伝説の功罪(旧作オリジナル)(再掲)

2025/02/15(土) 原作の隙間 1789年冬
*こちらは、2006年に旧サイトに掲載したオリジナルです。改編前と後で何が変化したのだろうと気になる方以外は読む必要は全くありませんが、まあこんなのも面白かろうと思いUpしました。当時の今よりもヘタレた長文はお恥ずかしい限りですが、良かったら。





伝説の功罪


聖人伝説は、地上の灯台のようなものだ。世俗と天上の真理を繋ぐ橋渡し役が聖人だ。血肉を持つ人であった聖人が神の声を聞き、伝えてくれるから、世俗にまみれた人間が絶望から救われるのだ。

だから、歴史的事実を正確に伝えることはさほど重要ではない。霊的な道しるべとしてあるべき形で、伝説は生まれ変わればいい。

そうは言っても昨今の聖ヴァランティンの扱われ方はどうだ。命を賭して禁じられた結婚を祝福し、自らも純愛のために殉教したというのに。本人がベルサイユの軽薄なお祭り騒ぎを見たら、大いに嘆くと思わないか?

うず高く積まれた恋文やらカード、意味ありげな贈り物を根こそぎ吹き飛ばさんばかりのため息をつきながら、幼馴染とそんな会話を交わしたのは去年だったか、一昨年だったか。

いや、「禁じられた結婚」などと今なら胸をしめつけられるキーワードを戯れにでも口に出せた頃だからもっと何年も前だったのだろう。

寄木細工のビューローに片尻を乗せ、腕組みをした格好で寄りかかったオスカルは、手紙や床に積み上げられた贈り物の仕分け作業をする三人の使用人の中の一人をぼんやりと眺めながら回想していた。

聖ヴァランティンの祝日がお祭り騒ぎに近いと言っても、そう捨てたものでもないさ。打ち明ける勇気のない恋心を、お祭り騒ぎに乗じて伝えられるかも知れない。冗談めかした恋文に、真剣な気持ちが秘められていることもあるだろう。

だとすれば、聖ヴァランティンは気弱な恋の救世主として世紀を越えて活躍していると言えないか。

そう言ってオスカルの幼馴染が笑ったのは、更に何年も前、まだ彼女が近衛連隊長になる前。届く恋文の量が最高値を記録し、書斎を埋め尽くした。

毎年の恒例行事であるサン・ヴァランタンに贈られた手紙や贈り物への礼状作成は、気の遠くなるほど忍耐を強いる重労働だった。果てそうな気力を保つために当の本人と彼女の幼馴染は、冗談とも本気ともつかない軽口を叩き合いながら作業するのが常だった。

今思えば、その幼馴染の軽口の中にこそ、秘めた真心が隠されてなかったろうか。うかつだった自分に今更腹が立つオスカルだった。

今年も季節はめぐり、その年間行事がジャルジェ家の書斎で進められている。衛兵隊へ転属してからは恋文、カードの類はやや減り、系統立てた礼状作成手順が確立したため、効率よく分業されて行われるようになっていた。

「家紋入りのカードを添えた花とアーモンド菓子をお返しするリストはこれで洩れはないと思います」

品物の山とリストを黙々と付き合わせていたアンドレがおもむろに立ち上がり、品よく白髪を纏めた老執事にリストを手渡した。老紳士は口ひげを引っ張りながら眼鏡をずらしたり引いたりして紙面に焦点を合わせる。

「今年は定型文が印刷されたカードを発注しました。もう納品されていますけど、見ますか?」

どれどれと椅子を引きながら腰を落とす老人の手元が手暗がりにならないよう、アンドレは燭台の位置をずらし、老執事はカードを確認すると、これは美しい金文字だ、と感嘆の声を上げた。

「オスカル、おまえも確認するか?」

オスカルは軽く首を横に振り、すべておまえに一任すると手振りで幼馴染に知らせ、書斎を後にした。背後では、今年は定型文を手書きしなくていいことを感謝する老執事の声が聞こえた。

宛名書きもおれがやります、と労わりを込めた低い声も聞こえる。声の主の柔らかな微笑みは、後ろについた目で見える。老齢の執事に対する配慮が手厚くなったこと以外は、一見例年と変わらぬ様子の彼だった。

ややあって、オスカルの居間の扉がノックされた。オスカルは顔を上げただけで特に返事もしなかったが、入室許可を声に出した位の間をおいて、音もなく扉が開かれた。

「終ったか?アンドレ」
幼馴染は片手に手文庫を抱えていたから、仕分け作業が終了したのは聞かずともわかっている。オスカルが個人的に返礼を書く必要があると彼が選り分けた書簡だけが届けられる手はずになっているからだ。

「まあね」
彼流のウィンクが飛んで来た。片目が閉じたままの彼は、かすかに左側の口角を上げ、永久に閉じられた目蓋をきつく結び直す。子供の頃に、一生懸命顔中ゆがませて不器用なウィンクをくれた彼を思い起こさせる。大人版のそれは、茶目っ気が程よくブレンドされ、小憎らしく垢抜けていたが。

オスカルはそんな彼の様子に安堵を覚え、自分が妙に肩を張っていたことに思い至った。ふう、と息をついて凝り固まった首を廻し、アンドレが箱を文机に置くのに合わせて場所を移動した。机につくと、魔法のように音もなく椅子が引かれ、ぴったりと吸い付くように彼女の腰を収めた。

「少しでも判断が微妙な文は選り分けないでそこに入っている。おれが扱ってもいいものが混じっていたら、抜き出してくれ。俺はその間ここで仕事を始めているから」

アンドレは手文庫の上に別束になっている書簡を取ると、少し離れた壁際のコンソールに移動し、椅子は使わず床に膝をついた姿勢で羽ペンにインクを浸した。そこが壁面照明が丁度落ちる場所だからだ。

アンドレの分担は定型文に相手に合わせた追加メッセージを加えた礼状を作成することだった。アンドレの作成した文面をオスカルがすべてチェックしていた時期もあったが、今ではお安全にお任せである。

いつからチェックを止めてしまったのか。オスカルは思い出そうとする努力をさっさと放棄した。

オスカルが自ら返事を書く相手は、日頃個人的に親しく交流のある相手、過去か現在に多大に厚情を受けた相手、初めての相手、要注意人物である。彼女はひとつひとつ取り上げては差出し人を確かめた。

記憶力はいい方だから、アンドレの用意してくれた過去のリストを参照しなくても、差出人の動向はよく読めた。

ジェローデル少佐からは、カードも花もなかった。去年までは、かつての上官に対する親愛と変わらぬ友情と、健康と多幸を祈る文句が綴られた上品なカードが添えられ、小卓に飾るに程よい小ぶりの温室薔薇のアレンジが届いていた。

男性から女性への求愛を思わせるような文句はなく、これ見よがしに高価な真冬の温室花が馬車一杯に届くようなこともなく、贈られた方の心には留まるけれど、負担を感じさせない適温を心得た贈り主の一人だった。

だから例年通りの挨拶状が届いても、変に深読みして騒ぎ立てる必要は全くないのだが、沙汰がないのは彼のけじめなのか、潔い行動とは別に心の痛みが深いのか。

反対に、しばらく音沙汰のなかったフェルゼン伯からの手紙があった。フェルゼン伯も以前は友情のカードを贈ってくれていたが、コンテ公の舞踏会以降、ふっつりと跡絶えていた。

オスカルが急いで開封すると、社会情勢に充分留意した行動をとるようにとやや辛口に切り込みの入った文が目に飛び込んだ。厳しさを装った口調が返って彼の心配の深さを表している。

オスカルは苦笑を洩らし、彼の署名を見て鼻の奥につん、と痛みを感じた。あなたのヴァレンティンより、という慣用句化した言い回しをもじり、あなたの友より、と署名がされていた。

一度は失ってしまったと思った親友との絆が、掌の上に戻って来たようで嬉しかった。

アンドレの手が入った分類はほぼ完璧で、オスカルはほどなく手を止めた。差出人の名前が記名されていない分厚い書状が一通。蜜蝋だけでは封印し切れないほどの厚さなので、麻紐で縛ってある。腹を割って付き合える友は悲しいかなそう多くないので、喜んで返事を書きたくなるカードはごく少数だ。

その中にはロザリーから届いたものがあった。多分次に開封するだろう。あとは、少々難しい御仁からの恋文で、当り障りない社交上の返礼を返すことで恋愛遊戯気分を収めて頂く必要のあるもの。

危ないほど熱烈に愛を語る恋文はいまだ多数来る。そのほとんどは女性だが、去年のはちゃめちゃな舞踏会以降、男性からも危ない文が届くようになっていた。彼らには礼は尽くしながらもクールに返礼を返すのが常だから定型文でも十分なのだが、しかし危ない方々故、万が一でも誤解や期待を抱かせるような表現があってはいけない。そこが人任せにできない所縁であり、オスカルの頭痛のもとでもあった。

オスカルが一段落した気配をアンドレはいち早く察し、羽ペンをペン差しに戻した。
「俺によこすやつはあるか?」
「うん、三通ほど頼んでもいい」

オスカルが言い終わらないうちにアンドレは彼女の横に立っていた。
「どれ?」
「この三通だ」
「わかった。じゃあ明日までに仕上げておく」

アンドレはオスカルが手渡した三通を受け取ると、すたすたと自分の作業場に戻り、さっさとインク壷のふたを閉め、紙類を集めて小脇に挟んだ。その先の行動が誰でも予想できる事務的な仕草だった。彼は仕事を持って退出するつもりなのだ。椅子にかけずに作業していたのはフットワークを軽くするためで、彼流の思いやりがウィンクなどで場を軽く見せていたのだ。

幼馴染の均衡が破れてしまった夜を境に、今までなかった距離と緊張を間に挟んで二人はあった。しかし、忘れようにも忘れられないオスカルの婚約騒動後、ノエルの頃から何かを吹っ切ったように静かに落ち着いたアンドレが、もとの屈託のない笑顔をごくたまにではあるが見せてくれるようになり、懐かしい親密感も少しずつ取り戻している。

それは、旧知の関係に戻ると言うよりも、新しく再生しつつある関係と言えた。より近く、太くなった信頼や思いやり、遠くなった温もり、無意識が意識上に現れた敬意と遠慮など、新旧さまざまな情感が形を変え、混在して生まれ変わろうとする途上にある。今だ形が定まらず心許ない共有空間であっても、今度こそ独りよがりではない絆に創り上げられそうな予感がオスカルは嬉しかった。

だから、でもないだろうが、オスカルは例年通り気の張らない戯言などたたきあい、楽しく舌合戦に興じながら一緒に作業できるものと思っていた。あまりにも当然の期待だった分、オスカルはアンドレのそっけなさに酷く落胆した。アンドレも同じ気持ちでいてくれると思い込む間違いをまた繰り返そうとしていたのだろうか。突然足元に大穴が出現したような危機感にオスカルは身を震わせた。

オスカルの属する社会では、聖ヴァレンティンの日だからと言って、誰も真剣な愛を返して貰おうなどと考えているはずもなく、所詮は社交界の無礼講の祭りと考えるのが普通だ。
オスカル自身が社会的な礼儀以上に捉えたことがなかったため、アンドレもただの書き仕事として受け止めているだろうと思い込んでいた。しかし、アンドレの様子は、すぐに立ち去りたがっているようにオスカルには見えた。

そんな彼の様子に、オスカルは自分が非常に残酷な仕打ちをしているように思えてきた。臆面もなく愛だの恋だのお気軽無遠慮に語る有閑貴人に対して礼を尽くす仕事を彼に与える自分。誰よりも深い真心を持っているのに、祭りにかこつけてでさえ愛情の片鱗すら表現することを許されないアンドレに対して何て配慮に欠けた処遇だろう。そんな自分が嫌でたまらないどころか恐ろしい怒りまで感じる。

「アンドレ」
呼び止めてはみたものの、オスカルはその先をどうして良いやら途方に暮れた。去年も一昨年も一緒に作業したが、さすがにあの一件以降、例年のような気安さは望めなくなっている。他愛のない冗談を飛ばすこともなく、互いに愛の迷文句の傑作を探し出しては笑い合える雰囲気にもなれず、静かに淡々と仕事を進めた。ただ、彼にとってはくそ面白くもない作業にも関わらず、嫌な顔せず付き合ってくれる様子を見て安堵したかったので一緒に仕事したのだった。何という自分勝手さ。何故そんなことが平気だったのだろう。

そして今年は昨年秋に婚約破棄したことで、すっかり禊(みそぎ)を果たしたつもりになっていた。そんな傲慢な自分の尻を蹴り飛ばせるものならピレネーの果てまで飛ばしてやりたいと思った。
「ん?何?」
呼び止められたアンドレは、静止してオスカルの次の言葉を待っている。
もう止める、今年から返事など出さない、と駄々を捏ねるのは簡単だが、それでは問題が別な方向にすり替わるだけだ。オスカルは逡巡した。

「どこへ行く。ここでやって行けばいい」
アンドレは、小首を傾げるとずり落ちそうになった紙束を抱えなおした。
「もう、夜中だよ」
「私はまだしばらく起きている。それにおまえを部屋に帰せば蝋燭を節約するに決まっている。私の部屋なら明るいし、本当はおまえに・・・」
この仕事はさせたくない、とはなかなか言いにくい。二十年近くも毎年手伝わせておきながら、今年、いや今夜になって急にいたたまれなくなったとは。その理由は彼女自身に対してだって満足に説明がつかないでいる。

「夜間の書き仕事はさせたくないのだ。目に負担がかかる」
これはこれで別のオスカルの本音だった。アンドレは一瞬たじろいでからオスカルの瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。まさか時々見えなくなることがわかってしまったか。そんな様子はなく、一時安堵したが、置き去りにされる少女が追い縋るような瞳が見つめ返して来た。アンドレの心臓がとくりと音を立てる。

実はこれがアンドレの最近の苦悩だった。オスカルは婚約を蹴ってしまってから、頻々とこの瞳で自分を見るようになった。置いて行かないで、どこにも行かないでと声になって聞こえるような錯覚を覚えることもある。大概はほんの一瞬の出来事で、はっと胸を突かれて目をそらした後、恐る恐る彼女を見やると、いつもと変わらぬ凛とした眼差しに戻っている。

どんな役回りでもいいから必要とされていたい、彼女の傍にあり続けたいとあまりにも強く思う気持ちが見せる幻覚なのか、本当にオスカルがそう訴えかけているのか、アンドレは判断する自信がない。自分の生涯かけた願いを脇に置いて冷静に見極めることなど到底無理だ。だとすれば、十中八九、幻覚と考えた方が思い上がらずに済むだろう。どちらにしても、自分からオスカルの傍を離れるつもりはないのだ。

ただこの瞳に出会うと、求められているような感覚が沸き起こる。腕を伸ばして抱きしめたくなる。自分の方が求めて止まない衝動は何とか制御できるようになったものの、求めらる感じはまた別ものだ。その場で射殺されたとしても、彼女の求めを満たしたい。こっちの衝動の方がもっと始末に負えない爆発的な力を秘めた代物で、まだコントロールするコツを掴んでいない。全くもってやっかいな幻想である。同じ幻覚なら、ピンクの象が空を飛ぶとか、おばあちゃんの嫁入りとかの方がよっぽど冷静に対処できるというものだ。

「ありがとう。じゃあ、そうするよ。眠くなったらすぐに言え、な」
そう言うと、オスカルは素直に嬉しそうに微笑んだ。ああ、何と美しい笑みを俺にくれるのだ。俺が傍にいる方が嬉しいのか。また誤解したくなる。つい手が伸びそうになり、アンドレは頭から氷水を浴びる自分を想像した。

アンドレが部屋に留まり、二人は沈黙のうちに作業を再開したが、オスカルは何か気まずくて仕方がない。今更沈黙がこわい間柄ではなし、表面上は以前と全く変わりのない二人に戻れたこの頃なのに、今夜は妙に緊張する。サン・ヴァレンティンに絡んだ作業をしていることが元凶に違いない。気弱な恋心の救世主どころか私には迷惑千犯な聖人だ。オスカルは手元を留守にしたまま、そんなことを思い、その考えに驚愕してがばと身を起こした。気弱な・・・何だって?

「?」
怪訝な顔をしたアンドレも手を止めて、オスカルの方を見ている。オスカルは慌ててなんでもない、と身振りで制した。そして何か軽い話題がないか、フルスピードで頭脳を回転させる。
『たまにはおまえの方も手伝ってやらねばならんな』
と、余裕で微笑んでやったらどうか。だめだ。自分と違ってノーマルな男であるアンドレに届くのは、怪しい恋文よりも純粋な娘の心ばかりなはずだ。誰にも親切だけれどなびかない硬派の男という評判がすっかり定着してしまった今だから、なおさら気軽なお遊び目的の恋文など来ないだろう。
真面目な娘の心を茶化す趣味はないし、自分が地球の反対側まで落ち込むのが目に見えている。何か、もっと軽い話題はないものか。

『ところで、おまえは誰にもカードなど贈らなかったのか?』
聞けるか、そんなこと。ばあやとか、多分母上や姉上にも贈ったろうし、アンドレの食事の世話を嬉々として焼いているマルグリットや、私付きで同僚のマルタにも日頃の感謝を返す機会としてちょっとした贈り物くらいしているだろう。別にそんなことを知りたい訳じゃない。知りたいのは・・・いや、別に何かを知りたいのではなく、私は会話を楽しむための話題を探しているはず。なぜそこに行き着くのだ?

『今年も、おまえからのカードがないな。いつか贈ってくれるものと思って待っているのだが』
最悪だ。今更洒落にもならない。それを言うなら、もっと何年も前に言うべきだった。その頃ならアンドレもそうか、気づかなかったな、とか何とか笑ってくれたろうに。そして、エスプリのきいた滑稽な詩でも書いてくれたろう。よく注意して見れば、行間に秘めた気持ちが読み取れたかもしれない。いや、そんなことに気が付く私なら、今頃何かが違ったははずか。

かきあげてもかきあげても落ちてくる邪魔な髪をわしわしとかきむしり、眉根に皺を寄せたかと思うと、頬を赤らめてみたり、水滴を振り払う猫のように頭を振るオスカルを、アンドレは唖然と眺めていた。今年は差出し人不明の怪しい手紙はなかったはすだし、オスカルの熱烈なファンである貴婦人方でも、かけ離れてその・・・変態的な人物はいなかったと思ったが。

オスカルの広い文机の上には、未開封の手紙ばかりが散乱しており、一向に仕事が進んだ気配はなかった。アンドレは首を捻る。変態じみた手紙で苛立っているわけではないのなら、オスカルのこの落ち着きのなさは一体何なのだ。見ている傍からオスカルが羽ペンの羽根先をかじった。

「あらら」
アンドレが思わす声を出し、二人の目が合う。
睨み合うこと数十秒。
「オスカル、腹が減ったのか?」
「・・・違う」
オスカルは俯いて、上目使いでアンドレを見た。本人知ってか知らずか、アンドレのハートを串刺しにする究極の角度だった。さすが、今夜は聖ヴァレンティンの日だけのことはあって狙いは正確だ。などとアンドレは一人おどけてみたが、串刺しになったハートは誤魔化されない。分別を失うのは時間の問題だ。これ以上ここにいたら危険だ。アンドレは立ち上がった。

「疲れているのだろう?今夜はここまでにしよう」
「いやだ、もう少し」
同じく跳ね上がるように立ち上がってオスカルはアンドレの腕を掴んだ。その衝撃でインク壷が硬質な音を立てて文机を転がり、黒いインクが弧を描いて重ねた便箋を染める。オスカルのシルクのブラウスにも黒い斑点が飛び散った。

オスカルはまたアンドレの悩みの種となる瞳を見開いていた。切なげな、吸い寄せるような潤んだ瞳がアンドレを見上げ、長く美しいカーブを描いた睫毛が滑るように往復する。アンドレは戦慄した。今、抱きしめても拒まれない確信めいたものがアンドレの背中を圧倒的な強さで押した。幻覚って目で見るだけではないんだ、覚えておくべしと違う方向へ注意を向けてアンドレは必死で耐えた。追い討ちをかけるようにわずかに開いたオスカルの唇が小刻みに震える。目をそらせとアンドレの脳幹の奥で警鐘が鳴り響いているのに目が離せない。オスカルもアンドレの腕を掴んで放さない。

高鳴る心臓の音以外、何も聞こえなくなった。
一呼吸、一呼吸を意識しないと息をするのも忘れてしまいそうだった。二人を囲む世界の全てが凍りつき、営みを止めた。時間も止まった。
硬直したアンドレの手から、紙類がさらさらと床に舞い落ち、一瞬二人の目が動くものに引き寄せられた。卓上でこぼれたインクが机の端まで広がり、盛り上がった黒い液体が雫となり、落下していく様子が何故か克明に見え、時間がインクの流れ落ちる速度で動きを再開した。

アンドレの職業意識が彼の窮地を救った。オスカルの瞳に射抜かれ捕らわれていた体が、染み付いた習慣に助けられるまま、するすると動き始めた。
「ああ、オスカル、じっとしてろ」
オスカルを制し、滴り落ちようとしているインクを机の端で未使用の紙で堰き止めながら、転がったインク壷を拾い上げる。卓上の手紙や便箋がインクの海に浸されないようにまとめて端に寄せ、すでに被害をこうむっていた書類を救い出した。床に落としてしまった手紙類も拾い上げ、被害状況を確認する。

「良かった、判読できないほど汚れちゃいない。だけど、おまえのブラウスはどうかな。マルタに言って…。いや、インクだからもう駄目かも知れないな」
オスカルは、てきぱきと後片付けをするアンドレを見詰めながら、自分の発した言葉が頭の中で何度もこだまするのを聞いていた。自分の行動がまるで他人事のように不可解だった。

『いやだ』
まるで駄々っ子だ。どうかしている。
けれど、みっともなく取り乱して、訳のわからない感情のままに、滅茶苦茶な我がままをそのままぶつけてみたい自分が突然現れた。アンドレを引き止めようとつかんだ腕をもっと引き寄せて、顔をその胸に埋めてしまいたかった。それは自分でも驚くほど激しい衝動だった。アンドレは酷く困惑していたが、決して嫌悪はしていなかった。強く一押ししすれば、きっと受け止めてくれたに違いない。希望的観測かも知れないが。

「・・・オスカル、オスカル」
混乱する思考の繭に入り込んでいたオスカルは、自分を呼ぶ耳に馴染んだ声ではっと我に帰った。アンドレはすっかり片付けを終え、中空に焦点をさまよわせたまま動かないオスカルを心配そうに覗き込んでいる。そっと肩を押され、机ではなくゆったりとした長椅子の方にかけさせられた。オスカルは、激しい感情の余韻を持て余して、それを押さえつけるように両腕で自分の肩をきつく抱いた。アンドレはその様子を見ると黙ってオスカルの傍を離れ、暖炉に新しい薪を足し、火かき棒で空気を入れた。炎が大きく立ち上がり、小枝のはぜる音が心地良く響いた。

「まだ、寒いか?」
アンドレが新たな薪を手にしたまま尋ねる。オスカルは首を横に振った。別の暖め方をしてくれるなら、もっともっと暖めて欲しいところが震えている。ずっと見えない振りをしていたけれど、確かにオスカルにもそれがあったと、彼女の片隅で目覚めた何かが訴えている。そして、暖め役は誰でもいいわけではないから、婚約は蹴ってしまった。暖炉の温度だって、誰と一緒にあたるかによっていくらでも変わるに違いない。

「マルタを呼んでくる。着替えないと」
「待て」

今夜はもう何度アンドレを引き止めたことだろう。しかし同じ呼び止めるにしても、そうさせるものの正体がおぼろげながら見えてきたオスカルは、自分の手綱を取り戻しつつあった。胸の中に飼っているらしい怪物の姿が完全に把握できているわけではないから、そいつをどんな覚悟でどう扱うか、腹をくくるにはまだ時間が必要だったが。

オスカルはアンドレを手招いて、横に座れとぽんぽんと長椅子の座面を叩いた。アンドレが恐る恐ると言った体でしばし躊躇を見せたので、彼女は短く一喝した。
「座れ」

なおも考えあぐねる様子のアンドレだった。オスカルは少し芝居がかった威厳を見せて、腕を組み目を閉じる。そして片目を細くあけ、わざと低い声で凄みをきかせた。
「何も取って食おうというわけではない、座れ」
カマキリの雄のように頭からばりばりと食われるなら本望だ、と喉もとまで出かかった本音をアンドレは無理に飲み下し、かわりに笑って見せた。昆虫の雄だってただ無償で頭を差し出すわけじゃないから洒落にならない。
「じゃあ、もっと怖い目にあわせてくれるのか?」

二人の目が合い、空気の一部が溶け、幼馴染のリズムがよみがえってきた。
自然と笑みがこぼれた。戒めを解かれたようにアンドレがオスカルの傍に近づく。オスカルはアンドレの上着の裾を引っ掴んで引っ張り、バランスを崩したアンドレは尻餅をつく格好で落下した。

「俺、ミンチに刻まれてパイ詰めとか」
「罰を受ける心当たりでもあるのならな」
アンドレは心底情けない表情をオスカルのようにわざとつくりながら指を折り、悪いんだが、と歯切れの悪く切り出した。
「助けてくれ、心当たりを数えようにも、指が足りない」
オスカルがぷっと吹き出す。
「足の指も使え」
「こっちの方が使いやすそうだ」

オスカルの両手をアンドレが包み込むようにとった。ごく自然にふざけ半分を装っていたが、アンドレは拒まれることを酷く恐れていた。以前は何の躊躇いもなく触れられた手。また再び触れても許されるのだろうか、思い上がりすぎてはいないだろうか。

オスカルはきゅん、と胸の奥をしめつけらる痛みを覚えたが、拒まなかった。不快な痛みとは違う、熱っぽくて泣きたくなるような甘い衝撃だった。
暖かい大きな手に残るインク染みが、なぜか愛しいと彼女は思った。
「足りたか?」
「どう・・・かな」

拒まれなかった。神様、感謝します。
体中に沸き起こる歓喜と感謝に、アンドレはそれきり言葉を失った。拒むどころかオスカルからは一瞬たりとも警戒する反応すら伝わって来なかった。
オスカルはオスカルで温もりを離したくなく、そのまま暖かな感触に委ねることにした。

抱きしめることは叶わなくても、オスカルの手だけは昔からアンドレに許された領域だった。おそらく、出合った頃から一番よく触れ合った。引っ張りまわされたとも言えるが。アンドレは彼女の両手を自分の膝の上に置くと、両親指で白い手の甲を優しく愛撫した。制御することさえできれば、美しくしなやかな手に触れることが許される。そのささやかな特権を守るためなら、何でもできるとアンドレは思った。

居心地のよい沈黙の中、二人の体温が互いの手を交差して相手の全身に行き渡るのを待っているかのように、二人は手を握り合っていた。

「どうかしていた」
オスカルがぽつりと沈黙を破った。オスカルは間違いなく何かに動転していたが、原因には皆目見等がつかなかったので、アンドレは静かに耳を傾ける。
「愛だの恋だのを軽々しく口に出す浮かれ騒ぎに付き合うのがほとほと嫌になった」
アンドレは、わずかに首を傾げたまま、何も言わない。黙ってオスカルを見つめ、次に続く独白を待っている。オスカルはオスカルでアンドレの合いの手を待っていたが、やがて焦れたように付け足した。

「そういう訳だ」
拍子抜けしたのはアンドレである。目が丸くなった。
「それだけ?」
「それだけじゃいけないかっ!」
怒った。つまり、まだ何かある。けれど、ずばっと指摘してしまったら最後、二度と聞き出せないことをアンドレは熟知していた。
「いけなかないけど。あはは、何か物凄い告白があるんじゃないかと思って冷や汗かいて損したな」
「何故そう思う」
「何故って・・・。おまえ、毎年それ言っているからさ。付文の山を目の前して、愛だの恋だのお祭り騒ぎにして嘆かわしいって、毎年ぼやいているじゃないか」

そうだった。呆けたか、私。オスカルは黙り込んでしまった。隣に座ったアンドレはオスカルの手の甲をぽんぽん叩きながらくすくす笑っている。
「今年は何故かよっぽど腹に据えかねたみたいだな」
確かに腹が立って腹が立って仕方がない。で、何故か。そう、そこが問題なのだ。とオスカルは腹の中でアンドレに答える。今年は社会風潮に怒っているのではないのだ。自分でもよくわからないから上手く言えはしないけれど、他人事みたいにのん気に笑っているこの男にも、少しは怒って欲しかった。

「おまえに、こんな仕事を平気でさせる私が嫌になった!と言い換えてもいい」
リズミカルにオスカルの手の上で跳ねていたアンドレの手が中空で止まった。何か外国語でも聞いたように、言葉の響きが意味として彼の理解に届かないようにオスカルには見えた。そして実際その通りだった。アンドレは呆けたようにオスカルを見詰めた。
「は、初めて聞いた」

それはそうだろう。初めて言ったのだから。それに、初めてそう思った。おまえが仕事として割り切ろうがそうでなかろうが、私が嫌なのだ。絶対に許せない。大人気ないと笑わば笑え。

などと、いきなり素直になるには、二十数年間の歴史が逆に邪魔をして今更気恥ずかしい。オスカルはもう一言ぶっきらぼうに言い放って口をつぐんだ。
「おまえも、馬鹿馬鹿しくてやってられない、と怒ったらどうだ!」

アンドレは、ぷいと横を向いてしまったオスカルを愛しげな眼差しで包んだ。照れを不機嫌で誤魔化そうとする常套手段に出ている。オスカルのどちらの台詞も、深読みしようと思えば際限なく解釈を広げられるし、ただのぼやきといえばその通りだ。社交にうんざりしたお嬢様の単なる悪態と捉えるのが一番分をわきまえた姿勢だと、アンドレは知っている。けれど、しゅんしゅんと薬缶のように沸騰を始めたオスカルには悪いと思いながらも、アンドレは温かな幸福感に包まれていた。

使用人を、人として、対等の友として扱おうとするオスカルの方が、貴族社会にあっては異色で常識はずれであるのに、昔からアンドレが不条理な扱いを受けるたび、彼女は烈火のごとく怒り狂った。年齢を重ね、人間が社会的生き物であり、その構造の裏表をより理解するようになってからも、その一点においてオスカルは変わらなかった。

今夜も同じだ。怒り方が唐突でわけはわからないが、二人の絆に深く根差した愛情の裏返しの怒りであることだけはひしひしと伝わってくるものだから、隣で猛烈に怒っているオスカルの真意をそれ以上詮索する気にはならなかった。二人が成長して、男女を意識し、すれ違いや過ちを幾つ経ても、オスカルは根幹のところで変わらないのだ。アンドレは目を閉じて幸福を心から味わった。

一方オスカルの方は、アンドレが怒るどころか長々と手足を伸ばし、満腹した犬のように伸びまで始めたものだから、穏やかではいられない。すっくと立ち上がると、文机に突進した。一言も発さずに卓上にあるあらゆるものを鷲づかみにすると、ある場所へ向かう。アンドレが火を強めたばかりの暖炉だ。

幸せに浸っていたアンドレは、またもや目の前の光景と、その意味が頭の中で繋がるのにしばし時間を要した。一息遅れて後を追うが、追いついた時にはオスカルは大きく腕を振りかぶり、手に持った紙束をまさに炎に投げ入れんとするところだった。アンドレの鼻先を金色の巻き毛がかすめる。

「オスカル、待て、止めろ」
「うるさいうるさいうるさい!」

アンドレはとりあえずオスカルの右腕を後ろから掴んでから、電光石火の早業で神に自らの理性を守りたまえと短い祈りを捧げると、余りの早口に神も聞き取れなかったのではないかという危惧は横に押しのけ、左腕をオスカルの胴に廻し、がっちりと抱える。そしてぐいと身体を弓なりに反らせると、オスカルのばたつく足が床から離れた。後方アプローチの場合は反対に投げ飛ばされる危険があるから、これは絶対に欠かせない措置だ。目の前では勢い良く炎が上がっている。オスカルの手から離れた手紙類が宙を舞い、そのうちの幾通かが炉辺に落ちて炎に呑まれた。

「ええいくそっ、放せ、降ろせ、ばっかやろう!」
「落ち着けオスカル!」
「その十八番はもう聞き飽きた!」
「リクエストなら聞くから、落ち・・・じゃない暴れないでくれ!」

細くも強靭なバネが束になって詰まったオスカルの体躯を抑えるのはアンドレにしても並大抵のことではない。胴を押さえただけでは、しなやかな体を巧みによじらせたオスカルに関節技をかけられるのは時間の問題だ。しかもアンドレにはオスカルに触れる箇所に制限があるが、オスカルの方は遠慮がない分有利でもある。それにオスカルは力で抑えつけられることを極端に嫌う。それは無理からぬことで、知識でも武術でも、「女」にかなわないとなると、腕力でおのれの優位を誇示せずにいられない男が多すぎた。オスカルは士官学校入学以来現在に至るまで、そんな男どもに苦しめられた経緯がある。自分も脛に傷を持つ自覚のあるアンドレは、炉から離れたら、ただちにオスカルを自由にし、首を差し出す覚悟を決めた。

アンドレは、オスカルに力づくで押さえ込まれている印象を与えないよう、彼女をを抱えたまま自分から床にひっくり返り、すぐに腕を緩めた。オスカルは弾けるように向きを変え、アンドレの両脇の床に手をついた。水面から跳ね上がった若鮎が空中で身を翻えすようだ、とアンドレはこんな体勢でも見とれてしまう。掌を返して降参を表明するアンドレを食いつくような勢いで組み臥して、オスカルは鼻息も荒くまくし立てた。

「お、おまえは、何とも思わないのか!し、仕事なら割り切れるのか!私はいやだ。もう金輪際こんな馬鹿馬鹿しいまねは止めてやる。無粋だとなじるならなじれ。嘘っぱちの戯言なんぞもう見るのも嫌だ。私が欲しいのは・・・!」

オスカルは怒涛のように流れ出た悪態の先に何か未踏のものを感じて、言葉に詰まった。欲しいのは何なのだろう。身じろぎもせずに黙って仰向けに転がっているアンドレを見下ろすと、彼は困ったような笑みを浮かべるばかりである。

「何か言え」
頭に血が上りすぎて、何も考えられなくなった時は、この男に矛先を向ける。くそ迷惑な習慣には違いないが、今更変えられるか。オスカルは肩で息をしながらアンドレに気迫で迫った。
アンドレは、目玉を左右上下に彷徨わせ、口をへの字に結ぶ。
「考え中」
「ふっ、ふざけるな」
「大概のことは聞き飽きたろうから、画期的なことを言わんと、な」
「か、からかっているのか!」

オズカルは、もう我慢ならんとばかりに床に置いた両手を押しやり、立ち上がろうとしたが、一瞬早くアンドレの腕が肩と背中に廻され、オスカルは彼の首元に顔を埋める格好になった。
「何でからかうんだよ。嬉しいのに」
低い声がオスカルの頬に直に響き、彼女の心臓が急にその存在を尋常ならざる鼓動で主張し始めた。

「去年までは平気だったくせに、変な奴」
「もがっ」
「子供みたいにムキになって」
「むぐむぐ」
「礼状なんて、おまえが新年の夜会でばら撒いた歯の浮くような台詞と同じじゃないか」
「ふんがふが~ッ」
「ほら、貴女のせいで今宵は月まで恥じらいのあまり顔を隠してしまった、とか何とか言ってたよな。真冬だもの、曇ってあったりまえ」
「うがががが」
「まあ俺にはちゃんと、ごきげんよう、さようなら、と聞こえたけどね」

そこまで言うと、アンドレは自分の胸の上で恥ずかしさにじたばたしてるオスカルに、声を出さずに詫びた。
『ごめん、こんな風にでもしないと、襲っちゃいそうだからな』
オスカルは、恥ずかしいやら決まりが悪いやらで身悶えていたが、さりとてアンドレの腕から出たくない自分に戸惑った。形ばかりの抵抗が次第に弱弱しくなっても、それを取り繕う気にもならなくなった。切ないまでの震えが胸の奥底から、さざなみのように全身に広がっていく。どこかで味わったことのある疼きだと思ったが、扱い方など知るよしもなく、沸き起こるに任せるより他なかった。

オスカルは、もがくのを止め、荒っぽい呼吸で肩を上下させながらアンドレの胸倉を鷲づかみにしたまま大人しくなった。アンドレはオスカルの髪を触れるか触れないところで撫で下ろす。今度こそオスカルに拒否されるのを半ば覚悟しての愛撫だったが、オスカルがじっとしたままなのでかえって戸惑いを感じた。しかし、気軽に触れ合うことができなくなったあの夜以来、これが初めての抱擁だ、と思い至ると、アンドレは感慨で胸が一杯になった。オスカルは昔のように身を預けてくれている。少なくともこの事実は思い込みでも幻覚でもない。

「俺のために怒っているんだよな」
オスカルが顔を伏せたまま、ぴくりと反応した。
「ありがとう。嬉しい」
オスカルは興奮で上気した顔を上げた。至近距離で潤んだ瞳がアンドレを捉える。アンドレにとっては非常に幸福で過酷な試練だが、取り返した距離を思えば何だって耐えられると思った。

「自惚れるな」
オスカルはそう一言放つと、再びアンドレの胸に顔を伏せ、クラバットを締め上げた。アンドレには『おまえのために決まっている』とちゃんと聞こえてしまったことは疑いようなかったが、それはそれでよかった。

自戒すべきは自分の方、オスカルは自分自身を叱咤したのだ。久しぶりのアンドレの胸の感触は、昔と変わらす温かく優しく安心できる反面、未知の場所に踏み込む興奮と高なりをもたらした。

確かなのは、オスカルにとってこの上なく大切な場所であり、もう二度と自分に都合良く出入りしてはならない所であること。この場所を手に入れたければ、きちんとつけるべき落とし前があること。

どんな形で決着をつけるか、簡単に結論を出せるものではなく、オスカルは改めて自分がどれほどこの巨人を大事に思っているかを思い知る。けれど、今は、今だけはもう少しこのままいさせて欲しい。

その願いが届いたか、巨人は黙ってオスカルの背に両腕をまわし、腕の重みすらかけないように優しく彼女を囲んだ。もっときつく抱きしめて欲しいと、まだ言葉にも概念にもならない甘切ないものが、ひたひたと波のように打ち寄せて、オスカルの身を落ち着かせなくさせた。

               

「ほら、端っこが焦げはしたがロザリーの手紙は無事だ。燃えたのは う~ん、ボワモルティエ伯爵夫人と、ラグランジュ男爵と・・・」

アンドレは黙々と炉の周りを片付け、消失をまぬがれた手紙類の被害状況を調べ、燃失ないしは判読不可能なものを手早くリストアップしている。

一方オスカルは、ほいとアンドレに手渡された紙束を憮然としたまま睨んでいた。

結局、『表現の自由を奪われた可哀相な身分差別の犠牲者』に、『これ見よがしに身分違いを思い知らせる辛い仕事を与えた血も涙もない横暴な女主人』の方が宥めすかされているではないか。

冷静になって見れば、一人で暴走しただけだった。その結果、幼馴染みと関係が進展したのだから、これもヴァレンティン効果と言えなくもないが、全く人騒がせな聖人だ。とオスカルは聖人に罪を着せ苦笑いした。

今夜の失態を進展と評価するには、とある重大な前提がなされている事実にオスカルはまだ気づいていない。

「オスカル、それはヤケクソ笑いか?」

アンドレはと言えば、悔しいほど爽やかな笑顔だ。オスカルとしては、醜態を見せてしまった気まずさを少々持て余しているのだが、何事もなかったように接してもらえるのは有り難いのか、ちょいと不満なのか、微妙なところである。

「燃えたやつは・・・」
どうする、と言いかけたアンドレは言葉を切った。憮然としたオスカルの恨めしそうな視線が自分に注がれていた。
「ま、いっか」

パンパンと手に付いた灰を払うと、アンドレは例のウィンクを投げた。オスカルの不機嫌が少し和んだように見えた。本当に機嫌が悪いのではなく、切り替えるきっかけが見つからなくて、困っているだけなのだ。

俺が能天気にならざるを得なかったわけはこれだったっけ、とアンドレは思い出す。婚約騒ぎ以来、自分を見失うほど追い詰められていて、オスカルを和ませる役を放棄していたけれど、また昔のように振舞える気がした。

ふたりの関係性は昔とは違っても。

「よっこらしょ」
オスカルの隣にすとんと腰を降ろし、背もたれに腕をかけた。ちら、とオスカルが横目で睨む。もう一度ウィンク。オスカルはむすっとしたまま顔を伏せた。

「良かったな、ロザリーの手紙は無事で。とばっちりの的になったら可哀相だ。それにフェルゼン伯からのも・・・。あれ?もう開封してある」
「う、うるさい」
「はい」

オスカルはそれきり黙った。もう少し突っ込んでやればよかったか。アンドレは次の行動に出た。オスカルが膝に乗せている紙束の一番下から、麻紐で結んだ恋文にしては無骨な書状を抜き取る。オスカルが怪訝な表情でアンドレを見た。

「え~、俺としてはおまえがどんな反応を見せるか楽しみだったんだが、今夜は虫の居所が悪いみたいだから心配だな」

そう言いつつ、アンドレは包みの麻紐を解いた。それは今時珍しい羊皮紙で、あまりにも大判なものを無理に畳んであるものだから、紐を解かれた瞬間封印が割けそうになった。

「おっと、ほらおまえが開けて」
アンドレがぽんとオスカルにそれを投げてよこす。封印の蜜蝋が、オスカルの膝の上ではじけ飛び、分厚く大きな羊皮紙が勝手に開いた。

「これは・・・!」
並び座った二人の膝からもはみ出るほど大きな羊皮紙に、びっしりと並んだ文字、文字、文字。手紙よりは何かの紋様にも見えるのは、文章ではなく、大小さまざまな筆跡で署名された名前が一面を埋め尽くしていたからだった。そして中央には見慣れた筆跡で『我らがミューズへ捧ぐ』と一文だけ書かれている。

「アンドレ・・・」
一つ一つの署名を見れば、アンドレを問いただすまでもなく、これがどういった書状かわかった。フランス衛兵ヴェルサイユ部隊の兵士達が連綿と名を連ねている。

オスカルは一つ一つを指でなぞった。彼らの署名はお世辞にも達筆とは言えず、文字はひねくれたり鏡文字になったり、筆運びが出鱈目だったり、たいそう華やかに乱舞している。大文字小文字を使い分けている署名は僅かで、羊皮紙はそこらじゅう毛羽立ちささくれて、ペン先を突き通してしまった穴まで無数に開いていた。

オスカルは最後まで名をなぞることが出来ず、震える口元を押さえた。ポン、と肩を叩かれて見上げればアンドレがさも嬉しそうに笑っていた。

「もともと字の書ける兵士は青いインクで、おまえのために署名を習い覚えた兵士が黒いインクだ。色分けしなくても字で見分けられるだろうけどな。わざわざ羊皮紙を使ったのは、失敗しても何度でも削り直せるからだ。初めてペンを持つ連中に書き損じるなと言うのも酷だろう?修正繰り返し過ぎて穴あいちまったよ」

それだけ解説すると、アンドレは感動で絶句したオスカルが我を取り戻すまで待ちの姿勢を取った。オスカルは震える指先を紙面に戻し、また初めから全ての名前をなぞり始めた。

青インクは全体の僅か三割ほどに過ぎず、残りは全てたどたどしい黒文字の署名である。オスカルの唇が兵士の名を呟くように動く。時々押さえきれずに込み上げるもの飲み込みながら、長い時間をかけて全員の点呼を終えると、オスカルはそっと目元を拭い、眉間を押さえた。

「誰が・・・発案者だ」
「う・・・ん、俺かな?」
「文字を教えたのもおまえか」

「字の書ける兵士に所属班員の指導を担当してもらった。全員が読み書きできない班は俺が教えていたけど、この大人数だろ。そのうちユラン伍長やダグー大佐も手伝ってくれた。驚くなかれ、アランも一班だけじゃなく協力してくれたよ。もっとも教え方が短気で乱暴すぎるって苦情が出たけどね」

ほぼ部隊全員に近い数の署名がびっしりと並んでいた。準備期間はどれほど要したのだろう、よくも最後まで隠しおおせたものだ。よくぞこれだけの人数にペンを取らせ、綴りを覚えさせた。

かな釘文字に、でこぼこの線に、インクの派手な染みに、オスカルは兵士達の奮闘と、辛抱強い教師役だったであろうアンドレやダグー大佐、面倒見は悪くないくせに癇癪持ちのアランの姿がありありと想像できた。

「気に入ったか?」
聞くまでもなかった。オスカルの反応が全てを語っていた。オスカルはアンドレを振り仰ぐと、何か言いたいけれど言葉が見つからない様子でただ頷いた。

「良かった、悔しいけど」
え?と訝るオスカルに、発案者アンドレは、少々葛藤する様子を一瞬垣間見せてから、いや何でもないとかぶりを振った。オスカルが喜ぶ確信の上自分から始めたプロジェクトながら、参加した四百五十名余の『男』に嫉妬したなんて言ってみても始まらない。

ふと、柔らかく温かいものがアンドレの頬をかすめた。何事が起きたのか自覚する頃には、ふわりと頬を撫でる金色の毛先と、一瞬首にまわされた細い腕がすっと離れていくところだった。

アンドレは魂を抜き取られたように呆然とそれを見送った。瞬きをする間ほどではあったが、それが抱擁と接吻だと悟るまでの数秒間、アンドレは本人が見たら出家したくなるほど呆けた顔で固まっていた。

「悪くないな」
手にした厚い(熱い)恋文も、目の前の幼馴染の惚け面も、考えるより先に動いた自分の行動も、オスカルは何から何まで気に入った。

「え?」
幼馴染はショックからまだ覚めやらぬ様相で目をまわしている。
「おまえは正しい」
「?」

確かにサン・ヴァレンティンはいい仕事をする、とオスカルは評価を翻した。彼女の幼馴染みには及ばないが。

「今夜は生涯最高のヴァレンティンの日だ」
そう言って微笑むオスカルの笑みこそアンドレには最高に美しかった。暫く立ち直れそうもないくらい、眩しかった。

だから、泣いたカラスがもう笑ったようなオスカルの変わり身の速さも、ヴァレンティンを散々こき下ろしたくせに、ご褒美を手にしたとたんに喜ぶ現金さも、ただ愛しかった。あとで落ち着いた時にちょいとばかり酒の肴にしてやるかも知れないが。

「おまえも」
続く言葉は当然最高、なのだが。そこに含まれるあらゆる想いの広がりにオスカルは躊躇した。広すぎて、深すぎて、見えないことばかりで。まだ、言えない。だから今は。

「ありがとう」
「うん、俺も」
「おまえも?」

言ってもいいだろうか、とアンドレは迷った。言えば、封印したはずの気持ちを言外にオスカルに伝えることになる。

「最高のヴァレンティンの日だ」
「わたしに八つ当たりされて?」
「うん」

アンドレはオスカルの唇がかすった頬に掌を当てた。そしてウィンク。
「最高」
「アンドレ」
「俺が代表で受け取ったから、他の野郎にはやるなよ」

オスカルの心臓がトクンと大きく鳴った。どうも、今夜は彼が何を言っても心臓に直撃する夜らしい。何度締め上げられても健気に鼓動を早くする胸を宥めつつ、オスカルはウィンクを返した。
「よし、では至急カードを五百枚追加注文してくれ」
「えええ、本気か?」
「本気だとも。全て私が署名する」
「また、騒ぎの種を・・・」


     この夜、蒔かれた種は騒ぎの素だけだったろうか。
     ヴァィレンティンの日がくれば、雪解けは遠くない。


               Fin


初出02.22.2006
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