天使の寄り道2 

2017/12/22(金) 原作の隙間1788冬
1788年11月15日

その日は面会日ではなかったが、少女は真っすぐ衛兵隊本部のホールを突っ切り、本部と兵舎をつなぐ渡り廊下に進入した。面会日であっても、訪問者は面会室かホール、天気が良ければ中庭で兵士と面会する決まりであり、兵舎への立ち入りは防犯上の理由で禁止されている。しかし、少女は脇目も振らずに兵舎へ進入した。

三々五々、すれ違う兵士はここで出会うはずのない女性の姿に驚き歩を止めるものの、誰も少女を咎め立てしようとはしなかった。少女の鋭い眼光、意思の強さを示す引き結んだ口元が、わたしは女人禁制の兵舎をつっきる当然の権利を持っている、と言わんばかりの気迫を放っていたからだ。

少女とすれ違う兵士は、彼女が何か特殊な事情で立ち入り許可を得ているか、軍則が知らないうちに変更されて女性の清掃係でも雇い入れたかと、黙って見送るばかりだった。少女はそれほどまでに堂々と背筋を伸ばして歩を進めていた。

その堂々たる態度とは裏腹に、その身なりは明らかに彼女が最下層に属する人間であることを示していた。無造作にひとつに束ねられた栗色の巻き毛は若い年齢に似合わず艶がなく油汚れでぺったりと固まっていた。ボンネットは元の色が分からないくらいに変色し、継だらけのショールも薄い綿のスカートもそこここが擦り切れて裾は経年の汚れで黒々と変色している。

ボリュームが乏しいペチコートが痩せた体の線を浮き上がらせ、左右いびつにすり減った木靴の中は待降節が始まろうとする季節だというのに素足だ。厳しい暮らしぶりであることが明らかに見て取れるその少女はぼろぼろの布に包まれた包みを両腕で大切そうに抱き抱えていた。

少女は人の気配が濃厚な食堂娯楽室に注目した。あそこなら大勢兵士がいるに違いない。少女はある兵士を探していたのだ。名前も階級もわからない。しかし、探し人は一目見れば忘れない容貌だと聞いているから、すぐに見分けられるはず。絶対に見つけ出してやる!

少女は駆け足になった。丁度昼食が終わる頃合だったため、食堂には数十名の兵士が談笑している。両手が荷物で塞がっている少女は半開きになっていた扉を体で押し開いて食堂へ飛び込んだ。

あり得ない訪問者の突然の出現に兵士が一斉に少女に注目する。少女も視界に入るむくつけき男たちを端からふるいにかける。違う、あの人も違う、違う、違う!どうして?確かにフランス衛兵隊だったのに。青い制服で王宮の警備をしている。でもいないわ。どうしよう。

緊張の極みはもうとっくに通り越し、気力だけを振り絞ってここまでやって来た少女は絶望のあまりへなへなと座り込んでしまった。顔面は蒼白で両肩はがたがたと震えている。それでも大切そうなぼろ包みだけはしっかりと両腕から離さない。

「おい、大丈夫か」
真っ先に大柄でやや強面の兵士が軍靴をどかどかと鳴らして近づいて来た。少女は思わず身を守るように身をすくめ、包みを抱きしめて背を丸めた。
「何にもしやしねえよ、心配すんな。おい、誰か水持って来い」
「この様子じゃ水より食いもんじゃねえか」

銀髪にそばかすのある若い兵士も近づいて来て少女の傍に片膝をついた。自分とさほど年の変わらない少年のような兵士の顔見た少女はやや安堵した。ああ、この兵隊さんは優しそう、良かった。と、警戒を緩めたとたんに、少女の瞳から堪えていた涙があふれ出した。

「ごめんごめん、こいつ見てくれはおっかないけど、見かけによらず親切だから心配するなって。立てる?こっち座んなよ。何か食いもん残っていないか見てくるからさ」

大男はうっせーな、と銀髪を小突き、銀髪兵士はそれを予測していたかのようにやり過ごすと、少女に荷物持ってやるからそれ貸しな、と手を差し出した。少女はとっさに取られるまいと荷物を抱え込み、背を向けて蹲った。銀髪の兵士はわかったわかったと言いながら両手を上げて無害を強調し、強面の兵士を振り返った。

「どうする、アラン」
「おい、誰かアンドレのヤローに知らせるか、隊長いたら直接報告して来いや!」

アランと呼ばれた兵士の声の大きいことに怯え、いよいよ逮捕されるかと身を縮めた少女は、今や大勢の兵士にとり囲まれていることにようやく気がついた。当然のことながら男ばかりである。逮捕されるのが先か、それとも乱暴される?

がたがたと肩の震えが大きくなり涙は止まらない。しっかりするのよジュリ、このくらい覚悟していたはずよ。目的を忘れないで。少女は大切な包みを抱え直した。

ジュリを物珍しそうに取り囲む兵士をかき分け、別の兵士がやって来た。
「シチューと蒸したジャガイモが少し残っていたから持って来た。ここは女人禁制だけれど君に何か正当な理由があるなら、俺らの隊長は悪いようにはしないはずだ。ちゃんと申し開きできるように腹ごしらえするといい。倒れそうじゃないか」
と、静かな語り口で話しかけて来た兵士は少し毛色の違う理知的な眼差しをしている。

「おう、ユラン」
「隊長には知らせをやったよ。いきなり司令官室へ連れて行くのもどうかと思うんでね。いずれにせよ、食わせてやらないと話もできんだろう、この様子じゃ」
「そうだな」

包みはしっかり抱えたまま、促されるままに武骨な食卓についたジュリの前にトレイが置かれた。湯気の立つシチューの皿に潰したジャガイモが一盛り添えられている。最後に食事らしい食事をしたのはいつだったか。野菜の根っこだのカビたパンの切れ端だの、何か食べられるものが手に入れば、そのつど口に押し込むことしかして来なかった少女にとって、料理された温かい食事は久し振りだった。

しかし渇いた口腔の奥からは唾液すら出てこない。空腹なはずだったが、あまりにも恒常的に続いた飢餓状態が少女から健康な空腹感を奪い去っていた。ただ、思ったよりも親切な扱いを受けて心が最後の緊張を解き放ちそうだ。だめよ。一度でも弱気になったらきっともう二度と立ち上がる気力は残っていない。その前にやらなくてはいけないことがある。あの兵を見つけなければ。

「どうしたの?食べなよ。味はともかく腹はいっぱいになるよ」
銀髪の兵士が一歩距離を保ちながら少女を促す後ろでは、アランと呼ばれた大柄でもみ上げの兵士が物見高く集まった兵士達を蹴散らす声が響く。
「おら、おら、いつまでもくだ巻いてんな、おまえら。見せもんじゃねえぞ!」

少し気が遠くなってきたのだろうか。兵士のだみ声が遠くに聞こえ、ユランと呼ばれた兵士の端正な顔が歪んで見えたような気がした。
「食べられないほど弱っているのかな?それでよくここまで歩いて来たじゃないか」

どうしよう。少女は迫り来る自分の気力の限界を悟った。正気を保っていられる時間はあといくらも残っていないだろう。自分はどうなってもいい、でもカトリーヌと約束したことだけはやり遂げなければ。

次第に重くなる瞼を少女が無理やりこじ開けたその時、食堂娯楽室の入り口から数人の兵士たちが入って来た。一際背の高い黒髪の兵士と年かさの口ひげを生やした兵士、それから長い金髪を無造作に肩に垂らした細身の兵士。その三人を中心に食堂外で騒ぎを聞きつけた兵士らがぞろぞろと大勢ついて来ている。

焦点がぼやけかけた少女の瞳はその全ての兵士を見渡すと、ついに一人の兵士の姿を捉えた。見つけた!あいつだ!少女はよろよろと立ち上がった。一歩、二歩、荷物を抱えたまま踏みしめるように歩を進める。誰かが少女に何かを言ったようだが、もう少女の五感は一人の兵士しか捉えていない。その兵士と視線が合う。少女は残った全ての力を振り絞って叫んだ。

「あんたの子を連れて来たわ!よくも妹を弄んだわね!カトリーヌはあんたの子を産んで死んだのよ!」

一瞬にして食堂娯楽室は静まり返り、何かしら心当たりがある男もない男もその場にいた全ての男たちは凍りついた。そして、その次にそれぞれ自分以外の誰かを見た。


                   続く

WEB CLAP



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