社長室シリーズ2 始末書の始末

2020/07/12(日) 他サイト掲載作品



「約束が違う…」
カシャカシャ…
「宣伝に出演したら、一ヶ月のバカンスを組んでくれると約束した!」
RRRRRR!
「はい、社長室、グランディエです。ああ、ホテルリッチとの提携の件ですね。では前向きに検討中、しばし御猶予をとよろしくお伝えください。追って細かい条件等を御提案させていただいた上、文書でご返答いたします。では一旦失礼を」

ピッ。カシャカシャ…
「聞こえているか!」
「ああ、聞こえて…はい、社長室グラン…」
ブチッ。
「オスカ…!…社長!何をする!」
RRRRRR!

「はい、社長室、グランディエです。ああ済みません、回線がパンクしたようです。つないでください、あ、いえ何でもありません、どうぞ」

…なにやらもみ合う音と気配…

「お待たせしました。Hotel de Jardjais 社長室付き秘書グランディエです。社長はただいま低気圧…あ、いえ定期会議出席中ですが、…くっ、え、気、気になさらないでください。何でもありま…う…。失礼しました。書類が雪崩を起こしまして。は、アポをおとりくだされば一席設けますが、いかがいたしますか?はい、わかりました。では明後日13時にお待ちいたしております」

…もみ合う音、さらに激しく。電話を死守する男の隙をついてすばやくキーボードのDELキーを叩く、白く優美な長い指。

「わああああ、何をしてくれるんだオスカル!」
「ふん!知るか。わたしは今何を消したんだ?ん?」
「…始末書!あと一行で完成だったのに」
「それならわたしの得意分野だ。3分で書いてやる。場数は踏んでいるからな。馬暴走事件に、ケンカに、無許可発砲は2度だったな。慣れたものだ」
「…どうもそのせつはっ!」

見えないアホウドリが一羽横切っていったような間。し~ん…。
静かになりました。

「落ち着いて話し合いましょう、社長」
「ショコラ・ア・ラ・グランディエは無事発売された。売り上げも絶好調で、かねてからの念願だった収益の2割を戦災、難民孤児教育基金とする事ができた。で、めでたくわたしはバカンスに突入するはずだったのに、何なのだこの天文学的な仕事の量は何でこの期に及んで始末書なのだ!」

「簡潔に申し上げましょう。社長がCMに出演してくださったお陰で爆発的な売れ行きの為、ショコラは品薄状態。直ちに増産の手立てをとらないと、暴動が発生する恐れあり。

さらに各国有名無名ホテル、デパート、珍しいところでは、村おこし事業土産もの開発部、なんだこりゃ、リアルタイマー&フレッシュファン相互扶助会????たる機関からそれぞれオリジナルラベルでの注文依頼が殺到している。

好売り上げに隠れてはいるが、実は発売時期の問題があって調整が必要だ。本来バレンタイン以前に発売すべきところがもう7月だ。何で真夏に向けてホットショコラなんだ。そんなデタラメな企業、他にないぞ。いえ、ございません」

「売れているんだからいいではないか」
「だ・か・ら。仕事が増えたのは致し方ない」

ば~~~~ん!

デスク上のあらゆるものが、ジャンプしました。驚いたことにパソコンまでが。ついでにアンドレ君も。

「お前はそれでもフランス人か!いいか、フランス人がそういうジャパニーズアワーで働いたら、脳内回路が過負荷で飛ぶぞ。社会に貢献しようとするならバカンスは義務なのだ。心身ともにリセットし、私生活を豊かに充実させて幸福な者こそが、いい仕事も出来るのだ。よし、決めた。お前は今日の午後から1ヶ月間休暇だ」

「何も義務にしなくてもなあ。お前が先に休暇に入っていればいい。後は何とかしてやるから。言い分はわかるけど、仕事にはキリというものがある。急に今日からといっても、相手のあることだ。オスカル、子供じゃないんだから、本当はわかっているんだろ?」

「ふ…ん、今日の予定は?」
「大事な予定があるよ。忘れたか?夏の目玉商品、薔薇のソルべにちりばめる、お前の歯型のついた薔薇の花びらの為に、業者が歯型を採型に来る。7月発売に間に合わせる為には今日がぎりぎりのタイムリミットだ」
「わたしの歯型…」

オスカル社長がにまあっと笑います。アンドレ君以外には美しい魅惑の笑みにしか見えないのですが、アンドレ君にだけにわかる、良からぬ企みを思いついた時の怪しい光がきらりと綺麗に並んだ白い歯から零れ落ち、彼の背筋に冷たいものがつつ~っと走りました。

「では、それを採り終えたら2ヶ月間のバカンスだ。問答無用だ。またホゴにされぬよう社内外、取引先全てにあらゆる手段で通達しろ。一時間待ってやる。それを確認するまではわたしは歯型は採らせんぞ」

「お、おい。まるで脅迫だな。いつ2ヶ月に伸びたんだ」
「今」
「一月の約束だろう」
「約束を破ったのはお前が先だ。そのくらいのペナルティーは当然だ。何とかしろ」

「オスカル…。今日歯型が間に合わなかったらどれだけ他者に影響が出るか分かっていてそんな無茶を言うのか?」
「採れればいいのだろう?簡単だ」
「バカンスの件は努力する。けれど…」
「2ヶ月だ。びた一日たりともまけないぞ」

「オスカル、またそんな駄々っ子みたいなことを…」
「約束できないのなら、わたしはここを動かん。どうしてもというなら、わたしを拘束して力づくで採るか…」
「怒るぞ、オスカル」

「もうひとつ選択肢があるではないか。なんとわたしは寛大なんだ。わたしの歯型なら、お前の身体にいくつも残っているだろう。そこから採れ。二の腕はもう、消えた頃だろうな。肩も少し薄くなりかけていた。くっきり残っているのは2箇所か、ふふ」

爆弾発言。
アンドレ君は珍しく真っ赤に染め上がってしまいました。それを見たオスカル社長は満足そうにこう付け加えます。
「おまえはどんな事があっても責任を果たす人間だからな。わたしがいやと言えば、その位の恥はかいてもやり遂げるのだろう?」

しばし、言語障害に陥ってしまったアンドレ君でしたが、その内流石に一度くらいはびしっと釘をさしておかねばという使命感がむらむらと湧き上がってきたのです。

「わかった」
「そうか!じゃあ、2ヶ月…」
「歯型採取には俺が行く。いい事を思い出させてくれて助かったよ」
「え……!」
今度は社長が言語障害に陥る番でした。

「いいんだな。俺は本気だ。社長の歯型ならここです、と言って脱ぐぞ」
「うっ…」
「それで、薔薇園、デザイン会社、食品加工業者、広報部、企画部の今までの努力が無に帰せずに実るなら、どうってことはない」
「や…っ。やれるものならやってみろ」

両者睨み合うこと5分が経過。無理やり余裕の笑みを浮かべたアンドレ君と、明らかにパニックを起こしている社長。分の悪そうなのは社長でした。でもその様子すら美しいのですから見上げたものです。両者一歩も譲らずさらに3分が過ぎたところで。

「参りました。降参です」

予想に反し(誰の?)先に両手を万歳したのはアンドレ君でした。そうです、彼が社長にかなう筈がなかったのです。社長が少しでもいたたまれない思いをする行為、即ち人前で脱いだり、個人的なコミュニケーション(?)の名残を披露するなどということを、アンドレ君ができるはずがありません。

つまり最初から脅しにも何にもなっちゃいなかったんですね。気づかなかったんですかねえ、二人とも。それにしてもアンドレ君、脱ぐとしたら靴下程度ではどうやら済まないようですな。

それはともかく、アンドレ君、睨み合っているうちに、社長の本当の意図するところが見えてしまったのでした。

駄々を捏ねて部下や取引先を困らせることなど社長の本意ではないのです。我侭言って見せるのは一人だけ。いざとなれば何を犠牲にしても責任を全うする社長なんです。一見強くこだわってみえるバカンスに対する執着だって、実際にはどうでもいいのです。

まあ、まるっきりどうでもいいわけでもないでしょうが、彼女の願いはただひとつ。

その時です。
RRRRRRR!

「はい、Hotel de Jardjais 社長室、グランディエです。やあ、ベルナールか、元気そうで何よりだ。え?優良企業が果たす国境を越えた社会的貢献についての特集を組む?インタビューね、悪いが社長のアポは再来月以降まで取れないんだ。予定が詰まっていてね。いや、とても大事な予定だからどうしてもはずせないんだ。またその頃かけてくれ。それじゃ」
ピッ。

社長の半径3メートルほどのスペースが、ぱあっと目も眩みそうな黄金の光で輝いたように見えました。その中心で更に眩く燦然と花開いた笑み。できること以上のことでもしてやりたくなってしまうではありませんか、この笑顔を見ることができるなら。

アンドレ君はすでに完全無条件降伏状態ではありましたが、彼女の笑顔にノックダウンする前に何とか制御すると、傍らの紙片に何やらさらさらとペンで走り書きしました。

「一つだけ、こちらの条件を呑んでいただければ、全て社長の望み通りに計らいましょう」
そう言って彼は紙片を二つに折りたたみました。
「何だ?」
「ここに書いてあることを、はっきりと声を出して読み上げてくだされば、それで結構です」
「そんなことか、貸せ」

社長はアンドレ君からメモを取り上げると、内容の確認もせずに一気に読み上げて。
「寂しいからもっと傍にいて。…あ…」
読んでしまってから、いい色に染め上がった社長でした。
「O・K、オスカル」

アンドレ君が嬉しそうに笑います。そして頬を染めたまま、突っ立っているオスカル社長に、いかにも業務連絡といった風にてきぱきと予定表を読み上げました。

「では、本日14時、予定通り型採りの後、定期常任委員会出席、総裁Mを交えての上半期事業報告を兼ねたディナーが19時。そして明日以降の予定は全てキャンセル。わたくしは、事後処理のため明日一日いただきますが、明後日より休暇に入らせていただきます」

読み終えたアンドレ君の目が、『一日だけ辛抱して』と訴えているのに応えるように、装った仏頂面から喜びの表情がはみ出ているみょうちきりんな顔つきでオスカル社長がこう言いました。

「2…2ヶ月とは言ったが、その間でも、緊急度に応じて私への連絡をとりつけることを許す。取捨選択の判断はおまえに一任する。通常通りだ。その条件のもとで明日以降のスケジュールを処理しろ」

そして、ぷいっと顔をそむけると退出するべく、つかつかとドアへ向かいます。さっと立ち上がったアンドレ君が、社長を追い越し、ドアを開けんとノブに手をかけ、まわしながらそっと社長の耳元に囁きました。

「そろそろ、秘書操縦方法を学んではいかがですか? 頭脳明晰なあなたに似合わず、秘書の使い方に関してだけは、いつまでたっても回りくどくて効率が悪い」

半分照れ隠しの怒ったような顔に、頬を上気させ、抗議の意をこめて睨みあげた青い目を潤ませた社長。そんな反応がかえってきてはアンドレ君。鉄の自制が跡形もなく吹っ飛び、ドアノブは急遽逆回しされました。

豊かに波打って流れる黄金の海に顔を埋め、かぐわしい香りを自分の身体いっぱい満たしたアンドレ君が、社長を全身で抱きしめると、僅かな社長の緊張が感じられたのはほんの一時で、抗い難い引力に引かれて薔薇色の唇に吸い込まれるように自分の唇を乗せる頃には、社長の両腕もアンドレ君の首周りにしっかりと回されていたのでした。


「さて…と」
両腕まくりをしたアンドレ君。
「頭を下げてまわる人物リストはこれでいいかな。ショコラが好評だったお陰で、順次発売が決定された商品群の開発ももうしばらく先送りになるな。しかし、このネーミングだけは   勘弁して欲しい。

『青いレモンのレモネード』『冷めても美味しいショコラシャワー』『媚薬ワイン、黒葡萄の誘惑』『空への発泡酒』『G線抜きのアリアCD集』『人生の正念場で便利に使えるG風台詞と詩集』…。気のせいかな、恥の切り売りのような気がするんだが…。

いずれにしても、企画、開発、製作、広報全てスケジュールの組直しをするとなると、始末書提出先も増えるなあ…」

忙しくキーボードを操作しながら、アンドレ君はひとりごちます。
「オスカル、始末書はね、とっくにおまえよりも俺の方が熟達しているんだよ。なんせ踏んだ場数が違うからね」

鮮やかな手つきで次々と書類を仕上げていくアンドレ君の脳裏には、さっきのオスカル社長の輝く笑顔が変わらず輝きを放っていました。

我侭社長。その一面を知っているのはアンドレ君だけなのですが、そのアンドレ君にさえも、社長は決して野放しで我侭放題を尽くしているわけではないのでした。アンドレ君の受け止めきれる範囲をちゃんと分かっていて、その限度を越えて甘えることを絶対にしないのです。

「休暇の間でも、おまえの判断で私への連絡取り付けを許す」

結局、アンドレ君の問題処理能力を超えた事態にならないよう、コントロールされた甘え方をしているのです。でも、そんなオスカル社長だからこそ、アンドレ君は、いつかそう遠くない未来、そんな制御などなしにオスカル社長が何も心配せずに甘えられるだけの男になりたいと思うのでした。

「もう少しだけ、待っていろ、オスカル」

Hotel de Jardjais 社長室は、すっかり濃い緑に覆われた桜の梢を、さわやかに揺らす初夏の風に満たされて、静かに時を刻みます。ちょっとしたドタキャン騒動が起きるまで、あと少し。アンドレ君は、大きく深呼吸して精神統一して備えたのでした。

終わり
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