11.再会

2017/09/03(日) 暁シリーズ
1789年7月23日

「シャルル…?何処へ?こっちは…」
進路を確認するためにむき出しの石壁に手を添えながら、シャルルの誘導に従って石階段を降りた。真夏だと言うのに肌寒いほど冷んやりとした冷気が足元から吹き上げてくる。シャルルが手に持った燭台の灯りだけが、ゆらゆらと淡い光の輪となって、俺の視界に不安定に浮かんでいる。

俺の問いにシャルルは応えようとしない。ただ俺の為に心持ちゆっくりした足取りで、黙々と石階段を下りてゆく。17世紀に建てられたジャルジェ邸には当時地下牢があった。今はその一部を改装してワインセラーや食料貯蔵庫として使用している。しかし、今降りている階段の先は未使用のままずっと放置されている地下室に通じる通路だった。

一段、また一段、一つの足音がもう一つの足音を追いかけるように二人のたてる足音が湿った空気を揺らして無機質に響く。一つ段を降りる度に、知りたくない現実が近づく予感に背筋が緊張する。そして地下室の重い鉄の扉を、シャルルが満身の力を込めて開く前に、俺は事態を悟った。

元地下牢だった石の部屋は、真夏だと言うのに凍えそうな位寒かった。無数の蝋燭が部屋の両側の壁を埋め尽くす程灯されている。俺の目にも眩しい光の回廊は部屋の突き当りまで切れ間なく続いていた。白百合の香りと、香炉を焚く匂いが入り混じる中、防腐剤の薬品臭がきつく鼻腔を刺す。そこに祖母がいる。

何時の間にか俺の後ろに回ったシャルルが、俺の背に手をかけて低く話しかけた。
「まっすぐこの先だ。会って来い」
俺は木偶のように、機械的に脚を一歩一歩踏み出した。足元が濡れていて、一足ごとに水音が跳ね返る。そっと蝋燭で覆われた壁面の下のほうに手を伸ばしてみた。壁と床の境目には大きなブロックに切り取られた氷の塊が、びっしりと床に並べられていた。

薬品の鼻をつく匂いがいよいよきつくなると、何重にもぶれて重なる光の洪水の真ん中に白くふやけたような塊が横に広がって浮いていた。足を止め、そっと手を伸ばすと指先に布のようなものが触れる。更に探って行くと寝台のように思われたそれは布と毛布を被せられた大きな氷で出来ている台なのだった。

もう一歩、歩を進めて手を先に延ばしてみる。硬いものに触れた。硬い、硬い人の腕の形。腕を真横に辿っていくと、肘のところで直角に曲がった前腕の先に、しっかりと胸の上で組み合わされた小さな手が二つ。

「おばあちゃん…」
間違うことなどない、祖母の小さな皺だらけの手。組んだ両手がすっぽりと俺の片手に収まってしまう。その非情な冷たさと、小ささ。祖母の存在の大きさとは、あまりにもかけ離れた触感に、俺はどうしてもこれが祖母とは思えなかった。

手を辿らせていくと、ふくよかだった胸は弾力を失い、肋骨のでこぼこばかりが布の上からも妙にはっきりと触れることができる。首から頬にかけて手を滑らせた。丸っこくてぽっちゃりとした印象の強い祖母だったのに、この首の細さはどうだろう。頬骨に張り付いたような硬く皺の寄った皮膚が、あのまるまると愛くるしかった老女の頬だというのか。

祖母を守るように、大切に被せてあるボンネットがやけに大きく感じられる。馴染みの眼鏡もそのまま。閉じられた瞼。その下にあるはずの瞳が何処かへ流れ出てしまったかのように落ち窪んだ眼窩。口元は深い皺の中に深く沈み込み、畳み込まれて、触れるだけでは表情を読み取ることができない。

祖母に間違いはないのだが、祖母に会っているという感じは全くしなかった。この小さな遺骸は、祖母であって祖母ではなかった。俺の頭の中では正確に事態を理解している。祖母は死んだのだ。だが、この非現実感は何だ。俺のあらゆる感覚に鍵がかけられたかのように、何が触れても斬りつけても、他人事のようだ。非現実的は空間の中で、俺はどう反応してよいやらわからないのだった。

「おい、大丈夫か」
シャルルが俺のすぐ後ろで声をかけ、俺はいくばくかの現実感を取り戻した。
「いつだったんだ?おばあちゃんはいつ…?」
「17日の午後4時頃だった」
「17日…!」

俺が、目を覚ました日だ。時間もほぼそんな頃だったはず。もう一度、祖母の組んだ小さな拳に触れてみる。そして語りかけた。
『おばあちゃん、本当におばあちゃんなのかい?石のように冷たくなってじっとしているなんて、おばあちゃんじゃないだろう?俺には信じられないよ』
応えなどあろうはずも無く。しかし、応えが無いことが、答えなのだ。

俺は床に跪き、祖母を抱いた。こみ上げてくるものは、悲しみよりも悔しさと憤り。こんなに小さく萎んだ抜け殻が、長きに渡って決して迷わず己の信念を貫いた祖母の旅路の終着点か。そんなはずがない。持てる全ての愛情を与え尽くした祖母に相応しい結実はどこか他にあるはずだ。失いゆく視力を補うことに精一杯で、床に伏していた祖母と時間を分かち合えなかった自分のなんと不甲斐ないこと。

祖母の年齢を思えば、それが今日でも明日でも何ら不思議は無かったものを。今日もいつもの場所にいつものように祖母がいてくれると当たり前のように思っていた浅はかさ。近づく終焉を祖母は予感していたのに違いない。たった一人で旅路の準備をさせてしまった。たとえ僅かでも傍にいて、人生を振り返り、確実に近づく旅立ちに寄せて、彼女の思うところを、悔恨を、感謝を、感慨を受止めてやれば良かった。

そして、祖母の生き様を祝福し、彼女の孫でいられたことをどんなに感謝し、幸せに思っているか伝えれば良かった。祖母から教えられた全てが、今の俺の礎としてどんなに力強く俺を導いていることか。いつかちゃんと言うつもりだった。いつかは永遠に失われてしまったのだ。

頬を伝って下りたのは、悔恨の涙だった。純粋な悲しみは、俺の胸の奥底の方で後悔に塗り固められて行き場を失っていた。硬質な祖母の体からは、防腐剤のきつい匂いに混じって、腐敗臭も立ち上り始めていた。

「そろそろ行こう。旦那様がお待ちだ。悪いな、そう簡単に切り替えも整理もつかんだろうが、旦那様もやっとの思いで宮廷から半日暇を頂いて戻っていらした貴重な時間なんだ。用件は俺もわからんが、一介の使用人と話す為にそこまでなさるのだから、よっぽど重要な何かがあるんだろう。大丈夫か、立てるか?」

シャルルが俺の肩を抱きかかえるようにして、俺を立ち上がらせてくれた。俺は子供のようにされるがまま、冷たい光の回廊を来た方向に向かって戻った。シャルルが低く何かを言ってくれている。優しく俺を気遣ってくれていることだけはわかるが、彼が何を言っているのか俺にはもう理解できなかった。俺は歩きながら、自分の迷い込んだ迷路の壁を叩いていた。ふいに思い出すこともなくなって久しい母を亡くした日のことを思い出した。

母の死も予期なく突然に訪れた。その頃、俺にとっての今日は同じ明日が来ることを約束するためのものだった。世界はもっと狭く小さかったが、幸せがそこここに溢れ、明日は今日よりももっと楽しい出来事が待っているはずだった。特に弟か妹の誕生を待ちわびながら、大きくなった母のお腹に耳を当て、元気な蹴りを頬に受けては、歓声をあげて母と笑い合った最後の日々は。

新しい家族が誕生する頃には、戦場に赴いた父も無事に帰って来ると理由もなく信じていた。そう、何もかもが完璧になるはずだったのだ。時折襲ってくる小さなまだ見ぬライバルへの嫉妬だけが、あの幸せな日々にあって唯一の痛みだった。

その日、全世界が俺のために微笑むはずだったその日、長く続いた産みの苦しみの果て、自分の運命を悟った母が俺を傍に呼び、汗ばんだ手で俺の頭を撫で撫で別れの言葉を俺に贈ろうとした時、そうだ、その時もこんな感じだった。

涙を一杯に溜めて、自分の痛みよりもこれからの俺の行く末を案じ、少しでも俺に力を与える言葉を必死で探す母。母の紡ぎ出す言葉の意味はわかるのに、母の声は音楽のように一つの旋律を奏でているようにしか聞こえなかった。母の深い悲しみと俺への愛惜。その母の心の振るえだけが俺に流れ込み、俺は目の前の出来事についてゆけず、なぜ母がこんなにも悲しんでいるのか不思議で仕方なかった。

年老いた司祭が母に臨終の秘蹟を授け、唇に微笑みを残したまま目を閉じた母の手が、俺の手を握り返さなくなって、ようやくじわじわと目の前の光景が意味することを感じ取れるようになった。
『母さん、母さん』
何度も呼びかけた。次第に失われていく母の手のぬくもりを何とか押し留めようと一生懸命両手で摩り続けた。

不規則に上下していた母の胸が動かなくなっても、母はただ長く呼吸を休んでいるだけだと自分に言い聞かせ、母の次の呼吸を待つ。
『妹だったよ母さん。心配しないで、ぼくがちゃんと面倒見るから。だから少し休んだら、目を開けて、母さん』

子供心に、妹が死産だったことを母に知らせてはいけないと思った。
『とっても可愛い子だよ。母さんと同じ栗色の巻き毛で、目の色は…』
一気に涙が溢れた。妹は目を開けなかったのだ。きっちりと握られた小さな握り拳とともに。

『ね、眠っててわかんないや。泣き声が聞こえないのも、そう眠っているからなんだ。名前をつけてやらなくっちゃ。母さん起きてよ』
いよいよ母の手の温もりが、生きている人間のそれとは全く違う感触に変わった。
『父さんもじきに帰って来る。お見送りは二人でしたのにお迎えは三人なんて、父さん感激して泣いちゃうかもしれないよ』

母を起こそうと思いつく限りに呼びかけたのは、母がもう目を開けることはないとどこかで確信していたからかも知れない。
『父さんが帰って来たら、誰を一番先に抱きしめるかな。…か、母さんだよ、きっと…。それからぼく…。あ、でも赤ちゃんにびっくりして…えっ、あっ…あ、赤ちゃん…が…ひっく、さ、先だったら…、寂しいな…。で…、さ、最初の…キ…キスは…』

臨終を告げられてから、半日は経っていたのだろうか。俺は何時までも母に呼びかけ、すっかり冷たくなってしまった母の手に自分の体温を分け与えようとしていた。あるいは一日、一昼夜、もっと長い時間だったかも知れない。目の前で色味を、体温を、呼吸を失い、硬く変化していく母を見届けて、俺はやっと母の死を受け入れた。

心臓が潰れそうな程、体がばらばらに引き千切れてしまわないのが不思議な程泣いて、泣いて、こんなにも身の置き所のない悲しみなら、きっとこのまま自分も飲み込まれて死んでしまうのだと思った。母さんの傍に行けるのなら、それでもちっとも構わなかった。だから、心に蓋をすることもなく、思い切り激しくのた打ち回る感情を感じるままにした。

上も下も暑い寒いもわからなくなり、時間は流れを止め、景色はただの書き割りになった。差し出された慰めの手も目に入らず、声がすっかり枯れて出なくなり、立っているどころか母の傍に投げ出した体から、頭をもたげるほどの力も無くなっってしまうまで泣き続け、なにもかもが真っ白でわからなくなった。

これ以上何も出せるものはなく、自分自身すら存在しているのかいないのかわからなくなった時。
ぽっかりとあいた無の空間に母がいた。姿、声があったわけではないが、母がそこにいるのがわかった。母は母の本質のみに立ち戻って、喜びに溢れ慈愛そのものとして俺を包見込んでくれていた。俺自身の内にも母が満ちているようでもあった。母にはもう母と母でないものを区別する境界がないのだった。

祖母がヴェルサイユから急ぎ駆けつけて来てくれたのはその頃だったと思う。母のために村の司祭と近隣の家族が集まってささやかなミサをあげてくれた時、祖母と手を繋いで参列した記憶がある。ミサが終わり、粗末な棺に土がかけられるまで俺は母を体中で感じていた。棺に中に納まっているのは母ではないことを俺は知っていた。棺に土がかぶせられ、祖母と村人たちのすすり泣きを聞きながら、俺は母と共にいた。

貴族の屋敷で忙しく働いているという祖母とは、片手で数えるほどしか会ったことはなかった。気丈な祖母が最初にしたことは、司祭と母を看取ってくれた隣家の家族へ礼を尽くすことだった。到着が遅れた詫びと、受けた親切への礼、洗礼を受けることなく母に先立った名もない妹の処遇、教区から転居するための申請。

驚くほど冷静に、てきぱきと必要な必要な手続きを終えるまで、祖母は俺と目を合わせようとしなかった。全てが完了し、ようやく俺と向き合った途端、祖母は俺を抱きしめて、堰を切ったように泣き崩れた。その夜、大好きだった大きな梁のある無骨な石造りの家で過ごす最後の一夜を同じベッドで祖母と明かした。夜が明けてみると、俺を包んでいた母の気配は去っていた。まるで祖母に俺を託し終えたかのように。

「静かに眠るような臨終だったそうだよ。奥さまとマルタが看取った」
シャルルの声で我に返った。
「奥さまが…?」
シャルルはそれ以上何も言わず、俺の背を押した。

祖母の旅立ちが17日だったと言うなら、今日で死後6日が経過している。季節柄、遺体を保存するためにかかる労力、費用を考えると、それだけで祖母が家族同然の扱いを受けていることがわかる。膨大な量の氷は、ジャルジェ家保有の氷室を空にしただけではなく、氷が最高値をつけるこの時期にもかかわらず、大量に購入してまで集められたに違いなかった。

手向けられた花も蝋燭も香料も、一介の使用人への追悼用としては桁外れの量と質だった。ジャルジェ家はそういうところなのだ。堅実質素を美徳と心得、決して虚栄に散財をしない反面、価値を認めるものに対してはこうして惜しみなく敬意を注ぐ。

祖母は、ジャルジェ家にとってそのような存在だったと、形のない見えない言葉が祖母を祝福し包み込んでいる。祖母を…?包み込む…?では祖母はどこだ。

困った顔をして微笑む祖母の気配がした。ああ、母の時と同じだ。ジャルジェ家の住人の寄せる優しい思いに応える祖母がいた。祖母は、今やどこにでもいた。

         ~to be continued~

2004.8.4
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