7.混迷の剣と鞘

2017/09/03(日) 暁シリーズ
1789年7月21日

7月13日に設立された、という国民衛兵隊総司令部は、市庁舎の一角にある窓のない息苦しい会議室が充てられていた。バスティーユが陥落したその夜から、私は日に何度も総司令部に続く、ひんやりとカビ臭い大理石模様の回り階段を上り下りすることになった。

私はパリ中央常設委員会から、総勢5千からなる第三師団長に任命された。私が女性であることから、ちょっとした騒動もあったようだったが、第三師団はバステイーユ進攻に参加した賃金労働者が多く住む、フォーブール・サン・タントワーヌ地区を丸ごと含むため、革命の聖母と謳われ、人民のために神が使わした女神などという裸足で逃げ出したくなるような称号を貼り付けられた私は、貴族の将校に反発する兵を纏めるのにも、不満たっぷりの労働者の憧憬を集めて大人しくさせるには適任という結論が出されたのだった。

私の軍人としての度量が買われた訳ではなく、女であることが物を言
う。場所や状況が変わっても、男の考えることは同じだ。聖母だって!この私が。女を見下しながら、母を求めて神聖化する。全くパリの、いやフランスの男は総マザコンだ。

とは言え、殆どの志願兵がそれぞれ一家言を持つブルジョワジーを代表する親方である彼らを総括するのはいささか荷が重い。今更ながら将軍家伯爵令嬢という名の、見えない父の庇護の存在が私を守っていたことに愕然とする。あんなに抜け出そうとしてもがいていたものの大きさを、私は知らなかったのだ。しかも、衛兵隊に就任した時とは違って、アンドレが傍にいない。今度こそ私は私自身の力量を思い知らされることになるだろう。

あの日、バスティーユに向かった数千の市民は、大きく分けて二つの階層から成っっていたことを、私は後になって知った。民兵を組織した中央常設委員会は、もともと三部会議員選挙の有権者にあたる有力なブルジョワを、国民衛兵隊の構成員として考えていた。つまり、ヴェルサイユに送り出した代議員と密に連絡を取り合い、議会の行方を監視する政治的な意図を持つ選挙人集団だ。彼らの主な関心は、議会に向けられたヴェルサイユでの軍隊集結と、緊迫した情勢下にあるパリの治安維持
だった。

一方選挙資格のない、民衆の主要動機は、食糧危機だった。これ自体は特に目新しい動きではなく、飢饉の度に繰り返されてきたことだが、今年は三部会への期待と―そしてネッケルの罷免と落胆―国王軍パリ包囲の恐怖という要因が加わって、組織化されない市民が初めて武装したことで、過去の暴動とは一線を画していた。

それぞれ別の目標を持つ集団が、議会への脅威という共通の敵を得、パリは熱く燃えた。

同じ第三身分とはいえ、時に対立関係にあった階層同士が社会的に結合を遂げたのだった。憤懣の堰は切れ、結果、国王軍の武力で危機に晒されていた国民議会は救われた。階層を越えて手を取り合い勝利を勝ち取ったという高揚した熱気がパリに溢れたが、綺麗な美談では終わらなかった。なぜなら民衆は空腹なままだったからだ。

会議室に通じる重い両開きの扉を開けると、そこには常に口角から泡を飛ばして議論を戦わす男、男、男。ひんやりと湿った廊下の空気とは打って変わり、扉を通り抜けると途端に湯を満たしたような抵抗感のあるねっとりした空気に変わる。

当たり前といえば当たり前なのだが、60からなるディスクリクトのうち、およそ半数ほどが入れ替わり立ち代り一名乃至は2名の大隊長を送り込んでいるので、もう大変な騒ぎだ。制服などまだ到底間に合わないので、弁護士や公証人のような頭脳労働者も、司祭も、顔を見知った何人かの貴族の将校も、見るからに石工や馬具職人親方なども、それぞれの職業的特長のある服装のまま集まっている。まるで商工会議所にでも迷い込んだようだ。

鳴り物入りで、多少芝居がかった演出に乗って総司令官に就任したラファイエット候がたたき台を作った暫定軍規は中央集権的な色が濃く、ローカル色が濃い自治団体各であるディスクリクトとは、どうも初っ端から相性が怪しげな雰囲気だった。
中央司令部には分刻みで武器の分配やら、登録資格条件への不満やら、規則の解釈の違いで起きるディスクリクト同士の衝突への仲介要請やらが持ち込まれ、多くの元部下をほぼ全地区に配置した私は、仕官不足を補うために、自分の管轄地区を越えて、一日に十数か所を回って指導調整にあたらなければならなかった。

私も実際戸惑うことばかりだった。各ディスクリクトは五百人の大隊から成り、大隊は更に五中隊に分かれる。基本的には隊士はボランティアだが、五中隊の中の一中隊は有給の専任隊員となり、訓練された兵士である必要があった。また、騎兵一師団と、猟歩兵が選抜兵で構成され、中央司令部直属となった。一般市民兵はこれら専任隊員によって統率される。

私には、非常に合理的に見える構成だった。なにしろ市民兵ときたらピストルとマスケット銃の銃弾の違いもわからないのだ。武器の扱いなどは言うに及ばず、「軍隊」というものの概念からして全く白紙の状態だった。いや、白紙ならまだいいのだ、学べばよいのだから。もともと各種同業組合の親方である彼らは、既得特権の擁護と、個々の利得に基づいた独自の思い込みで凝り固まっていた。そのあたりは貴族社会とさほど変わりはない。

これでは武器を使うどころか、武器に振り回され、武力を私物化してしまう危険が一杯だ。常に傍に指導者を置く必要があるのは明白で、そのためにも民兵の中にバランス良く経験のある兵を配置するこの方法は理にかなっていると私には思えたのだが、どうにも民兵間では評判が芳しくないようだった。

同じパリ市の中で、中隊や大隊がそれぞれの思惑を持ち、独自の意思で動くことの方こそ、私には考えられなかった。軍隊そのものが意図など持ってはいけないのだ。武力という、およそ人間が扱う道具の中で一番危険なものを使いこなすには、完全にコントロールされ、計算しつくされた冷静な―ここが冷徹と混同されるのを、私は常々遺憾に思っている―指揮系統が必要だ。間違っても負の個人的感情、例えば復讐だとか私怨などが介入してはならない。命令に絶対服従という鉄則はこの為だ。

命令は絶対だ。だからこそ人間の持つ戦闘力を何十倍も増幅させる武器を組織立って使用することができる。それはさらなる相乗効果を生み、武力を最大限まで効率よく引き出すことでもあり、同時に無差別非道な暴力の暴走にならない為の手綱でもある。

しかし、完璧な司令官も戦略も…そう国家もありはしないし、戦局が計算どおりに進むこともない。刻一刻と変わる戦況に指令系統が追いつかないこともある。だから、鉄則を根幹として動いていても、機械的に従うだけではなく、人間としての本質が何かを警告するような時には、最終的に自分の判断で良心に従うことができるだけの勇気と感性を持ち続けていて欲しい、と私は私の兵士達に切に願う。

兵士は心のない殺人マシンであってはならない。人間としての感性を持ち続けること。それは戦場では非常につらいことでもあり、酷な要求であることもわかっている。でも、私は私の部下達にはそれができると信じていた。そして彼らは見事に応えてくれた。

だが、日々目の前で繰り広げられる中央と各地域の衝突は、完全に双方利権がらみの争いであった。ディスクリクトはあくまでも自治権と権力機関であることを主張し、中央集権を拒んだが、それは極めて狭い範囲の団結であり、市制はおろか、国家レベルでの政治など視野に入ってはいなかった。己の権利擁護と、権利主張。軍力と政治的意図が同じ盤上で交錯している。両者は完全に別機関である必要があるのだから、これは断じて軍の在るべき姿ではない。

そんな風に思ってしまうのは果たして私の「軍隊」というものへ対する概念が古いのだろうか。既存の概念にとらわれ過ぎているのは私の方なのだろうか。
「新しすぎるのかもな」
アンドレが一言で片付けた。
「考え方としては別段目新しくもないけれど、現実に政治と軍事力がきっちりと区別されたことなんか、例えばここ百年を振り返ってあったか?」
「…ない」
「苦労するね、何でも良く見える目を持つと。でも…おまえに既成概念への疑問が生じたなら、やはり何か気づくべきことがあるんだろうな。軍も変わる時が来ているのかも知れない。出自による昇進の差別とか、いたずらに戦いを長引かせる古い騎士道とか」

一緒に過ごせる僅かな時間、アンドレと私はこんな色気もそっけもない話ばかりしている。

他人の厚意にあずかって投宿しているこの屋敷には、ひっきり無しに面会を求める訪問者が尋ねてくる。図らずながら名が知れてしまった私と、フランス衛兵隊の人気を利用したい政治家、商人、新米大隊長達。ヴェルサイユから国民議会議員が表敬訪問にやって来ることもある。だが、実際は表敬訪問と称して、自分の属する党派の党意を他の日和見的に浮遊している議員にも吹き込んで欲しい、という政治的根回しが目的なのは目に見えていた。

そんな議員に限って、美麗な言葉の端々に、実情にそぐわない社会的評価を受けた女への嘲笑が覗く。私への過分な賛辞が一人歩きしているのは確かだが、それは私が女である故に、神話化されてしまいそうな勢いを見せている。ジャンヌ・ダルクがむくつけき男だったら、その名が歴史に残ることはなかったと同じように。だがそんなことは、私の関知することではない。

けれど、私の名を『所詮は女』と嘲りながら利用しようとする男には吐き気を覚える。嘲るのはいいが、ならば放っておいて欲しい。本当にどこへ行っても男はみな一様の反応を見せる。もう、いちいち驚くほどのことではないが。

あちこちのサロンから招待を受ける。以前の私なら探究心の赴くままに参加したかも知れないが、今の私はうかつに動くわけにはいかなかった。私は二十四時間、公的な場に置かれているにも等しい状況にいた。友人としてのベルナールはともかく、面会を求めるジャーナリストの数も日に日に増えた。私の一挙手一投足が誇張されて書き立てられ、酷い時には見るに耐えない銅版画までが紙面を飾る。

私達はジャルジェ家にいた時よりも人目というストレスに晒されれていた。いつまでもこのような状況が続いてはどうにかなってしまいそうだったが、せめてアンドレの傷が癒えて、元の体力を取り戻すまで、私は何としてでも彼を守りたかった。アンドレが私のアキレスの踵であるということまで公になっては、傷ついて無防備な彼の方を利用される恐れもあった。元衛兵隊士達は厳しい軍務の合間に私を交代でサポートに来てくれている。彼らはわたしとアンドレの関係も、私の体調も知っているのだ。申し合わせたわけでもないだろうに、ジャーナリズムに対して彼らの口は堅かった。私は、そんな彼らに値する上司だったろうか。

緊張感に支配された日々。そんな中でやっと確保している貴重なこの時間だけが、長い一日を耐え抜く唯一の支えだった。話す内容は政治的であっても、一寸だけ素に戻れる僅かな一時が、何よりの私の動力源だった。起き上がれるようになったと思ったら、見る間に屋敷内での自由を持ち前の辛抱強さと根気の良さでで取り戻したアンドレは、夜半に私を部屋まで送ってくれる。そのまま一緒に過ごす就寝前の半刻ほどの時間がその全てだった。

「一般市民までが武器を携帯し、職場を放棄して街が機能不全に陥っているのは好ましくない。民衆の意思は充分に国王陛下に伝わったのだから、これからはパリの秩序回復と、生産的活動を再開する為にも武装解除は必須だと私も思った。しかし、パリ当局と各ディスクリクト集会は、もっと別の思惑もあるんだ」
「どんな?」

「一度は融合したように見えた労使だが、結局は使は労を排除にかかっている。武装解除はいい。市民は本来の仕事に戻って武器など持つ必要のない生活を送れるようになるべきだ。だが、労働者階級から武器を取り上げることと、彼らを自治活動から元通り締め出して政治から排除することとは、どうも同一線上にあるらしいのだ、アンドレ」

「武装した労働者は、使から見ると脅威というわけだな。結局ブルジョワと、労働者階級はもとの分離した二層に戻るわけだ」
「うん、そこで国民衛兵隊は諸刃の剣を持つことになる。国王軍に対してと、民衆暴力と。市民を守りたくてリスクを負った私の兵士達が、いつかその市民に憎まれるようになってしまうかも知れない」
「磨いだ刃の上をぎりぎりのバランスをとって渉るようだな」

私はこうやって、アンドレを相手に自分の気持ちを整理する。アンドレはじっと付き合ってくれる。今も、昔も変わらない。
「いずれにしても、私には私にできることをする以外、どうしようもないのだ。私の兵士達が、すこしでもブルジョワと庶民の溝を埋める橋渡しになれるよう彼らを援護すること、武力は公共の利益のためにのみ行使されるべきであることを、身を持って示す規範となれるように、これからも指導を続けること。まだまだ教え足りないことがいっぱいある」

私が何か一つの結論を出すたびに、アンドレは微笑を湛えて温かいまなざしで包んでくれる。これも昔と変わらない。変わったことがあるとすれば、その微笑が愛しくて愛しくて、胸の奥から溢れ出るざわめきを体持て余す私が居ることだ。彼の微笑みごとひっくるめて、彼を心臓の奥深くまで取り込んでしまいたい。半公共の居住空間に身を置く私は、彼とある一定の距離を保ち続けなければ、とてもその強い衝動を制御できそうになかった

私達はまるで母親のスカートの影に半分身を隠してお互いを見詰め合う、少年と少女の幼い恋人同士のように振舞っている。状況も立場も忘れて恋人の抱擁を求めてしまわないように。けれど、その距離は、限界直前まで縮まっていた。だからたとえ人目がなくてもその距離は必要だった。一度でも均衡を破ってしまっては、もう二度と互いを離せなくなることを、私達は無言の内に確認し合っていたのだった。

それからもうひとつ変わったことがある。包み込まれるような感覚も、瞳に宿る温かい光も変わらないのに、もうその瞳は私の姿を映していないこと。この悲しい現実と、私はまだまともに向き合うことができない。

「オスカル」
「ん?」
「ところで…俺はクビか?」
寂しげに微笑んだアンドレが、私の顔を正確に覗き込むように斜めに首を傾げて見せた。見えていないなんて、見えていないなんて嘘のようだ。おまえ一流のジョークで私を担いでいるのではないか?そして例の悪戯っぽい少年のような嬉しそうな邪気のない笑顔で『引っかかったな、オスカル』と私を小突いてはくれないのだろうか。

アンドレが失明を冗談の材料にするような人間ではない。わかっていても、あらぬ望みを抱いてしまう。いよいよ見えなくなったのは、出動のつい数日前だと聞いた。光を失って間もないアンドレ当人の方が辛いはずなのに、私ときたら彼を支えるどころか自分を救って欲しがっている。アンドレは自らの衝撃的な出来事をおくびにも出さずにたった一人で耐え、私を労わってくれていたというのに。

反面、打ち明けてくれなかったアンドレに憤りを感じないでもない。私は支えられるばかりで、何の期待もされていないと悲観したくなる。アンドレは基本水臭いのだ。それは、ばあやを始めとする世間から求められた従者としての役目と、私が彼に求めてきた兄妹、親友の域を超えた心の繋がりとを、ともに果たす為に彼が長い年月をかけて身につけた平衡器なのだ。そうわかっていながら、私はどこまでアンドレに甘え尽くしても足りないらしい。

黙ってしまった私の指先を、アンドレが探る動きを見せた。私は急いで彼の手に自分の指を滑り込ませる。でもここまでだ。抱擁の代わりに私たちは指で抱き合う。アンドレは当然除隊だ。盲目の兵士なんぞ置いてはおけない。けれど、私は答えることができない。アンドレが傍らにいない数日間、私は半身を戦闘で吹き飛ばされたまま動いているようだった。これからずっと一人でやっていけるだろうか。

「保留、ね」
眉根をほんの僅か額に上げて笑って見せるアンドレは、今はそれでいいと言ってくれている。ゆっくり結論を出そう、と。咄嗟にアンドレの手を握り締めて口付けしそうになった私は、唇が彼の手に触れる寸前で我に返り、手を離した。湧き起こる強い情動を押さえるように、眉間を辛そうに歪めた彼は何かを言おうとしたが、その唇から漏れ出たのは苦しそうな吐息だけだった。

「アンドレ、私は…」
「それじゃあ、そろそろ退室するよ。眠れそうか?」
予想した通りの反応が返ってきた。時計を見るわけではないのに、私の部屋に来て正確に三十分後、アンドレは席を立ち、私の部屋を後にする。一日のうちで一番切ない時は、一番幸せな一時と抱き合わせでやって来る。今夜もまた迎えなければならない。毎夜のことなのに、私はその度初めてのことのように落胆する。

「仕方がないな。今夜は子守唄でも歌うか?」
見えなくても、私の表情は空気の振動か何かで、乾いた唇を噛みしめる様まできっとアンドレには伝わってしまうのに違いない。何かを察したアンドレが私専用の優しいまなざしをした。鼻の奥につん、とした細い針で刺すような痛みが生まれ、胸が苦しくなる。涙が一筋頬を伝い降りて、顎から一粒落下したことまでは気づかずにいて欲しい。

「ふふ、まるで子供扱いだな」
「子供にしてはゴージャスすぎる」
くすくすと二人して笑って―私は泣き笑いだった―そしてまたすぐに一緒に黙ってしまった。見えないくせゴージャスだなんて言うな。私は声には出さずにごねてみる。毎夜、思い切りをつけるのに、交互に何度も努力を重ねて。大概はアンドレがリードしてくれるのだが、今夜は彼も四苦八苦している。

「今夜は、おまえが眠るまで傍に居ようか?」
「駄目だ」
つい言い方がきつくなってしまった。どうか誤解しないでくれ。
そんなことをしたら私はきっと朝まで眠れない。おまえが傍にいるのに眠ってしまうなんて勿体なさ過ぎるから。日に日に落ちる体力自覚するようになっていた私は、ようやく自分の体へ注意を向けるようになっていた。せめて休息くらいは意識的に確保しようと。まだ倒れるわけにはいかない。それに…。

もう遅すぎるのかも知れないが、アンドレをおいて逝きたくない。覚悟を決めたはずなのに、その思いは日に日に強くなる。二つの濁流の狭間
で私は浮き沈みする潅木のように揺れていた。
「そうか、ゆっくりお休み、オスカル」
アンドレが振り切るように立ち上がろうとする。私はまだ彼の腕を掴んでいた。左腕。動くようになってきたものの、素人目にも神経系統の麻痺が残っていることがわかる腕を。

「見かけだけ大人の子供は、やはり子守唄が必要だ、アンドレ」
引き止めてしまった。寝台に腰掛けていた私を、横になるように促すと、彼は少し困ったような、安堵したような笑みを浮かべて頷いた。
「じゃあ、できるだけ清らかなのをね」
清らかだって?確かに私達には必要だ。また二人でくすくすと笑い出してしまった。おどけた言葉の裏にアンドレの精一杯の抑制を感じて、もっと彼が愛しくなった。

アンドレが短い聖歌を低く歌ってくれた。ナイス選曲、とでも言えばいいのか。成る程神への祈りを歌われたら清らかでいるしかない。アンドレの声は、声量を抑えに抑えても柔らかく滑らかで、私を温かく満たしてくれるが、ざわざわと熱っぽいものも体の芯から湧き出て来る。そんな自分を抑えるように、私はシーツを引っ被って寝たふりをする。狸寝入りなどお見通しのアンドレは、一曲終えるとシーツからはみ出た私の耳元の髪を探して掻き揚げ、小さく囁いた。
「お休みオスカル。愛しているよ」

愛の言葉は言い逃げするように、いつも去り際に与え合う。これ以上近づいてしまわぬように。
「私も…負けない」
眠っているはずの大きな子供も、離れていく足音に向かってはっきりと応えた。足音は一瞬止まり、向きを変えたそうに躊躇した後、同じ方向に再び大きく踏み出した。その夜、私はアンドレの歌声で体中を一杯に満たして眠った。

          ~to be continued~

2004.7.22
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