社長室シリーズ番外編1 

2020/07/12(日) 他サイト掲載作品


〈余談〉この作品は2004年Hotel de Jardjais さまの7月企画に寄稿したものですが、この年にはテーマがありました。イラスト専門のベルサイト「MonCoeur」の管理人小手毬さま出題のイラストぁら連想する、というお題です。そのイラストはオスカルさまとアンドレが草の上に並んでうつぶせで寝そべり、語り合っているような見つめ合っているような涼やかなイラストでした。16年も前のこと、そのイラストは手元にありませんが、そんな光景を想像して読んで下さったら嬉しいです。


 **************************

ヴァカンス



「よく、こんなところを見つけたな。パリからたった40キロ離れただけで別世界だ」
「気に入った?」

ひと夏のバカンス用に借り上げた小さな田舎農家の前庭に、アンドレが愛用のおんぼろプジョー・ダンジェル4×4からテーブルセットとバーべキューコンロを降ろしているそばで、スニーカーを脱ぎ捨てたオスカルはジーンズを膝までまくり上げ、前庭に流れる渓流にジャブジャブと入っていきました。

「おいおい、裸足は止めてくれ。川に何が潜んでいるかわからんぞ」
慌てて荷物の中からサンダルを引っつかみ、アンドレはオスカルを追いますが、その足がはたと止まりました。

ノーメイクにTシャツとジーンズというシンプルな姿でありながら、光の乱反射と木漏れ日の中で気持ちよさそうに水飛沫を跳ね上げるオスカルは、内側から輝くような美しさで輝いていたのです。

社長という重責をすっかり手放した恋人が素に戻った姿は少女のように初々しく、オフィスを飛び出した開放感で喜びに溢れていました。

それは一枚の絵画のようでもあり、オーケストラのハーモニーのようでもあり、抒情詩のようでもあり。
『あえて名前をつけるなら檻を破ったクーガの躍動、かな』
サンダルをぶら下げてボケ面を晒したアンドレにオスカルが満面の笑みをくれます。社長秘書というポジションで累積したアンドレの気苦労は、一瞬で霧散していきました。

ふたりが夏のバカンスを過ごす予定のこの村は、広がる田園風景のどこを切り取っても童話の挿絵になるような美しい場所でした。青々と豊かにたなびく牧草の丘には草をのんびり食む牛が三々五々散らばり、折り重なるように濃い緑の森が丘を取り囲んでいます。森の木立を抜けるレンガ敷きの小道を辿ると、花畑が一面に広がり。

その花畑を縫うように、ぶなやクヌギに縁取られた小川が蛇行し、川べりには点々と白い石作りの小さな家が散在していました。一軒一軒専用の白い石組のアーチ橋が小川にかかり、橋の下では鴨の親子がまるで遊んでいるように小魚を追っています。

アンドレはその川沿いの家々のうちの一軒をひと夏借り受けたのです。持ち主の老夫婦が去年の冬に亡くなるまで、大切に大切に手入れしながら暮らしていた築200年になる古民家です。

今では貴重な分厚い藁葺き屋根はびっしりと苔で覆われ、天にも届けと言わんばかりにまっすぐに草がわさわさ生えています。屋根の強度を増すためにわざわざ種を蒔いてまで生やす草です。

石造りの壁には白い漆喰が何重にも塗り重ねられ、蔦と真紅のつる薔薇が這い、太い木枠の窓辺の花台には真っ赤なゼラニウムが咲きこぼれています。家の前にはそう広くはないけれど、綺麗に手入れされた青芝が川縁まで広がっています。

青芝にはテーブルを置けるよう、レンガが円形に埋め込まれ、立派な楡の老木がその上に太い枝を広げ、涼やかな木陰を提供しています。

「アンドレ、顔が呆けている」
オスカルに突然指摘されてアンドレは我に返りました。そんな彼が可笑しくて仕方ないオスカルの笑顔から、きれいな白い歯がこぼれるようです。オフィスでは決して見ることのない開けっ広げな笑顔。

彼女のふくらはぎが水を跳ね飛ばして動くたびに、美しく発達した筋肉がすべらかな肌の下でしなやかな動き見せるさまに、アンドレはいつの間にか釘付けになっていたのでした。

ジーンズの膝上まで濡れるのも気にせず、オスカルはざぶざぶと豪快にアンドレの突っ立つ川べりへ近づきました。太腿までとは言え、水に濡れた美女が艶っぽいのは古今東西のお約束。

さあ、引きあげてくれ、と言わんばかりに手を差し伸べられれば、アンドレはすっかりトランス状態です。しかし、手を伸ばしても、もう少しのところで届きません。うーん、後もう少し。目いっぱい身を乗り出したアンドレがオスカルの手を掴もうとしたその時。ひょい、とオスカルが手を引きました。

「は?」

と思った時にはもう水面が鼻先三寸まで迫っていて。派手な水しぶきがきらきらと太陽の光を乱反射させるさまがスローモーションで見えたと思ったら、次の瞬間には大きな虹鱒が銀色に光る背を反転させる姿が目の前に現れました。

水底の葦の根の間をぬうように去っていく川の主を確認したアンドレは、素早く今夜のおかずのメインディッシュを決め、あわせて前菜、スープ、サラダ、デザートまでのコース計画と、テーブルセッティングのイメージまでを、水中で瞬時につくりあげたのでした。

きらきらと惜しみなく水中にまで降り注ぐ夏の太陽が、水底にまだら模様をゆらゆらと揺らし、光のカーテンに混じって、オスカルの嬉しそうな笑い声が頭上で響きました。

「それ、また同じ手に引っかかったな!おまえがその呆けた顔つきをした時は百発百中だ!」

       

夏の太陽はなかなか沈みたがらないものです。二人は前庭にテーブルを出してディナーを楽しむことにしました。アンドレ特製虹鱒のムニエルバジル風味バターソースと取れたてのアスパラとトマトのサラダで夕餉をとる頃も、あたりはまだ昼下がりのように明るく、テーブルに置かれたキャンドルは申し訳なさそうにゆらゆらと揺れていました。

それでも吹く風が優しく涼やかになり、やかましいほどだった小鳥のおしゃべりのかわりにカエルの大合唱が華々しく開幕すると、ようやく夏の一日が暮れようとしていることが肌で感じられるようになり。

「美しい風景と、風と水流と鳥とカエルの合奏。他には何もないんだな」
「いいや、近くの農場で朝夕売り出される新鮮なミルクとヨーグルトとバター。土の付いたままの野菜。テレビもラジオもない静けさ。贅沢だと思うよ。おまえには、物足りないかな」
「足りない?一杯すぎて…、戸惑ってしまいそうだ」
「何が一杯?」
「野暮なことを聞くな 」
ぷい、と横を向いてしまったオスカルを、アンドレは幸福にむせかえりそうになりながら見つめました。

「できれば、これもパリに置いてきたかったが…」
アンドレが少々恨めしそうに、テーブルに置かれた携帯電話にちら、と目をやりました。

「今回だけは仕方ない。この次は完璧に仕事を完結させて、二人でどこかに行方不明になろう。ここは美しいが何かあれば一時間でパリに戻れる距離だ。それだけで、100%リラックスというわけにもいかないからな」

バカンス前に仕事の切りがつかなかったために、非常の際にはパリに戻れる場所でバカンスを過ごすことを少々残念に思っているアンドレでした。しかし、そんな杞憂はバカンス初日にしてどうでもよくなりつつあるようです。

甘いアカシヤの花の香りが混じった涼しい風が、オスカルの金色の髪を時々肩先でふわりと煽ります。ゆっくりゆっくりと食事は進みました。

サラダをつつき、メインが終わり、チーズに手を伸ばす頃には、テーブル上のキャンドルの炎の揺らめきが次第にはっきりと姿を現し、グラスやワインボトルの影がくっきりと長く伸びてゆれました。

空の群青色は、一刻一刻濃く深まり、ついに宵の明星がぽつんと姿を見せました。ゆったりと流れる時間に身を任せ、大切な人と二人きり。程好くまわったワイン効果も手伝って、心がほわんとほどけると、口に出る言葉は素直になるのでしょう。

「場所などどこでもいい。この村だってわたしには天国のようだ。おまえとふたりきりで過ごす時間がわたしの贅沢なんだ」

頬杖をついて、臆面もなくストレートな物言いをする恋人。まっすぐアンドレを見つめる青い目。その瞳にキャンドルの炎がゆらゆらと妖しく映り、くらくらしてきたアンドレは大して飲み過ぎてもいないワイングラスを脇にやります。

「今夜は酒がよくまわるな」
「昼間から目を回していたぞ」
頬杖をついたまま、オスカルが口角の一方だけを上げ、ウィンクを飛ばしました。
「この悪戯っ子め、と言いたいところだが、おかげで今夜のおかずを獲得したんだからなあ。敵いません」

オスカルにはめられて川に転落した後、虹鱒を追って大捕り物を繰り広げたことを思い出したアンドレは降参ポーズをとりました。

結局頭の先までずぶ濡れになって大はしゃぎしたオスカルの、無邪気なくせににぞくぞくするほど艶っぽい姿の罪作りだったこと。アンドレの体中を流れる血潮が一気に泡立つほどでした。

オスカルは満足そうに、空になった皿に敬意を表します。

「ふふ、シェフの腕も極上だった」
「良い出来だったろ。魚の鮮度がいいからシンプルに塩焼きでも良かったんだが、新鮮なバターも手に入ったからね、凝ってみた」
「うん、完璧だ。そうだ、都合よく専任教師もいることだし、わたしも、この夏は料理に挑戦してみるか…な」
「…えっ…」

恋人が嬉しそうに口に出した思いつきは、アンドレには少々やっかいでした。注意を他に向けねばなりません。

「そ、それより釣りはどうだ?カヌーを借りてのんびり時間をかけて川を下ってもいい。それに少し奥に入ればおまえが涎を垂らしそうな、林道だらけだ。ワゴン車にはおまえのレーサー(オフロードバイク)しか積んでこられなかったけど、連絡すれば俺のもすぐ届けてくれるだろうから久しぶりにダートを走るのもいいだろ。俺が相手じゃ燃えない?」

「どうしても、私に台所は使わせないつもりだな」

恋人は流し目を送ってよこしました。アンドレの思惑などお見通しなのです。
「俺、食べ物無駄にできない性分なんだよ。せっかくのバカンスだもの、うまいもの食べたいし」
「それで、わたしは駄目と言われると返って燃える性分だという事を忘れたか~!」

カエルの楽隊が演奏をストップしました。大きななりの二人がテーブルを離れてじゃれあい縺れ合い、前庭を転げまわったので、皆安全なところへ避難したのでしょう。

ふたりは散々笑いあって食後の腹ごなしのひと暴れを楽しみました。そして、落ち着くと青芝の上にごろりと寝っころがって、空を眺め流れ星を数えました。さらさらと爽やかな水音をたてる渓流は、すぐ頭の先です。

「まだ、空に青みが残っている。こんなに日が長くなっていたのだな。一月が雑誌のページをめくるみたいに飛んでいくから、冬の次に夏が来たみたいだ」

アンドレはオスカルに腕枕を差し出しました。あつらえたようにお互いの体の凹凸がしっくりと落ちつき収まるふたりはベストポジションに納まり、愛しい重みを味わいます。

太陽が地平線の向こうでまだぐずぐずと、淡いオレンジ色の残照を空の端に残す中、天空が一番濃い色をしているところには、うっすらとミルキーウェイが浮かび上がり、時折星屑が落ちてきました。

星屑が小さな鈴の音をちりりとたてて、オスカルの黄金の髪に次々と光の粒となって落ちるような不思議な感覚に包まれて、アンドレはふわふわと鼻先をくすぐる金の雲の感触を楽しんでおりました。世界中のあらゆる光がこの髪に焦がれて集まってくるのに違いありません。

それを独り占めしている自分。はい、世界一の果報者は俺です。アンドレが、誰にともなく誇らしくも言い訳がましくなっていると、夢見心地の彼の額に、何か冷たいものがペッタンと飛び降り、げろっと一声鳴いてから、体の大きさの割にはずいぶんと力強い蹴りを入れて飛び去りました。へっ、急にと現実に引き戻されたアンドレは、くすくすと笑い出してしまいました。

「どうした?」
オスカルはごろりと寝返って腹ばいになると、アンドレを覗き込みます。
「あ…は、今、天のお告げが下ってさ、おまえを大事にしろって」
「今よりも?」
「そう、もっともっと。ずっと忙しかったものな。夏になっていたのにも気づかなかったくらいに」
「よろしく頼む」

応えるオスカルは幸せそうに伸びをしました。豊かな金髪を惜しげもなく振りまいてとろんと緩んでいても、恋人は神々しいほどに優美でした。

「大変よくできました」
アンドレも腹ばいになったオスカルのほうを向くと、片肘をついて自分の頭を支えて横になり、オスカルを見つめます。

草むら

子供ならまだ明るいうちにベッドへ送られてしまう夏の夜。ようやく暗闇が両翼を広げようとしています。月のない夜。天上を翔る神話の登場人物の顔ぶれは、少しばかり寂しい夏の夜空ですが、ミルキーウェイが素晴らしく豪華に、神秘的な全容をここぞとばかりに現しました。 

 
神秘的なのは、銀河だけではなく。かろうじて目鼻が判別できるくらい暗くなったのに、オスカルの周りだけは金色に淡く浮き上がって見えるようでした。愛しげにオスカルの髪を弄ぶアンドレの手の感触を、静かに味わっていたオスカルでしたが少し思案気に睫毛を伏せました。

「おまえは、幸せか?」
頬杖をつき、アンドレを見つめるオスカルは真顔です。さあっと瑞々しい青草の香りを風が運び、まっすぐアンドレに向けられたオスカルの顔を、一房の金糸が掠めました。

アンドレは僅かに眉を挙げ、意味が分からないといった顔つきをしました。
「俺を見てわからない?顔は緩みっぱなしだろ?」
「目尻を下げたおまえは、オフィスでの有能ぶりが嘘のように間抜けだが…」
「間抜け…」
「何と言うか…、そう、有能なおまえの部分は幸せか?と聞けばわかるか?」
「俺が有能すぎて、おまえの無茶苦茶な要求がエスカレートするばかりなのが気の毒?」
「ふふっ、それは思わないな」
「ちょっと、めげた。労わってくれるのかと思ったが」

オスカルはくすりと唇の端で笑うと、目を閉じて一寸考えました。
「わたしの無茶な要求には、おまえも結構熱くなるだろう?そんなおまえを見るのは好きだ。
 とても生き生きとしている」
「結構苦悩もしているんだけどね」
「おまえは苦境を楽しむ位の余裕を見せるじゃないか」
「おまえもね」

ふたりは顔を見合わせてにっと笑います。
いつの間にか、元の持ち場に戻ったカエルが、何重奏になるのかわからない複雑で、単純なコーラスで二人をとり囲んでいました。

オスカルはしばし、その耳に心地よい合唱と渓流の伴奏に身を任せ、草をいじったり花を摘んでみたりと、何か落ち着かないものを抱えていることを無言で訴えていましたが、真剣な面持ちになると、またゆっくりと口を開きました。

「わたしが言いたいのは、わたしのように親から受け継いだ資本などなくても、おまえなら起業できるだろうということだ。自分のビジネスの主にならなくていいのか?私を補佐する立場で一生を過ごすのか?」
「それは、俺に独立しろ、と言っているのか?」

オスカルは激しくかぶりを振りました。
「違う、そうじゃない!わたしはいつまでもおまえを手元においておきたい!けれど、おまえの可能性を摘み取ってしまっているとしたら、それも辛いのだ。正直言っておまえの本音を聞くのが怖い。だが、もう胸に抑えておくこともできそうもない。今日が…あまりにも幸せだったから」

アンドレは、不安そうに、視界からはずすかはずさないかの微妙な角度で彼の表情を伺うオスカルの肩に腕を回しました。そして目を細めてオスカルを下から見上げるとこう言いました。

「俺の巨万の富」
アンドレの大きな掌が、ぽんぽんとオスカルの背の上で軽く跳ねます。

「おまえにこの世で出会えたこと、おまえと人生を分かち合えること。それ以上に豊かな恵みがあるなんて、今のところ思いもつかないな。立場だとか、仕事の内容なんて、単なる手段に過ぎない。例えばHotel de Jardjais が倒産して屋台のクレープ屋から再出発したとしても、おまえとの共同作業だったら、一日の売り上げに一喜一憂するのだって、Hotel de Jardjais で納税額に肝を冷やすのだって、どっちも心の高揚は変わらないと思うよ」

アンドレの言葉にオスカルの瞳が大きく見開かれました。
「F1レーサーの優勝は一人のものか?違うよな。それはチームのものだ。優勝したドライバーだけが幸せだろうか?メカニックやトレーナーは優勝を自分のものと思えないだろうか?レーシングカーのメーカーは?スポンサーは?おまえは社長だけど、おまえ一人で何がきる?はは、一人でも常人外れた仕事はしそうだけど、やっぱりチームで動いているよな。俺達チームだろ。どのパートも必要だし、頂点に立つのは必ずしも幸福の条件ではないよ。 誰もが頂点に立ちたいという欲求を持つ訳じゃない。俺としては、おまえの能力を最大限に引き出す役割の方が遥かに熱くなれる。しかもその仕事に関しては俺の右に出るものはいないと自負しているんだけど?」
 
オスカルはアンドレの言葉の一つ一つを食い入るように聞き入り、おまえを語るとヒートアップしちゃうな、とアンドレはごろりとオスカルを抱えて仰向けになりました。夜露が火照った背中をしっとり程よく冷やし、抱え込んだ豪華な生き物の重みと温かな感触を際立たせます。

オスカルはされるまま、アンドレの胸に頭を預けて目を閉じ、アンドレは片手には余る豊かな彼女の髪を集めては梳き下ろす仕草をゆっくりと繰り返しながら、精神は天上を埋め尽くす銀河の果てまで上っていくようでした。

「おまえは、メカニックでいることが誇りなのだな?」
アンドレの胸元に唇を押し当てるようにしてオスカルが囁きました。

「うん、そうだな。修理工場から身を興して一代で大自動車メーカーのオーナーにもなれたかもしれないけど、天才的レーサーに出会って、その才能を目一杯開花させることに至上の喜びを感じているメカニックだ。一番好きな事に人生を費やしているから、誰が何と行っても止めないだろうな。たとえおまえでも」

アンドレの返事を聞いたオスカルは、鼻先を子猫のようにアンドレの胸に擦り付けました。その様子があまりにもいじらしく、アンドレは首を持ち上げて金髪頭に口付けます。

確か野生の豹やチーターもリラックスするときはゴロゴロと喉を鳴らすんだよな。食物連鎖の頂点に立つ獣だからこそ、とろんと溶けて甘える姿が一層微笑ましいというかかわいいと言うか…。

そんなことを考えている彼こそが、熱いパンケーキの上でメイプルシロップにおぼれて溶けるバター君と化していることを知らないアンドレでした。

「おまえは…、満足しているのだな?」
オスカルが顔をあげ、アンドレを上目使いで見上げて言いました。
「俺は自分の最も得意とする仕事を、世界一の水準でしているよ。わかった?」
「うん」
「さあ、これで仕事の話はお終い。この先はばかばかしい事と、儲からない話しかしないこと」
「例えば?」
「そうだな、デザートは?チーズとソーテルヌ?甘いものが先?」
「う…ん、胸が一杯で甘いものは入らないな」
「いや、入る入る」
「おまえは甘いものは好きじゃないくせに」
「大好き」
「それは初耳…ん…」
アンドレが恋人の首すじにくちづけを落としました。
「あ、虫歯になりそ…」

わわわ~、とカエルのセレナーデのBGM付きで、くっついたきり離れない影二つ。会話は一旦途切れました。

「デザートは足りましたか?」
躾の良いホテルマンの丁寧さでアンドレが訊ねますが、息が少々荒っぽい感じです。
「う…ん、まだ足りない」
と不満を申し立てる方も、100メートルを全力疾走した後のような息遣い。

「では、お替りをお持ちしますか」
「急いでくれ、私は低血糖なんだ」
「ああ、その病は不治ですよ。生涯ついて…ん…」

オスカルの白くて長い指が、闇の中、同じ色の髪を正確にわし掴みしました。ほー。今夜一番のふくろうが、長く尾を引いて感想をのべると、渓流のあちこちから光の屑がふわふわ舞い上がり、天と地、双方で光の川が饗宴を始めます。
楽園のヴァカンス第一夜は静かにふけていきました。

~ 続く ~

草むら
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。