6.進路

2017/09/03(日) 暁シリーズ
1789年7月20日

今夜も街から戻るなり、俺達の部屋に顔を出したオスカルは、束の間言葉を交わすと自室へ引き取って行った。入れ替わりに入ってきたのは今日一日オスカルについていたらしいアランだった。そう言えば彼の声を聞くのはバスティーユ以来だったが、3日も眠っていた俺にはつい昨日まで悪態を叩き合っていたような気がする。

「よ、邪魔で悪いが失礼。生きてるか」
「やあ、おまえこそ。肩の具合はどうだ?」
「やれやれ、相変わらずだな。ちったあ参っているかと思えば、逆に世話を焼かれるとは思わなかったぜ」

どかどかと大またで歩く軍靴の音が近づいてくるのにに合わせて、俺は体を起こした。俺はここ2日間、何度も起き上がる練習を繰り返していた。身を起こし続けていると、そのうちベッドが空中浮遊しているかのような感覚に襲われて、天地の区別すらつかない眩暈に飲み込まれてしまうのだが、今日の午後あたりから起きていられる時間が一時間を越えるようになった。全く力の入らなかった身が、片腕の支えなしに持ち上げることができるようになったのも今日になってからだ。

「参ってるさ、徹底的に」
俺はそう言って両腕を上げて降参ポーズをして見せた。左腕が力なく左右に揺れ、やっと肘から先を、重そうに空中泳がせたたかと思うと、それはすぐさま、ぱったりと膝の上に落下した。

「みてえだな。それしか動かねえのか、左は?」
「これでも動くようになったんだよ。昨日までは感覚すらなかった」
俺には自嘲的な頼りない笑みが浮かんでいたのに違いない。アランは大きくため息を吐き、ざまあねえなと俺に負けないほどの情けない声で呟いた。

「皆期待してたんだがな。隊長に暫く軍務から退くように強引に押せるのはおまえだけだから、おまえが目覚めれば、隊長も少しは…ってな。ところがどっこい、一日休んだだけで復帰しちまった。おまえ…もっとしっかりしろや…隊長…死んじまうぞ」

何も言えなかった。俺は唇を噛んで自分の不甲斐なさを耐える。

「…悪かった。おまえが平気なはずなかったな。おい、手ぇ離せや。血がでてるぞ」
アランに腕を捕まれ、俺は自分でも意識しないうちに、爪が食い込んで血の滲むほど、自由にならない左手首を力一杯握り締めていたことを知ったのだった。

「…た?」
「ん?何だって?」
「今日は…、どんな様子だった?」
「一見普段と変わりなく見えるがな、見逃すまいと思って見てなきゃわからん程度だが、時々いやな咳をしていた。必死で堪えていたけどな。それにしょっちゅう肩で息をしている。動悸が上がってんだろうな。それでいて、集中力も注意力も落ちねえんだから、凄えよ。そうと知らん奴には絶対体調不良はわかんねえな。だから次から次へと仕事が増える」
「そうか…。おまえ達がわかってついて居てくれるのには、感謝しているよ。俺の為にやってんじゃない、と言われそうだが」

掛け値無しの本音だった。今の俺は本当に何もできない。ところがアランは不意打ちでも食らったかのように、少々慌てふためいたような調子で声を大きくした。
「おい、おい、おまえからそんな台詞を聞いた日にゃこっちまで心細くなるじゃねえか。おまえは切り札なんだからな。隊長が普通の体なら、容赦しねえでいっくらでも活躍を期待するが、俺達の誰も…誰一人だって命と引き換えにしてまで隊長に引っ張ってもらおうとは思わねえ。直接指揮して死んじまうより、生き抜いて俺達の選択の結果を見届けてくれた方がなんぼか士気が上がるか知れねえってもんだ。死んじまったら…何にもならねえよ」

死んじまったら何にもならない。おまえに言われると倍こたえる。
それにしても死ぬ死ぬと連発しないでくれ。こっちが死にそうだ。この部屋、空気が抜けてきたんじゃないかと思う程息苦しい。
「それ、本人に是非言ってやってくれよ」
「またそれか。おまえがガツンとかますか、泣きつくかするのが一番効くだろうが」
「オスカル自身が整理をつけなきゃ始まらない。普段遠慮なしにものを言って世話を焼いているように見えたって、俺が強引になれるのは結局枝葉の部分だけだ。重要な選択はいつだってあいつのものだよ」

アランがいらいらと椅子の脚をかたかた揺すり、僅かに遅れて彼のサーベル吊金具が澄んだ金属音をたてた。
「そりゃそーだろがよ。俺が言ってんのは…こん畜生、言いたかねえが…ったく気の利かねえ野郎だな、言われなきゃわかんねえか?」
悪いがわからなかった。彼が苛立ちの頂点に達しようとしていること以外には。俺は彼の方に顔を向けて次の言い分をじっと待った。

「俺のために生きてくれ、と言えるのはおまえだけだろう、と言ってんだよ、このどアホんだれが!」
この男は、親身になればなるほど口が悪くなる。罵声を浴びせられてのど元まで熱いものがこみ上げる俺も、同類みたいなものだが。アランの情は、俺の混迷した思考と感情の裂け目に揺さぶりをかける。叱責にこれほど温かさを込められる奴に俺は未だかつて出会ったことがない。

オスカルの為に役立つこと、もう長いこと俺の思考も行動もその一点だけを指針に動いてきた。だが、その逆は…。アランの一言は、まるで知らない外国語でも聞いているように、俺の理解能力の脇をすべり落ちて行く。そんな考えがこの世にあるということすら不思議に思える始末だった。

「アラン、俺は…」
俺は混乱を始めていた。だが、後から考えれば、アランの言葉は、俺の何か封印されたものを開く鍵穴の形に合わさったか、限りなく近い形状をもってそこを掠めていったのだ。考えたこともない概念ではあったけれど、論外だと流してしまえるどころか、俺は激しく反応し、そこに引き止められずにはいられなかった。

「何だ、何が難しいんだ?理屈もへったくれもねえだろう。紳士ぶってだなあ、納得がいくまで待つだの、意思を尊重するだの言ってる隙におまえの大事な女死なせてどうするんだよ!」
また死ぬ前提か。脳天に直接砲弾でも食らっている程良く効く一撃だ。単純で説得力フルパワーで全開。

「状況を見極めろってことよ。悠長なことを言ってられっか?あの記者を気絶しかけながらぶん殴ったおまえはどこに行ったんだ。暴徒を止めることなんざより、女が大事。それでいいじゃねえか。そうでなくっちゃいけねえ時だってあるんだよ。今がそうだろが、今が!見えねえってか、怪我で動けねえってか。上等じゃないか。利用しろよ。こんな俺を見捨てないでくれ、俺の面倒だけ見てくれって思いっきり哀れっぽく泣きつきやがれ。そこらの手だれた女ならな、そんな
男は用済みだと捨てられんのが落ちだろうが、隊長なら一発で撃ち落とせるだろ、くそったれ!」

だんだんむちゃくちゃな展開になってきたが、何か彼の言っていることの根底に流れるものはわかりそうな気がした。アランは口から泡を飛ばして激高し、俺は散々その飛沫を浴びることになった。ガタンという何か硬いものが倒れる音をさせたのは、今にも殴りかかりそうな勢いで食って掛かるアランを、懸命に抑えるフランソワの松葉杖だった。

「アラン、夜中だよ。せめてもう少し…」
「落ち着けアラン、わかったよ、おまえの言うことは…」
フランソワと俺がほぼ、同時に彼を落ち着かせようとしたのがいけなかったか。アランはさらに熱くなった。

「るっせえ~!かっこつけんな!まだ手の打てるとわかっていながら動かねえでかっこつけやがる奴は俺が、俺が…」
アランはいつの間にか泣いていた。悔しくて悔しくて身の置き場がないというように、体をよじって泣いていた。

「くっそう、わかっていりゃあ、そこまで思いつめているとわかってさえいりゃあ、縛り付けて殴り倒したって止めたんだ。どんなに恨まれたって軽蔑されたって構わねえ。生きていてくれさえすりゃあ、いつかは元気になって、いくらでも取り戻せたものを…っ」

いつの間にかアランの激憤は、亡き妹に無力だった自分への呵責に変わっていたのだった。彼はベッドに背をもたせ掛けて座り込み、床を拳で叩きつけ、言葉にならない呻き声を漏らしては荒く息を切らせている。俺は鉛の塊のように重い体を満身の力を振り絞って起こし、アランの横の床にに何とか滑り降りた。肩が触れ合う位置で黙ってアランの感情の波に自分をも合わせ揺られててみる。アランから見れば、大切な者の危機を事前に知り得たというだけで、俺は十分過ぎるほど、幸運な男なのだ。

気が付かなかった…。まただ…、参ったな。

まだ腹の底に置き忘れていた行き場をなくした思いを吐き出してしまうと、アランは次第落ち着きを取り戻し、ただ静かに嗚咽を繰り返していた。アランを挟んだ隣に、フランソワもギプスで固めた脚を持て余しながら苦労して腰下ろして、重そうな脚を投げ出した。

アランが俺の代弁をしてくれたのかも知れない。形は違っても。彼の真っ正直な叫びを聞いているうちに、いつの間にか俺の中で混乱を極めていた相反する感情の渦までもが、静かに凪いでゆき、俺は最後の小波までが水面に溶けいくような感覚を味わっていた。

「おい…」
顔をふせたまま、アランが誰にともなくもそっ、と呟いた。
「ん?」
「みっともねえな」
「まあね」
「三バカの図、だな」
「え?俺も?」
フランソワが、あまりにも意外そうな声を上げ、唖然としたので、俺達はつい笑い出してしまった。
「ひ、酷いな~。俺関係ないじゃん」
「おまえはよ、本当はバカ以前なのに、同等扱いしてやってんだから有難く思え」

アランと俺は小突き合って笑い続け、フランソワの抗議の声はかき消されてしまった。これが結構痛くて重労働だったが。
「ってえ、おい、一応怪我人なんだぞ、そうど突くな」
「はっは~目が覚めたか」
やがて笑い声は小さくなり、俺達は、笑いが引いたあとのぽっかり開いた空白を黙って味わった。心は静かなまま、やはりただの広い空間で、見通しが良くなったような気がした。

「おい、死なせたかないんだろ」
アランが、ぼそっと沈黙を破った。今度は平静で落ち着いた響きだった。
「当たり前だ」
応える俺も、今度は不思議と乱れることはなかった。胸のうちは穏やかに波打っている。
「正直に言えよ、死ぬなって」
「それは言った」
「で、どうだったよ」
「無理はしないようにする、とさ」
「ほ~っ、あれでねえ」
「そ、あれで」

再び沈黙が流れたが、居た堪れないようなそれではなかった。やれやれしょうがない奴らだな、とアランが言ったような気がしたが、彼はただため息をついただけだった。

「おまえよ、何が怖いんだ?」
「怖い?」
「何か怖いもんがあるから何も言えねえんだろ?俺みたいにみっともねえ醜態をさらすのが嫌なんか。強引に出て嫌われるのが嫌なんか。天下のオスカル・フランソワを私欲のために連れ去ったと、どっかのいかれトンチキ紙に書き立てられるのが怖いんか?」
「嫌われるのだけはちょっと怖いな」
「死なせちまうよりそっちの方が重要か」
「まさか」

そら見たことか、とアランはからからと高笑いし、俺の負傷していない方の肩をバンバンぶっ叩き、俺は危うく声をあげてしまうところだった。
「じゃ、何も問題ない。攫っちまいな。そんでもって愛想つかされようが、噛みつかれようが、丈夫になるまでしっかり捕まえてろや。元気になりゃあ、いくらでも軍に返り咲けばいい。そんときゃ、お前なんざさっさと捨てられちまいな」

アランがにやりと不適な悪がきっぽく笑うのが見えるようだった。
「言ってくれるじゃないか、それに俺は別にあいつに何も言えない訳じゃない」
「おお、まだわかっていらっしゃらない?本音の本音を言ってないだろ」
「本音?」
「傍から見れば一目瞭然よ。やせ我慢しやがって。大事なんだろ?」
「大事だよ」
「本当は退いて欲しいんだろ?」
「まあ、そうだ…な」
「おまえは別にパリが焼かれても、議会が国王につぶされても関係ねえ
よな、隊長の命と引き換えなら」

嗚呼、またこいつの極論が始まってしまった。俺にはその二つは完全に別次元なんだ、無理やり結びつけないでくれ、と反論する元気もない。
「はあ、そうざんす」
「ま、そう投げやりになりなさんな。隊長はデキるからな。影に日向に完璧なサポートをして、その思想を尊重しその力量を十二分に発揮させるなんていやあ、聞こえはいい、スマートだがな、本当はそろそろ俺の女になれ、俺だけのことを考えてくれ、と言いたいだろ?」

眩暈がしてきた。だめだ、そろそろ限界かもしれん。こいつはもう放っておいて寝てしまった方がいいかもしれない。そうだ、そうしよう。
「そうか、そうか、うん、言わんでも顔に出てる。図星だな。それで誰の目にも触れないところに連れて行って、う…ん無人島とかな。そこで現代のアダムとイヴになろう…なんて言いたいだろ、ん?」
「……」
こいつには少し感謝しかかっていたんだが、撤回だ、撤回。
気のせいか熱が出てきたような気までする。

「…今のはちょっと恥ずかしかったな」
自分で言ったことにアランも引いた。ったく慣れないことをするな。
「聞かなかったことにする」
「だが、独り占めしたいだろうが?男以上に気張った半生を取り戻せる程大事に労わって女らしく扱ってやりたいだろうが?ほれ、正直に言ってみろ、ん?」

やけにしつこく絡むアランだった。もう放っておこうと思ったが、まあさっきの礼と逆襲も兼ねて、俺も一絡みしてやることにした。寝るのはもう少し後でいい。
「ちょっと待てアラン」
「おうさ、いくらでも待っててやらあ」
「仮に俺が無人島行きの船の切符を二枚、ここに用意してあったとしてもだ」
「見やがれ、やっぱりその気なんじゃねえか。なら急げ」
「おまえが乏しいセンスで必死に考えたその手のくっさいセリフもどきを、俺も考えていたとしてもだ」
「はん、おまえの場合は装飾過多だろ」

あくまでも食い下がるアランだった。オスカルとやり取りしている時もよくこんな風になる。オスカルとの時は適当なところで俺がやり込められるのだが、此処では情けは必要ないな。では、遠慮なく。
「なあんで本人より先におまえに告白しなきゃならんのだ」
「土壇場で怖気づかんように練習台になってやろう、ってえ人の親切がわからんか」
「おまえの脳みそが扱いきれる範疇を越えたショッキングな現実は知らせんでおこう、ってえ俺の気配りを察しろ」

アランがたじろいだ。
「な、何だよ、何を考えていやがんだ」
「だから、本人に言うって。おまえには刺激が強すぎる」
「な、何を~!」
アランは俺に掴みかかり、俺は簡単に床に押し倒されてしまった。痛いことこの上ない。ひっくり返った拍子にフランソワのギプスで固めた脚に腕が当たり、彼はう~ンと一度唸って静かになった。何と彼は床に転がって寝息を立てていたのだ。道理でさっきから俺達の絡みに反応しないで静かだったわけだ。

「おめえ、何考えてんだか知らんが、どうでもいいが…」
アランの顔が間近に迫るのが、声と荒い息の調子でわかった。俺は最後まで言わせずに彼を遮った。これ以上彼に先に言わせてなるものか。
突風に煽られ、潮の流れに翻弄され、右に左に回転する船の舵をおろおろと見守るだけだった俺が、舵をがっちりと掴み取り、進行方向を定めた瞬間だった。

「オスカルは死なせない。絶対に死なせない」
「……」

アランはもうそれ以上何も言わなかった。俺達はそのまま半時程も黙って天井を向いていた。これほどシンプルな結論があるだろうか。俺はやはり彼に感謝することにした。自由にならない身を抱え、暗闇に閉じ込められた思考の海溺れかけた俺を、アランはさらに煽りやがった。

溺れる寸前にすることと言えば、細かな浮遊物などには目もくれず、自重を支えられるだけの大きな板切れを掴むこと。考える余地などなかったのだ。俺はアランハリケーンに煽られるまで、思考の海流に漂いながら、役にも立たない浮遊物を吟味していたという訳か。

安らかに寝息を立てるフランソワは、クッションだけあてがってやって、そのまま床に転がして置くことにし、俺は朝早いアランに、ラサールの使っていたベッドで休んで行くように勧めた。アランが面倒くさそうに立ちあがる。引きずるような足音と、かちかちと金属音が目的地にのろのろと近づいたと思うと、どさりとベッドに倒れ込む音が重たそうに響いた。アランは多分靴すら脱いでいない。俺は暗闇に向かって声をかけた。

「アラン」
「あ~?」
「礼を言っていなかった」
「何だあ?」
「出動の日のことだ」
「ああ、そんならもう言われたぞ」
「え?」

聞き返しても、もう返事は返ってこなかった。

パリ中の機能がマヒしているようだ。

「ひでえもんだぜ。俺ら今どこに詰めていると思う?パン屋だぜパン屋」
アランが出掛けにこぼしていった。
飢えた民衆にとっては、王政の倒壊はパンに直結している。王は事実上の降伏宣言をし、人民の良き保護者となることを約束すると、パリ市民は歓喜してこれを歓迎した。

しかし即日パンの供給が豊かになるはずも無く、空っぽの胃袋を満たすものが、魔法のように何もかもが自動的に良くなるという期待だけとわかった時、その落胆は計り知れなかった。誰かがその怒りの矛先を受け止めなければならない。

やり場のない憤懣の行き着く先として、槍玉に上がる対象に必ず含まれるのが身近なところでパン屋と小麦商。気の毒に彼らはいつ街角裁判官に私刑を言い渡されるかを案じながらパンを焼く。それから市当局。背後に控える貴族。市はパンが値上がりするたびに、人民を飢えさせる悪意をもった陰謀の温床と糾弾された。

だが何のために?七月は例年新しい小麦の収穫前、小麦が最高値をつけ
る端境期だ。加えて昨年の天候不良と不作は誰もが知るところだ。人が征服することなど不可能な自然の大きな力という因子は全く無視されたまま、耳に入るのはヒステリックなほどの貴族と高位役職による陰謀論ばかりだ。食料を生み出すことのないパリでは、もう長いこと慢性的に小麦が足りないのに。

勿論品薄につけ込んだ投機買いをもくろむ輩の存在はあるだろう。だが、闇雲に無差別に人民を飢餓に追い込む市や国家レベルの組織立った陰謀など、どの特定者への利益につながるというのだろう。あるいは国家に利益があるのだろう。

そう、国が動くのは利益の為だ。利益は、市民が感情的に叫んでいる悪意だの復讐だのの感情論などに遥かに優先する。戦争を正当化する大儀にしたって、体裁よく利潤の追求を合理化したに過ぎないことが多いではないか。

行政機関にしても国家レベルに広げてみても、そこに感情などありはしない。あるのは国益の定義の偏った貧相さ、退廃と腐敗。欠陥だらけの体制の限界。陰謀論や復讐を騒ぎ立てているのは、もっと政治的、経済的な理由のある個人レベルだろう。

陰謀の主である権力者を抹殺すれば、パンが口に入るという短絡的かつ至極単純な理屈を、何の疑いも無く信じ込んでしまうほど、市民は飢えているのだろうか。または破壊したのなら、その後は再生という責任が伴うということに思い至らず、ひたすら第三者に救われることを待ち望んでいる、まだ成長過程の初期段階にいるのか。

おそらく両方だ。
太陽王がその絶対的権力をもって君臨したフランス。被支配は同時に責任を免除されることでもある。支配されることしか知らない民はまだ能動的に考えることも行動することも、学ぶ機会を奪われたままだ。

結局無秩序のつけは双方が支払うことになるのだろう。民に自分の足で立つことを教えぬまま、搾取の限りを尽くし、ぎりぎりまで追い詰めてしまった支配者側はすでに刃の切っ先を向けられた。被支配者側は充分な経験も知識もないまま、海図も羅針盤も持たずに海原へ船出する。

純朴であるけれど、幼く、単純に扇動で操作され、容易にに政治工作に利用される危険をはらんだまま。

『膿が一気に吹き出しそうだ』
オスカルがそう言っていた。そしてその通りになった。武力牽制など行使しないで再生への道を歩めるほど、フランスは成熟してはいない。
再生の中枢を担うのは、大多数の幼い国民より、必然的に数歩先の成長段階を経た責任能力を持つ少数になろう。だとすれば…。

どう考えても、俺の思考は同じ場所に戻ってくる。
オスカルは…時代に必要とされている人間だ。必要とされるからではなく、自分から身を投じることを望む人間だ。バスティ―ユの結果も責任も最後まで担おうとするだろう。

強くなりたいと思う。
オスカルがたとえ自分の命を削って責任を全うしようとしたとしても、それが彼女の魂から欲する望みであり、悔いよりも喜びをもたらす生きる道なのであれば、その道をこそ支え、守り、祝福できる程の強さが欲しいと思う。

オスカルを死なせない。それは単に肉体の死を指すのではない。人は死して生きることもできれば、生きて屍となることもできる。オスカルの選択によっては、俺は俺が最も恐れる状況を受け入れなければならない。だが、今はオスカルが俺に見せてくれるストレートな心情を、彼女の革命に寄せる熱情と共に大切に、信頼しようと思う。

どちらもオスカルであり、単純に横に並べて重量を比較して一方を切り捨てられるほど、人の内面は単純ではない。
「たったの数十分間、おまえと過ごせる時間の為に一日があるようだ。長い一日も、おまえが待っていてくれると思うと力が湧く。もう二度と目を開けてくれないのではと恐れていた時と比べれば、アンドレ、天国だぞ」

朝方、僅かの隙を見てそれだけを俺の耳元に囁いて風のように出て行ったオスカル。おまえこそ、その一言がどれほど俺に勇気を与えてくれるか知っているか。

おまえがそんな風に思っていてくれる限り、おまえがいたずらに命を燃やし尽くすとはどうしても思えない。俺と一緒に生きてゆきたいとも思ってくれるだろう?

ここは一つ欲張ってみよう。おまえを病に奪わせはしないし、かと言っておまえの志は手折ることなく、全うしよう。途中で回り道をしたり、立ち止まったり、後退しなければならない時もあるだろう。そんな時、引っ張ったり押しとどめたりするのは多分俺の役目だ。おまえは焦れて荒れるかも知れないが、その時は根比べだ。それなら自信がある。

この日から、俺は失ってしまった体力と筋力を取り戻すための努力を猛然と始めた。サン・クレール邸内は半日で把握し、屋敷近辺の道幅段差も覚えた。脚がふらつくので、この屋敷の厩の隅に積み上げられていた磨り減った蹄鉄を何枚も借りては足首にかませて屈伸運動に励んだ。麻痺の残る左腕で何でも掴んでみた。

どんなに緻密に計算し尽くされた設計を元にしてあっても、アムステルダムでは通年堤防の点検調査を怠らないのだ、と聞いたことがあった。ありの巣穴程の亀裂でも、万が一見逃すことがあれば、数ヶ月後か数年後か、必ず決壊事故が起きるのだそうだ。町全体を囲む強固な堤防の決壊も、最初は一匹のありの仕事から始まるのだ。

俺はありの巣穴を掘り始めた。

        ~to be continued~

7.20.2004
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