二つ目の北極星

2024/11/19(火) 原作の隙間 1761年冬
 


凍りついたわだちが馬の足を折らぬよう慎重に手綱をさばきながら、将軍は疲れた背を緊張させつつ半年ぶりの家路を辿っていた。厳冬の冷気が厚い軍用コートなどものともせず皮膚を刺し貫き、手には最早感覚がない。

しかし自宅の豪奢な鉄門が目に入るより先に、執事をはじめとしたジャルジェ家の懐かしい侍従達が満面の笑みで凍てついた街道に居並び将軍を迎え待つ姿が見えた。ヴェルサイユから自宅に送った伝令は、ノエルの夜であるにも関らず、きちんと主の帰宅を伝えてくれたようだった。懐かしい面々の歓迎に将軍は人心地を取り戻した。

打ち立てた武勲への褒章として、プロセインより帰還すると同時に准将から少将へ昇進を果たしたばかりのレニエであった。後に七年戦争と呼ばれる会戦で局所的な勝利は得たものの、誇らかな凱旋とは言いがたい帰国である。

敵将であるフリードリヒ大王は卓越した戦術家だった。戦略的な劣勢にひるむことなく部隊の再編成を繰り返し猛攻を繰り返す敵将を相手に、前線に赴いたレニエは多くの若い部下を失った。

時同じくして、フランスはインドとカナダでも宿敵イギリスと植民地攻防戦を繰り広げていた。北半球をまたいだ複数の戦争は、フランスの兵力を無駄に消費し、国は疲弊していた。大儀よりも和平を望む声が優勢になりつつある中、沈着勇猛でならしたレニエは疲労困憊の中で帰国したのだった。

家臣の手厚い出迎えの中、レニエはほどなく我が家に到着した。玄関ホールに足を踏み入れると、興奮で上ずった声で近習が当主帰還を告げる。すると、正面玄関ホールへつづく大階段から一斉に大輪の花々が零れ落ちるように舞い降りてきたようにレニエには見えた。

おや、我が妻の花好きは、ついに邸内まで造園してしまったか。深紅の絨毯の上を踊るようにすべり降りる濃淡さまざまな花は、花びらを撒き散らし、日に透ける蝶の飛翔まで見えるようである。季節を早回ししたかのような春色の華やぎにレニエは眩暈を覚えた。

それぞれの季節を司る精霊が、雪深い冬の森に迷い込んだ少女のために、実りの秋、命はじける夏、芽吹きの春をそれぞれ一夜だけ呼び戻してやる物語があったな。妻が娘達に読んで聞かせてやっていたことをふと思い出したが。

階段から駆け下りてきた華やかな花々は瞬く間にレニエを取り囲み、古い記憶は吹き飛んだ。

「お父様!お帰りなさい、お父様!」
「ご無事で嬉しゅうございます、お父様!」
「ノエルに間に合うなんて、夢のようですわ、お父様!」
「お会いしたかった、お父様、お父様!」

春の嵐、いや薔薇色の竜巻の襲来。

レニエは眉尻を下げた。花々はつぎつぎに羽衣を脱ぎ捨てて五人の人間の娘になった。白い二の腕が先を争って父親の無骨な首にまわされ、柔らかな唇が頬を埋める。すみれに百合にライラック。将軍を包む甘い香りにも淡い春の色が見えた。

「美しくなった、マリー・アンヌ、おお、また背が伸びたかジョゼフィーヌ、相変わらず笑い上戸かオルタンス、ずいぶんと大人びたものだクロティルド、すっかり貴婦人だなカトリーヌ・・・」

レニエは愛らしい娘を一人ひとり抱擁し、再会の喜びに身を沈めた。そうしていると、凄惨な戦場の記憶の方が次第に希薄になり現実味を失ってゆく。若く生気に満ちた娘達の瑞々しさの何と眩しいことよ。

甘いたわごとと笑わば笑え。殺戮と怒号などとは無縁に生の喜びを全うして真っ直ぐに育った娘達。このような娘達の存在もまた人の世の現実であるからこそ、大地を血に染め、ただの消耗品にしてしまう戦を止められぬ人の業に幾たび絶望しても生きてゆけるのだとレニエは思う。

「ご無事で何よりでした、あなた」

娘達に完全に包囲されたレニエを微笑みながら見守っていた彼の妻が、嵐が凪いだ隙を機敏について夫の帰還を歓迎した。

「うむ、心配をかけたがよく留守を守ってくれた」
「あなたのお役目に比べれば、大層なことなど何もございませんわ」

他人が聞けば、戦地から生還した夫との再会にしては淡白な会話に聞こえたろう。しかし、レニエは妻の立ち姿を見ただけで、帰郷を果たした安堵に包まれた。この夫婦にとっては言葉の挨拶は単なる付け足しでしかない。

日に透けた蜂蜜色を明るくしたブロンドの豊かな髪を、ゆるくうなじにそって結い上げたレニエの妻は、華やかではないが清楚で気品に溢れた聖母にも似た笑みを浮かべていた。その優しい微笑みの奥には凛として軍人の妻としての覚悟が、微動だにせずそこにある。戦から生還するたびに、レニエは妻の覚悟の潔さにいかに自分が救われているかを実感する。

神の秘書はレニエの出生予定地を書き間違えたに違いない。フランス男としては規格外と言えそうなほど甘い言語の扱いが不器用である彼は、妻に感謝の意を未だに伝えられないでいる。が、『ちゃんとわかっております』と、まだ言ってもいない謝辞に対する返答を、湖水色をした妻の瞳から読み取ることはできた。

その妻の眼差しにレニエは懇願を見た。レニエが言外のメッセージを読み取るのが巧みなのではなく、夫人が言葉にせよそれ以外の手段にせよ、表現力に長けていると言った方が真実により近のだが、レニエは妻の言わんとしていることをすぐさま察した。

目の覚めるような美しい少年が、鮮やかなコバルトブルーのビロードのアビに金糸の刺繍の入ったキュロット、シルクレースのクラバットをきちんと結んだ正装で、妻のスカートの後方に控えていた。

久しぶりに見る末子は、相変わらず天界から光臨したばかりの天使が初めて地上に足をつけた時の姿を思わせるほどの美貌である。少年の肌の色や、薔薇色に上気した頬の瑞々しさをキャンバスに写し取る能力と引き換えなら、画家たちは命を差し出すだろう。

ところが折角の愛らしい造作を憤怒と興奮とで震わせ、少年は噴火寸前の小さな活火山と化して、下唇を噛み締め、形のいい細い眉を吊り上げていた。

レニエは苦笑をかみ殺した。ありとあらゆる面で豊かな才気を見せるこの少年は、レニエ以上に不器用な子供でもあるのだった。五女の誕生から年をあけて思いがけずに授かったこの子は、年の離れた姉達よりも一層の父恋しさで帰還を心待ちにしていたに違いないのだが、姉達のように手放しで父に甘えることができない。

やっと、明日6歳を迎えるという幼さであるにも関わらず。

『どうか、オスカルを抱いてやってください、あなた』

妻が悲しげな笑顔で訴える。しかし、似たもの同士、少年の必要以上に複雑な胸中をかなり正確に汲み取ることのできる父親は、まずは妻の手を取り、指に口づけた。父親の周りに集まっていた娘達は慌てて母の為に場所をあけるべく後方に下がる。

夫人もあらためて軽く膝を折って夫に挨拶を返した。それを見て、ちんちんに沸騰していた小さな天使は怒った肩をややおろした。視界の端で少年の姿をした末娘のそんな様子を捉えていた父は、自分の推測がおよそ当っていることを確信した。

ヴェルサイユから当主の帰還連絡が入ると、ジャルジェ家の住人は使用人も含めて主人を迎える準備にいそしんでくれたのだろう。母子がみなきちんと正装していることからそうとわかる。

そして、一番小さな末娘、姉妹の中で一番父を待ち焦がれていたに違いない少年の姿をした末娘は、父恋しさを押し殺して、戦地から凱旋してきた将軍に相応しい敬意を込めた出迎えをしようとしたのだ。

順番としては一番最初に当然母親が挨拶し、再会を喜び労をねぎらう。そのあと娘達が順番に礼儀正しく挨拶し、父の武勲を賞賛、礼を尽くす。そんな風に父を迎えるべきだと必死で姉達を説得でもしたのだろう。

姉達は年長者の余裕を見せて、末娘の意向を一度は呑んでやったに違いない。しかし、父親の無事な姿を見たとたん、礼を尽くすよりも心の赴くままに再会の喜びを抱擁で表現することを優先させたのだ。

幼いながら、軍人としての礼節を守ろうと、父へすぐさま駆け寄りたい思慕を理性の力でねじ伏せた末娘だけが取り残された。そこで、烈火のごとく怒っているという訳だ。

まだ六歳というのに、理性で自分の行動を規律することを己に課している末娘を妻は不憫に思っている。しかしレニエは多少の後ろめたさを妻に感じながらも少し意見を異にしていた。

六女として誕生した末娘を男子として育てることにしたのは熟慮の上の選択ではなく、多分に感情的な思いつきであったことは否定しない。しかし、いつでも引き返すことは容易だったのだ。

例えば長女のマリー・アンヌのような子供であれば、男子として育てても、いく年もしない内に玩具の兵隊よりもレースとリボンで飾った人形を欲しがるようになり、武器の美しさよりも花や衣装の美しさに心を奪われるようになったろう。

もし末子のオスカルにもそのような兆しが見えたなら、レニエとしてもオスカル男子たれと厳命などぜず、女の子に戻してやることにやぶさかではなかった。

ところが男子としての生活様式をはじめ、与える教育すべてに対し、オスカルは平均的な男の子以上に比類なき適性を見せた。高い達成意識、早熟な倫理感、強い正義感、精神力と見事に整合した身体的発達。

正に文武に跨った豊かな資質を天から賜った子供であったのだ。子供ながら凄みすら感じさせる美貌は、彼女の持つ才覚を視覚的にも等質に表現しようと、神が采配したとしか思えなかった。

末子が響き渡るように期待以上の成長を見せるので、レニエはオスカルを女の子に戻す機を見出せないまま今日に至っている。酔狂が吉と出たのではないか。この子の本領を伸ばしてやれる最良の環境と、親のエゴが一致したと思うのはあながちご都合主義でもなかろう。

結果論ではあるが、オスカルを普通の女の子の枠に入れた方が彼女にとって厳しい人生だと言えなくはないか。

母の憂慮はわかる。年相応な子供らしい感情も人一倍豊かに持つオスカルだのに、理性と知性の早熟な発達は、感情の成熟を待たずに先を急いだ。だからオスカルの中にはいつも置き去りにされた小さな子供が居場所を与えられずにさまよっている。

母はそのアンバランスさを不憫だと嘆くのだが、人間誰しも満たされぬものの一つや二つ、抱えて生きるものだ。それが彼女が人の子であって完璧な神の子ではない証拠でなくて何なのだ。この件について、レニエは自信を持っていた。

父としても勿論不憫に思うことはある。レニエ自身感情の扱いが下手なので、素直に表現できずに閉じ込めたものを持て余す感覚はよく理解できる。また、末娘を女の子に戻してやるならばタイムリミットが迫っていることも知っている。

戻すならば幼いうちに軌道修正してやるべきだろう。男の子としての自己イメージが強固になりすぎてしまってからでは酷というものだ。ただ、レニエには母親とは違った理由で、このまま軍人教育を娘に授けることが正しいのか否か、迷いはあった。あまりにも虚しい結果に終わりそうな今回の戦いがそうさせるのだった。

海を隔てた植民地ではイギリスとの死闘が続いているというのに、オーストリーとの同盟国であるフランスは、オーストリーとプロセイン間の領土問題に介入すべく兵力を投入し続けた。プロセインの背後には宿敵であるイギリスがあったこともあるが、結局オーストリーに利用された挙句、膨大な人的資源を失い、兵を引こうとしている。

その間も植民地へは休む間もなく兵力を送り出さねばならない。血しぶきと共に霧散してゆく万の同胞の命と引き換えに、故国フランスが手にしたものは何もない。それどころか、植民地の保持すら絶望的な展開になっている。

帯剣貴族であるジャルジェ家であれば、たとえ不毛な時代においても義務は義務、授かった命は国のものである。レニエはアンリ4世、または太陽王ルイ14世の統治下で仕えることができたなら、と若い頃から幾度となく夢見たことがあった。

しかし、聡明偉大な君主の出現が毎世代続くことなどありえない。その間代に生れ落ちた貴族は、己の不運を嘆くよりも、次世代へ引き渡す祖国を可能な限り堕落腐敗せぬよう守りきる使命を自覚するべきであろう。

だからレニエ自身は、最後の一人となっても、犬死にをすることになっても、国のために戦うことを止めないだろう。

だが、娘は?

娘には選択肢がある。軍人として、無限の可能性を持った娘であれど、娘は娘。女に戻りさえすれば戦場に出ないのが当たり前、決して卑怯でも不名誉でもないのだ。膨大な戦費支出、植民地の喪失、事実上寵姫による統治。国力が急速に下方へ傾きかけているこの時代、国の手駒として消耗品となる運命を、なぜわざわざ娘に与える必要がある?

「前々から決まっていた通り、新年からは近衛連隊長を務めることになる。遠征に出るのはこれが最後だろう。これからは少し楽をさせてやれるぞ」

レニエは妻を労い、結婚以来、一向に洗練された形跡のないくちづけを妻の頬に贈った。夫人は夫の千倍は優雅な仕草で反対側の頬にくちづけを返しながら後方に控えている末娘をさり気なく前方に押し出した。

「あなたのご無事なお帰りの次に嬉しい知らせですわ」

レニエ計画では、この時点で小さな末娘へ声をかけてやるはずだった。父の権限で、妻の要望どおり、小さな娘を一番先に抱き上げてやっても良かったのだが、辛抱強く序列通りに自分の番を待つ決意の娘の気持ちを尊重してやりたかった。

第一、末っ子娘の気質では先に抱きしめてやったとしても、彼女自身が自分に甘えを許さず、序列を破った自分を責めることだろう。レニエ自身も同種の気性を持つゆえ、よくわかるのである。

ところが。

「お父様!嬉しい、これからはお家から伺候なさるのね!」

レニエは再び花嵐に呑み込まれた。

これも自業自得である。五人の娘達は貴族の子弟としては珍しく、修道院での行儀修行を積む代わりに父母の元でそれぞれの資質に合わせた家庭教師をつけて教育した。音楽、絵画、文学、科学、歴史、哲学、政治、家政、など五人が五様に好きな分野でのびのびと学んだ。

その代わり行儀作法の枠からものびのびと伸びすぎてしまった感がある娘達だった。今更たしなめられる父ではない。どうも、軍人として規律正しくあろうとする反動なのか―実際、自分へと同じように部下にも厳格な上官である―女性には大甘なレニエであった。

いかに将軍として誉れ高いレニエであっても、ペチコート包囲だけはそう簡単に突破できるものではない。そうこうするうちに、小さな末娘が怒りと悲しみと諦めを全身から燃え立たせながらくるりときびすを返す姿がレースとリボンと巻き毛の洪水の隙間から見えた。

あなた、と妻がついに声に出し催促するのも背後で聞こえた。わかっておる、わかっておるのだが、レニエはやはりレニエであった。


半時後。
歓迎の晩餐の用意が整うまで、久しぶりの自室でこれまた久しぶりのばあやの絶妙なさじ加減のショコラをゆっくりと味わいながらレニエは策を講じていた。

妙な雰囲気のまま晩餐に入れば余計に事態が悪化する。姉達のかしましいお喋りを取り締まるのは不可能だし、オスカルはその中で孤立する。たとえ妻がうまく場を取り仕切ってくれたとしても、時間を置くとますますあれの方が意固地になるだろう。

晩餐前に片をつけた方がいいとすれば。仕方ない、ここはひとつ部屋を訪ねてやることにするか。

『さっきは済まなかったな。どれ、半年会わない間にどれほど重くなったか見せてくれ』
『ち、父上』
『おお、重くなった。背も伸びたな、想像以上だ』
『う…っ、ひいっく、ひっく、父上~』
『よしよし、泣かんでいい、よく留守番しておったな、偉いぞ』
『わぁ~~~~ん、父上お会いしたかった~~』
『父も寂しかったぞ、そうか、髭が痛いか、よしよし』

…ありえん。絶対にありえん。

あいつはそんな素直なタマではない。第一それほど殊勝な奴なら、今頃とっくに父の部屋へ自分から挨拶へ来ているはずではないか。それが見ろ、さっさと自室へ引っ込んでそ知らぬ振りを決め込んでいる。そこに父の方から訪ねて行くだと?そんなことをして見ろ、どういうことになるか。

『オスカル、今帰った。留守をよく守ってくれたな、ご苦労』
『おかえりなさいませ、父上』
(む、生意気な、隙がまったくない)
『あ~、こほん。う~、元気でおったか?』
『はい』(鉄壁の防御だ)
『え~、と、おっほん、どうだ、勉強の方は進んでおるか?』
『はい』(それだけか、取りつくシマなしだな)
『えっへん、馬術のほうはどうだ、ん?また明日にでも見てやろう』
『お風邪をお召しのようですし、明日は安息日ですから』
(こいつ、あくまでも会話に発展させる気がないか)
『うおっほん、ほん、風邪などひいておらんぞ、そうか安息日か』
『…』
(子供が剣の稽古をするくらいかまわんだろうが。いや、待てよ)
『そうか、おまえの誕生日でもあったな、ははは儂としたことが、なんと』
『…』(し、しまった!思いっきり恨めしそうな三白眼だ!)
『はは…は…忘れていたわけでは…』
『……』(こいつ、眉ひとつ動かさん。ここはひとまず退却だ)
『で、では晩餐でまた会おう』
『お勤めご苦労様でございました』
『……(^^ゞ』

慇懃無礼攻撃。そのくらいやりおるぞ。怒れば父にだって容赦のない奴だからな。時間を置けばこじれる、間を空けなければまだ怒っている。ったくどうせいと言うのだ。なにもわしのせいではなかろうに。やはり、ここは父親の威厳を見せて、書斎に呼びつけたほうがいいかも知れん。先にやつに弱気を見せればつけあがりよるに決まっている。

『オスカルです。お呼びでしょうか、父上』
『うむ。何か忘れてはおらんか、オスカル』
『ご挨拶が遅れました。お勤めご苦労様でした、父上。ご無事のお帰りなによりでございます。母上が大層お喜びになっておりました。母上の喜ばれるお姿を拝見するのはわたくしにも至上の喜びでございます』(ふん、いかにも優等生的返答だが、おまえはどうなんだ、おまえはっ)
『うむ、それで?』
『は?』
『他には何か言うことはないか?』
『昇進おめでとうございます』
『うむ、来年からは内勤、近衛だ』
『姉上達が大喜びでした』(今度は姉に振るか。だから、おまえはどうなんだっ)
『おまえはどうだ?』
『はい、ラテン語とギリシア語は初級過程を終えました』
(ほう、六歳でそれは凄い。と感心している場合ではないぞ。こいつ確信犯だな。意識的に矛先を変えておる)
『剣術はどうだ?』
(しまった、乗せられた!そっち方向へ行っては話の終りが見えているっ)
『面白いです。でも二時間以上の稽古は禁じられましたので物足りないです』
(二時間か・・・、稽古をつけてやるにも体力勝負だな、やれやれ)
『練習用の剣であっても成長期の子供の肩には重いのだ。体が出来上がるまでは致し方あるまい』(結局こういう会話になるのだな、おまえと私では)
『早く真剣を持ってみたいです』(お、方向はずれたが、不機嫌が熱心に変わったな)
『精進しろ。おまえ次第だ』

いくらか、マシか。だが、これでは普段の会話パターンそのものだ。奥方のリクエストは確か感動的な親子の再会シーンだったな。しかも思い切りウェットなやつだ。穏やかそうに見える我が妻の要求ときたら果てしなく厳しいわ。

オスカルは並みの子供と比べようもないほど文武両面優秀に育っているのに、この上情操教育まで完璧にせよと見えない圧力をかけよる。まあ、確かにそっち方面が奴の弱点なのは間違いないが、わしの弱点と同じだからこうして手を焼くのだ。

うかつにあいつの弱点に手を触れれば大やけどを負うぞ。窮鼠猫どころかトラにだって食いつくやつだからな。そうだ、父親の威厳は保ちつつ、いきなりあいつの意表をついてやればどうだろう。考える間を与えずになし崩しに感動シーンに突入する。あれも一応子供だから、応戦する隙がなければ本音を見せるだろう。


『お呼びですか、父上』
『おお!オスカル!(と、ここで間髪入れずに抱き上げてしまった方がいいな)会いたかったぞ!どうだ、父が無事還ってきて嬉しいだろう!そうか、寂しかったか、もう大丈夫だ、これからは近衛だから寂しい思いはさせんぞ』
『は…』
『そうかそうか、わかっておる、嬉しくて言葉も出んか、よいよい、さあキスをしてくれんか』
『は…は…』
『何を暴れておる。おお、力が強くなったな、頼もしいことだ』
『は…、母上~~~~~っ!』
『は?母?』
『母上っ!父上がご乱心ですっ!早く医者を!』

ダメか。
意表だけはつくだろうがな。まあ、奇襲攻撃というものは万策尽きたあと、最後の手段として使うのが鉄則だ。まだまだ先は長いことだから、六歳かそこらで使ってしまうわけにもいかんだろう。(注;26年後に使うパパ)

「あなた」
がたがたっ!

突然背後は至近距離から聞こえた妻の呼びかけに、レニエは肘掛椅子から床へ二段階ほどを経てずり落ちた。心臓が口から飛び出さないように歯を食いしばった天下の名将の、決して他人には見せられない姿である。

レニエの背後には、笑いを押し殺していることなどつゆほども気取らせない自然さで夫人が立っていた。いったいいつから見ていたのだ。調子っぱずれのポルカを奏で始めた心臓を押さえたレニエは恨めしげに夫人を下から見上げた。

何度でも奇襲を成功させる天才を見つけたければ、戦場ではなく、家庭を探せ、だ。

「晩餐の前にお着替えをなさりたいかと思いましたの」

前釦を外した軍服の上着は椅子の座面に引っ掛かりまくれ上がり、尻餅をついた衝撃で前方にずれた鬘で目隠しされた格好で床に転がる夫でも、あたかも肖像画アングルできりりと隙なくポーズを決めた夫に対する時と分け隔てのない敬意ある姿勢を崩さぬ夫人であった。家庭内実権を掌握するための基本手技である。

レニエがずれた鬘を持ち上げて視界を確保すると、夫人が柔らかく笑った。
「居間に部屋着を用意してばあやが待っています。今夜は家族だけですから略式でくつろいだ晩餐にいたしましょう。娘達も正装を解きましたわ。若干一名ほどが正装のまま頑張っていますけれど」

なるほど、つまりあれは戦闘態勢を解いていないのだな。と、レニエは声に出して言いはしなかったのだが、ポンと掌でボールを返すように夫人が続けた。

「きまりをつけるまで、落ち着かないのでしょうけど、融通がきかないのは子供の証拠ですわね。あの子が子供っぽく振舞うと、かえって安心しますわ」

「・・・・・・」

はいはい、わかりました奥方殿。子供相手に同じ土俵に立つなと仰せでございまするな。ご指摘はごもっともなれどな、と父レニエは自嘲交じえながら、末子のカンカンに怒った後ろ姿を幾分誇らしく思い出した。

あれは親子の年齢差を父親に忘れさせ、同じ土俵に(しかも実に頻繁に)引っ張り出すだけの子供離れした度量を持っている。それこそ、あれがただの小生意気なガキでなない証明ではないか。

と、レニエはまんざらではないのである。その全く逆の可能性、つまり「子供VS子供じみた大人」という図式の存在など思いもつかないところが幸せな父であった。

「今夜は略式ですけれど、明日はオスカルの六歳の誕生日ですから、盛大にお祝いしましょうね」

御意。敵がまだ六歳であることを忘れるなとな。肝に銘じておきましょうとも。しからば巧みにリードと譲歩を駆使して平和的解決を図るのはどちらの役割であるべきかは、自明の理。晩餐前に見事奥方様の御前にあれの首をとって・・・と違うか。

「うむ、では着替えてくるとしようか」
「ごゆっくり」
勝負をつけて来いとな?

ゆったりと微笑む夫人に、レニエは出来る限りクールに見えるよう、にやりと不敵に口角を上げて見せたが、鬘が不恰好にずれたままだということを忘れていた。


汗と埃にまみれた軍服を、ゆったりと自宅用に仕立てられたアビに着替えると、レニエはオスカルの所在をばあやに尋ねた。

「それが、お部屋にはおいでにならないんでございますよ。門番のシモンと馬丁のジャックとマティユーに外回りに気をつけているように言っておきましたからお屋敷内にいらっしゃるのは確かなんですけどねえ」

さすがは歴戦の乳母である。オスカルの反応に速必要な手を打ったらしい。レニエは満足そうに頷いた。

「屋敷内におるなら心配なかろう。晩餐には姿を見せるだろうて」
乳母は、忙しく軍服の手入れをしている手をふと止めると深い皺が刻まれた目尻を下げた。

「オスカルさまは旦那さまのご無事をお嬢様方以上に願っておられましたよ。それを表に出すのがおいやだったんでしょう、時々すっとお姿を隠すんでございます。あたくしどもが心配して騒ぎ出す丁度手前あたりの時間をちゃんと見計らってお戻りになられますところが、何と言いましょうかご立派過ぎてあたくしには不憫で」

乳母の涙腺の紐がにわかに緩むのを見て、レニエはあわてて立ち上がった。

「そうか、では探しに行くとするか」
「おや、まあ、旦那様おん自ら勿体無い、誰かを探しにやりましょう」
「い、いや、ちょっと心当たりがあるのでな」

乳母の涙の大洪水という追い討ちをかけられる前に名将は居間から逃亡した。男ばかりの戦場に比べ、女の園である我が家では同じ戦法は通用しない。そのギャップの大きさに、レニエが家長としての威厳と感覚を取り戻すのに数日かかるのが恒例である。

妻にはその隙をすでに突かれた。ばあやからはさっさと逃げた方がいい。

心当たりがあると乳母に言ったのは、あながちその場しのぎの誤魔化しではなかった。東翼の最上階にある屋根裏部屋は、使用人用の住居、ないしは納戸として使えるつくりになっているが、レニエの子供時代から空いたままだった。従って冬季はまったく火の気がなく誰も上って来ない。

その場所をオスカルに教えたのはレニエである。屋根裏部屋にある小さなドーマー窓から一望するヴェルサイユ宮殿は、屋敷中のどのバルコニーから眺めるよりも障害物による遮へいがなく見事だった。

庭園の噴水や小川をライトアップする松明や、宮殿から漏れる明かりで夜間は特に幻想的で美しい。今夜などはうっすらと雪化粧したトピアリーが虹色に光を反射させていることだろう。

独りになって素の自分に戻りたくなる時、レニエは誰にも告げず、この屋根裏を訪れた。由緒ある帯剣貴族である伯爵が埃だらけの屋根裏に身を隠すなど、あまり絵になる光景ではないが、先代当主である父、エルネスト・フランソワ没後、ジャルジェ本家、分家合わせて唯一の男子となってしまったレニエは、時折どうしても沈殿してしまう鬱積を一掃しなければやりきれない時がある。

そんな秘密の場所―大層な秘密ではなく、多分妻は知って知らぬ振りをしていてくれる―をレニエが末娘オスカルに教えたのは、無意識のうちに彼女を同志と認めたからだろう。オスカルは間違いなく女児であったが、レニエと同じ天の原料からできた魂を持っていた。

オスカルが物心つくようになってから、女系家族の中にいる閉塞感が少しずつ和らいできたレニエだったのである。

レニエは東翼棟三階の突き当たりから屋根裏へ続く細い階段を上りながら苦笑した。普通の六歳児なら、男女の別なく日没後にこの階段と回廊を通るのを怖がるだろうに。

荷物と使用人の通行しか想定していない階段は、天井近くに設えてある小さな明り取り用のはめ殺しの窓が唯一の開口部である。石壁はむき出しのまま、石段の上に敷かれた床板は所々反り返って端の方は腐食しており、殆ど洞窟の様相を呈している。

オスカルの姉達は誰一人として寄り付きたがらないのに、オスカルは時々たった一人で探検にやって来るらしい。女ばかりの姉妹に囲まれて、レニエと同じような孤独感をやり過ごすためであろうか。

屋根裏部にたどり着くと、案の定、細く開いた粗末な木製扉の隙間から灯りが漏れている。レニエは錆び付いた蝶番が不気味な音をたてないよう苦慮しながらそろそろと扉を押した。

子供は思った通り、ドーマー窓から外を眺めていたようだった。ガラス窓に小さな手跡がいくつもついている。窓を開けようとしたが、凍りついた窓枠がびくともしなかったらしい。極力音は立てなかったレニエだが、オスカルは人の気配に敏感に振り返った。

「先客がおったか」

レニエは手にしたオイルランプをオスカルが持ち込んだ蝋燭ランプの隣の埃だらけの床に置いた。子供はきっと形の良い唇を引き結んだまま、何かを隠すように壁に背を向け一、二歩横に移動して窓から離れた。寒かったのだろう、鼻の頭がほんのりと色づき、父の姿を見てポケットから出した両手をしきりに擦り合わせている。

オスカルがここにいることをほぼ確信してやってきたのに、暖をとってやる準備を何も持って来なかったことを、レニエは後悔した。母親なら、真っ先に配慮したろうに。

「父上」
オスカルは、「彼」らしからぬきまりの悪そうな様子で、父を見上げた。めずらしく何か悪戯でも見つかった時の子供の顔をしている。レニエの脳裏に妻の言葉が甦った。

『子供らしい振る舞いをしてくれると、安心しますわ』

レニエの心がきゅっと切なく音をたててきしんた。―ああ、まだ、こんなに小さかったか。態度が大きいせいで、普段は実際よりも大きく見えるのだな―そして、オスカルの背後にあるものを見つけたレニエは、彼女の不自然な動作の訳を察した。

オスカルが背を向けてぴったりと張り付いている窓枠には、釘が曲がったような字で何かが記されていた。レニエが帰宅予定日として手紙で書き送った日付、十二月三十日だ。その下はオスカルの体で隠されているが、多分その日以前の日付が並んでいるのだろう。

毎日一つ、日付を消しながらオスカルは父の帰還を待っていたのだ。母の膝元で、姉達とともにおおっぴらに夕べの祈りで父の無事を祈れないオスカルが、たった一人で捧げる祈りの形だった。

国の大儀のために父が散ったとしても、それは名誉と思わねばならないと自らを律しているオスカルにとって、父が恋しいと、素直に表に出すことは軟弱者の弱音なのだ。たった六歳にも満たない子供にそう思わせるような教育を与えてしまったのか。レ二エの中で心のきしむ音が大きくなる。

妻は正しいかも知れぬ。

オスカルとは同じ紋様の魂を持つレニエである。心の柔らかな部分の扱いは親子して不器用なこと、天下一品であるが、やわらかな形を押し潰さず育ててやりたいという妻の気持ちをレニエは一部理解した。そこで父はまずオスカルの彫った窓の日付けに気づいていないことをアピールすることにした。

「やれやれ、女性軍の目の届かない場所がここだけとは情けないが、ホッとするな」
レニエは窓の外に視線を固定しながらオスカルの脇を通り、窓の前に立った。

「全くです、父上」
オスカルがいっぱしの壮年の男のような口をきいたので、レニエは首筋がこそばゆくなったが懸命に笑わないように耐えた。

一方オスカルの方は同盟軍と認めてくれたも同然の父のもの言いに、厳しく凍結させていた表情に隠し切れない喜びの色を浮かべた。端整過ぎて冷たい印象さえ与える美しい子供にあどけなさが戻る。

まだ背側を気にしてそわそわとしている子供のために、レニエは窓の外に何か他に注意を引くものがないかと、埃を被った窓ガラスを手が汚れるのも構わずにごしごししごいて視界を広げた。

「ほう、これは珍しい」

レニエは感嘆の声をあげた。オスカルの注意を引くためでなく、思わず声に出た反応だった。
「どうしましたか、父上」

父の様子にオスカルも興味を引かれ、くすぶっていた感情を忘れて窓辺に駆け寄ると父を見上げた。レニエはごく自然な仕草で傍に寄ってきた小さな体を抱き上げた。オスカルも抗わず父親に体を預け、父親が真剣に窓の外の何かに心を奪われている同じ方向に視線を伸ばす。

「どうだ、見えるか」
「はい、ベルサイユの松明が今夜は一層明るいです」
「そうじゃない、空だ」

レニエは掌を真っ黒にして窓の埃をさらに大きく拭ったが、窓の外側をうっすらと覆う霜のせいでいまいち視界が開けない。

「仕方ないな。バルコンに出てみるか」
一旦子供を床におろすと、温もりを失った小さな体がぶるっと震えた。レニエは上着を脱ぐと子供をくるみ再び抱き上げる。

「父上」
オスカルが戸惑いながら父を見上げた。普段のレニエなら考えられない行為だったが、凍てつく冷気のお陰でごく自然にレニエは子供を抱きしめた。

「なに、わしは鍛えておるからな」

子供の手ではびくともしなかった凍りついた窓が父の手で簡単に押し開けられるのを見て、オスカルは父の胸に素直に顔を埋めた。
「寒いが一見の価値があるぞ7、オスカル」

レニエは子供を抱えたまま、大きく窓枠をまたいだ。
途端にレニエのキュロットが派手に音をたてて裂けた。
「あ!」
「お?」
・・・・・・

「ああ、よいよい、気にするな。それより空を見るがよい。これほど見事に晴れた冬空は一生に何度も見られるものじゃない」

よっこいしょ、ともう一本の足を床からバルコンに引き上げる父親の胸にしがみついたまま、オスカルは顔を上げた。

「すごい!」

見開いた子供の瞳に無数の星々が瞬いた。父の胸の中で寒さに身を縮めていたオスカルは一瞬にして夜空に広がる豪華な絵巻に心を奪われた。

「これはノエルの大饗宴と言われる幻の夜空だ。十年に一度とも五十年に一度とも言われておるが、きわめてまれにしか見ることが出来ん。運がよいぞ、オスカル」

夏の夜空に白く流れるようなミルキーウェイとは比べものにならぬ絢爛たる輝きを放つ天橋が頭上高く横切っている。金銀の砂が降り注いでくるのを手のひらですくい取れそうだった。

天の川の両側にはオリオンが雄牛が大熊が、今にも躍動しそうにきらめいている。無数の金粉を撒き散らしたような名のない星々がその隙間を埋め尽くしていた。

北ヨーロッパの冬は、通常分厚い雲で空が覆われる。奇跡のように雲が晴れたこの夜、オスカルは神話の神々が繰り広げる真冬の大饗宴を初めて目にしたのだった。

「本当はな、一年の間で一番星座が華やかに出揃うのは冬なのだ。おっと、お前は知っておったな」
「はい。星図の本で見ました。父上に北極星のことを教わった時です」

オスカルは夜空から一時も目を離さず父に答える。父の胸元を握り締めた拳には一層力が入った。

「でも、こんな、こんなだとは知らなかった…あ、思いませんでした」
つい、子供らしい口調に戻り、クラバットを握り締める小さな娘に、レニエは愛しさが湧きあがるのを覚えた。

「そうか。ではこの賑やかな空から北極星を探し出せるかな」
「もちろんです!北極星は自分の位置を知るために一番重要な星だと教わりました。海軍だけでなく陸軍でも軍人ならそのくらいできて当たり前です!」
「そうか、ではどちらが先に北極星を見つけるか、わしと競争するか、オスカル」
「はいっ!相手が父上だからと言って手加減はしません!」

それは手厳しいことだ。老眼と新品の勝負なのだから、手心を加えてくれてもよさそうなものだがな。レニエは声をたてずに笑った。そして、腕の中の小さな娘が火の玉のように熱くなるのを感慨深く見つめた。

空恐ろしいほどの美貌。溢れんばかりの才気。激しい気性。真っ直ぐな正義感。強い意志。高い達成意欲。普通なら一人の人間について一つか多くとも二つしか贈られない賜物を、この子は一身に受けてしまった。

天から賜った贈り物の一つ一つは良きものであっても、一人の人間がそれら全てを背負うことは果たして幸福なのだろうか。

天空を射落とさん、とばかりに北方に意識を集中させる娘の愛らしい巻き毛に、気づかれないようにそっと父はくちづけた。

美貌は隠せない。女の武器としては最強のものだが、男のプライドをへし折る知性が加われば諸刃の剣となって非常に危険だ。これの気性では、知性に覆いをかけたり、己の正義を捻じ曲げて器用に保身などできぬだろう。

優しさは、自分よりも弱い他者にばかり向けるだろう。学問に向ける探究心は、お嬢様の教養講座程度では到底収まりなどつかぬだろう。

「ありました!あそこです父上!」

珍しく父の感傷に浸りきっていたレニエの脳天を、得意げな勝利宣言がいきなり貫いた。しまった!は、早いぞ息子よ。あわてて北方を見上げたレニエだったが、目前のくるくるの巻き毛から、数百光年も先の銀河の果てへ焦点を切り替えるには悔しいことに両眼がやや老朽化していた。

「おお、見つけたか、なかなか素早かったぞ、オスカル」

あたかも自分はすでに目標達成しているかのようなニュアンスを滲ませ、レニエは子供が指差す方向に目を凝らした。くっそう、やたらと星が出すぎていて目がついていかない。首は動かさず眼球だけを忙しく動かして、北の空では比較的明るい大熊座を見つけた。よし、すると小熊座はこっちか。ならば、北極星は・・・。

「?」

子供は、まったく見当違いの東方を指差していた。おそらく、わざと。
「オスカル、おまえが指しているのはカストルではないか、ふたご座だ」
「はい、そうですが?」

先ほどの無邪気さはどこへやら、子供はすっかり白々と取り澄まして、父の出方を待っている。

「北極星を探していたのではなかったかな?」
「ああ、はい。それならあっちです」

子供はすっと伸ばした指先を正確に真北へ移動させ、ぴたっと迷いなく止めた。策士め、父を試しよったか。半年見ないうちにますます頭の回転が速くなりおったな。

「その態度は無礼であろう、オスカル」

半年前なら、『この無礼者!』と一喝したであろうが、父の感傷を通して少し妻よりの視点を理解しかけているレニエは、年長者らしく―実はそれが当たり前なのだが―静かに娘を諌めた。

「父上こそ!」
猛然とした抗議が返って来た。

「父上こそ、子ども扱いはやめてください。ぼくは手加減などしないのに、父上はちっとも真剣に勝負してくださらない!」

勝負も抗議も100パーセント真剣、出力いつでも最大、妥協なし、か。苦労するぞ、その気性は。ところで確かおまえは子どもではなかったかな?

「それは済まなかった。勝負をないがしろにするつもりではなかったのだ。あまりに素晴らしい天空のショーに見入ってしまってな。おまえとこうして見られるのも嬉しかったことだしな、許せ、オスカル」

自分でも驚く素直な台詞がすらすらとレニエの口からこぼれ出た。子供はびっくりして目を大きく見開き、何かを言おうとしたが、じきに頬を染めてぷいと横を向いてしまった。それでも父の腕の中から飛び出そうとするでもなく小さな両手はしっかりと父のクラバットを握り締めている。

愛おしい娘!

小さないたいけな体と芽吹いたばかりの新しい心に、神の期待を重く一身に纏いし生まれついた娘よ。妻よ許せ。平凡な幸せを望むには、この子は天分豊か過ぎる。たとえ女の子に戻してやったとて、安全な狭い籠の中ではたちまち羽を折るに違いない。

さりとて男子として育てても高過ぎる能力故に厳しい向かい風が吹くだろう。ならば、いっそ持てる才能を伸ばせるだけ伸ばしてやろうじゃないか。この子を見よ。荒波から守られるよりも、乗り越え進み続ける力を望む子だ。ならば与えてやろうじゃないか。

「よく覚えておけ、オスカル」

父が再び語りかけると、しがみつく小さな手に力がこもった。

「北極星は不動にして迷える者の道しるべであり、これからもあり続けるだろう。真冬には雲に隠されて見えなくなるが、今夜おまえが確かめたように、確かにそこにある」

そろそろと金髪頭が持ち上がり、父の言葉を聞き漏らすまいと面を上げた。暗闇の中、濃い群青色に見える両の瞳に無数の星が映り、白く凍りついた吐息が規則正しくたなびいては闇に吸い込まれていった。小さな肩がぶるっと震えたので父は急いで自らの上着で娘をくるみ直してやる。

「おまえを抱いていると暖かいな」

娘がもぞもそと決まり悪そうに身じろぎしたので、その背をなでてやってから父は続けた。
「己の北極星を持つ者は強い」
「己の北極星?」
強い、に跳ね返るように反応した娘に父は苦笑した。

「自分の進む道の指標になるものとでも言おうか。北極星のごとく不動な心の道標を持っておれば、どんなに迷っても、過ちを犯しても、再び正しい方角に向かって進むことが出来る。不確かな道標しか持たぬ者は、自分が迷うていることすら気づかぬが、いつも不安の中に取り残されている。正しい方角がわかっておれば、その時々で何を努力すれば良いかおのずとわかるものだ」

「人が持つ北極星とはどんなものなのですか?どうすれば持てるのですか?」

六才児には難しい言葉と概念かと思いながら話をしていたレニエは、娘が正確に理解しているのに驚愕し、歓喜した。おのずと語る言葉に一層熱が入る。上の五人の娘たちにはついぞ話したことのない自分の真理をわずか六才の末子が真剣に聞いている。

「そうさな、人によって信念であったり信仰であったり学問の追及であったり芸術であったり様々だな。真冬の北極星のように時に見えなくなることもあるが、確実に存在し続けて人の行く末を照らすものだ。どうすれば持てるか、か。心が少しでも動いたことは何でも貪欲に追求することだな。諦めずに探し続ければ、必ず形が見えて来る」

「はい」

父の熱っぽい語り口に、オスカルもきらきらと高揚した瞳を見開いた。

「運がよければ北極星を二つ持てることもある」
「二つ?」

「二つ目の北極星は人だ。自分の貫きたい信念を持ち、なおかつ命よりも大切な人を得た者は、その人に恥ずかしくない人間になりたいと願うものだ。その人の尊敬を得たい、愛されるに値する人間になりたい、男の場合はその人を幸福にできる力、守り抜く力を欲する。求めよ、さらば与えられんという聖句を知っておろう。求めなくても与えられるものにはさほどの価値がないが、強く求めて正しく努力したことで得られる結果には無上の価値がある。愛する者同士は、強さと平安を与え合うのだ」

それを聞いた子どもは父が帰宅して初めて弾けるような笑顔を見せた。暗闇の中、子どもの背後に光輪が光ったかのような輝く笑みに、レニエは眩暈すら覚えた。妻が引き出したいと願っているのはこれなのだ。

「父上のもうひとつの北極星は母上ですか?父上は幸運な人間の一人なのですね」

そう突っ込まれた父は、一瞬かっと顔が熱く火照ったが、自分でも一説ぶった直後でもあり、ごくりと生唾と一緒に得意技の『ばかもの!』を飲み込んだ。妻のため、妻のため、だ。

「う、ま、まあ、そう思ってくれて差し支えない」
「父上!」

細い両腕がごつい父の首に巻きつき、柔らかな頬が無精ひげの頬に押し付けられた。
「父上!ずっとお会いしたかった!ご無事で良かったです。今夜は神様に百万回だってお礼のお祈りをします、父上!」

強情っぱり娘の思いがけないストレートな表現にたじろぎながら、レニエは小さな体を強く抱きしめ返した。何と温かなのだろう、この爆弾娘は。戦場で若い部下を見送った時は枯れてしまっていた温かいものが頬を伝い、旅の埃を流し落とした。

爆弾は一度弾けると止まらぬようだった。ぴよん、と父の腕から飛び降りると早く早くと父の手を引っ張る。レニエが窓を再びまたいだ時に、さらに派手に股下の布が裂ける音がしたが、今度は娘は遠慮なく声を立てて笑った。

「着替えている暇はありません、父上。今ならまだ間に合いますが、これ以上遅くなると女達が騒ぎ出す頃合です。特にばあやは年のせいで涙もろくなっていて泣かせると厄介ですから急ぎましょう。空腹なジョゼ姉はさらに性質が悪いですし、食事の間中文句を言われたのではせっかくの歓迎の晩餐が台無しです!」

足場の悪い暗い階段をぴょんぴょんと飛び跳ねるように軽やかに下ってゆく娘に遅れをとりながら、レニエは神に短い祈りを捧げた。

この子の頭上にはあなたが示した北極星がひときわ明るく輝いています。いずれこの子は難なくそれを見つけることでしょう。この子の選ぶであろう道程を思えば、非常に難しい願いであることは承知しております。しかし、願わくば、この子に二つ目の北極星をお与えください。

一足先にホールへ降り立ったオスカルの声が高々と響き渡る。

「オルガ!父上にひざ掛けを用意して差し上げて!それから晩餐の後でばあやには内緒でソフィーを父上のお部屋によこしてくれ!」

ぱたぱたと聞きなれた足音がオスカルの声に重なった。
「なにが私に内緒ですか、お嬢さま!旦那様がお探しになっておられましたよ、いったいどこに…」
「ばあや!大好きだよ。いつまでも元気でいて欲しいからね」
「おや、おや、まあ、まあ」

くるくるとよく回転する頭だ。ばあやを懐柔する手腕も大したものだ。わしが六才のころは、ばあやには歯が立たなかったものだがな。レニエは気持ち歩幅を小さくしながら、ホールに降り立ち、柔らかに微笑みながら待っていた妻の手を取った。
                            
      

2007.12.24
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