天使の寄り道3 

2017/12/23(土) 原作の隙間1788冬



「まあ、なんと酷いお話でしょう…こんな小さな赤ちゃんがひとりぼっちだなんて」
赤子を腕に抱いたジャルジェ夫人は話を聞き終わる前からほろほろと涙をこぼした。憮然としたまま壁際に寄り掛かっていたオスカルは、硬く組んでいた腕をほどいて母親の肩に手を置いた。

「たしかに酷い話ではありますが母上、母上が御自ら赤子の世話をなさる筋ではございますまい」
「あら、まあ。お世話と言っても乳母を雇いますしばあやもいるし、何も問題はありません。わたくしは時々抱っこしてお歌を歌ってあげましょう。人手はあるのですから」

確かに、ジャルジェ家のばあやは、先ほどから古い衣装箱をひっくり返してはやれ産着だのオムツを縫うだのと前線の鬼軍曹よろしく何人もの侍女を走り回らせている。

一度でも腕に抱いてしまえばたとえそれが木の根っこであろうとも人間の子供に育て上げてしまうと言う噂のある、服着て歩く母性とも婆性とも呼ばれる子育てのレジェンドに、突然登場した赤子の世話を焼くな、などと進言できる猛者は多分この世にいない。

身内の不始末の結果であるという赤子の出現に身も世もなく大嘆きして見せたのは、あれだ。一応の建前というやつだ。

「ですから!わたくしは人手の有無を問題にしているのではありません!」

微妙に主旨がすり替わってしまう会話にいらつく愛娘にジャルジェ夫人はこっそりため息をついた。生真面目にも程がある。この娘は赤ん坊の境遇に共感するよりも先に物事の筋を通したいのね。

もちろんこの赤子をジャルジェ家に正式な養子として迎えることは出来ないけれど、そんなことに目くじらを立てるより先に、神様の采配でやってきたこの子の愛らしさに素直に感動する余裕くらい持って欲しいものだわ。

そしてこうも思う。これはひょっとしたら遅まきながら娘に授け損なった分野の教育を施すために天が与えてくれた千載一遇の機会かも知れないと。伊達に百戦錬磨の将軍を夫に持っているわけではない。夫人の頭には瞬く間に戦略が出来上がった。


「不思議な巡り合わせに導かれてこの子は今ここにいます。一度腕に抱いて、この小さなお手てに指をきゅっと握られてしまったら、もう目が離せなくなってしまうでしょう?神様が人間をそのようにお創りになったのですよ。ほら御覧なさい、オスカル」

オスカルは渋々母の腕に抱かれた赤子を覗き込む。とりあえずヤギの乳を与えられ満腹した赤子は眠っているようだったが、オスカルが覗き込んだ瞬間に目を開けた。そして新生児ならではの、ほやんとした天使の笑みを浮かべる。歯のない小さな口元とぷっくりした頬は人のハートをとろかす完璧な形に相成った。

「うっ!」
さすがの准将閣下もこの笑みには一発で撃沈するより他はない。オスカルらしからぬ絶句音を発して。
「うわあ、かわいいなあ」
オスカルより一段高い位置から彼女の肩越しに覗いていたアンドレが素直な歓声を上げた。それを聞いた母君は同志を得たかのように嬉しそうにはしゃぐ。
「ええ、これこそ天使の笑みですよ、アンドレ。ああ懐かしいわ」

この状況にのんきに目じりを下げているけしからん幼馴染の鳩尾にかるく肘打ちをお見舞いし、オスカルは赤ん坊に骨抜きにされている家族の中で唯一正気を保てる人間は自分しかいないことを確信した。

「子供には保護を受ける権利がございます。何らかの形でその子に健全な養育環境を与えてやることに異論はございません。ですが、母上があたかもご自分のお子のようにその子をお育てになる道理は…!」

非常識だらけの条件下で成人した張本人がむきになって問題視する家族問題って何なのかしら?そんなものがこの世にあると考える方が不思議だわね。母君はくそ真面目な愛娘と腹を抑えて声を出さずに呻く気の毒な従者を見やってもうひとつため息をついた。

「では、劣悪な環境の孤児院へ送りますか?わたくしにはとてもできませんよ」
「適切な養子先を探すなり、孤児院へ寄付を増額するなり方法はございますでしょう」

そうね、最終的にはそれが現実的な解決策であることは間違いないけれど、今この時だけでも慈しんであげたいとは思わないのかしら。だってこの子は特別な縁を持って我が家に来たのだから。母君は爆弾を落した。

「オスカル。この赤ちゃんはただの孤児ではありませんよ。その娘さんによれば、赤ちゃんの父親はあなただと言うではありませんか」

「ははうえっ!」

オスカルは出来るものならピナツボ火山のごとく火を噴いて屋根を吹き飛ばしていただろう。よくできた従者は今度は別の理由で腹を抑えて二つ折りになって声を殺している。居間の角でにやにや嬉しそうにほくそ笑んでいた父将軍が好好爺よろしく後ろ手を組んで赤ん坊を覗きに来た。

「ほう、金髪だな。男の子か」
「ええ、男の子ですわ」
「ちと、痩せているかの」
「ええ、早急に乳母を探しにやらせましたわ」

もはや孫を迎えた祖父母の図、そのまんま肖像画にしてしまいたい構図以外の何物でもない。

「ちっ父上までふざけるのもいい加減にして頂きたい!」
「いや、何、はっはっはっ!」

父将軍は天井に向かって豪傑笑いをかますと、真っ赤に染め上って沸騰している末娘を愉快そうに横目で見やった。その目は『どうだ、おまえも濡れ衣をかぶる男の気持ちがわかったろう』とあからさまに挑発している。

「時にオスカル、その何だ。この赤ん坊はともかく、他に隠し子の一人くらいはおらんのか?適切なルートを通して我が家の養子としてやってもよいのだぞ?ん?」
「お、おのれ~~~っ」

父親の挑発に、理性をまるごと脱ぎ捨てた娘は抜刀に及ばんとした。しかし、その十分の一秒前、アンドレが後ろからオスカルの両腕を封じ込めたので、娘は身をよじりながら地団太を踏むことしかできなかった。

「おいおい、落ち着けって!」
「ばっ、馬鹿野郎!離せ!」
「はーっはっはっは!」
「くそったれ!」

益々興奮した娘はアンドレに抱き留められたために二本ともフリーに使えるようになった長い脚で父親に蹴りを入れんと左右両方の脚を振り上げた。老若二人の男にとって当然想定内だったその足技は、見事な連携プレーでギリギリかわされた。

片や栄光に輝く数多の武勲を誇る百戦錬磨の将軍。片やご令嬢の行動パターンを知り尽くした幼馴染従者。この二人がタッグを組んでしまってはさすがのオスカルにも勝ち目はない。

「ちきしょう!卑怯者!」
「卑怯もラッキョもあるもんか、精進せい!」

黒髪の従者が娘の斜め後ろ、手を伸ばせばすぐ届く場所にいることをちゃっかり確認した上で父将軍が犯行に及んだことは明白だった。勝利に気を良くした父君は、娘の逆襲をあわれな従者一人に押し付けると、高らかに笑いながら居間を出て行った。

そんな騒ぎを子守歌代わりに余裕で眠りについた赤ん坊の温かな重みを楽しみながら、夫人は考えを巡らせた。

『これはかなり育てやすいタイプの子供だわ。オスカルの情操教育には打ってつけだけれど、この子の教育的観点から見たら時々コブラとマングースが決闘をやらかす我が家の環境は問題かもしれないわね。最初に覚える言葉がく○ったれだなんてことになりかねないし』

しかし、すぐにその問題の環境下でもちゃんとかなり真っ当に育った一例が目の前にいることを夫人は思い出した。しかもその一例は辛抱強く怒り狂ったオスカルを宥めている。そうだわ、気の毒だけれど、彼に協力してもらいましょう。夫人は眠った赤子の尻を優しいリズムをつけて叩いた。


               続く
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