暗雲立ちこめる三部会の成功を目論むためには、国王の『愛の特別令』発布と、新令を体現するオスカルと従者の婚礼が王室主催で執り行われるとことと、同時発表されることが絶対条件である。オスカルの輝くカリスマ性が、非常識にも程がある新令への抵抗感を覆す効果が期待されるからだ。
だってほら、-100万×-100万は一兆なのであるからして。
フランス貴族の非常識代表ジャルジェ将軍の娘と、平民従者の婚礼。
非常識どうし掛け合わせれば、『愛の特別令』は国王ご乱心の落とし子から、世界がひれ伏す天啓に化けるかもしれない。
だから、新令発布までは、愛娘の結婚は最上級のコンフィデンシャル・マター扱いとなった。さて、その歴史的花嫁のパパ(予定)は、曲がりなりにも将軍である。機密情報を漏らすくらいなら、墓場の蓋をみずから開けるくらいの覚悟はできている。
が。
参謀総長から承った課題を見事に解決してきたのだ。いや、解決どころか、敵の砦を落としに襲撃をかけたら、国を取ってしまったぐらいの手柄を持ち帰ったのだ。それを身の内ひとつに納めておくなんて。パパだって人の子である。褒めて欲しいのよ。
せめて誰か一人くらい、自慢相手はいぬものか。
それが素直な将軍の本音である。
とはいうものの、今や個人の秘密ではない。国家の命運にまで絡み始めている。ミダス王の秘密だって漏れたのだ。用心に越したことはない。今しばらくの我慢だ。
自邸についた将軍は、馬車の扉が開かれる前に自分の口元に触れて見た。案の定、にやけている。
危ない、危ない。
似たもの母娘は妙にカンが鋭い。その上、こんな時は将軍の眼色ひとつで意図を正確に読み取る古参の精鋭使用人達の存在も侮れない。自宅は、この特別な機密を抱え通すには最難関となりそうだった。
将軍は出迎えの従者ラヴァルと執事デュポールに顔を見られないよう乱暴に外套を預けると、今夜の晩餐は自室に運ぶよう命じた。興奮冷めないうちに妻と娘と食卓を囲めば、挙動不審がバレてしまう。娘の給仕についている未来の婿を不自然にチラ見してしまいそうだ。
未来の婿だって?あれが?
頭に浮かんだ『婿』に将軍の足が止まった。途端にアビを後ろ前に着たような拘束感に襲われた。強烈な違和感は否めない。四半世紀もの間、家族同様の扱いをしてきた男とは言え、使用人。意識改革はそう簡単ではない。婿にした場合どう扱えば良いものか、即座にイメージするには前例がなさ過ぎる。
「旦那様」
ラヴァルの心配そうな声を背後に聞きながら、将軍は考えを巡らせた。もう給仕はさせられないな。そうだ、いつまでも使用人棟の屋根裏に住まわせるわけにもいくまい。しかし、いきなり家族のテーブルにつかせるのも使用人らの混乱を招くだろう。どう段階を踏めばいいのやら。
「旦那様」
しまった、忘れていた。使用人の混乱と言えばラスボスはばあやだ。どう宥めるか。これは難問だぞ。待てよ、それこそアンドレの仕事ではないか。ジャルジェ家の女主人の婿が、自分の身内一人御せずに務まるはずがない。奴も、いつまでもばあやに頭が上がらないでは済まんぞ。
「旦那様」
御すると言えば・・・。
そうだ!
オスカルには王后陛下との約束で話せんが、アンドレは別だ。よし、今夜は奴に話してやろう。当事者だし、心の準備をさせておかねば。万が一オスカルが荒れた場合、防波堤、もとい、宥め役は奴だからな。
・・・何だかいつもと変わらんな。
万が一?いや、たとえ惚れた男とであっても父親から『結婚しろ』と命じられたら、自動的に逆上するのは目に見えている。だが、秘密さえ守り抜けば、王妃様が伝えて下さる。あれも、王妃様相手ではぐうの音も出せんだろう。実に有り難い。王妃様の気まぐれには感謝しかないな。
「旦那様」
よし、決めた!
秘密の半分を請け負うのはアンドレだ。あれならオスカルのために秘密は死守する。葦にすら口を割らんだろう。
自分用に都合のいい葦を見つけた将軍の足取りは、突然いつもの倍は軽くなった。
大体、あいつがオスカルを甘やかし続けたからこうなったのだ。何でも一人で対処できると思い上がり、父の命令をいとも簡単に無視する娘に育ちおって。この先一生オスカルの守り役を務めるがいい。
飛ぶように歩く将軍を、従者のラヴァルはあたふたと後を追った。
「旦那様」
「ああ、ラヴァルか。アンドレは帰っておるか?」
「は、はい。先ほどオスカルさまと一緒に」
「そうか、では晩餐は部屋でとる。アンドレに運ばせろ。おまえはもう下がって良い」
「は?・・・はっ、畏まりました。ですが旦那様」
「何だ?」
ラヴァルは主人の後ろで立ち去りがたそうに口ごもった。
「アビが後ろ前でございます」
*****
「オスカルと結婚・・・でございますか?わたくし・・・が?」
流れるような所作で食後のワインを注いでいた娘の忠実な従者は、極刑を言い渡された囚人のように青ざめた。
無理もない。いくら乳兄弟のように育ち気心が知れているとは言え、結婚となると人生の勝手が根こそぎ変わる覚悟を迫られるだろう。オスカルについて25年。貴族の結婚が政治であることなど熟知している男だからこそ、か。
でなければ、そのうろたえ様は有罪だぞ。
荷が重いか、悪いなアンドレ。かわいそうだがオスカルはおまえでなければダメなのだ。世界平和のために、嫁にもらってやってくれ。
今や彫像より白く血の気を失った未来の婿を尻目に、将軍は謁見の顛末をかいつまんで話してやった。つまり、将軍の威信をかけた省略版を。
「国王陛下が発布する新令を後押しする実例として、デモンストレーションせよと?」
「いやいや、デモンストレーションではない。本当にあれと結婚するのだ」
婿(未遂)は栗のいがを丸ごと飲み込んだように驚愕で固まった。
「後で芝居でした、なんてバレてみろ。国王陛下の威信は地に落ちる」
本当に結婚する?
将軍が差し出した空のワイングラスに、アンドレの持つボトルの先がチンと音を立てて当たった。
「し、失礼しました」
深々と上体を傾げて非礼を詫びるアンドレに、将軍はおのが智慮深慮にほくそ笑んだ。この男がワインボトルをグラスに当てるほど動揺するとは。よほどの衝撃だったのだろう。来る娘の暴発前に心の準備をさせておくのは我ながら妙案だった。
将軍は改めて目の前の婿殿(まだです)をしげしげと検分した。ジャルジェ家の権勢拡大には何の役にも立たないが、平和維持には持ってこいの男。そもそも、娘の安全と平安がこのプロジェクトの出発点だった。まあ適材適所と言えるだろう。
「そうだ、おまえも一杯どうだ?」
「い、いえ、わたくしは」
「今から慣れておくのだな。いずれおまえは給仕される側に回るのだ」
婿殿は、百年の恋も凍り付くほどの怯えた笑顔を無理矢理面に乗せた。これには将軍もいささかカチンと来た。うちの自慢の美人娘の婿にしてやろうと言うのに。おまえだって憎からず思っておろう。満身創痍の献身が、忠誠心だけなどとは言わせんぞ。将軍の声が地を這った。
「何が不満だ」
「は?」
「うちの娘の何が不満だ!」
将軍の片眉がぐいと上がり、口唇が下がった。完璧なシンメトリーが怒りで強く歪められる。美しいだけに醸し出される迫力は、父も娘もいい勝負だ。
「オ、オスカルに不満など・・・!」
「嘘をつけ。ジャルジェ家一過酷な仕事を担う者の名を上げよ、と皆に問えば、全員一致でおまえの名が挙がると評判だぞ」
否定はしません、旦那様。ですが、過酷な任務は不満を持つ理由にはなり得ないのです。などと言ってしまっては、その先にこう言わなければならなくなる。
なぜなら、私は心よりオスカルを愛しているからです。
アンドレは拳を握った。
これは、オスカルが王室から賜った任務であって、愛の話ではない。国王の新令を支持する広告塔を命じられたのだ。確かに男女も身分も問わず憧憬の的であるオスカルなら、王宮はもとよりパリでも評判になる人選だ。目的に適うだろう。
三部会を前に、身分間の分断を融合させたい国王陛下の狙いも理解できる。だが、オスカルはどうなる。意に沿わぬ結婚話でこれ以上傷つかせてなるものか。何か手を打たなくては。
「ありがとうございます。頂きます」
アンドレはグラスを取った。将軍は、ふっと険しい表情を緩め満足そうに頷いた。
「ワインじゃない。そこの戸棚にあるのを持ってこい」
「・・・!」
将軍の居間になど滅多に足を踏み入れることのないアンドレだが、将軍が顎で指し示した戸棚に並ぶのは、最高品質のコニャックであることは知っていた。将軍の従者ラヴァルですら管理しこそすれ、使用人の身でそれらを味わうことはないはずだ。
言われたとおりに丸いボトルとブランデーグラスを二つ、盆にのせながらアンドレは鼻の奥に抜けるツンとした細い痛みを覚えた。いけない。勘違いをしてはだめだ。使用人から家族へと迎え入れられようとしているなどと、甘えた思い違いは禁物だ。
「持って来たら、そこに座れ」
「はい」
自らコルク栓を抜き、琥珀色の液体をグラスに注ぐ将軍の手をアンドレは凝視した。オスカルにはない細かい皺と浮き出る青い血管だけが現実感を主張する。
それ以外のもの―使用人が座るはずのない肘掛け椅子に座る自分、同じ高さの目線にある将軍の厳つい眉、主に酒を注がれる自分、グラスを受け取る自分―全てが幻想のようで心許ない。
「そう固くなるな。オスカルの酒の相手を散々務めさせられたのだろう?コニャックなど珍しくあるまい」
オスカルとの間に横たわる身分の壁なら、幼い頃から互いに飛び越えてきた。だが将軍との間にそびえるのは、今も昔も城壁だった。アンドレは手の中のグラスに目を落とし、ゆっくりと琥珀色の液体をくゆらせた。
貴人のために造られた宝石を溶かしたような酒は、自分のような身分で嗜むものではないが、将軍の言うとおりオスカルと一緒に喉を焼いてきた。酒が問題なのではない。この場でこの人と一緒に杯を煽ることは、城壁を爆薬で吹き飛ばす行為だ。
将軍が乾杯とばかりに杯を挙げる。歴年の風雪を物語る口元の皺に悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。オスカルとこれほどまでによく似た人を、どうして敬愛せずにいられるだろう。
おぼろにも思い出せない父の顔と将軍が重なりそうになり、アンドレは慌てて首を振った。いけない、現実をしかと見なければ。何が起きているのか、しっかりと理解しろ。訝しげに将軍の眉が上がる。アンドレは口を開いた。
「オスカルは・・・いえ、オスカル様は納得されているのでしょうか?」
ふっと将軍は短くため息をつくと、アンドレから視線を外した。肩が下がっている。
「いや、あれはまだ知らない」
そうだろうと思った。今日も帰宅する馬車の中でオスカルの様子に変わった様子は微塵もなかった。ジェローデル伯爵との婚約をはるかに凌ぐ荒唐無稽な命令である。知っていれば落ち着いていられるわけがない。
「ところで、おまえたちは、その、何だ」
将軍の声の調子が突然少年じみた。小さく咳払いなどしてから、アンドレに合わせてきた目には好奇心が宿っている。アンドレのうなじで産毛が逆立った。この先に爆弾宣言が待っていることがわかる。なぜなら。
アシメトリーに持ち上がった唇の端の角度がオスカルにそっくりだから。礼儀より好奇心が勝利した時に彼女が見せるやつだ。
「あー、つまり、おまえたちは何だ、あれは済ませておるのか?」
あれ?
つづく(にしちゃっていい?)
だってほら、-100万×-100万は一兆なのであるからして。
フランス貴族の非常識代表ジャルジェ将軍の娘と、平民従者の婚礼。
非常識どうし掛け合わせれば、『愛の特別令』は国王ご乱心の落とし子から、世界がひれ伏す天啓に化けるかもしれない。
だから、新令発布までは、愛娘の結婚は最上級のコンフィデンシャル・マター扱いとなった。さて、その歴史的花嫁のパパ(予定)は、曲がりなりにも将軍である。機密情報を漏らすくらいなら、墓場の蓋をみずから開けるくらいの覚悟はできている。
が。
参謀総長から承った課題を見事に解決してきたのだ。いや、解決どころか、敵の砦を落としに襲撃をかけたら、国を取ってしまったぐらいの手柄を持ち帰ったのだ。それを身の内ひとつに納めておくなんて。パパだって人の子である。褒めて欲しいのよ。
せめて誰か一人くらい、自慢相手はいぬものか。
それが素直な将軍の本音である。
とはいうものの、今や個人の秘密ではない。国家の命運にまで絡み始めている。ミダス王の秘密だって漏れたのだ。用心に越したことはない。今しばらくの我慢だ。
自邸についた将軍は、馬車の扉が開かれる前に自分の口元に触れて見た。案の定、にやけている。
危ない、危ない。
似たもの母娘は妙にカンが鋭い。その上、こんな時は将軍の眼色ひとつで意図を正確に読み取る古参の精鋭使用人達の存在も侮れない。自宅は、この特別な機密を抱え通すには最難関となりそうだった。
将軍は出迎えの従者ラヴァルと執事デュポールに顔を見られないよう乱暴に外套を預けると、今夜の晩餐は自室に運ぶよう命じた。興奮冷めないうちに妻と娘と食卓を囲めば、挙動不審がバレてしまう。娘の給仕についている未来の婿を不自然にチラ見してしまいそうだ。
未来の婿だって?あれが?
頭に浮かんだ『婿』に将軍の足が止まった。途端にアビを後ろ前に着たような拘束感に襲われた。強烈な違和感は否めない。四半世紀もの間、家族同様の扱いをしてきた男とは言え、使用人。意識改革はそう簡単ではない。婿にした場合どう扱えば良いものか、即座にイメージするには前例がなさ過ぎる。
「旦那様」
ラヴァルの心配そうな声を背後に聞きながら、将軍は考えを巡らせた。もう給仕はさせられないな。そうだ、いつまでも使用人棟の屋根裏に住まわせるわけにもいくまい。しかし、いきなり家族のテーブルにつかせるのも使用人らの混乱を招くだろう。どう段階を踏めばいいのやら。
「旦那様」
しまった、忘れていた。使用人の混乱と言えばラスボスはばあやだ。どう宥めるか。これは難問だぞ。待てよ、それこそアンドレの仕事ではないか。ジャルジェ家の女主人の婿が、自分の身内一人御せずに務まるはずがない。奴も、いつまでもばあやに頭が上がらないでは済まんぞ。
「旦那様」
御すると言えば・・・。
そうだ!
オスカルには王后陛下との約束で話せんが、アンドレは別だ。よし、今夜は奴に話してやろう。当事者だし、心の準備をさせておかねば。万が一オスカルが荒れた場合、防波堤、もとい、宥め役は奴だからな。
・・・何だかいつもと変わらんな。
万が一?いや、たとえ惚れた男とであっても父親から『結婚しろ』と命じられたら、自動的に逆上するのは目に見えている。だが、秘密さえ守り抜けば、王妃様が伝えて下さる。あれも、王妃様相手ではぐうの音も出せんだろう。実に有り難い。王妃様の気まぐれには感謝しかないな。
「旦那様」
よし、決めた!
秘密の半分を請け負うのはアンドレだ。あれならオスカルのために秘密は死守する。葦にすら口を割らんだろう。
自分用に都合のいい葦を見つけた将軍の足取りは、突然いつもの倍は軽くなった。
大体、あいつがオスカルを甘やかし続けたからこうなったのだ。何でも一人で対処できると思い上がり、父の命令をいとも簡単に無視する娘に育ちおって。この先一生オスカルの守り役を務めるがいい。
飛ぶように歩く将軍を、従者のラヴァルはあたふたと後を追った。
「旦那様」
「ああ、ラヴァルか。アンドレは帰っておるか?」
「は、はい。先ほどオスカルさまと一緒に」
「そうか、では晩餐は部屋でとる。アンドレに運ばせろ。おまえはもう下がって良い」
「は?・・・はっ、畏まりました。ですが旦那様」
「何だ?」
ラヴァルは主人の後ろで立ち去りがたそうに口ごもった。
「アビが後ろ前でございます」
*****
「オスカルと結婚・・・でございますか?わたくし・・・が?」
流れるような所作で食後のワインを注いでいた娘の忠実な従者は、極刑を言い渡された囚人のように青ざめた。
無理もない。いくら乳兄弟のように育ち気心が知れているとは言え、結婚となると人生の勝手が根こそぎ変わる覚悟を迫られるだろう。オスカルについて25年。貴族の結婚が政治であることなど熟知している男だからこそ、か。
でなければ、そのうろたえ様は有罪だぞ。
荷が重いか、悪いなアンドレ。かわいそうだがオスカルはおまえでなければダメなのだ。世界平和のために、嫁にもらってやってくれ。
今や彫像より白く血の気を失った未来の婿を尻目に、将軍は謁見の顛末をかいつまんで話してやった。つまり、将軍の威信をかけた省略版を。
「国王陛下が発布する新令を後押しする実例として、デモンストレーションせよと?」
「いやいや、デモンストレーションではない。本当にあれと結婚するのだ」
婿(未遂)は栗のいがを丸ごと飲み込んだように驚愕で固まった。
「後で芝居でした、なんてバレてみろ。国王陛下の威信は地に落ちる」
本当に結婚する?
将軍が差し出した空のワイングラスに、アンドレの持つボトルの先がチンと音を立てて当たった。
「し、失礼しました」
深々と上体を傾げて非礼を詫びるアンドレに、将軍はおのが智慮深慮にほくそ笑んだ。この男がワインボトルをグラスに当てるほど動揺するとは。よほどの衝撃だったのだろう。来る娘の暴発前に心の準備をさせておくのは我ながら妙案だった。
将軍は改めて目の前の婿殿(まだです)をしげしげと検分した。ジャルジェ家の権勢拡大には何の役にも立たないが、平和維持には持ってこいの男。そもそも、娘の安全と平安がこのプロジェクトの出発点だった。まあ適材適所と言えるだろう。
「そうだ、おまえも一杯どうだ?」
「い、いえ、わたくしは」
「今から慣れておくのだな。いずれおまえは給仕される側に回るのだ」
婿殿は、百年の恋も凍り付くほどの怯えた笑顔を無理矢理面に乗せた。これには将軍もいささかカチンと来た。うちの自慢の美人娘の婿にしてやろうと言うのに。おまえだって憎からず思っておろう。満身創痍の献身が、忠誠心だけなどとは言わせんぞ。将軍の声が地を這った。
「何が不満だ」
「は?」
「うちの娘の何が不満だ!」
将軍の片眉がぐいと上がり、口唇が下がった。完璧なシンメトリーが怒りで強く歪められる。美しいだけに醸し出される迫力は、父も娘もいい勝負だ。
「オ、オスカルに不満など・・・!」
「嘘をつけ。ジャルジェ家一過酷な仕事を担う者の名を上げよ、と皆に問えば、全員一致でおまえの名が挙がると評判だぞ」
否定はしません、旦那様。ですが、過酷な任務は不満を持つ理由にはなり得ないのです。などと言ってしまっては、その先にこう言わなければならなくなる。
なぜなら、私は心よりオスカルを愛しているからです。
アンドレは拳を握った。
これは、オスカルが王室から賜った任務であって、愛の話ではない。国王の新令を支持する広告塔を命じられたのだ。確かに男女も身分も問わず憧憬の的であるオスカルなら、王宮はもとよりパリでも評判になる人選だ。目的に適うだろう。
三部会を前に、身分間の分断を融合させたい国王陛下の狙いも理解できる。だが、オスカルはどうなる。意に沿わぬ結婚話でこれ以上傷つかせてなるものか。何か手を打たなくては。
「ありがとうございます。頂きます」
アンドレはグラスを取った。将軍は、ふっと険しい表情を緩め満足そうに頷いた。
「ワインじゃない。そこの戸棚にあるのを持ってこい」
「・・・!」
将軍の居間になど滅多に足を踏み入れることのないアンドレだが、将軍が顎で指し示した戸棚に並ぶのは、最高品質のコニャックであることは知っていた。将軍の従者ラヴァルですら管理しこそすれ、使用人の身でそれらを味わうことはないはずだ。
言われたとおりに丸いボトルとブランデーグラスを二つ、盆にのせながらアンドレは鼻の奥に抜けるツンとした細い痛みを覚えた。いけない。勘違いをしてはだめだ。使用人から家族へと迎え入れられようとしているなどと、甘えた思い違いは禁物だ。
「持って来たら、そこに座れ」
「はい」
自らコルク栓を抜き、琥珀色の液体をグラスに注ぐ将軍の手をアンドレは凝視した。オスカルにはない細かい皺と浮き出る青い血管だけが現実感を主張する。
それ以外のもの―使用人が座るはずのない肘掛け椅子に座る自分、同じ高さの目線にある将軍の厳つい眉、主に酒を注がれる自分、グラスを受け取る自分―全てが幻想のようで心許ない。
「そう固くなるな。オスカルの酒の相手を散々務めさせられたのだろう?コニャックなど珍しくあるまい」
オスカルとの間に横たわる身分の壁なら、幼い頃から互いに飛び越えてきた。だが将軍との間にそびえるのは、今も昔も城壁だった。アンドレは手の中のグラスに目を落とし、ゆっくりと琥珀色の液体をくゆらせた。
貴人のために造られた宝石を溶かしたような酒は、自分のような身分で嗜むものではないが、将軍の言うとおりオスカルと一緒に喉を焼いてきた。酒が問題なのではない。この場でこの人と一緒に杯を煽ることは、城壁を爆薬で吹き飛ばす行為だ。
将軍が乾杯とばかりに杯を挙げる。歴年の風雪を物語る口元の皺に悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。オスカルとこれほどまでによく似た人を、どうして敬愛せずにいられるだろう。
おぼろにも思い出せない父の顔と将軍が重なりそうになり、アンドレは慌てて首を振った。いけない、現実をしかと見なければ。何が起きているのか、しっかりと理解しろ。訝しげに将軍の眉が上がる。アンドレは口を開いた。
「オスカルは・・・いえ、オスカル様は納得されているのでしょうか?」
ふっと将軍は短くため息をつくと、アンドレから視線を外した。肩が下がっている。
「いや、あれはまだ知らない」
そうだろうと思った。今日も帰宅する馬車の中でオスカルの様子に変わった様子は微塵もなかった。ジェローデル伯爵との婚約をはるかに凌ぐ荒唐無稽な命令である。知っていれば落ち着いていられるわけがない。
「ところで、おまえたちは、その、何だ」
将軍の声の調子が突然少年じみた。小さく咳払いなどしてから、アンドレに合わせてきた目には好奇心が宿っている。アンドレのうなじで産毛が逆立った。この先に爆弾宣言が待っていることがわかる。なぜなら。
アシメトリーに持ち上がった唇の端の角度がオスカルにそっくりだから。礼儀より好奇心が勝利した時に彼女が見せるやつだ。
「あー、つまり、おまえたちは何だ、あれは済ませておるのか?」
あれ?
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