見送る者達2

2019/07/14(日) 原作の隙間1789.7月
デュポールは次期当主から依頼された通り、5通の推薦状を書き上げた。封蝋が乾くのを待って重要書類入れに仕舞おうとしたところでがっくりと肩を落とした。うっかりジャルジェ家の印章を押してしまったことに気づいたのだ。

老執事はやれやれとうなだれるとすべての封筒から封蝋を剥がし、書状を新しい封筒に入れなおした。これら推薦状は私文書なのでデュポール個人の印章で封印すべきものだ。

主家の名の下で発行する文書は、主家の品格を現す鏡だから、誤字、染み、乱れを見逃がさないように必ず明るい環境で作成すること。長年自分に課した規律のひとつであるが、書斎の明り取り窓のカーテンを開けるのを忘れていた。

目覚まし用に入れてもらったカフェも忘れ去られ、冷めたまま机の端に乗っている。老人は改めて封印をやり直し、頬杖をついたまま蝋燭の焔がゆらぐさまをぼんやりと眺めて封蝋が乾くのを待った。

八十路を超えてなおすっきりと背筋を伸ばし、秩序正しく綿密な家政管理で絶大な信頼を得ている執事にしてはめずらしい緩みようだった。


頃合いを見て、執事は書類を片付けようとして愕然とする。またもや同じ間違いをしでかしている。

彼の手は、精巧なからくり時計が繰り出す人形のように同じ手順で主家の紋章を手に取るようになっているのだ。

『まったくどうかしている。心ここにあらずとはこのことだ』


やりなおすこと三度目にしてようやく自分の姓の頭文字を冠した印で封印すると、老執事は深いため息をついた。

彼の手元には次期当主が自ら書いた推薦状が数通置かれている。デュポールが書いた推薦状と共に有事の場合には確実に青年の手に渡るよう手配すること。念のために写しを公証人にも預けておくこと。次期当主は幾度も念を押した。



法服貴族の三男に生まれたデュポールは自活のために高等法院で秘書職を得た。そこで前ジャルジェ家当主に資質を認められ、執事見習いとしてジャルジェ家と雇用契約を結んだ。もう約50年も昔のことだ。

見習い期間10年と、執事として10年が過ぎた頃、ジャルジェ家の運営を一手に引き受ける家令が老齢を理由に隠居する運びとなった。それをきっかけに、ジャルジェ家では家令と執事の業務を一本化する話が持ち上がった。

華美な社交生活を好まないジャルジェ家では舞踏会やサロンなど執事が取り仕切るべき社交上の仕事は多くない。それならば、家政運営と領地管理を一人の人間が統括する方が効率が良いという結論が下されたのだ。

デュポールは役職としては執事のまま、事実上の家令として将軍家の運営のすべてを引き継ぐことになった。

特別に意図したわけではないが、デュポールはジャルジェ家のために独身を通し、主家の運営は人生のすべてとなった。私人としての自分の顔を思い出すのは就寝前、鏡の前で鬘を外す一時くらいだった。

そんな彼に次期当主はジャルジェ家執事としてではなく、デュポール個人名で推薦状を書いて欲しいと依頼してきた。しかもあろうことか、デュポールが自身の後継者と見定め、主人の許可を得た上で長年教育を与えた青年の推薦状をだ。

『どう考えてもあいつの力量と人柄を正しく余すことなく評価できる人物はおまえだ。どうか、おまえが後継者見習いを雇用するとしたら候補者の何を知りたいか、それを想定して推薦状を書いてはくれまいか』

現当主に生き写しの美しい次期当主は多くを語らなかったが、生まれた時からデュポールが慈しみ見守ったジャルジェの血筋を濃く受け継ぐ群青の瞳は雄弁だった。デュポールが自分の後継者として手塩にかけた男を他職に推薦する文書を書く。それが老執事にとって辛い仕事であることを理解した上で依頼していることは聞かずともわかる。

『案ずるな。なあに、ジャルジェ家がお取り潰しにでもならない限り使うことはない万が一の準備だよ。おまえが育て上げた男だ。もしもの時にはできる限り良い条件で次職を与えてやりたいだろう?』

次期当主はそう明るく笑ってウィンクして見せた。しかし、ジャルジェ家が取り潰されたくらいで、あの青年は次期当主のもとを去りはしない。万が一の備えなど、ただの題目に過ぎないことは明白だ。

次期当主にしても、そんな理由で自分を納得させることができるとはつゆほども考えていないだろう。つまり、彼女は『何も聞かずに協力してくれ』と頼んでいるのだ。まるでワインリストの追加を注文するかのごとく気安く振る舞う次期当主には、何か悲痛な決意がありそうだった。

ジャルジェ家のために家族を持たない選択をしたデュポールだったが、持てる愛はすべて次期当主と忠実な従者である青年に注ぎ込んだ。もし我が子がいたらかく愛したのではないだろうかと思う。

独身でありながら、我が子のごとく愛する対象を持つことができた。その幸福がどれほど己の人生を豊かに彩ってくれたことだろう。神に与えられた無形の財産にどれほど感謝を捧げたことだろう。

その彼らに何かが起きようとしているというのか。次期当主は何故か彼の次職を視野に入れている。青年が主人の元を離れる可能性とは何だ?そう自問したデュポールの背筋にぞくりと冷たいものが走った。

彼らを引き離すものがこの世にあるとすれば、死以外にあり得ない。では、次期当主は己の死を予感している?デュポールは愕然として他の可能性を探すべく、己の持つ記憶の全てを掘り起こそうとした。

探せ、探せ、必ず何か他の理由があるはずだ!二週間ほど前に起きた現当主と次期当主の衝突は記憶に新しい。あの出来事が関係していないはずはない。

将軍は本気で我が子を成敗しようとしていた。一体どう説得したのか、青年の取り成しで一旦は刃を収めた将軍だが、父娘の間には越えられない信条の違いが存在することがはっきりと浮き彫りにされた出来事だ。

しかも双方が命がけで貫こうとする程の信条ならば、これからも衝突は避けられまい。そうか、見えたぞ!デュポールの脳内でもうひとつの可能性が姿を現した。どちらも譲れぬ父娘なら、無駄に差し違えるよりは袂を分かつことを選ぶだろう。

次期当主は青年と共にジャルジェ家を離れる可能性を考えているのだ。そう考えると、青年のとある行動の説明もつく。次期当主に推薦状を依頼される少し前、青年は彼が所持している株券や債券を全て動かしたのだ。

青年には家政運営と経理だけではなく領地管理の一環として資産管理や投資運用を折あるたびに教え、彼個人の給与の大部分を半ば強制的に貯蓄させ、実践学習の意味で投資運用するよう指導してきた。

投資は自分の金で実践しない事には習得できないからだ。結果、青年は長期的視野でリスクを分散させた堅実な投資を忠実に実践している。自分の教えた通り、昨今の政情不安に対応するリスクを分散させるために資産を再配分をしたのだろうと思っていたが、次期当主に従ってジャルジェ家を出る準備だとしたら?

老い先短いこの身に怖いものはない。生涯の忠誠を誓った将軍に従い、ジャルジェ家が時代の波にどのように飲み込まれようと運命を共にする覚悟はできている。時代の転換期にどちらの波に乗るべきか。そんなことは誰にもわからない。人知を超えた歴史の意図など人間の短い一生のうちに見切ることなどできないのだ。

ジャルジェ将軍は一度、次期当主である末娘を震撼する時代の波から守るべく、安全な家の中に逃がそうとした。しかし、歴史の嵐が到来した時、果たしてジャルジェ家は安全なのか。

デュポールの愛する二人はジャルジェ家を離れることで沈みゆく船から脱出することになるかも知れない。そうでないかも知れない。わからないのであれば、心の命ずるままに動けばいい。

言うほど容易くはないその決断を下す勇気を次期当主は持っている。愛しい者を見送るのは寂しいが、自分の立場からできる事と言えば、何が起きようとも最後まで見守るのみ。その時が来たら、自分は古い船の甲板から彼らの船出を見送ろう。

デュポールは封書をジャルジェ家保管用と公証人委託用に分けてファイルし、所定の書棚に収めると客間の準備を指示するために立ち上がった。

午後にはジャルジェ家専任公証人であるヴァランス氏が来訪する予定になっているからだ。次期当主が自ら召喚した。その公証人と会うために、忙しい次期当主は軍務をやりくりしてもうじき帰宅する予定である。

今日の用件は遺言状の更新と聞いている。軍籍に身を置く以上、領民の生活と安全と経済発展に責任を持つ立場である当主と次期当主は、万が一の事態に備えて定期的に遺言状を更新する。

それは領主として果たすべき責任の一環であるから、そのこと自体不自然ではないのだが、近衛連隊長に就任した時に特例で受領したアラスの領地は、未だ後継者のいない次期当主に万が一の場合、彼女の従弟に当たる伯爵が引き継ぐことが去年の暮れに決定されたばかりだ。

サリカ法を採用するフランスに女伯爵は本来存在し得ないのだが、爵位を持たない近衛連隊長はあり得ないという見地から、一代限りという制限付きで認められた特例だった。

受領当初からわかっていたことであり、特に問題は無いはずだが、このタイミングで更新する遺言書の意図はどこにあるのか。それを考えると、デュポールはもうひとつの可能性の存在を思わずにはいられなかった。

老執事は思わず歩を急いだ。客間の準備にかかる前に礼拝堂で祈りを捧げるために。

スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。