉間に皺が深く刻まれ、唇は色を失っている。実年齢より10年は老けて見える。その中で深い青い瞳だけが鋭い光を放っていた。覚悟を決めた者が放つ意思の光だった。

「いかような厳重なる処分も謹んで承る覚悟で参りました。フランス衛兵の反逆も、近衛連隊長が議員排除に失敗した責任も全てわたくしめが負うところにございます。どうぞ、相応のご処分をお願い申し上げます」

将軍はまるでその場で打ち首を待つように黙って再び頭を下げた。国王も、王妃もただその姿に心を奪われしばし言葉を失い、執務室は深い湖の底のような静寂に包まれた。

違う人物が同じ文言を述べ、跪いてもこうまで国王の心を打たなかったであろう。むしろ、命乞いか減刑嘆願を期待した芝居がかった演出に見えるに違いない。しかし、ジャルジェ将軍が放つ一語一句には忠誠が宿り、一切の虚言を含まぬ彼の真実のみが発せられていることを、国王も王妃も確信した。


「ジャルジェ将軍…。面を上げてください」

先に言葉を発したのは王妃の方だった。正式な謁見ではなく内輪の報告であったとしても、王に先んじて王妃が言葉をかけることは驚くべき異例なことだ。儀礼作法に准ずるよりも大切な何かを伝えるために王妃は心の声を優先したのだった。

「オスカルがただの一度でもわたくしたちの為にならない行動をしたことがあったでしょうか。わたくしにはその記憶はありません。彼女が見返りを要求したことも、地位や昇進をねだったことも、私欲のために策を講じたことも。

むしろ、自分の身を切るようにわたくしたちに尽くしてくれました。時々手厳しい意見を正直に言ってくれましたけれど、それもやはりわたくしたちのために無私の心を捧げてくれた現れでした。

ですから、わたくしは、オスカルがなぜ命令拒否をしたのか、理由も問わぬうちに彼女を断罪することはできません。何か、止むに已まれぬ理由があってのこととしか思えないのです。

ですからジャルジェ将軍。あなたに今すぐ罰を下すことも考えられません」

将軍は驚いて顔を上げた。見れば王妃の手の上には国王の手が重なっている。その肉厚な指が王妃の華奢で美しい指先を握る様を混乱した頭で見つめていると、国王の声が続いた。

「ジャルジェ将軍、窓の外を見るが良い。先ほどまで殺気立った市民が中庭を埋めていた。まだ半数ほどが宮殿に残っているが、ずいぶんと穏やかな様子で夜を明かそうとしている。

王妃はオスカル・フランソワの命令拒否には何かやむにやまれぬ理由があるに違いないと申したが、余はその理由すら知る必要はない気がするのだ。結果論ではあるが、将軍。どうやら王家は今夜、貴殿の娘に命がけで守られたようだ」

将軍はますます混乱した。どんな厳しい処分でも、この不始末が償えるものなら暴民に八つ裂きにされる役回りでさえ厭わず受けるつもりだった。

全ての責任を取ることが至上命題であるとして意識を集中する余り、将軍は国王夫妻の言わんとすることがにわかに咀嚼できない。そんな将軍が困惑する様子を見た国王が言葉を足した。

「余は、平民議員が少々の軍圧ですぐに引き下がるものと読み間違えていたのだ。しかし、彼らは余が考えていた以上に意思が強かった。

もし、オスカル・フランソワが命令通りに武力を行使していたら、もしくは近衛連隊を阻止しなかったら、捨て身で抵抗する平民議員に死傷者が出たことは間違いない。それもネッケル氏の帰還を求めて集まった何千人もの市民の目の前でだ。

そんなことが起きたら市民の怒りを買い、宮殿は占拠されていたかもしれぬ。貴殿もよく知る通り、今日の午後には多数の市民が王妃の寝室まで進入しようとした。数千の市民を武力制圧しようとすれば、最悪サン・バルテルミーの虐殺の再来となったかも知れないのだ。

余は国民の信頼を失い、余波は全国に広がったことだろう。歴史は余を虐殺王と呼んだだろう。余の命令はこれほど多くの市民が抗議に集まることを想定していなかった。ジャルジェ将軍、我々は貴殿の娘が下した現場の判断に救われたのだよ」

国王の言葉が少しずつ将軍の腑に染みわたる。たちまち熱い涙が涙腺の下から盛り上がり、国王夫妻の姿がぼやけて見えた。

王太子を失った悲嘆にくれる間も与えられず、終わりのない三身分の衝突の間に立ち、対処しきれる限度を遥かに超えた国務に疲弊してもなお、このような広い心を保つことが出来る国王。

国王でありながら、自らの状況判断を客観的に論じ、間違いを認めることのできる公平な心。ジャルジェ将軍は、改めて生涯の忠誠を王家に捧げる決意を新たにした。一方、国王の見解を聞いた王妃の表情は花開くように明るくなった。

「陛下、そうですわね。そうに違いありませんわ。オスカルは最も信頼できる友人です。美しく誠実で勇気ある大好きなお友達です。なんてことでしょう。彼女は身を挺して助けてくれたのですね。ああ、無事でよかった!オスカルの身に何かあったら悔やんでも悔やみきれなかったわ。そして…」

王妃は微笑みながら言葉に詰まり、大粒の涙をこぼした。

「ルイ・ジョセフに怒られてしまいます。あの子を心から慈しんでくれたオスカルですもの。あの子も…オスカルが…大好きで…。彼女に会える日をいつも指折り…数え…て…」
「王妃様!」

王妃はハンカチで顔を覆い、言葉が嗚咽で途切れた。将軍は思わず立ち上がり、国王は王妃の肩を抱いた。王妃は夫に支えられながらしばらくむせび泣いていたが、どうしてもこれだけは言いたいとばかりに涙に濡れた顔を上げた。

「ルイ・ジョゼフは聡明な王子でした。人の心の奥底まで見通し、自分のことよりも遺していく家族と国民を気遣う子でした。

ひょっとしたら、神様の計画の全てを教えられているのではないかと思うほど、静かに自分の運命を受け入れ、わたくしに愛だけを遺してくれました。

そのルイ・ジョゼフがあれほど慕ったオスカルです。わたくしは心から信頼します」
「王妃様…!」

将軍はただ頭を垂れる他はなかった。我が子を亡くしたばかりの王妃の言葉が理性を欠いていることは否めなかったが、王妃が娘に無条件に寄せる信頼と親愛が今は只々辛かった。娘は、一国の王妃にこれほどまでの信頼を受けるに値するのだろうか。

『オスカルが現場の潮目を読み外すはずはない』
『我々は貴殿の娘に命がけで守られた』

苦悩する将軍の脳裏に、突然二つの声が甦った。

もしかして、オスカルは無意識のうちに潮目を読んだのか。こうなることまで予期して。まさか、そんな筈は…!

しかし、確かに国王陛下の解釈は全くその通りだ。もし今日のどの時点であれ、数千の市民の目の前で武力行使が遂行されていたら・・・議員、いや市民の一人でも死傷者が出たら・・・大惨事になった可能性は限りなく高い。

国王陛下に指摘されるまで自分もその可能性に思い至らなかった。自分の知る限り、その視点で現場を見ていた将校は一人もいなかった。

だとしたら・・・!
オスカル。おまえは・・・!

ジャルジェ将軍の思考はそこで行き止まりになった。もう少しで何か重要な結論に繋がりそうであると同時に、知ってはいけない領域に踏み込まぬよう、後ろから引く力が拮抗している。頭が割れそうに痛い。

「ジャルジェ将軍、どうしましたか?わたくしのお願いは聞こえましたか?」

王妃の声にはっとした将軍の思考はそこで完全に中断された。

「はっ!失礼いたしました。両陛下の寛大なお言葉に感じ入っておりまして、つい」
「いいのですよ。大変な一日でしたから、将軍もお疲れになって当然です」
「申し訳ございません。なんなりとお申し付けください」

深々と下げたジャルジェ将軍に王妃はもう一度繰り返した。
「ジャルジェ将軍、わたくしが会いたがっていると、オスカルに伝えてくださいね。必ずですよ。とても彼女に会いたくなりました」
「はっ。必ずやおおせのままに」

将軍は処分を求めはしたものの、現状の危機が収束するまでは指揮系統を預けて欲しいとも願い出るつもりだった。今やその必要はなくなり、引き続き夜を徹して職務にあたるべく国王夫妻の元を辞した。議場は議員に占拠されたままであり、市民も王宮内外に大勢たむろしている。

勿論、全力で国王一家をお守りする覚悟は変わらないどころか、今まで以上に忠誠を尽くす所存なのだが、将軍は腹の中で何か大きな力が動き始めたことを感じていた。国王、王妃、我が娘とその従者、妻。なぜ、今日なのだ。彼らは揃いも揃ってこれほどまでに自分の魂に揺さぶりをかけたのか。

未だかつて、揺さぶられたことのない方向に投げ出されようとしている。この動きが何なのか、まだ形すら見えないが、確実に変化の口火を切った自分がいる。今までと同じ自分に留まることはもうできない。

将軍は、あまりにも大きな変化の予感に両拳をきつく握りしめた。

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