*2025年1月にUpした原作の隙間1788年晩秋「天使の寄り道 番外編」で、オスカルさまはアンドレへの恋心を自覚してしまいました。旧サイトに掲載した過去作、ヴァレンタイン物語『伝説の功罪』を最初に書いた時は、まだ恋心をはっきりとは自覚していないけれど、アンドレに対して冷静ではいられなくなったオスカルさま、という設定でしたので、再掲するにあたり、すでに恋心を自覚しているオスカルさまという設定にするために改変を加えました。以下が改編後の作になります。
聖人伝説は、地上の灯台のようなものだ。世俗と天上の真理を繋ぐ橋渡し役が聖人だ。血肉を持つ人であった聖人が神の声を聞き、伝えてくれるから、世俗にまみれた人間が神を信じられるのだ。
だから、歴史的事実を正確に伝えることはさほど重要ではない。霊的な道しるべとしてあるべき形で、伝説は生まれ変わればいい。
そうは言っても昨今の聖ヴァランティンの扱われ方はどうだ。命を賭して禁じられた結婚を祝福し、自らも純愛のために殉教したというのに。本人がベルサイユの軽薄なお祭り騒ぎを見たら、大いに嘆くと思わないか?
うず高く積まれた恋文やらカード、意味ありげな贈り物を根こそぎ吹き飛ばさんばかりのため息をつきながら、幼馴染とそんな会話を交わしたのは去年だったか、一昨年だったか。
いや、「禁じられた結婚」などと今なら胸をしめつけられるキーワードを戯れにでも口に出せた頃だからもっと前のことだったのだろう。
寄木細工のビューローに片尻を預け、腕組みをした格好で寄りかかったオスカルは、手紙や床に積み上げられた贈り物の仕分け作業をする三人の使用人の中の一人をぼんやりと眺めながら回想していた。
聖ヴァランティンの祝日はただのお祭り騒ぎになってしまったかも知れないが、そう捨てたものでもないさ。打ち明ける勇気のない恋心でも、お祭り騒ぎに乗じてしまえば伝えることができるかも知れない。
冗談めかした恋文に、真剣な気持ちが秘められていることもあるだろう。だとすれば、聖ヴァランティンは気弱な恋の救世主として世紀を越えて活躍していると言えないか。
そう言ってオスカルの幼馴染が笑ったのは、更に何年も前、まだ彼女が近衛連隊長になったばかりの頃。届く恋文の量が最高値を記録し、書斎を埋め尽くした。
毎年の恒例行事であるサン・ヴァランタンに贈られた手紙や贈り物への礼状作成は、気の遠くなるほど忍耐を強いる重労働だった。果てそうな気力を保つために、オスカルと幼馴染は、冗談とも本気ともつかない軽口を叩き合いながら作業するのが常だった。
今思えば、その幼馴染の軽口の中にこそ、秘めた真心が隠されていなかったろうか。うかつだった自分に今更腹が立つオスカルだった。
今年も季節はめぐり、その年間行事がジャルジェ家の書斎で進められている。衛兵隊へ転属してからは恋文、カードの類はやや減り、系統立てた礼状作成手順が確立したため、効率よく分業されて行われるようになっていた。
「家紋入りのカードを添えた花とアーモンド菓子をお返しするリストはこれで洩れはないと思います」
品物の山とリストを黙々と付き合わせていたアンドレがおもむろに立ち上がり、品よく白髪を纏めた老執事にリストを手渡した。老紳士は口ひげを引っ張りながら眼鏡をずらしたり引いたりして紙面に焦点を合わせる。
「今年は定型文が印刷されたカードを発注しました。もう納品されていますけど、ご覧になりますか?」
どれどれと椅子を引きながら腰を落とす老人の手元が手暗がりにならないよう、アンドレは燭台の位置をずらしてやった。おお、この金文字は美しく仕上がっていますねと老執事は感嘆の声をもらし、アンドレはオスカルを振り返った。
「おまえも確認するか?」
オスカルは、すべておまえに一任すると手振りで幼馴染に知らせ、自分の部屋に戻るために書斎を後にした。背後では、今年は定型文を手書きする手間が省けたと、喜ぶ老執事の声が聞こえた。
宛名書きもおれがやりますから、と老執事を労わる低い声も。声の主の柔らかな微笑みは、後ろについた目でも見える。老齢の執事に対する配慮が手厚くなったこと以外は、一見例年と変わらぬ様子の彼だった。
ややあって、オスカルの居間の扉がノックされた。オスカルは顔を上げただけで特に返事もしなかったが、入室許可を声に出した位の間をおいて、音もなく扉が開かれた。
「仕分けは終ったか?アンドレ」
幼馴染は片手に手文庫を抱えていたから、作業が終了したのは聞かずともわかっている。手文庫にはオスカル自ら返礼を書く必要がある書簡だけが選り分けられて入っているはずだ。
「まあね」
彼流のウィンクが飛んで来た。片目が閉じたままの彼は、かすかに左側の口角を上げ、永久に閉じられた目蓋をきつく結び直すのだ。
子供の頃に、一生懸命顔中ゆがませて不器用なウィンクをくれた彼を思い起こさせる。大人版のそれは、茶目っ気が程よくブレンドされ、小憎らしく垢抜けていたが。
オスカルはそんな彼の様子に安堵を覚え、自分が妙に肩をいからせていたことに気がついた。ふう、と息をついて凝り固まった首を廻し、アンドレが箱を文机に置く位置に移動する。
オスカルが机につこうとすると、魔法のように音もなく椅子が引かれ、ぴったりと吸い付くように彼女の腰を収めた。
「少しでも判断が微妙な文は選り分けないでそこに入っている。おれが扱ってもいいものが混じっていたら、抜き出してくれ。おれはその間ここで仕事を始めているから」
アンドレは手文庫の上に別束になっている書簡を取ると、少し離れた壁際のコンソールに移動し、椅子は使わず床に膝をついた姿勢で羽ペンにインクを浸した。そこは、壁面照明が丁度落ちる場所だからだ。
アンドレの分担は定型文に相手に合わせた追加メッセージを加え、礼状を完成させることだ。アンドレの作成した文面をオスカルがすべてチェックしていた時期もあったが、今では完全にお任せである。
いつからチェックを止めてしまったのか。オスカルは思い出そうとする努力をさっさと放棄した。
オスカルが自ら返事を書く相手は、日頃個人的に親しく交流のある相手、過去か現在に多大に厚情を受けた相手、初めての相手、要注意人物である。彼女はひとつひとつ取り上げては差出し人を確かめた。
記憶力はいい方だから、アンドレの用意してくれた過去のリストを参照しなくても、差出人の動向はよく読めた。
ジェローデル少佐からは、カードも花もなかった。去年までは、かつての上官に対する親愛と変わらぬ友情と、健康と多幸を祈る文句が綴られた上品なカードが添えられ、小卓に飾るに程よい小ぶりの温室薔薇のアレンジが届いていた。
男性から女性への求愛を思わせるような文句はなく、これ見よがしに高価な真冬の温室花が馬車一杯に届くようなこともなく、贈られた方の心には留まるけれど、負担を感じさせない適温を心得た贈り主の一人だった。
だから例年通りの挨拶状が届いても、変に深読みして騒ぎ立てる必要は全くないのだが、沙汰がないのは彼のけじめなのか、潔い行動とは別に心の痛みが深いのか。
反対に、しばらく音沙汰のなかったフェルゼン伯からの手紙があった。フェルゼン伯も以前は友情のカードを贈ってくれていたが、コンテ公の舞踏会以降、ふっつりと跡絶えていた。
オスカルが急いで開封すると、社会情勢に充分留意した行動をとるようにとやや辛口に切り込みの入った文が目に飛び込んだ。厳しい語り口に、彼の心配の深さが感じられる。
オスカルは苦笑を洩らし、彼の署名を見て鼻の奥につん、と痛みを感じた。あなたのヴァレンティンより、という慣用句化した言い回しをもじり、あなたの友より、と署名がされていた。
一度は失ってしまったと思った親友との絆が、掌の上に戻って来たようで嬉しかった。
アンドレの分類はほぼ完璧で、オスカルはほどなく手を止めた。腹を割って付き合える友は悲しいかなそう多くないので、喜んで返事を書きたくなるカードはごく少数だ。
その中にはロザリーから届いたものがあった。多分次に開封するだろう。あとは、少々難しい御仁からの恋文で、当り障りない社交上の返礼を返すことで恋愛遊戯気分を収めて頂く必要のあるもの。
危ないほど熱烈に愛を語る恋文はいまだ多数来る。そのほとんどは女性だが、去年のはちゃめちゃな舞踏会以降、男性からも危ない文が届くようになっていた。
彼らには礼は尽くしながらもクールに返礼を返すのが常だから定型文でも十分なのだが、しかし危ない方々故、万が一でも誤解や期待を抱かせるような表現があってはいけない。そこが人任せにできない所縁であり、オスカルの頭痛のもとでもあった。
あとは、差出人の名前が記名されていない分厚い書状が一通。蜜蝋だけでは封印し切れないほどの厚みがあり、麻紐で縛ってある。これは初めて受け取るものだから、一番後回しでいいだろう。
オスカルが一段落した気配をアンドレはいち早く察し、羽ペンをペン差しに戻した。
「おれによこすやつはあるか?」
「うん、三通ほど頼んでもいい」
オスカルが言い終わらないうちにアンドレは彼女の横に立っていた。
「どれ?」
「この三通だ」
「わかった。じゃあ明日までに仕上げておく」
アンドレはオスカルが手渡した三通を受け取ると、すたすたと自分の作業場に戻り、さっさとインク壷のふたを閉め、紙類を集めて小脇に挟んだ。その先の行動が誰でも予想できる事務的な仕草だった。
彼は仕事を持って退出するつもりだ。椅子にかけずに作業していたのはフットワークを軽くするためで、ウィンクなど飛ばして場を軽く見せていたのは彼の思いやりだったのだろう。
しばしの間、気の張らない戯言などたたきあい、楽しく舌合戦に興じながら一緒に作業するぐらい、許されるのではと期待していたオスカルは、立ち去る準備をするアンドレに酷く落胆する自分に驚いていた。
幼馴染の均衡が破れてしまった夜を経て、婚約騒動の決着がついた後、ノエルの頃から何かを吹っ切ったように静かに落ち着いたアンドレ。持ち前だった屈託のない笑顔が甦ったことにオスカルが安堵したのもつかの間。
気がつけば、大好きな幼馴染みは恋しい異性としてオスカルの前に立っていた。ひとたび気づいてしまうと、それは後戻りできるような生易しい恋ではなかった。
オスカルに愛を求めることを手放したアンドレが、ただオスカルに与えるため、側に留まるために身分の線引きを死守すると覚悟を決めた。その重さが痛いほど理解できた。
身分の枠を守ることが唯一の選択肢であるアンドレとは違い、オスカルには枠を破壊するもう一つの道がある。
オスカルの人生全てが収まる枠だ。やはり生易しい覚悟で打ち砕けるものではない。しかし、持てるものを何も手放さず、枠内で生きながらこの恋を手に入れようとすれば、幼馴染みの命は危険に晒される。
人生丸ごと反転するかも知れぬ究極の選択を目の前に置きながら日々を送るオスカルにとって、ヴァレンティンに届いた贈り物の山は、幼馴染みと自分を隔てる見えない城壁の象徴にしか見えなかった。
聖ヴァレンティンの日など、所詮は社交界の祭りである。堅苦しく考える必要などないのだろうが、無性に腹が立った。臆面もなく愛だの恋だの無遠慮に綴る手紙の山、積み上がる贅沢な数々。
なのに、有閑貴人への礼状作成を幼馴染みに命じる自分。差出人の誰よりも深い愛を秘めているのに、祭りにかこつけてでさえ愛の片鱗すら表現することを許されないアンドレに対して、何と残酷な仕打ちだろう。
「アンドレ」
ふと呼び止めてはみたものの、オスカルはその先をどうして良いやら途方に暮れた。
他愛のない冗談を飛ばし、手紙の山から愛の迷文句の傑作を探し出しては笑い合いたい、砕けた雰囲気で、いっとき同じ空間で作業したいなんて、何をふざけたことを彼に求めているのだろう。
昨年秋に婚約破棄したことで、すっかり禊(みそぎ)を果たしたつもりになっていた。そんな傲慢な自分の尻を蹴り飛ばせるものなら、ピレネーの果てまで飛ばしてやりたい。
オスカルは言葉に詰まった。
「ん?何?」
呼び止められたアンドレは、静止してオスカルの次の言葉を待っている。
もうこんな茶番はやめだ、今年から返事など出すものか、馬鹿馬鹿しい!と駄々を捏ねるのは簡単だが、それでは問題が別な方向にすり替わるだけだ。オスカルは逡巡した。
「どこへ行く。ここでやって行けばいい」
アンドレは、小首を傾げるとずり落ちそうになった紙束を抱えなおした。
「もう、夜中だよ」
彼は正しい。まだ、中途半端なところで迷っている自分は、常識に従い彼を守るべきなのだ。オスカルは血が出るほどくちびるを噛んだが、もう少し一緒にいて欲しい気持ちに勝てなかった。
「わたしはまだしばらく起きているし、おまえを部屋に帰せば蝋燭を節約するに決まっている。わたしの部屋なら明るいし、本当はおまえに…」
こんな仕事はさせたくない。二十年近くも毎年手伝わせておきながら、今年、いや今夜になって急にいたたまれなくなったなどと、言えるわけがない。その理由はまだ口に出してはいけないのだ。
オスカルは、仕方なく二番手の本音を口にした。
「夜間の書き仕事はさせたくないのだ。おまえの目には、負担が大きいだろう」
アンドレは一瞬たじろいでからオスカルの瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。まさか時々見えなくなることに気づかれたか、と一瞬戦慄が走る。
しかし、よく見れば彼女の瞳に浮かんでいるのは、置き去りにされる少女が追い縋るような寂しさだ。アンドレの心臓がとくりと音を立てた。
実はアンドレの最近の苦悩の種はこの寂しげな瞳だった。オスカルは婚約を蹴ってしまってから、頻々とこの瞳でアンドレを見るようになった。置いて行かないで、どこにも行かないでと声になって聞こえるような錯覚を覚えることすらある。
大概はほんの一瞬の出来事で、はっと胸を突かれて目をそらした後、恐る恐る彼女を見やると、いつもと変わらぬ凛とした眼差しに戻っている。
どんな役回りでもいいから必要とされていたい、彼女の傍にあり続けたいとあまりにも強く願うがために見える幻覚なのか、本当にオスカルがそう訴えかけているのか、アンドレは判断する自信がない。
冷静に見極めるには、彼女を愛しすぎている。だとすれば、十中八九、幻覚と考えた方が思い上がらずに済むだろう。どちらにしても、自分からオスカルの傍を離れるつもりなど、毛頭ないのだから。
ただこの瞳に見つめられると、求められているような感覚が沸き起こる。腕を伸ばして抱きしめたくなる。自分の方が求めて止まない衝動は何とか制御できるようになったものの、切ない目で求められる感覚には慣れていない。
その場で射殺されたとしても、彼女の求めを満たしたい。まだコントロールするコツを掴めていない衝動に、激しく揺さぶられてしまう自分がこわい。
彼女に求められているなんて、独りよがりの幻想に決まっているのに。同じ幻覚なら、ピンクの象が空を飛ぶとか、おばあちゃんの嫁入り姿とかの方がよっぽど冷静に対処できるというものだ。
たとえ幻覚であったとしても、アンドレには振り切ることはできなかった。
「ありがとう。じゃあ、そうするよ。眠くなったらすぐに言え、な」
そう言うと、オスカルは素直に嬉しそうに微笑んだ。不敵なほくそ笑みも魅力的だが、飾らない笑顔は、こと美しい。そんなに側にいて欲しいのか、と誤解したくなる。つい手が伸びそうになり、アンドレは爪が掌に食い込むほど拳を握りしめて耐えた。
アンドレが部屋に留まり、二人は沈黙のうちに作業を再開したが、オスカルは何か気まずくて仕方がない。今更沈黙がこわい間柄ではなし、表面上は以前と全く変わりのない二人なのに、妙に緊張する。
サン・ヴァレンティンに絡んだ作業をしていることが元凶に違いない。気弱な恋心の救世主だか何だか知らないが、迷惑千犯な聖人だ。オスカルの手元はお留守になったまま、作業は一向に進まなかった。
「オスカル?どうしたぼんやりして。それでは終わらんぞ?」
アンドレも手を止めて、オスカルの方を見ている。オスカルは慌ててなんでもない、と身振りで制した。そして何か軽い話題がないか、フルスピードで頭脳を回転させる。
『たまにはおまえの方も手伝ってやらねばならんな』
と、余裕で微笑んでやったらどうか。だめだ。自分と違ってノーマルな男であるアンドレに届くのは、怪しい恋文よりも純粋な娘の心ばかりなはずだ。
誰にでも親切だけれど誰にもなびかない、見かけより硬派の男という評判がすっかり定着している彼に、気軽なお遊び目的の恋文など来ないだろう。
真面目な娘の心を茶化す趣味はないし、そんなものを目にしたら自分が地球の反対側まで落ち込むのが目に見えている。何か、もっと軽い話題はないものか。
『ところで、おまえは誰にも贈り物をしなかったのか?』
聞けるか、そんなこと。ばあやとか、多分母上や姉上にも贈ったろうし、アンドレの食事の世話を嬉々として焼いているマルグリットや、わたし付きで同僚のマルタにも日頃の感謝を返す機会としてちょっとした贈り物くらいしているだろう。
別にそんなことを知りたい訳じゃない。知りたいのは…いや、別に何かを知りたいのではなく、わたしは会話を楽しむための話題を探しているはず。なぜそこに行き着くのだ?
『今年も、おまえからのカードがないな。いつか贈ってくれるものと思って待っているのだが』
最悪だ。今更洒落にもならない。それを言うなら、もっと何年も前に言うべきだった。その頃ならアンドレもそうか、気づかなかったな、とか何とか笑ってくれたろうに。そして、エスプリのきいた滑稽な詩でも書いてくれたろう。
よく注意して見れば、行間に秘めた気持ちが読み取れたかもしれない。いや、そんなことに気が付くわたしなら、いまここで悶々としているはずがない。
かきあげてもかきあげても落ちてくる邪魔な髪をわしわしとかきむしり、眉根に皺を寄せたかと思うと、頬を赤らめてみたり、水滴を振り払う猫のように頭を振るオスカルを、アンドレは唖然と眺めていた。
今年は差出し人不明の怪しい手紙はなかったはすだし、オスカルの熱烈なファンである貴婦人方でも、かけ離れてその…変態的な人物はいなかったと思ったが。
オスカルの広い文机の上には、未開封の手紙ばかりが散乱しており、一向に仕事が進んだ気配はなかった。アンドレは首を捻る。変態じみた手紙で苛立っているわけではないのなら、オスカルのこの落ち着きのなさは一体何なのだ。見ている傍からオスカルが羽ペンの羽根先をかじった。
「あらら」
アンドレが思わす声を出し、二人の目が合う。
見つめ合うこと数十秒。
「オスカル、腹が減ったのか?」
「…違う」
オスカルは俯き、上目使いでアンドレを見た。本人知ってか知らずか、アンドレのハートを串刺しにする究極の角度だった。
さすが、今夜は聖ヴァレンティンの日だけのことはあって狙いは正確だ。などとアンドレは一人おどけてみたが、串刺しになったハートは誤魔化されない。のたうちまわるハートが分別を失うのは時間の問題だ。これ以上ここにいたら危険だ。アンドレは立ち上がった。
「疲れているのだろう?今夜はここまでにしよう」
「いやだ、もう少し」
同じく跳ね上がるように立ち上がってオスカルはアンドレの腕を掴んだ。その衝撃でインク壷が硬質な音を立てて文机を転がり、黒いインクが弧を描いて重ねた便箋を染める。オスカルのシルクのブラウスにも黒い斑点が飛び散った。
オスカルはまたアンドレの悩みの種となる瞳を見開いていた。切なげな、吸い寄せるような潤んだ瞳がアンドレを見上げ、長く美しいカーブを描いた睫毛が濡れたサファイヤを滑るように往復する。
アンドレの身体に嵐のような衝撃が駆け抜けた。今、抱きしめても拒まれない確信めいたものがアンドレの背中を圧倒的な強さで押す。幻覚って目で見るだけではないんだ、覚えておくべしと違う方向へ注意を向けてアンドレは必死で耐えた。
追い討ちをかけるようにわずかに開いたオスカルの唇が小刻みに震える。見てはだめだ!目をそらせ!とアンドレの脳幹の奥で警鐘が鳴り響くが、彼女から目が離せない。オスカルもアンドレの腕を掴んで放さない。
高鳴る心臓の音以外、何も聞こえなくなった。
一呼吸、一呼吸を意識しないと息をするのも忘れてしまいそうだった。二人を囲む世界の全てが静止し、営みを止めた。時間も止まった。
硬直したアンドレの手から、紙類がさらさらと床に舞い落ち、一瞬二人の目が動くものに引き寄せられた。卓上でこぼれたインクが机の端まで広がり、盛り上がった黒い液体が雫となり、落下していく様子が何故か克明に見え、インクの流れ落ちる速度で時間も動きを再開した。
たちまちアンドレの職業意識が目覚め、彼の窮地を救った。オスカルの瞳に射抜かれ捕らわれていた体が、習慣によってするすると動き始めた。
「ほら、オスカル、じっとしてろ」
オスカルを制し、滴り落ちようとしているインクを机の端で未使用の紙で堰き止めながら、転がったインク壷を拾い上げる。
卓上の手紙や便箋がインクの海に浸されないようにまとめて端に寄せ、すでに被害をこうむっていた書類を救い出した。床に落としてしまった手紙類も拾い上げ、被害状況を確認する。
「良かった、判読できないほど汚れちゃいない。だけど、おまえのブラウスはどうかな。マルタに言って…。いや、インクだからもう駄目かも知れないな」
オスカルは、てきぱきと後片付けをするアンドレを見詰めながら、自分の発した言葉が頭の中で何度もこだまするのを聞いていた。
『いやだ!』
まるで駄々っ子だ。どうかしている。しかし、みっともなく取り乱して、訳のわからない感情のままに、我がままをぶつけたかった。アンドレを引き止めようとつかんだ腕をもっと引き寄せて、顔をその胸に埋めてしまいたかった。
それは自分でも驚くほど激しい衝動だった。アンドレは酷く困惑していたが、決して嫌悪はしていなかった。きっと受け止めてくれたに違いない。しかしそんなことをすれば、愛の言葉があふれ出てしまうだろう。
「・・・オスカル、オスカル」
オスカルは、自分を呼ぶ馴染んだ声ではっと我に帰った。アンドレはすっかり片付けを終え、焦点の合わぬ瞳で中空を見つめたまま動かないオスカルを心配そうに覗き込んでいる。
そっと肩を押され、机ではなくゆったりとした長椅子の方にかけさせられた。オスカルは、激しい感情の余韻を持て余し、押さえつけるように両腕で自分の肩をきつく抱いた。
アンドレ、おまえが耐え続けたものはこれか。こんなに激しいものを十何年も堰き止め続けてきたのか。思い余ったおまえの行動の数々を理解できていると思い込んでいたとは笑わせる。わたしは何一つわかってはいなかった。
アンドレはオスカルの様子を見ると黙って傍を離れ、暖炉に新しい薪を足し、火かき棒で空気を入れた。炎が大きく立ち上がり、小枝のはぜる音が心地良く響いた。
「まだ、寒いか?」
アンドレが新たな薪を手にしたまま尋ねる。オスカルは首を横に振った。叶うことなら、別の温め方をして欲しい。肩も、背中も、胸も、火では温めきれない深いところが震えている。そして温め役ができるのは、この世でたった一人だけ。
「マルタを呼んでくる。着替えないと」
「いいんだ、待て」
今夜はもう何度アンドレを引き止めたことだろう。オスカルはアンドレを手招いて、横に座れとぽんぽんと長椅子の座面を叩いた。アンドレが恐る恐ると言った体でしばし躊躇を見せたので、彼女は短く一喝した。
「座れ」
なおも考えあぐねる様子のアンドレだった。オスカルは少し芝居がかった威厳を見せて、腕を組み目を閉じる。そして片目を細くあけ、わざと低い声で凄みをきかせた。
「何も取って食おうというわけではない、座れ」
いや、むしろカマキリの雄のように頭からばりばりと食われるなら本望だ、と喉もとまで出かかった本音をアンドレは無理に飲み下し、笑って見せた。昆虫の雄だって無償で頭を差し出すわけではないから洒落にならない。
「ま、食われるだけのことはやらかしたからな、覚悟はできているよ」
二人の目が合い、空気の一部が溶けた。幼馴染の気安いリズムが静かに流れ始める。自然とこぼれた笑みに従者の戒めを解かれたように、アンドレがオスカルの傍に歩を進めた。
オスカルはアンドレの上着の裾を引っ掴んで引っ張り、バランスを崩したアンドレは尻餅をつく格好で長椅子に落下した。
「何の覚悟かは知らんが」
「まあいろいろとね」
アンドレは指折り数えて見せると、悪いんだが、と歯切れ悪く切り出した。
「助けてくれ、心当たりを数えようにも、指が足りない」
オスカルがぷっと吹き出す。
「足の指も使え」
「それより、こっちの指を貸してくれ」
オスカルの両手をアンドレが包み込むようにとった。そして、ふざけ半分を装いつつ、指を一本一本数えるように心を込めて愛撫した。以前は何の躊躇いもなく触れられた手。また再び触れても許されるのだろうか、思い上がりすぎてはいないだろうか。
そんなアンドレの恐れをよそに、指は引き抜かれることなくアンドレの掌の上に留まった。きゅん、と胸の奥がしめつけられるような痛みがオスカルを貫く。不快な痛みとは違う、熱っぽくて泣きたくなるような甘い衝撃だった。温かな大きな手に残るインク染みが、なぜか愛しいと彼女は思った。
「足りたか?」
「どう・・・かな」
拒まれなかった。神様、感謝します。
体中に沸き起こる歓喜と感謝に、アンドレはそれきり言葉を失った。拒むどころかオスカルは一瞬たりとも警戒するそぶりさえ見せなかった。ただ、静かにアンドレの手に自らの指先を委ねている。
抱きしめることは叶わなくても、オスカルの手だけは昔からアンドレに許された領域だったのだ。おそらく、出合った頃から一番よく触れ合ったところ。引っ張りまわされたとも言えるが。
アンドレは彼女の両手を自分の膝の上に置くと、両親指で白い手の甲を優しく愛撫した。制御することさえできれば、美しくしなやかな手に触れることが許される。そのささやかな特権を守るためなら、何でもできるとアンドレは思った。
居心地のよい沈黙の中、二人の体温が互いの手を交差して相手の全身に行き渡るのを待っているかのように、二人は手を握り合っていた。
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「どうかしていた」
オスカルがぽつりと沈黙を破った。オスカルは間違いなく何かに動揺していたが、原因には皆目見等がつかなかったので、アンドレは静かに耳を傾ける。
「愛だの恋だのを軽々しく口に出す浮かれ騒ぎに付き合うのがほとほと嫌になった」
アンドレは、わずかに首を傾げたまま、何も言わない。黙ってオスカルを見つめ、次に続く独白を待っている。オスカルはオスカルでアンドレの合いの手を待っていたが、やがて焦れたように付け足した。
「そういう訳だ」
拍子抜けしたのはアンドレである。目が丸くなった。
「それだけ?」
「それだけじゃいけないかっ!」
あ、怒った。つまり、まだ何かある。けれど、そこをずばっと指摘してしまったら最後、二度と聞き出せないことをアンドレは熟知していた。
「いけなかないけど。あはは、何か物凄い告白があるんじゃないかと思って冷や汗かいて損したな」
「何故そう思う」
「何故って・・・。おまえ、毎年それ言っているからさ。付文の山を目の前にして、愛だの恋だのお祭り騒ぎにして嘆かわしいって、毎年ぼやいているじゃないか」
そうだった。呆けたか、わたし。オスカルは黙り込んでしまった。隣に座ったアンドレはオスカルの手の甲をぽんぽん叩きながらくすくす笑っている。
「今年は何故かよっぽど腹に据えかねたみたいだな」
そうだ、腹が立って腹が立って仕方がない。で、何故か。そう、そこが問題なのだ。とオスカルは腹の中でアンドレに答える。今年は社会風潮に怒っているのではないのだ。他人事みたいにのん気に笑っているこの男のために怒っている。
「おまえに、こんな仕事を平気でさせる自分が嫌になった!と言い換えてもいい」
オスカルに憮然とした不満顔を向けられ、リズミカルにオスカルの手の上で跳ねていたアンドレの手が中空で止まった。
「は、初めて聞いた」
それはそうだろう。初めて言ったのだから。それに、初めてそう思った。おまえが仕事として割り切ろうがそうでなかろうが、わたしが嫌なのだ。大人気ないと笑わば笑え。
などと、いきなり素直になるには、二十数年間の歴史が邪魔をする。オスカルはもう一言ぶっきらぼうに言い放って口をつぐんだ。
「おまえも、馬鹿馬鹿しくてやってられない、と怒ったらどうだ!」
アンドレは、ぷいと横を向いてしまったオスカルを愛しげな眼差しを注いだ。照れを不機嫌で誤魔化そうとする常套手段に出ている。
使用人の分をわきまえるなら、社交にうんざりしたお嬢様の単なる悪態だと思うに留めるべきだろう。
しかし、しゅんしゅんと薬缶のように沸騰しているオスカルには悪いと思いながらも、アンドレは温かな幸福感に包まれていた。
使用人を、人として対等の友として扱おうとするオスカルの方が、貴族社会にあっては異色であるのに、昔からアンドレが不条理な扱いを受けるたび、彼女は烈火のごとく怒り狂った。
年齢を重ね、人間が社会的生き物であり、その構造の裏表をより理解するようになってからも、その一点においてオスカルは変わらなかった。
今夜も同じだ。怒り方が唐突でわけはわからないが、二人の絆に深く根差した愛情の裏返しの怒りであることだけはひしひしと伝わってくる。
二人が成長して、男女を意識し、すれ違いや過ちを幾つ経ても、オスカルは根幹のところで変わらないのだ。男女のそれではないのだろうが、愛されていると思う。十分だ。アンドレは目を閉じて幸福を心から味わった。
一方オスカルの方は、アンドレが怒るどころか長々と手足を伸ばし、満腹した犬のように伸びまで始めたものだから、穏やかではいられない。すっくと立ち上がると、文机に突進した。
一言も発さずに卓上にあるあらゆるものを鷲づかみにすると、ある場所へ向かう。アンドレが火を強めたばかりの暖炉だ。
幸せに浸っていたアンドレは、またもや目の前の光景と、その意味が頭の中で繋がるのにしばし時間を要した。一息遅れて後を追うが、追いついた時にはオスカルは大きく腕を振りかぶり、手に持った紙束をまさに炎に投げ入れんとするところだった。アンドレの鼻先を金色の巻き毛がかすめる。
「オスカル、待て、止めろ」
「うるさいうるさいうるさい!」
アンドレはとりあえずオスカルの右腕を後ろから掴んでから、電光石火の早業で神に自らの理性を守りたまえと短い祈りを捧げると、余りの早口に神も聞き取れなかったのではないかという危惧は横に押しのけ、左腕をオスカルの胴に廻し、がっちりと抱えた。
そしてぐいと身体を弓なりに反らせると、オスカルのばたつく足が床から離れた。後方アプローチの場合は反対に投げ飛ばされる危険があるから、これは絶対に欠かせない措置だ。
目の前では勢い良く炎が上がっている。オスカルの手から離れた手紙類が宙を舞い、そのうちの幾通かが炉辺に落ちて炎に呑まれた。
「ええいくそっ、放せ、降ろせ、ばっかやろう!」
「落ち着けオスカル!」
「その十八番はもう聞き飽きた!」
「落ち・・・じゃない暴れないでくれ!」
細身に見えるが、強靭な筋肉のバネが束になって詰まったオスカルの体躯を抑えるのはアンドレにしても並大抵のことではない。胴を押さえただけでは、しなやかな体を巧みによじらせたオスカルに関節技をかけられるのは時間の問題だ。
しかもアンドレにはオスカルに触れる箇所に制限があるが、オスカルの方は遠慮がない分有利でもある。
それにオスカルは力で抑えつけられることを極端に嫌う。
知識でも武術でも、「女」にかなわないとなると、腕力でおのれの優位を誇示せずにいられない男が多すぎたので無理からぬこと。オスカルは士官学校入学以来現在に至るまで、そんな男どもに苦しめられてきたのだ。
自分も例外ではなく、脛に傷を持つ自覚のあるアンドレは、炉から離れたら、ただちにオスカルを自由にし、首を差し出す覚悟を決めた。
アンドレは、力づくで押さえ込まれている印象をオスカルに与えないよう、彼女を抱えたまま自分から床にひっくり返り、すぐに腕を緩めた。オスカルは弾けるように向きを変え、アンドレの両脇の床に手をついた。
水面から跳ね上がった若鮎が空中で身を翻すようだ、とアンドレはこんな体勢でも見とれてしまう。掌を見せ、降参を表明するアンドレを食いつくような勢いで組み臥して、オスカルは鼻息も荒くまくし立てた。
「お、おまえは、何とも思わないのか!し、仕事なら割り切れるのか!わたしはいやだ。もう金輪際こんな馬鹿馬鹿しいまねは止めてやる。無粋だとなじるならなじれ。嘘っぱちの戯言なんぞもう見るのも嫌だ。わたしが欲しいのは・・・!」
オスカルは怒涛のように流れ出た悪態の先にある未踏のものを感じて、言葉に詰まった。欲しいものは決まっている。しかし、乗り越えるべき壁を突破するまで、口には出さないと決めたのだ。
身じろぎもせずに黙って仰向けに転がっているアンドレを見下ろすと、彼は困ったような笑みを浮かべるばかりである。
「何か言え」
頭に血が上りすぎて、何も考えられなくなった時は、この男に矛先を向ける。くそ迷惑な習慣には違いないが、今更変えられるか。オスカルは肩で息をしながらアンドレに気迫で迫った。
アンドレは、目玉を左右上下に彷徨わせ、口をへの字に結ぶ。
「考え中」
「ふっ、ふざけるな」
「大概のことは聞き飽きたろうから、何か画期的なことを」
「か、からかっているのか!」
オズカルは、もう我慢ならんとばかりに床に置いた両手を押しやり、立ち上がろうとしたが、一瞬早くアンドレの腕が肩と背中に廻され、オスカルは彼の首元に顔を埋める格好になった。
「何でからかうんだよ。嬉しいのに」
低い声がオスカルの頬に直に響き、彼女の心臓は急にその存在を尋常ならざる鼓動で主張し始めた。
「去年までは平気だったくせに、変な奴」
「もがっ」
「子供みたいにムキになって」
「むぐむぐ」
「礼状なんて、おまえが新年の夜会でばら撒いた歯の浮くような台詞と同じじゃないか」
「ふんがふが~ッ」
「ほら、貴女のせいで今宵は月まで恥じらいのあまり顔を隠してしまった、とか何とか言ってたよな。真冬だもの、曇ってあったりまえ」
「うがががが」
「まあおれにはちゃんと、ごきげんよう、ではさようなら、と聞こえたけどね」
そこまで言うと、アンドレは自分の胸の上で恥ずかしさにじたばたしてるオスカルに、声を出さずに詫びた。
『ごめん、こんな風にでもしないと、愛しすぎて襲っちゃいそうだからな』
オスカルは、恥ずかしいやら決まりが悪いやらで身悶えていたが、さりとてアンドレの腕から出たくない自分に戸惑った。形ばかりの抵抗が次第に弱弱しくなっても、それを取り繕う気にもならなくなった。
切ないまでの震えが胸の奥底から、さざなみのように全身に広がっていく。どこかで味わったことのある疼きだと思ったが、扱い方など知るよしもなく、沸き起こるに任せるより他なかった。
オスカルは、もがくのを止め、荒っぽい呼吸で肩を上下させながらアンドレの胸倉を鷲づかみにしたまま大人しくなった。アンドレはオスカルの髪を触れるか触れないところで撫で下ろす。今度こそオスカルに拒否されるのを半ば覚悟しての愛撫だったが、オスカルはじっとしたままだ。
気軽に触れ合うことができなくなったあの夜以来、こんなにもオスカルが全身を預けてくれたことがあったろうか。少なくともこの事実は思い込みでも幻覚でもない。アンドレは感慨で胸が一杯になった。
「おれのために怒ってくれたんだよな」
オスカルが顔を伏せたまま、ぴくりと反応した。
「ありがとう。嬉しいよ」
オスカルは興奮で上気した顔を上げた。至近距離で潤んだ瞳がアンドレを捉える。アンドレにとっては非常に幸福で過酷な試練だが、オスカルの重みを胸に受ける幸福と引き換えなら、何だって耐えられると思った。
「自惚れるな」
オスカルはそう一言放つと、再びアンドレの胸に顔を伏せ、クラバットを締め上げた。アンドレには『おまえのために決まっている』とちゃんと聞こえてしまったことだろうが、それでいい。
自惚れるなは自分に向けた自戒だ。オスカルは自分自身を叱咤したのだ。久しぶりのアンドレの胸の感触、匂い、鼓動。ああ、愛している。しがみついて号泣してしまうのを堪えるのに必死だった。
確かなのは、オスカルにとってこの胸がこの上なく大切な場所であり、もう二度と自分に都合良く出入りしてはならないこと。この場所を手に入れたければ、きちんとつけるべき落とし前があること。
だから今は早く身を離さなければならいことはわかっていた。だけどこのひとときだけ、今だけはもう少しこのままいさせて欲しい。オスカルは懐かしい匂いを胸一杯に吸い込んだ。
その願いが届いたか、大男は黙ってオスカルの背に両腕をまわし、腕の重みすらかけないように優しく彼女を囲んだ。もっと息が止まるほどきつく抱きしめて欲しいと、言葉になる前の甘切ない感覚がオスカルの身を焼いた。
♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️
「ほら、端っこが焦げはしたがロザリーの手紙は無事だ。燃えたのは う~ん、ボワモルティエ伯爵夫人と、ラグランジュ男爵と・・・」
アンドレは黙々と炉の周りを片付け、焼失をまぬがれた手紙類の被害状況を調べ、燃失ないしは判読不可能なものを手早くリストアップしている。
一方オスカルは、ほいとアンドレに手渡された紙束を憮然としたまま睨んでいた。
『表現の自由を奪われた可哀相な身分差別の犠牲者』に、『これ見よがしに身分違いを思い知らせる辛い仕事を与えた血も涙もない横暴な女主人』が宥めすかされているとは、何たるコメディだ。
冷静になって見れば、一人で暴走しただけだった。その結果、幼馴染みとの関係が緩和したのだから、これもヴァレンティン効果と言えなくもないが、全く人騒がせな聖人だ。とオスカルは聖人に罪を着せた。
「オスカル、それはヤケクソ笑いか?」
アンドレはと言えば、悔しいほど爽やかな笑顔だ。オスカルとしては、醜態を見せてしまった気まずさが少々残っている。こうして何事もなかったように接してもらえるのは有り難いのか、ちょいと不満なのか、微妙なところである。
「燃えたやつは・・・」
どうする、と言いかけたアンドレは言葉を切った。憮然としたオスカルの恨めしそうな視線が自分に注がれていた。
「ま、いっか」
今夜は使用人モードを終了しよう。パンパンと手に付いた灰を払い、アンドレは例のウィンクを投げた。オスカルの不機嫌が少し和んだように見えたので、アンドレはオスカルの隣にすとんと腰を降ろし、背もたれに腕をかけた。
「よっこらしょ」
ちら、とオスカルが横目で睨む。もう一度ウィンク。オスカルはむすっとしたまま顔を伏せた。
「良かったな、ロザリーの手紙は無事で。読む前に燃えちゃったら可哀相だよ。それにフェルゼン伯からのも・・・。あれ?もう開封してある」
「う、うるさい」
「はい」
オスカルはそれきり黙った。もう少し突っ込んでやればよかったか。アンドレは次の行動に出た。オスカルが膝に乗せている紙束の一番下から恋文にしては無骨な分厚い書状を抜き取りオスカルの手に乗せる。オスカルは怪訝な表情でアンドレを見た。
「え~、これを見たおまえがどんな反応を見せるか楽しみだったんだが、今夜は虫の居所が悪いみたいだから心配だな」
そう言いつつ、アンドレは書状を縛ってある麻紐を解いた。それは今時珍しい羊皮紙で、あまりにも大判なものを無理に畳んであるものだから、紐を解かれた瞬間封蝋が割けそうになった。
「おっと、ほらおまえが開けて」
アンドレがぽんとオスカルにそれを投げてよこす。封印の蜜蝋が、オスカルの膝の上ではじけ飛び、分厚く大きな羊皮紙が勝手に開いた。
「これは・・・!」
並び座った二人の膝からもはみ出るほど大きな羊皮紙に、びっしりと並んだ文字、文字、文字。手紙よりは何かの紋様に見えるのは、大小さまざまな筆跡で署名された名前が一面を埋め尽くしていたからだった。そして中央には見慣れた筆跡で『我らがミューズへ捧ぐ』と一文だけ書かれている。
「アンドレ・・・」
一つ一つの署名を見れば、アンドレを問いただすまでもなく、これがどういった書状なのかがわかった。フランス衛兵ヴェルサイユ部隊の兵士達が連綿と名を連ねている。
オスカルは一つ一つを指でなぞった。彼らの署名はお世辞にも達筆とは言えず、文字はひねくれたり鏡文字になったり、筆運びが出鱈目だったり、たいそう華やかに乱舞している。
大文字小文字を使い分けている署名は僅かで、羊皮紙はそこらじゅう毛羽立ちささくれて、ペン先を突き通してしまった穴まで無数に開いていた。
オスカルは最後まで名をなぞることが出来ず、震える口元を押さえた。ポン、と肩を叩かれて見上げればアンドレが嬉しそうに笑っていた。
「もともと字の書ける兵士は青いインクで、おまえのために署名を習い覚えた兵士が黒いインクだ。色分けしなくても字で見分けられるだろうけどな。
わざわざ羊皮紙を使ったのは、失敗しても何度でも削り直せるからだ。初めてペンを持つ連中に書き損じるなと言うのも酷だろう?修正繰り返し過ぎて穴あいちまったよ」
それだけ解説すると、アンドレは感動で絶句したオスカルが我を取り戻すまで待ちの姿勢を取った。オスカルは震える指先を紙面に戻し、また初めから全ての名前をなぞり始めた。
青インクは全体の僅か三割ほどに過ぎず、残りは全てたどたどしい黒文字の署名である。オスカルの唇が兵士の名を呟くように動く。時々押さえきれずに込み上げるものを飲み込みながら、長い時間をかけて全員の点呼を終えると、オスカルはそっと目元を拭い、眉間を押さえた。
「誰が・・・発案者だ」
「う・・・ん、おれかな?」
「文字を教えたのもおまえか」
「字の書ける兵士に所属班員の指導を担当してもらった。全員が読み書きできない班はおれが教えていたけど、大人数だから、そのうちユラン伍長やダグー大佐も手伝ってくれた。驚くなかれ、アランも一班だけじゃなく協力してくれたよ。もっとも教え方が短気で乱暴すぎるって苦情が出たけどね」
ほぼ部隊全員に近い数の署名がびっしりと並んでいた。準備期間はどれほど要したのだろう、よくも最後まで隠しおおせたものだ。よくぞこれだけの人数にペンを取らせ、綴りを覚えさせた。
かな釘文字に、でこぼこの線に、インクの派手な染みに、オスカルは兵士達の奮闘と、辛抱強い教師役だったであろうアンドレやダグー大佐、面倒見は悪くないくせに癇癪持ちのアランの姿がありありと想像できた。
「気に入ったか?」
聞くまでもなかった。オスカルの反応が全てを語っていた。オスカルはアンドレを振り仰ぐと、何か言いたいけれど言葉が見つからない様子でただ頷いた。
「良かった、悔しいけど」
え?と訝るオスカルに、発案者アンドレは、少々葛藤する様子を一瞬垣間見せてから、いや何でもないとかぶりを振った。オスカルが喜ぶことを確信の上自分から始めたプロジェクトながら、参加した四百五十名余の『男』に嫉妬したなんて言ってみても始まらない。
ふと、柔らかく温かいものがアンドレの頬をかすめた。何事が起きたのか自覚する頃には、ふわりと頬を撫でる金色の毛先と、一瞬首にまわされた細い腕がすっと離れていくところだった。
アンドレは魂を抜き取られたように呆然とそれを見送った。瞬きをする間ほどではあったが、それが抱擁と接吻だと悟るまでの数秒間、アンドレは本人が見たら出家したくなるほど呆けた顔で固まっていた。
「悪くないな」
手にした厚い(熱い)恋文も、目の前の幼馴染の惚け面も、考えるより先に動いた自分の行動も、オスカルは何から何まで気に入った。
「え?」
幼馴染はショックからまだ覚めやらぬ様相で目をまわしている。
「おまえは正しい」
「?」
確かにサン・ヴァレンティンはいい仕事をする、とオスカルは評価を翻した。彼女の幼馴染みには及ばないが。
「今夜は生涯最高のヴァレンティンの日だ」
そう言って微笑むオスカルの笑みこそアンドレには最高に美しかった。暫く立ち直れそうもないくらい、眩しかった。ヴァレンティンを散々こき下ろしたくせに、ご褒美を手にしたとたんに喜ぶ現金さも、ただ愛しかった。
丸めた羊皮紙を胸に抱き、オスカルは幼馴染みに寄りかかった。
「おまえも」
続く言葉は当然最高、なのだが。そこに含まれるあらゆる想いの広がりにオスカルは躊躇した。広すぎて、深すぎて、見えないことばかりで。まだ、言えない。だから今は。
「ありがとう」
「うん、おれも」
「おまえも?」
言ってもいいだろうか、とアンドレは迷った。言えば、封印したはずの気持ちを言外にオスカルに伝えることになる。
「最高のヴァレンティンの日だ」
「わたしに八つ当たりされて?」
「うん」
アンドレはオスカルの唇がかすった自分の頬に掌を当てた。そしてウィンク。
「最高」
「アンドレ…」
「礼はおれが代表で受け取ったから、他の野郎にはやるなよ」
オスカルの心臓がトクンと大きく鳴った。どうも、今夜は彼が何を言っても心臓に直撃する夜らしい。何度締め上げられても健気に鼓動を早くする胸を宥めつつ、オスカルはウィンクを返した。
「よし、では至急カードを五百枚追加注文してくれ」
「えええ、本気か?」
「本気だとも。全てわたしが署名する」
「また、騒ぎの種を…」
この夜、蒔かれた種は騒ぎの素だけだったろうか。
ヴァィレンティンを過ぎれば、雪解けは目の前だ。
Fin
初出 02.22.2006
改訂 02.15 2025
聖人伝説は、地上の灯台のようなものだ。世俗と天上の真理を繋ぐ橋渡し役が聖人だ。血肉を持つ人であった聖人が神の声を聞き、伝えてくれるから、世俗にまみれた人間が神を信じられるのだ。
だから、歴史的事実を正確に伝えることはさほど重要ではない。霊的な道しるべとしてあるべき形で、伝説は生まれ変わればいい。
そうは言っても昨今の聖ヴァランティンの扱われ方はどうだ。命を賭して禁じられた結婚を祝福し、自らも純愛のために殉教したというのに。本人がベルサイユの軽薄なお祭り騒ぎを見たら、大いに嘆くと思わないか?
うず高く積まれた恋文やらカード、意味ありげな贈り物を根こそぎ吹き飛ばさんばかりのため息をつきながら、幼馴染とそんな会話を交わしたのは去年だったか、一昨年だったか。
いや、「禁じられた結婚」などと今なら胸をしめつけられるキーワードを戯れにでも口に出せた頃だからもっと前のことだったのだろう。
寄木細工のビューローに片尻を預け、腕組みをした格好で寄りかかったオスカルは、手紙や床に積み上げられた贈り物の仕分け作業をする三人の使用人の中の一人をぼんやりと眺めながら回想していた。
聖ヴァランティンの祝日はただのお祭り騒ぎになってしまったかも知れないが、そう捨てたものでもないさ。打ち明ける勇気のない恋心でも、お祭り騒ぎに乗じてしまえば伝えることができるかも知れない。
冗談めかした恋文に、真剣な気持ちが秘められていることもあるだろう。だとすれば、聖ヴァランティンは気弱な恋の救世主として世紀を越えて活躍していると言えないか。
そう言ってオスカルの幼馴染が笑ったのは、更に何年も前、まだ彼女が近衛連隊長になったばかりの頃。届く恋文の量が最高値を記録し、書斎を埋め尽くした。
毎年の恒例行事であるサン・ヴァランタンに贈られた手紙や贈り物への礼状作成は、気の遠くなるほど忍耐を強いる重労働だった。果てそうな気力を保つために、オスカルと幼馴染は、冗談とも本気ともつかない軽口を叩き合いながら作業するのが常だった。
今思えば、その幼馴染の軽口の中にこそ、秘めた真心が隠されていなかったろうか。うかつだった自分に今更腹が立つオスカルだった。
今年も季節はめぐり、その年間行事がジャルジェ家の書斎で進められている。衛兵隊へ転属してからは恋文、カードの類はやや減り、系統立てた礼状作成手順が確立したため、効率よく分業されて行われるようになっていた。
「家紋入りのカードを添えた花とアーモンド菓子をお返しするリストはこれで洩れはないと思います」
品物の山とリストを黙々と付き合わせていたアンドレがおもむろに立ち上がり、品よく白髪を纏めた老執事にリストを手渡した。老紳士は口ひげを引っ張りながら眼鏡をずらしたり引いたりして紙面に焦点を合わせる。
「今年は定型文が印刷されたカードを発注しました。もう納品されていますけど、ご覧になりますか?」
どれどれと椅子を引きながら腰を落とす老人の手元が手暗がりにならないよう、アンドレは燭台の位置をずらしてやった。おお、この金文字は美しく仕上がっていますねと老執事は感嘆の声をもらし、アンドレはオスカルを振り返った。
「おまえも確認するか?」
オスカルは、すべておまえに一任すると手振りで幼馴染に知らせ、自分の部屋に戻るために書斎を後にした。背後では、今年は定型文を手書きする手間が省けたと、喜ぶ老執事の声が聞こえた。
宛名書きもおれがやりますから、と老執事を労わる低い声も。声の主の柔らかな微笑みは、後ろについた目でも見える。老齢の執事に対する配慮が手厚くなったこと以外は、一見例年と変わらぬ様子の彼だった。
ややあって、オスカルの居間の扉がノックされた。オスカルは顔を上げただけで特に返事もしなかったが、入室許可を声に出した位の間をおいて、音もなく扉が開かれた。
「仕分けは終ったか?アンドレ」
幼馴染は片手に手文庫を抱えていたから、作業が終了したのは聞かずともわかっている。手文庫にはオスカル自ら返礼を書く必要がある書簡だけが選り分けられて入っているはずだ。
「まあね」
彼流のウィンクが飛んで来た。片目が閉じたままの彼は、かすかに左側の口角を上げ、永久に閉じられた目蓋をきつく結び直すのだ。
子供の頃に、一生懸命顔中ゆがませて不器用なウィンクをくれた彼を思い起こさせる。大人版のそれは、茶目っ気が程よくブレンドされ、小憎らしく垢抜けていたが。
オスカルはそんな彼の様子に安堵を覚え、自分が妙に肩をいからせていたことに気がついた。ふう、と息をついて凝り固まった首を廻し、アンドレが箱を文机に置く位置に移動する。
オスカルが机につこうとすると、魔法のように音もなく椅子が引かれ、ぴったりと吸い付くように彼女の腰を収めた。
「少しでも判断が微妙な文は選り分けないでそこに入っている。おれが扱ってもいいものが混じっていたら、抜き出してくれ。おれはその間ここで仕事を始めているから」
アンドレは手文庫の上に別束になっている書簡を取ると、少し離れた壁際のコンソールに移動し、椅子は使わず床に膝をついた姿勢で羽ペンにインクを浸した。そこは、壁面照明が丁度落ちる場所だからだ。
アンドレの分担は定型文に相手に合わせた追加メッセージを加え、礼状を完成させることだ。アンドレの作成した文面をオスカルがすべてチェックしていた時期もあったが、今では完全にお任せである。
いつからチェックを止めてしまったのか。オスカルは思い出そうとする努力をさっさと放棄した。
オスカルが自ら返事を書く相手は、日頃個人的に親しく交流のある相手、過去か現在に多大に厚情を受けた相手、初めての相手、要注意人物である。彼女はひとつひとつ取り上げては差出し人を確かめた。
記憶力はいい方だから、アンドレの用意してくれた過去のリストを参照しなくても、差出人の動向はよく読めた。
ジェローデル少佐からは、カードも花もなかった。去年までは、かつての上官に対する親愛と変わらぬ友情と、健康と多幸を祈る文句が綴られた上品なカードが添えられ、小卓に飾るに程よい小ぶりの温室薔薇のアレンジが届いていた。
男性から女性への求愛を思わせるような文句はなく、これ見よがしに高価な真冬の温室花が馬車一杯に届くようなこともなく、贈られた方の心には留まるけれど、負担を感じさせない適温を心得た贈り主の一人だった。
だから例年通りの挨拶状が届いても、変に深読みして騒ぎ立てる必要は全くないのだが、沙汰がないのは彼のけじめなのか、潔い行動とは別に心の痛みが深いのか。
反対に、しばらく音沙汰のなかったフェルゼン伯からの手紙があった。フェルゼン伯も以前は友情のカードを贈ってくれていたが、コンテ公の舞踏会以降、ふっつりと跡絶えていた。
オスカルが急いで開封すると、社会情勢に充分留意した行動をとるようにとやや辛口に切り込みの入った文が目に飛び込んだ。厳しい語り口に、彼の心配の深さが感じられる。
オスカルは苦笑を洩らし、彼の署名を見て鼻の奥につん、と痛みを感じた。あなたのヴァレンティンより、という慣用句化した言い回しをもじり、あなたの友より、と署名がされていた。
一度は失ってしまったと思った親友との絆が、掌の上に戻って来たようで嬉しかった。
アンドレの分類はほぼ完璧で、オスカルはほどなく手を止めた。腹を割って付き合える友は悲しいかなそう多くないので、喜んで返事を書きたくなるカードはごく少数だ。
その中にはロザリーから届いたものがあった。多分次に開封するだろう。あとは、少々難しい御仁からの恋文で、当り障りない社交上の返礼を返すことで恋愛遊戯気分を収めて頂く必要のあるもの。
危ないほど熱烈に愛を語る恋文はいまだ多数来る。そのほとんどは女性だが、去年のはちゃめちゃな舞踏会以降、男性からも危ない文が届くようになっていた。
彼らには礼は尽くしながらもクールに返礼を返すのが常だから定型文でも十分なのだが、しかし危ない方々故、万が一でも誤解や期待を抱かせるような表現があってはいけない。そこが人任せにできない所縁であり、オスカルの頭痛のもとでもあった。
あとは、差出人の名前が記名されていない分厚い書状が一通。蜜蝋だけでは封印し切れないほどの厚みがあり、麻紐で縛ってある。これは初めて受け取るものだから、一番後回しでいいだろう。
オスカルが一段落した気配をアンドレはいち早く察し、羽ペンをペン差しに戻した。
「おれによこすやつはあるか?」
「うん、三通ほど頼んでもいい」
オスカルが言い終わらないうちにアンドレは彼女の横に立っていた。
「どれ?」
「この三通だ」
「わかった。じゃあ明日までに仕上げておく」
アンドレはオスカルが手渡した三通を受け取ると、すたすたと自分の作業場に戻り、さっさとインク壷のふたを閉め、紙類を集めて小脇に挟んだ。その先の行動が誰でも予想できる事務的な仕草だった。
彼は仕事を持って退出するつもりだ。椅子にかけずに作業していたのはフットワークを軽くするためで、ウィンクなど飛ばして場を軽く見せていたのは彼の思いやりだったのだろう。
しばしの間、気の張らない戯言などたたきあい、楽しく舌合戦に興じながら一緒に作業するぐらい、許されるのではと期待していたオスカルは、立ち去る準備をするアンドレに酷く落胆する自分に驚いていた。
幼馴染の均衡が破れてしまった夜を経て、婚約騒動の決着がついた後、ノエルの頃から何かを吹っ切ったように静かに落ち着いたアンドレ。持ち前だった屈託のない笑顔が甦ったことにオスカルが安堵したのもつかの間。
気がつけば、大好きな幼馴染みは恋しい異性としてオスカルの前に立っていた。ひとたび気づいてしまうと、それは後戻りできるような生易しい恋ではなかった。
オスカルに愛を求めることを手放したアンドレが、ただオスカルに与えるため、側に留まるために身分の線引きを死守すると覚悟を決めた。その重さが痛いほど理解できた。
身分の枠を守ることが唯一の選択肢であるアンドレとは違い、オスカルには枠を破壊するもう一つの道がある。
オスカルの人生全てが収まる枠だ。やはり生易しい覚悟で打ち砕けるものではない。しかし、持てるものを何も手放さず、枠内で生きながらこの恋を手に入れようとすれば、幼馴染みの命は危険に晒される。
人生丸ごと反転するかも知れぬ究極の選択を目の前に置きながら日々を送るオスカルにとって、ヴァレンティンに届いた贈り物の山は、幼馴染みと自分を隔てる見えない城壁の象徴にしか見えなかった。
聖ヴァレンティンの日など、所詮は社交界の祭りである。堅苦しく考える必要などないのだろうが、無性に腹が立った。臆面もなく愛だの恋だの無遠慮に綴る手紙の山、積み上がる贅沢な数々。
なのに、有閑貴人への礼状作成を幼馴染みに命じる自分。差出人の誰よりも深い愛を秘めているのに、祭りにかこつけてでさえ愛の片鱗すら表現することを許されないアンドレに対して、何と残酷な仕打ちだろう。
「アンドレ」
ふと呼び止めてはみたものの、オスカルはその先をどうして良いやら途方に暮れた。
他愛のない冗談を飛ばし、手紙の山から愛の迷文句の傑作を探し出しては笑い合いたい、砕けた雰囲気で、いっとき同じ空間で作業したいなんて、何をふざけたことを彼に求めているのだろう。
昨年秋に婚約破棄したことで、すっかり禊(みそぎ)を果たしたつもりになっていた。そんな傲慢な自分の尻を蹴り飛ばせるものなら、ピレネーの果てまで飛ばしてやりたい。
オスカルは言葉に詰まった。
「ん?何?」
呼び止められたアンドレは、静止してオスカルの次の言葉を待っている。
もうこんな茶番はやめだ、今年から返事など出すものか、馬鹿馬鹿しい!と駄々を捏ねるのは簡単だが、それでは問題が別な方向にすり替わるだけだ。オスカルは逡巡した。
「どこへ行く。ここでやって行けばいい」
アンドレは、小首を傾げるとずり落ちそうになった紙束を抱えなおした。
「もう、夜中だよ」
彼は正しい。まだ、中途半端なところで迷っている自分は、常識に従い彼を守るべきなのだ。オスカルは血が出るほどくちびるを噛んだが、もう少し一緒にいて欲しい気持ちに勝てなかった。
「わたしはまだしばらく起きているし、おまえを部屋に帰せば蝋燭を節約するに決まっている。わたしの部屋なら明るいし、本当はおまえに…」
こんな仕事はさせたくない。二十年近くも毎年手伝わせておきながら、今年、いや今夜になって急にいたたまれなくなったなどと、言えるわけがない。その理由はまだ口に出してはいけないのだ。
オスカルは、仕方なく二番手の本音を口にした。
「夜間の書き仕事はさせたくないのだ。おまえの目には、負担が大きいだろう」
アンドレは一瞬たじろいでからオスカルの瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。まさか時々見えなくなることに気づかれたか、と一瞬戦慄が走る。
しかし、よく見れば彼女の瞳に浮かんでいるのは、置き去りにされる少女が追い縋るような寂しさだ。アンドレの心臓がとくりと音を立てた。
実はアンドレの最近の苦悩の種はこの寂しげな瞳だった。オスカルは婚約を蹴ってしまってから、頻々とこの瞳でアンドレを見るようになった。置いて行かないで、どこにも行かないでと声になって聞こえるような錯覚を覚えることすらある。
大概はほんの一瞬の出来事で、はっと胸を突かれて目をそらした後、恐る恐る彼女を見やると、いつもと変わらぬ凛とした眼差しに戻っている。
どんな役回りでもいいから必要とされていたい、彼女の傍にあり続けたいとあまりにも強く願うがために見える幻覚なのか、本当にオスカルがそう訴えかけているのか、アンドレは判断する自信がない。
冷静に見極めるには、彼女を愛しすぎている。だとすれば、十中八九、幻覚と考えた方が思い上がらずに済むだろう。どちらにしても、自分からオスカルの傍を離れるつもりなど、毛頭ないのだから。
ただこの瞳に見つめられると、求められているような感覚が沸き起こる。腕を伸ばして抱きしめたくなる。自分の方が求めて止まない衝動は何とか制御できるようになったものの、切ない目で求められる感覚には慣れていない。
その場で射殺されたとしても、彼女の求めを満たしたい。まだコントロールするコツを掴めていない衝動に、激しく揺さぶられてしまう自分がこわい。
彼女に求められているなんて、独りよがりの幻想に決まっているのに。同じ幻覚なら、ピンクの象が空を飛ぶとか、おばあちゃんの嫁入り姿とかの方がよっぽど冷静に対処できるというものだ。
たとえ幻覚であったとしても、アンドレには振り切ることはできなかった。
「ありがとう。じゃあ、そうするよ。眠くなったらすぐに言え、な」
そう言うと、オスカルは素直に嬉しそうに微笑んだ。不敵なほくそ笑みも魅力的だが、飾らない笑顔は、こと美しい。そんなに側にいて欲しいのか、と誤解したくなる。つい手が伸びそうになり、アンドレは爪が掌に食い込むほど拳を握りしめて耐えた。
アンドレが部屋に留まり、二人は沈黙のうちに作業を再開したが、オスカルは何か気まずくて仕方がない。今更沈黙がこわい間柄ではなし、表面上は以前と全く変わりのない二人なのに、妙に緊張する。
サン・ヴァレンティンに絡んだ作業をしていることが元凶に違いない。気弱な恋心の救世主だか何だか知らないが、迷惑千犯な聖人だ。オスカルの手元はお留守になったまま、作業は一向に進まなかった。
「オスカル?どうしたぼんやりして。それでは終わらんぞ?」
アンドレも手を止めて、オスカルの方を見ている。オスカルは慌ててなんでもない、と身振りで制した。そして何か軽い話題がないか、フルスピードで頭脳を回転させる。
『たまにはおまえの方も手伝ってやらねばならんな』
と、余裕で微笑んでやったらどうか。だめだ。自分と違ってノーマルな男であるアンドレに届くのは、怪しい恋文よりも純粋な娘の心ばかりなはずだ。
誰にでも親切だけれど誰にもなびかない、見かけより硬派の男という評判がすっかり定着している彼に、気軽なお遊び目的の恋文など来ないだろう。
真面目な娘の心を茶化す趣味はないし、そんなものを目にしたら自分が地球の反対側まで落ち込むのが目に見えている。何か、もっと軽い話題はないものか。
『ところで、おまえは誰にも贈り物をしなかったのか?』
聞けるか、そんなこと。ばあやとか、多分母上や姉上にも贈ったろうし、アンドレの食事の世話を嬉々として焼いているマルグリットや、わたし付きで同僚のマルタにも日頃の感謝を返す機会としてちょっとした贈り物くらいしているだろう。
別にそんなことを知りたい訳じゃない。知りたいのは…いや、別に何かを知りたいのではなく、わたしは会話を楽しむための話題を探しているはず。なぜそこに行き着くのだ?
『今年も、おまえからのカードがないな。いつか贈ってくれるものと思って待っているのだが』
最悪だ。今更洒落にもならない。それを言うなら、もっと何年も前に言うべきだった。その頃ならアンドレもそうか、気づかなかったな、とか何とか笑ってくれたろうに。そして、エスプリのきいた滑稽な詩でも書いてくれたろう。
よく注意して見れば、行間に秘めた気持ちが読み取れたかもしれない。いや、そんなことに気が付くわたしなら、いまここで悶々としているはずがない。
かきあげてもかきあげても落ちてくる邪魔な髪をわしわしとかきむしり、眉根に皺を寄せたかと思うと、頬を赤らめてみたり、水滴を振り払う猫のように頭を振るオスカルを、アンドレは唖然と眺めていた。
今年は差出し人不明の怪しい手紙はなかったはすだし、オスカルの熱烈なファンである貴婦人方でも、かけ離れてその…変態的な人物はいなかったと思ったが。
オスカルの広い文机の上には、未開封の手紙ばかりが散乱しており、一向に仕事が進んだ気配はなかった。アンドレは首を捻る。変態じみた手紙で苛立っているわけではないのなら、オスカルのこの落ち着きのなさは一体何なのだ。見ている傍からオスカルが羽ペンの羽根先をかじった。
「あらら」
アンドレが思わす声を出し、二人の目が合う。
見つめ合うこと数十秒。
「オスカル、腹が減ったのか?」
「…違う」
オスカルは俯き、上目使いでアンドレを見た。本人知ってか知らずか、アンドレのハートを串刺しにする究極の角度だった。
さすが、今夜は聖ヴァレンティンの日だけのことはあって狙いは正確だ。などとアンドレは一人おどけてみたが、串刺しになったハートは誤魔化されない。のたうちまわるハートが分別を失うのは時間の問題だ。これ以上ここにいたら危険だ。アンドレは立ち上がった。
「疲れているのだろう?今夜はここまでにしよう」
「いやだ、もう少し」
同じく跳ね上がるように立ち上がってオスカルはアンドレの腕を掴んだ。その衝撃でインク壷が硬質な音を立てて文机を転がり、黒いインクが弧を描いて重ねた便箋を染める。オスカルのシルクのブラウスにも黒い斑点が飛び散った。
オスカルはまたアンドレの悩みの種となる瞳を見開いていた。切なげな、吸い寄せるような潤んだ瞳がアンドレを見上げ、長く美しいカーブを描いた睫毛が濡れたサファイヤを滑るように往復する。
アンドレの身体に嵐のような衝撃が駆け抜けた。今、抱きしめても拒まれない確信めいたものがアンドレの背中を圧倒的な強さで押す。幻覚って目で見るだけではないんだ、覚えておくべしと違う方向へ注意を向けてアンドレは必死で耐えた。
追い討ちをかけるようにわずかに開いたオスカルの唇が小刻みに震える。見てはだめだ!目をそらせ!とアンドレの脳幹の奥で警鐘が鳴り響くが、彼女から目が離せない。オスカルもアンドレの腕を掴んで放さない。
高鳴る心臓の音以外、何も聞こえなくなった。
一呼吸、一呼吸を意識しないと息をするのも忘れてしまいそうだった。二人を囲む世界の全てが静止し、営みを止めた。時間も止まった。
硬直したアンドレの手から、紙類がさらさらと床に舞い落ち、一瞬二人の目が動くものに引き寄せられた。卓上でこぼれたインクが机の端まで広がり、盛り上がった黒い液体が雫となり、落下していく様子が何故か克明に見え、インクの流れ落ちる速度で時間も動きを再開した。
たちまちアンドレの職業意識が目覚め、彼の窮地を救った。オスカルの瞳に射抜かれ捕らわれていた体が、習慣によってするすると動き始めた。
「ほら、オスカル、じっとしてろ」
オスカルを制し、滴り落ちようとしているインクを机の端で未使用の紙で堰き止めながら、転がったインク壷を拾い上げる。
卓上の手紙や便箋がインクの海に浸されないようにまとめて端に寄せ、すでに被害をこうむっていた書類を救い出した。床に落としてしまった手紙類も拾い上げ、被害状況を確認する。
「良かった、判読できないほど汚れちゃいない。だけど、おまえのブラウスはどうかな。マルタに言って…。いや、インクだからもう駄目かも知れないな」
オスカルは、てきぱきと後片付けをするアンドレを見詰めながら、自分の発した言葉が頭の中で何度もこだまするのを聞いていた。
『いやだ!』
まるで駄々っ子だ。どうかしている。しかし、みっともなく取り乱して、訳のわからない感情のままに、我がままをぶつけたかった。アンドレを引き止めようとつかんだ腕をもっと引き寄せて、顔をその胸に埋めてしまいたかった。
それは自分でも驚くほど激しい衝動だった。アンドレは酷く困惑していたが、決して嫌悪はしていなかった。きっと受け止めてくれたに違いない。しかしそんなことをすれば、愛の言葉があふれ出てしまうだろう。
「・・・オスカル、オスカル」
オスカルは、自分を呼ぶ馴染んだ声ではっと我に帰った。アンドレはすっかり片付けを終え、焦点の合わぬ瞳で中空を見つめたまま動かないオスカルを心配そうに覗き込んでいる。
そっと肩を押され、机ではなくゆったりとした長椅子の方にかけさせられた。オスカルは、激しい感情の余韻を持て余し、押さえつけるように両腕で自分の肩をきつく抱いた。
アンドレ、おまえが耐え続けたものはこれか。こんなに激しいものを十何年も堰き止め続けてきたのか。思い余ったおまえの行動の数々を理解できていると思い込んでいたとは笑わせる。わたしは何一つわかってはいなかった。
アンドレはオスカルの様子を見ると黙って傍を離れ、暖炉に新しい薪を足し、火かき棒で空気を入れた。炎が大きく立ち上がり、小枝のはぜる音が心地良く響いた。
「まだ、寒いか?」
アンドレが新たな薪を手にしたまま尋ねる。オスカルは首を横に振った。叶うことなら、別の温め方をして欲しい。肩も、背中も、胸も、火では温めきれない深いところが震えている。そして温め役ができるのは、この世でたった一人だけ。
「マルタを呼んでくる。着替えないと」
「いいんだ、待て」
今夜はもう何度アンドレを引き止めたことだろう。オスカルはアンドレを手招いて、横に座れとぽんぽんと長椅子の座面を叩いた。アンドレが恐る恐ると言った体でしばし躊躇を見せたので、彼女は短く一喝した。
「座れ」
なおも考えあぐねる様子のアンドレだった。オスカルは少し芝居がかった威厳を見せて、腕を組み目を閉じる。そして片目を細くあけ、わざと低い声で凄みをきかせた。
「何も取って食おうというわけではない、座れ」
いや、むしろカマキリの雄のように頭からばりばりと食われるなら本望だ、と喉もとまで出かかった本音をアンドレは無理に飲み下し、笑って見せた。昆虫の雄だって無償で頭を差し出すわけではないから洒落にならない。
「ま、食われるだけのことはやらかしたからな、覚悟はできているよ」
二人の目が合い、空気の一部が溶けた。幼馴染の気安いリズムが静かに流れ始める。自然とこぼれた笑みに従者の戒めを解かれたように、アンドレがオスカルの傍に歩を進めた。
オスカルはアンドレの上着の裾を引っ掴んで引っ張り、バランスを崩したアンドレは尻餅をつく格好で長椅子に落下した。
「何の覚悟かは知らんが」
「まあいろいろとね」
アンドレは指折り数えて見せると、悪いんだが、と歯切れ悪く切り出した。
「助けてくれ、心当たりを数えようにも、指が足りない」
オスカルがぷっと吹き出す。
「足の指も使え」
「それより、こっちの指を貸してくれ」
オスカルの両手をアンドレが包み込むようにとった。そして、ふざけ半分を装いつつ、指を一本一本数えるように心を込めて愛撫した。以前は何の躊躇いもなく触れられた手。また再び触れても許されるのだろうか、思い上がりすぎてはいないだろうか。
そんなアンドレの恐れをよそに、指は引き抜かれることなくアンドレの掌の上に留まった。きゅん、と胸の奥がしめつけられるような痛みがオスカルを貫く。不快な痛みとは違う、熱っぽくて泣きたくなるような甘い衝撃だった。温かな大きな手に残るインク染みが、なぜか愛しいと彼女は思った。
「足りたか?」
「どう・・・かな」
拒まれなかった。神様、感謝します。
体中に沸き起こる歓喜と感謝に、アンドレはそれきり言葉を失った。拒むどころかオスカルは一瞬たりとも警戒するそぶりさえ見せなかった。ただ、静かにアンドレの手に自らの指先を委ねている。
抱きしめることは叶わなくても、オスカルの手だけは昔からアンドレに許された領域だったのだ。おそらく、出合った頃から一番よく触れ合ったところ。引っ張りまわされたとも言えるが。
アンドレは彼女の両手を自分の膝の上に置くと、両親指で白い手の甲を優しく愛撫した。制御することさえできれば、美しくしなやかな手に触れることが許される。そのささやかな特権を守るためなら、何でもできるとアンドレは思った。
居心地のよい沈黙の中、二人の体温が互いの手を交差して相手の全身に行き渡るのを待っているかのように、二人は手を握り合っていた。
♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️
「どうかしていた」
オスカルがぽつりと沈黙を破った。オスカルは間違いなく何かに動揺していたが、原因には皆目見等がつかなかったので、アンドレは静かに耳を傾ける。
「愛だの恋だのを軽々しく口に出す浮かれ騒ぎに付き合うのがほとほと嫌になった」
アンドレは、わずかに首を傾げたまま、何も言わない。黙ってオスカルを見つめ、次に続く独白を待っている。オスカルはオスカルでアンドレの合いの手を待っていたが、やがて焦れたように付け足した。
「そういう訳だ」
拍子抜けしたのはアンドレである。目が丸くなった。
「それだけ?」
「それだけじゃいけないかっ!」
あ、怒った。つまり、まだ何かある。けれど、そこをずばっと指摘してしまったら最後、二度と聞き出せないことをアンドレは熟知していた。
「いけなかないけど。あはは、何か物凄い告白があるんじゃないかと思って冷や汗かいて損したな」
「何故そう思う」
「何故って・・・。おまえ、毎年それ言っているからさ。付文の山を目の前にして、愛だの恋だのお祭り騒ぎにして嘆かわしいって、毎年ぼやいているじゃないか」
そうだった。呆けたか、わたし。オスカルは黙り込んでしまった。隣に座ったアンドレはオスカルの手の甲をぽんぽん叩きながらくすくす笑っている。
「今年は何故かよっぽど腹に据えかねたみたいだな」
そうだ、腹が立って腹が立って仕方がない。で、何故か。そう、そこが問題なのだ。とオスカルは腹の中でアンドレに答える。今年は社会風潮に怒っているのではないのだ。他人事みたいにのん気に笑っているこの男のために怒っている。
「おまえに、こんな仕事を平気でさせる自分が嫌になった!と言い換えてもいい」
オスカルに憮然とした不満顔を向けられ、リズミカルにオスカルの手の上で跳ねていたアンドレの手が中空で止まった。
「は、初めて聞いた」
それはそうだろう。初めて言ったのだから。それに、初めてそう思った。おまえが仕事として割り切ろうがそうでなかろうが、わたしが嫌なのだ。大人気ないと笑わば笑え。
などと、いきなり素直になるには、二十数年間の歴史が邪魔をする。オスカルはもう一言ぶっきらぼうに言い放って口をつぐんだ。
「おまえも、馬鹿馬鹿しくてやってられない、と怒ったらどうだ!」
アンドレは、ぷいと横を向いてしまったオスカルを愛しげな眼差しを注いだ。照れを不機嫌で誤魔化そうとする常套手段に出ている。
使用人の分をわきまえるなら、社交にうんざりしたお嬢様の単なる悪態だと思うに留めるべきだろう。
しかし、しゅんしゅんと薬缶のように沸騰しているオスカルには悪いと思いながらも、アンドレは温かな幸福感に包まれていた。
使用人を、人として対等の友として扱おうとするオスカルの方が、貴族社会にあっては異色であるのに、昔からアンドレが不条理な扱いを受けるたび、彼女は烈火のごとく怒り狂った。
年齢を重ね、人間が社会的生き物であり、その構造の裏表をより理解するようになってからも、その一点においてオスカルは変わらなかった。
今夜も同じだ。怒り方が唐突でわけはわからないが、二人の絆に深く根差した愛情の裏返しの怒りであることだけはひしひしと伝わってくる。
二人が成長して、男女を意識し、すれ違いや過ちを幾つ経ても、オスカルは根幹のところで変わらないのだ。男女のそれではないのだろうが、愛されていると思う。十分だ。アンドレは目を閉じて幸福を心から味わった。
一方オスカルの方は、アンドレが怒るどころか長々と手足を伸ばし、満腹した犬のように伸びまで始めたものだから、穏やかではいられない。すっくと立ち上がると、文机に突進した。
一言も発さずに卓上にあるあらゆるものを鷲づかみにすると、ある場所へ向かう。アンドレが火を強めたばかりの暖炉だ。
幸せに浸っていたアンドレは、またもや目の前の光景と、その意味が頭の中で繋がるのにしばし時間を要した。一息遅れて後を追うが、追いついた時にはオスカルは大きく腕を振りかぶり、手に持った紙束をまさに炎に投げ入れんとするところだった。アンドレの鼻先を金色の巻き毛がかすめる。
「オスカル、待て、止めろ」
「うるさいうるさいうるさい!」
アンドレはとりあえずオスカルの右腕を後ろから掴んでから、電光石火の早業で神に自らの理性を守りたまえと短い祈りを捧げると、余りの早口に神も聞き取れなかったのではないかという危惧は横に押しのけ、左腕をオスカルの胴に廻し、がっちりと抱えた。
そしてぐいと身体を弓なりに反らせると、オスカルのばたつく足が床から離れた。後方アプローチの場合は反対に投げ飛ばされる危険があるから、これは絶対に欠かせない措置だ。
目の前では勢い良く炎が上がっている。オスカルの手から離れた手紙類が宙を舞い、そのうちの幾通かが炉辺に落ちて炎に呑まれた。
「ええいくそっ、放せ、降ろせ、ばっかやろう!」
「落ち着けオスカル!」
「その十八番はもう聞き飽きた!」
「落ち・・・じゃない暴れないでくれ!」
細身に見えるが、強靭な筋肉のバネが束になって詰まったオスカルの体躯を抑えるのはアンドレにしても並大抵のことではない。胴を押さえただけでは、しなやかな体を巧みによじらせたオスカルに関節技をかけられるのは時間の問題だ。
しかもアンドレにはオスカルに触れる箇所に制限があるが、オスカルの方は遠慮がない分有利でもある。
それにオスカルは力で抑えつけられることを極端に嫌う。
知識でも武術でも、「女」にかなわないとなると、腕力でおのれの優位を誇示せずにいられない男が多すぎたので無理からぬこと。オスカルは士官学校入学以来現在に至るまで、そんな男どもに苦しめられてきたのだ。
自分も例外ではなく、脛に傷を持つ自覚のあるアンドレは、炉から離れたら、ただちにオスカルを自由にし、首を差し出す覚悟を決めた。
アンドレは、力づくで押さえ込まれている印象をオスカルに与えないよう、彼女を抱えたまま自分から床にひっくり返り、すぐに腕を緩めた。オスカルは弾けるように向きを変え、アンドレの両脇の床に手をついた。
水面から跳ね上がった若鮎が空中で身を翻すようだ、とアンドレはこんな体勢でも見とれてしまう。掌を見せ、降参を表明するアンドレを食いつくような勢いで組み臥して、オスカルは鼻息も荒くまくし立てた。
「お、おまえは、何とも思わないのか!し、仕事なら割り切れるのか!わたしはいやだ。もう金輪際こんな馬鹿馬鹿しいまねは止めてやる。無粋だとなじるならなじれ。嘘っぱちの戯言なんぞもう見るのも嫌だ。わたしが欲しいのは・・・!」
オスカルは怒涛のように流れ出た悪態の先にある未踏のものを感じて、言葉に詰まった。欲しいものは決まっている。しかし、乗り越えるべき壁を突破するまで、口には出さないと決めたのだ。
身じろぎもせずに黙って仰向けに転がっているアンドレを見下ろすと、彼は困ったような笑みを浮かべるばかりである。
「何か言え」
頭に血が上りすぎて、何も考えられなくなった時は、この男に矛先を向ける。くそ迷惑な習慣には違いないが、今更変えられるか。オスカルは肩で息をしながらアンドレに気迫で迫った。
アンドレは、目玉を左右上下に彷徨わせ、口をへの字に結ぶ。
「考え中」
「ふっ、ふざけるな」
「大概のことは聞き飽きたろうから、何か画期的なことを」
「か、からかっているのか!」
オズカルは、もう我慢ならんとばかりに床に置いた両手を押しやり、立ち上がろうとしたが、一瞬早くアンドレの腕が肩と背中に廻され、オスカルは彼の首元に顔を埋める格好になった。
「何でからかうんだよ。嬉しいのに」
低い声がオスカルの頬に直に響き、彼女の心臓は急にその存在を尋常ならざる鼓動で主張し始めた。
「去年までは平気だったくせに、変な奴」
「もがっ」
「子供みたいにムキになって」
「むぐむぐ」
「礼状なんて、おまえが新年の夜会でばら撒いた歯の浮くような台詞と同じじゃないか」
「ふんがふが~ッ」
「ほら、貴女のせいで今宵は月まで恥じらいのあまり顔を隠してしまった、とか何とか言ってたよな。真冬だもの、曇ってあったりまえ」
「うがががが」
「まあおれにはちゃんと、ごきげんよう、ではさようなら、と聞こえたけどね」
そこまで言うと、アンドレは自分の胸の上で恥ずかしさにじたばたしてるオスカルに、声を出さずに詫びた。
『ごめん、こんな風にでもしないと、愛しすぎて襲っちゃいそうだからな』
オスカルは、恥ずかしいやら決まりが悪いやらで身悶えていたが、さりとてアンドレの腕から出たくない自分に戸惑った。形ばかりの抵抗が次第に弱弱しくなっても、それを取り繕う気にもならなくなった。
切ないまでの震えが胸の奥底から、さざなみのように全身に広がっていく。どこかで味わったことのある疼きだと思ったが、扱い方など知るよしもなく、沸き起こるに任せるより他なかった。
オスカルは、もがくのを止め、荒っぽい呼吸で肩を上下させながらアンドレの胸倉を鷲づかみにしたまま大人しくなった。アンドレはオスカルの髪を触れるか触れないところで撫で下ろす。今度こそオスカルに拒否されるのを半ば覚悟しての愛撫だったが、オスカルはじっとしたままだ。
気軽に触れ合うことができなくなったあの夜以来、こんなにもオスカルが全身を預けてくれたことがあったろうか。少なくともこの事実は思い込みでも幻覚でもない。アンドレは感慨で胸が一杯になった。
「おれのために怒ってくれたんだよな」
オスカルが顔を伏せたまま、ぴくりと反応した。
「ありがとう。嬉しいよ」
オスカルは興奮で上気した顔を上げた。至近距離で潤んだ瞳がアンドレを捉える。アンドレにとっては非常に幸福で過酷な試練だが、オスカルの重みを胸に受ける幸福と引き換えなら、何だって耐えられると思った。
「自惚れるな」
オスカルはそう一言放つと、再びアンドレの胸に顔を伏せ、クラバットを締め上げた。アンドレには『おまえのために決まっている』とちゃんと聞こえてしまったことだろうが、それでいい。
自惚れるなは自分に向けた自戒だ。オスカルは自分自身を叱咤したのだ。久しぶりのアンドレの胸の感触、匂い、鼓動。ああ、愛している。しがみついて号泣してしまうのを堪えるのに必死だった。
確かなのは、オスカルにとってこの胸がこの上なく大切な場所であり、もう二度と自分に都合良く出入りしてはならないこと。この場所を手に入れたければ、きちんとつけるべき落とし前があること。
だから今は早く身を離さなければならいことはわかっていた。だけどこのひとときだけ、今だけはもう少しこのままいさせて欲しい。オスカルは懐かしい匂いを胸一杯に吸い込んだ。
その願いが届いたか、大男は黙ってオスカルの背に両腕をまわし、腕の重みすらかけないように優しく彼女を囲んだ。もっと息が止まるほどきつく抱きしめて欲しいと、言葉になる前の甘切ない感覚がオスカルの身を焼いた。
♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️♥️
「ほら、端っこが焦げはしたがロザリーの手紙は無事だ。燃えたのは う~ん、ボワモルティエ伯爵夫人と、ラグランジュ男爵と・・・」
アンドレは黙々と炉の周りを片付け、焼失をまぬがれた手紙類の被害状況を調べ、燃失ないしは判読不可能なものを手早くリストアップしている。
一方オスカルは、ほいとアンドレに手渡された紙束を憮然としたまま睨んでいた。
『表現の自由を奪われた可哀相な身分差別の犠牲者』に、『これ見よがしに身分違いを思い知らせる辛い仕事を与えた血も涙もない横暴な女主人』が宥めすかされているとは、何たるコメディだ。
冷静になって見れば、一人で暴走しただけだった。その結果、幼馴染みとの関係が緩和したのだから、これもヴァレンティン効果と言えなくもないが、全く人騒がせな聖人だ。とオスカルは聖人に罪を着せた。
「オスカル、それはヤケクソ笑いか?」
アンドレはと言えば、悔しいほど爽やかな笑顔だ。オスカルとしては、醜態を見せてしまった気まずさが少々残っている。こうして何事もなかったように接してもらえるのは有り難いのか、ちょいと不満なのか、微妙なところである。
「燃えたやつは・・・」
どうする、と言いかけたアンドレは言葉を切った。憮然としたオスカルの恨めしそうな視線が自分に注がれていた。
「ま、いっか」
今夜は使用人モードを終了しよう。パンパンと手に付いた灰を払い、アンドレは例のウィンクを投げた。オスカルの不機嫌が少し和んだように見えたので、アンドレはオスカルの隣にすとんと腰を降ろし、背もたれに腕をかけた。
「よっこらしょ」
ちら、とオスカルが横目で睨む。もう一度ウィンク。オスカルはむすっとしたまま顔を伏せた。
「良かったな、ロザリーの手紙は無事で。読む前に燃えちゃったら可哀相だよ。それにフェルゼン伯からのも・・・。あれ?もう開封してある」
「う、うるさい」
「はい」
オスカルはそれきり黙った。もう少し突っ込んでやればよかったか。アンドレは次の行動に出た。オスカルが膝に乗せている紙束の一番下から恋文にしては無骨な分厚い書状を抜き取りオスカルの手に乗せる。オスカルは怪訝な表情でアンドレを見た。
「え~、これを見たおまえがどんな反応を見せるか楽しみだったんだが、今夜は虫の居所が悪いみたいだから心配だな」
そう言いつつ、アンドレは書状を縛ってある麻紐を解いた。それは今時珍しい羊皮紙で、あまりにも大判なものを無理に畳んであるものだから、紐を解かれた瞬間封蝋が割けそうになった。
「おっと、ほらおまえが開けて」
アンドレがぽんとオスカルにそれを投げてよこす。封印の蜜蝋が、オスカルの膝の上ではじけ飛び、分厚く大きな羊皮紙が勝手に開いた。
「これは・・・!」
並び座った二人の膝からもはみ出るほど大きな羊皮紙に、びっしりと並んだ文字、文字、文字。手紙よりは何かの紋様に見えるのは、大小さまざまな筆跡で署名された名前が一面を埋め尽くしていたからだった。そして中央には見慣れた筆跡で『我らがミューズへ捧ぐ』と一文だけ書かれている。
「アンドレ・・・」
一つ一つの署名を見れば、アンドレを問いただすまでもなく、これがどういった書状なのかがわかった。フランス衛兵ヴェルサイユ部隊の兵士達が連綿と名を連ねている。
オスカルは一つ一つを指でなぞった。彼らの署名はお世辞にも達筆とは言えず、文字はひねくれたり鏡文字になったり、筆運びが出鱈目だったり、たいそう華やかに乱舞している。
大文字小文字を使い分けている署名は僅かで、羊皮紙はそこらじゅう毛羽立ちささくれて、ペン先を突き通してしまった穴まで無数に開いていた。
オスカルは最後まで名をなぞることが出来ず、震える口元を押さえた。ポン、と肩を叩かれて見上げればアンドレが嬉しそうに笑っていた。
「もともと字の書ける兵士は青いインクで、おまえのために署名を習い覚えた兵士が黒いインクだ。色分けしなくても字で見分けられるだろうけどな。
わざわざ羊皮紙を使ったのは、失敗しても何度でも削り直せるからだ。初めてペンを持つ連中に書き損じるなと言うのも酷だろう?修正繰り返し過ぎて穴あいちまったよ」
それだけ解説すると、アンドレは感動で絶句したオスカルが我を取り戻すまで待ちの姿勢を取った。オスカルは震える指先を紙面に戻し、また初めから全ての名前をなぞり始めた。
青インクは全体の僅か三割ほどに過ぎず、残りは全てたどたどしい黒文字の署名である。オスカルの唇が兵士の名を呟くように動く。時々押さえきれずに込み上げるものを飲み込みながら、長い時間をかけて全員の点呼を終えると、オスカルはそっと目元を拭い、眉間を押さえた。
「誰が・・・発案者だ」
「う・・・ん、おれかな?」
「文字を教えたのもおまえか」
「字の書ける兵士に所属班員の指導を担当してもらった。全員が読み書きできない班はおれが教えていたけど、大人数だから、そのうちユラン伍長やダグー大佐も手伝ってくれた。驚くなかれ、アランも一班だけじゃなく協力してくれたよ。もっとも教え方が短気で乱暴すぎるって苦情が出たけどね」
ほぼ部隊全員に近い数の署名がびっしりと並んでいた。準備期間はどれほど要したのだろう、よくも最後まで隠しおおせたものだ。よくぞこれだけの人数にペンを取らせ、綴りを覚えさせた。
かな釘文字に、でこぼこの線に、インクの派手な染みに、オスカルは兵士達の奮闘と、辛抱強い教師役だったであろうアンドレやダグー大佐、面倒見は悪くないくせに癇癪持ちのアランの姿がありありと想像できた。
「気に入ったか?」
聞くまでもなかった。オスカルの反応が全てを語っていた。オスカルはアンドレを振り仰ぐと、何か言いたいけれど言葉が見つからない様子でただ頷いた。
「良かった、悔しいけど」
え?と訝るオスカルに、発案者アンドレは、少々葛藤する様子を一瞬垣間見せてから、いや何でもないとかぶりを振った。オスカルが喜ぶことを確信の上自分から始めたプロジェクトながら、参加した四百五十名余の『男』に嫉妬したなんて言ってみても始まらない。
ふと、柔らかく温かいものがアンドレの頬をかすめた。何事が起きたのか自覚する頃には、ふわりと頬を撫でる金色の毛先と、一瞬首にまわされた細い腕がすっと離れていくところだった。
アンドレは魂を抜き取られたように呆然とそれを見送った。瞬きをする間ほどではあったが、それが抱擁と接吻だと悟るまでの数秒間、アンドレは本人が見たら出家したくなるほど呆けた顔で固まっていた。
「悪くないな」
手にした厚い(熱い)恋文も、目の前の幼馴染の惚け面も、考えるより先に動いた自分の行動も、オスカルは何から何まで気に入った。
「え?」
幼馴染はショックからまだ覚めやらぬ様相で目をまわしている。
「おまえは正しい」
「?」
確かにサン・ヴァレンティンはいい仕事をする、とオスカルは評価を翻した。彼女の幼馴染みには及ばないが。
「今夜は生涯最高のヴァレンティンの日だ」
そう言って微笑むオスカルの笑みこそアンドレには最高に美しかった。暫く立ち直れそうもないくらい、眩しかった。ヴァレンティンを散々こき下ろしたくせに、ご褒美を手にしたとたんに喜ぶ現金さも、ただ愛しかった。
丸めた羊皮紙を胸に抱き、オスカルは幼馴染みに寄りかかった。
「おまえも」
続く言葉は当然最高、なのだが。そこに含まれるあらゆる想いの広がりにオスカルは躊躇した。広すぎて、深すぎて、見えないことばかりで。まだ、言えない。だから今は。
「ありがとう」
「うん、おれも」
「おまえも?」
言ってもいいだろうか、とアンドレは迷った。言えば、封印したはずの気持ちを言外にオスカルに伝えることになる。
「最高のヴァレンティンの日だ」
「わたしに八つ当たりされて?」
「うん」
アンドレはオスカルの唇がかすった自分の頬に掌を当てた。そしてウィンク。
「最高」
「アンドレ…」
「礼はおれが代表で受け取ったから、他の野郎にはやるなよ」
オスカルの心臓がトクンと大きく鳴った。どうも、今夜は彼が何を言っても心臓に直撃する夜らしい。何度締め上げられても健気に鼓動を早くする胸を宥めつつ、オスカルはウィンクを返した。
「よし、では至急カードを五百枚追加注文してくれ」
「えええ、本気か?」
「本気だとも。全てわたしが署名する」
「また、騒ぎの種を…」
この夜、蒔かれた種は騒ぎの素だけだったろうか。
ヴァィレンティンを過ぎれば、雪解けは目の前だ。
Fin
初出 02.22.2006
改訂 02.15 2025