万聖節が来る前に 3

2018/11/21(水) 原作の隙間 1762晩秋

ジャルジェ邸の東翼屋根裏は、もとはジャルジェ将軍が女ばかりの中、一人息抜きしたい時に時間を過ごす場所だった。時に圧抜きが必要だったのだ。その場所はいつしかオスカルに伝授され、父と同じような理由で身を隠したい時に使うようになっていた。アンドレはジャルジェ家に引き取られて間もなく、オスカルによってそこに招き入れられた。

特に父と約束したわけではなかったが、東翼屋根裏は女たちには口外無用のいわゆる「男の秘密基地」だった。従って、マロン・グラッセが心配して二人を探し回り始める前に「基地」から出ることは、秘密を秘密のまま保持するために厳守すべき重要事項だった。結局、二人が腹を割って話をする機会は翌日に持ち越された。

「つまり、おまえの母上が万聖節に帰って来るかも知れない、と言う事か?」
「うん、もしおばあちゃんの言うことが本当ならね」

昼食後、オスカルの家庭教師が午後の授業を始める前のわずかな時間、二人は執事のデュポールを探して図書室に向かって走っていた。

「とにかく、我が家で一番話が通じるのはデュポールだ。物知りだし、調べ物も上手い」
「笑われないかな」
「心配ない!顔はいつも笑っているけどな。あ、デュポール!」

開け放してあった図書室に飛び込むな否や、オスカルは目的の人物を発見しアンドレの手をぐいと引いた。天井まで埋め尽くした書架を背に、大きなマホガニーのテーブルの上で分厚い本を開いていた痩身初老の男もオスカルに気が付いた。

控えめなカールが二段ついた白いかつらに黒いリボンでまとめたお下げ、ジャルジェカラーである濃緑の細身のアビをしわひとつなく着こなし、磨き上げ、くもりひとつない眼鏡をかけた隙のない姿のジャルジェ家の執事だ。

執事は、跡取り娘の姿を認めると、まるで床が氷面であるかのように音なく滑らかに椅子を引き、すっと立ち上がった。

「オスカルさま、どうなさいました?」
オスカルの言う通り、デュポールは誰がいつ見ても笑い顔に見える、とアンドレは感心した。
「知りたいことがある」
「ほーっほっほ、今日は何がオスカルさまのご興味を引いたのでございましょうな」
執事は嬉しそうに笑いジワを顔中に広げた。その口ぶりから、オスカルがたびたびいろいろと質問を浴びせているだろうことが察せられる。オスカルが物知りなのはこういうことなんだ、とアンドレは重ね重ね感心した。

「万聖節の前の晩に、ほんとうにあの世の扉が開くのか、ご先祖様がほんとうに帰って来るのか知りたい」

ほーっほっほっほ、と笑った形で口を開けたまま、執事は眼鏡に手を添えた格好で静止した。アンドレは思わず身をすくめた。執事デュポールが柔和で朗らかな人物であることは、すでによく知っていたが、さすがの執事もこの質問には眉をひそめるのではなかろうか。

オスカルは、アンドレの懸念など意に介する素振りも見せず、しっかりしろと言わんばかりにアンドレの手をぎゅっと握った。デュポールは眼鏡の位置を何度も調節してから、跡取り娘と目線を合わせるために跪いた。利発そうな眉をきっと上げ、瞬き一つせず自分を見つめるお嬢様はこの上なく真剣である。

「オスカルさま、それはマロンが秋の大掃除の時によく言う口癖が出どころですかな?」
「そうだ!」

ふむ。デュポールは跡取り娘と彼女がしっかりと手を引いているマロン・グラッセの孫息子を代わる代わる観察した。小さな次期当主の方は頬を上気させ、射るような眼差しで仁王立ちしている。質問に来たと言うよりは、可憐な姫を背後に庇って立つ王子様のようだ。

一方、可憐な姫の役どころを得た少年からは、別のボディランゲージが見て取れた。『こんなことになってごめんなさい、執事さん』何とも愛らしい組み合わせではあるが、笑って子ども扱いするには二人とも健気過ぎた。

少年がジャルジェ家引き取られて初めて日曜の礼拝に参列した時、他家の子弟に乱暴されたことがあった。オスカルが同年代の少年らと交わる数少ない機会である日曜のミサで、上等の服を着せられてはいても立ち居振る舞いが場違いに垢抜けない少年が、揶揄いの恰好の餌食になったのだ。

お嬢様は当然大立ち回りをやらかして少年を守った。ところが、帰宅してから別の災難が少年を襲った。ジャルジェ家の侍女頭という立場上、孫に厳しくせざるを得ないマロンが、泥のついた礼拝用の晴れ着と頬にひっかき傷をつけて帰ったオスカルを見た途端、少年を激しく叱りつけたのだ。

そんなことがあってから、次期当主はすっかり少年の庇護者たらんと頑張っている。

少年は少年で、人の心の機敏を感じ取る能力が高いらしく、マロンの立場と次期当主の間でいかにバランスを取るか、苦慮している様子が見て取れる。自分の立場をいち早く察した少年の聡明さにはデュポールも驚いたが、母を亡くして間もない子供には過分な試練だろう。


「それで、マロンは何と言っておりましたかな?」
デュポールがふたりの子供に問いかけると、オスカルは斜め後ろに立つアンドレを振り返り見た。アンドレは申し訳なさそうに肩を縮めながらも、執事にまっすぐ目を合わせて来た。

「はい、おばあちゃんのおばあちゃんがそう言っていたそうです。だからおばあちゃんのおかあさんも、万聖節前には大掃除を済ませていたって、あ…いいえ、いたそうです」

まだ慣れない言葉遣いを精一杯使って答えるアンドレは教わった通り、背筋を伸ばして顎を引くことも忘れない。『呑み込みの早い子だ。日に日に所作が洗練されて来る』デュポールの笑い皺は自然と濃くなった。

「そして、それ以上のことはマロンも知らない。そんなところでしょう?」
「うん…は、はい!」
「多分マロンのご先祖さまはゲール人の系列だったのでしょうね。だから家族の間でそんな言い伝えが残っていたのでしょう」
「ゲール人?」
「西ヨーロッパに広く住んでいたゲール語を話す古い文化を持つ民族ですよ。今ではわたしたちフランス人の祖先のフランク人と交じり合っていますから、わたしたちの中にもその血が流れているかも知れませんね」

ふたりの子供が身を乗り出したので、デュポールは客観的事実だけを語ってやることにした。あの世の扉のことをただ否定しても彼らは納得できないだろうし、もともと証明できる類のものではない。事実を元に、自分なりの結論を出すしかない。

「ほーっほっほっ、それではちょいと調べてみましょうかね」
デユポールは立ち上がり、ポケットの中に手を入れた。じゃら、と鍵束の音が鳴り、オスカルがアンドレを振り返って得意そうに鼻をひくつかせた。

「鍵付きの書架には百科全書があるんだ。発禁本だぞ!」
「発禁本?」
「ほーっほっほっ、その昔に一時的に発禁扱いされたことがありますけれど、今は違いますよ」

それでも、次期当主にとっては垂涎ものの冒険本に見えるのだろう。神学が扱う精神論では答えてくれない自然科学の疑問に、しばしば解決を与えてくれる百科全書見たさに、何かと質問を考えてはデュポールのもとに走って来るのがお嬢様の日課のひとつだった。

数か月前に少年がジャルジェ家にやって来てからは、期待以上に馬が合った新しい友達と親睦を深めるのに忙しくなった嬢様はぱったりとデュポールのもとに訪れなくなっていた。久しぶりにやって来たオスカルは少年の手をしっかりと握りしめ、知的好奇心を友達と分け合える喜びに興奮を隠せない様子だ。

『ふたりで頭を突き合わせるようになって、これから増々やっかいな質問が増えていくのでしょうね』
デュポールは『やっかいな』楽しみが増えていくであろう予感に心から微笑んだ。


デュポールは、百科全書を始め、梯子を使ってあちこちの書棚から抜き出した書籍を参照しながらゲール人、つまり北西ヨーロッパに広く住んでいた騎馬民族の末裔の歴史を目をきらきらさせた子供たちに話して聞かせた。彼らは勇猛で戦闘好きだったがローマ帝国やゲルマン人に支配された。その詳細はラテン語が読めるようになればガリア戦記で知ることができると聞いたオスカルは興奮に沸いた。

キリスト教より古い土着の宗教を持っていたゲール人は、キリスト教が普及したのちもその文化を口述で継承していたので、今でもその風習が生きている地域がある。年に一度、あの世とこの世の堺が繋がると信じられており、帰郷する死者を迎える風習サウィン祭もそのひとつであった。マロン・グラッセが家族から伝承したご先祖さまの里帰りとは、そのことである可能性が高い。

カトリックでは700年ほど前に諸聖人の日(万聖節)の次の日が死者の日と定められたが、あくまで死者のために祈りを捧げる日であり、死者が帰郷するという概念はない。一説では異教の祭りサウィン祭を封じ込める目的で時期を重ねたと言われている。

オスカルもアンドレも食い入るようにしてデュポールの話を聞いた。執事は一通り語り終えると重い本を閉じ、顔全体で笑った。
「お役に立てましたかな、オスカルさま、アンドレ」

オスカルとアンドレは再び廊下を疾走していた。走りながらも会話が切れることなく弾む。午後の勉強の時刻まであと数分。それすらふたりには貴重な時間だった。

「すごいね。あの本の中には世の中のことが全部書いてあるのかな」
「全部じゃない。考えてもみろ、世の中のことを全部知っている人間がいるもんか。それじゃ神と同じになってしまう」

初めて百科全書なるものをその目で見たアンドレの素直な感想はあっさりと切って捨てられた。しかも、なぜ神と同じになってしまうのか、アンドレには皆目わからない。このお嬢様の頭は回転が速すぎて、会話のスピードが追いつかないことがままあるのだ。アンドレは眉間に皺を寄せ、それでも必死で追いつこうと試みた。

世の中のことを全部本に書く→つまり世の中のことを全部知っていなければならない→知っているとしたら→全知全能→全知全能なのは神様だけ→あの百科全書を書いたのは人間→ということは…全知全能では無い訳で→すべてが書いてあるわけじゃない。そうか、わかったぞ。オスカルが言ったことはそういうことか!

「そうか!わかったよ、オスカル」

頑張って結論に達したのはいいが、アンドレは考えながら全力疾走は出来なかったので、数十歩はオスカルに後れを取ってしまっていた。はるか先を走るオスカルには聞こえなかったようだ。家庭教師より先に勉強部屋へ入っておくのはオスカルの矜持なのだ。アンドレは中庭の回廊の先に姿を消そうとしているオスカルを追いかける気力を無くし、呆然と見送った。

やっぱりすごい子だよなあ。ひとつ年下なのに、あんな考えがぱっと出来るんだから。がっくりと肩を落としたアンドレは向きを変えた。オスカルはこれから算術の勉強だ。だからと言ってぼんやりしていたらおばあちゃんに叱られるから、何かお手伝いがないか聞きに行こう。

そう考えたアンドレは厨房のある本棟裏へ近道しようと、回廊の手すりの間をすり抜けて中庭に出た。しかし、何歩も進まないうちに後ろからむんず、と首根っこを掴む者がいた。

「オスカル!」
「どこへ行く」
「どこって、おばあちゃんの手伝いを…」
「全く、足の速い奴だな」

違うよ。早いのはオスカルじゃないか、どこまで行ってから戻って来たんだよ、と反論する暇はなかった。

「今日からおまえも一緒に授業を受けるんだ」
「え~っ!そんなこと聞いてないよ」
「当たり前だ、今決めた」
「な、何で?」
「おまえ、大人になったら執事になれ」

アンドレは大口を開けて絶句した。この小さな金色の頭の中でいったい何がどうなってそうなったのか、ついて行けないのは宿命と思って諦めるしかないのだろうか。目を白黒させるアンドレの腕をオスカルは構わず引っ張った。

「執事はジャルジェ家の重要な鍵を全て持っているんだぞ!書庫だって、武器の部屋だって、ワイン貯蔵庫だって、金庫だって!おまえが執事になれば、好きな時に好きな扉を開けられる!発禁本だって真剣だって自由に触れるんだ。いい考えだろ?待ちきれないな!だからおまえは勉強しなくちゃいけない。善は急げだ」

引っ張られながら、徐々にスピードを上げていくお嬢様の足手まといにならないよう、アンドレも必死で走った。何かがオカシイ気がした。

僕が執事になったとしても、それは大人になってからの話だよね。それならオスカルだって大人じゃないか。それでもオスカルは僕に鍵を開けてもらうのかな?それって変じゃない?でも何がヘンなのかわからないよ。

走りながら考えると、またスピードが落ちてお嬢様にどやされそうなので、アンドレは仕方なしに頭の中を空にして全力で走った。

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