命・愛 1789.6.23

2019/07/08(月) 原作の隙間1789.7月
その日、何の前触れもなく帰宅した末娘は母親に帰宅の挨拶をすると、自室に籠ってしまった。娘にしては珍しいことだと夫人は訝った。

三部会が開会されてから、近衛連隊総司令官を務める夫と、フランス衛兵隊ヴェルサイユ部隊長を務める娘は多忙を極めている。そんな二人のために、夫人は毎日夕刻になると近衛隊本部と衛兵隊本部に使者を送り、刻々変動する彼らの動向を報告させていた。

帰宅が叶わないのであれば着替えや夜食を届けさせ、帰宅可能ならば父娘それぞれの帰宅時刻に合わせて温かい食事と身づくろいの準備を使用人に整えさせるためである。

娘の場合、夫人が送った使者はアンドレから必要な情報を持ち帰る。何らかの理由で待ち合わせ場所に来られない場合でも、アンドレは伝文を使者の手に渡す手配を欠かしたことはなかった。

しかし、この日、使者はアンドレと連絡がつかず、オスカルの動向をつかめないまま手ぶらで帰還した。それだけでも普通ではない所に来て、オスカルが何の前触れもなく帰宅したかと思うと、出迎えた彼女付きの侍女を退け、自室にひとりで引き上げてしまった。

一緒に帰宅したアンドレも夫人に連絡の行き違いを丁寧に詫びると、何も言わずに下がって行った。ジャルジェ将軍は、ここ数日間王宮に滞在する予定であった。

オスカルが部屋から出て来ないので、夫人は仕方なく広いダイニングでひとり食事を終えたが胸騒ぎ収まらず、早々に切り上げた。そして侍女を伴いホールへ出ようとした時だった。突然玄関扉が破れんばかりの音を立てて全開し、その勢いのまま跳ね返った。

扉係の従僕がふたり、扉を押さえるために走り寄ったがその任務を果たす前に再び乱暴に開かれた扉に跳ね飛ばされた。飛び込んで来たのは、肩を荒げた息で上下させた将軍だった。  

玄関外では乗り捨てられた馬が後ろ足で立ち上がり嘶いている。何とか追いついた門番が手綱を押さえようと大わらわだ。どうやら御者と馬車を宮殿に放置したまま、将軍は自身で馬を駆り玄関先まで乗りつけたらしい。

主の不意の帰宅に上級使用人が慌てて出迎えに走る。本来先頭を務めるべき老執事より先に、機敏に動ける若い使用人が薄暗いホールに照明を灯してまわろうと出て来たが、将軍の姿を見て悲鳴を押し殺した。
蝋燭の灯りに浮かび上がった将軍は、憤怒の炎で青く痙攣していたのだ。今まで見たこともない恐ろしい当主の形相に、出迎えに急ぎ集まった使用人一同の緊張が張り詰めた。夫人は危機の予感に胸を押さえつつ夫をなだめようと歩み出たが、夫は夫人の姿が目に入らぬかのように無言でホールを突っ切った。

「お帰りなさいませ」
遅れて現れた執事デュポールの挨拶が中空で虚しく霧散する。制服着用の上位使用人らはほぼ全員ホールへ集まったが、主人の背中が放つ異常な殺気に足元が凍りついたように動けない。

将軍は歩みを止めず、広い中央階段が二股に分かれる踊り場まで一息で駆け上がったが、そこで思い出したように立ち止まり、荒い息を整えようともせずに眼下に並ぶ使用人と妻に一喝した。

「謀反人を成敗する!誰ひとり立ち入ることは許さん!庇い立てする者は同罪と見なし切り捨てる!よいか!誰ひとりたりともそこを動くではないぞ!」

怒れるゼウスが槍に変えた雷を地面に投げつけたかと思うような声だった。すらりと腰の軍刀を抜いた将軍は刃を右手にゆっくりと背を向け、踊り場から左右に分かれる階段の左側を踏みしめるように上がって行った。

次期当主の居室がある方向である。恐怖に震え上がった使用人は身動きができないまま、声にならない悲鳴を上げた。

かろうじて職業意識を取り戻した夫人付きの侍女がカタカタと膝を震わせている夫人の両肘を後ろから支えたが、その侍女の指先も血の気を失い氷の様に冷たく震えていた。

次第に将軍の軍靴の音が小さくなり、遠くでバタンと次期当主の部屋の扉が開けられたと思われる音が響くと、階下で立ち竦む者たちの背中を冷たい汗が流れた。

息をのむ音と、ああ神様、と助け求める掠れた声が上がる。あちこちで膝から崩れ落ちた侍女がスカートの中にへなへなと座り込んだその時。

別の足音が二階の右奥から聞こえた。足音の主を見定めようとする余裕を持てた者が見たのは、吹き抜けのホールに面した二階廊下を将軍が消えた方向に全力で走り抜けて行く男の姿だった。

そこにいた誰もが疾風のごとく走り去ったその人物をよく知っていたが、その相貌は普段温和で陽気なその人と同一人物とは思えないほど鬼気迫っていた。

「ひっ、ア・・・アンドレ!」
誰かが両手で口を押えたまま小さく叫ぶ。
「彼、ダガーを持って・・・いた?」
他の誰かがおそるおそる誰とはなしに問いかける。

何人かは彼の左手に握られていた刃物をはっきりと見たが、恐ろしくてそれを肯定する者はいなかった。何ができるでもなく、しかしその場を離れられないまま、永遠にも感じられる時が流れた。実際はほんの数秒だったろう。

そこへ、王宮へ主人を迎えに行ったものの空振りで戻った馭者、シャルルがホールに入って来た。説明を求める使用人らの視線を一身に受け、シャルルは重い口を開いた。

「オスカルさまが命令拒否をされたそうだ。何が起きたかわからんが、王宮は黒山の人だかりでとてもじゃないが馬車で近づける状況じゃなかった」
「お・・・お!」

夫人が両手で顔を覆い、絶望的な声を挙げた。何ということ!父譲りの気質を持つ娘が命令拒否など尋常の沙汰ではない。娘がそこまでするには、その命を賭けるに値するほどの何かに直面したのだ。

そして夫。夫が命令違反を看過することはできまい。王室への忠義と自ら定めた規範は、夫が命をかけて守るものだ。どちらも一歩も譲れぬ父娘。

大義に従い愛する娘を成敗すれば、夫の心は守り抜いた大義の裏で血を吹き出すだろう。しかし、父の情に従えば己の存在意義が壊滅する。精神の死か、忠義の死か。どちらを選んでも行き止まりだ。

いや、違う。夫なら精神の死は個人の犠牲、忠義の死は国家への背信と考える。夫にとって、国家は個人に優先する。ならば夫は娘を成敗して自らの精神をも殺す方を選ぶだろう。もしかしたら自ら相打ちを選ぶかもしれない。

だめだ、そんなことは母として私の自然が許さない。娘が死に、夫も精神的な死を迎える?ばかな!そんなことをして何になる。国家を憂えるならなおのこと、生きてこその貢献ではないか。

夫も、娘も、己の利得よりも国家へ貢献するために日々精進怠らず仕えて来たのだ。利権闘争の坩堝であるヴェルサイユにあって、ふたりとも稀有な宝石だ。

選択肢など無限にあると言うのに、一途さゆえに父娘は二択しか目に入らない。このふたりの石頭に何か第三の大義を突き付けなければ、このまま父娘は差し違えてしまう。ああ、でもどうすればいい。もう時間がない。

愚かな方法には変わりがないけれど、夫が刃を納めることができないのならば、わたしが自らの喉笛を掻き切ると二人の間に割って入るしかないだろう。

女は命がけで子を産むのだ。母が自分の命を娘の命と引き換えに差し出すのは自然の摂理、夫の大義に並ぶこと許されて然るべき自然法則だ!もっと早く気づくべきだった、どうか、間に合って!

夫人は後ろから支えている侍女を振り切ると、階段に向かって小走りになった。夫人に長年仕える侍女は即座にその意図を読み取り、夫人の前に回り止めに入った。

「奥様、いけません。そんなことを考えては!」
涙声で叫ぶ侍女の真っ青な唇はかたかたと合わず、言葉が不明瞭に掠れた。夫人は歩みを止めずに侍女を諭した。

「いいえ、セシル。良いのです。わたしは母親ですから」
セシルは必死の形相で女主人に抱きつくと、なおも食い下がる。
「アンドレが!アンドレが旦那様を追いました。きっと今頃彼が止めてくれているはずです!」

アンドレ。彼は当然娘の命令違反を知っていたのだろう。だから瞬時に飛び出し夫の後を追ったのだ。でも、これは母の仕事。夫の手にかかってアンドレが死ぬようなことがあったら、オスカルの心が死ぬ。

それだけではなく、父娘は完全に断絶する。けれど、母は。母は神様に子のために死ぬ許しを得ている。神がそのようにお創りになられたのだ!子が親より先に死ぬことこそ自然の摂理に反する!

この数分の遅れが取り戻せるのなら、何を差し出しても構いません、どうか神様!夫人は侍女を振り切り、ドレスの裾をたくし上げて走った。

「奥様!」

セシルの悲鳴のような哀願と、騒ぎ出した使用人たち、繰り返し静粛を求める執事の指令でホールは騒然となった。夫人の後を追うセシルが階段に躓き、後に続こうとした執事が助け起こす。

その間に夫人は階段中ほどの踊り場まで進んでいた。その時である。ホールの一番玄関側に立っていたシャルルが叫んだ。

「旦那様!」

ホールは一瞬にして静まり返った。将軍が二階から緩やかにカーブを描く階段をゆっくりと降りて来たのだ。全員の注目が当主に集まった。恐ろしい静寂が屋敷を支配する中、聞こえるのはそれぞれの心臓の音ばかりだ。

夫人は追いついて来たセシルと支え合うように抱き合い、夫の姿を目で追った。将軍は深い皺を眉間に寄せ、岩のように険しい表情を動かさないまま一段一段踏みしめるように階段を下りて来る。

誰の姿も目に入らぬ様子で自分の思考の中に埋没しているようだ。夫人は夫の衣服に返り血がないことを見て取った。夫の右手にも注目する。鞘に納めた軍刀を握りしめているが、血の汚れは見当たらない。靴は?靴にも靴底にも、夫が歩いた後にも血の跡はなかった。張り詰めた神経が引きちぎれそうな間。誰も何も訊ねることができない中で、夫人は震える唇を開いた。

「あな・・・た?」

将軍は妻の声に我に返った。そして、初めてホールに主だった使用人たちが集結していることを思い出す。自分を階段下から見上げる妻の蒼白な顔には壮絶な覚悟を決めた痕跡があった。

頑固娘を捨て身で庇った忠義者と、この妻も同じことを考えていたことは容易に見て取れた。臥している乳母も、この場にいたらやはり同じ行動に出ただろうことは想像に難くない。

将軍は成り行きを固唾を呑んで見守る二十数名を数える使用人の眼差しを見渡した。誰も一言も発しないが、全員の目が同じ懇願をしている。

『どうか、オスカルさまにお慈悲を!』

何ということだ。将軍の身体は、興奮が一気に冷める脱力感を覚えた。そしていつの間にか口角を上げている自分に軽く驚く。感情の嵐が急激に凪ぎ、国王陛下からも娘の愚行は不問に付すというお達しとともに、私刑の厳禁までをも言い渡されていたことも思い出した。何と、自分も命令違反するところだったとは。

『孤立無援とはこのことだな』

将軍は自然に生じた苦笑いを噛み潰そうとした。娘の造反にはこの身が砕け散らんばかりの怒りを覚えた。これまでの人生の中で経験した中でもこれほど激しい怒りはなかったほどだ。

それなのに、かみ殺してもかみ殺しても笑いが次々と沸き上がって来る。これは一体どうしたことだろう。娘の造反は、天が頭に落ちて来たかのような衝撃だった。おまけに、最も信頼を置く使用人に刃を向けられるなどという前代未聞の事件直後だというのに。

裏切りの衝撃は計り知れないはずなのに、裏切られたという感覚が微塵もないのはどういう訳だろう。

常識的な判断を下すならば、まずアンドレは極刑だ。しかし、なぜか臓腑の中心にはどっしりとした安堵が居座っている。なぜか、自分はこの上なく安心しているのだ。その一方で、絶対であったはずの価値基準がぐらついている。

自分の周りの人間が、何故か正義と言う名の舞台から一斉に降りてしまい、自分だけが一人壇上に立っているかのようだ。己の正義のためならば、世界中を敵に回すことなど恐れるに足りぬが、己の正義そのものがおぼつかないのだ。

今はただ、アンドレの裏切りの刃がもたらしたこの不可思議な安堵感に収まりたい自分がいる。一体何が起きた?世界は自分の認識よりももっともっと広大な裾野を持っているのだろうか。

将軍は青ざめた顔で自分を見つめる妻に近づき、その手を取った。少なくとも、妻を安心させてやることは今行うべき正しい行動であることは間違いない。

将軍は鞘ごと握りしめていた軍刀を妻に黙って手渡した。娘の命は妻に返そう。何も説明しなくても、妻は理解してくれるだろう。美辞麗句は得意ではない。

夫人は軍刀を受け取ると、それを我が子のように胸にかき抱いた。将軍はそんな妻にだけ聞こえるように耳元で囁いた。言葉は、唇が勝手に発した。

「いざとなれば、儂を刺してでもあれをつれて逃げる覚悟の男が、すぐ足元におったぞ」

はじかれたように夫人は大きく目を見開いて夫を見返した。ジャルジェ家の血の徴である濃い群青の瞳は澄んだ光を放っている。

「あなた・・・」
夫の口元になぜか満足そうな笑みが浮かんだ。
「それも一興・・・よの」

夫人は何が起きたか一瞬で理解した。夫の瞳に宿る光は、自分を妻にと望んでくれた若かりし頃と全く同じ輝きだったのだ。遠い日が昨日の出来事のように脳裏に甦る。貴女を得ることなしに国の名誉と栄光を手に入れても無意味なのだと、愛を乞うた若かりし夫の姿が老いた夫の向こうに透けて見える。

夫人は思い出した。平和な家庭を礎に、積み重ねたジャルジェの使命と国王への奉仕に捧げた長い年月が、いつの間にか覆い隠してしまったけれど、夫は大義より愛を尊ぶ魂の持ち主だったのだ。

本来の魂の源泉を夫は掘り起こしたに違いない。娘の部屋で起きた何らかの出来事を通して。どうやら当の本人はその変化に気づいていないようだが。しかし数分前に娘の部屋へ飛び込んだ夫と、今目の前に立つ夫は夫人の目には明らかに別人だった。

夫は妻へ小さく頷くと、居並ぶ使用人たちの方へ向き直った。すっかり当主の顔を取り戻している。

「王宮に押し寄せた暴徒は宮内外で今夜は野宿するだろう。ネッケルの姿を確認した後は概ね落ち着いておるが、依然不穏な状態には変わりない。儂はすぐ王宮に戻らねばならんが、今夜は厳重に戸締りをするのだぞ」

デュポールが進み出て左胸に手を当てた執事の礼を取りながら答えた。
「承知いたしました」
その執事の返答を合図に、使用人たちは張りつめていた緊張を解いた。

「馬を引け!王宮に戻る!」
命令を受けたシャルルが慌ただしく玄関から出て行き、ホールに集まった使用人らはきちんと二列に整列して将軍を見送る体勢を整えた。

「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
使用人列の先頭で深々と頭を下げた執事デュポールは、変わらぬ穏やかな風儀を貫いたが、将軍の騎馬姿が完全に見えなくなるまでいつもの二倍ほどの時間をかけて将軍を見送った。そして居並ぶ使用人たちに解散を告げた。

「皆さん、お休みくださって結構ですが、緊急の呼び出しには備えておいてください。旦那さまより防衛用武器を支給されている男衆は今一度点検の上、手元に備えてから就寝するように。戸締り担当者は二重の確認をお願いします」

しかし、使用人らは誰も動こうとはしなかった。互いにちらと顔を見合わせては、二階にある次期当主の部屋を気にかけている。将軍と夫人の様子から、極刑は行われなかったらしいと推測できるものの、心配でたまらないのだ。

夫人とて実際に末娘とその従者の無事を確認したわけではない。執事は、使用人らの不安を取り除く必要を感じ、今一度口を開いた。

「わかりました。オスカル様のご様子を見てまいります。もうしばらくお待ちください」
「わたしも行きます!」
オスカル付侍女、マルタも執事に倣い、あとに続こうとした。しかし夫人が二人を静かに制した。

「わたくしがまいりましょう」

万が一オスカルが負傷でもしていたらその現場を夫人に見せるわけにはいかない。デュポールは用心深く不安を隠し、女主人の動きをさりげなく遮ろうとした。
「奥様、まずはわたくしが」

夫人は執事の懸念を察し、微笑み返した。
「大丈夫、大事にはなっていません。レニエの目を見て確信しました。けれど確認すれば皆さんも安心でしょう?もう大きな娘だけれど、ここは母親に任せてくださいな」

女主人にそこまで言われてしまうと、デュポールは静かに頭を下げるしかなかった。
「よろしくお願い致します」
「マルタ、あなたはいらっしゃい。場合によってはオイタの過ぎた娘にお灸をすえなければなりませんからね」
「はい、奥様」
夫人はマルタを伴うと、ホールで待つ使用人たちに小さく頷き、大階段を上って行った。

オスカルの部屋は静まり返り、夫人と侍女は室内にぴんと空気が張り詰めていうような気配を感じた。マルタは扉の前で小さく生唾を飲み込み、夫人は侍女を労わるように頷いた。
「大丈夫よ」
「はい」

夫人が扉をノックするべく軽く握った拳を上げた。しかし、その手は空中で止まり、夫人と侍女は目を見合わせた。扉の向こうからオスカルの声が聞こえたのだ。内容は聞き取れなかったが、普段聞き慣れた切れのよい声とは様相が違った。心からほとばしり出るような声だった。

やはり何かあったのだろうか。夫人と侍女は慌ただしく部屋の主に呼びかけようとした。するとそれより早く、再びオスカルの声が扉越しに聞こえた。今度ははっきりと聞き取れるひたむきな叫びだった。

しつけの行き届いた侍女は静かに一歩下がった。夫人は大きく息を吸い込むと、心を一落ち着かせるように長く吐いて目を閉じた。部屋の中は、はかすかに足音がしたのち再び静まり返った。

『行きましょう』
夫人の無言の促しに侍女は頷き、静かに娘の部屋に背を向けた女主人のあとに従った。目頭の奥に熱いものが込み上げ、侍女のスカートにひと粒ふた粒としずくが落ちた。夫人はゆっくりと振り向き微笑んだ。

「ありがとう、マルタ。今夜はこのままお下がりなさい」

階下では次期当主の無事を祈る仲間が良い知らせを今か今かと待ち受けている。夫人は階段上で立ちすくむマルタを残してひとりホールへ降りて行った。マルタの頬を落ちるしずくは流れに変わりしばらく止まりそうもなかった。こんな顔で仲間の前には出られない。

『わたしは何があってもオスカルさまの味方です』

マルタは夫人の後ろ姿に頭を下げた。夫人はおそらく、そんなマルタの心情を知っている。さきほどかけられた『ありがとう』に込められたあらゆる意味をマルタは余すことなく理解した。泣き顔を仲間に見られないように、暗がりを選んで自室へ向かうマルタの背後で、安堵に沸く仲間の様子が目に見えるようだった。

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