天使の寄り道5 

2018/01/10(水) 原作の隙間1788冬


ジャルジェ家使用人棟の一角で、娘は手厚い世話を受けていたが、栄養失調は深刻な段階にあった。固形物を取り除いたブイヨンと、ごく薄い粥しか受け付けないまま5日が経過した後も一向に回復の兆しは見られなかった。

ピエール爺さんは毎日娘の様子を見に行っては首を横に振り、同じ言葉を繰り返した。『お医者様の手の届く容態じゃない』それでも、とオスカルの命令で呼ばれた医師は娘を一目見るなり『司祭を呼んだ方がよろしいでしょう』と、ピエール爺さんの見立てと同じ結論を出した。

一方、娘は交代で世話するベテランメイドと厨房係の親身な世話に警戒心を解き、赤ん坊の名前や生まれた経緯をぽつり、ぽつりと語るようになった。


何とか兵士のためにノエルの休暇を2週間確保したオスカルは、休暇まであと数日を残し、多忙な日々を送っていた。そんな中でも自らが保護した娘のことが気にかからない日はなかった。

娘には余計なストレスをかけないよう、決まった顔ぶれの女衆だけが接触を持つ形で世話を焼いている。オスカルもアンドレも衛兵隊で出会った日以来、娘には一度も面会していない。アンドレは夕食時にその日の報告を侍女らから受け、オスカルに伝えるのが日課になっていた。

今日もオスカルに催促を受けたアンドレが、夕食後報告しにやって来た。片手でティ―セットを乗せたワゴンを押し、もう片腕には赤ん坊を抱いている。オスカルも心得たもので、部屋のドアを開け放した状態で待っていた。

「マルゴやナタリーが聞いた話を総合すると、この子の名はリュカ、誕生日は11月18日、母親の名はカトリーヌ、栄養不良で出産に耐える体力が足りず出産後に高熱を出して死んだ。彼女の名はジュリ、カトリーヌとは三歳違いの姉で、僅かな持ち物を全て売り払い、もらい乳をしてリュカを育てていた。しかし、リュカを抱えているから日雇いの仕事にもありつけない。里子に出す余裕もない。万策尽きて衛兵隊に所属しているはずの父親を捜しに来たというわけだ。おっ俺に?メルシィ」

アンドレの前に、紅茶のカップが置かれた。オスカルが自分の好みのままになみなみとブランデーを注ぎ入れたやつだ。何たる邪道。アンドレの眉間に思わず皺が寄る。

ティーロワイヤルには、紅茶とコニャックのアロマを同時に倍増させる奇跡の割合がある。ジャルジェ家でそれを再現できる唯一の人物を目の前にして、良くもそんなガサツなまねが出来るものだ。

今日も片手が塞がっていたとは言え、ワゴン上の茶器セットを早々にオスカルにジャックさせる隙を見せてしまったことが悔やまれる。

さて、ガサツなお嬢様はと言うと、自分用にはさらにアルコール割合の高い茶(と呼んで良いのなら)をカップに注ぐと、深々と愛用の肘掛け椅子に身を沈めてアンドレの報告を待っている。

炉にくべた香木が心地よい音ではぜ、温かい部屋にはノエルの香りが満ちている。暖炉の上にはクレッシュ(待降節飾り)がノエル色に居間を演出している。青いシルク地に白と金糸の刺繍をちりばめたガウンを纏ったオスカルは、揺れる炉の焔に照らされて、夢のようにゴージャスだ。

一瞬へこんだアンドレのプロ意識が機嫌を直すには十分な眺めだった。ブランデーが飲みたければ、ティーロワイヤルを所望するなど、そんなまだるっこしいことをするより、伯爵家のお嬢様権限で好き放題できるのに、それをしないのは、祖母であるマロングラッセの心障を一応慮ったのだろう。

しかも、使用人である自分にも驕ることなく茶(としておこう)を淹れてくれる、有難い、得難い、規格外と三拍子そろったお嬢様。

この場所で、この人とまたノエルを迎えることが出来る。一年前の今頃、自分は片恋の苦しさを身分のせいにし、自分を憐れんで世を拗ねていた。自暴自棄の果てには何の展望も見えなかった。

当時見えていなかった幸せが見えるようになった今、片恋の痛みは変わらずとも、もっと大きな愛と共存するようになった。ほっこりとしたアンドレは報告を続けた。

「ジュリがおまえを赤ん坊の父親だと勘違いした理由だが…おっとと」

お嬢様特製の有り難~いティーロワイヤル(もどき)を手に取ろうとしたアンドレは、慌ててカップの持ち手から手を離した。琥珀色の液体がカップのふちから盛り上がらんばかりに目いっぱい入っている。

左腕と膝上を占めているものがもぞもぞと動くこの状態は危険極まりない。より安定した体勢に坐りなおしてから頂くことにしよう。アンドレは続けた。

「カトリーヌが出産の直前まで、事あるごとにフランス衛兵隊隊長のことを語っていたからだそうだ」
「わたしのことを?」
オスカルがいぶかし気に身を起こした。

「うん、地位があるのに、女の気持ちを細やかにわかってくれる優しい人で、しかも壁画の大天使様よりも美しい人。こんな人がこの世にいて、この世で出会えるなんて、もうそれだけで生まれて来た甲斐があった、とね。

その話をする彼女の潤んだ瞳は恋する女以外の何物でもなく、ジュリの知る限り、カトリーヌの周りには他の男の存在はなかった、と言うことらしい」

気だるげに報告を聞いていたオスカルの目がだんだん大きく見開かれ、眉根がくっつきそうなくらいに寄る。無防備にぽかんと開いた口がアンドレには何とも官能的だが、よこしまな情動は沸いてこない。

その理由は、多分左腕に抱いている温かな生き物のせいだろう。この無垢な存在の前では獣じみた衝動に深く抑制がかかるようで、安心してオスカルと二人きりの空間にいられる。

祖母を始めとするベテラン侍女らが先を争うようにして縫ったおくるみに包まれた嬰児は、いつのまにかぱっちりと目を開けて、中空を見つめている。見覚えのあるおくるみの生地は、多分子供時代に着ていた自分の夜着だろう。

アンドレは、再びお嬢様の心づくし、なんちゃってティーが縁まで注がれたカップをそーっと持ち上げると、抱いている赤子に万が一でもこぼれないように不自然に身体を捩じった体勢で、琥珀色の液体が表面張力で盛り上がる部分を啜り、とりあえずの安全を確保した。そんなことができても一スウにもならないが、神業には違いない。

「ジュリは、カトリーヌと連れ立って何度か閲兵式を見物に来ていたらしい。あの隊長さんがわたしの王子様よ、とカトリーヌが指した先に居たのがおまえだったそうだ」

「それでわたしが子の父だと、カトリーヌが言ったのか?閲兵式で子を孕ませるのはわたしには無理だぞ」
いや、そんなこと真顔で言い訳しなくても大丈夫だって。アンドレは吹き出しそうになるのを堪え、もう一口茶(?)を啜った。
「おまえでなくても無理だよ」

オスカルは肩を落として力なく笑った。その時、アンドレの腕の中で、小さな拳を握りしめたリュカが顔を赤らめて伸び、喉の奥からきゅるきゅると声を出した。アンドレはあわてて小さな体を持ち上げくんくんと匂いを嗅ぎ、パッと顔を輝かせた。
「爆弾投下と思いきや、大丈夫、空砲だ」

オスカルはあきれ果ててカップの中身を飲み干した。いつの間に実弾と空砲が嗅ぎ分けられるようになった、この男。

リュカは専用の乳母が与えられた上、世話をやきたい侍女が列を成して順番を待つジャルジェ家のアイドルになった。子守の手はばっちり足りているはずなのに、ここ数日、オスカルと共にアンドレが隊から帰宅すると、何故か誰かしらが『ちょっと見ていてね』とアンドレに赤ん坊を渡す。

だから、必然的にオスカルもリュカと過ごす時間を持つことになる。アンドレはたちまち赤子の扱いに習熟し、先ほどのように物言えぬ子のニーズを文字通り嗅ぎ分けるようになった。まあ、それはいいのだが。

「さっきの話の続きだが、カトリーヌ本人がわたしを名指しで父と言ったのか?」

まだ寝返りもできない赤子でも、二人の間にこの子がいると、何の話をしていても話が途中でぶつぶつと途切れてしまい、一向に進まない。これには少々困っているオスカルだ。

「いや、よくよく尋ねてみると、カトリーヌがはっきりとおまえを名指したわけではなくて、ひたすらおまえを崇拝していた、だけみたいなんだよなあ。しかし、あまりにもおまえの事ばかりを話すので、ジュリはすっかり子の父親はおまえだと思い込み、疑問にすら思わなかった。

ただ、カトリーヌが言うほどの高潔な人物なら、なぜ身ごもったカトリーヌを放置し、父の義務をはたさないのだろうと不審に思っていたそうだ。それを問うと、カトリーヌは黙り込んでしまうので、それ以上は聞かなかったと。おっ?どうしたリュカ」

中空に遊ぶ天使が見えるかのように、大人二人には見えない何かをきょときょとと目で追っていたリュカが、その口元をへの字に曲げた。泣き出す十秒前といったところだ。

オスカルもつられて赤子を覗き込む。たちまちリュカの愛らしい顔がその小さな鼻の付け根を中心にくしゃりと歪み、小さな口が全開した。

渾身の力を込めた泣き声がオスカルの居間に響き渡る。パワーは全開、一切の妥協無し。歯のない口の真ん中でビブラートする小さな舌まで全力だ。

二人は額を突き合わせるように数秒間、この愛らしいモンスターを観察した。貴族の子弟らしく、オスカルは新生児にこれほど濃密に接するのは初めての体験である。

「凄い頑張りだな」
「ああ、24時間全力で生きている感じだよな」
「何かを要求する時は全力でシャウトか」
「おまえの生活に置き換えてみたら恐ろしいぞ。起きている間中おまえは出力100%で叫び続けるんだ」
「ふん、それならおまえはその度に全力疾走だ」
「えっ?そ…そうか、例えばグラスをそこのキャビネットから出そうとする時には…」
「全力で走って戻れ」
「カーテンを閉める時…」
「気迫全開で閉めろ」
「…消耗激しすぎて半日ももたないよ。そうか、だから赤ん坊は一日に20時間眠るんだ」
「…おお、成る程。妙に納得できるぞ」

二人は赤ん坊を覗き込んだまま笑い出し、同時に顔を上げた。赤ん坊に集中するあまり、額同士が触れるほど接近していたので、今度は鼻が触れるほどの距離で見つめ合う形になった。が、火がついたように泣く赤ん坊を挟んでの事。ロマンスが花開く環境には程遠く、アンドレがあたふたと立ち上がる。

「こ…これは腹ペコだな。そろそろ乳母の夕食も済むだろうからバトンタッチして来るよ。待っていろ」

アンドレはオスカルの返事も待たずに赤ん坊を抱いて去って行った。見送るオスカルは憮然と独り言ちた。

「せいぜい全力で戻って来るんだな」

お約束通り、今日も肝心の話は全く進まなかった。リュカの今後の扱いに関して、オスカルは慈善事業に多岐の人脈を持つ母親に丸投げするつもりでいた。

ところが、あらゆる形で協力は惜しまないが、あなたの案件なのだからあなたが主導して決めなさい、と母親から思わぬ厳重注意が下ったのだった。

赤子を連れて来た初日は自分で面倒を見そうな勢いだったくせに、180°方向転換した母君の指摘にオスカルは途方に暮れた。

その上、母君はオスカル以上にアンドレに負担がかかることは明らかだとして、アンドレにノエルの特別ボーナスを支給する、とまで言い出した。

以来、乳母に食事時間を与えるだの、休憩を与えるだの、自分の子に乳を与えるだの、そのたびにアンドレの腕に赤子が渡される。まるで、屋敷中の侍女が申し合わせたようだった。

『リュカの身の振り方を決めるなら、本人を間近に置いた上で判断しろ、と奥様は仰りたいんだよ。ひとりの人間の人生を取り扱うことを肝に命じるためにね。

とは言え、まさかおまえに子守をさせるわけにはいかないから、おれにお鉢がまわってきたのさ。だけど、解せないよなあ。奥様がそんな心配されなくても、おまえが赤ん坊に心無い処遇をするはずはないんだけどな』

とはアンドレの見解である。彼がそう言うのならその通りなのだろうとオスカルも思う。しかし、リュカの父親の手掛かりを探そうにも、勤務後のわずかな時間をリュカに振り回されてしまうこのジレンマを、さてどうしたものか。

ジャルジェ家のお嬢様権限を持ってアンドレをリュカの子守から外すことを命じるのは容易いので、当初はそれも考えた。ただ、母の顔も立てるために数日の猶予を持たせてから命令を発令するつもりだった。ところが、その数日間がオスカルにもたらした波及がでかかった。

赤ん坊というものが、いくら見ていても飽きないものだと知った。小さな手のひらに指を乗せてやると、きゅっと小気味よい力強さで握り返して来る。足に触れれば驚く素早さで足をひっこめる。膝に乗せた時の蹴りの強さも、この小さな体のどこにそんな力が潜んでいるのか、毎回感動を覚える。

そのくせ、ずっしりした頭の重さを支えきれない弱々しい首とぷよぷよした体躯のアンバランスさには庇護欲をそそられる。手指、足指、爪、耳、まつ毛。細部のパーツはその小ささを思えば、奇跡のように完璧な精工さを持つ。

この世のものは、まだ何も知らないはずなのに、時折見せる至福の笑みは、見ている者も強制的に幸せに引きずり込む。そこから一転、全力シャウト時の相変換もお見事と言うしかない。つい、いつまでも見入ってしまう不思議な引力が赤ん坊にあった。

そんな風に赤ん坊に引きつけられる心を自分が持っていたことも大きな発見だった。そればかりではない。赤ん坊の魅力もさることながら、リュカを抱くアンドレが、愛しそうに目を細める様子や、低い声で歌うようにリュカに語りかける時にも、なぜかオスカルの胸はざわついた。

一度なぞ、やはり二人で赤ん坊を見入っていた時、何かこう泣きたくなるように胸が締め付けられ、赤ん坊を抱く幼馴染ごと抱きしめて撫でくり絞めた上に口づけの嵐をお見舞いしたくなる衝動が溢れ出て来て驚いた。

勿論クールな態度を貫いたが、赤ん坊に場を支配され、アンドレとの間に建設的会話が成り立たないまま終わっても、その時間に幸せを感じている自分をオスカルは認めざるを得なかった。

波及的影響はそれだけでは終わらない。アンドレから衝動的な愛の告白を受けて以来、彼との間に横たわる拭い去れない距離感が、赤ん坊のいる空間では消滅することもわかった。

赤ん坊がいると、アンドレは遠慮や従者仮面を取り払うことが出来るらしく、子守り役が増えた忙しさとは裏腹にリラックスした表情でオスカルと場を共にしてくれる。

先ほどのように、平気で額を突き合わせて笑い合ったり、身体的接触に気を使わないでいられたり、まるで昔の遠慮ない関係に戻れたかのようだ。これは、オスカルにとって嬉しい変化だった。それなのに、きゅんと沁みるような痛みが胸に常駐するようになってしまったことだけは謎だったが。

結局、リュカの件が落着するまで、アンドレはリュカに貸し出したままにしておくことにしたオスカルだった。今夜もリュカがらみでバタバタした挙句、去って行った彼は多分もう戻って来ない予感がする。

いや、『待っていろ』と言ったからには必ず彼は戻っては来る。そしてのたまうのだ。『悪い、デュポール爺さんを手伝うことになった。続きは明日な。マルタを寄越すからおまえはあまり夜更かししないで早く寝ろよ』とか何とか。

この予感は絶対に外れない。手持無沙汰になったオスカルの目にアンドレがニ口啜っただけで残していったティ―カップが映った。

せっかく飛び切りブランデー風味濃厚なスペシャルティーをお嬢様御自らの手で入れてやったというのにけしからん。オスカルは、アンドレのカップを掴むと一気に冷めた琥珀色の液体を飲み干した。

「まずい」

オスカルは空になったティ―カップをまじまじと見つめた。スペシャルティーは冷めていたのに、なぜか唇がかっと熱くなった。

「ふん、最初からストレートにすればよかったのだ。ブランデーはストレートに限る」

熱く燃える唇がうずくので、オスカルは一人残されたことをいいことに、カップにブランデーを注ごうとした。が、ティ―セットと一緒に置いてあったはずのブランデーのボトルの姿は忽然と消えていた。

「あいつめ!」
痒い所に手の届く、行き届いた従者に成長した幼馴染は、痛い所にも抜け目なく手が届く男であったことをオスカルは苦々しく思い出した。


              続く



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