社長室シリーズ番外編7

2020/07/16(木) 他サイト掲載作品




なお、このテープは自動的に消滅する → これ、2004年の時点で超古い(汗)
ファンメール            → そんな言い方あったのか
サーバーダウン           → 当時はちょくちょくあったっけ
見ればわかるような合成写真     → え?写真ってアプリでかわいく修正するもんでしょ?

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Surprise! Surprise! Surprise!(後編)

 

「白紙に戻す、とは巧いことを言ったな。撤回でも後退でもなく、リセットだな。ならば0対0から再試合だ、いいな」
なんという可愛くない言い草だとオスカルは思いましたが、このくらいの勢いをつけないと、本当のところ、オスカルも怖気づいてしまいそうなのでした。
「再試合…?」
「そうだ、私の挑戦を受ける勇気があるか?」
「わ、わかった…???」

そうは言ったものの、ちょっと待て。オスカルは何を言おうとしている?アンドレはもう一度頭の中を整理しようと悪戦苦闘を始めましたが、オスカルはその隙を与えません。

「では勝負だ。プランCといったところだな」
「プラン、C?」
「当初の計画を実行できなかったおまえはプランBに切り替え、そしてコケた」
「あ、ああ、成る程そういう意味か、……えっ?」
「プランCは私が先攻だ、アンドレ!」

アンドレ、ここでようやく追いつきました。オスカルが言わんとしていることは!それからもう一つ、わかったこと。強気の言葉を繰り出しているオスカルの瞳は、全く別のことを訴えていました。不安と自信のなさを滲ませ、本当に私でいいのか、と。

自分だけではなかったのだ、とアンドレは知りました。オスカルも同じ思いだった。そうか、そうだったのか。

「アンドレ、わたしと…」

アンドレは、最後まで言わせず、オスカルを引き寄せると思い切り強く抱きしめました。莫迦な俺。オスカルの顔を見たら、すぐこうすれば良かったんだ。太陽の光を吸い込んで輝く黄金の滝に顔を埋めると、触れてくる柔らかな頬。

肌に感じる鼓動と温もり。一月半振りの抱擁でした。互いに傷付け合ってしまっても、失敗してもすれ違っても、一瞬でわかる。欲しいものはここにある。ここにだけにある。言葉なんかいらなかった。何を遠回りしていたのだろう、いつになったらもっと賢くなれるのだろう。

オスカルの右腕がアンドレの首にまわり、左腕が背中に回され、首元に押し付けるように顔を埋め、繰り返し彼の名を半分悲鳴のような掠れた声で呼びます。もうずっと、ずっとこうしたかった。この抱擁を待っていた。

「アンドレ、アンドレ、アンドレ…」
「ごめん…」
「おまえがいないと…わたしは…」
「うん…俺も」

言葉はそれきり途切れました。あとは、火のついたようなくちづけが交わされるばかり。大事なことって、立ち戻ればびっくりするほどシンプルなんです。求め合う瞳が、唇が、腕が、声が、他には何もいらないという思いを、かけがえのない相手に届けました。

大嵐が小康状態になると、さっきまでの強気(見せかけの)はどこへやら、鼻先まで真っ赤に染めたオスカルの涙で濡れた頬をアンドレは両手で挟んで自分の鼻と彼女の赤鼻が触れるところまで近づけました。しばし見詰め合い、泣き笑いのぐしょぐしょ顔で、額と額をあわせます。

「見ろ、おまえが呑気に務所になんか入っているから、わたしは免停になったぞ」
「…ぷっ!」
「笑い事じゃない。無視してここまで来る途中にまた捕まって、今度は取り消しだ」
「…あははは!」
「おまえのせいだ」
「一生、運転手を務めます」
「専属だぞ」
「契約書の条文に入れておきましょう」
「その、契約書の種類だが…」

アンドレがオスカルの唇を二本指で押さえました。
「俺に言わせろ」
「だめだ、一度コケたものは信用ならん」
「何度コケても諦めないのが俺の売りだ」
「本当だな?後で何を聞いてももう引かないか?」
「え?」

まだ、何かある?アンドレが一瞬ぎょっとした表情になりました。
実は先ほど、Hotel de Jardjais のプールサイドで、総裁Mから指示を受けたアンドレだったのですが、その時ちらっと頭を掠めた疑惑があったのです。

しこたま水面に打ちつけて、真っ赤になった胸と腹をさすりながら、プールから上がったアンドレの額に、しゅたっと張り付いたものがありました。吸盤つきの玩具の矢。付文がしてありました。

『内緒にしていて、ごめんね。働きぶりは期待以上でした♪あとは好きにおやんなさい。そうそう、最後まで諦めるんじゃないわよ、頑張れ~ M』

何時ものことながら、意味深なのか遊んでいるだけなのか、いかようにも取れる文面。通信してくる方法も、おやつのフォーチュンクッキーの中に手紙が入っていたり、録音されたテープが『。じゃあねっ!』と万国旗と紙ふぶきを放出して爆発したり、遊んでいるようにしか見えない演出が毎回なされていて。

今回は最初から全て知っていてのこととも取れ、またアンドレのブタ箱事件も全て不問に処す。今後の身の振り方も自由になさい、ということなのでしょうが。

まあ、そんなミスティックなところは慣れっこのアンドレで、今更深く追求しようとも思わなかったのですが、気になったのはいかに玩具とはいえ、矢を額の真ん中に射って来るという大胆さ。アンドレの知る限り、こんな絶妙のコントロールを持つ人物はひとりだけ。今、自分の腕の中で涙と鼻水にまみれてぐしょぐしょになっている大事な彼女しか考えられません。

まさか、おまえが総裁Mか…?

ただし、アンドレは忘れていました。もう一つの可能性として、全然別の場所、たとえばアンドレの後ろの壁あたりを狙ったつもりが、手元が狂った結果、アンドレの眉間にまぐれで命中しちゃったって可能性。射った本人は案外今頃真っ青になって胸を撫で下ろしているのかもね。

ま、いっか。そのくらいは許容範囲内だ。アンドレは頭を振りました。たとえそうでも、そうでなくても、もうそんなことで動揺したりはしないと決めました。のっぴきならないくらい惚れちゃっているのだから、もう何だって来いです。

「引くもんか」
「動揺が見えたぞ」
「いいの、細かいことは。こっちが大事だ」

アンドレは、もう一度オスカルの両頬を大切に挟み、額に、目元に、頬にそっとくちづけを並べて置いていきます。唇の感触を、すっと久しく肌に受けていなかったオスカルは、アンドレが触れるたびに、ひび割れた大地が雨に潤っていくような暖かい幸福感を味わい、また頬に涙の道筋を作るのでした。

オスカルの頬の上でアンドレが囁きます。
「愛してるよ、おまえがどうあろうとも」
「それを…早く言え!」
「全くだ。今度からは、一番最初に言うことにする」
「あたりまえだ、馬鹿」

オスカルがまたアンドレの首筋を掴み、力を込めて引き寄せました。くちづけが再開されました。再び長い間離れたがらない唇を、ようやく口がきける程度に離した時、今度はオスカルがこう囁きました。

「今度からは、やっぱりこっちを先にしろ」
アンドレは、黙ってうなずくともう一度くちづけをそっと返し。頬を寄せて耳元に奇襲攻撃。

「俺と結婚して、オスカル」

呆気にとられたオスカルの潤みっぱなしの青い瞳が、こぼれ落ちそうにまん丸に見開かれ。しまった、先を越された!表情があきらかにそう訴えました。

「不意打ちしたな、卑怯だぞ」
「返事は?」
「……」
「だめ?」

この期に及んで、勿体つけているわけでは決してなく。今更驚く展開でもなく。けれど改めて言葉に出して言われてみると、この世にこれほどまで胸をかき乱す幸せな一瞬があることを初めて知ったオスカルは、動けません。

気がつけば。アンドレに取られた左手に、物議を呼んだあの指輪が当たり前のような顔をして収まって。当のアンドレもあったりまえのような顔で彼女の手の甲にくちづけなど落としていて。返事を待つ気もないなら、わざわざ聞くな。そんな悪態さえ出て来る気配のないオスカルは、ぽろぽろと涙を落とすばかり。

「それ以上泣くと干からびちゃうぞ」
小首を傾げてアンドレが覗き込み、微笑みかけると、ようやく顔をあげたオスカルは黙って頭を彼の肩に預けました。それ以外に今の気持ちを言い表せる言葉などあろうはずもなく。

「シャンペンを開けようか。まだ残っていたよな」
憎らしい。まだウイとは言っていないと言うのに。口をきく余裕が残っていないだけだけど。赤子のように自分を抱いて、左右にあやすように揺らすアンドレの肩口に、オスカルはかぷっと食いつきました。

「了解」
何を了解した、この男は。愛しくて、気絶しそうだ。


鶏小屋が今日中に完成の日の目を見ないことは、もはや決定的でした。それでもニコニコとマドレーヌばあちゃんは、二人に夕飯をご馳走してくれ、取って置きのシャンペンの大半は、けっこうイケル口だったばあちゃんに献上されました。

「ご馳走様でした。こんなに心が温まる料理は本当に久しぶりでした」
お礼を言うアンドレに、ばあちゃんは興奮気味。
「あんた、驚いたよ、いきなりTVであんたの姿を見た時は。良くやった、偉かった、それなのに鑑別所じゃあんたにろくなもの食わせなかったんだねえ。一体フランスの警察は何を考えておいでだね」
「いえ、ろくなもの食えなかったのは、さらにその少し前からで…」
ぎゅーーーむ。アンドレのわき腹がつねられます。

「そっちのあんたは、もう少し食べなきゃ駄目だよ。そんなに細くちゃこれからの大立ち回りに耐えられないよ」
え?二人は顔を見合わせました。何か知っているんだろうか、このばあちゃん。

「奇特な人だよ、取り込み中だってのに、ちゃんと約束覚えていて寄ってくれるんだから」
ばあちゃんは、お~いおいと泣きだします。どうやら、酔うと泣き上戸になるタイプのようです、このばあちゃん。アンドレがオスカルに目でサインを出します。でも取り込み中?ってなんのことでしょう。確かに今日はビッグデーだったけど。

「安心をし。警察が来たって、あたしゃ絶対にあんたらを渡さないからね。泣けるじゃないか、脱獄してまで会いに来たんだろ?いい人に。それなのにあたしの鶏小屋まで心配してくれるなんざ、あたしゃ本当に今日まで生きていてよかったよ」

はあ、脱獄。ばあちゃんの中ではアンドレは脱獄して恋人のところに戻って来た悲劇のヒーローになっていたのでした。
「いえ、マダム、それは…」
慌てて訂正しようとするオスカルをアンドレがテーブルの下で止めました。

『誤解させとけ。これ以上興奮させるとこの年じゃ危険だ』
『し、しかし…』
『そろそろ限界だ。じきに寝ちゃうよ』
『と、年寄りのことはおまえに任せる』

確かに、ばあちゃん目がでん!と据わっています。

「あんた達に会えたお陰であたしゃこの年で開眼したよ。あたしゃ古い人間だからどうしたって許し難かった。だけどあんたら見ていたら、男だの女だのにこだわって愛し合うもの同志を認めない方がどうかしてると思えるようになったよ」

何か、激しく誤解しているらしい、このばあちゃん。だけど、感動に震えて弁舌を振るうばあちゃんをがっかりさせるのは確かに危ないかも知れない。オスカルは微笑んで聞きの体勢を続けました。

「あたしゃ決心したよ。勘当してもう何年にもなる息子に連絡をとって見ることにするよ。実際にこの目で見るまでは、とんだ罰当たりだと思っていたけどね、いいじゃないか、男同士だって。あんた達の姿を見れば誰だってゲイが立派な人の道だってことがわかるよ」

テーブルの下、ブロックサイン中…。
『耐えろ、オスカル、悪気はないんだ』
『わかってる!』
『目もきっと悪いんだよ』
『シャンペンの裏ラベルをすらすらと読んでいたぞ』

ぐしっとハンカチを握る手で目鼻を擦り、ばあちゃんは続けます。

「息子もね、いい子だったんだよ。それなのに髭面の男を恋人だって連れてきただけで、あたしゃ勘当しちまった。でも、ずっと気になっていたんだよ。このまま決別したまんま天国に行かなきゃならなくなったら、息子はどんなにあたしを恨むだろうってね」

「恨んでなど…、きっと息子さんもお母さんのことを思っていますよ、請け合います」
「そうかい、ありがとよ。あたしもやっと踏ん切りがついた。これで息子と和解できたら、もう思い残すことは何もなくなる。みんなあんたらのお陰だよ」

「うんと長生きして、息子さんに親孝行する時間をあげてください、マドレーヌさん」
「良いこと言うねえ!やっぱり、ゲイは心が上等だ」
「そ、そうですよ。息子さんも立派な方ですとも」

『アンドレ、飛躍しすぎだ』
『あと、もう少しだって。目が半分寝てる』

「あんた達が隣の家に来た時はなんて勿体ないと思ったんだよ。どっちも胸のすくような美青年なのに、男同士くっついちまうなんて、いい娘が二人もあぶれちまう勘定になるじゃないか。だけど考えてみれば男同士があるなら女同士だってあるんだから、どっかどっかで世の中つじつまが合うように出来ているんだね」

『リベラルな精神の持ち主じゃないか』
『ああ、あの年で大したものだ』

「ひとつだけ気になっていたんだけどね、あんた、そう脱獄してきたあんた。どうしてだか、あんたには女難の相が出ているから気をおつけ。だけどそっちの綺麗な金髪のあんたには出ていないから、男同士で仲良くしている分には大丈夫だよ。しっかりおやり」

がたっ。がしっ!

「おや、一時も離れ難いか。若いね」
「あ、そ、そうなんです。それに実はこいつは極端に酒に弱くて、そろそろ限界だと思うので、今日はこれでおいとまします。本当にご馳走様でした」
「おや、あたしこそ、こんな良い酒久しぶりだったよ」
「はい、お休みなさい。…こら」
「もごっ」
「本当だ、酔っ払っちゃったようだね、そっちの綺麗なひとは」





渓流のさらさらと澄んだ音は、変わらず草原の上を滑っていましたが、どこか、印象の変わった夕景が、草の上に直に座り込んだ二人の前にありました。一月半のうちに日が少し短くなり、恋の季節を終えた蛙は静かに月を愛でるばかりになり、その代わり虫のマドリガルが情熱的にもの悲しく多重合奏で奏でられるようになっていました。

「秋の気配だな。いつの間にか…」
「女難…か…」
「お~い、頼むよ、深く考えるなって」
「喜ばしいと思うべきなのだろうな、妄想啓蒙活動では活躍したことだしな」
「あのね」

「そう言えば、ファンメールでサーバーダウンしたんだ、おまえの留守中に」
「人の噂も七十五日」
「ネットオークションでおまえの写真が売買されているのを知っているか? 中にはヤバイのもあったぞ」
「よく知っているな。さてはおまえも買ったとか」
「言い訳くらいして見ろ、その余裕は何だ」
「見ればわかるような合成じゃないか。おまえがわからんでどうする」
「面白くない」
「すぐ醒めるよ、今だけだって」
「じっつに面白くない」
「オスカル、今夜はもっと他のことを話そう…あれ?」

「……」
「まさか…泣いてるのか?」
「…何か、忘れていないか」
「え?な…何を?おい、こっち向いてくれ」
「いやだ」
「俺、またおまえを泣かせるような何かを…?」
「大嘘つき野郎…一番最初に言うと言っただろうが」
「…あ」

十三夜。
少し赤みのかかった月が、大きく膨らんで楡の大木の後ろに引っかかるように顔を覗かせようとしていました。月明かりがさっと楡の梢を突き抜けて、ぷいと横を向いたオスカルの横顔の輪郭を明るく縁取ると、オスカルはもっと顔を背けてしまいました。髪がするりと落ちてノースリーブのTシャツの肩が露になると、オスカルはその肩を抱いて振るえを抑えるように、息を潜めています。

「オスカル」
オスカルの手の上から両肩を抱いたアンドレが、後ろからオスカルのこめかみに唇を寄せます。
「今日は、さすがにナーバスなんだな、愛しているよ、おまえだけだ」
「一応言っておこう、って魂胆が見え見えだ」
「キスしていい?」
「順調にマニュアルに沿っているな、いや順序が逆か」
「へそ曲がりなおまえも好きだ。…おや?」
「くっくっ…」
「笑ってる?…こいつ!」
「あーっはっはっは!」
「どっちが、嘘つきだ!どうもおかしいと思ったんだ。まるで普通の女の子みたいに拗ねるから」
「ほ…お、普通の女の子はこんな風に拗ねるのか。よく知っているようだな」
「ぐ…おまえこそ」
「ふふん、女難の相か」
「オスカル~」
「参ったと言え」
「もう、参っているじゃないか~」

ちょっとハイになったオスカルでした。
秋の気配というものは、それだけで物悲しさを運んできます。ひと夏、存分に大事な人を独り占めして、いっぱいに満たそうとやってきたこの小さな茅葺き屋根の農家は、一回り小さくなって虫の音に囲まれていました。

時折ひんやりと空気の流れが包み込むように押し寄せると、どこか寂しくなるのは、どんなに幸せなひと時であっても、押しピンで貼り付けておくことは出来ないことを思い知らされるかでしょうか。
 
降参ポーズでひっくり返ったアンドレの上に腹ばいになり、オスカルは彼の心臓の音を聞きながら、ぼんやりとあたりを眺めました。中途半端に荷造りしたトランクや、キャンプ用品一式が軒下に置かれています。明日には引き払わなければなりません。

時間も、場所も、荷作りも、全てアンドレがやりくりしてくれたのでした。結局自分が引っ掻き回してしまった。ぽっかりと夏が切り取られてしまった後に残された晩夏の夜。

「すこしからかい過ぎた」
オスカルの珍しくも殊勝な一言に、アンドレが目を丸くして頭を持ち上げます。
「警戒するな、もうこれで終わりだ」

返事代わりのアンドレの腕が背中に回されるのを心地よく感じながら、オスカルはまた彼の胸に頬を乗せます。申し訳なさと、小さな後悔も一緒に預けてしまうかのように。ふと、彼の胸に添えた左手薬指に光る指輪が目に入りました。それが意味するものは。

今まで彼に負わせてきた役割の重さと、これから更に負わせるであろう責任と労苦の大きさ。それを思うと、やはり彼は自分という女難を背負った男だと、オスカルは感じます。

立場や職種は変わっても、長年いつも自分の強力な片腕として、時には両腕で庇ってくれながら傍にいた男に、自分と婚姻関係を結ぶことがどういうことなのかわかっていないはずはありません。

たった一言のプロポーズにはそれでもいい、という決意がぎっしりと詰まっていたのです。だから、今さら言葉に出していちいち確認を取るのも無粋なこと。彼は全て納得の上なのですから。

それでも、何の気なしの老女の一言に、つい心がざわめいて、違う方面から彼を突いてしまいました。彼が動じないのを確かめたくて。

「ふふ」
我ながら子供っぽかったと、思わず声にだして笑ったオスカル。
「何が楽しい?」
前髪越しに、額にくちづけが降りて来ました。彼は、動じないでしょう。ようやく安心してそう思えるようになりました。

「普通の手順を踏むなら、こういうことは約束の前に言っておくのだろうな」
オスカルは、左手でアンドレの頬にかかる髪をかき上げました。その手をアンドレが取って、指にくちづけます。

「まだ、何かある?免許取り消しの他に?」
「驚くな」
「驚かないよ、もう大概のことじゃ」

「国際組織犯罪対策部国際捜査官特殊工作員は、家族にすら、その任務を知られてはならないんだ」
「うん?それで?」
「おまえにばれた。だから私は任務を解かれるか、おまえを同じ工作員に推薦するか、どちらかを選ばねばならん」
「ふうん、で、俺はもう一枚サインする書類が増えるんだな」
「…いいのか?」
「は~っ!凄い開放感。これでおまえが俺の知らないところで銃弾をくぐることはないということだろ。ああ、寿命が延びた」
「おまえに、武器は似合わないとずっと思っていた。なのに…」
「武器が似合うかどうかは知らんが、おまえとは似合いだろ?」
「背負ってろ!」
「ふふふ」
「始めからそうすれば良かったのか…?アンドレ?」
「さあ、それはもういいよ」

風が、また少しひんやりとしてきました。二人が寝転ぶ草原に夜露が下ります。それでも、まだもう少しだけ、名残だけになってしまった夏のバカンスの匂いが残るこの庭に留まっていたくて、二人は身を寄せ合いました。月は楡の頂を離れ、少し小さくなりました。

「あ、マドレーヌばあちゃんちの明かりが消えた」
「ふふ、なかなかなばあちゃんだったな」

「思わぬ副産物が生まれたじゃないか、誤解のお陰で。ばあちゃんは息子を取り戻す」
「まったく…今日ほど盛りだくさんの日はなかったぞ。そうだ、予定通りにバカンスを楽しめていたら、今日が最終日で、やっぱりシャンペンを開けていたはず…と、いうことは、アンドレ、今日はおまえの誕生日だ」

「え?ああ、本当だ。参ったな」
「すっかり、忘れられてしまったな」
「それはいいんだ、これだけいろいろ起きれば覚えてなどいられないよ。そうじゃなくて、せっかくのプロポーズと誕生日が、俺の務所出所日と同じになってしまったっていうのも、なんだかぶち壊しだな、と」

「ははは、覚えやすくていい」
「じゃあ、来年もまとめてシャンペンで祝ってくれ」
「来年か、来年…。忙しくなるぞ」
「なにか計画でも?」

「今回の騒動でな、客が激減した。それから、一応私は民間人ということになっているから、その、ぶっ壊した器物の補償やら、おまえが盗んだミラージュのメンテナンスやら、経費で落とせない支出がかさんで、今期は大赤字なんだ。だから、おまえは莫大な借金を抱えた女を嫁にもらうのだが…、これも言ってなかったな?」

「聞いてなかったな」
「どうする?止めるか?」
「借金はいくら?」
「4千万ユーロ」
「ヒュ~ッ!」

「Hotel de Jardjais をいっそたたんでしまってもいいくらいなんだが、従業員のことを考えると、暫くは厳しいがここは何とか盛り返したいと思う。1年で赤字は解消、2年で年商2倍までもっていく。どうだ?」

「半年で黒字転換、1年半で年商3倍」
「ヒュ~ッ!」
「できるよ」

「普通の男なら、借金の額を聞いただけで逃げるぞ、アンドレ」
「そりゃ、好都合だ。俺が頂いとく」
「とんだ誕生日プレゼントになったな」
「そうか?俺は人生最良の贈り物を腕に抱いていると思っているんだが」

「苦労症なやつだ。それではかわいそうだからもう一つやる。サプライズギフトだ」
「忘れてたくせに、今思いついたんだろ?」
「そう言うな。今度はちょっと驚け」
「注文が激しいな。これ以上腰を抜かすギフトなんかこの世にあるのかな?」
「今にわかる。これだ。これをおまえにやろう」

ごそごそと起き上がって、アンドレも引っ張り起こしたオスカルが、後ろポケットから取り出したのは、二つ折れになったモノクロの写真でした。

「これ?何だろう、レーダーをプリントアウトしたような…。だけど俺が見たことのあるタイプじゃないな。空…じゃない。深海か?」
「ふふ、当たらずとも遠からじ、そんなとこだ」

「う…ん、月明かりじゃはっきりわからないな。何が映っているんだろう」
「うん、これは3日ほど前のものなんだが、ここに小さく白い袋状のものが見えるだろう?」
「あ、ほんとだ。深海の…新種のミジンコ?海洋生物の研究でも始めるのか?」

「ミジンコとは失敬な。この中にはれっきとした人間の心臓が入っているのだ」
「げっ!人間の…?おまえ…まさか…!」
「ようやくわかったか。そうだ」

「オスカル!止めろ!それはいくらなんでも俺には許容範囲外だ!」
「ア…ンドレ…?」

アンドレの思いがけない反応に、オスカルは凍りつくような衝撃を受けました。確かに、彼はオスカルの予想通り驚愕していますが、もっと嬉しい驚きを見せてくれると確信していたのに。アンドレは、月明かりのせいではなく、明らかに血の気を失い、青白い顔でオスカルを見下ろしていました。

「そ…うか。喜んでくれると思ったのだが、私の一人合点だったな。まあ、いい。無理はするな。だが、私はこれが欲しいのだ。だからこれは私一人のものにする。それは、譲れないぞ」

オスカルは、やっとの思いで取り乱さずにそう言い終えました。幸せな夜が一瞬でこんなに悲しい夜になってしまうとは、思いもかけない展開でした。熱く、痛いものが、胸から目頭に込み上げました。

アンドレはオスカルの両肩を掴み、オスカルはアンドレを見ることが出来ずに顔を横にそむけます。アンドレが、重い口を開きました。
「オスカル、早急すぎる」
「そう、思うか」
「おまえが、人口問題に憂慮を抱いていたのは知っている」

人口問題?この男、どこまで問題を広げるつもりだ。違うだろう。オスカルは上目使いでアンドレに視線を戻しました。アンドレは真剣なまなざしでオスカルを見つめていました。そこにはいつもの限りなく優しい光が溢れていて、少なくても彼は彼なりに自分のことを考えてくれての反応だということがわかりました。それで少し落ち着きを取り戻したオスカルは、改めてアンドレの眼差しに焦点を戻します。

「オスカル」
アンドレは蒼白になってしまったオスカルを気遣い、優しく自分の膝の上に抱き取りました。オスカルも、彼の胸にこつんと頭をもたせ掛けます。どうしてここでこんな風にすれ違ってしまうのだろう。つっと一筋の涙がオスカルの頬を伝い落ちました。

オスカルの頭を引き寄せて、頬を摺り寄せながら、アンドレが静かに語り始めます。
「おまえが、どんなに地球上の爆発的な人口増加と、食料の需給問題に心を砕いているかは知っている」

そうか、それは良かった。でも何でそう問題が飛躍するのだ?たしかにわたしは地球上に人口を一人増やそうとしているが、そんな個人レベルの問題を地球規模の問題に結びつけていては、呼吸すら遠慮しなければならないではないか。が、オスカルはアンドレの言わんとすることをもっと正確に把握するために、じっと堪えます。

「だが、まだこの問題提起にはもっと十分な討議が必要だと思わないか?焦る気持ちはわかる。何と言っても人の命がかかっているのだからな」
今更討議でもないだろう。もうすでに…。オスカルが眉間に皺を寄せますが、アンドレは気付きません。

「人類の未来に射す光明になるか、人類の力を越えた悲劇的幕開けになるか、両側面を持つ問題だから、早急な結論は出すべきじゃない」
人類だと~~?私達の未来だろうが!オスカルは、アンドレの首元の襟をぐい、と掴みました。

「落ち着け、オスカル。食料増産に利用するだけでも倫理的な問題が解決していないんだぞ。おまえの探究心は賞賛に値するし、俺はいつだって協力を惜しまないが、人間のクローン研究には手を出すな。頼む」

クローン?クローン?クローン?

ど、どう逆立ちすればそんな馬鹿げた誤解ができるんだあ~~~っ!勢い良く上げたオスカルの頭が、アンドレの顎と激突しました。

「いっ!」
「てっ!だ、大丈夫かオスカル」
目の前にはもう大マジのアンドレ。驚いていいやら、呆れればいいのか、ほっとしたのか、ばかばかしくて脱力したいのか、それとも褒めてやればいいのか、一喝するべきか。頭はじんじん痛むし。

「アンドレ…」
くいっと彼の顎を掴んで、正面に彼を据えたオスカル。どうしてやろう、この男。
「痛かった?ごめん」
くしゃくしゃと心配そうに頭を撫でてくれるこの男。ああ、だめだ。やっぱり愛しくて卒倒しそうだ。早く決着をつけてしまおう。

「おまえの見解はわかったし、クローンに対するおまえの意見には私も全面的に賛成だ。だが、今夜おまえにやろうとしたものはクローンサンプルなどではない。クローンではないが…」

訝しげに首を傾げてオスカルの言葉をじっと聞き入るアンドレの頬に、オスカルは一つ、くちづけを落とし、息を整えて言いました。

「似て非なるものだ。私としては、おまえの遺伝子を濃く受け継いでいて欲しいと思っている」
一瞬、何が何だかわからないといった表情をしたアンドレでしたが。

「俺の…遺伝子?」
「そう」
「クローンじゃない?」
「当たり前だ」
「え?」

アンドレは、くしゃくしゃになってしまった写真をもう一度覗き込みました。よくよく見れば、左端には聞きなれた大学病院の名と日付と文字がしっかりとプリントされているではありませんか。

「8月24日 在胎8週3日…?」
「いらなければ私が独り占めするが、欲しければ親権の半分はおまえのものだ」
「在胎…う…そ…」
「いるのかいらないのか?」
「・・・・・・」
「アンドレ?」

アンドレは両手で写真を持ったままの姿勢で、ゆっくりと後ろに倒れました。
手間のかかる奴です。卒倒しそうなのはわたしの方だと言うのに。オスカルはアンドレの様子を確かめます。

「アンドレ、馬鹿、息を止めるな!」
「い、息?ど、どうするんだっけ?」
アンドレは苦しそうにするだけで、呼吸することもできない様子でした。

「世話のかかる!こっち向け」
オスカルは、アンドレの鼻を摘むと、マウストゥーマウスで人工呼吸を施してやりました。アンドレはひたすら目を白黒させ、トリップ寸前です。

「しっかりしろ!ほら、ちゃんと自分で呼吸しろ」
「ぷっは~~っ!こ、こうか?」
「馬鹿、今度は呼吸し過ぎだ!」
「あ、手足が痺れてきた、目が回る」
「今度は過換気か!息止めろ」
「え?どうやって?…ふごっ!」

忙しい。

秋の気配の感傷など、一気にどこかへ吹っ飛んで。ようやく自発呼吸を取り戻したアンドレはまだ立ち直れず。

頭の中には、小銃片手にドゲメーネと相対するオスカル。床に転がる打ちのめされて泡を吹いている兵士の束。機関銃掃射をかいくぐって走るオスカル。で、在胎8週だって!じゃあ、じゃあ~~~~っ!あのときはすでに!ああ、死んでしまいそうだっ!

が、しかし。呑気に死んでいる場合ではなく、アンドレは今や魔女にすら見えてきた美しい未来の花嫁の腕をがっちりと掴んで引き寄せました。もう、絶対に一瞬たりとも目を離すもんか。

「誕生日おめでとう、アンドレ。私のサプライズギフトは気に入ったか?」

嬉しそうに聞く小悪魔。ああ、もう悪魔だろうが何だろうが魂ごと売り飛ばしてやる。さあ、受け取れ俺のオスカル。返事の代わりに何度も抱きしめ、くちづけの総攻撃をお見舞いするアンドレです。

「口も利けないほどか?」

雨あられと降り注ぐ一斉射撃の合間をついて、女神だか悪魔だかこの世のものともわからんクリーチャーが微笑み。図星のアンドレが精一杯瞳で答えようとした途端、くちづけの嵐に大粒の夕立が加わりました。

そして、女難の未来の花婿は、クローン研究の一端を担ぐことより、よっぽど大荒れ絶叫人生の始まりを保障してくれる未来の花嫁をずぶ濡れにすると、やっとこれだけを言いました。

「愛している」
「…うん…」
「もう、鼻はつままなくてもいいぞ」



♪さあ、それでは、皆さんご唱和ください♪

Happy Birthday to you、Happy Birthday to you、

Happy Birthday dear Andre、
(Dear dear dear dearest of all←バックコーラス)

(はい、ソプラノとテナーの皆さんは3度あげて)
Happy Birthday to you!

And many more …♪




2週間後。

「アンドレ、見ろ!」
「何?」
「深海のミジンコの最新映像だ」
「どれどれ」
「胎胞が二つに増えている。心音も二つだそうだ」
どてっ。

**深海にミジンコはいません(^O^)
 
                          

~ Fin ~

 

*お願い
 この小話はフィクションであり、実在、非実在に関わらずいかなる団体、個人とは全く関係がないことをご承知ください。

*つまり
 ベルサイユのばらファンサイト「Hotel de Jardjais」のHotelは、「館」という意味で名づけられたものであることはご周知の通りです。ここに登場する同名のホテルの営業方針、実在の人物を彷彿させる登場人物等は、全て小話の枠から出るものではない、ということをどうか、ご承知おきの上、ここだけのフィクションとしてお楽しみください。                            
                             もんぶらん 拝
 

幸福なヴァカンスから始まった物語が、いつのまにやら某カリフォルニア知事出演のハリウッド映画さながらの大活劇へ。息をもつかせぬ展開の後、最後は蕩けてしまうような幸福の結末……。完全に降伏してしまいました。それに、まるでお話の中に自分が登場したような錯覚さえ覚えました(あれ?) それにしてもこういうスケールの物語に、オスカルさまとアンドレはなんと似合うのでしょうか。数々のベルばら登場人物たちも、ベストの配役でした。アンドレ、ものすごいお誕生日プレゼント、おめでとう!
もんぶらんさま、ツボの底に落ちました。どうもありがとうございました。
                         by まあ
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