12.水面下

2017/09/03(日) 暁シリーズ
1789年7月23日

旦那様の居間に続く控えの間にシャルルは俺をおいて出て行った。
「来客予定だからな、客が帰るまでここで待てという御指示だ」
俺は黙って頷いた。妙なこともあるものだ。これから客の応対をするなら、この控えの間に待機するべきは執事か旦那様付き従僕のジェラールだが、二人とも姿を見せない。居間には今のところ誰の気配も感じられなかった。一般的に、使用人は人間未満と見なされる。感情を持つ人間とは見なされていないから、主人はどんなプライベートも平気で晒すが、何を見聞きしてもその場にいないように気配を消すことが要求される。ジャルジェ家では使用人と主人の区別はあってもそのような扱いを受けたことはなく、主人のプライベートな場に必要以上に留まることを要求されたことはなかった。

だから、よほど特別な行事がある時でなければこの控えの間で誰かが待機していることはない。まして、もはやジャルジェ家に属さない俺をここに待機させる旦那様の意図は皆目わからないが、考えても仕方がないので、俺は居間へ続く通用口際の衝立の陰に置かれた小間使い用の椅子に腰を降ろした。居間から小間使いを呼ぶ引き紐を通じて主人からの呼び出しに備えるための場所であり、主人が大声を出さずとも声が届く位置だ。

召使の手か足に結ぶこの引き紐がこの屋敷で実際に使われたことがあったかどうか俺は知らないが、祖母は随分長くこの小部屋で寝泊まりをしていた時期がある。居間とは反対側の通用口は奥様の寝室に通じていて、6人の娘達がそれぞれ乳離れするまで、祖母はその時々に乳母を勤めた娘と一緒に乳飲み子と奥様のお世話に明け暮れたのだそうだ。奥様は貴婦人には珍しく乳飲み子を傍らに置いて育てることを望んだ方だった。地下室の遺体安置所よりも、この場所の方がよほど祖母の気配がする。

祖母を思うと、俺の心は自動的にオスカルえ飛んだ。旦那様の厳命にも関わらず、祖母はオスカルをお嬢様と呼び続け、一貫してオスカルを女として扱った。間に挟まって四苦八苦した俺とは違い、生涯を通じて信念を貫いた。オスカルにとっては煩わしくて堪らなかった時期もあっただろうが、今思い起こせば彼女が自分の本来の性別を受け入れるために祖母は重要な役割を担っていたのだと思う。

ついに跡取りたる男子をジャルジェ家にもたらすことの叶わなかった奥様が如何にその事実を受け入れ、オスカルの成長を見守って来たのか、オスカルよりも何歩も遅れて成長した俺には到底計り知ることなどできないが、女の子としてのオスカルを全面的に受け入れていた祖母の存在はどんなに救いだったろう。

祖母にはどうしたって敵わない。そう思った瞬間、祖母の叱責が飛んだような気がした。
『莫迦な子だね、あたしと張り合おうっていうのかい!』
とんでもないよ、おばあちゃん。張り合うどころか、俺はまたオスカルを傷つけてしまった。今頃どんなに心痛を抱えたまま気丈に振る舞っていることか。
『相変わらずロクデナシだね。しっかりおし。お傍にいるのはおまえだけなんだからね』

え?

祖母に語りかけると、生き生きと返事が返って来る。祖母のあり方を熟知している俺の脳が作り出している幻影か、言って欲しいことを俺が勝手に作り出しているのか、問えば瞬時に声なき祖母の叱咤が俺の頭に直接降って来る。
そこにいるのかい、おばああちゃん。
『あたしはどこにだって居るよ』
じゃあ、手を貸してくれないか。自信がないんだ。これからどうやってオスカルを守って行けばいい?
『この唐変木のすっとこどっこい。決まっているじゃないか』
決まっている?
『人間、やりたいようにする以外、やりようなんてないんだよ』
でも。
『できないってかい?できないと思うなら、それはしたくないってことさ』
むちゃくちゃだな、おばあちゃん。
『わかっちゃいないね、このおたんこなず。思い起してご覧。おまえが一度だってやりたくないことをして、やりたいことをしなかったことがあったかい?』
思うがままにならないことばかりだった。オスカルが苦しんでいる時に歯噛みをしながら傍にいることしか出来なかった。
『おまえはお嬢様のそばに居たかった。することなすこと大馬鹿だったろうがね。お嬢様を少しでもお慰めしたくて考えつくこと全てやった。ほれ、したいことをしたんだよ。それがお嬢様の役に立ったかどうかは別の話さ』
それじゃ意味がない。
『意味があろうと無かろうと。他にどうできるんだね、このスカタン』
どうって・・・。
『お嬢様の傍を離れるべきと思った時期があったろうが。さもなければ、力づくでおまえの思うようにしようと思ったことがあったろうが。成功したのかい?』
成功なんかしないよ!するわけがない。
『ほれご覧。どっちもできなかったんじゃない。おまえの本意じゃなかったってことさ。裏を返せばおまえはしたいようにしたのさ。お嬢様の傍に居たかった。お嬢様の人生を大切にしたかった。それがおまえの本当の望みだったんだよ。いいかい、アンドレ。人が間違いを起こす時はね、本当に望んでいることに逆らって行動を起こす時なんだよ』
そうかな、俺は間違いばかり犯して来たような気がするよ。
『間違いと、失敗は違うよ。望むものを得ようとしてこけるのは失敗だ。おまえほどのぼけなすなら、そりゃ気の遠くなる程繰り返したろうさ。だけど何度かやっているうちに方法が見えてくる。そして目標に近づいていける。間違いはそうじゃない。繰り返すと離れていく』
例えば?
『わからないのかい?どこまでうすらとんちきなんだろうね。おまえがやらかしそうな間違いなら、差し詰め、目が見えなくなったことを理由にお嬢様のお傍を離れようなんて事を考えることかね。どうだい、心当たりがあるだろう?』あるよ。でも、今はそうは思っていない。無謀だとは思うけど。
『どうしてもお傍に居たいんだろう?もし、おまえがその気持ちに反して離別を選んだら、生きていけなくなるのはおまえだけじゃなくなるよ』
オスカルも?
『そこが面白いとこさ。人間の持つ真っ正直な望みっていうのはね、深いところで繋がっているんだよ。特に大事な者同士の間ではなおさらだ。だから一見我侭に見えても、無意味に見えても、無慈悲に見えても、本当の望みに蓋をしてはいけないよ。目に見える繋がりばかりではないけれど、必ずいつか繋がる。いつかはわからないよ。世代を超えることだって時代を超えることだってあるかも知れないけどね』おばあちゃんも…そうしてきたのかい?
『そうだよ。おまえもしっかりおやり。心配しちゃいないけどね』
そのわりにはよく罵倒してくれたじゃないか。
『賛辞だよ。おまえにしか言わないよ。あと、あたしの宿六にも言ったがね』
おじいちゃんか。よろしく言ってくれ。
『やっぱりおまえはとんまだよ』

祖母が笑ったような気がした。何だか死んでからの方が元気だ、と俺も苦笑した。その時だった。隣の居間から話し声が聞こえたのは。自問自答だったのか、祖母が本当にそこにいたのか分からないが、すっかり内面の世界に埋没していた俺は、居間に人が入って来たのに気付かないでいた。
「我々は、オスカル・フランソワに手は出せません。今何かしらの手出しをすれば第二のバスティ-ユを引き起こすでしょう。下手をすればこのベルサイユでかろうじて国王軍に留まっている兵までが反乱を起こしかねない。そうですな?ジャルジェ将軍」
いきなりオスカルの名を聞いて、俺は危うく声を出すところだった。誰だ。どこかで聞いたような声だったが、記憶を引き出せない。関わった事はあっても、さほど関心を持たなかった人物なのだろう。だが向こうはオスカルに関心を抱いている。多分、オスカルにも俺にも好ましくない意味で。
「貴殿への国王陛下の寛大なご措置も、そのあたりまでのご配慮がおありなのでしょうな。全くお咎めなし。それどころか、新内閣で新陸軍大臣に取り立てようとされるとは」
「その話なら、すでにお断り申し上げておる」
旦那様だ。旦那様を陸軍大臣にという話があったのか。でも何故だ。唐突すぎる。
「解せませんなあ。パリの民衆から女神と奉られているオスカル・フランソワを輩出したジャルジェ家が内閣入りすれば、宮廷は国民議会とパリの野蛮人どもの支持を勝ち取って王権が権威を取り戻す大きな推進力になりましょうに。現に他の大臣はネッケル氏を筆頭に皆大衆受けする人材で固められている。将軍がそこに加われば、鬼に金棒でしょう。せっかくのご息女の乱心の埋め合わせと利用の機会を何故棒にふるのです?」
そういうことか。オスカルの人気を利用したいのは、何も革命側だけではなかったのだ。訪問客は多分、王弟プロヴァンス候の側近だ。俺は体中の血が怒りで沸騰するのではないかと思った。旦那様の静かな声が受け答えする。
「私は軍事をもってお仕えするしか能のない老兵にすぎませぬ。ご指摘されたように、軍は解体の危機に直面していることが、バスティーユ奪取に参加した兵士や、その後に続いた兵士の感情の高ぶりを見るだけでおわかりでしょう。反乱はじきに全国的なものになりましょう。外国人傭兵にますます頼らねばならない状況も深刻。このような老兵であっても、分裂した軍の再構築の役目は両手に余るほど抱えておりましてな」
肘掛け椅子に深く座り直す音がぎしっとかすかに聞こえた。旦那様は静まりかえる湖水面のように、抑揚も語調も変えない。訪問客の方が焦りを匂わすように語気を荒げた。
「政治には向かぬと仰るのは、予測通り。驚きも致しませぬが、今まで通りにお仕えする、だけでは陛下の寛大なるお心に報いるには少々誠意が不足ではござらぬまいか?」
「と、申しますと?」
「これは将軍、お人が悪い。お分かりにならぬ貴殿ではあるまいに。国民議会とやらを武力で潰せなくなった今、王政を死守するためには議員を牛耳らねばなりますまい。平民議員どもを動かすのが世論なら、世論を動かす力を持つ人物の一人がご息女だ」
「成る程。貴殿の仰る人物が、かつて拙宅の家督であった者のことであれば、もうすでに棄籍済み。お役に立てるなら私を通す必要はありませんぞ」
「あくまでしらを切る御積りか。貴殿ならば人目につかず、オスカル・フランソワを呼び出して拘束することができる」
「仮にできたとすれば、どうされる?」
「宮廷に召し返すのですよ。バスティーユの女神が宮廷に戻る。貧民どもはどう思うでしょうね。バスティーユの女神は実は国王陛下の忠実な僕だった。バスティ-ユはもともと取り壊す予定であり、奪取劇は偉大な国王陛下の掌の上で演じられた遊びに過ぎなかった。と、思い知るでしょうな」
「それだけではありますまい。民衆の憎悪は、裏切り者のバスティーユの女神に集中される。国王陛下が寵姫を待たないがためにアントワネット様に一点集中されている非難もあわよくば吸収できるかも知れない。女であることが、非常に都合が良く働く」
「い、いや、何もそこまでは…」
「そして、民衆の憎悪が最高潮に達した時、適当な罪状で処刑すれば、国王陛下の面目も立ち一石二鳥というわけですな」
「そ、それは…」
俺は、凍りついたように極秘で訪問に来た客との会話を聞いていた。旦那様が、一枚岩のように動じず、毅然とした態度を崩さないでいることが救いだった。そうでなければ、俺はここで気配を消したままじっとしてなどいられなかっただろう。
「棄籍したとは言え、私はあれを良く知っている。貴殿の思う通りに動くようなしおらしい玉ではありませんぞ。下手をすると手を咬まれるだけ
で済みませんな」
大丈夫だ。旦那様には余裕がある。
「だから、拘束する必要があるのです。愚かな愚民どもにそうとは分からぬように。捨て置けばますます大衆は我が意を得たり、とつけあがる」
オスカルが脅威か。ならば尚更止めた方がいいものを。おっかなびっくり拘束したところでオスカルを都合よく扱えるものか。旦那様の落ち着きがようやく理解できた。だから、おまえはのろまだよ、と後ろから祖母に蹴りを入れられたような気がした。
国王陛下の失脚を執念深く付け狙う王族だが、王座そのものが無くなってしまえば万事休す。王政の危機にここは一時休戦、王座を守るために策謀を講じようとしているのか。だが、国王も王妃も手を出そうとしないオスカルを利用するのには腰が引ける。だから国王への旦那様の忠義にかこつけて、旦那様を引き込もうとしているのだ。
馬鹿なことを。そんな腰砕けではオスカルを意のままになどできはしない。
「それは、国王陛下のご意向ですかな、ならば直接私に命が下るはずではござらぬか?国王陛下のご命令とあらば、すぐにでも謀反者を討ち取る用意はありますぞ。だが、冷静に世を見れば、すでにフランス全軍が王党派と革命派に2分されているこの事態。一人や二人の雑魚を捕らえて見せしめにしたところで変えられる流れではございますまい。王政を守りたければ陳腐な策に溺れるより、近代化を受け入れながらも王権により力を残す形で政治改革を早急に施行することではありますまいか?国王陛下は国民議会を公式にお認めになった。よもやお忘れではありませぬな?国王陛下御自らがお認めになられたのですぞ。我々にも多少なりとも身を切る覚悟が必要ということでござろう。しかしながら、国王陛下をお守りする手段として、貴殿の策はあまりにも底が浅い。安全な場所から、ご自分は何も失わずして、王政を守ることができるとお思いか?」
旦那様は、激することなく静かに、だが小心な客の浅い思慮を淡々と明るみに晒した。威嚇するでもなく、威圧的な態度を取っているわけでもないのに、人間的な深みで、客を圧倒的にしのいでいた。客はわけがわからなかったろう。保身と既得権にしがみついているばかりの人間に、旦那様の滅私の忠義は理解の範囲を超えているに違いない。ただ、この人には敵わないという畏れだけは確実に受け取ったろう。
「つまり、ご協力はいただけないということですな。さすがのジャルジェ将軍も親子の情に流されて国王陛下への恩義をお忘れになっているらしい。お咎めがないことを幸いにそうやって頭に乗っていると、いつか痛い目にあいますぞ」
尊大な口を利いてはいるが、客が震えているのがわかった。旦那様は動じない。俺は掌にぐっしょりと汗をかいていた。旦那様もオスカルもこんな小細工に狼狽するような器ではない。が、相手が卑劣で矮小な人物であれば在るほど、弱点として浮き立つものを持っている。情が深いのだ。自分だけの問題なら毅然と面を上げていられても、誰かを盾に取られたら、進んで身を差し出すのがこの父娘だ。たとえ袂を分かっていても。
「お話はそれだけですかな」
旦那様の声が遠くに聞こえた。情けない。俺は体力の限界を迎えていたようだった。次第に息苦しくなり、冷たい汗が額に滲んだ。頭の重みを支えていることがもうできそうにもない。何やら荒っぽい捨て台詞を頭の片隅で聞いたのを最後に、俺は真っ白な霧の中に沈み込んで行く意識を手放すしかなかった。

          ~to be continued~
2004.8.15 
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