社長室シリーズ番外編6

2020/07/15(水) 他サイト掲載作品



ダチ公  → これは2004年時点でも死語だったのでは(^^ゞ






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Surprise! Surprise! Surprise!(前編)



カツーン、カツーンと響く硬い靴音が、無機質な白い壁に反響しました。通り過ぎて行ってくれ。硬い寝台の上で、両腕を枕に天井をぼうっと眺めていたアンドレは耳を塞ぐようにごろりと横に寝返りました。アンドレの願いも空しく、靴音は彼のいる独房のドアの前で止まりました。

「アンドレ・グランディエ、面会だ。出ろ」
またか。今日はもう勘弁して欲しい。アンドレは声に出さずに悪態をつくと、ばりばりと頭を掻き毟りながら難儀そうに身を起こしました。

身柄を拘束されてもうすでに一月余り。定期的に顔を見せてくれるベルナールやロザリーといった友人はともかく、最近はマスコミやら人権擁護団体やら怪しげな宗教関係者やら身内を装って面会にこぎつける野次馬ミーハー連やら、朝から晩までひっきりなしの面会人の嵐に晒されているアンドレでした。

ま、これにはベルナールが一枚噛んでいました。目的はどうであれ、戦闘機ドロボーを衛星生中継で披露してしまったアンドレに、世論を味方につけてやろうとした彼が、人質となっていたマスコミ関係者の家族が開放されるやいなや、ダチ公カメラマンを引っ張ってヘリをチャーターし、アンドレの一連の行動を完璧にレポートしたのです。

不法武器製造、行使計画が明らかになっただけではなく、芋づる式に世界的規模で闇武器商ネットワークが検挙され、資金提供していた大手麻薬コネクションまでが壊滅するという近来まれに見る大捕り物に発展した事件だっただけに、一気に有名人になってしまったアンドレでした。

そして、アンドレが注目を浴びたお陰で、オスカルも妄想隊員達もその極秘の立場を守ることが出来たのですが、あの時突入して来た憲兵隊に身柄を拘束されて以来、事情聴取やら弁護士との会談やら、オスカルが手を回したICPO国家事務総局による非公式免責調整のための調書作成やらで一杯一杯だった彼には、そんなことは思いもつかないことで、獄中の英雄はかなり参っていました。

でも、何より彼を打ちのめしたのは、妄想隊員のみならず、オスカルまでもがその身分を自分に隠していたことでした。一度は仲間の裏切りと思って深く傷つき、その後の追い討ちを掛けるような事実が判明し。

オスカルさまが申し開きなど一切しない人間であることを知るタグー大佐やアランが何度か足を運んで、経緯を詳しく説明してくれたこともあり、またオスカルの人となりは誰よりもよく知っているアンドレでしたから、何故オスカルがそのような形を選んだのかは、ちゃんと理解していたアンドレではありました。

それはオスカルさまの彼を思う気持ちが下した苦渋の決断だったのです。

「君が隊長を庇って任務中に目を負傷した時、君は知らなかっただろうが、正直我々はもう二度と隊長の正気を取り戻すことはできないことを覚悟した。しかし並外れた強靭な精神力で我々を率いて来た隊長は、見事立ち直った。

だから、隊長が君と共に退役して、あれほど反発していた家業をあっさり継いでしまったのは意外だったのだが、すっかり社長が板についた彼女と後に会った時にわかったのだよ。彼女にとって、君を戦火から引き離し、君の人生に平和を取り戻すことが何よりも大切だったのだとね。

しかし我々も彼女の能力が惜しかった。特に今回のように大勢の人間の幸福な生活がかっているような時は。我々こそ隊長には辛い思いをさせてしまった。許してくれ」

「いや~、後で隊長にはマジで殺されるかと思ったぜ。隊長を拉致した形で敵地に侵入したのは悪りィな、俺の判断だったんだ。ドゲメーネ研究所に潜入した時、お前には言えなかったんだが、細菌兵器発射がもう秒読みになっていたこととか、隊長の持っている抗体が狙われていることなんかがわかちまってな。

隊長は、一旦研究所を脱出してから、おまえには内緒で敵地に乗り込むつもりだったらしいが、隊長が自分自身を囮にするってえ危険な賭けに出るつもりなのは明白だった。それをおまえに知らせないのは、俺が何ともやり切れなくてな。

だからと言って任務遂行中に正体ばらす訳にもいかねえから、とっさに思いついたんだ。だから、プランBだったわけよ。どうしても、おまえに隊長の居所を知らせておいてやりたかったし、敵さんの規模がどえらくでかかったから、おまえに知らせとけば何らかのバックアップしてくれるだろうって期待もあった。すまん、この通りだ」

わかりすぎるくらい、オスカルの気持ちはわかりました。だた、どんなに納得のいく理由があっても、共感できたとしても、麻酔なしで外科手術を受ければ痛いものです。どんなにその後の手当てが完璧であったとしても、傷は傷。塞がって治癒するまではやっぱり痛みます。

それに麻酔など効く余地もないほど、アンドレはオスカルを深く深く愛していましたから、まともに食らった衝撃の大きさははかり知れないものがありました。

今日もすでに嫌になるほど通り抜けた面会室のドアが看守によって開かれると、アンドレは本日20人目の面会人の顔も確認せずに投げやりに腰を降ろしました。うざったそうに面を上げて見ると、そこにいたのは。

「オ…スカル…」

ガラス越しに、じっとアンドレを見つめていたのは他でもないオスカルでした。
ほぼ一月振りに相対した二人。オスカルは苦しげに眉間に皺を寄せたまま、微笑んで見せました。

アンドレも、同じようにぎこちなく笑みを返します。二人とも、それぞれの事後処理で忙しなく、特にアンドレは24時間監視されているような状況でしたから、ゆっくり傷を癒す時間はありませんでした。

わだかまりや、恨みがあるわけではありません。むしろ、目前にいる人が愛しくて懐かしくて仕方ないのですが、どくどくと痛む傷もまだ血を流しているのでした。せめて触れ合ってお互いの傷を癒すことができればまだ違うのでしょうが、間には無常にも分厚いガラス。会話は電話越しの監視付き。面会時間15分の壁。

事後処理に忙殺されていただけではなく、この状況下で会うことが辛くて、面会に来られなかったオスカルでした。

「もうじき出してやれそうだ。2,3、書類が決済されて返ってくればな」
「そうか…、顔色が悪いぞ、あまり無理をするな。俺なら大丈夫だから」
「うん…」
どうしてもそれ以上の会話が進みません。

「オスカ…」
「ア…ンド…」
同時に呼びかけて、止まってしまいます。
「何だ…?」
「おまえこそ…」
沈黙がその場を支配します。アンドレが口を先に開きました。

「この間、面会に来てくれた時は済まなかった。きついことを言ってしまった。後悔している」
「当然のことだ。気にするな。アンドレ…」
「ん?」
「…いや、いい。おまえがここを出たら、また…」

何かを言いかけて、口をつぐんだオスカルの様子があまりにも寂しそうなので、アンドレの胸を締め付けますが、やはり電話越しでは何も言えないのはアンドレとて同じです。

「また、来る」

オスカルはそう言うなり、さっと立ち上がって踵を返し、振り返らずに出て行きました。拘置所の門を出て、愛車にまたがると、オスカルはバイクのハンドルの上に突っ伏して肩を震わせました。

『おまえが空に書いてくれたメッセージはまだ生きているか』
オスカルはそれを聞きたくて聞けなかったのでした。

拘置所の門をくぐる前に、散々心の中で予行演習をしてきたのに。まだ、返事も返してはいない。あの空に吸い込まれるように消えていった青い煙幕。何故消えてしまうもので書いた?こうなることを知っていたのか?

見上げれば、真夏の空にくっきりとした分厚い積乱雲が、深い青と鮮やかなコントラストを見せながらゆっくりと流れて行きます。オスカルの目に映る雲の白がぐにゃりと歪み、空の青がぼやけて滲んで流れてゆきました。

アンドレが出所したのは、それから1週間ほど経ってからでした。ICPO国家事務総局はオスカルやダグー大佐の申請を受理し、アンドレに非公式免責を与えました。そこにつけられた条件がオスカルの胸を塞ぎましたが、後にベルナールの報道によって、世界大戦の危機を救ったヒーローとなったアンドレの名誉を世論が擁護したので、検察は彼を不起訴としました。

公式にも免責になったアンドレでしたが、動かす余地のない証拠がありながらの不起訴は、また話題を呼び、渦中の人アンドレはこんなことなら1年や2年の懲役に服した方が良かったと思えるほどでした。

加熱する報道合戦にいささか責任を感じるベルナールの計らいで、マスコミの隙をうまく突いてそっとHotel de Jardjais へ戻ることができたアンドレですが、何をするでもなく心ここにあらずといった風情でホテルのプールに浮いていました。

「ね、アンドレ、今日オスカルさまが迎えに行けなかったのは、出所が急に決まったせいでお知らせできなかったからで、他意はないのよ」
「うん」
「私達、みんな貴方が帰って来て心から喜んでいるわ、本当よ」
「うん」
「それから今、帰られたわよ、モノクロ社長。いいの?契約書も見ないでサインしたりして」
「うん」
「貴方がミラージュ奪って飛び去る生映像を、モノクロのコマーシャルに使用許可するだけじゃなくて、今後専属モデルになる契約までしちゃってるのよ!わかってるの!?」
「うん」
「モノクロ社長の置いてった今年の新作のその超過激ビキニね、そんなの着てポスターになったら、オスカルさまが泣くわよ!」
「うん」

だめ、まるで生きる気力なし。でも、溺死しないように見張っていられるほど暇じゃないのよ。ロザリーは、そのままずぶずぶと沈んでも気づかなさそうなアンドレの首に浮き輪を引っ掛けて、紐でプールサイドに結びました。

もともと気さくな人だし、長年一緒に仕事をしていると気にもしなくなるけれど、いつもオスカルさまと一緒だから普段は目立たないのだろうけれど、改めて見ればそんじょそこらのプロのモデルなんか裸足で逃げていく造形美なんだわ。

ニュース映像を見て、すぐ自社の【広告の品】が戦闘機乗っ取っている、これは使えると閃いた社長、あなどれないわね。

だったら簡単にサインなんかしないでもっと値段を吊り上げて欲しかったわ。Hotel de Jardjais の台所事情がベル風邪騒動でちょっと大変なのに…と、そこは論点が違ったかしら。

とにかく、いいように利用されたりしたら、オスカルさまが悲しむじゃない?そんなことも思いつかないアンドレなんて、アンドレじゃない。この先どうなっちゃうのかしらと、不安半分、呆れ半分、ロザリーは予てから指示されていた通り、総裁Mにアンドレの帰還と居場所を報告しました。

そんなロザリーの思いはつゆ知らず、この夏のバカンス中に、絶対に決めてやろうと半年も前から覚悟に覚悟を重ねて計画していた、多分人生最大の大勝負をスカに終わらせてしまった虚脱感に、アンドレは漂っていました。

古い伝統ある貴族の家系で、社会的な名声も財力も影響力も発言力も並外れたファミリーの末娘にて跡取りのオスカル。仕事上の相棒として、親友として、最近では恋人として支え合うパートナーでいることには問題なくても、結婚となると当人同士だけの問題ではありません。

良くも悪くもオスカルが抱える有形無形の社会的資産が大きければ大きいほど、結婚という社会契約がそれらに与える影響を思わずにはいられませんでした。

特にジャルジェ家は、富める者の義務として、教育、文化、保健衛生、自然環境など、多岐にわたって支援し、優良な雇用を提供し続ける複合企業グループでもあり、その中でオスカルが果たす責任は、もう一個人のものではありませんでした。

だから、オスカルの足を引っ張ることなく、自分はずっとこのまま影で彼女を支える役割に徹しようと長年思っていたアンドレだったのですが、オスカルの担う責任が大きくなっていくのを傍で見守っているうちに、陰で支えるなんてたわごとは、言い換えればオスカルが背負うものからの逃げであることにきづきました。

当面はグループの一部門であるHotel de Jardjais の社長でしかない彼女ですが、姉妹の中でもずば抜けて才覚の優れているオスカルのことです。いずれはジャルジェグループの最総裁になることでしょう。

影で支えるのは構わないし、表へ出たいなどという野心は全くないアンドレでしたが、そうやって組織の頂点に近づいていくオスカルの孤独を思った時、何かが弾けました。

彼女がジャルジェグループを率いる責任を果たそうとする理由は、彼女が生きとし生けるものへ深い愛情を持っているからに他ならないのです。

地位にも富にも興味がないと投げ出してしまうことは簡単ですが、(心配しなくても、欲しい人は大勢いますからね)オスカルがあえてそれを手にしようとしているのは、地球全体の利益と、人類共通の幸福のために役立てたいからです。時には枷や檻となり得る名声と資産は強力な武器なのです。

地位や名誉や財産は関係ない。精神的な部分で繋がっていられればいい。聞こえはいいけれど、それではオスカルの一部分のみを受け入れ、共有するだけで。あからさまに言ってしまえば、都合のいい、めんどくさくないところだけ頂いてしまおうと言うことです。

『何だ、それって財産目当ての結婚のリバースバージョンじゃないか』
恋に落ちることを稲妻に貫かれた瞬間と表現されることがありますが、それはまさにアンドレにとって、カミナリさまの総攻撃を食らったようなショックを伴う発見でした。

プロポーズしよう。ちゃんとオスカルの丸ごと全部、ひっくるめて。そう決心してから、実際に行動に移すまでが、つまり半年かかったわけです。やっぱり、それ相当な覚悟は必要でした。

なのに、スカしてしまいました。返事を聞いたわけではなくても、やたらと英雄視される務所帰りのエセヒーローになってしまった今、築き上げた覚悟は粉々に吹き飛んでしまいました。そしてオスカルの隠された顔を知った時、一時ではあったけれど強く拒絶の反応をしてしまった自分に、もうそんな資格は残っているように思えなくなってしまいました。

ぼんやりと空を見ながら、水に浮かんでいると、このまま解けてなくなってしまいたいような気分になってきます。

いけない、いけない、何か取っ掛かりを見つけて少しずつ自分を取り戻さないと。何か、こんなにしぼんだ自分でもできる小さなことから始めないと。アンドレはざばっと水から身を起こしました。ロザリーが首に引っ掛けた溺死防止の浮き輪をかぶったまま。そして、ひと泳ぎして気合いでも入れようかと、飛び込み台に上がり、勢い良くジャンプしたところまでは良かったのですが。

びんっ!ぎゅううっ!びった~ん!
浮き輪はしっかりと紐でつながれていたのでした。


何かおかしい。頭のなかで引いた設計図は完璧なはずなのに、なぜか柱がゆらゆらと怪しい動きを見せていました。人間なんてよくしたもので、どんなに気持ちが落込んでいても、何か単純な作業に集中していると、だんだん心が沈静化してくるものです。それなりの集中力をもってすればの話ではありますが。

真新しい木の香りも爽やかな角材に、釘を打ち込んでは水平メジャーで角度を確認する。日曜大工は精神鎮火用作業としては、なかなか効果的で、いつの間にか没頭していたのはいいのですが、どこかで何か間違えたようでした。

柱は触れれば危なっかしく揺らめきます。もう一本太い釘を打ち込んで安定させよう。大きなハンマーを握った白い腕が大きく振りあがり、重力と慣性と腕力にまかせて振り下ろされ。

釘頭まであと1センチのところで、ハンマーヘッドが止まりました。見れば一回り大きな手ががっしりとハンマーを握る自分の手首を捕まえていました。振り返らなくても一瞬でわかるその手の持ち主の懐かしい形の影が、自分の影に重なります。

オスカルは息をつめ、掴まれた腕から電流のように胸の奥底に向かって逆流する切なさと愛しさと、泣きたくなるほどの懐かしさの入り混じった感情の激しさに必死で耐えました。

「危ない、危ない。もう一発衝撃を加えたら、間違いなく倒壊しそうじゃないか」

一月以上振りに聞く機械を通さない生の声。オスカルの胸はたちまち彼への愛で苦しいほど満杯になりました。いまにもはち切れんばかりの熱い思いを抱え、オスカルはゆっくりと振り向きました。

きっと自分は木陰でうたた寝をして、ちょっと悪い夢を見ていたに違いない。とろけるほど幸せだった夏のバカンスの日が昨日からそのまま続いていると錯覚してしまいそうです。

踊る木漏れ日を浴びて逆光に浮かび上がるシルエットは見覚えがあり過ぎて泣きたくなります。白い綺麗な歯並びを見せて微笑む大切な恋人。けれど何もかも忘れて、彼の胸に飛び込みたい思いからオスカルを引き止めたものは、アンドレの左胸に小さくついているモノクロロゴマーク。

そうだった。今日はあの幸福なバカンスの続きの今日ではなかった。それにしても【広告の品】が悪いとは言わんが、少々デリカシーに欠けるのではないか?モノクロロゴは、あの事件が決して無かったことにはできないことを思い出させるものです。

見る間に険しく表情をこわばらせるオスカルを見て、アンドレは困ったように笑いました。

「いつ、出てきた?」
「つい、さっき」
「で、何をしに来たのだ」
「何をしていいか思いつかなくてな。マドレーヌばあちゃんとの約束を思い出したから、それを果たすのと、バカンスの荷物の始末もまだだったな、と」

どうして言わなかった。聞けば迎えに行ったのに、と心の中では叫びながら、口にするのは聞くも無残な無粋なセリフ。飛びつきたいほど嬉しいくせに。バカンスの荷物の始末と聞けば、ちくちくと痛いものがオスカルの胸を刺します。

「それにしても斬新なデザインの鶏小屋だな」
腕組みをして、ざあとらしく感心して見せるアンドレに、オスカルはぷい、と横を向き、作業を再開しようとします。アンドレはあわてて傍に寄りました。

「助っ人いたします」
「勝手にしろ」
「ありがたき幸せ」
「で、なぜそこを壊す」
「構造上、危険でございますゆえ」
「私の完璧な設計にけちをつけるか」
「めっそうもございません、お許しを」
「そう言ってるそばから壊しているじゃないか」
「やはり住人の意見も取り入れないと」
「コケッコ~」
「聞いたか、結構だと言っている」
「どこぞの誰かさんと同じで、言うことと考えることはお違いなさるようで」
「成る程、もう信頼できないということだな」


アンドレの手がぴたりと止まりました。黙って俯いて眉根を寄せています。
「図星か」
「…違うよ…」
「でも、傷ついただろう」
「おまえ程じゃない」
「どうして…、そうやって優しくできる?私を責めないのだ?」
「責めて…欲しいのか?」
「わからない…」
「俺が傍にいると、辛いか?」
「おまえの信頼を裏切った自分が嫌いだ」
「俺は信じているよ」

オスカルは耐え切れず、ぽろぽろと涙をこぼし、アンドレを凝視したままハンマーを握り締めた手をらだりとぶら下げました。アンドレは、オスカルの手からそれを抜き取ると、積み上げた角材の上に彼女を促して座らせ、自分も隣に腰を下ろしました。

「泣くなよ、まあいろいろあったけど、また一からやり直そう。俺はそうは思わないけど、おまえが信頼が崩れたと思うならまた築き直せばいい。ムショ帰りの男なんぞお呼びじゃない、と言われればそれまでだけれど」
「やり直す?」
「そう、リセットして新しい気持ちで」

優しく諭されて、余計に悲しくなったオスカルでした。リセットなのか、あのことも。思わず先日獄中で聞けなかったことが口から飛び出ました。
「では、では、おまえが空に書いた、あれは…。あれも白紙だな?」

アンドレは、涙の止まらないオスカルの気持ちを計りかねました。予定外の場面で思わず吐露してしまった、一大決心。必ず生きて戻って来いというメッセージも含んだ一言でしたが、今の揺れるオスカルを見ていると、まだ重すぎたのかも知れないと思えてきました。

「ごめん。ついその場の状況に乗せられて、あんなことを。雰囲気で軽々しく言うことじゃなかったな。白紙でいいよ、忘れてくれ」

安全なところに暮らす民間人としての生活と、危険に身を晒しても一般人の生活と幸せを守りたいという情熱の狭間で、オスカルが苦しんでいたというなら、プロポーズは辛いだけだったかも知れない、思慮が浅かったと後悔しかけたアンドレだったのですが。

「おまえも大概嘘つきだな」

意外な反応が返って来ました。涙は止まらないようでしたが、マジに怒っている時のドス。何年、何十年付き合っても相変わらず腰が引けるど迫力です。

アンドレは生唾を飲み込んで、怒りの嵐を受ける準備をしました。でも何で?オスカルはごそごそと、膝のところで半分にぶった切ったジーンズの後ろポケットから何かを取り出しました。

「私も荷物の始末をしようと戻ったのだ。そしてこれを見つけた」

オスカルが取り出したのは、アンドレが散々持ち歩いたために角が擦り切れてしまったビロード張りの小さな小箱に入った指輪。それは深く青い純度の高いサファイアと、添えられた小さなブルーダイヤがプラチナ台と一体となっている、凹凸のほとんどないデザインのものでした。

着けるとしっくりと指になじむシンプルで上品なフォルムは活動的な人間が身につけるに相応しいタイプで、しかも外から見えない裏側には小さな黒曜石が一つ埋め込んであったりして。

あっちゃ~、まず。

「これが実に私の左薬指にぴったりとあうのだが、そうか、これはきっと私と同じサイズで頭文字がOから始まる他の誰かのために注文したのだな?私へのプロポ-ズが雰囲気に負けたその場の思い付きだというのなら、ふむ」

アンドレ、絶体絶命。どう収集をつければいいのでしょう。まずは明後日の方向へ視線を泳がし、それから眉間に握りこぶしを当てて苦悩し、横目でちらっとオスカルを盗み見、そして最後はまな板の上の鯉ポーズ。

「あいすみません」
「言うことはそれだけか」
「お察しの通り計画的犯行でした。この夏のヴァカンス中に何とかチャンスを見つけて求愛しようと謀りました」
「成る程」
「大それたことをしでかしました。反省しています」

「反省?」
オスカルが、ぴくりと片眉を上げました。お白州の上に上がったような心境になっていたアンドレは気付かなかったのですが、その一言にオスカルが一瞬寂しそうに肩を落としました。が、泣きっ面の強気の取調べは続きます。

「後悔している、と言うのだな?」
「おまえを苦しめた、という意味でなら後悔しているよ」
「なぜ、私が…」

ややこしい旧家のしがらみは現代においても重いもの。愛している相手だからこそ、巻き込みたくない。幸い、結婚は昔ほど神聖視されない時代だから、ただ傍にいてくれるだけで満足だと自分に言い聞かせて来たオスカルです。ジャルジェ家を運営するのは重責に、時には傍にいてもらうことにすら罪悪感を覚えて。

けれど、思いがけないプロポーズに激しく感動する自分をみつけたのです。本当は強く望んでいたのでした。背負い込んだ人生もろとも愛する人と共有することを。自ら封印していた扉は開け放たれ、すぐにでも抱きついてウイと言いたかったあの日。

それができなかったのは、恋人を欺いていたことが明るみに出てしまったから。自業自得だ。オスカルは後悔しているのは自分の方だと思いました。けれど、今ここで怯んでいてはもっと後悔することになりそうです。勇気を出して素直な気持ちを伝えなければ。オスカルは覚悟を決めました。

つづく

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