「いたぞ!地下だ!」
ジャルジェ将軍が先に送った部下4人から、狼谷村への道中に子供の姿はなかったこと、グランディエ家はしっかりと施錠されており、人の気配は全くないこと、村人による目撃証言もないことが、後走する馬車に届いていた。
それでもこの目で確認するまでは納得できないとオスカルが主張し、一行はグランディエ家まで馬車を走らせた。目的地に着くやいなや、転がり落ちるように馬車から飛び出そうとするマロン・グラッセとオスカルを馬車に押し戻し、将軍と従者のジェラール、4人の部下が家屋周辺を捜索していたのだが。
勝手のわからぬ将軍の部下らが見逃していた箇所があった。斜面に建てられた岩の館には倉庫として使われていた半地下室があったのだ。ジェラールが細く開いている扉に気づき確認に降りたところ、古藁の中で眠る子供を発見した。
いたぞ!の声を耳ざとく聞きつけたオスカルが、侍女ナタリーの静止を振り切りまずは馬車を飛び降り、あたふたとマロン・グラッセが続いた。二人が地下に入ろうとしたとき、すでにジェラ―ルは子供を抱きかかえて階段を上がって来るところだった。
「アンドレ!」
「低体温症を起こしています!ひどい震えだ。ナタリー毛布を用意してくれ。湯たんぽはあるか?」
身軽なオスカルがいち早く馬車にとって返し、ナタリーに指示を出す。ジャルジェ将軍は、湯を所望するため部下を村の教会に走らせる。それぞれが、それぞれの最善を尽くす間、マロンはジェラールから孫を受け取り抱きしめた。馬車に担ぎ込んだ後も、抱きしめることしかできなかった。
「ばあやさん、服が酷い状態なので、脱がせてから毛布でくるんだ方が良いかもしれません」
おろおろしていたナタリーが、いつになく取り乱したマロンのただならぬ様子に冷静さを取り戻した。
「ぼくが毛布を抑えているから、ナタリー早く!」
「は、はい。オスカルさま」
「アンドレ、しっかりしろ!目を開けるんだ!」
「無理はさせない方が…オスカルさま」
馬車の外から中のやりとりを聞いていた将軍が指示を出す。
「ナタリー!オスカルが正しい。まだ震えている内に起こして何か温かいものを飲ませろ。腹の中からも温めるんだ。脱水しているかも知れん。震えが止まってしまったら危険だ」
慌ただしく騎乗したジュエラールが叫ぶ。
「我々も教会に向かいましょう。できるだけ早く温めてやらないと」
その一声でジャックが馬に鞭を入れ、馬車は動き出した。
************
将軍が部下の一人を伝令として先に走らせていたので、一行がパリの別邸に着いた時、ジャルジェ家の侍医であるヴァスールは準備万端を整えて待機していた。アンドレは低体温症に加え、脱水と軽い肺炎を起こしていると医師は見立てた。
幸い意識は次第にはっきりとしてきたため、保温に加え、水分補給を十分に施すことができた。容態が落ち着くと、アンドレは空腹すら訴えて皆を安心させた。しかし、医師はあと少しでも救出が遅れれば生命に危険な状態であったと指摘した。
「話を聞く限り、少年は道中で一片のパンを与えられ、荷馬車に乗せられたようですし、羊毛の掛け物にくるまって藁の中にいた。救出のタイミングだけでなく、それらの条件の一つでも欠けていたら、命はなかったかも知れません。ギリギリでしたよ。幸運なお子さんだ」
医師の言葉を聞いたマロン・グラッセはジャルジェ将軍にひれ伏すように泣きながら礼を述べ、将軍を苦笑させた。そして、オスカルの手を取り、嬢様の機転のおかげで助かった、とやはり泣き崩れた。
救出に繋がった機転を利かせたオスカルは、同行したジェラールやナタリー、そして別邸で子供の無事を祈っていた使用人らからも褒めそやされていたが、オスカル本人が気にしているのはアンドレのことだけだった。
一刻も早く友のところへ行きたいのに、別邸の使用人棟の一室に運ばれて医師の診察を受けているアンドレのところへ行くことは許されず、怒り心頭で大荒れした。
ジャルジェ将軍は、職責のためにすぐにでもヴェルサイユに戻る必要があった。何しろ明日の万聖節には王家家族あげてのミサが執り行われる。しかし、荒れ狂うオスカルを使用人らの手に残し、手柄を賞賛されるままにしておく訳にはいかなかった。
確かに、オスカルが狼谷村の捜索を強固に主張したがためにアンドレは発見された。8歳のアンドレが何かしらの犯罪に巻き込まれてなお、自力で村へ辿り着けるはずだと信じたのはオスカルだけだったのだ。将軍もアンドレの上着が見つかった時点で、正直絶望的な観測を立てていた。
だから、将軍はオスカルがアンドレを救ったことは、きちんと評価してやりたかった。しかし、オスカルの浅知恵がこの事態を引き起こしたこともまた事実である。オスカルには、両面を正しく認識させる必要があった。
この経験が新鮮な内に、オスカルを正さねばなるまい。帰路につく前にその時間をとろう、と考えた将軍はオスカルを連れて来させようとしたが、オスカルは呼ばれる前に世話を焼こうとする使用人を振り切り、息せき切って将軍の下に駆け寄るところだった。
「お帰りになるのですか、父上!」
突然降って沸いた夜間の小旅行を終えたばかり、アンドレに近づくことを禁止されたオスカルは、まだ怒りで頬をばら色に上気させ、ほんのり赤く染まった鼻から白い息を吐いている。友の安否がわからぬ数時間の緊張と、救命処置に関わった後の興奮や怒りを全身から発露させているが、そこに将軍が危惧した慢心は見て取れなかった。
オスカルは、父将軍にまみえると、片膝をつき両手を膝の上に乗せた。
「父上、アンドレを助けて下さって、有り難うございました!」
窓ガラスが粉々になりそうな勢いの声だった。アンドレに今すぐ合わせてください、と食ってかかるかと思いきや、以外にも殊勝な行動に出た跡取り息子に、父将軍は一瞬面食らう。頭を深く下げた子供は顔を上げ、父の言葉をじっと待っていた。はらわたを煮えくり返らせているはずなのに、感情を制御している様子に父は感心した。
いつものオスカルのように映るが、どことなく纏う空気感に一気に成長の兆しが見える。昨日のオスカルとは違う、ひとつ子供の衣を脱ぎ捨てたようなオスカルがいた。この長い一日を通して、学び取ったものがあるのだろう。
「うむ。明日のこともあるから儂はヴェルサイユに戻るが、後できちんと話をしよう。おまえの責任について、はっきりさせねばならんぞ」
実は頬が緩みかけていたのだが、将軍は厳めしい表情を務めて維持しながら、跡取りに威厳を示す。子供は、覚悟を新たにした真剣な面持ちで父に頷いた。
「はい!父上」
将軍は、ふと思いつき、居並ぶ部下4名の前に跡取り息子を押し出した。
「オスカル、紹介しよう。今夜任務外の尽力を提供してくれた士官だ。右から、シャルル・アレクサンドル・ド・エナン=リエタール中尉、オノレ=アルマン・ド・ヴィラール少尉、ピエール・ド・ラ・マルク少尉、ルイ=ニコラ・ド・ダヴー中尉だ」
父将軍は、それ以上何の指示もせず、オスカルにあとの行動を任せてみた。オスカルは物怖じすることなく進み出ると、丁寧なレベレンスで礼を取った。無帽のオスカルは、帽子を取る形で敬意を表することができないからだ。そして、ぴしっと背筋を伸ばした姿勢でハキハキと名乗った。
「オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェと申します。皆様方にお目にかかれて光栄です!」
子どもと見て、微笑ましくリラックスした姿勢で挨拶を受けた4人の士官だったが、小さな体ながら、優雅さと小気味よいキレのある礼にはっと姿勢を直した。
「今日は、友達のアンドレ救出作戦にご助力いただき、まことにありがとうございました。オスカル・フランソワ、友に代わりまして心より御礼を申し上げます!」
救出作戦、の下りが幼さく愛らしいが、子どもとは思えない言葉選びと一分の隙のない美しい所作は一種の迫力さえ感じられる。まだ7歳に満たない少年のような美しい少女が、それを危なげなく使いこなしている様に、士官らは揃って敬礼を返した。
シャルジェ将軍は、安堵のため息を密かについた。実は、こまっしゃくれた減らず口などいくらもきけるオスカルなのだが、部下へ述べた礼の言葉には魂が込められていた。作法の上辺をなぞったのではない。オスカルは真摯に頭を垂れたのだ。
オスカルが今回の一件で学んだ何かの中に、感謝が入っていることは間違いないだろう。慢心とは反対の姿勢を学んだのなら心配ない。7歳弱にして、あまりにも儀礼が完璧なので部下たちはたじろいだようだが。
「よし、オスカル。おまえも病み上がりのところを無理をしたばかりだ。ナタリーもばあやもいることだから、何日かはパリで身を休めてから帰って来るが良い。家庭教師には連絡させておく。アンドレのことはおまえの責任だから、よく面倒をみてやるように」
「はいっ!父上!」
父将軍は、頬を上気させ瞳をきらきらと歓びで輝かせている跡取り息子の頭をくしゃくしゃとかき回した。思いがけない父の反応に、あっけにとられて目をぱちくりさせているオスカルをナタリーの手に渡し、父将軍は部下と従者を引き連れて別邸を後にした。
「友に代わりまして御礼…とはな。さて、これからどうしたものか。どう思うジェラール?」
帰路は馬車を出させたジャルジェ将軍は、同乗する従者のジェラールに振ってみた。
「友達でいらっしゃりたいのであれば、なおさら主人の責任も同時に学ぶ必要がおありでしょう。わたくしとしましては…」
ジェラールが目を伏せて言いよどむ。将軍は言って見ろ、と促した。
「今しばらくは、無邪気にお遊びになる姿を拝見したいですが、オスカルさまはご聡明ですので、早過ぎはしないかと」
「うむ」
将軍は、腕を組み満足気に目を閉じた。
************
冷え切った体が温まり、しばらくすると医師の指摘したとおりアンドレは発熱した。酷く苦しがることがなければ、栄養と安静だけで自然に回復するだろうとも言われていたので、マロン・グラッセは赤い顔をしながらも空腹を訴える孫息子の口に粥を運んでやっていた。
普段のマロンなら、主にこれほどまでの迷惑をかけた孫息子に特大級の仕置きをくれるところだが、今回は不憫さが勝って何とも言いようのないほど胸が痛い。しかも、亡き娘から預かって間もないこの子をすんでのところで失うところだったとなれば。申し訳なさに身が詰まる思いだった。
「おばあちゃん」
呼ばれて、マロンははっと我に返った。機械的に匙を運びながら考え込んでいたのだ。
「おばあちゃん、疲れているでしょ。昨日の夜はオスカルについていたんだよね。ぼくはもう大丈夫だよ」
自分で食べられるから、と祖母から椀を受け取ろうと両手を伸ばす孫息子にマロンは目を細めた。大変な目にあったと言うのに、祖母の心配を忘れない、ほんとうに心根の優しい子だと思う。
突然使用人の立場に放り込まれて5ヶ月余り。のんびりと大切に育てられていた子どもだから、それはそれは過酷な日々であったろうに、キャベツの葉が水を弾くように、この子の優しさにはなんら影響を与えないらしい。
マロンは、孫息子の肩まわりにアフガン編みの肩掛けを巻き付けてから、粥の椀を手渡した。子供は熱のために赤い頬をしてはいるが、蜂蜜が入っていると嬉しそうにスプーンを口に運び始めた。
医師の言うとおり、これだけ食欲があれば解熱も時間の問題だろう。あと一歩で落命するところをジャルジェ将軍始め、大勢の人の協力で救ってもらったのだ。この子と一緒に、一生かかってでも御恩をお返ししなければ、とマロンは決意を新たにした。
「おばあちゃん、ごちそうさま」
アンドレが椀を置いた。
「もういいのかい?おかわりは?」
「うん、もういい」
「じゃあ、これでお休み、アンドレ。今夜はあたしがついているからね」
マロンは、子供に枕をあてがうと毛布の中に入れた。そして、首の周りに冷気が入らないように、肩掛けを巻き直してやりながら、どうしても気になることを尋ねた。
「この肩掛けだけどね、どこで見つけたんだい?」
「えっと…」
アンドレが答える間もなく、ドアが激しくノックされた。パリ邸の使用人部屋のドアは薄く、ドアの外ではオスカルが孫息子を呼んでいる声が聞こえる。マロンは慌ててドアを開けに走った。
「アンドレ!大丈夫か?」
マロンがドアを開けると同時に疾風のようにオスカルが駆け込んで来た。ドアの外には申し訳なさそうにナタリーが佇んでいる。アンドレを見舞いたいと言うオスカルの押しに負けたのだろう。マロンはナタリーも招き入れるとドアを閉めた。今夜は小言はなしでいい。
オスカルの声に、寝せて貰ったばかりのアンドレは半身を起こそうとしたが、それより早くベッドに駆け上がっていたオスカルに、寝てろとばかりに押し返されている。そして、オスカルは目ざとくアンドレが毛布から出した右手首を捕まえた。
「これ、もしかして縛られた跡か?」
「え?う、うん、そうだよ」
「反対の手も見せろ」
アンドレは渋々自由な方の腕も毛布から出して見せた。両方とも赤くすり切れた跡や蚯蚓腫れが痛々しく残っている。あまりにも気が動転していたため、孫息子の着替えや清拭を他の使用人に任せていたマロンは、初めて見る傷にひっと短く悲鳴を上げた。
「ちっくしょう、許せないな。どんな奴だった?」
「どんな奴って…ふたりだったよ。ひとりは鷲鼻で口が大きくて髭だらけで…」
アンドレの寝台に上がり込んでいるオスカルは、憤懣やるかたない様子でアンドレの手首をかわるがわる検分していたが、当のアンドレに不思議そうに見つめられているのに気づき、きまり悪そうに手を離した。
「明日、父上が憲兵に調べさせる、って言ってた」
「ふうん」
「だから、気になるけど聞かないでおく。おまえは明日、いろいろ憲兵に話さなきゃいけないし」
熟れた桃のような頬に熱で潤んだ大きな黒い瞳の少年は、オスカルを見つめたままゆっくり瞬きをして微笑んだ。
「オスカル、ありがとう。会いに来てくれて」
オスカルの身体から力がすっと抜けた。逆にアンドレの両手がオスカルの右手をそっと包む。オスカルは胸の奥をきゅっと握られたような、掴まれた心臓がきゅるんと逃げ惑うような、初めての感覚に一瞬おののき、からだがぽっと熱くなった。
「あ、会いたかったから来た」
思わず、飾らぬ本音を口にしてしまい、さらに頬が熱くなったが、アンドレはオスカルを見つめたまま嬉しさがこぼれ出すように笑ったので、オスカルの心臓が駆け足を始めてしまった。
「ぼくも会いたかったよ」
会話が途切れた。
ふたりは暫く手を握り合ったままじっとしていたが、オスカルは背後のナタリーがいつ声をかけようか間合いをはかっている気配を感じた。ほんのちょっと、顔を見るだけでいいから、と無理を言って連れてきてもらったのだ。
オスカルは、手をアンドレの両手から抜き、するりと寝台から降り立った。催促じみた言葉を聞きたくなかったのだ。
ふたりはもう一度、瞳を交わした。
『会いたかった』
それを確認しあうことが、一番重要だった。積もる話は山ほどあるが、それをあとに回せるほど、ひと目の会っただけで心は満ちたのだ。
「アンドレ、強盗からどうやって逃げたかとか、歩いている時のこととか、聞きたいことがたくさんあるけど、おまえが良くなったら話そう。だから、早く良くなってくれ」
「うん、ぼくも話したいことがいっぱいあるよ」
さすがにアンドレの方は、しんどそうに持ち上げた頭を枕に戻し、ふう、と息をついた。それを見たナタリーが一歩踏み出す。オスカルは、素早く侍女を振り返り『すぐ終わるから』と目くばせしてからもう一度アンドレの手を取った。
「よし、じゃあ行くよ。明日、また話そう」
アンドレが頷いたのを見届けると、オスカルは侍女の脇を走り抜け出口ドアに向かった。慌ててナタリーも後を追ったが、オスカルはドアの前でぴたりと立ち止まるとくるりと向きを変え、アンドレの枕元に走り寄った。
「オスカル、どうしたの?」
「アンドレ!気になって眠れないから一つだけ教えてくれ」
「なあに?」
「お母上には会えたのか?」
アンドレは、一瞬きょとんと瞳を見開いたが、ベッド縁から身を乗り出し真剣な眼差しを向けてくるオスカルに微笑んだ。祖母や使用人仲間は涙を流さんばかりに無事を喜んでくれた。しかし、アンドレの一番の望みである母との再会を、自分ごとのように気にかけてくれるのは、やはりオスカルだけなのだ。
ただ、残念なことに。
「う~ん、あのね。ぼく狼谷村まであとちょっとのところまでは行けたんだけど、とっても疲れちゃって気がついた時には、地下室の藁の中にいたんだ」
それでも、アンドレは鼻の上と眉間に小さなしわを寄せて、何か少しでも思い出そうと頭を捻る。しかし、どうしても身体が凍えて動けなくなった先のことは思い出せない。
「地下室まで行ったことは覚えていないのか?」
「うん…」
「せめて手紙は置いてきたか?」
「服と一緒に盗られちゃったんだ」
「そうか…」
オスカルは、がっくりと肩を落とした。アンドレは、自分が全く剣を使えないことを知った時でも、彼女がこれほど残念そうな顔はしなかったことを思い出し、何か他に覚えていることがないか、頭のみならず体中を探った。せっかく協力してくれたのに、何の成果も持ち帰れなかったでは、ごめんでは済まない気がした。
そうだ!
「でも、覚えてないけど、会えたと思う」
アンドレは首元まで巻き付けてある鮮やかなオレンジ色のアフガン編みを引っ張って見せた。
「これ、母さんのお気に入りの肩掛けなんだけど、地下室でジェラールさんに起こされたとき、これを巻いてたんだ」
「え?それ?」
「うん。それにね、胸が温かいって言うか…、狼谷村に行く前の時みたいに、これからぼくどうなっちゃうんだろうとか、勉強や仕事がうまくできなかったらどうしよう、って気持ちがもうないんだ」
「ふうん」
「凄く安心した気持ちなんだ。剣だってもっと練習したい、って気持ちがね、前とちがうんだ。うまく…言えないけど」
「ぼくも、よくわからないけど、きみはちょっと強くなった感じがするな」
「え?ちょっとじゃないでしょ」
金色と黒の頭を突き合わせてふたりの子どもは笑い合った。その様子を見ていたマロンは声を出さずに顔をくちゃくちゃにしながら泣いていた。あの肩掛けは、マロン手ずから娘のために編み贈ったものだ。
物言わない姿になった娘と再会した時、それは娘の傍らにあった。
娘が遅い結婚をした時に贈ったものだから、もう10年は経つというのに、丁寧に手入れしながら大切に使われていたことが一目でわかる、とてもきれいな状態で残っていた。毛糸は長年の使用を物語る傷みやへたれ感があったが、それは取りも直さず使い続けてくれたことだし、新しい毛糸で修繕した跡がそここにあった。
忙しさにかまけて、時々の手紙と贈り物のやりとりしかできなかった10年間、それはずっと娘を寒風から守ったのだ。そこに、母子の絆が息づいているような気がして、マロンは娘が埋葬される時、棺の上にその手でかけてやった。
最初の一握りの土はアンドレがかけた。マロンは少しずつオレンジ色のアフガン編みが黒い土に埋まっていくのを最後まで見届けたのだ。間違いなく、地中深く埋めたものだ。
しかし、アンドレが包まれていた肩掛けは土汚れの一つも無く、マロンが最後に見た時と全く同じ状態で子どもを守っていた。マロンは、頭を突き合わせて夢中で語り合うふたりの子どもを見つめながら、亡き娘に語りかけた。
ジャッキー、おまえかい?おまえががアンドレを守ったんだね。強盗やらひもじい思いやら夜の森やら、どんなにか恐ろしかったろうに、アンドレはピクニックを満喫してきたかのように満ち足りた様子で、落ち着いている。アンドレは覚えていなくても、おまえが奇跡を起こしたことをあたしは信じるよ。
「じゃあ、明日な」
「うん、明日」
子どもらは、どうしても離れがたい様子で何度目かのおやすみを言い合っている。ついにオスカルはナタリーに背を押され、振り向きながらアンドレの寝台を後にした。アンドレも、毛布から顔を出していつまでも手を振っている。
魚と鳥くらい違う環境で育った主家の末姫様と孫息子が、果たしてうまくやれるのか、当初マロンはかなり心配した。しかし、しっかり者の兄が、幼い弟を従えつつ細かに面倒を見ている構図ではあるが、ふたりは大方の予想以上に意気投合した。
今夜のふたりは、一気に絆を深めたように見える。母のない子の孤独と、異質を強いられる孤独が呼び合うのなら、絆はこれからも強く深く結ぶだろう。マロンにとって命より大切な子どもたちだ。オスカルにアンドレが、アンドレにオスカルがいることが嬉しい。
そして、こわい。
マロンは、うとうとし始めたアンドレの枕元に座り照明を落とした。布団と毛布を直してやり、頭をなでてやった。本当は、いつもこんな風に面倒を見てやれたら、と思う。この子の母がそうしていたように。でも、主家の跡取り令嬢と仲良くするのなら、相応の心構えを学ばねばならない。
「おばあちゃん、うふ。母さんの匂いがするよ。わかる?」
孫息子はとろとろしながら母の肩掛けに顔を埋め、うっすらと微笑んだ。この子に、その厳しい道を歩ませていいのだろうか。心が潰れてしまわないだろうか。マロンは、絡み合ったくせ毛の房を指で梳ききながら頷く。
「そうだねえ。子どもにしかわからない、いい匂いなんだろうね」
「そうかな。ぼくね、母さんに会えたと思うんだ。これはきっと母さんがくれたんだよ。変かな?」
「おばあちゃんもジャッキーがおまえを守ってくれたと思うよ。きっとそうさ」
「そうだよね!よかっ…た…」
ことん、と孫息子は眠りに落ちた。マロンは跪き、組んだ両手を孫息子の枕元に置いて祈りを捧げる。
神様、今日は孫息子をお守り下さってありがとうございました。娘を地上に使わし、孫息子を凍死からお救いくださったことに、感謝いたします。嬢様と、孫息子がこれからも仲良く助け合いながら健やかに成長しますように。ふたりが育てる信頼と友情を祝福してくださいませ。そして、それらがもたらす全ての災いからお守りください。嬢様をお助けし、お役に立てるよう、孫息子を教育する力をこのわたしにお授けください。
ジャッキー、頼んだよ。これからもこの子を守っておくれ。
ジャルジェ将軍が先に送った部下4人から、狼谷村への道中に子供の姿はなかったこと、グランディエ家はしっかりと施錠されており、人の気配は全くないこと、村人による目撃証言もないことが、後走する馬車に届いていた。
それでもこの目で確認するまでは納得できないとオスカルが主張し、一行はグランディエ家まで馬車を走らせた。目的地に着くやいなや、転がり落ちるように馬車から飛び出そうとするマロン・グラッセとオスカルを馬車に押し戻し、将軍と従者のジェラール、4人の部下が家屋周辺を捜索していたのだが。
勝手のわからぬ将軍の部下らが見逃していた箇所があった。斜面に建てられた岩の館には倉庫として使われていた半地下室があったのだ。ジェラールが細く開いている扉に気づき確認に降りたところ、古藁の中で眠る子供を発見した。
いたぞ!の声を耳ざとく聞きつけたオスカルが、侍女ナタリーの静止を振り切りまずは馬車を飛び降り、あたふたとマロン・グラッセが続いた。二人が地下に入ろうとしたとき、すでにジェラ―ルは子供を抱きかかえて階段を上がって来るところだった。
「アンドレ!」
「低体温症を起こしています!ひどい震えだ。ナタリー毛布を用意してくれ。湯たんぽはあるか?」
身軽なオスカルがいち早く馬車にとって返し、ナタリーに指示を出す。ジャルジェ将軍は、湯を所望するため部下を村の教会に走らせる。それぞれが、それぞれの最善を尽くす間、マロンはジェラールから孫を受け取り抱きしめた。馬車に担ぎ込んだ後も、抱きしめることしかできなかった。
「ばあやさん、服が酷い状態なので、脱がせてから毛布でくるんだ方が良いかもしれません」
おろおろしていたナタリーが、いつになく取り乱したマロンのただならぬ様子に冷静さを取り戻した。
「ぼくが毛布を抑えているから、ナタリー早く!」
「は、はい。オスカルさま」
「アンドレ、しっかりしろ!目を開けるんだ!」
「無理はさせない方が…オスカルさま」
馬車の外から中のやりとりを聞いていた将軍が指示を出す。
「ナタリー!オスカルが正しい。まだ震えている内に起こして何か温かいものを飲ませろ。腹の中からも温めるんだ。脱水しているかも知れん。震えが止まってしまったら危険だ」
慌ただしく騎乗したジュエラールが叫ぶ。
「我々も教会に向かいましょう。できるだけ早く温めてやらないと」
その一声でジャックが馬に鞭を入れ、馬車は動き出した。
************
将軍が部下の一人を伝令として先に走らせていたので、一行がパリの別邸に着いた時、ジャルジェ家の侍医であるヴァスールは準備万端を整えて待機していた。アンドレは低体温症に加え、脱水と軽い肺炎を起こしていると医師は見立てた。
幸い意識は次第にはっきりとしてきたため、保温に加え、水分補給を十分に施すことができた。容態が落ち着くと、アンドレは空腹すら訴えて皆を安心させた。しかし、医師はあと少しでも救出が遅れれば生命に危険な状態であったと指摘した。
「話を聞く限り、少年は道中で一片のパンを与えられ、荷馬車に乗せられたようですし、羊毛の掛け物にくるまって藁の中にいた。救出のタイミングだけでなく、それらの条件の一つでも欠けていたら、命はなかったかも知れません。ギリギリでしたよ。幸運なお子さんだ」
医師の言葉を聞いたマロン・グラッセはジャルジェ将軍にひれ伏すように泣きながら礼を述べ、将軍を苦笑させた。そして、オスカルの手を取り、嬢様の機転のおかげで助かった、とやはり泣き崩れた。
救出に繋がった機転を利かせたオスカルは、同行したジェラールやナタリー、そして別邸で子供の無事を祈っていた使用人らからも褒めそやされていたが、オスカル本人が気にしているのはアンドレのことだけだった。
一刻も早く友のところへ行きたいのに、別邸の使用人棟の一室に運ばれて医師の診察を受けているアンドレのところへ行くことは許されず、怒り心頭で大荒れした。
ジャルジェ将軍は、職責のためにすぐにでもヴェルサイユに戻る必要があった。何しろ明日の万聖節には王家家族あげてのミサが執り行われる。しかし、荒れ狂うオスカルを使用人らの手に残し、手柄を賞賛されるままにしておく訳にはいかなかった。
確かに、オスカルが狼谷村の捜索を強固に主張したがためにアンドレは発見された。8歳のアンドレが何かしらの犯罪に巻き込まれてなお、自力で村へ辿り着けるはずだと信じたのはオスカルだけだったのだ。将軍もアンドレの上着が見つかった時点で、正直絶望的な観測を立てていた。
だから、将軍はオスカルがアンドレを救ったことは、きちんと評価してやりたかった。しかし、オスカルの浅知恵がこの事態を引き起こしたこともまた事実である。オスカルには、両面を正しく認識させる必要があった。
この経験が新鮮な内に、オスカルを正さねばなるまい。帰路につく前にその時間をとろう、と考えた将軍はオスカルを連れて来させようとしたが、オスカルは呼ばれる前に世話を焼こうとする使用人を振り切り、息せき切って将軍の下に駆け寄るところだった。
「お帰りになるのですか、父上!」
突然降って沸いた夜間の小旅行を終えたばかり、アンドレに近づくことを禁止されたオスカルは、まだ怒りで頬をばら色に上気させ、ほんのり赤く染まった鼻から白い息を吐いている。友の安否がわからぬ数時間の緊張と、救命処置に関わった後の興奮や怒りを全身から発露させているが、そこに将軍が危惧した慢心は見て取れなかった。
オスカルは、父将軍にまみえると、片膝をつき両手を膝の上に乗せた。
「父上、アンドレを助けて下さって、有り難うございました!」
窓ガラスが粉々になりそうな勢いの声だった。アンドレに今すぐ合わせてください、と食ってかかるかと思いきや、以外にも殊勝な行動に出た跡取り息子に、父将軍は一瞬面食らう。頭を深く下げた子供は顔を上げ、父の言葉をじっと待っていた。はらわたを煮えくり返らせているはずなのに、感情を制御している様子に父は感心した。
いつものオスカルのように映るが、どことなく纏う空気感に一気に成長の兆しが見える。昨日のオスカルとは違う、ひとつ子供の衣を脱ぎ捨てたようなオスカルがいた。この長い一日を通して、学び取ったものがあるのだろう。
「うむ。明日のこともあるから儂はヴェルサイユに戻るが、後できちんと話をしよう。おまえの責任について、はっきりさせねばならんぞ」
実は頬が緩みかけていたのだが、将軍は厳めしい表情を務めて維持しながら、跡取りに威厳を示す。子供は、覚悟を新たにした真剣な面持ちで父に頷いた。
「はい!父上」
将軍は、ふと思いつき、居並ぶ部下4名の前に跡取り息子を押し出した。
「オスカル、紹介しよう。今夜任務外の尽力を提供してくれた士官だ。右から、シャルル・アレクサンドル・ド・エナン=リエタール中尉、オノレ=アルマン・ド・ヴィラール少尉、ピエール・ド・ラ・マルク少尉、ルイ=ニコラ・ド・ダヴー中尉だ」
父将軍は、それ以上何の指示もせず、オスカルにあとの行動を任せてみた。オスカルは物怖じすることなく進み出ると、丁寧なレベレンスで礼を取った。無帽のオスカルは、帽子を取る形で敬意を表することができないからだ。そして、ぴしっと背筋を伸ばした姿勢でハキハキと名乗った。
「オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェと申します。皆様方にお目にかかれて光栄です!」
子どもと見て、微笑ましくリラックスした姿勢で挨拶を受けた4人の士官だったが、小さな体ながら、優雅さと小気味よいキレのある礼にはっと姿勢を直した。
「今日は、友達のアンドレ救出作戦にご助力いただき、まことにありがとうございました。オスカル・フランソワ、友に代わりまして心より御礼を申し上げます!」
救出作戦、の下りが幼さく愛らしいが、子どもとは思えない言葉選びと一分の隙のない美しい所作は一種の迫力さえ感じられる。まだ7歳に満たない少年のような美しい少女が、それを危なげなく使いこなしている様に、士官らは揃って敬礼を返した。
シャルジェ将軍は、安堵のため息を密かについた。実は、こまっしゃくれた減らず口などいくらもきけるオスカルなのだが、部下へ述べた礼の言葉には魂が込められていた。作法の上辺をなぞったのではない。オスカルは真摯に頭を垂れたのだ。
オスカルが今回の一件で学んだ何かの中に、感謝が入っていることは間違いないだろう。慢心とは反対の姿勢を学んだのなら心配ない。7歳弱にして、あまりにも儀礼が完璧なので部下たちはたじろいだようだが。
「よし、オスカル。おまえも病み上がりのところを無理をしたばかりだ。ナタリーもばあやもいることだから、何日かはパリで身を休めてから帰って来るが良い。家庭教師には連絡させておく。アンドレのことはおまえの責任だから、よく面倒をみてやるように」
「はいっ!父上!」
父将軍は、頬を上気させ瞳をきらきらと歓びで輝かせている跡取り息子の頭をくしゃくしゃとかき回した。思いがけない父の反応に、あっけにとられて目をぱちくりさせているオスカルをナタリーの手に渡し、父将軍は部下と従者を引き連れて別邸を後にした。
「友に代わりまして御礼…とはな。さて、これからどうしたものか。どう思うジェラール?」
帰路は馬車を出させたジャルジェ将軍は、同乗する従者のジェラールに振ってみた。
「友達でいらっしゃりたいのであれば、なおさら主人の責任も同時に学ぶ必要がおありでしょう。わたくしとしましては…」
ジェラールが目を伏せて言いよどむ。将軍は言って見ろ、と促した。
「今しばらくは、無邪気にお遊びになる姿を拝見したいですが、オスカルさまはご聡明ですので、早過ぎはしないかと」
「うむ」
将軍は、腕を組み満足気に目を閉じた。
************
冷え切った体が温まり、しばらくすると医師の指摘したとおりアンドレは発熱した。酷く苦しがることがなければ、栄養と安静だけで自然に回復するだろうとも言われていたので、マロン・グラッセは赤い顔をしながらも空腹を訴える孫息子の口に粥を運んでやっていた。
普段のマロンなら、主にこれほどまでの迷惑をかけた孫息子に特大級の仕置きをくれるところだが、今回は不憫さが勝って何とも言いようのないほど胸が痛い。しかも、亡き娘から預かって間もないこの子をすんでのところで失うところだったとなれば。申し訳なさに身が詰まる思いだった。
「おばあちゃん」
呼ばれて、マロンははっと我に返った。機械的に匙を運びながら考え込んでいたのだ。
「おばあちゃん、疲れているでしょ。昨日の夜はオスカルについていたんだよね。ぼくはもう大丈夫だよ」
自分で食べられるから、と祖母から椀を受け取ろうと両手を伸ばす孫息子にマロンは目を細めた。大変な目にあったと言うのに、祖母の心配を忘れない、ほんとうに心根の優しい子だと思う。
突然使用人の立場に放り込まれて5ヶ月余り。のんびりと大切に育てられていた子どもだから、それはそれは過酷な日々であったろうに、キャベツの葉が水を弾くように、この子の優しさにはなんら影響を与えないらしい。
マロンは、孫息子の肩まわりにアフガン編みの肩掛けを巻き付けてから、粥の椀を手渡した。子供は熱のために赤い頬をしてはいるが、蜂蜜が入っていると嬉しそうにスプーンを口に運び始めた。
医師の言うとおり、これだけ食欲があれば解熱も時間の問題だろう。あと一歩で落命するところをジャルジェ将軍始め、大勢の人の協力で救ってもらったのだ。この子と一緒に、一生かかってでも御恩をお返ししなければ、とマロンは決意を新たにした。
「おばあちゃん、ごちそうさま」
アンドレが椀を置いた。
「もういいのかい?おかわりは?」
「うん、もういい」
「じゃあ、これでお休み、アンドレ。今夜はあたしがついているからね」
マロンは、子供に枕をあてがうと毛布の中に入れた。そして、首の周りに冷気が入らないように、肩掛けを巻き直してやりながら、どうしても気になることを尋ねた。
「この肩掛けだけどね、どこで見つけたんだい?」
「えっと…」
アンドレが答える間もなく、ドアが激しくノックされた。パリ邸の使用人部屋のドアは薄く、ドアの外ではオスカルが孫息子を呼んでいる声が聞こえる。マロンは慌ててドアを開けに走った。
「アンドレ!大丈夫か?」
マロンがドアを開けると同時に疾風のようにオスカルが駆け込んで来た。ドアの外には申し訳なさそうにナタリーが佇んでいる。アンドレを見舞いたいと言うオスカルの押しに負けたのだろう。マロンはナタリーも招き入れるとドアを閉めた。今夜は小言はなしでいい。
オスカルの声に、寝せて貰ったばかりのアンドレは半身を起こそうとしたが、それより早くベッドに駆け上がっていたオスカルに、寝てろとばかりに押し返されている。そして、オスカルは目ざとくアンドレが毛布から出した右手首を捕まえた。
「これ、もしかして縛られた跡か?」
「え?う、うん、そうだよ」
「反対の手も見せろ」
アンドレは渋々自由な方の腕も毛布から出して見せた。両方とも赤くすり切れた跡や蚯蚓腫れが痛々しく残っている。あまりにも気が動転していたため、孫息子の着替えや清拭を他の使用人に任せていたマロンは、初めて見る傷にひっと短く悲鳴を上げた。
「ちっくしょう、許せないな。どんな奴だった?」
「どんな奴って…ふたりだったよ。ひとりは鷲鼻で口が大きくて髭だらけで…」
アンドレの寝台に上がり込んでいるオスカルは、憤懣やるかたない様子でアンドレの手首をかわるがわる検分していたが、当のアンドレに不思議そうに見つめられているのに気づき、きまり悪そうに手を離した。
「明日、父上が憲兵に調べさせる、って言ってた」
「ふうん」
「だから、気になるけど聞かないでおく。おまえは明日、いろいろ憲兵に話さなきゃいけないし」
熟れた桃のような頬に熱で潤んだ大きな黒い瞳の少年は、オスカルを見つめたままゆっくり瞬きをして微笑んだ。
「オスカル、ありがとう。会いに来てくれて」
オスカルの身体から力がすっと抜けた。逆にアンドレの両手がオスカルの右手をそっと包む。オスカルは胸の奥をきゅっと握られたような、掴まれた心臓がきゅるんと逃げ惑うような、初めての感覚に一瞬おののき、からだがぽっと熱くなった。
「あ、会いたかったから来た」
思わず、飾らぬ本音を口にしてしまい、さらに頬が熱くなったが、アンドレはオスカルを見つめたまま嬉しさがこぼれ出すように笑ったので、オスカルの心臓が駆け足を始めてしまった。
「ぼくも会いたかったよ」
会話が途切れた。
ふたりは暫く手を握り合ったままじっとしていたが、オスカルは背後のナタリーがいつ声をかけようか間合いをはかっている気配を感じた。ほんのちょっと、顔を見るだけでいいから、と無理を言って連れてきてもらったのだ。
オスカルは、手をアンドレの両手から抜き、するりと寝台から降り立った。催促じみた言葉を聞きたくなかったのだ。
ふたりはもう一度、瞳を交わした。
『会いたかった』
それを確認しあうことが、一番重要だった。積もる話は山ほどあるが、それをあとに回せるほど、ひと目の会っただけで心は満ちたのだ。
「アンドレ、強盗からどうやって逃げたかとか、歩いている時のこととか、聞きたいことがたくさんあるけど、おまえが良くなったら話そう。だから、早く良くなってくれ」
「うん、ぼくも話したいことがいっぱいあるよ」
さすがにアンドレの方は、しんどそうに持ち上げた頭を枕に戻し、ふう、と息をついた。それを見たナタリーが一歩踏み出す。オスカルは、素早く侍女を振り返り『すぐ終わるから』と目くばせしてからもう一度アンドレの手を取った。
「よし、じゃあ行くよ。明日、また話そう」
アンドレが頷いたのを見届けると、オスカルは侍女の脇を走り抜け出口ドアに向かった。慌ててナタリーも後を追ったが、オスカルはドアの前でぴたりと立ち止まるとくるりと向きを変え、アンドレの枕元に走り寄った。
「オスカル、どうしたの?」
「アンドレ!気になって眠れないから一つだけ教えてくれ」
「なあに?」
「お母上には会えたのか?」
アンドレは、一瞬きょとんと瞳を見開いたが、ベッド縁から身を乗り出し真剣な眼差しを向けてくるオスカルに微笑んだ。祖母や使用人仲間は涙を流さんばかりに無事を喜んでくれた。しかし、アンドレの一番の望みである母との再会を、自分ごとのように気にかけてくれるのは、やはりオスカルだけなのだ。
ただ、残念なことに。
「う~ん、あのね。ぼく狼谷村まであとちょっとのところまでは行けたんだけど、とっても疲れちゃって気がついた時には、地下室の藁の中にいたんだ」
それでも、アンドレは鼻の上と眉間に小さなしわを寄せて、何か少しでも思い出そうと頭を捻る。しかし、どうしても身体が凍えて動けなくなった先のことは思い出せない。
「地下室まで行ったことは覚えていないのか?」
「うん…」
「せめて手紙は置いてきたか?」
「服と一緒に盗られちゃったんだ」
「そうか…」
オスカルは、がっくりと肩を落とした。アンドレは、自分が全く剣を使えないことを知った時でも、彼女がこれほど残念そうな顔はしなかったことを思い出し、何か他に覚えていることがないか、頭のみならず体中を探った。せっかく協力してくれたのに、何の成果も持ち帰れなかったでは、ごめんでは済まない気がした。
そうだ!
「でも、覚えてないけど、会えたと思う」
アンドレは首元まで巻き付けてある鮮やかなオレンジ色のアフガン編みを引っ張って見せた。
「これ、母さんのお気に入りの肩掛けなんだけど、地下室でジェラールさんに起こされたとき、これを巻いてたんだ」
「え?それ?」
「うん。それにね、胸が温かいって言うか…、狼谷村に行く前の時みたいに、これからぼくどうなっちゃうんだろうとか、勉強や仕事がうまくできなかったらどうしよう、って気持ちがもうないんだ」
「ふうん」
「凄く安心した気持ちなんだ。剣だってもっと練習したい、って気持ちがね、前とちがうんだ。うまく…言えないけど」
「ぼくも、よくわからないけど、きみはちょっと強くなった感じがするな」
「え?ちょっとじゃないでしょ」
金色と黒の頭を突き合わせてふたりの子どもは笑い合った。その様子を見ていたマロンは声を出さずに顔をくちゃくちゃにしながら泣いていた。あの肩掛けは、マロン手ずから娘のために編み贈ったものだ。
物言わない姿になった娘と再会した時、それは娘の傍らにあった。
娘が遅い結婚をした時に贈ったものだから、もう10年は経つというのに、丁寧に手入れしながら大切に使われていたことが一目でわかる、とてもきれいな状態で残っていた。毛糸は長年の使用を物語る傷みやへたれ感があったが、それは取りも直さず使い続けてくれたことだし、新しい毛糸で修繕した跡がそここにあった。
忙しさにかまけて、時々の手紙と贈り物のやりとりしかできなかった10年間、それはずっと娘を寒風から守ったのだ。そこに、母子の絆が息づいているような気がして、マロンは娘が埋葬される時、棺の上にその手でかけてやった。
最初の一握りの土はアンドレがかけた。マロンは少しずつオレンジ色のアフガン編みが黒い土に埋まっていくのを最後まで見届けたのだ。間違いなく、地中深く埋めたものだ。
しかし、アンドレが包まれていた肩掛けは土汚れの一つも無く、マロンが最後に見た時と全く同じ状態で子どもを守っていた。マロンは、頭を突き合わせて夢中で語り合うふたりの子どもを見つめながら、亡き娘に語りかけた。
ジャッキー、おまえかい?おまえががアンドレを守ったんだね。強盗やらひもじい思いやら夜の森やら、どんなにか恐ろしかったろうに、アンドレはピクニックを満喫してきたかのように満ち足りた様子で、落ち着いている。アンドレは覚えていなくても、おまえが奇跡を起こしたことをあたしは信じるよ。
「じゃあ、明日な」
「うん、明日」
子どもらは、どうしても離れがたい様子で何度目かのおやすみを言い合っている。ついにオスカルはナタリーに背を押され、振り向きながらアンドレの寝台を後にした。アンドレも、毛布から顔を出していつまでも手を振っている。
魚と鳥くらい違う環境で育った主家の末姫様と孫息子が、果たしてうまくやれるのか、当初マロンはかなり心配した。しかし、しっかり者の兄が、幼い弟を従えつつ細かに面倒を見ている構図ではあるが、ふたりは大方の予想以上に意気投合した。
今夜のふたりは、一気に絆を深めたように見える。母のない子の孤独と、異質を強いられる孤独が呼び合うのなら、絆はこれからも強く深く結ぶだろう。マロンにとって命より大切な子どもたちだ。オスカルにアンドレが、アンドレにオスカルがいることが嬉しい。
そして、こわい。
マロンは、うとうとし始めたアンドレの枕元に座り照明を落とした。布団と毛布を直してやり、頭をなでてやった。本当は、いつもこんな風に面倒を見てやれたら、と思う。この子の母がそうしていたように。でも、主家の跡取り令嬢と仲良くするのなら、相応の心構えを学ばねばならない。
「おばあちゃん、うふ。母さんの匂いがするよ。わかる?」
孫息子はとろとろしながら母の肩掛けに顔を埋め、うっすらと微笑んだ。この子に、その厳しい道を歩ませていいのだろうか。心が潰れてしまわないだろうか。マロンは、絡み合ったくせ毛の房を指で梳ききながら頷く。
「そうだねえ。子どもにしかわからない、いい匂いなんだろうね」
「そうかな。ぼくね、母さんに会えたと思うんだ。これはきっと母さんがくれたんだよ。変かな?」
「おばあちゃんもジャッキーがおまえを守ってくれたと思うよ。きっとそうさ」
「そうだよね!よかっ…た…」
ことん、と孫息子は眠りに落ちた。マロンは跪き、組んだ両手を孫息子の枕元に置いて祈りを捧げる。
神様、今日は孫息子をお守り下さってありがとうございました。娘を地上に使わし、孫息子を凍死からお救いくださったことに、感謝いたします。嬢様と、孫息子がこれからも仲良く助け合いながら健やかに成長しますように。ふたりが育てる信頼と友情を祝福してくださいませ。そして、それらがもたらす全ての災いからお守りください。嬢様をお助けし、お役に立てるよう、孫息子を教育する力をこのわたしにお授けください。
ジャッキー、頼んだよ。これからもこの子を守っておくれ。
COMMENT
完結!おめでとうございます。
良かったです~!
会いたくて会いたくて会えた二人。
二人の友情と皆の愛情。
将軍まで一緒に動いてくれたのですね。
アンドレの冒険、かなり危険な
ものになりましたが、彼の
がんばりは素晴らしいですね。
オスカルさまの将軍の部下たちへの
心のこもった礼。
こうして育ち、
近衛に入隊した後、
皆の信頼を勝ち取っていったのだと
思いました。
首を長くして待っておりました、
読ませていただき
ありがとうございます!
良かったです~!
会いたくて会いたくて会えた二人。
二人の友情と皆の愛情。
将軍まで一緒に動いてくれたのですね。
アンドレの冒険、かなり危険な
ものになりましたが、彼の
がんばりは素晴らしいですね。
オスカルさまの将軍の部下たちへの
心のこもった礼。
こうして育ち、
近衛に入隊した後、
皆の信頼を勝ち取っていったのだと
思いました。
首を長くして待っておりました、
読ませていただき
ありがとうございます!
まここさま
いつも温かいコメントをありがとうございます。
書いていて、使用人の子どものために伯爵が部下まで投入して自ら捜索なんてするかなあ、って自己ツッコミしていました。物語に反映させるかどうかはわかりませんが、黒い瞳亭のジャルパパは、ばあやが乳母だったので育ての母として大事にしていて、ばあやの娘とは同い年、一緒に遊んだ時期もあるので、単なる使用人の域を超えた情を持っているという設定なのです。ただ、ばあやの娘(アンドレママン)と同い年にすると、アンドレ誕生が高齢出産になるので、アンドレママンは結婚が遅かった姉さん女房という設定も自動的にできました。普段人のことを先に考えるアンドレが、自分のための冒険に出たのは、オスカルさまのプッシュがあったからで、挑戦することを学びます。オスカルさまは自分の計画がもう少しで大惨事になる経験を通して責任を学びます。将来人の上に立つので、絶対必要な過程。それもあって、ジャルパパ人肌脱いだ面もあります。最後までお付合い下さって有り難うございました。もう少し、首を伸ばさないで済む更新頻度にしたいものです。
いつも温かいコメントをありがとうございます。
書いていて、使用人の子どものために伯爵が部下まで投入して自ら捜索なんてするかなあ、って自己ツッコミしていました。物語に反映させるかどうかはわかりませんが、黒い瞳亭のジャルパパは、ばあやが乳母だったので育ての母として大事にしていて、ばあやの娘とは同い年、一緒に遊んだ時期もあるので、単なる使用人の域を超えた情を持っているという設定なのです。ただ、ばあやの娘(アンドレママン)と同い年にすると、アンドレ誕生が高齢出産になるので、アンドレママンは結婚が遅かった姉さん女房という設定も自動的にできました。普段人のことを先に考えるアンドレが、自分のための冒険に出たのは、オスカルさまのプッシュがあったからで、挑戦することを学びます。オスカルさまは自分の計画がもう少しで大惨事になる経験を通して責任を学びます。将来人の上に立つので、絶対必要な過程。それもあって、ジャルパパ人肌脱いだ面もあります。最後までお付合い下さって有り難うございました。もう少し、首を伸ばさないで済む更新頻度にしたいものです。
そういう裏設定が!
ジャッキーと父上にあったのですね。
さすがです!
大人になってからの
オスカルさまの作戦、黒い騎士を
思うと胸が痛くなります(T-T)
私、来春の劇場版云々で再燃して読み更けってますが、ずっとモンブラン様のことは勝手に存じ上げてて(そのころはコメントさせていただく勇気なく(^^;)、モンブラン様が
他ブログにプレゼントされた、
フランソワの幼なじみへの初恋にOAが首つっこむ話も、
大好きでした。
フランソワの初恋のほろ苦感とオスカルさまたちが彼の恋を通じて、新たな関係を構築していく話、特にアンドレの心情にはまってました。あれは掲載はされないのでしょうか?
あ、もちろんとってもとっても
天使ちゃんも楽しみにしています(*^^*)
ジャッキーと父上にあったのですね。
さすがです!
大人になってからの
オスカルさまの作戦、黒い騎士を
思うと胸が痛くなります(T-T)
私、来春の劇場版云々で再燃して読み更けってますが、ずっとモンブラン様のことは勝手に存じ上げてて(そのころはコメントさせていただく勇気なく(^^;)、モンブラン様が
他ブログにプレゼントされた、
フランソワの幼なじみへの初恋にOAが首つっこむ話も、
大好きでした。
フランソワの初恋のほろ苦感とオスカルさまたちが彼の恋を通じて、新たな関係を構築していく話、特にアンドレの心情にはまってました。あれは掲載はされないのでしょうか?
あ、もちろんとってもとっても
天使ちゃんも楽しみにしています(*^^*)
まここさま
そうなんですよ。黒い騎士事件、大きな代償払いましたよね。無謀な作戦だったし。でも、そこまでやって痛い目にあって、衛兵隊に転属することになったのかも知れません。衛兵隊での意識変化はオスカル様の人生集大成ですから、ね。
まここさまも転身ですね。コメントこわ…い、時期があったとは思えないほど、のびのびと感想をくださる。ありがとうございます、めっちゃ嬉しい~。
>フランソワの初恋のほろ苦感とオスカルさまたちが彼の恋を通じて、新たな関係を構築していく話
この一行、凄いですね、あの長いストーリー、突き詰めればそういうことです。一行で表現しちゃった。尊敬です。まだ、同じ場所で見られると思いますよ。天使ちゃん、頑張ります!
そうなんですよ。黒い騎士事件、大きな代償払いましたよね。無謀な作戦だったし。でも、そこまでやって痛い目にあって、衛兵隊に転属することになったのかも知れません。衛兵隊での意識変化はオスカル様の人生集大成ですから、ね。
まここさまも転身ですね。コメントこわ…い、時期があったとは思えないほど、のびのびと感想をくださる。ありがとうございます、めっちゃ嬉しい~。
>フランソワの初恋のほろ苦感とオスカルさまたちが彼の恋を通じて、新たな関係を構築していく話
この一行、凄いですね、あの長いストーリー、突き詰めればそういうことです。一行で表現しちゃった。尊敬です。まだ、同じ場所で見られると思いますよ。天使ちゃん、頑張ります!
骨太で美しい作品を紡がれるもんぶらん様に
褒められてしまった、嬉しい~(^.^)
そうなんですよ!
新作お待ちしている間に名作フランソワ初恋物語を思い出して、探してみにいったのですが、サイトはちゃんとあって
ある日とかはみれるのに、そのストーリーのシリーズだけみれなくて、エラーになってしまうのです、残念(T-T)
だからもしかしたらこちらで…?と
思ったのですが、サイトだけの
問題みたいですね、、。
天使ちゃんがオスカルさまとアンドレの
愛のキューピッドになりますように♡
楽しみにしています。
褒められてしまった、嬉しい~(^.^)
そうなんですよ!
新作お待ちしている間に名作フランソワ初恋物語を思い出して、探してみにいったのですが、サイトはちゃんとあって
ある日とかはみれるのに、そのストーリーのシリーズだけみれなくて、エラーになってしまうのです、残念(T-T)
だからもしかしたらこちらで…?と
思ったのですが、サイトだけの
問題みたいですね、、。
天使ちゃんがオスカルさまとアンドレの
愛のキューピッドになりますように♡
楽しみにしています。
行って見てきました。エラーになりますね。心当たりがありますので、すぐにというわけにはいきませんが、管理人様と相談してみます。教えて頂いて、有り難うございました。ついでにちょっと読み返してみましたが…ちょっと贅肉落とす必要性を感じましたよ、とほほ。
COMMENT FORM