花嫁のパパ 7 ★New★

2026/08/03(月) 18世紀パラレル


衛兵隊兵営の食堂で、薄汚れたテーブルに肘を預けたアラン・ド・ソワソンが頭を掻きむしっている。その周りを遠巻きにした1班のメンバーはじりじりしながら班長が結論を下すのを待っていたが、痺れはとうに切れていた。

「4班のジャック・ペシュールも聞いたって言うぜ。8班のクロード・ヴァニュエもそう言ってた。ヤバいんじゃないか?」
「ア、 アンドレにきけば、わ、わかるんじゃ」

こっそり囁いたつもりだったが、班長の怒りの導火線に火をつけるには十分だった。力任せにぶっ叩かれたテーブルが大轟音をたてる。
「アンドレにはぜってえ構うな、ジャン!」

小刻みにぴくつく背中を班員に向けたまま、アランは荒い息を繰り返している。生唾を飲み込んだ兵士達はざわっと一歩引き、アランは重そうな頭をゆらりとゆすりながら立ち上がった。

「わかったよ、おれが隊長に確認してきてやる。ったく性懲りもなくまたかよ!」

いらつきを隠そうともせず、だるそうに額にかかる髪を掻き上げた班長の三白眼が班員達をねめつける。白目には赤い火花のような血管が走っていた。夜勤明け、普段なら速攻寝床に潜り込み、鼾をかいているはずの早朝。

軍靴の踵を引き摺りながら、食堂を出て行くアランの肩はいつもの倍は怒っていた。軍人あるまじきダレた靴音が廊下を遠ざかっていくのを確かめてから、フランソワは小声でユラン伍長に耳打ちした。

「隊長に聞くのは良くて、なんでアンドレはだめなんだろ」

隊員とすれば、隊長に直談判するより、隊長のことなら何でも把握しているアンドレに真相を聞く方がよっぽど心安らかである。ユランはやれやれと肩をすくめ、少年っぽさ丸出しの青年に解説してやった。

「そりゃ、噂が本当ならアンドレがまた地獄を見ているわけだろ。そのあいつを下手に刺激してみろ。隊長が怒り狂う。ぶっ飛ばされるのがオチだ」

フランソワとピエールは目を合わせ、頷いた。確かに。互いのことになると、我を忘れるのが二人の恒例行事だったっけ。

「でもさ、隊長に真相を問い詰めたりしたら、結局アランがぶっ飛ばされるんじゃない?」
「かもな」
「アランってさ、アンドレ庇ってんのかな。いったいどっちが好きなんだろう」
「あいつは…」

ユランは親指と人差し指で、ざらついた夜勤明けの顎をさすった。アランはつまり、二人ともが好きなんだろうな。

「あいつは、苦労性なやつだよ」


***


「今、何と言った?」
「根も葉もない噂にしては、複数の隊員が庭園警備の際に耳にした内容が一貫しています」

オスカルの背中を冷たい汗が流れた。突然押しかけて来た部下の報告が、司令官室で耳にするにはあまりにも場違いだったからではない。

生涯聞きたくない内容だったのである。

「わたしの結婚が…決まっただと?」
普段なら練兵場の隅々までよく通る、深いアルトでコマンドを飛ばすオスカルの声が、縄が軋むように掠れた。

「とぼけていらっしゃるのですか?」
反抗的な返しをしてみたものの、上官の青ざめようはそうではないことを物語る。

「しかも、王家が主催する…?」
「庭園の迷路ではその話題で持ちきりっすよ」
「相手は誰だ!」

それを聞きに来たんですが。の一言を飲み込んでしまうほど、美しい上官の眼力はアランを射殺さんばかりに貫いた。今にも腰に帯びた剣の柄に手をかける構えで。

いやいや、貴女のターゲットはおれじゃありませんよ。アランは知らず両掌を上官に向けて降参ポーズで固まった。

上官もはっと我に返ると、どさりと力任せに椅子に落下し、長い脚と腕を荒々しく組んだ。衛兵隊に転属して2年目、荒くれ兵士のボスらしい男っぷりにますます磨きがかかった優美な元近衛連隊長に、アランの心臓の奥が鈍く痛む。

「王家が乗り出すほどの相手となれば、よほどの家柄か下手をすれば王族の誰かではないかと、謎解きが花盛りですよ。隊長、本当に知らないのですか?」
「知らん!」

乱暴に言い捨てると、オスカルは眉間を拳で押さえ、長く嘆息した。とにかく確認をとらねばなるまい。ただの噂であっても、アンドレの耳に入れたくなかった。その前に潰してしまわねば。

だが、もし事実だったら?閉じた目蓋の裏が白く発光し、オスカルは強烈な目眩に襲われた。どことなく不自然に機嫌の良い父の様子、アンドレの覇気のなさ。部下の持って来た噂話と実に綺麗な一本の線で繋がっている。

おのれ、くそ親父め、一体何を謀った。

王家を抱き込むことで、わたしの牙を抜けると思ったら大間違いだ。ふざけた求婚舞踏会を潰したやり方が手ぬる過ぎたか、懲りていないのか。見ていろ、必ず阻止して見せる。だから、心配するなアンドレ。

アランの背筋に悪寒が走った。ギリシャ彫刻より整った顔立ちは微動だにしないのに、凍りついた面から凄まじい怒りの青い焔が立ちのぼっている。突風が吹いたように金髪が竜の尾のように逆巻いたのは幻視か?

竜なんて見たことないがね。それより、人間はここまで怒れるのか。怖い。

いっそ、教練中のように眉間に皺を寄せ、眉を逆立てて怒鳴って欲しい。乱れた隊列に吠えまくるあなた。今となりゃ、あれがめっちゃ可愛らしく見えるぜ。

おうよ、今わかったよ、悪かったな。

かつて、『てめえらにオスカルの女らしさがわかってたまるか!』と叫んだアンドレに、アランは頭を下げた。

「アラン」

地底を流れるマグマが渦巻くような声がアランの身震いを呼ぶ。

「は、はいっ」
「そんなのはただの噂に過ぎん」
「はっ」

そんな訳ないでしょう。はいはい、わかりました。そういうことにするんですね。ええ、前のふざけた舞踏会の時のように、協力は惜しみませんよ。

声に出して言いたかったが、控えた。美しい上官には髪の毛一本ほどの余裕すら感じられなかったから。司令官室の空気が軋んで音を立てるのが聞えるのは空耳ではない。多分。

「いいか、噂などすぐに潰してくる。だから絶対にアンドレには聞かせるな。いいな」

どこかで聞いたような台詞を聞きながら、アランは理解した。最近では自分たちの話す下町用語までマスターしつつある麗人(元麗人となりつつある感すらある)の男っぷりが上がるほどに、行間ににじみ出る女心の艶がぞくりとするほど増すことを。そして、そいつがどこを向いているかも。

ど阿呆アンドレ。距離が近いと、こんなにも近視眼的に相手の心が分からなくなるものか。

ねじり上げられるような胸の痛みが鼓動に乗って全身を駆け巡る。それでも、このもどかしい幼馴染み主従に助け船を出してやりたくなる自分の阿呆さは救いがたい。アランはどっぷりと自虐の船に酔った。

「アラン、聞いているかっ?」
「は?はいっ!」
「わたしはこれから宮廷へ出向くが、アンドレが来たら、わたしが戻るまであいつを司令官室から出すな。絶対だぞ」
「はい!…え?おれ…わたくしがですか?」
「そうだ、頼んだぞ」
「ちょっと待ってください、隊長!だいたい奴に何て言えば?」
「奥の書棚に今月の勤怠管理表と備品支給申請書のファイルがある。今日中に纏めておけとでも・・・」

パタン。

扉が閉まる音が響いた。オスカルとアランは飛び上がるように目を見合わせてから、ゆっくりと音のした方を振り向いた。

「その必要はないよ。おれはもう知っているから」

朝日を背にした長身の見慣れたシルエットと聞き慣れた低い男の声。剣帯の金具がたてる微かな鈍い金属音まで聞えるほど、司令官室は瞬間静まりかえった。

「ア…ンドレ…」
「オスカル、アランは夜勤明けだ。寝かせてやれ」
「おまえ、そんな悠長なこと言っていていいのか」
「何とかするさ、アラン」

初の女性隊長が赴任してから、司令官室のドアはオスカル自身が内側から施錠しない限り、開放しておくことになっていた。アンドレは一度音をたてて閉めた扉を大きく開け、アランに向かって顎をしゃくった。

「寝ろよ」


***


アランが退室した後の司令官室は再び静まりかえっていた。アンドレが書類を括る音と、時折オスカルが立てる身じろぎの音だけが、静寂を破る。王宮に伺候すると言い出ししたものの、オスカルは動く気配を見せず、何度も足を組み直すことを繰り返していた。

オスカルが宮廷へ行くと言うので、炉に火を入れずに待機していたアンドレは、しばらく様子を見守っていたが、つと立ち上がると彼女の肩に軍用コートをかけた。年が明けたばかりの司令官室は空気ごと凍てついている。無言で斜め上を見上げるオスカルの息が白い。

「熾火をもらって来よう。あと何か温かいものを」

いつものように静かな声だった。ほんのりと微笑んでいるような口角も変わらない。オスカルが寝しなに好む蜂蜜とブランデーを垂らしたミルクより、鎮静作用の高い面差しだ。しかし、その頬にオスカルは透明な涙が見えるような気がする。白い吐息がふたりの間に流れて消えていった。

「このままじゃ冷え切ってしまう…」
「アンドレ」

オスカルが、立ち去ろうとするアンドレの袖を掴んだ。

「わたしは結婚などしない!」

一瞬、アンドレの右目が大きく見開かれ、滑るように目蓋が半分降りた。口元は微笑み、かすかな頷きがオスカルの心をふわりと持ち上げる。許されるなら、子供のように彼の胸に取りすがりたい。

オスカルは堪らずアンドレから顔を背けた。

「父が何を企んでいるかは知らんが、必ず阻止して見せる。おまえは余計な心配はするな」
「オスカル…」

変わらぬ温かい眼差しと声の響きに悲しみと絶望が揺らいでいるようだ。もう二度と追い詰めたくない。待っていろ、おまえとわたしはこれからも今まで通り、ずっと共にあるとすぐにわからせてやる。

その瞳をのぞき込んだら、涙がこぼれ落ちるのを止める自信がない。オスカルは幼馴染から視線をずらしたまま語気を強めた。

「なぜ言わなかった」
「ごめん。口止めされていた」
「くそっ、父上はどんな手を使ったんだ、王家まで巻き込むとは」
「オスカル、違うんだ」
「何が違う!おまえは父上に口止めされていたのだろう!」
「だんなさまも口止めされていらっしゃるんだよ」
「でも、おまえに話した!当事者はわたしなのに」

アンドレは言葉に窮した。

自分で考え、自分で決め、結果の責任も自分で負う。そう厳しく教育された身で、結婚を強いられるのはさぞかし辛いだろう。しかも、おまえに手痛い傷を負わせたおれを相手に、ベルサイユのみならず、全国民の注目を浴びる新令の象徴を務める?

どのような言い方をしても、オスカルが受ける衝撃が彼女を深く傷つけることは容易に想像できた。

「アントワネット様がおまえに直々にお話しになりたいと仰せになったそうだ。だから言えなかった」
「王妃様が?」
「ああ」
「では、父上はなぜおまえに話した?」

それは、おれも当事者だから―。喉元まででかかった言葉をアンドレは飲み込んだ。違う、もっと大事なことのためだ。

命をかけてでも守ってやると誓ったのだ。国家権力からだって、何としてでも守ってやる。おまえの人生がねじ伏せられないように、このおれからだって守ってやる。

アンドレはすっかり血の気の引いたオスカルを痛々しい思いで見つめた。
「おまえを支えるためだよ。他に何がある」

幸いどこかの王族レベルの相手ではないかと噂されている。自分が相手だなどと明かしてさらに追い詰める前に、すぐにでも白紙に戻してやらねば。考えに考え抜いた行動を起こすのだ。

アンドレは、少し距離を置いてオスカルの前に跪いた。

「おれだって、初めて聞いた時は衝撃で頭が空っぽになった。でももう大丈夫」

思いがけず、素直に自分の痛みを口にした幼馴染みに、張り詰めたオスカルの肩から力がすっと抜けた。取りあえずいい傾向だ。この男は、自分の痛みを後に回し過ぎる困った性分だから。よし、おまえが抱えきれず暴走する前に決着をつけてやる。

「そうか。ならばそれ以上おまえには何も聞かない」
「え?口止めの理由を話したんだ。今更だよ。おまえが知りたければ…」
「いや、何も言うな。下手をすればおまえに反逆の嫌疑がかかる。わたしは何も知らないまま王妃様に謁見を賜わろう」
「え?今から?待てよ、オスカル。おれにも考えがある。おまえが結婚したくなければ…」
「だめだ」
「え?」
「おまえは何もするな。この件はわたしがすべて王妃様から聞いた上でお断りして来る」
「おまえこそ、反逆罪に問われる可能性があるぞ!断るということは…」
「何も言うな!おまえはわたしに何も話さなかった。わたしは何も知らされなかった」

オスカルは勢いよく立ち上がった。急上昇と急降下を繰り返した神経が空白を生み、彼女の足が勢いを支えきれずもつれた。アンドレはわざわざ開けた距離をとっさに縮め、コートの上から肩を掴み、彼女を支えた。

混じり合う白い息ごしに視線が繋がった。見上げるアンドレと見下ろすオスカル。アンドレにとっては忌まわしく、オスカルにとっては恐ろしいあの夜と反対の構図で、掴んだ大きな手が、一回り小さな肩が、凍てつく司令官室のなかで発火したように熱かった。

時計の振り子がふり上がった折り返し地点で確かに止まった。それが再び動き出した時、オスカルはアンドレのたった一つの瞳に、見たことのない女の顔が映っているのを見た。見慣れた軍服の詰め襟が、異物のように浮いていた。

「大丈夫か」

瞬きすら忘れていたアンドレは、オスカルが体勢を立て直したのを確かめると自分の手の置き場を恥じるようにそっと離し、一歩下がった。我知らずオスカルのつま先が追おうとし、踏みとどまった。

「大丈夫だ。これから行ってくる」
「なら、おれも共を」
「だめだ。ここはわたし一人で行く。おまえは待機だ」
「オスカル、少し時間をおいた方がいい。今のおまえは頭に血が上っている」

逆だ。もう血の気がどこへいったかわからないくらい身体中が震えている。おまえが掴んだ肩しか感覚が残っていないくらいに。

オスカルは答えず、震える指先でコートの前留めに手をやった。手袋越しの留め金は容易に嵌まらない。

「おれがやるよ」

頭の位置が逆転したが、もう距離は気にならなかった。それよりも、互いの瞳に宿る張り詰めた覚悟が空恐ろしい。

「オスカル、せめて控えの間まででもいい、おれを…」
「おまえは残れ!命令だ!」

アンドレは黙った。命令だから、ではなく。

「なに、こんなときこそ、父の威光を借りるさ。いくら王家でも伯爵令嬢を罪に問うにはそれ相当の根拠が必要だ。謁見なら立会人がいるし、記録が残る。でもおまえはそうはいかない。理由なく地下室で斬首され、簡単にもみ消される立場だ。忘れるな」

心にもないことを吐いてまでお嬢様が頑張るのは、おれのせいだ。アンドレは奥歯を噛みしめた。おれが我が身を省みないことを知っているからだ。パリで暴徒に襲われた時のことが記憶に新しいからだ。

「心配するなアンドレ。そうは言ってもアントワネット様だ。きちんと話せばわかって下さる。権威を笠に無理強いされるお方ではない。必ず説得して帰る」
「オスカル、これは個人ではなく国政の…」
「しっ」

オスカルの革手袋を纏った人差し指が、アンドレの唇を塞いだ。

「言うなといっただろう。わたしは、誰が何と言おうと結婚などしない」

それが、おまえとわたしを引き離すなら。

簡単に声に出して言うには大切過ぎる一言を、胸の中だけに響かせて、オスカルはアンドレを司令官室に残して出て行った。


つづく(からね、まだまだ)


WEB CLAP



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