社長室シリーズ番外編3

2020/07/12(日) 他サイト掲載作品








 一枚買って二枚目は半額のポロシャツ→そんなのありましたねえ。
 くるぶしの見えるパンツ丈なんかやだ→今はありですよお。
 メールで送られて来た写真     →今は写メといいます。
 電話番号やメアドを聞く      →今はQRコードで交換。

時代は変わりました…ね…






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妄想隊長の憂鬱








「いい子だ。じっとして。こわく…ないから」
アンドレの声です。
野ばらの茂みの上を黒いくせっ毛頭が見え隠れし、甘い囁き声が漏れ聞こえます。小枝を踏みしめる足音が慎重にゆっくりと、静かに進んでいます。

「つぶらで澄んだ元気によく動く瞳だ。挑発的でぞくぞくさせるね。とても魅力的だよ。それに爪の形がいい。実に芸術的なシェイプでいながら、野性味たっぷりに輝いている。君には是非パリのネイルサロンを紹介したいな。だからもう乱暴な仕事なんかしないでくれ。特に…」

見詰め合う黒い瞳。言葉が途切れました。透き通った渓流の水音の上を、涼やかにそよ風だけが通り過ぎていきます。木漏れ日がアンドレの肩で音もなく踊ります。

「武器に使ったりなんかしちゃいけないよ~~~~っ!」
「コケッコケッコケッ~~~~~ッ」
突然破られる静寂。ばーたばたずざざざっ、ばき!ぐわしっ!

「やった!最後の一羽ゲット!」
「コケコケッ(嘘こけっ)」
「おおっ、いいバネしてるね。そう蹴るなって。毛艶もいいし、よく締まっていて君が一番の美人だ。やっぱり美人は手がかかるのかな」
「ケッ!」
「元気があってよろしい」

アンドレは褐色まだら模様の、かんかんに怒れる雌鳥を、即席鶏小屋に入れてやりました。アンドレが長年愛用してきたプジョー・ダンジェル4×4です。持ち主によって即席鳥小屋にリフォームされたのです。

窓ガラスが破られ、ブレーキは破壊され、満身の馬鹿力でマドレーヌばあちゃんの家先まで押されてきました。崩壊した鶏小屋からアンドレが引っ剥がした金網が開け放った窓に張り巡らされ、ボロ車とはいえ、鶏には少々クッションのよさ過ぎるシートはフルフラットにされ、藁くずで覆われました。

巨大な長方形の不骨なワンボックスカーは、時に社長と大喧嘩した時のねぐらになり、企業スパイとカーチェイスし、社長がモトクロスレディースカップに出場する時のキャリー兼コックピットとなり、キャンピングカーとしても活躍し。それら激しい用途に長年耐えたぼこぼこのボディーは貫禄たっぷりで。その分愛着もたっぷりで。

「困ったねえ、この辺は夜になると狐が沢山くるんだよ。あんた、急いでいる風だけど、小屋直せんかね」

心底困った顔で、真っ白なプードルのようなヘアスタイルとまるまっちいほっぺたがキュートなマドレーヌばあちゃんがこう言ったとき。アンドレは迷わず手近にあった大きな岩石で、プジョーの運転席の窓をかち割りました。修理の効く壊れ方ではない鶏小屋を手っ取り早く設えるには、仕方ありませんでした。

同じ壊すなら、鍵を切断して配線を繋げば動くんだけどな、とちらりと思いましたがこの老婦人を放っておくことなど到底出来ません。何せ老婦人はアンドレのアキレス腱です。社長の次に勝てない相手。

「急用を片付けたら、必ず小屋は何とかしに戻って来ますから、それまでこれで辛抱してください」
「返って悪かったねえ、ありがとうよ、兄さん」
「いえ、もとはと言えばオスカルが吹き飛ばしたんですから」
「それにしても、あんたの鶏の口説き方は堂に入っていたね。あの威勢良くかっ飛んでった綺麗な恋人もそうやって捕まえたのかい?」
「はあ?あはは、さっきの元気のいい雌鳥の千倍も万倍も苦労しましたよ。一世一代の大捕り物でした。もう、二度と出来ませんね」

和やかに談笑している場合ではないのですけど。年寄りの話を切るのはテクが要ります。パリへパリへと心が飛ぶアンドレは、そのタイミングを図ろうとするのですが。

「じゃあ、パリへの足を探さなくてはならないので、これで…」
「パリへ行くのかい?パリには娘が所帯を持っていてねえ、出来のいい娘だったから無理して大学まで出してやったんだけどね、反って心配だよ。弁護士になったはいいけど、この間なんか敗訴した相手が逆恨みしてねえ…」
「は、はあ…」
「ちと、あんた、もしパリへ行くんだったら、頼まれておくれで無いかねえ」
「は、えっとその…」
「ちょっとお待ち今、持って行ってもらうもの、纏めるからね、あんたもお入り」

あああああ。気に入られてしまいましたね。こうなったら無愛想を決め込まなければどつぼに嵌ること必至。なのについ笑顔で応えてしまうアンドレは、己のサガを恨めしくも情けなく、声を上げずに絶叫したのでした。それなのに。

「理知的な眉の、清楚な方ですね」

だ・か・ら。

そんなこと言っちゃだめだって。ばあちゃんちの飾り棚に並んだ娘ごの写真立ての前で。

「そうかい、あたしの若い頃にそっくりだとよく言われるんだけどね。こっちの写真も見るかい?」
「あ、いえ、もうこれで…」
「遠慮しないでいいんだよ、急いで荷物まとめるからね、そうだお茶をいれてやろう。あんた、突っ立っていないでお座り」
「あ、お茶なら俺が…」

あっ、馬鹿。

「気立てのいい子でねえ、あの子がもう村に戻らない聞いたときには、あたしゃ泣いたよ。でもそれが時代だからね。あの子にゃ才能がある。だからあの子にはあんたのいい様に自由におやりと言ってやったのさ。おや、あんたいい手つきしてるね。どれお相伴に預かろうか」

お願いだから、手、動かしておばあちゃん。口が動けば手が止まり、手が止まれば当初の目的の行動を忘れてしまい、脱線する。アンドレの世代とはまったく時間の進む速度が違う世界に生きるおばあちゃんは、この年代としてはごく普通なのですが、身内にスーパーばあちゃんを持つアンドレにはこの普通の老婦人をうまく扱うことが出来ません。マジに泣きたいアンドレでした。

ほうほうの態で何とかかんとかばあちゃんにいとまを告げ、アンドレはばあちゃんの茶飲み友達だというつるつる頭のじいちゃんに街道までトラクターで送って貰うことに相成りました。

土埃を巻き上げながら去っていくアンドレを名残惜しそうに見送り、ばあちゃんはぼそっと呟きました。

「勿体無いねえ、いい男なのに。でも女難の相が出ているのはどういうわけだろうね」


さて、話を端折ります。いきなりここはお世辞にも綺麗とは言いがたい独身男のアパルトマン。

「とりあえず8社回ったんだ。それが何処へ行っても異口同音に同じ反応だ。ベル風邪など聞いた事もない。根拠がなさ過ぎる話題の取材をしている暇はない、とね。ところがどこのカフェに入っても耳を澄ませば四組に一組はベル風邪の話題で持ちきりだ。

これほど噂に上っている話題について、堅実で真面目なB社ならともかく、ゴシップなら何でもOKなN社が飛びつかないはずはないんだ。それに、断り方がどこも妙に歯に物が挟まったような煮え切らない様子だったのも気になる」

「う…ん、俺もロザリーから頼まれて調べてみようとしたんだが、思わぬ壁に突き当たった」
「と、言うと?」
「ロザリーが調査を依頼したドゲメーネ衛生研究所へ、担当調査員を訪ねて行ったら、該当する職員はいないと追い払われた。調査そのものがもみ消されていたんだ」

「何だって?そうか、俺が訪ねた新聞社の中でG社だけは、企業や政治家の圧力に屈することなく真実を報道する気概のある所なんだが、そこの顔見知りの記者がやけにもの言いたそうにしていた。絶対に何かある」

オスカルとアンドレの共通の友人にして、ロザリーの恋人である記者ベルナールはそう断言しました。事件に対する彼の嗅覚は天才的とオスカルもアンドレも意見が一致している彼に助けを求めるのは自然な成り行きでした。

「ああ、匂うな…」
「だろ」
「匂うのはおまえだ」
「え?」

「何なんだよ、その白い立体的なシミは!泥だらけの裾は!泥だけじゃないだろ、その茶色!頭だって酷いぞ。羽に藁くずに埃にまみれて爆発しているじゃないか!おまえのその姿を見れば、誰だって怪しむ!」

「ちょっと奥の田舎にいたからRER線の駅まで足がなかったんだよ。でヒッチハイクしたら、豚と有機肥料を満載したトラックが荷台なら乗せてやると言うんでお言葉に甘えただけだ。急いでいたから背に腹は変えられん。まだ知り合いのTV局と雑誌社、新聞社しか回っていないから、べつに俺の格好が原因じゃないさ」

「俺はいやだぞ、そのままのおまえを連れて出入りの新聞社へ行くのは。俺のシャツ貸してやるから急いでシャワー浴びて来い」
「やだよ、おまえセンス悪いから」
「う、うるせえっ!だったらそこの角のモノクロにでも行って適当に好きなの調達して来いっ」

20分後、ベルナールは頭がつかえると文句を垂れるアンドレをこれまたボロボロのルノーの助手席に押し込み、心の中で悪態をついたのでした。

『既成のパンツの裾を切らないでいける奴なんか嫌いだ。一枚買って二枚目は半額のポロシャツでこれほどクールに決められる男は俺の隣に座るんじゃないっ』

そういうベルナールはゴンゾーのシャツで頑張っているんですけどねえ。それに下手に持ち服貸して、『あれ、だめだよこれ、くるぶしが見える』なんて言われるよりいいでしょ。


一方ここはHotel de Jardjaisの中庭にある、セーヌに面したプール。ちょっと南国風にブーゲンビリアをポーチの柱にあしらい、トリコロールカラーのパラソルが華やかに並んでいます。鮮やかな色合いが、トレリスにぎっしりと這ったツタの緑で余計に引き立ち、夏の陽光がそこここに反射して、白い壁が目に痛いほど眩しい、Hotel de Jardjais 自慢の空間です。

プール脇に並んだビーチベッドにはすらりとした健康的にセクシーな足が伸び…え?ちょっち待て、違う…。普段ならそういう光景が見られるのですが、並んだ足には…剛毛が。美しく飾り付けされたトロピカルカクテルが置かれるはずのテーブルには酒瓶がごろごろ。ピーナッツにアタリメ。

「おっそこのおねいちゃん!俺らと一緒に妄想の世界でランデブーとしゃれ込もうぢゃあないかい!」
「わあきみ、可愛い水着だね。キャンディーみたい。きっと食べたら甘いんだろうな~。中身は水蜜桃?俺と一緒にフルーツバスケットしない?」

「とととと、ってもイカシタお、お、奥さん。一緒に妄想し、しませんか、ひっ お、お、お、おぢさんだったああ!」
「あー、えー、うー、その、マダム。耳寄りなお話があるのですが、是非そのアーモンド色の二つの宝石にわたくしを映すほどお傍に寄ることを許す、と艶やかなボルドーの唇から聞かせては頂けないでしょうか」

はあ、大きなため息をつく他はなす術もなくロザリー嬢はいつもと違う職場の様相を見つめていました。
「いったい何なのかしら、この人たち」
「っへーい、そこのかわい子ちゃあん、君も水着になんなよ~」
なによ、この真っ赤なコスチュームに黄色いマフラーは!くそ暑苦しいわね。
「仕事中です」
「お、真面目だねえ。チッチッチ~ッ!だめだよ、そういうお堅い子が妄想に振り回されるんだよ。もっと遊び心をもったないとね~。君とはそうだな宇宙編行ってみようかァ」

アンドレに連絡してから約2時間。もし急いで飛んで来てくれるならそろそろだわ、早くしてくれないとホールに飾ってある中世の鎧が持っている槍でこいつら串刺しにしてしまうわよ。ロザリーの堪忍袋は限界に達しようとしていました。

その時です。バウン!と轟音を轟かせながら、Hotelの生垣を飛び越えて来た者がきらりと何かきらきらした眩しいものを太陽の逆光に反射させて、一直線にプールに着水したのです。

すり鉢状に綺麗に輪になった水柱が3メートルほども上がりました。また変なのがやって来たわ、と脱力しかかったロザリーでしたが、ぶくぶくとあぶくをはきながら派手にざばあっと水面から出てきたのは。

「お、オスカルさま~~~っつ!」
ずぶ濡れになって水面から頭を出した社長が、ずざあああっと首を斜め後ろに振り、長い豊かな金髪を大きく左右に激しく揺らすと、その髪から放たれた黄金の滴が陽光に反射して、濡れてやや濃い色に輝く金髪を彩り、見ていた者を釘付けにしてしまいました。

社長は沈んだバイクの上仁王立ちになると、両手を腰にあて、プールサイドをぐるりと見渡し。鋭く射るような青い眼光が滴る水滴に縁取られてさらに凄みを増しています。

「これは、いったいどういうことだ?」

誰も答えません。なぜって、ど迫力すぎですもの。社長の低く抑えた声。社長は、今朝メールで送られて来たそのままの姿の野郎どもを一人一人確認しました。水平移動するカメラワークのように視線を動かしていた社長が、ぴたりとランニング姿のもみ上げあんちゃんの上で止まりました。

「久しぶりだな、アラン」

静かなのに、有無を言わさぬ気魄が圧倒的。凄すぎ、社長。
「お、お、お、おうっす」
口元から、ポロリとスルメを落として、辛うじて返事をするアラン。腰、引けちゃってるし。

「それから、ダグー大佐までおられるとは意外な」
「はっ、た、ただ今は大佐ではなく、ただのおっさんでございます」
「ほう?」
「失業中でございまして」
「成る程、ではダグーおっさん」
「は、はい」
「辞令は交付されたのだな。では任務は承知しているな。これまでの成果を報告したまえ」
「は、そ、それが…」

何と答えて良いやら、言葉を探すダグーおっさんに社長はふふん、と不敵に薄笑いしました。
「全員玉砕したのだろう。聞かずともわかる」
ザッバーンと一旦プールに飛び込んだ社長が、飛び込み台の横の梯子から派手に水
をざばざばと滴り落とさせながら上がって来ました。
「うっ」
「ごく…っ」
「…」

妄想隊員達が一斉に生唾を飲み込みました。社長は気づきませんが、ずぶ濡れになってぴったりと張り付いたTシャツの下に例の天上級の肢体の線がくっきりと浮き上がり、その上を金髪の房から滴り落ちる水流が、いく筋も体の凹凸に添って流れている様は、妖艶を通り越して悪魔的ですらありました。

アンドレが付けさせたボディプロテクターが無ければ、プールサイドは血で赤く染まったことでしょう。ロザリーは鼻の穴に詰めるティッシュを取りに走ることになったはずです。ナイス判断でした、アンドレ。

ロザリーはあたりを見回すと、アンドレが一緒でないことを確認し、ほーっと安堵のため息を吐きました。社長が一千分の一秒でこの野蛮人らを飼い猫のように大人しくさせたのは良かったのですが、アンドレがここにいたら、また別の流血騒ぎが勃発するのに充分に危険な要素満載の一幕でしたから。

*   *  *  *


「結局おまえのつてでも結果は同じだったな」
フリージャーナリストであるベルナールは、アンドレより遥かに多くのマスコミ機関に顔が効いたのですが。
「ふん、揃いも揃って何か裏があることを親切にも教えてくれたってことさ。で、これからどうする?」
「戻って啓蒙活動作戦を練らなきゃならんのだが、啓蒙活動始めたら、何か起きそうな気がするな。ベル風邪について広められては困る輩がいることは間違いないし、危険だな」
「いっそ派手にやれよ。そうすれば敵さんの方からやって来て…だめだ、ロザリーがいる」
「おまえな・・・」

結局、一番怪しいドゲメーネ衛生研究所の動向を、ベルナールが監視し、アンドレは直接啓蒙活動には加わらずに、活動中の妄想隊員に近づく人物を全てチェックしつつ諜報活動を担当することに。妄想隊員の安全なんか、ちっとも心配していないアンドレですが、しっかり妄想隊長になった社長のことは気が気ではありません。外の敵に中の野郎どもですからね。


さて、また場面は変わります。

「いいか、これから我々が着手するのは啓蒙活動であって、ナンパではないことを忘れるな。もう一度だけ見本を見せるから、しっかり習得しろ!」

オスカル社長はシャンゼリゼに繰り出すと、隊員教育の最終チェックに余念がありません。数あるカフェの一つを選ぶと、隊員達に人混みにまぎれて目立たぬように見ていることを指示し、優雅な足取りで、歩道に出ているテーブルの一つに近づきました。

「ようやく会えました、マドモアゼル。覚えておいででしょうか。朝から予感があったのです、今日はあなたにお会いできると」
声をかけられた若い女性は、一言も発することが出来ずに目の前に突然現れた常人離れした麗人に魂を抜かれた様になっています。

「気のせいだろうか、寂しい瞳をしている。浮かべた悲しい色の訳を話してくれませんか?そう、それでいい。心に思い浮かぶまま。ではその心に灯りを灯して。色は…そう好きな色を思い浮かべて、それからあなたのお気に入りの場所を心に創る。

ああ、とても上手に出来た。素晴らしい。さあ、その場所はこれからは何時もあなたの内にある。あなたはそこで自由に想像の翼を広げることができる。あなたが望まぬ恐怖や不安に苛まれたときはここに戻って来るのです。そこであなたが想像する世界は、恐怖に打ち勝つ力を持つことを確信するのです。

これは当Hotelにご宿泊くださった方への形のない贈り物です。そしてあなたにお願いがある。ご家族やお友達にも想像の翼を分けて欲しい。幸せは伝染するのですよ、マドモアゼル」
 
オスカル社長はちゃっちゃと一人、落として見せました。

「わかったな、こうするのだ。けっしてデートに誘ったり電話番号やメアドを聞き出そうとしてはいけない。そして、ただ闇雲に妄想を薦めるのではないぞ。創造主の立場で力強く妄想すること、自分の望まぬ妄想に巻きこまれないこと、必ず幸福感を伴うこと、実生活が希薄になるのではなく、現実を伴う豊さにつながること。

この4点が成功裏に妄想がなされたことを確認する基準になる。分かったら、それぞれ配布したターゲットリストを持って解散!報告はその日ごとに聞く!」

花柄のちゃんちゃんこを着たままのフランソワが、おろおろとオスカル社長に質問します。
「た、隊長~。そんなこと言われたって、何か台詞集みたいなのがなくちゃ、またストーカーと間違われて通報されちゃいますよ~」

「馬鹿者!マニュアルほど危険なものはないということを知らんか!言葉に頼るな!妄想を自在に操って、心の平安を得るHOW TO を伝えたいという気持ちこそが武器だ。そこの肉体労働者風のアランと、フェミ男もどきのおまえが同じ台詞を吐いてみろ。不気味なことこの上ない。自分の言葉を使え」

「成る程。あそこからやって来る奴みたいにすればいいんですね。妄想隊長」
「隊長と呼べ!妄想を頭に付けるな、妄想を!」

おまわりさんの職務質問から開放されたばかりで、ぶすっとしていたアランが、面白いものを見るような目つきを投じた先からは、本日の【広告の品】、モノクロポロシャツでばっちり決めたアンドレが、社長と隊員一団に向かって手を振りながら歩いて来るところでした。

一分一秒も無駄にしないよう、手には顧客リストを持って、進行方向にターゲットがいれば、まるで歩くついでのように落としながら進んでいます。

「仕事速いなあいつ」
「あ、何も言わずににっこりしただけで落としちゃったぜ、すげえ」
ピエールとラサールの交わした会話に、社長の眉がぴくりと動いたのにダグーおっさんは嵐の前触れを感じて武者震いしました。

「オスカル!守備はどうだ。やあ、皆、久しぶりだな」
「ふん、ぬかりなどあるか。おまえこそどうだった」
「それが、いろいろ込み入っててな。後で詳しく話す。こっちの啓蒙活動は簡単だな。この手ごたえじゃ、市内だけなら2日もかからないぞ」

見ればアンドレの持っていた顧客リストはすでに半数以上がレチェックで埋まっています。
「おまえは啓蒙活動には関わらないと聞いていたぞ?」
「その予定だったんだが、試してみたら驚くほど簡単だったから、目についたターゲットだけは声をかけて来た。歩く速度にさほど影響しないなら、その方が効率的だろう」

さらりと言ってのけるアンドレに、どよどよする妄想隊員。いよいよ様子がおかしいオスカル社長。

「Hotel de Jardjais は女性客が多いから、あいつ一人に任せておいても大丈夫そうっすね。俺ら出る幕なさそうじゃないっすか、妄想隊長?」
ダグーおっさんにわき腹をつねられるのもものともせず、アランが楽しそうに目配せしました。この男、確信犯に間違いなさそうです。

「だから・・・」
オスカル社長が肩を震わせて大きく息を吸い込みました。
「頭に妄想をつけるな、と言っただろうが~~~~っ!何をぐずぐずしているっ! とっとと行け~~~っ!警察の世話になってももう保釈金は払わんぞ~っ」

妄想隊員達は蜘蛛の子を散らすようにパリ中に散って行きました。呆気にとられたアンドレがオスカル社長を覗き込みます。
「オスカル?何を怒っているんだ?」
無心な瞳でそう聞かれると、余計に腹が立つオスカル社長。

「怒ってなどいないっ!」
「説得力ないなあ、誰も信じないぞ、その様子じゃ」
と、原因君に言われてしまっては。オスカル社長はすたすたとアンドレを後に歩き出し、アンドレは慌てて後を追います。

「ああ俺が遅かったからかな?ごめん、ごめん。だけどあれはもとはと言えば…」
「そんなことではないっ!」
そんなことって、彼、大変な目に合ったんだから聞いてあげなさいって。
「待てよ、報告しなきゃならないこともあるんだから」
ずんずんずん。オスカル社長はより一層大またになります。

歩道狭しと並ぶカフェのテーブルの間を縫うようにして、追っかけっこをする二人はやたらと目を引きました。
「待てったら!オスカ…、あ、あなたは確か3,4日前に当Hotelに食事に来てくださった方ですね。良かった、お会いできて」

自分を追っているはずのアンドレが、若い女性に声を掛けていました。ええ、ただ彼は仕事熱心なだけなんです。寸暇を惜しんで任務を遂行しようとしている以外の他意はないのです。よくよ~くわかってはいるオスカル社長でしたが感情は別。自分だって同じくターゲットを束にして落としているのですが、それも当然別の話。

『わたしに機関銃をよこせ~っ!』

オスカル社長が声に出して叫んでしまわなかったのはまさに奇跡でした。

つづく
 

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