2.非・非常時にも愛を Ⅱ 

2024/07/13(土) 暁シリーズ番外編



さて、本番だ。手強い相手は小会議室にいる。何と言ってやればいいだろう。

『今朝は悪かった。心配ばかりかけるわたしを許してくれ』

・・・そのものずばりだが、ありきたり過ぎる。それにわたしはあいつに心配をかけることすでに四半世紀が経過している。今更な気もしないか。もっと、こう愛に溢れた言い方がいい。

『わたしは本当は臆病なんだ。だから、つい攻撃という形の防御策を講じてしまう。わたしが噛み付く時は後ろめたいか怖気づいている時と心得てくれないか』

・・・何だこれは。正直だが、まるで『オスカル・フランソワ取り扱い説明書』ではないか。こんなもの、あいつに読み上げてやっても釈迦に説法だ。愛はどこへ行った。

わたしは小会議室の入り口まで来ると、扉の壁際に腕組みをして寄りかかった。両開きの扉は半分開いていて、中にはまだ数名の人の気配がある。人が引けるのをもう少し待つ間、私は再び考えに沈んだ。

結局わたしが何を言ったとしても(言わなかったとしてもだ)あいつはわかってくれている。けれど言葉などいらないほど親密な間柄であっても、言葉で聞けばより嬉しいはず。筆頭は言わずもがな、愛の言葉だな。ところが愛の言葉ほど、心を丸裸にひんむいてしまうものはないから、わたしがずっこけるのだ。

おお、そう考えると、言葉で愛を告げることはベッドで愛し合うことに負けず劣らず究極の接近ではないか。裸になるし無防備この上ない。いや、だからその即物的な意味合いで言っているのではなく、観念的な共通点として・・・。

しまった、考えの方向を間違った、くらくらする。落ち着かなければ。発熱しているとあいつに勘違いされてはまたうるさいほど世話を焼かれる。わたしをしっかりと休ませるために、あいつに予備の寝室に引っ込まれてしまったら最悪だ。それだけは絶対にいやだ。

「これは師団長殿、こんなところでどうなされた?」

いきなりしわがれ声と煙草と酒臭い息を吹きかけられてわたしは思わず雄叫びを上げそうになった。
+
ちょっぴり艶っぽい妄想から一気に薄暗い廊下に引き戻されてみると、マルソー地区の靴職人組合の親方、確かギョーム・ブルーストという名の髭面親爺が小会議室から出てきて、いけ好かない赤鼻をひくつかせ、にやけた顔でわたしの個人的領分を侵食する距離にいる。明らかにあいつを待っている風のわたしに、ぶしつけな好奇心が丸出しだ。

わたしとしたことが近づく人影に気づかないとは油断した。プライベート的思考を突然ぶち破られて一瞬ひるんだが、そこは天下のオスカル・フランソワ。動揺などおくびにも見せず、必殺技の不敵な態度で偉そうに笑い返してやった。

どてっ腹を斜めに掻っさばくほど切れ味抜群(と、もっぱらの評判だ)の視線をお見舞いしてやると親爺はたじろいだ。ふふん、オスカル・フランソワ使用上の注意を知らんで下手に触れると怪我のもとだ。覚えておけ。

妻が上官で夫が部下という図式は、たびたび市民兵の間で面白おかしく揶揄されている。とは言え、これは一本取られたと唸らせてくれるほど独創性にあふれた野次は一向に現れず、どれもわたし達の予想範囲でしかないから特段気にも留めていないが、正直うんざりではある。

フォーブール酒場劇場で、あいつは『この世で最も気の毒な亭主で賞』だの、『なぜか亭主を持つ男』だの、『現代の哲学者』だのの称号とともに気の毒がられているらしい。

だがわたしに言わせればわたし以外の地球上の全ての女の方が気の毒だ。あいつを夫に持つ幸福を味わえるのはこの世でわたしだけなのだから。

「ご苦労、シトワイヤン・ブルースト。それにシトワイヤン・ティボーもご足労されたか」

ブルースト親爺の後から続いてもう一人、野次馬魂全開オーラを発するひょろりと痩せた男が出てきた。男達の名前はすぐにわかったので名指し先制してやった。

群れの中に隠れて人を野次る時は豪胆になれても、個人としての自分が特定されると急に勢いが萎む男は多いから、のっけに名指ししてやるのは効果的だ。

あいつの綿密なプロファイリングのお陰で小隊長以上の面子は初対面でも大体わかる。案の定、親爺殿お二人は自分達の匿名性が暴かれたことに戸惑いを隠せない。さて、ではとどめを刺してやろう。

「キューバ産の嗅ぎ煙草に・・・、ほう、その香りはアルマニャックに相違ない。豪勢だな。最近のフォーブール・マルソーは好景気とみえる。結構、結構」

ハッタリをかましてやると、親爺殿は見る間に顔色を失った。はっは、臭い息から酒と煙草の原産地までわかるわけがないだろうが。

わたしの担当地区では私刑と略奪を特に固く禁じている。違反した場合には相応の罰金刑を課しているが、この二人、その狼狽ぶりから明らかに略奪に関与していると自白したようなものだ。

いかに親方階級であっても、パリで最も貧しい地区の一つであるフォーブール・マルソーでブランデーや嗅ぎ煙草を気軽に買える市民などいはしない。

「あ、いや、ははは、おかげさんで、へへへ」
「そんじゃ、ごゆっくり」

おお、貴殿らの蛮行はごゆっくりと調べさせていただくとも。180°態度を豹変させた親爺兵はモミ手にへっぴり腰でそそくさと立ち去って行った。

親爺兵は兵としては超初心者であるにもかかわらず、商人や職人として築き上げた権威がそのまま兵としても通用すると思い込んでいるから、謙虚に学ぶことが難しい。

ブルーストにティボー両氏の違法行為が明らかになったとしても、ただ厳しく処分するだけでは反発を煽るだけで隊の秩序は余計に乱れるだろう。さて、どうしたものか。

振り返れば、アラン以下衛兵隊員などかわいいものだったと思う。素直にストレートな反発にはわたしも真正面からぶつかれば良かったし、打てば響くようにわかりやすい反応を返してくれた。

真剣に取り組めば驚くほど早く教練から学び、柔軟な姿勢を持っていた。

「誰がかわいいって?」

吐息がかかるほど近くで声が響いた。
今度こそわたしの心臓は脳天まで跳ね上がって頭蓋にぶち当たった。声に出してひとりごちていたのか、わたし!

わたしのプライベートゾーンの結界はまたもや大きな人影によって侵食されていたが、今回は使用上の注意を熟知した人物だから触れるほどの位置に立っていても無傷である。

しかもこいつはそのために高い代償を支払っているから、無傷で接近する以上の作用を私に及ぼすことができる。

低く深い声はわたしの背中をざわつかせるし、香りは阿片よりも妖しくわたしを酔わせてくれる。喧嘩のあとなどが特に強烈だ。視覚的にも魅惑的だ。

パリ中で見られる同じデザインの青い軍服と、こいつが着用しているものが同じだなんて信じられるか?こいつが着るとトップデザイナーが優美な曲線の黄金率を計算しつくして特別あつらえたように見える。上品なセクシーさは危険なほどじゃないか。わたしは即座に塩の柱になった。

一方のあいつは、涼風に髪を遊ばせているかのように涼しげな顔をしているから憎らしい。あたふたと逃げるように去って行く二人の親爺兵の足音が回廊を曲がって消えていくのに耳を凝らし、摩訶不思議そうにに首を傾げてから笑った。

「また渋い趣味だな」
「ばっばかを言え!」

わたしは慌てて塩の鎧を全身から振り落とした。
「わっわたしは・・・!」
「思ったより早く戻って来たな、良かった」

ぱあっと雲間から太陽がのぞいたような笑顔を向けられ、わたしは反論する気勢をたちまち失った。まあ、わたしの趣味などどうとでも誤解していれば良い。

それよりも、ここ数日間こいつにかけた心配の罪滅ぼしとして、新生オスカル・フランソワが心をとろかすような一言をかけてやろうと決めたのだ。ここ一番の集中力でのぞまねば。

くそう、親爺どものお陰で心の準備が吹き飛んでしまった。何を言おうとしていたのだったか。そうだ、愛を言葉で告げるのはベッドで愛し合うことと同じくらい無防備に接近する行為だと・・・違う、そうじゃない!ああ、顔が・・・燃える。

両腕に抱えた書類で手の塞がったあいつが身を屈めてわたしの頬に鼻先を当てた。途端に折角の笑顔に影がさす。
「今朝より熱がある、オスカル。早く館に戻ろう」

ほら見ろ。予想通りの展開になってしまうではないか!
「熱はたいしたことない」
「司令部に寄る必要はなかったろ?直帰して早く休めばよかったんだ」

大好きな笑顔がみるみる曇る。さあ、はやく言え、オスカル・フランソワ。待っていたと、どうしても待っていたかったと。おまえが深夜帰宅するまで会えなくては、寂しくて死んでしまいそうだと。

おまえと一緒でないと、食事も喉を通らないと。言えたら、すごいぞ。だが、こいつをほったらかしたのはわたしの方だ。ちょっと勝手すぎな気がする。

「妙におとなしいんだな、そんなに具合が悪いか」
「ちっ、違う」
何をしているわたし。勝手でもいいじゃないか。どうせいつものことだ。細かいことは気にせずさあ言え!

「オスカル、もしかして・・・」
「だから違うと言うのに」
「おれを待っていてくれた?」
「違うっ」

         え?

しまった、ついはずみで間違えた。こら、絶句するな、まだ間に合う、さっさと取り消せ、そして言うんだ、そうだ待っていた、本当はおまえの方が大切なのにないがしろにしてしまって済まない、甘えすぎた、愛している、と!

これは凄い。最後まで言えたら初めて非・非常時に(つまり常時だな)告げるジュテームだ。さあ、行け!

「エスコート・サービス!」
気が付くと、わたしはあいつのわき腹に乱暴に肘を突き出し、世にもぶっきらぼうに怒鳴っていた。 ・・・いい仕事ぶりだ、オスカル・フランソワ。

あいつは、司令部もマロン館周辺もすっかり頭の中に入っているから大丈夫だよ、など野暮なことは言わず、ただ、わたしをきまり悪くさせるに十分なほどの間、呆気に取られてから
「ありがとう」
と微笑んだ。

わたしはあいつの抱えている書類を半分ひったくり、あいつの左肘をがっちりと抱えてマロン館まで無言で誘導した。あいつは、マロン館の敷地へ入ると、ぐいぐいと肘をひっぱるわたしから腕を外し、代わりに二人の指同士をしっかりと組み合わせて手を繋いだ。

「こっちの方が好きだ」
陽だまりのような笑み。もっと温かい掌の温もり。
「・・・・・・」
嬉しいのにだまってうつむくばかりのわたし。

おいおい、何だその小娘のような反応は。あいつはわたしのかたくなさを気に病む風もなく、口笛でも吹きそうなくらい楽しげに繋いだ手をふりふり歩き出す。何だか救われた。

エスコートするつもりが立場が逆転していた。わたしたちはもっぱら専用外階段を利用してマロン館の自分のアパートメントへ出入りしている。が、気がつけばわたしは正面玄関を抜けて大階段に誘導されていた。ここから館へ入ると、守衛を務める見習い少年兵が外套など受け取りに駆け寄って来る。

今日の当番は三角帽からスプリングのようにきつい巻き毛が氾濫を起こしているまだ十三歳くらいのひょろりと痩せた少年で、そばかすの散った鼻先を緊張の汗で光らせている。あいつはわたし達の部屋を開錠して扉を開けておくように少年に指示した。

「それからこの機密書類を一枚も落とさないように居間のビューローに置いてくれ。頼むよ」
「はっ、はいっ」

少年兵は背中を弓なりに反らせて敬礼すると、そのはずみで帽子を後ろにすっ飛ばした。彼は慌てて帽子を拾い頭に乗せようとしたが、猛氾濫を起こしたくるくるの巻き毛が帽子の中におさまることを断固拒否する。

わたしは彼の名誉のために笑いたくなるのを必死でこらえ、帽子に収めるのを手伝ってやった。やっかいな髪の扱いならわたしは修士論文くらい居眠りしながら書けるほどの専門家なのだ。

少年は恐縮してワイン色に染まったまま、手渡された書類をひしと抱きしめて任務を遂行するために走り去った。

「機密書類?」
「はは、彼も一日に一回くらいドラマチックな仕事で役に立つ気分を味わいたいんじゃないかと思ってな」
「嘘つきめ。可哀相に、触れたらはじけ飛ぶくらいに緊張していたぞ」
「それはおまえを至近距離で見たからだろ」
「化け物か、わたしは」
「そんな可愛いものじゃない」
「何だと・・・うわ!」

前触れなく抱き上げられ、世界が回転し、ホールの高い天井が目に入った。金色に塗装された貝殻のモチーフで縁取られた羽目板には大天使ミカエルの天井画がはめ込んであった。

マロン館ホールの天井など見たのは初めてだったがどこもかしこも派手過ぎる。絵画を鑑賞する気分ではなかったので、ぐいと首を起こしあいつの肩に腕を回して体勢を安定させた。

絵画はどうでも良いが、あいつの首筋を目前にすると鼻先をこすりつけたくなる。これは、わたしにとってまばたきやくしゃみと同列の反射だから制御するのは非常に困難だ。

おまけに心休まるあたたかな匂いがする。しかし、ここはパブリックスペースだからこらえなければ。

パブリックスペース?!
「おい、人にみられるぞ、何をする!」
「キャリー・サービス」

耳元を吐息の混じった甘い声がわたしを溶ろかした。そのくせ、清らかに野辺の花を愛でているだけですが、と言わんばかりの罪なき微笑を浮かべて見せるから嫌になる。

悪戯心で満タンのくせしてよくも修道士のような顔つきができるものだ、このたぬき野郎。恋人になる前までは自分の言動が引き起こす波紋に関してまるで無自覚な天然野郎だったくせに。

天然野郎を野放しにしておく危険性にわたしが最近まで気づかなかったことを幸運に思え。気づいていたら、わたしは間違いなく特殊メイクと真っ青なカツラで防護した覆面従者にしてやったぞ。しかもお仕着せはヒキガエルの背中模様にショッキングピンクの縁取りだ。

それにしても、こいつは自分の声や容姿の効果的な使い方を着々と習得している。おかげでわたしはこのふざけたシチュエーションに無抵抗でいるのだから驚きだ。

こいつがわざわざ正面玄関に回ったのはキャリーサービスのために広い階段が必要だからだな。そして部屋の扉を開け、荷物を処理する人手を得るため。少年兵に重要任務を与えたように装ったのは、しょうもない仕事をさせた罪滅ぼしか。

夕刻はマロン館を官舎として使っている将校やその家族の出入りが多い。あいつがわたしを抱えたまま正面ホールから階段を上り始めると、早速二階の一角に居住しているラヴォワジェ大佐の夫人(かどうかは極めて怪しい)が小間使いを伴って降りて来るのと出くわした。

「上からキアラ・ルイーズが降りてきたぞ、左に五歩避けろ」
あいつの襟元をひっぱって私は小声で注意を促す。
「五歩も?今時パニエを三重にでも着けているとか?」
「いや、三重なのはあごだ。ご夫人は全体にいささか幅広なんだ」

罰当たりなやり取りである。キアラ・ルイーズ・ド・ラ・もしかしたら・ヴォワジェ伯夫人は、ふっくらと焼きあがった白いパンのように優しく温かい雰囲気を持っていて、化粧も装いも品がいい。

三重あごでも二人分幅をとっても、彼女らしい個性であり豊かな表情と調和した美しい人と言える。まあ、今はそこまで説明している暇がないので許してもらおう。

それより、彼女は見たもの全てをまるで呼吸をするように話題にするご婦人である。人は良いから見たものを悪意に解釈することはしないだろうが・・・。明日の私に幸運を祈って欲しい。

あいつは丁度ご婦人のドレスの裾を踏まないですれ違える位置まで左に移動した。避けていることを全く感じさせない自然な動線はさすがである。

さて、一旦姿を見られてしまった後、あわてて身を離しても余計に怪しさが増すだけだから、わたしはそのままの体勢でキアラ・ルイーズの方を向いた。あいつも同じ意見なのだろう、彼女の三歩手前まで近づいたところで平然と足を止め、わたしをかかえたまま静かに会釈した。

                 

五分後、三階の自室に辿りついたわたし達は笑い転げていた。

「言うに事欠いておまえは!」
「あながち嘘じゃない」

「戦場で負傷兵を運ぶ腕力をつけるためだと?」
「腕力は不要か」

「それはあった方がいいに決まっているが」
「基礎訓練にだって組み込まれている」

「人を担いで障害物を乗り越える訓練のことか」
「同じだろ?ただしおれの場合はおまえをかついで窮地を乗り越える」

「騙す方のかつぐだな」
「滅相もない。おまえはちゃんとここまで担いで来ただろ。おれがかついだのはキアラ・ルイーズ夫人の方だよ」

「で、何だ。わたしの第三師団では、プライベートな時間にできるだけ人を担ぐか背負って過ごし、筋力増強する努力義務を課す予定でいるだと?」
「そうそう」

「そこで、事前におまえが実験体として試行しているわけだ」
「偉いよな、おれ」

「明日の昼までに全師団に知れ渡るぞ。除隊志願者の列が地球を一周したらどう始末をつける?」
「実験体が一晩で腰を抜かしたので、中止になったと言えばいい」


「銀杯」から届けられる食事を前に食卓へついても、わたし達はまだ笑っていた。
「よく考えたら、キアラ・ルイーズは今回ばかりは口を閉ざすかもしれないな」
「なぜ?」

「わたしが彼女なら、自分の旦那にその特殊な自主トレを課したくはないからな」
「そう・・・か?」

「わからないのか、おまえは彼女とすれ違うために五歩もよけたのだぞ」
「・・・?」

「自分をかついで歩かなければならなくなった旦那の絶望を見たくないじゃないか」
「し、しまった!そうか!」

「おまえはそこまで計算づくでほらを吹いたのかと思ったが?」
「まさか!誓って違います。信じてお願い」

わたし達は不謹慎にも笑い続け、悶々と抱えていた後味の悪さは余韻すら残らずず粉砕してしまった。結局、あいつはわたしの窮地をいつものように救ってくれたのだ。

それも良し悪しである。あいつが魔法のようにいつもの空気を取り戻してくれたものだから、今更事を蒸し返す野暮を犯すわけにもかず、わたしは言葉で気持ちを伝える機会を逸してしまった。

しかし、わたしの食卓での態度は素晴らしかった。健康的すぎる食事は寿命を縮めるなどと屁理屈をこねなかったし、ワインはグラス一杯にとどめ、あいつに促される前にスープをおかわりし、何と一度もごねずに薬湯を一気に飲んだ。

ツタンカーメン王のミイラだって一口味わえば、棺おけをこじ開けてよみがえる母上レシピの例のあれだ。あいつはレシピに忠実に、生姜やセージ、カモミールなどありふれた材料に加えて、希少な極東産の朝鮮人参やローヤルゼリー、蜂の子の粉末なども苦労して入手しては毎日煎じてくれる。

が、彼に言わせると材料を確保するよりも、わたしに飲むように説得する方が困難なのだそうだ。

わたしの気持ちは態度で十分に伝わったと思う。
その証拠に、あいつはわたしらしからぬ殊勝な態度について一切触れてはこないし茶化しもしない。代わりに薬湯の後味に七転八倒する私にすかさずくちづけて、運命を共にしてくれた。口に苦い良薬は、じきに糖蜜の味わいに変わった。

「まずい」
あいつが囁くのが銀河の彼方から聞こえた。まずいなんてことがあるか、失敬な。体中を蜂蜜が循環しているみたいに甘いじゃないか。

するとふと唇が寂しくなった。我に返ると、あいつが名残惜しそうに唇を離すところで、いつどうやったのかわたしはあいつの膝の上に上がり込み、両腕をしっかりとあいつの首に回してすっぽりと彼の懐に収まっていた。わたしはひょっとして気でも失っていたのか?

「まずいのは薬のせいだ」
取りあえず考えついた抗議を申し立てると、あいつは鼻先を私に押しつけてくすくすと笑った。

「違うよ、おまえに酔いつぶれる前にそろそろ司令部に戻らなきゃまずい」

わたしはすでにぐでんぐでんにキスで酔いつぶれていたから、猛然と不満の声を漏らし、あいつの髪を両手で鷲づかみして引き寄せると、激しく唇を奪ってやった。

言い忘れたが、わたしは言語を介さない方法でなら、情熱を結構素直に表現している。だから何とか破綻しないでいるとすれば・・・。いや、この分野に深く突っ込むのは止めておこう。

「オスカル、おれの理性は鉄壁じゃないんだ、助けてくれ」

あいつが悲鳴を上げた。酔っ払い相手に説得を試みるとは酔狂な。それでもあまりに情けない表情を見せるので可笑しくなり、条件つきで許してやることにした。

「助けてやるから、約束しろ」
「・・・はい約束します」

わたしが条件を持ち出す前にあいつは承諾した。

あいつとわたしの勤務体制が変わり、互いの帰宅時間にずれ生じるようになったため、あいつはマロン館にも岩窟館(狼谷村の家をそう呼んでいる)にも主寝室に続く予備の寝室を設えた。

あいつの深夜や早朝の不規則な出入りがわたしの眠りを妨げないためだ。この思いやりに満ちた配慮はわたしには大層不評で、こんなことは絶対に誰にも言えないが、結婚以来の喧嘩の原因は大概それである。

で、わたしは事前に脅迫したわけだ。深夜に帰宅したからと言って予備寝室に引っ込んだら承知しない、と。目覚めた時、隣に誰もいないのは寂しすぎるし、あいつの帰宅が気になって眠れないこともしばしばなのだ。

あいつがちゃんと隣に滑り込んで来るとわかっていた方が、わたしは高いびきで眠りにつくことができる。おまえの為だけじゃない、おれにも何かと込み入った事情がある、と歯切れの悪いことを言うあいつが可哀相でなくもないが、ただ体温を分け合うだけの夜にも、球技大会とは別の幸福が詰まっているのだ。

ともかく約束を取り付けたので、私は彼の膝から降りた。上官で師団長でもある私が、部下の魅力に目が眩むあまり勤務に戻さず押し倒したでは洒落にならない。まことに魅惑的な思いつきではあるが。

「約束だからな」
「はいはい」
「今日は、やけにあっさりと引き下がるではないか」

あいつはやや乱れた襟元を直しながら髪をかき上げて苦笑した。どうやら上昇中の熱のせいか、喧嘩のせいか、離れていた時間のせいか、あいつのそんな仕草に背中がぞくりとするほど艶を感じる。こいつ、わざとやっているんじゃないだろうな。

「おまえのいない二晩、おれは寂しくて泣いていたんだ。今夜はまっすぐおまえの隣に帰るよ。帰りたい」

うわ、真顔でそんなことを言う。わたしを殺す気か。でも、帰るという一言は涙が出そうなほど胸に響いた。

「う、うそつけ。そんなことくらいで泣くか」
「うそだと思うか」

本当を言えば、わたしも昨夜も一昨夜も泣きたい気分だった。自業自得なのでそうとは言えないが。あいつはふわりとわたしに腕を回すと、その胸に寄りかからせ背を抱いた。

「ごめんな」

しみいるようにあいつが耳元で囁く。こいつ、真剣に反省しているらしい。でも何にだ?訳がわからなかったが、あいつの背中をさすってやった。おまえが謝ることは何もない。あいつの掌もわたしの背で優しく円を描いた。

「司令官室から兵を動かすなんて官僚的なやり方は本来のおまえの流儀じゃないから苛立ちがつのるだろう。なのにおまえは不本意な方法でよく統率している。おれのためにそうしてくれていると自惚れていいなら・・・」

この野郎、殴り倒してやろうか。自惚れとか言うな。おまえのためならわたしのためでもあるとわかって欲しい。両者の間に境界線はないだろう?

「今回みたいにおまえが耐え切れなくなった時、おれまでキレるべきじゃなかったんだ。むしろ支えてやらなきゃいけなかった」

わたしは思わずあいつの胸から顔を上げた。これはもう決闘を申し込むか押し倒すかどっちかだ。すると危機を察したのかあいつはわたしの額にキスを降らしてわたしから力を奪う。そして茶目っ気たっぷりに笑った。

「だけど、ほら、あんまり寂しくて泣けたから、怒った。しょうもないよな、おれ」

あ・・・あ、おまえというヤツは!
どこまで優しくなれるのだろう。
どれだけ与えれば気が済むのだろう。
奪うばかりのわたしのどこに価値を見るのだろう。
どれほどおまえを愛すれば、おまえを満たすことができるのだろう。
永遠を与えられても伝えつくせない想いをどうすればいいのだろう。

「時々、おまえという男が物凄くクレイジーに見える」

まただ。わたしときたら、愛の言葉を憎まれ口に変換する天才だ。しかし、わたしの夫を務める男はそんなことくらいではびくともしない。

「そりゃそうさ。おまえと出会ってから、おれが正気だったことなんてあったかな」

わたしはついにノックダウンした。どうか一生正気に戻らないでくれ。

                 

夜半過ぎ、背中が温かくなったので目を覚ますとあいつが戻って来ていた。わたしは喜んで寝返りを打ち、 脚と腕をからめた。

「起こしちゃったな」
「ふふ」

全身で抱きついて気持ちを伝えた。今のところ、ボディランゲージがわたしにとって一番扱いやすいのでそれを駆使する。おまえのすべてが好き。幸せで息ができない。

「熱っぽいぞ、もう眠れ」
「アンドレ」

今夜は断固としてわたしを休ませる覚悟のあいつが、エスカレートしていくわたしの愛情表現に危機感を抱いたようだが、気にせずごろりと転がって組み伏せた。

「わたしの趣味は渋くない」
「何だよ、急に」
「わたしは面食いだ」

あいつの中で意味が繋がるまで、ちょっとした間があいた。ああ、と納得の声を漏らしたあいつが暗闇の中でくすりと笑った。

「知ってる」

今度は自惚れとは思わないのだな。まあ、いい。拙い賞賛だが受け取ってくれ。ごろり、とあいつがわたしを抱えて反転し、わたしが反対に下になる。

「それに、一度惚れたら目隠しされた馬みたいに方向転換のできない不器用な男も好みだろ?」
「好きだ」

やった!言ったぞ。情事にはかろうじて突入していないから、まだ常時だ。

「おまえの趣味には地獄に落とされたり、天国に招待されたりで忙しい」
嬉しそうにあいつはキスしてくれたが、何だ?地獄とは。わたしの無言の問いには答えず、あいつは静かに身体をずらして隣に並び腕を差し出した。
「さあ、眠れオスカル」

                 

数分後、花火のように突然わたしの脳内であるひらめきが閃光を放った。とんでもない事実が符合し、わたしはがばっと飛び起きた。

「不器用なイケ面・・・!?」
と言えば北欧の。

わなわなと震えていると、気だるそうに長い腕が伸びてきて、わたしを引き寄せた。
「う~ん、眠い・・・よ」
「おまえ、おまえは・・・!」
「はいはいお休み」
「・・・馬鹿野郎」
「う~ん、幸せだなあ」

きゅうと抱きしめられて、わたしはもがくのをやめた。何てことだ、何てことだ、少しは愛を囁いてやれたと思ったのに、わたしは大失策をやらかしていたのだ。

イケ面など掃いて捨てるほどいる。もっと、こいつだけの特別な何かを賞賛してやるべきだったのだ。だから足をすくわれた。しかし、そんなもの特定できるか。わたしはこいつがシンプルで大馬鹿者で能天気で世話焼きで泣き虫でときどきドン臭くても卑屈でも全部好きなのだ。こいつがこいつだから好きなのだ。

「オスカル、オスカル」
悶々として身体を固くしていると、小さく揺さぶられた。
「おまえの趣味には救われたんだって」
「ううう」
「同じイケ面で器用な男が好きじゃなくておれは命拾いした」

おまえ、それがフォロ~かっ!

枕が大きな音をたてて飛んだ。悲鳴と息切れと、笑い。
馬乗りになってあいつの首を絞めながらひょっとして、といぶかしく思った。こいつは喧嘩では全敗しても、そうと気づかせないところでちゃっかり巧妙に意趣返しを果たしているのではないか。

そうだ、きっとそうだ。四半世紀の間、そうしていたに違いない。シンプルさの仮面を被って。

何はともあれ、幸せな夜はふけていく。

フランス中が燃えている中、愛を育むのは罪だろうか。国のためにすべての力を注ぐべき時ではないのか。幸せを噛みしめるとき、一抹のうしろめたさを感じる。

神よ、無私になれないことをお許しください。
わたしの力の源泉はここにあるのです。
得た力は国のために使います。
だからどうか彼をお守りください。

わたしはいつの間にか、祈っていた。

うぐぐ、とあいつがわたしの下で苦しそうな音をたてた。しまった!加減を間違えた!わたしは慌てて彼の首から手を離す。

「はっ、は~~~っ死ぬかと思った」

あいつが大きく息を吸い込んだ。危なかった。

神よ、感謝します。
即効で祈りを聞き入れてくださったのですね。


わたしはあなたに誓った通り、永遠に彼を愛します。

WEB CLAP



WEBCLAPにコメントを下さるお客様へ
コメントにはいつも元気を頂いています。もう、本当に嬉しいです。
で、使用しているこのシステム、どの作についてのコメントなのか、見分けがつかない構造になっているのです。もし良かったら、どの作に対する感想、ご意見なのか、ちょっとメモって下さると、もっと嬉しいです。ありがとうございます。

COMMENT

読ませていただき
この世で最も幸せな亭主で賞を
アンドレにあげたくなりました(*^^*)

両思いのラブラブ夫婦であるのに
いかに愛を伝えるかもだもだしてる
頭脳明晰なゆえに考えすぎてる
オスカルさまがかわいらしくて
かわいらしくて侍女になりたい
見守りたい♡
お側にいたくて、
従僕にでもなりたかったアニメジェロの
気持ち、よくわかります。

不器用なイケメン?フェルゼンにも
親友の新妻ぶりをみせてあげたい…ですが、
この状況下では再会は難しいですね(T-T)

どんな時にも愛を(*^^*) まここ 2024/12/12(木) 12:31 EDIT DEL
ぜひぜひ、アンドレを表彰してやってください!
フェルゼンが不器用かどうかは、意見の分かれるところかも知れませんよね。一生独身を貫いたところは一途ですが、原作では出てこないところで、お相手女性は沢山いたようですから。そりゃ、対象年齢小学生の週マではそのエピソード出せませんよね。アンドレにもパレロワ疑惑がありますから、こちらもどうなのか…。フェルゼンはこの時期フランスに戻ってきますから、再会あるかも知れません。あるとしたら、国王夫妻がチュイルリー宮殿に連れて来られた時かな。って言うか、10月6日のアントワネットさま大ピンチの時、フェエルゼンって何をしていたのでしょう。
まここさま もんぶらん 2024/12/13(金) 22:02 EDIT DEL
とてもささいなことですが、
夫人の名が
キアラ・ルイーズ・ド・ラ・もしかしたら・ヴォワジェになってます、念のためお知らせまでm(_ _)m

ええ、パレロワ疑惑!
私はかなり後から知って驚愕しましたよ!
どっちでもいい派ですが、
お嬢さまは気になりますよね、うふふ。
いつかこのネタでいちゃつきながら
問い詰めてやってほしい。
嫉妬も愛ゆえ♡

劇場版トークショー、私も映像でみました。
先生も声優さんたちも楽しそうで、
今からワクワクしています。
アンドレのあの台詞は一体どこで…?
と妄想滾らせつつ。

掌…再掲ありがとうございます!
こちらも大好きな話なので、とても嬉しいです。
NO-TITLE まここ 2024/12/15(日) 07:13 EDIT DEL
アンドレの過去。オスカルさま問い詰めますかねえ。ええ、気持ちは問い詰めたいと思います。でも、オスカルさま、そんなことは歯牙にもかけない大人を装うために見栄をはるのでは、と思うのですよ。でも、何かの拍子にぽろっと本音が漏れることもっきっとあるでしょうね。アンドレの前では油断してますから。酔った拍子にとか。

>キアラ・ルイーズ・ド・ラ・もしかしたら・ヴォワジェ

これはですね、わざとなんです。確か、マロン館には将校と家族が移り住んだ、みたいなこと書いたと思うんですけど、本妻か愛人彼女かまではわからない。なのでキアラ・ルイーズはラ・ヴォアジェ夫人ではないかも知れないのです。だからキアラ・ルイーズ・ド・ラ・もしかしたら・ヴォワジェ。

すみません、わかりにくいおふざけでしたね。片目つぶっておいてくださいな。
わかりづらくてすみません もんぶらん 2024/12/15(日) 16:16 EDIT DEL
読みこみが足りず失礼しました(笑)
深いですね!
そういう設定なんですね。

アンドレの過去、
実際そんなには
歯牙にもかけてないと思うのですが、
たまに問い詰めたい…アンドレの全てを知りたい、と欲深になり、でももんぶらん様のおっしゃるようにかわいらしい見栄をはる、みたいなオスカル様を妄想中です(*^^*)
ええ、酔った時に本音、なんて萌え設定です~。
すみません~ まここ 2024/12/16(月) 10:02 EDIT DEL
まここさま
浅いんですよ~おふざけですから(笑)

そうですね、可愛い焼き餅でしょうね。
エピソードで見せたのはそういうヤツでした。
あら?これヤキモチ?と思って何度も読み返して
「結論!ヤキモチ認定」しました。
わかりにく~いヤキモチでした。可愛いわ。
浅いんですよ もんぶらん 2024/12/16(月) 18:05 EDIT DEL

COMMENT FORM

メールアドレスやURLの記入は任意です。記入しても表示されることはありません。なお、絵文字を使うと、絵文字以降の投稿文が消える場合があるようです。絵文字を使った場合は、コピーをとっておくことをお勧めします。