「考えたこともなかったな、そんなこと」
お嬢様は眉間にしわを寄せ、首を捻った。
「ご先祖さまをほうきで掃き出しちゃいけないから、万聖節の前までに掃除を済ませろって毎年言っているからな。口ぐせだと思っていた」
「本当だと思う?あの世の扉が開いて死んだ人が帰って来るって」
「うーん」
ふたりの子供はジャルジェ家の屋根裏に避難していた。屋敷中が窓を開け放して大掃除中で寒かったし、温室は居心良く暖房されていたが、オスカルが姉たちを相手に長時間を耐えられるはずは無かった。
オスカルはカツカツと軽快な足音を響かせながら、屋根裏部屋の隅から隅まで何度も往復しながら考え込んでいたが、突然立ち止まると、古いテーブルに腰かけて足をぶらぶらさせていたアンドレを振り返った。
「うっかり聞くあいてを間違えるとたいへんだぞ」
「そう…かな」
「あの世の専門家と言えば神父だが、真面目に答えてくれるとは思えない」
「そうだね、賛成」
「異端審問されるかもしれないぞ」
「えっ?それは困るよ」
「ばあやがどこでその話を聞いたのか、聞いてみるのが一番だが」
「今日は無理だと思う」
「だろうな」
「万聖節が終わるまで無理じゃないかな」
「ばあやは我が家の司令塔だからな」
アンドレはぴょん、とテーブルから飛び降りて窓際に立った。ジャルジェ家の4階に当たる屋根裏からは堂々たるヴェルサイユ宮殿の正門が視界に入る。晩秋の夕暮れは早い。ぽつぽつと正門から宮殿に続く沿道には松明が灯され始めたところだ。照明を受けて黄金に輝く門を見ても、アンドレが思うことは本日の重要課題だった。
あの門の奥にあると言う巨大な宮殿でもやっぱり今日は大掃除をしているんだろうか。そうだとしたら、一体ほうきは何本使うんだろう。ゴセンゾさまとやらが帰って来るのは、ここが王さまの住む街だからなのか、オスカルのような特別な家だけのことなのか、それとも懐かしい狼谷村でも同じことなのか。
村では万聖節の前夜にはおばけが出る、という噂を聞いたことがあったっけ。そんな話を友達としていたら、そうだ、神父様に怒られたんだ。それは異教の言い伝えだから面白がって話してはいけないって。
神父様にあの世の扉の事を聞くわけにはいかない、ってオスカルが言うのはそういうことなのかな。異端者になっちゃうのかな。でも、もしあの世の扉が本当に開くなら、絶対に確かめたいことがある。異教の話だって何だって関係ない。誰に怒られても構うもんか。
死んだ人はほんとうに帰って来るの?
だとしたら、母さんは、次の万聖節前に帰って来る?
母さん、会いたい。どんな姿でもいいから、会いたいよ。
もし母さんが帰って来るなら、母さんはひとりぼっちだ。狼谷の家には誰もいない。せっかく帰って来たのにどんなにか寂しがるだろう。ぼくがいなくて、どんなにか心配するだろう。ほんのちょっとでいい。狼谷村の石の家に帰って母さんに伝えなきゃ。ぼくはここにいる。ベルサイユの、オスカルのお屋敷で元気にしている。だから心配しないで。
「おい、アンドレ!」
「うわっ!な、なに、オスカル!」
心を故郷の狼谷村に飛ばしていたアンドレは、すぐ耳元で名前を呼ばれ、我に返った。
「また、ぼんやりか。せっかくたっぷり遊べると思ったのに、おまえがそんなでは台無しだ」
「ごめんごめん、ぼくが村で遊んでいた陣地取り合戦のやりかたを教えるんだっけね」
「それは後でいい。ほかの事に気を取られているやつに『遊んでもらう』のはまっぴらだ」
オスカルは、心なしかぽっと頬を染めてぷいっと横を向いた。女の子みたいだ、…女の子だけど、とアンドレは可笑しくなった。マリー・クリスティーヌもよくこんなふうにすねたっけ。一番に遊んであげると機嫌がいいけど、誰かの次になっちゃうとふくれるんだ。
それで、ごめんね、こんどは一番に遊ぼう、と言うと必ずこう言うんだ。
『ごめんってなんのこと?あたし怒ってないもん』って。怒ってない、って言いながら怒る子って『ごめん』を聞いてくれないから困るんだよなあ。それでもアンドレは努力してみた。
「ほかの事は後にするよ。ごめんね、遊ぼうか」
「ぼくは怒ってない!ごめんとか言うな!」
出た!あまりにも予想通りの反応を返して来たオスカルに、アンドレは笑い出した。
「笑うな!何が可笑しいアンドレ!」
「あははは、だって!」
友達の女の子と同じなんだもの、は言わない方がいいだろうことは容易に思いついたので、アンドレは両手で口を塞いだ。
「ふん、笑いたければ笑えばいい。何だよ、人がせっかく相談に乗ってやっていたのに」
オスカルは今度こそ、本気で怒ってしまったようだ。もうごめんも言わない方がいいだろう。それにオスカルの言う通りだった。祖母は聞く耳を持たず、誰にも相談できず、途方に暮れていた時に、オスカルだけがアンドレの涙に気づいてくれたのだ。
「そうだったね、じゃあ、相談に乗ってくれる?」
ぷいと横を向いたオスカルの眉がひくひくと動いた。怒ってはいるが、その場を立ち去ろうとするでもなく、偉そうに腕組みしたポーズが『おまえの出方を待ってやっているんだぞ』と言っている。アンドレの心の耳に祖母が呪文のように唱える『立場をわきまえてお相手するんだよ』が響いたが、今回は無視することにした。日に日に無視する特例が増えて来ていることもこの際無視である。
「ぼくは使用人だから本当はいけないんだろうけど、ちゃんと話を聞いてくれたのはオスカルだけだから」
つん、と天井を睨んでいたオスカルの瞳がゆっくりとアンドレの方へ動いた。怒った肩がじりじりと下がって来る。腕は組んだままだが、体の向きもアンドレの方へ回り始める。
「あの世の扉のこと、どうしても知りたい訳があるんだ」
オスカルの組んだ腕が肩からぶら下がった。瞳はもう怒ってはいなかった。それどころか、心持ち、鼻の頭がほんのりと染まっている。形の良い唇が何か言いたそうに開いたが、思い直したように一文字に引き結ばれた。
そして、アンドレを見つめていた視線を一度足元に落としてから、オスカルはもう一度アンドレと目を合わせた。今度は頬までが薔薇色に染まっていて、アンドレは改めて何て可愛い子なんだろう、とぽかんと口を開けて見とれた。
「話を聞く、と言ったろう?」
「うん」
「泣くほどの訳があるんだろう?」
「うん…恥ずかしいけど」
「ぼくは、おまえが悲しいのに、無理に遊ばせたりなんかしないぞ」
「わかった」
「おまえと遊ぶのは楽しい。だけど、ぼくだけが楽しいのはいやだ」
「でも…ぼくは使用人だから…おばあちゃんが…」
「ばあやとぼくの考えはちがう。おまえだってそうだろう?」
「それはそうだけど」
「だから!」
オスカルの鼻と頬はすっかり染め上がっていた。興奮して繰りだす言葉のひとつひとつが白い息に変わってから空気の中に消えていく。太陽は雲の向こうに隠れたまま、落日しようとしていた。気温は急激に下がりつつあったが、二人の子どもの周りだけは熱気に包まれていた。
その熱に浮かされたようにオスカルが叫んだ。
「おまえが楽しい時はぼくも楽しい。おまえが悲しい時は、ぼくも悲しくなる!」
自然に飛び出たこの言葉は、オスカル自身をも驚かせた。気が付けば両手は固く拳を握り、肩で息をしていた。アンドレはまん丸に目を見開き、口をぽかんと開けて、真っ赤に上気したオスカルを見つめた。
鈍色の雲で埋め尽くされた晩秋の夕暮れ、屋根裏の小さな窓はもう明り取りの役目を果たしてはいない。窓ガラスの向こうには宮殿に向かって並ぶ松明が一層明るく沿道を浮かび上がらせているが、互いの表情はぼんやりとしか見えなくなった。アンドレは興奮したオスカルの正面に立った。ふたりの息が白く交じり合う距離だ。
「寒いね」
アンドレはオスカルがしっかりと握りしめた拳を両手で包み込み、はあーと息をかけて温めようとした。二人とも手は冷たかったがアンドレの心には温かいものがふくふくと広がっていく。
「寒くなんかない…」
強がるオスカルは握られた手を引っ込めようとしたが、アンドレはさらに強く握り返すと言葉にも力を込めて言った。
「ぼくもオスカルと同じ気持ちだと思う」
「…!」
オスカルは引っ込めようとしていた手の動きをぴたりと止めた。アンドレは一歩近づいて自分の胸にオスカルの手を導くように当てた。
「おばあちゃんは怒るかもしれないけど、それでもいいや。ぼくもおんなじ気持ちだよ」
薄闇の中、オスカルは俯き、暫くしてからゆっくりとアンドレを上目遣いで見た。二人の手は握り合ったままだ。
「それなら…」
オスカルがギュッとアンドレの手を握り返して来た。冷たかった二人の手はじんじんと芯から温かくなって来た。
「聞いてやる」
「うん、あのね」
夕闇がすっかり二人を包み、もう互いの泣き笑いを見分けることすら出来なくなったが二人とも気にしなかった。寒さも気にならなかった。