綺麗な顔していい服着ていやがる。貴族の餓鬼だ。
二人の男はアンドレを半地下にある物置のような狭い部屋に担ぎ込んだ。壊れた家具や腐った俵山、樽の残骸、泥水を吸い込んだぼろの塊などが詰め込まれ、くるぶしまで浸かるほどのどろどろした汚水が床に浸水している地下室だ。
アンドレは力いっぱい声を上げ暴れたが、簡単に押さえつけられてしまった。男はアンドレの上着をはぎ取り、もう一人が粗末な木椅子に座らせた姿勢で縛り上げる。
「このおべべは売ってきてやるよ。おやポケットからちゃりちゃりといい音もきこえやがる。頂いとくか、クソ坊主」
「そ、それは父さんがくれたんだ、返せ!」
「おい、口ふさいどけ。外に聞こえるとまずい」
「おうよ、子供の声は甲高くていけねえや」
口の中にぼろきれのようなものを突っ込まれ、さらにその上から捻じった布で縛り上げらたアンドレの目に涙がにじんだ。こんな扱いを受けたのは初めてで、悔しさと怒りが恐怖を吹き飛ばした。
しかし、どんなに足を振り上げて男らに挑んでも体をねじっても、男らにはかすりもしない。
男たちは、椅子の背もたれにアンドレの両手首がしっかりとくくりつけられたことを確かめると、野卑た笑いを残して地下室から出て行った。立て付けの悪そうな扉がギイギイと耳障りな音とともに閉じられる、外から閂が落とされる音が響いた。
アンドレの目の前は真っ暗になった。悲鳴をあげたくてもさるぐつわが食い込むだけで、呻くことしかできない。おそらく地下に汚水が溜まっているのだろう、すえた臭気とともにどこからか冷たい風が下から吹き上がって来る。
そのうち目が慣れてくると、天井に近い小さな明り取りの窓から差し込む僅かな光を頼りにぼんやりとあたりの様子が把握できるようになって来た。
むき出しの石灰岩が積まれた石壁に、木製ドアが取り付けられている。ドアの下辺は汚水に浸かりどす黒く変色し蝶番は赤さびに覆われている。腕と体にぐるぐると巻かれたわら縄はボロボロとすり切れ、括りつけられた木の椅子もギシギシ軋んで崩壊寸前だった。
上着とジレをはぎ取られ、寒さと恐怖でガタガタと震えが止まらなかったが、アンドレは注意深くあたりを見回した。男たちはアンドレからはぎ取った上着を売りに行くと言っていたから、しばらくは戻らないだろう。脱出するなら躊躇しているヒマはない。
『オスカルがいてくれたら』
ガチガチと歯が鳴るほど震えながらアンドレはオスカルを想い、すぐに激しく頭を横に振った。
『違う。オスカルがいてくれたらなんて考えても仕方ない。オスカルが一緒じゃなくて、こんな目にあわせずに済んで良かったんだ。しっかりしろ、オスカルなら出来る限りのことをやり尽すまで諦めないに決まっている。今、何ができるか、それだけを考えるんだ』
アンドレはもぞもぞと体を動かしてみた。そのたびに縄からボロボロとわら屑が落ちる。縄は古く弱っているが長さがあり、アンドレの小さな体を覆い尽くすように厳重に幾重にも巻き付けられている。
縄と体の間に隙間の入る余地はなく、手首は両方とも何重もの縄の下に埋もれ全く動かせない。しかもだんだん痺れて感覚がなくなって来た。さるぐつわを噛まされた口元からつい絶望のうめきが漏れてしまう。
『落ち着け、アンドレ』
オスカルの声が聞こえたような気がして、アンドレはもう一度体を捩じった。
椅子が鈍い音をたてて軋んだ。ふと明かりが灯されたように周囲が明るくなったような気がした。そうだ、椅子!このおんぼろ椅子ならぶっ壊せるかも知れない!アンドレはもう一度力いっぱい体をよじったり前後に揺らしてみた。やはりギイギイという音とともに椅子の形がわずかにゆがむ。
『よし、もう一度‼』アンドレは言葉にならないうめき声を上げながら、蓑のように巻き付いた縄の中で体を伸縮させた。すると、両足が大きく動かせる。
『足は縛られていないんだ!』
希望が湧いて来た。縄は、これでもかと言うほど分厚く椅子の背もたれに括りつけてあるが、脚の付け根から下はフリーだった。子供の脚が床に届かずぶらぶらしているために油断したのだろう。
アンドレは力いっぱい唯一自由に動く足をばたつかせた。座面がアンドレの動きに合わせて揺れる。むちゃくちゃに考え付く限りの方向に体を動かすと、左右よりも前後に動かした方が椅子のたわみが大きいことがわかった。
『こんなこと無駄だ。今にもあの男たちが帰って来てしまう、間に合いっこないよ、もうやめようよ』心の中で弱気な自分が繰り返し泣いて訴える。アンドレはそのたびにオスカルが一緒にいるつもりになって自分を叱咤した。
『その時はその時だ。今考えても無駄なことは考えるな。とにかく椅子を壊して抜け出すことだけ考えろ!』
何度も前後に椅子をゆすっているうちに、足の動きと体の動きをどう連動させればより大きな振動が起こせるか、感覚がつかめて来た。アンドレは歯を食いしばって体全体で椅子をゆすった。椅子の座面と脚部、座面と背もたれの継ぎ目が次第にゆるくなっていく。
『いいぞ!これならいける!』アンドレは夢中で体を動かした。身体が温まってくるのにしたがって弱気な自分は、いつの間にか影を潜めていったようだ。
コツをつかむと、次第に前後方向に座面が大きく移動するようになってきた。もうひと押しすれば椅子が倒れそうな勢いだ。と、ここでアンドレは考えた。
床には汚水が溜まっている。中途半端な壊れ方のままひっくり返ったら、汚水に浸かったまま動けなくなる。椅子がバラバラになるくらい破壊してからでないと、悲惨なことになるだろう。そこでアンドレは座面を左右に揺らし始めた。
当初はほとんど動かなかった方向だが、継ぎ目が緩んだため今度は左右にも椅子の座面は揺れた。椅子の背もたれと座面の継ぎ目が緩んだせいで体と縄の間に余裕が生まれ、手の感覚が少しずつ戻って来た。
左右にも座面が大きく軋むようになったところで、腰を回すように使い、右回り、左回りとバランスに気を使いながら座面を回す方向に大きく動かした。
椅子がきしむ湿った摩擦音が大きくなり、動きに勢いがついた。あともう少しで椅子が崩壊する感触を得たアンドレは汚水の中に叩き込まれる覚悟を決め、さらにスピードを上げた。さるぐつわの口から洩れるうめき声が大きくなる。感覚が戻った両手は椅子の動きに合わせて食い込む縄のせいでちぎれるほど痛んだ。
ついにメキメキと音を立て、背もたれが座面から抜けた。アンドレは大きく後方にのけ反ったが身を立て直し、腰と脚を使って椅子に力を加え続けた。寒さに震えていた体は今や汗だくだった。
ついに椅子は4脚とも座面から抜け、アンドレは勢い余って仰向けに床に叩きつけられた。身体の周りで真っ黒な汚水がすり鉢状にしぶきを上げる。火照った体に汚水は氷のように冷たく、アンドレは目をきつく閉じて汚水が目に入るのを防いだ。
後ろ手に縛られた手首にねじ切れるか思うほどの痛みが走った次の瞬間、背中の拘束がどっと緩んだ。肩までじくじくと泥水に浸かって気持ち悪かったが目を閉じたまま横に転がり、その勢いを借りて起き上がると縄が緩み、肘が動かせた。
そのまま身をよじりながら肘を真横に突き出せるだけ突き出すと、背中に背負ったままの背もたれがゴロゴロ音を立てる。いい具合に縄が解けているのだ。アンドレは何とか膝立ちになりさらに身をよじった。
何本かの木片背中からずり落ち、どぼどぼと水音を立てて汚泥に浮かんだ。縄は一気に緩み、アンドレの肘上のあたりに溜まった。
『やった!』
さるぐつわを噛んだままだったのでうめき声しか出なかったが、アンドレは小躍りしたいほど高揚した。オスカルの言う通りだ。出来る限りのことをただやるだけ。
シャツにじっくりと汚水が沁みて体に張り付き、再び体が冷たくなって来たがアンドレは身をよじり続け、ついに大方の縄をふるい落とした。両手首に巻きつけられた縄だけが残った。
その時、男の話し声が遠くから聞こえた。アンドレはびくっと体を固くして耳を澄ませた。
「ちっくしょうめ、あのババア足元見やがって」
「ああ、どう見たってエキュ銀貨の一枚や二枚の価値があるにちげえねえのによ」
「それを出どころを聞かれずに売りたいなら2ルーブル以上は出せないね、だとよ、ふざけやがる」
「しかも、出るところに出たらあんたらも困るだろう、と来たもんだ」
「けっ!同じ穴のムジナのくせによ、すかしてやがる」
聞き覚えのある声だった。アンドレを拉致した男たちが戻って来たのだ。アンドレの心臓は痛いほど激しく鼓動を打ち始めた。落ち着け、落ち着くんだ。とにかく出来ることをひたすらやり続けろ。アンドレを鼓舞する内なる声はいつしかオスカルの声で響いていた。
その声に導かれるように、アンドレは手首に巻きついた縄をギシギシと緩めつつ後さずりし、身を隠す場所を探した。狭い納戸のような部屋には雑多なものが所狭しと積みあがり、小窓から入るわずかな光源は部屋の一部を照らすのみだ。
隠れる物陰はいくらでもありそうだった。しかし、足首まで泥水に浸かっている状態では機敏に走れないし、水音で居所がばれてしまう。
『男たちはぼくが縛られていると思って油断している。その隙に逃げ出そう。それには扉から遠く離れたところに隠れてはだめだ。えっと扉はどっちに開いたっけ。確か外開きで蝶番は右だ。ぼくは暗い部屋に慣れたけど、あいつらは明るいところから入って来るから扉を開けてすぐは真っ暗に見えるはずだ。だったら…』
アンドレは忙しく手首を動かしながら縄を引きずったまま扉の近くににじり寄った。心臓はさらに激しく動悸を打つ。緊張で呼吸が早くなり、ぐっしょり濡れた背中は泥水なのか汗なのかわからないくらい強張っている。
それでもアンドレは最善の行動は何かを考え続けた。手首の縄は何としてでも外さなければならない。縄を引きずったまま逃げたのでは簡単に捉えられてしまうだろう。手首がちぎれるほど縄をあらゆる方向に伸縮させながらアンドレは考えた。
男たちの声が近くなり、石階段を下りる足音がどかどかと聞こえて来た。アンドレは意を決し、あえて隠れることをせずに扉の開き口方向の壁に背中を向けて張り付いた。男たちの目線はアンドレの身長より上にあり、扉をあけ放った直後の内部は真っ暗に見えるはずだった。アンドレがこの部屋に連れ込まれたときにそう感じたように。
縄。手首の縄が外れるのと、男らが扉を開けるのとどちらが先か。恐怖で身が縮む中、アンドレは縄と外界の音に必死で集中しようとした。他のことは何も考えるな、縄を外せ。扉が開いたら男らが中に入るのを待ってから飛び出すんだ。
アンドレの耳にはオスカルの声が響き続けた。
「さて、かわいこちゃんはいくらで売れるかね」
「それとも身代金を頂くか。お家はどこかなあ、教えてちょ~」
がたがたと閂を抜く音が頭上で響く。怖い。心臓はもう全身で脈打っている。それでもアンドレは手首の縄を緩めることに集中した。手首の結び目からぶら下がる長い縄は汚水の中へ消えている。
こんなものを引きずって逃げても簡単に捕まってしまう。何が何でも外さなければ。さるぐつわをかまされたまま、アンドレは歯を食いしばった。
扉がぎしぎしと音を立てて開いた。男二人のシルエットが逆光に黒く見えた。縄はまだ外れない。アンドレは肩を丸めて屈んだ。縄を引きずったまま飛び出すか、もう少し頑張るか。
「あれ、坊主はどこだ?」
一人目の男が部屋に足を踏み入れ、ぐるりとあたりを見まわした。後に控えているもうひとりの男が、どけとばかりに仲間を押しのけた。
「きつく縛り過ぎたから目を回してんじゃないのか」
扉が大きく開いた。アンドレは男たちがどかどかと荒い足音を立てて地下室にはいるのと入れ替わりに戸口の外にそっと身を出し、走り出したい衝動を堪えた。
幸いなことに靴は脱げていなかったが、一歩ごとに水音がしそうなほどぐっしょりと濡れていたし、腕からはまだ長い縄がぶら下がっている。
戸口の外には十数段の昇り階段が見えた。階段の先は明るい屋外のようだ。男たちはまだ地下室にいる。縄が外れないのなら、気付かれる前にできるだけ距離を稼ごう。一歩、二歩、アンドレは音を立てないように歩を進めた。ずるっずるっと縄がついてくる。
こわごわ振り向くと、開け放した扉とその横に立てかけてある閂が目に入った。戻って扉を閉め、閂をかけてしまえば。だめだ、手首を縛られたまま、そんな素早い動きができるとは思えない。閂の重さは自分の力に余るかも知れない。
その瞬間、男たちの怒鳴り声が響いた。
「くそう!ガキはどこだ」
逃げるしかない。アンドレは手首の縄を引きずったまま階段を駆け上がった。ぐっしょり濡れた靴が重い、縄も重いが振り返る余裕などない。階段をあと二段ほど残したところで、男達の怒号とともに手首の縄が引かれた。
「このくそ坊主、逃げられると思うなよ!」
縄が引かれるままに後ろへバランスを崩した。もうダメだ。助けを呼ぼうにも、さるぐつわのせいで声が出ない。それでも渾身の力を振り絞り、前へ前へと体を傾けた。男たちの足音が迫るとともに、距離が近づいた分の縄がたわむ。
アンドレは、たわんだ縄の分だけ全力で駆けた。最後の段に足が乗った瞬間、また縄が引かれ恐怖のあまりアンドレはきつく目を閉じたが、走るのはやめなかった。と、そのとき。
「うわ~~っ!」
男の悲鳴が上がった。ぼろぼろだった縄が切れたのだ。縄を掴んでいた男が後ろに倒れ、そのすぐ後ろを追っていたもう一人の男もろとも、階段を転げ落ちていった。
アンドレも縄が切れた勢いで前方に転んだ。両手首が縛られたままなので、顔面からぬかるんだ路上に突っ込んだが、かろうじて顔を横に向け、目を守りながら衝撃をやわらげるために横に転がった。さるぐつわのおかげで、口の中に泥が入り込まなかったことだけが、不幸中の幸いだった。
「おやあんた、どうしたの?」
野菜かごを抱えた中年の女が助け起こしてくれた。それが親切なのか、次の試練なのかアンドレにはもう区別がつかなかった。あのふたりの男達だって、パンが買える場所を教えてやる、と親切そうだったから気を許したのだった。
とにかく逃げなければ。アンドレは女を振り切って走った。全身で汚水を吸い、ねっとりした泥にまみれたままアンドレはパリの小路を往来する人混みをぬって、動けなくなるまで走り続けた。
さるぐつわをかまされたままだったので、遠くには行けなかったが、積み上げられていた材木の影に身を隠して手首の縄を外そうともがいた。長い時間をかけ、もろくなっていたわら縄がやっと切れて、感覚のなくなってしまった手でようやくくさるぐつわを外した瞬間。堪えていたものが一度に溢れ出した。
アンドレの号泣が、暗く狭い路地両側にそびえ立つ汚れた建物の壁にこだまする。怖かった、痛かった、苦しかった、冷たかった、寒かった。でも諦めなかった、ついに逃げ出せたんだ、やったぞ。ぼくはやったんだ!
行き交う人々は、アンドレのことなど気にもとめずに通り過ぎる。頭の上まで積み上がった薪の束を背負う少年、鶏を詰め込んだ籠を天秤にぶら下げている男。裸足を真っ黒に汚れたスカートの裾から覗かせた少女は、泣きわめく赤ん坊を抱き小走りで母親らしい女の後ろを追っている。
アンドレが寄りかかっている壁の上の窓からは、言い合う男女の怒鳴り声が聞こえ、向かいの建物の隙間にわたした木柵の向こうでは、豚の鳴き声がかしましい。そこから、初老の男が縄をかけた二頭の痩せた豚を引っぱり出すのを見て、アンドレは思わず自分の体を抱いた。
自分もあのように縄をかけられていた。まさか、畜殺場に連れて行かれるとは思わないけれど、本当に危なかったんだ。諦めなくて良かった。
パリに着いたときに鼻についた悪臭は、いつの間にかわからなくなっていた。自分が汚泥そのものになっているからだ。寒さで体が震えている。休みたい、眠りたい、暖かいところに行きたい。緊張が抜けてしまうと、気力が底をついていた。座り込んだ地面からの冷気がじわじわと体を浸食しているのがわかるが、もう動けない。
まぶたが重くなってきた。もう、どうなってもいい、と目を閉じようとした時、後ろの方でガタガタと木がきしみ、錆び付いた蝶番が開く音が聞こえた。
「おや、見慣れない子だね。どこの子?」
振り返ると、木戸を開けて一人の女が出て来るところだった。片腕に首が据わったばかりと見られる赤ん坊を抱き、明るい栗色の髪をボンネットで纏めている若い母親だった。アンドレの心臓がトクンと鳴る。
『母さん?』
女はアンドレの母とは似ても似つかぬ細面に、小さな緑の目の下に隈が目立つ疲れ切った表情をしていたが、アンドレはその母親に自分の母を重ね、ぼんやりと見上げた。あれは、死産と言われた妹だろうか。
『赤ちゃん、ちゃんと生まれていたんだ。良かった』
母親は怪訝そうにアンドレを見下ろしていたが、アンドレのくちびるが『母さん』と動いたのを見て取った。アンドレははっと我に返り、目の前の女が赤の他人であることに気づいた。泥で汚れた頬にぽろりと涙がこぼれて地面に落ちた。
女はアンドレの様子を見ると、せわしなく家の中に取って返し、手に小さな塊を持って戻って来た。
「こんなものしかないけどね。お腹がすいているんだろう?お上がりよ、坊や。もう何日も経ったパンだから石みたいに硬いけど、少しずつ口の中で溶かすように丹念に噛んでいれば食べられる。あんたはいい歯をしているようだからね」
そう言ってアンドレの手に岩のかけらのようなパンを握らせた女が笑顔を見せた。女には前歯が一本もなかった。
「ありがとうございます」
アンドレがよろよろと立ち上がって礼を言うと、女は小さな目を丸くして、ケタケタと笑ってから、掠れたような咳をした。
「おやまあ、珍しいくらい礼儀正しい子だね、たまげたよ」
「あの」
アンドレは恐る恐る女に話しかけた。恐ろしい思いをした後で、人を見ればまた何かされるのではという恐怖にとらわれていたアンドレだったが、赤ん坊を抱いているというその一点で、この母親は安全だと思えたのだ。
「ここは、どこですか?」
母親は、はあ?と歯のない口をぽかんと開けた。
「ぼく、川岸に行きたいんです。どっちに行けばいいですか?」
女はアンドレを痛ましそうに見たが、何も聞かずに教えてくれた。
「この路地をまっすぐ行くと、広場に出る。そこでぐるりと周りを見渡した時に見える一番高くてとんがった塔を目指してお行き。一番高いやつだよ。その塔がある大っきな教会は、川のど真ん中にあるから、嫌でも川岸に出られるよ」
「ありがとうございます。何もお礼ができなくてごめんなさい」
泥をかぶって真っ黒な顔をしているが、明らかにこの界隈の子供とは様子の違う子だと女は思った。パンは盗んでも礼を言うものではないし、泥だらけのシャツを一枚着ているだけの割には、泥々だがサイズの合った靴を履いている。
しかし、貴族の子とも違う謙虚さがある。カビの生える寸前のパンに礼を言う貴族などいはしない。何か訳ありなのだろう。地理感が全くなさそうなところからして、人買いの手から逃げてきた子だろうか。
聞き質したい誘惑に駆られたが、女は黙って見送ることにした。これ以上の手助けができる余裕などありはしない。深入りすれば辛くなる。
「気をつけてお行き。人気のない細い路地に入っちゃいけないよ。広場には水泉があるからね。次にいつ水があるかわからないから、飲んでからいくといい。じゃあ、あたしも急ぐから行くよ」
アンドレは久しぶりに聞いた気のする思いやりのあることばに、普段の笑顔を取り戻し、にっこり笑って『はい!』と歯切れの良い返事をした。そして別れ際に女に尋ねる。
「あの、赤ちゃんの名前は何ていうんですか?」
「この子かい?アニエスだよ」
「アニエスに神様のご加護がありますように!さようなら、ありがとう!」
どぶに落ちた子犬のようにしょぼくれていた男の子から、思いがけない可愛らしい笑顔と祝福を貰った女は、抱いていた赤ん坊をぽんぽんと叩いて呟いた。
「あんたには兄ちゃんがいたんだよ。生きていれば、あの子くらいさね。もしかしたら、あの子の体を借りてひょっこり会いに来てくれたのかも知れないよ。今日は、10月31日だからね」
教えられた通りの広場に出てみると、押し合いへし合い連なる屋根の向こうに、天を突き刺すかのような鋭く高い尖塔が見えた。
『あれだ』
見たことのある塔だった。馬を駆る父の前に跨がらせてもらってパリに来たときも、祖母と馬車に乗って狼谷村から引き上げて来たときも、あの塔は天を支えるようにそびえ立っていた。
今日はひとりで塔を見上げている。寂しくても、自分の力だけで立って。ぼくは前のぼくではないんだ。一歩一歩進んでさえいれば、いつしか景色が変わり、できなかったことができるようになっている。
母さんに会いに行こう。アンドレは尖塔に向かう路地を選んで歩き出した。つま先は凍り付くように冷たく濡れた衣服が体温を奪うが、歩いてさえいれば凍り付くことはないだろう。
ふと右手に握りしめていた石のようなものの存在を思い出した。知らないおばさんがくれたパン。元の汚れと、自分の手からついた泥汚れで、硬さだけではなく見た目までが岩のようだ。
『ほんとうに石みたいだ』
言われた通りにすこし囓ってみた。堅いくずのようなかけらが少しずつ削れて口の中に残る。まるで砂利のように味気なかったが、何度も繰り返し咀嚼しているうちに柔らかく溶けていった。たまに、砂や籾かすのようなものが口に残るので、都度吐き出さなくてはならなかった。味は、最悪だった。
持っていたものを奪われて、身ひとつになってしまったと思ったのに、手の中にはパンがある。恐らく、今まで食べたことのある中で一番まずいパンなのに、一片のパンがアンドレに与える力は驚くほど強力だった。
囓っていると、心が落ち着いてくる。重い体に力が戻ってくる。裸足の子供がそこここにいるのに、靴だけは奪われずに残っているおかげで、まだ歩き続けることができる。
父さんと、母さんが、助けてくれているんだ、きっとそうだ。必ず村にたどり着いて見せる。アンドレはどこにいるとも知れない両親に約束した。待っていて!
歯でパンの表面を削り取るように、少しずつ囓りながら歩いていると、アンドレの目の前に二つの巨大な角塔を擁した寺院が現れた。目印にしていた尖塔も中央にそびえている。寺院の両側には、小舟や筏をばらばらに乗せた一反の布がゆっくり移動しているように、セーヌがゆるやかに流れていた。
『川に沿って行けば、絶対に迷わない』
オスカルの声が耳に甦る。次の一歩のことだけ考えろ。アンドレは再び歩き出した。
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