8.折り返し地点

2017/09/03(日) 暁シリーズ
1789年7月22日

ベルナールを通してロべスピエールから私信が届いた。

親愛なるオスカル・フランソワ

パリの蜂起で流れが変わった。外国人傭兵部隊と近衛兵に包囲された国民議会はその機能を失い、一時全員が殉職を覚悟したが、バスティーユ陥落をきっかけに生き返り、今や国王は我々の側にある。議会が議会たる仕事が再開できそうだ。必ず憲法を制定させ、人民のための新生フランスを再建国して見せるから、必ず見届けて欲しい。それまでパリをよろしく頼む。友より。

憲法制定国民議会がまだ三部会だったころと同じ彼の熱い志が短い文面からほとばしる。友より、の署名が嬉しかった。彼は彼の仕事をし、わたしはわたしの仕事をする。『パリをよろしく』。つまり、権力の空白が生み出した無法地帯パリを崩壊から守ること、これがわたしの新しい仕事となった。

ヴェルサイユからパリに出動した時にはこのような展開が未来に待ち受けているなど想像すらできなかった。ランベスク候率いる竜騎兵が市民に発砲した瞬間を分岐点に、わたしは志を同じくする部下とともに斬首を覚悟の上反逆者になることを選んだ。選んだはずだった。ところが、蓋を開けてみると、国王陛下は蜂起した市民に寄り添うことを選ばれた。

貴族社会に対して反逆者になったことは確かでも、わたしはパリ市民に受け入れられ、国王陛下が承認された国民衛兵隊を率いる臣下として据え置かれた。明日の保証なく、今を生きることが全てと選んだ道には明日があった。

議会が紛糾しているように、国民衛兵隊も内部瓦解の危機にある。革命が大量の亡命貴族を排出した後、市民兵を引率できる将校の絶対数が足りない上、市民兵の反発が激しかった。市民兵の中でも大ブルジョワ、小ブルジョワ間で対立し、ディスクトでは最下層にいる市民から反発を受けた。治安維持と平行して産声を上げたばかりの国民衛兵を正規の軍隊として育て上げること、わたしの新たな役割は二兎を追う形でスタートした。

バスティーユ後、英雄としてフランス衛兵の人気が急上昇したことを受け、わたしは彼らに市民兵の教育を委ねてみたいと考えた。彼らなら市民兵も受け入れやすいに違いない。年若い元部下達にはかなり過酷な要求ではある。自分の父親と変わらない年代の志願兵に銃器の扱いを教え、戦法の基本を教え、軍規を守る意味を説くのだ。英雄と言う賛辞に舞い上がることなく謙虚な姿勢で技術伝達することで市民兵と元正規軍の溝を埋めて欲しい。

彼らにはまだまだ教え足りないことばかりだ。だから、わたしが任された第三師団の配下から外れる元部下も含め、訓練要綱の配布と実地訓練、文字の読めない兵士には講義を計画している。そして、当面の大問題は、元部下達が国民衛兵隊登録資格を満たしていないことだった。一定額以上の納税者であること、制服や銃器を自弁で賄う経済力を持っていること。これらの条件を満たしているのは三分の一ほどだろうか。彼らは即戦力と指導者として絶対に必要だから、彼らを排除することの損失を市当局に上申し、何度も交渉を重ねている。

こと交渉に関してはアンドレの方がわたしよりよほど才能がある。粘り強く忍耐強く、理論建てた説明も、比喩を用いた感覚的な訴え方も巧みで、しかも人あたりが良いと言うおまけ付きだから、彼が元気だったら一任していたはずの仕事だ。日々の治安維持も毎日容赦なく遂行しながらだから、連絡調整抜かりない彼の不在はきつかった。

アンドレが負傷していなかったら。彼の視力が正常だったら。私が健康だったら。この三つが全て揃っていたら。与えられた使命を果たすために生涯かけても悔いなしと天地天命に誓うことができる。どれほど毎日が充実するだろう。山積する問題を愛おしむことさえするかも知れない。と、気づくと日に何度も詮方ないことを考えているわたしがいる。少しまいっているのかも知れない。

出動を前に、今しか持たないわたしたちが一度は諦めた未来。いざ、可能性を与えられ、それに手を伸ばそうとすると、なぜかわたしは恐怖を感じるのだ。怖い。わたしは生きることを、生き抜くことを選択することを恐れている。

死を覚悟する。それはある意味楽な道だ。捨て身になる大義名分のもと、いずれ訪れるだろう大切な人との別れの準備を固めることができる。始めから未来への望みを持たないことで、別れの衝撃を和らげようとする自己防衛が働く。生きる努力のために目の前の使命から手を引く勇気も必要ないから、出動前のわたしたちのように、今を燃え尽きることだけを考えていれば良い。

生きる、と決めれば。生きるための闘病の果てに敗れた時の別れがより辛くなる。天涯孤独の身の上になった盲目のアンドレを一人置き去りにするだけでなく、与えた希望を再び奪い取ることになる。未来を手にするわずかな可能性を追うよりも、別れがアンドレに与える悲嘆を和らげたい。彼にはわたしに期待せず、初めから諦めを持って、ただ最後の日々を愛おしみながら別れの心構えを準備して欲しいと願っている。

わたしらしくない消極的な姿勢だと自分でも思う。身体の不調がこれほどまでに精神を弱くしてしまうとは思わなかった。未来を勝ち取る挑戦を選ぶか、守りの人生を選ぶか。わたしは新たな分岐点に立ち、どちらも選べないでいる。

それなのに、アンドレがどんどん先に進んで行ってしまうのだ。失明によって、彼は今までと同じ形でわたしの軍務を補佐することができなくなる。けれど、わたしがぐずぐずとその現実に向き合えないでいる間に彼の方が何かを先に吹っ切ったようだ。

アンドレが起き上がれるようになったすぐ翌日、邸に戻って見ると彼はすでに屋敷内をすっかり把握し、助けを借りずに移動できるようになっていた。自分もまだ貧血に苦しみ、銃創による発熱があるのに、負傷兵の世話を始めていた。彼のベッドの下に何枚もの古い蹄鉄が積まれている。これらは、腕か足の鍛錬に使っているのだろう。

街歩きの練習も始めている。軍務中に彼の様子を見に立ち寄っても外出中で会えないことがあった。なかったところに新しい傷ができていたとか、縫合した傷が開いて縫い直したことを軍医から伝え聞いた時には怒鳴りつけてしまった。

パリはいまや健常者であっても安全な場所などない無法地帯だ。乱暴に疾走するカブリオレと接触して血だらけで戻って来たアンドレと出くわしたある時などは、心配を通り越して怒りと悲しみで気が狂いそうだった。さすがにアンドレもわたしの取り乱し様を見て後悔したようだったが、街歩きの練習を止めようとはしなかった。アンドレが何かに照準を絞った時独特の眼光が見えなくなった瞳に宿っている。。

思えば、アンドレが目を覚ますまでの3日間を除き、大人しくベッドにいてくれた2日半だけが安心して彼をおいて出られた束の間の平安だった。顔を見れば変わらぬ彼がそこにいる。けれど、何かが違った。彼は動き出したのだ。わたしがまだ保留にしている決断を彼はあっさりと下してしまったのだ。アンドレがわたしを守ろうとするその情熱が恐ろしい。わたしから彼を奪うものがあるとすれば、その情熱以外に何があるだろう。

彼は自力で証券取引所にも行って来たらしい。彼はジャルジェ家の次期家令候補として老執事から経理だの資産運用だのを学ばされていた。他人の動産よりも自分の所持金を運用する方が真剣になるだろうと考えた老執事は給与の殆どを分散投資させ、運用させたのだ。彼曰く『絶対に損はしないし、優秀なんですがね、欲がないのでしょうねえ、ほっほ。あれで欲があれば、オスカル様がご当主になられた暁には鬼に金棒なんですがねえ、ほっほっほ』なのだそうだ。

今思えば、あれはアンドレに愚痴っていたのではなく資産拡大意欲の希薄なわたしへの間接的な文句だったとわかる。アンドレはパリに分散して預けてあった証券の一枚を現金化して来た。そして毎日すこしづつそれを持たせると、現金を自分で取り扱ったことのないわたしに使い方を指示するようになった。

パリでなら年端もいかない子供でさえ持ち合わせている生活力を持たないわたしに、生活の技術を仕込むつもりなのだ。一挙手一投足にわたり、手取り足取りわたしの便宜を図るやりかたから、間接的にわたしを支える形に切り替えて行こうとしている。

『いいか、飲料水は必ず未開封の瓶詰を買ってその場で開栓させるんだ。間違っても給水器を背負った水売りやレモネード売りから買ってはいけない。それくらいならワインを買った方がましだ。ワインもどんな不純な混ぜ物がしてあるかわからないから、瓶詰を選べ。疲れて休みたくなったらまず教会を探せ。図書館や学校も訳を言えば休ませてくれるだろう。それでも必ずついている部下を見張りに立たせること。カフェもいいが、店舗の上の部屋を貸すと言われても行ってはいけない。なぜかは分かるな?何事も、こちらが依頼する前に向こうからオファーが提示された時は疑ってかかれ』

身の回りの雑事を一手に肩代わりして来た彼はわたしの生活上の無知を熟知しているだけに心配のタネは尽きないだろう。そこをあえて一つか二つに注意事項を絞り込み、わたしを送り出す際に言い聞かせる。彼が彼自身に言い聞かせているようにも聞こえるそれは、彼が自らの役割を一部切り離そうとしている印でもあった。

まだ足元もおぼつかない幼児の手を初めて離すような胸騒ぎを押し殺し、わたしが独力で立てることを信じてくれている。何のために?未来のためだ。わたしが『お嬢様』のままでは切り開けぬ新しい未来を一緒に見るために。

本当はわたしもアンドレと思いは同じなのだ。一緒に生きていきたい。彼の手を引く者が必要なら、誰にもその役目を渡したくない。彼が見えないことを思い出す間もないほど、わたしの瞳に映るどんな些細な情景もひとつ残らず伝えたい。

ただ、腹を括るまでにもう少し、時間が必要だった。後もう少しの勇気が足りなかった。わたしの意識は恐怖の方へ向かいながら、必死で折り返し地点を探していた。

わたしがアンドレの無茶苦茶な外出の目的を知ったのはそんな時だった。彼はわたしを生かすために思いつく限りの行動を起こしていたのだ。彼に全身全霊で大切にされていることを改めて思い知り涙が止まらなかった半面、彼の想いに応えられない結果に終わることをわたしは恐れた。
結局、わたしが表へ出してしまったのは恐怖心の方だった。わたしには何も期待するな、とアンドレと激しく口論した挙句、彼のその努力を拒絶してしまったのだ。心にもない拒絶の言葉がわたしの唇からわたしの本心を無視して溢れ出した。なんという愚かな真似をしてしまったのだろう。

わたしはそのまま飛び出すように軍務に赴いたが、後悔に押しつぶされそうな心のまま半日を過ごしたところで限界に達した。今すぐ彼に会って許しを請い、投げつけてしまった言葉は真実ではないと、彼より大切なものはこの世にないと、いつまでも共に生きてゆきたいのだと、ありったけの想いを伝え尽くさなければ、胸が張り裂けてしまいそうだった。

数名のジャーナリストがわたしの動向を監視していることもわかっていたが、もうどうでも良かった。居ても立っても居られなくなったわたしはアンドレを探しに一旦サン・クレール邸に戻ってみたが、そこに彼のの姿は無く、待っていたのは思いがけない知らせだった。世界が足元からぐらりと揺れたような気がした。

         ~To be continued~

2004.7.24 uploaded
2016.4.22 reformed
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