花嫁のパパ 6 ★New★

2026/07/27(月) 18世紀パラレル


あれ?

あれとは何のことですか?と聞いてはいけないと、逆立ったうなじの産毛がざわついた。察しなければ。アンドレは全神経を集中させた。

密室。男同士。酒。距離を詰めてくる主。この状況下で『あれ』とは、あれ以外にないと直感が叫ぶ。でもって、理性は別のことを主張する。察するな、わからないままでいろ、と。

「そう警戒するな。いまさらどうこう咎め立てする気はないからな」

チェックメイトを宣言する前にオスカルが見せる頬の高揚と同じものが将軍の目元に現れた。目尻の皺はここまで濃くはないが。って、集中すべきはそこじゃない。

はい、決定。
あれとは『あれ』のことだ!

アンドレのグラスが転げ落ち、足元のサヴォヌリ絨毯が琥珀色の酒を吸った。短い毛足の絨毯はグラスを守ったが、本来ならばアンドレが踏んですら良いものではない。とんでもない粗相だ。

いや、粗相だけで済むならいい。おれ、まさかの魔女裁判中?

貴婦人っていいよな。こういう時は卒倒すれば退場できるんだもんな。まずいぞ、おれ本当に失神寸前だ。ふんばらないと。

アンドレは耐えた。目を回している自分を頭上からもう一人の自分が見ているような、心も身体もあちこちにわかれて吹っ飛んだかのような数秒間を。先に動けるようになったのは、頭脳よりも職業根性だった。

「も、申し訳ございません!とんだことを!」

アンドレは、水たまりを踏んでしまった猫よりも素早く飛び上がってから跪くと、給仕用のナプキンで絨毯に染みこんだ酒を叩いて吸い出した。持てる気力をすべてシミに集中し、何度も繰り返す。瞬く間に布は乾いたままになった。よかった、これで目立つシミは残らないだろう。

…ちがう!そこは安心するところじゃない!

将軍は珍しいものでも見るように、グラスを持ったそのままの姿勢で、目まぐるしく表情を変えるアンドレを見下ろしていた。実際、宮廷に安心して出せる礼儀作法を身につけた上級使用人であるこの男が見せる取り乱し様は珍しかった。つまり。

「まだか」

膝をついたままのアンドレは、まるで撃ち落とされた雉と間違えて古靴をくわえて戻ってしまった猟犬より途方に暮れ、将軍を見上げた。将軍はやれやれと軽く呆れてから、いいから座れと未来の義理の息子に顎で命じた。

のろのろと席に戻るアンドレに、将軍はもう一度酒を注いでやった。アンドレは躊躇しながら両手で杯を受け取り、消え入りそうな声で答えた。

「もうであれ、まだであれ、考えるだけで滅相もないことでございます」

そうか、それは残念だ。将軍は最年少の古参使用人を複雑な思いで眺めた。将軍とて娘と従者が年頃を迎える頃は、間違いが起きないか心配しないでも無かったのだ。対策として、年若い従者が必要に応じてそれなりの場所に行く場合は上限をつけず経費で落とす許可を出した。

しかもそれなりの場所は、従業員の健康管理が厳しい良所に限ると、厳密に選定した上で指定した。軍の兵力を削ぐ要因として、その手の病が常に上位入賞することを、経験上熟知していたからだ。無論娘には内緒である。

しかし、ここ最近の娘の様子を見れば、そんなこともあろうかと期待していたのだが。

「まあ、何だな。既成事実でもあった方が、オスカルを納得させるのに手間がかからんと思ったので聞いてみたが。違うのか?」

アンドレはぶるぶると首を振った。子供ですらもう少しマシな礼儀作法でお答えできそうだが、将軍の方から巨大ハンマーで城壁をぶち壊してきたようなものだ。アンドレの精一杯の誠意表明である。

「腰抜けめ」

こ、腰抜け?

足元の床が抜けたように、自分の人生全体が奈落の底に落ちる落下音を聞くアンドレであった。ってか、そもそも底があるのだろうかさえ疑わしい。

ごめん、オスカル。おまえが結婚しろと命じられた時の衝撃を、今やっと真に理解してやれた気がするよ。あの時は自分のことで精一杯で、支えてやれなくて悪かった。

「まあ、飲め。落ち着くぞ」
「は、はい」
「そうだな、新しい息子に乾杯」
「・・・!」

アンドレは、もはや自分の頭が水平を保っているかさえ、わからなくなっていた。この20年近く、荒れ狂うマグマを堰き止めてきた。よく狂わなかったと思う。いや、狂ったこともあった。そのせいでオスカルを傷つけてしまった負い目は、一生背負って生きる覚悟だ。

しかし、『息子』と呼ばれ、鼻の奥にじんとした感覚が突き抜ける。『腰抜け』にすら何か温かいものが込められている感覚が拭えない。まずい。勘違いするな。アンドレは靴の中で足指にぐっと力を込めた。

将軍が陽気に杯を挙げる。巨大ハンマーでぶち壊れた城壁に、雷がとどめを刺す情景を見ながらアンドレは震えるグラスから酒をこぼさないように口をつけた。燃えるように熱い液体が喉を通り過ぎる。落雷を受けた城壁に上がる火の手とともに、自分も焼き尽くされるようだった。

「まあ、儂とてあれが素直に言うことを聞くとは思っとらんが、国王命令に逆らうことまではせんだろう。頼んだぞ」
「は・・・はい・・・」
「足労だったな、今夜は下がって良いぞ」

オスカル対策にせよ、ばあや対策にせよ、使用人間の調整にせよ、諸々の細かい根回しは言わずとも次期婿が動くだろう。肩の荷が下りた。後は、王妃陛下からお召しあれば、宮廷に拝謁に行く前夜にでも妻に明かせばいいだけだ。

その日を想像し、将軍はちょっとワクワクした。それなのに、なぜか婿殿は下がるどころか将軍に懇願の目を向けた。

「旦那様、お願いがございます」
「ん?」
「何でも構いません。私に何か外部への使いを命じてください」

将軍は不可解そうに顎を捻り、片眉をあげてその理由を未来の婿に問うた。婿殿、ほとんど悲鳴を上げるように訴えた。

「今下がれば、必ずオスカル・・・様に呼ばれます。給仕に呼ばれた経緯や、長時間ここで過ごした理由を問われます。ですが、今相対すれば誤魔化しきれません。せめて一晩だけでも、落ち着く時間を持たないと・・・無理です」

ああ。
おまえもか、アンドレ。


それ以上の説明はいらなかった。しぼみゆくメレンゲのように立派な肩幅を縮める婿殿候補に、将軍の胸に名状しがたいシンパシーが立ち上がった。つい、わかるぞ、と言ってしまいたくなる。同時に一点の瑕疵もない高潔な美丈夫であったジェローデル伯には覚えたことのない、温かい親近の情が胸一杯に広がった。

伯爵相手では、酒が入っても決して緩むことのなかった肩の力が抜け落ちていく。居間の空気まで柔らかく将軍を包んだ。

おっと、うっかりにやけていないだろうか。
将軍は、顎回りを摩った。

「そうか。それなら結婚前の男にお約束の儀式でも済ませてくるがいい」
「告解ですか?」
「ははは、そんなのは後で良い。椿荘か銀嶺館、好きな方を選べ」
「だ、旦那様!」
「まだ、おまえは顧客リストから外していないはずだ。おまえ分の請求がとんと上がってこないとデュポールが心配していたぞ」

アンドレは肩を落とした。そんな所へ行っても虚しいだけだって、随分若い頃に悟りましたから。

「そんな・・・結婚する前に離婚されます」

将軍の満足そうな高笑いが居間を揺さぶった。これは楽しくなりそうだ。同病相憐れむ…ちと違うな。同志誕生か?

悪くない。

***

火の手は宮殿でも上がっていた。そもそも秘密など守れる場所ではないのだ。特に国王夫妻にプライバシーなるものは存在しない。『オスカル様のご結婚が今度こそ決まったらしい』という大雑把な噂が、ちろちろと焔をあちこちで上げていた。

うっかり侍女の前で口を滑らせたか、夫婦の会話が聞かれたか。噂の出所である王妃はムードンへ出かけて留守だった。絶望視されていた王太子ルイ・ジョゼフの容態が、ことによってはヴェルサイユに戻って来られそうなほど好転したからだ。

問題は、ご帰還のタイミングだけという状況下で、『愛の特別令』と王宮主催世紀の婚礼は、王妃の中では一時棚上げになっていた。王妃にとっては祝福すべき出来事であるので、将軍は辛抱強く口を閉ざして待機していた。時々アンドレを呼びつけては愚痴をこぼしながら。

宮廷雀の間で末娘の結婚が決まったと囁かれていることなぞ、ついぞ知らずに。

一方、オスカルはアンドレの異変を感じ取っていた。一見普段と変わりなく見える。補佐役としての仕事の質はもとより、身の回りの世話を焼くきめ細やかさは磨きがかかるばかりだ。当たり前のようにそれを享受していた自分を省みるようになっていたオスカルの胸を、時々ズキンと打つほどに。

しかし、そんな時に限って彼はふと遠くを見ているようだ。泣いているのかと錯覚することすらある。思わず声をかけると『ん?どうかしたか?』と、返って来るのはいつもの笑顔であっても、彼が何かを思い詰めていることを、オスカルは睫毛の先でキャッチしていた。

ジェローデルと婚約が進められていた時のような、手負いの狼の目はしていない。押し殺した狂気の兆しもなければ、打ちひしがれた様子もない。もっと深い絶望の底に魂を閉じ込め、悟りきったような静けさが恐ろしい。

かつて狂気の果てに自分を道連れにしようとした彼。あの時のように荒れてくれたほうがどんなに安心だろう。体当たりで殴り飛ばしてから抱きしめて、決して離さないから大丈夫だと本人が納得するまで何度でも言ってやれる。今のわたしならば。

しかし、鏡面のように凪いだ佇まいの彼にはとりつく島がない。その衷心に秘めたる決意を握りしめたまま、決して口を割らずにいつか行動に出るだろう。幼馴染みの経験値が警鐘を鳴らす。一体何が起きたのだ。

思い当たる節と言えば、二週間ほど前のこと。父将軍がアンドレを私室に呼び出し給仕を命じるという不自然な行動を取った。彼の様子がおかしくなったのはその後だ。父よ、一体彼に何をした?

ついでに言えば、普段と変わりなく見える父の様子も変だ。なぜそれが分かるのか、オスカルには分からないその理由は、彼女を除くジャルジェ家の全員が知っているのだが、そんなことはどうでもいい。

誰であろうと。
たとえ父(正直父以外には考えつかないオスカルである)であっても、アンドレを苦しめる存在がいるのなら。

このオスカル様が許さない。



つづく(んですよ、まだまだ)

WEB CLAP



WEBCLAPにコメントを下さるお客様へ
コメントにはいつも元気を頂いています。もう、本当に嬉しいです。
で、使用しているこのシステム、どの作についてのコメントなのか、見分けがつかない構造になっているのです。もし良かったら、どの作に対する感想、ご意見なのか、ちょっとメモって下さると、もっと嬉しいです。ありがとうございます。