9.始動の痛み

2017/09/03(日) 暁シリーズ
1789年7月23日

俺は一昨日から世話になった医師から聞き出した市内の結核患者を多く手掛けた医師宅を訪ね歩いていた。日中なら何とか建物のおおまかな輪郭が区別できたので、時間はかかるが何とか移動ができる。
馬車止めに躓いて転倒したり、疾走する二輪車に接触したりして縫ったばかりの傷が大出血するという失態がオスカルにばれて、泣かせてしまった。より慎重に動くことを厳しく自分に言い渡したが、止めるわけにはいかなかった。

以前、オスカルと暴動に巻き込まれて負傷した時には、3週間もベッドで暮らしたが、それだけで驚くほど体力が落ちた覚えがある。筋力も落ちて、怪我が癒えても元通りに動けるようになるまで、寝込んでいた倍の日数がかかった。目を痛めた時も足元がふらついていたのは視野の問題ばかりではなかったのだろう。

一日も早く動けるようになりたかったので、まだベッドから降りられないうちから手足を動かし始め、眩暈に逆らいながら足に体重をかけるようにした。ラサールに頼んで馬の蹄鉄をいくつか部屋に持ち込んでもらい、足首にかけて歩いた。最初の頃こそロザリーや医師に叱られたが彼らもじきに匙を投げた。

とにかく、結核という病に対する知識が欲しかった。そして、世話になっているサン・クレール邸から出来る限り早急にオスカルを連れ出したかった。一人歩きを始めてしまった『バスティーユの女神』信仰はあまりにも巨大になり過ぎた。サン・クレール男爵には感謝しているが、正直なところ今は誰も信用できない。オスカルが特定の個人と深く関わることは避けた方が賢明だ。

パリ市内の環境も病に良いはずがない。屋敷が立派でも日照条件の悪さや空調の悪さは避けようがない。住宅密集地帯の各戸から煮炊きや暖房の煙が吐出される季節が到来するとパリの大気汚染状況は最悪になる。

ここ、サン・トノレ街はこと建物が密集し、足りない敷地を補うために建物が上へ上へと継ぎ足された結果、昼間でも太陽を拝むことができない状況だ。パリのの給排水環境が劣悪なのも有名な話で、歴代の王が対策を試みたが人口増に対策が追いつかないでいる。

飲料水だけを気をつけてもあまり意味がない。この町で焼かれるパンにもあらゆる料理にもセーヌの水が使われている。もちろん食器洗浄も洗濯も。一度入れば二度と再び生きては出られないと言われるオテル・デュー病院から垂れ流される死に行く人が排出する汚物をそのまま飲み込むセーヌの水が、あろうことかパリでは一番上質なのだ。加えて、郊外から持ち込まれる食料は恐ろしく鮮度が悪い。

生活諸条件がパリよりはましなヴェルサイユだって、それなりの余裕のある階層なら、病を得れば転地療養に行くのが常識だった。オスカルはやりかけた仕事を放り出してパリを離れることには難色を示すだろう。だがいつまでもここにいては、オスカルの残った体力を悪戯に消耗させるだけだ。何か方策を考えなくては。俺は焦っていた。

環境を変えようと言っても、オスカルが自分だけに贅沢を許せるかどうかは疑問だ。この街の住人は老いも若きも病める者も、この劣悪な住環境で生き抜いているのだから。だが、ヴェルサイユの屋敷での生活環境に慣れた体を、パリでの厳しい条件に適応させるのは、健康状態が良好であっても簡単なことではない。

旅行者はこの町に到着して慣れるまでは必ずと言っていいほど消化器系の不調を訴えるし、不眠と疲労で憔悴している。まして、抵抗力の落ちていえるオスカルには想像以上の負担がかかっているはずなのだが、辛い体でよく耐えている。そんな並みの軍人より軍人らしいオスカルを誇りに思うけれど、今は切ない。

最初に俺がしたことは、往診に来てくれるボランティアの医師を質問攻めにしたことだ。藁にも縋る思いで結核という病の全体像を知ろうとした。オスカルのために長いこと情報収集と整理を重ねて来た中では人間観察が重要だった。そして、必ず多方面から裏を取ること。

情報ソースの間に人を介せば介するほど、媒体になる人間の無意識の主観や思い込みが情報に混じり込む。重要度の高い情報であれば、直接情報源から収集したい。

俺はその法則に従った。労咳は一般的には死の病と言われて恐れられている。だから、そうだと決めつけてあきらめてしまうこともないだろう。それはただの人の噂だ

全く動けないうちはそれしか手段がなかったせいもあるが、交代で診察に来てくれる医師達に俺は矢継ぎ早に質問を浴びせた。怪我人のくせに、肺病のことばかり聞きたがる俺に医師らは当初困惑気味だったが、俺がしっかり正気で熱による幻覚症状を起こしているのではないことを確認すると、彼らは時間の許す限り俺に説明してくれた。

何人か医師に話を聞くうちに、医師によって見解が分かれることがわかった。滋養と休養の重要さに関しては全員が同意するところであったが、患者の予後、余命に関しては大きく開きがある。つまり、肺病の予後は限りなく未知数だと言えないだろうか。

3人の医師に訊ねただけでこうも見解が違うのなら、もし100人分証言を集めたら?1000人なら?予後の良し悪しを左右する条件が浮かび上がっては来ないだろうか。その方が一般的な認識よりもずっと信憑性がある。対策も立てられる。

一筋の光明が見えて来た。俺は動けるようになるに従い、最初は屋敷内を把握し、屋敷周辺を探索し、半日程度ならぶっ倒れずに動けるまで体力を取り戻した時にはもう路上に飛び出していた。その頃になると医師は呆れて忠告もしなくなった。
初日に3人の医師宅を訪ねて目を回して転倒した。翌日は5軒まわり、馬車と接触したために胸の傷が血を吹いた。殴りかからんばかりに怒ったオスカルのために、その翌日だけは1日大人しく集めた情報を頭の中で整理し反芻した。記憶が鮮明なうちに読み書きのできるジュールの協力を得て情報を書き留めた。

当初呆れ果てていたロザリーがベルナールの手による内科医リストを手渡してくれた。
『1日5軒までなら読んであげるわ』
ロザリーは無条件でオスカルの味方だから、しっかりと俺に条件を突き出したが、ロザリーとてオスカルの闘病に無関心でいられるわけがない。二人の協力に頭を下げ、俺は再び街に飛び出した。

その夜、邸に戻ったオスカルから微かな血の匂いがした。ホールで出迎えた俺からオスカルは逃げるように立ち去ろうとしたが、堪えきれずに咳き込んだ。思わず掴んだ彼女の手首は熱かった。オスカルは人知れずどれほど喀血しているのだろう。俺は後に自分の早急さを激しく後悔することになるのだが、もう黙ってはいられなかった。

オスカルについて来たらしい数人の男の気配がサン・クレール邸玄関ホールにあった。すでに日が落ちて、俺の目で判別できるものはは壁面取り付け照明の灯りだけだった。俺は感覚を全開にして客人の正体を見極めようと注意を集中させた。

人数は3人から4人。高価な葉タバコときつい香水の匂いがする。髪粉の匂い、真新し革の匂い、細かい金属音、硬質な靴音。民兵ではない。将校だ。おそらく国民兵兵中央司令部付きの将校だ。こんな時刻に訪問して来るということはオスカルに非公式の要請を持って来たに違いない。多分、国民衛兵の宣伝塔として動くための算段だ。

オスカルの願いも虚しく市民は残虐行為を続けていた。国民衛兵隊司令部は予測し得たにも関わらず、ヴェルティエ・ソーヴィニ(ネッケル更迭後財務総監に就任。パリ市民から激しく憎悪されていたパリ総督)の虐殺を防ぐことができなかった。オスカルはこの件で強い衝撃と挫折感を味わっていた。

飢えはパリの秩序再建に絶望的な影を落としていた。暴力も強盗も飢えの前では正当な権利とばかりにパン屋と小麦商に憎悪が向けられ、略奪は日常茶飯事となった。パンの値上がりは問答無用に貴族の陰謀であるとされた。貴族を顧客としていた贅沢品製造ギルドは顧客の亡命を生み出した革命にも、逃げ出した貴族にも双方へ怒りを表出した。

同業者組合内対立、労使の賃上げをめぐったデモと攻防、あらゆる社会の歪みが敵意となって噴出した。なお悪いことに、国王はパリから軍の撤退を約束したにも関わらず、市民は依然として国王軍の脅威に怯える毎日を送っていた。

無法地帯と化したパリは殺戮の都に変貌しつつあった。オスカルが諸刃の剣と呼んだように、市民は保護を求めながら暴力に走っている。この騒乱に秩序をもたらすために、利害が対立する雑多な寄せ集め集団である国民衛兵隊を早急に正常な治安維持機関として機能させる必要があった。外国人傭兵で構成された国王軍を市民は全く信用していないどころか、敵と見なしていたからだ。

国民衛兵総司令官に任命されたラ・ファイエット侯爵は、巧みに芝居がかったパッフォーマンスと弁舌で民兵の愛国心を煽り、士気を高める演出を操った。国民衛兵に対してだけでなく、候は失墜した王権の空白を埋める人民の寵児として活躍した。あらゆる軍事行事に参列し熱弁をふるい、貧民救済活動をアピールし、政治外交家となり、民衆と国王の調停者となった。候は下層市民からの人気と憧憬を利用して爆発寸前の不満が暴力に置き換えられぬよう、出し物的な演説まで披露した。

しかし、彼は国民議会副議長でもある。議会は立憲君主制度設立のために日々紛糾していた。国王に与える権限にせよ、新税法にせよ、憲法制定にせよ、出口の見えない議論が続いている。

ありていに言えば、候は大風呂敷を広げすぎた。そこで彼はオスカルのカリスマ性に目をつけた。オスカルを引っ張り出せば自分の英雄的な影が霞むというリスクをよく理解していたにも関わらず、候はオスカルを必要とした。階層ごとに利害が衝突するパリ市民にあって、オスカルは全ての層から支持を得ている。貴族でありながら民衆の支持を得たオスカルは、内部分裂で瓦解の危険を孕む国民衛兵を統括するには持って来いの人材だ。

一方、注目されることなど本意ではないオスカルは、英雄ラ・ファイエット候の人気を妨げない為に、愛馬ブランシュを元フランス衛兵隊パリ駐屯舎へ預け、俺がジャルジェ家から乗ってきたトルナードに乗っている。ビジュアル的な演出も抜かりがない候のトレードマークである彼自慢の美しい白馬と、自分の愛馬の背格好が似ていることを考慮したからだ。

『けったくそ悪くて虫唾が走るぜ』

とはアランの弁だが、条件(*)付きの票をやっとかき集め、ぎりぎりで議員に当選した候はその条件に縛られて今まで表立ったか革命的な行動がとれなかった。バスティ―ユ陥落の知らせと、一夜にしてパリ中に知れ渡ったオスカルの名を、候は歯ぎしりして聞いたに違いない。
(*)(三部会の身分別討議と表決方法に反対を唱えないという条件で選出された)

今や水を得た魚のように英雄としてふるまう候を元フランス衛兵は冷ややかに見ている。反逆罪で斬首される覚悟を持って反旗を翻した彼らにすれば、何のリスクも負わなかった候は、バスティ―ユ陥落をきっかけに反転した政情の波に乗って颯爽と現れた張りぼての英雄にしか見えないのだ。オスカルに厳しく諫められているので元隊員たちは決してそれを声に出しはしないが、皿の上のステーキを猫にさらわれた気分なのだろう。

俺はむしろ派手に立ち回る候に感謝したいくらいだ。彼がいなければ、今頃オスカルが革命のヒロインとして祀り上げられているかも知れない。ラ・ファイエット候のように人気を利用して隊を統括し、空っぽの胃袋を抱えた民衆の憤りを愛国心にすり替える演出で秩序を再建するやり方はオスカルには馴染まないが、候には合っているのだろう。綺麗ごとを言うつもりはない。政治には取引も裏表もつきものだ。清濁併せ呑む計算高さは政治家に必要な資質だから、それはそれでいい。

ただオスカルに候の役割の一部を求められるとなると話は別だ。オスカルに彼のやり方などできるわけがない。候の手足として働くことは彼女の精神を侵食する。俺は咄嗟に前へ進み出た。

オスカルが着替えを済ませ、重い足取りでホールに戻って来た時、客人の姿は消えていた。
「これは…、一体どういうことだ?」
「お引き取り願った」
「な、なんだと。勝手な真似を!」

俺は息も継がずにオスカルの抗議を塞ぐように言い切った。
「部下の動揺を考慮して公にしていないが、オスカル・フランソワはバスティーユ侵攻時に負傷し、その後の無理が祟って酷い気管支炎も併発併発している。今後とも役に立ちたい所存であるが、そのためにも一時の休養が必要だ。今夜はご依頼の件に前向きに返答を差し上げるつもりでいたが、身体の不調が自制を超えてしまったため、無責任な結果を避けるためにも辞退申し上げたい。ご足労願った上にこのような返答をお返ししなければならないことは大変遺憾であるが、どうかご理解いただきたい、と申している、と伝えた。客の一人はキュスティーヌ将軍だったな。彼は俺を覚えていた。この男の言うことなら、ジャルジェ准将の意向に間違いないからいったん依頼は凍結しよう。非常に残念だ。何れ連絡を請う、と伝えてくれと言って他の二人を連れて帰って行った」

俺も自分の行動に驚愕していたが、オスカルも俺のあまりの独断的な行動に言葉を失ったように唖然とした。

「オスカル、済まない。自分勝手も甚だしい行為だった。だが、おまえはもう限界だ。わかってく…」

パシッと左頬にオスカルの平手が飛んだ。。力のない一撃。殴るというよりは訴えるような、諫めるような。そして俺の襟元をぐいっと引っ張るとついて来いとばかりに踵を返した。

怒っていないはずはない。主従の関係なら、俺はとんでもなく立場を逸脱した行動を起こしたのだ。言葉が見つからなかったのだろう。だから、表情を読み取れない俺に分かるように身振りで示したのだ。ならば、もっと力いっぱい殴れば良いのに。俺を殴った後、一瞬オスカルは逡巡した。俺の勝手なふるまいを一喝しようとして、自分自身を振り返ったのだ。

部屋に戻ると、オスカルはどさっと寝台に腰を降ろした。何も言わない。俺は寝台に近づくと、静かにオスカルの肩に手を置いた。振り払われるかと思ったが、オスカルは拒まなかった。黙って俯いている。そっとオスカルの肩から頸を伝って頬をに手を滑らせると、彼女は両手で顔を覆って両肘をついていた。怒鳴り散らされるより、この反応の方が俺には堪えた。

「今更身体を労わって少々寿命が延びたところで何がどう変わると言うのだ。同じ朽ちるのなら、わたしなど最後まで有効に利用し尽くせばいい、邪魔をするな」
これほど投げやりやりに言い放つオスカルは見たことがない。言葉通りに受け取ってはいけないと思った。言外に何を訴えてるいる、オスカル。
「おまえは朽ちたりなどしない。だから悪いと思ったが止めた。まだ間に合う」
俺は持ち歩いている紙片を数枚、懐から取り出すとオスカルに渡した。

「本当はもっとたくさんの症例を集めて、労咳の予後と療養条件との因果関係を叩き出してからおまえに見せようと思っていた。たった数日でこれだけ参考資料が集まったんだ。時間をかければもっとはっきりするよ。俺は今諦めて後で後悔するのは嫌だ。おまえは?」

紙面を繰る音がするが、オスカルは何も言わない。息遣いが震えていた。
「明日の朝、顔を出すよ。本当に悪かった。うがい用の薬湯と熱さましを頼んでくる」
「おまえが毎日出歩いていたのはこの為だったのか」
「そうだ…。心配かけて悪かった。他に何か欲しいものは?」
もの言いたげな気配だけが伝わって来たが、返事はなかった。

翌朝、オスカルの部屋を訪ねると、すでにオスカルの姿は無かった。少しづつ歩けるようになっていたジャンがつい先ほどオスカルが出て行くのを見たと言う。俺は慌てて往来に飛び出した。

「オスカル!」

大声で呼んだ。頼む、返事を返してくれ。そうでなければこの人通りの多い街道で俺にオスカルを見つけ出す手立てはない。

「オスカル!どこだ!返事を…」
石段を踏み外してよろけた俺の腕を、誰かが後ろから掴んだ。オスカルだった。声を聞かなくてもすぐにわかった。
「ここだ。大きな声を出すな」

急いで振り返り、オスカルを掴む。熱っぽい体。このままずっと捕まえていないと何処かへ行ってしまいそうだ。良かった、返事をしてくれて。この熱がオスカルの命まで溶解してしまいそうで恐ろしい。急に動いたせいか、酷い眩暈に襲われた。ぐらついた俺を支え、オスカルが長い息を吐いた。

「おまえに見つからないうちに出掛けてしまおうと思ったのに、呆れた地獄耳だな。そんなに危なっかしい足取りで飛び出して来られては気づかぬ振りもできないではないか」
「こんなに早くから…」
「礼儀を欠いた詫びは早い方がいいだろう」
「詫びを入れるだけか?」
「そんな顔をするな…」

二人とも言葉に詰まった。往来を行き来する荷馬車のの車輪の音、朝の、朝のミルク売りの歌うような口上、路上に屋台を広げる準備をしているコーヒー売りのカップ類が触れ合う音など、生活音がどっと押し寄せる。今日も朝から日差しが強い。オスカルの手を取る、ゆうべから熱は引いていない。どうしてそこまで自分に鞭打つ。痛痛しくて見ていられない。
「そのその顔を見たくなくて、内緒で出かけようとしなのだ」
自嘲気味にオスカルがつぶやいて、手を引いた。

「オスカル、昨夜は俺が悪かった。だが引き止めなければ、おまえはどこか…死に急いでいるように見えてならない、何がおまえを駆り立てている?なぜ歩調を落とすことを恐れる?全力で駆け抜けて来たおまえだ。時には並足を自分に許してやってもいいのではないか?」

オスカルの表情はわからないが、彼女の動揺が波のように伝わってくる。オスカルの存在感が陽炎のように薄く溶けて行くようで、俺は右腕でオスカルの頭を抱き抱え、胸元に引き寄せた。オスカルは拒むでもなく俺の胸に頭を預けた。

「熱がある。頼むから、いっときでいいから立ち止まってくれ。確かに今は大事な時期だが1年後でも2年後でも社会は同じようにおまえを必要とするだろう。無理に燃え尽きようとしないでくれ。おまえが健康を取り戻すためならどんなことでも手を尽くしてみよう。そうさせてくれないか?」

オスカルは俺の右鎖骨の上に頬を預け、包帯の上から俺の左胸をなぞっていた。2、3度掌を往復させると、俯いたまま小さく囁いた。
「…だ」
「え?」
「駄目だ。アンドレ、私に構うな」
「何を言っているオスカル」
「おまえこそ満身創痍でわたしに優しくするな!わ・・・わたしは生きていても、永えば永らうほどおまえが苦しむ期間が長くなるだけだ。無理に引き延ばして何になる。私に何も期待するな!望みをかけるな!応える自信などない!早く決着をつけてしまえばいい!」

ガタガタと大きな車輪を軋ませて、二頭立てであろう荷馬車が俺達の背後を地響きを立てて通り過ぎた。藁とかび臭い木の匂いが、熱風にのって俺達を煽る。何を言いたい。何が辛い。おまえが構うなと言う時は助けを求めている時ではないのか。

「オスカル…本気で言っているのか?」
オスカルは後ずさった。俺は離すまじとその腕を引き寄せる。
「触るな!」
離さないでくれと聞こえるのは俺の買いかぶりか、オスカル。そうでなければ、出せ。開放してしまえ。その絶望的な叫びの裏にある本当の望みを。そうして楽になれ。

「余程体が辛いのだろう、今のおまえの言うことは一時的なものだ。信じない。今は何の判断も下すな!」
「離せ」
「離すもんか」
「もう沢山だ。わたしはおまえの目を二つとも奪っただけでは足りずに胸に穴を開け、腕の自由を奪い、そんなおまえを一人パリに放り出そうとしているのだぞ。この上肺病の脅威におまえを晒せというのか。そんなことをしたら、わたしは自分を憎み抜いて狂うか、さもなければおまえを憎んで殺してしまうかのどちらかだ!」

そんなことがあるはずはない。俺が目覚めた夜に、俺達は互いを取り戻したのだ。今更病だの過去だのがどれほどの説得力を持つと言うのだ。この10日間の過酷な生活と、身体の衰弱がオスカルのしなやかで強靱な精神力を蝕み始めている。

早く抜け出させなければ。今のオスカルにはその力は残っていまい。

「では、殺せ。それでおまえが解放されるなら今ここで俺を殺せ。それが出来ないなら、おまえが本当に心底早く決着を付けることを望んでいるなら、俺がおまえを殺してやる。それで楽になるか?!」

「おまえにそんなことができるものか!」
「それがおまえの魂からの望みなら、何だってできる」

オスカルの膝から力が抜ける。肩を抱きかかえるようにして支えた俺の足取りも危うい。二人ともボロボロだ。
「ふふん、脚を折った馬を、おまえは楽にしてくれるというのだな?」
「それが望みか?」

オスカルは壊れたように鼻で笑った。俺はただ追い詰めてしまっただけだろうか。

「私の望みは…」
オスカルは途中まで言いかけると、長く苦しい息を吐いた。
「おまえが…これ以上私に…おまえの人生を費やさないことだ!殺すことまで厭わない重過ぎる愛情から自由になることだ!」

そう叫ぶと、オスカルは今度こそ俺を突き飛ばし、馬に飛び乗った。もう少しで彼女の心の底に堆積したもの吹き出てくると予感したのだが、オスカルはぎりぎりのデッドラインで踏みとどまった。俺は、自分を叩き壊してしまいたいほど憎んだ。

        ~to be continued~

2004.7.25
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