4.Je t'aime

2017/09/03(日) 暁シリーズ
1789年7月17日

オスカルはいつの間にか、俺の枕元に突っ伏したまま眠ってしまった。
「オスカル…、眠るのならちゃんと…」
ぴたぴたと頬を叩いてみるが、一向に目覚める気配はない。今の俺ではとても動かせない。どうしたものか途方にくれていると、遠慮がちなノックの後、ロザリーが足音を忍ばせてそっと入って来た。「あら」
オスカルの様子を見るや否や、ロザリーが駆け寄る。
「困ったな、意識を失っているみたいに眠っている。熱もあるな。こんなところでこんな姿勢じゃ休めない。何とか動すか…」やっと聞こえるくらいの小声でロザリーに話しかけた。目を覚ませば自分で移動するだろうが、起こしたくない。ロザリーが身を屈めてオスカルを覗き込む気配がした。空気がふわりと動く。オスカルの頬にそっと手を当て、しばらく思案してから、やっぱりこれ以外は考えられないと言わんばかりに彼女はきっぱりと断言した。

「そうね、でも、もう少しこのままにして差し上げましょうよ。もう三日間もお休みになれなかったオスカルさまが、ここで眠っていらっしゃるのだもの。ここが一番安心なんだわ。ここでなければきっと駄目なのよ」

昼夜オスカルを見守っていたロザリーの見たてはきっと正しい。死んだように眠るオスカル。熱を持った手に触れていると、オスカルが過ごした過酷な三日間の長い時間が思いやられて何ともやりきれなかった。

「できれば、上着だけでも脱がせてやってくれないかな。それからブーツも。こんな格好では足がむくんで締め付けられてしまう」
「ふふ、どんな時でもアンドレはアンドレね」
ロザリーは手際よく俺の頼みを聞き入れてくれたようだった。オスカルは全く目覚める様子もなく、明け方まで動かなかった。

朝一番のカフェ売りが通り過ぎる頃、この世のあらゆる音の中で一番愛おしい声が俺の名を微かに呼ぶまで、俺はオスカルの呼吸をひとつひとつ、数えていた。一つでも逃せば永遠に彼女を失ってしまうかのように。

翌日、さすがにオスカルは一日臥せった。俺も情けないことに起き上がると五分と持たずにめまいと吐き気にやられてしまうので、オスカルにあてがわれた部屋を訪ねて枕元にいてやることができなかった。が、ロザリーが言うには、ここ数日のオスカルと比べ見違えるほど落ち着いた様子で、細切れながらもまどろみながら休んでいるということだった。

ロザリーにも休んでもらうことができ、まずは一息といった所だ。
「じゃあ、あとはここのサリーさんにお願いして、休ませてもらうわ。オスカル様をお願いね、アンドレ」
「口先だけならね。大きなお世話だとどやされそうだけど」
「オスカル様には何よりのお薬よ」

俺が訪ねて行けない替わりにオスカルは数時間ごとにベッドを抜け出しては、様子を見に訪ねてくれた。そして俺達はごく僅かな時間、言葉を交わす。

「眠った?」
「そうそう寝てばかりもいられない」
「じゃあ、きちんと診察受けてくれないか?」
「……」
「いやか」
「今更だ」
「思い違いだったら?ただの咽頭炎かも知れないぞ。はっきりさせよう」
「…はっきりしてしまうのは…こわい…な」
「俺も…こわいよ」
「では、何故」
「希望を捨てたくない。診断がつけば、どう対処すべきか明確になる。今日は駄目でも明日、新薬が完成するかも知れない。こわいけれど、ちゃんと向き合ってあらゆる可能性を逃さない」
「強いな」
「弱いから」
「え?」
「おまえを失うのは死ぬよりこわい。だからさ」
「…それなら、わたしも味わった」

そうだった。
黙って指を握り締めると、握り返してくる力は思いのほか力強い。階下から階段を上ってくるだけで肩が上下するほど呼吸が乱れ、指の先まで熱を持っているというのに。病と疲れに征服されまいと彼女が懸命に気力を鼓舞していることを、その握力が物語っていた。

心配で胸が張り裂けそうだった。しかし医師の診断を仰ぐにはオスカルにはまだ時間が必要なのだ。無理に押さずにもう少し待たなければ。それには俺ももっと強くなる必要があった。

正直、故障だらけの俺の体と精神が全く折り合わない。体と心が互いを鬩ぎあう。この役立たず、と。
余裕のない俺には、往来を行きかう馬車の車輪の音や、時々カーテンの埃を巻き込んで入ってくる、暑苦しくよどんだ室内の空気をただかき回すだけの熱風が、一刻一刻オスカルの寿命を情け容赦なく削りとっていくように思えて、そんなものにすら憎しみを覚える始末だ。

「いつまで休む?」
「今日だけだ」
わかり切っているのに確認せずにはいられない。
「じゃあ、せめてもうベッドに戻れ」
「もう眠れない」
「横になるだけでいいから」
「…わかった…」
「明日は?予定は決まっているのか?」
「予定など…あってないようなものだ。何から手をつけていいか解らない。つまりどこから始めてもいいという訳だ。ディスクリクト(選挙区。パリは当 時三部会議員選出のため、60からなる区に分かれていた)ごとに隊の編成から武器の分配まで責任者不在のまま、好き放題だ。ふふふ、自称少佐や大佐やらも勝手に登場している。わたしも大将を名乗るなら今がチャンスかな」

オスカルが饒舌になった。立ち去り難いのだ。同室のフランソワやラサールから死角になるシーツの下で絡ませあった指が、より強く組み合わさる。

「オスカ…」
「素人志願兵だけではどうにもならん。一定割合で訓練されたプロを区ごとに均等に配置し、志願兵を取り纏めなければならんのだ。ユランやアラン、ロベールのように即戦力になる隊員はすでにそのように配置した。まだ経験が浅い元フランス衛兵隊員には、何とか短期間で指導者として仕上がるように考えてやりたい。その希望があれば、だがな。

何しろ指導的ポジションに関しては有給扱いだからな。何れにせよ、バスティ―ユ後に離隊した衛兵も含めて、国民衛兵の中核として民兵を引っ張って行けるのは元フランス衛兵だ。何かと手がかかった連中だが、今では頼もしく思えるのだから、不思議だな アンドレ」

休息を勧める俺の次の言葉を塞ぐように、オスカルは話し続けた。冷静に状況説明しているように見えても、彼女が張ったガードの下には抑えきれない感情が渦巻いているに違いない。オスカルの手が何かを探すように俺の手を握り直す。片手だけでは受止めきれない、オスカル。この身体がもう少し自由であったなら、フランソワやラサールの目の前であっても、俺はきっと今頃彼女を力一杯抱きしめている。

「エッへ~ン。それほどでもあります、隊長」
「そうそう、これからは何でも頼ってくださいっ」
いつからオスカルと俺の会話を聞いていたのか、同室の二人がそれはそれは嬉しそうに割り込んで来た。

「比較の問題だ、フランソワ、ラサール」
くすりと笑いを漏らしたオスカルの声が俺とは反対の方向に発せられた。
「ヒカク…?の問題?」
フランソワが頭をひねった。
「狼の群れでは下っ端でも、ウサギの群れに入ればボスになれると言うことだ」
俺はお子様向けに解説する。
「そ…ういうことかあ、何だあ」
とラサール。

「しかも実際ののウサギちゃんは、屁理屈をこねたり、大吼えしたりやたらと剣を抜きたがったりで食えないし、可愛くもないぞ」
可笑しそうに二人を諭すオスカルの声が打って変わって優しさに溢れる。オスカルの顔にはきっと上官ではなく、年の離れた弟か何かに向ける微笑が浮かんでいるはずだ。

「隊長に頼りにしてもらえてるなんて、俄然張り切っちゃうとこだったんだけど、やっぱ俺らじゃ頼りないっすねえ」
「そんなことはない。20人も従業員を使っている大商店のオヤジよりも、おまえ達の方が変な先入観や凝り固まった思い入れがなく、柔軟で素直だから吸収が早い。基礎はわたしが叩き込んだのだから自信を持て。指導的立場をとるための訓練はまだだが、努力次第だぞ。それに、勇気はお墨付きだ。そうではなかったか?」
「は、は、は、はいっ!ほほ本当に頑張れば大丈夫っすか!?」
興奮して、たぶん直立不動のラサールが声を弾ませる。

「もちろん。そうだな、おまえ達にもこれからは将校の道も開ける可能性がないとも言えんな。だが、ラサール、フランソワ、そのためにはまずしっかりと体を治せ」
「はいーっ!ありがとうございますっ!」
慈しみをこめたオスカルの言葉だった。部下が可愛くて仕方ないのだろう。

オスカル。自分より弱い立場の者には限りなく優しいおまえが、自分に向ける厳しさが俺には切ない。おまえにこそ、さきの言葉をかけてやってくれないか。甘えることを知らないおまえ。父の期待に応えることが愛される条件だったおまえ。女であるが故に人並み以上に有能で使える人間でなければ社会に受け入れられなかったおまえ。そんなおまえには、たとえ一時であっても、荷を降ろして弱音を吐くことの方が、未知の恐怖なのか。役割を担えない自分になるのが怖いのか。

オスカル。おまえの在りようなど関係ないんだ。おまえが紡ごうが耕そうが、ひっそりと野辺で咲こうが、艶やかに温室で愛でられようがお前は大切に愛されて慈しまれていい、無二の存在だ。
俺にとってだけでなく、それは絶対的な真理に近い。おまえと一緒にその真理を見つけたと感じた瞬間があったじゃないか。おまえと愛し合って、初めて届いた真実。一人では見つけられなかった。

「オスカル、ここまでだ。明日は軍務に戻るのなら休んでくれ。俺としてはまだ戻って欲しくはないが」
「一般市民の武装解除が、緊急課題なんだ。力ずくで行いたくない。しかしパリはもはや無法地帯と化している。だから一刻も早く、寄せ集め国民衛兵隊に信頼に足る存在になってもらわんと困るのだ。市民が安心できるように、連中を育て上げなければならない」
「そうか、そうだな」
お前らしい返答が悲しくて、笑顔を努力してつくった。オスカルはかすかに身じろいで一瞬息を止めてから、かすれる小声を返してきた。
「…無理は…しない…」

その方が無理だろう、オスカル。
「そうですよ、休んでください。隊長。俺らもじきに動けるようになって必ず、役に立ちます」
「期待してるぞ、フランソワ」
少年のように無邪気な意気込みを見せるフランソワ。素朴で幼くても裏表なし、ストレートに寄せてくる親愛の情は救いだな、ありがとう。オスカルの言葉は決して社交辞令じゃないんだよ。心から若い無垢なエネルギーを歓迎しているんだ。

オスカルはようやく、立ち上がる決心をしたようだった。フランソワの声を合図に座っていた椅子に浅く腰掛け直す。俺も努力無しにはこの手を離せそうもない。離れている時間が長いのは思いのほか堪えるな。

手を僅かに触れ合わせるだけで、短い挨拶を交わすだけで、微笑み合うだけで普段は言葉以上にコミュニケーションを交わしていたのだと思い知る。こう離れている時間が長い時は、言葉という手段に勝るものはない。

シーツの下で、決心とは裏腹の仕草をするオスカルの手をきゅうっと握り直した。オスカルが俺にしか判らない疑問符を投げて寄越す。俺はオスカルの掌を広げ、人差し指を立て、躊躇した。指先が彼女の掌の弾力を確かめるように触れては離れる。告げていいものか。俺はおまえが思っていた前と同じ俺ではない。盲目でボロボロだ。そしてすぐに思い直す。お前はそんなことでゆるぎはしない。

オスカルはじっと待っている。
そのオスカルの掌に、文字を書いた。ゆっくりと。オスカルがぴくりと反応する。それから確認を求める指が俺の手首に吸い付く。もう一度、書いた。

『Je t’aime 』

これを最後に言葉で伝えた出動の朝からもう幾日振りだろう。言葉は時に無用の長物であり、触れ合うほど近くに居るときは無粋にすら思える。しかし、距離を余儀なくされる時、言葉は強力な威力を発揮する。

「また、明日の朝早く顔を見に来る」
「うん、ゆっくり休め」
「おまえこそ、だ」
「休もうと思うとおまえが来るからなあ」
「今度こそ朝までもう来ないから、安心しろ」

去り際に交わした短いやり取り。オスカルの声は必死に嗚咽を堪えて、揺れていた。そして、細い指が『もう一度』と催促する。

『Je t’aime、Oscar 』
『Moi aussi 』

それがオスカルからの応え。言葉が力を持つとき、たった一言が心に巣食った闇を打ち砕く。離れて過ごす時間を支える確かな力になる。

Je t’aime、Oscar。

~To be continued~
2004.7.18
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