31. 狼谷Ⅲ 

2024/07/13(土) 暁シリーズ

1789年8月27日

「夕日が沈む…見えるか?」
「え?」

唐突な私の問にアンドレが両手に埋めていた顔をあげた。
「何が見える?」

頬を彼の肩にあずけたまま、構わず問い掛ける。アンドレは訝しげに首を傾げたが、わたしの肩に腕をまわして頭を抱き寄せ、自分の頭を乗せた。

「そうだな…夕日の方向はわかる。あっちだ。ぼうっとして輪郭ははっきりしないが、オレンジがかった光の中心があって、上に行くほど暗くなる。左脇には黒い大きな影…」

「それは、ケヤキだ。二本並んでいる…。アンドレ、ここは美しいな」
「そうか、去年見た最後の風景は寒々しかった」
「今は、瑞々しくて命に満ちている。見せてやるから聞いていろ」


わたしは視界に入る田園風景をできる限り細部にわたって描写した。アンドレならきっと気の利いた詩的な表現をするのだろうが、わたしが最大の努力を払っても、植物学と生物学の教科書を読み上げているようになってしまう。

アンドレは初め不思議そうにしていたが、そのうち色あいや光がつくる陰影の様子など、わたしのおおざっぱな表現を補うような問を投げかけては、聞くというよりじっくりと味わうように目を閉じていた。

「空一杯に描かれた絵画を見ているようだな。おまえの言葉を一つ一つ絵に置き換えていると、記憶の中の無彩色な冬景色が、魔法の絵巻のように色づいていく。こんな贅沢な時間、遥か振りだ」

暫らくの沈黙の後、アンドレが低く囁いた。わたしの貧相な表現にそんな力はない。おまえの想像力が羽ばたいているのだ。そう言おうとしたはずが、口をついた言葉は全く違った。

「死は…敗北なのだろうか」
アンドレは答える替わりに私の肩を抱く腕に力を込めた。

「当たり前のように、死はそこここにある…。こんなに日常的で身近なものだとは若い頃は思いもしなかった。人はただ死に支配されているだけなのだろうか、それともそれを越える何かがあるのだろうか」

しばし沈黙したアンドレとわたしは、ねぐらへ帰るつぐみの声を遠くに聞いた。アンドレは麦畑に半分沈みかけた夕日を探しながら瞳を泳がせ、言葉を選ぶように彼にしては珍しくぼくとつと話し出した。

「おまえの描いてくれた世界を絵にしていると、時間が消えた。勿論、そう思ったのは後の事で…だからとても贅沢な時間だと言ったんだが…絵の世界では時間という概念そのものが消えてしまっていたから、そんなことを考えるまでもなくて…。ああ、くそ、うまく言えないけど、だから永遠と一瞬の区別もないんだ。」

そう言って、アンドレはちょっと肩を竦めて笑った。確かに彼が言わんとしていることは頭では理解できないが、感覚は何となくわかる気がした。
 
「生と死の区別もそのようなものだと?」
アンドレが見えない目を見開いた。意外だというように。
「へえ…!驚いた。思うところを一言で言い表わしてもらったみたいだ」

そんなに驚かなくてもいいと思うが。

「おばあちゃんの人生が、消えて無くなったとは思えない。ただ形を変えただけで、何一つ減りもしないで世界に溶け込んでいるんじゃないか?第一天の園が空の上にあるなんて誰が決めたんだ?この世もあの世も同じかも知れないじゃないか」

「ほう、下手をすると破門されそうな発想だが、なかなか興味深い。で、結論は?」
「お小言一つ、俺の受けたヤキ一つ、おばあちゃんが生み出したものは何一つ失われちゃいないんだよ。変化して見えなくなっているかも知れないが、一瞬が永遠なら何もかも永遠だ」

そこまで言うと、アンドレは今度は真顔になって私に向き合った。
「実際おばあちゃんを無くしたという感覚はどうしたって持てない。おまえは?」

アンドレの手を取って自分の頬に導いてから首を振って見せる。アンドレの手が頬から私の口元に下がり、わたしの表情を読み取ろうと目元に移動する。

「誰かを愛するのにその誰かが生きているか死んでいるかなんて、関係ない。おばあちゃんも、両親も、おれは今でも深く愛している。生者がそうなら、死者だってきっとそうだ。

だけど、血の通った温もりと抱擁や声とか・・・、共にする生活を死によって失うのはやはり耐えがたい喪失だ。人は死を超えて愛し合えると思うけど…」

彼は言葉を詰まらせ、わたしの顔を、髪を丹念に指で辿る。髪から首筋に手を這わせて、わたしの心臓から送り出される拍動にじっと触れてから、力一杯私を抱きしめた。

「それでも生きて愛し合いたい、温もりを失いたくない。人間として自然な願いじゃないか?」

それがそのままおまえの願い。わたしの願いでもある。今のわたしは抱擁でしか答えられないけれど。わたし私たちは長いこと、そのまま抱き合っていた。

「待ち遠しい?」
しばらくして、突然問われた。先ほどの深刻さはどこへやら、アンドレは妙に楽しげだ。

「?」
何のことだろう。私は無言で聞き返す。

「気付かなくてごめん。おまえが良ければおれは見切り発車でも構わないけど?」
「見切り…発車?」

何だか言われていることがよくわからないが、アンドレが何かを含ませていることは明白だ。わたしは警戒した。訝しげに斜めに睨むわたしの表情を両手で包んで確認すると、アンドレはくすくす笑い出した。

「秘蹟を受けただけではおれ達、まだちゃんと夫婦じゃないよな?」
「なっ…!」

何を言い出すかと思ったら、恥ずかしげもなく!

つい怒鳴りそうになって、はっと気がついた。わたしは不恰好に左右の長さが違う包帯の結び端をアンドレのシャツから引っ張り出して無意識に弄んでいたようだ。深い意味はない。シャツの合わせ目からはみ出していたのが目についただけだ。

「わ、わたしは別に…!」
顔が真っ赤になっているのがわかる。もう、手をどけろ!火照ってしまったのがばれるじゃないか!

「それじゃ、傷が完全に塞がるまで待つ?」
ほう、本気か?待てるものなら待ってみろ。などと余裕をかました発言をするにはまだわたしは修行不足。アンドレはにこやかに続けた。

「どっちにしても、おれはオートクチュールしか合わない男だってことは忘れないでくれ。おれのサイズはその辺の古着屋では間に合わないんだ」
「だ、だから何だというんだ!」

「だから、今後おれから衣服をはぎ取る時は、刃物は使わないでくれということだ」
「!!」

顔から火が吹きそうだった。現実に戻るのもいいが、変わり身が早すぎやしないかっ!第一おまえとはまだいちどしか…。ああああ、違う、そういうことじゃなくて、我慢できなくなったわたしがまだ傷の癒えないおまえを襲わんとしているみたいな言い方はやめてくれ!

おまえがどれだけ慣れているのかいないのか知らんが―知りたくもないが―わたしは正直言って、まだどう向き合っていいやらわからないんだ。屋敷を出て以来初めておまえと二人だけの時間が持てたのはつい昨日の事だぞ。

おまえはただ黙ってリードしろ!

「オスカル、オスカル!」
はっと我に返る。アンドレが心配そうわたしを揺すっていた。なんと、わたしとしたことが滑稽な狼狽ぶりだ。

「ごめん、オスカル。待てないのはおれ…です」
済まなそうな顔をされてもこれまた困ってしまう。何も言えずにこつん、と額をアンドレの額にぶつけた。

「早く…良くなれ」
「あー、やっぱり?」

アンドレが大げさに気落ちして見せたので、思わず笑ってしまい、素直になれた。
「愛している。何が不安だ」
「あっ、テキメンに良くなったかも」

一瞬間をおいて、二人とも爆笑した。笑いながら互いの顔中にキスをばら撒き、もうこれ以上キスのおき場所がなくなったところで唇を重ねあった。

誰の目もはばかることなく、場所も選ばず、引き離される不安もなくくちづけを交わせることが嬉しくて、わたしは何度も確認するように次のくちづけを催促した。

夕日は麦畑に金色の縁取りだけを残してすっかり姿を隠した。放射線状に広がる光が晩夏の重たげな雲を朱色に染めながら天に向かって貫いている。

ゆっくりと時間が流れた一日だった。一日の終わりをこんなにゆったりと落ち着いた気持ちで見送るのは、もう何年ぶりだろうか。夏の夜は短いけれど、ゆっくり話をしよう、アンドレ。そんな時間がわたし達には必要だと思わないか。それから…

「今日は寂しかった」
「え?」
「おまえは、わたしにも仕事を与えるべきだ」

「だけど、おまえは…」
「何でも学ぶ。二人の方が効率が良い」
「元気になったらな」

「わたしをただ花瓶に生けておくつもりか?」
「狼谷村では療養を優先して欲しいんだ」

「するとも。ただ、おまえの背中を見ているだけで一日が過ぎていくのは辛い。一日臥床していろと言われてもストレスが溜まるし体力も落ちる。

身体に負担の少ない家事もあるだろう。第一、おまえ一人で切り盛りしていては、わたしの傍にいてくれる暇がないではないか」
「それは…」

問題はわたしの病だけではない。「お嬢様」のお取り扱いをばあやにスパルタ式で叩き込まれたアンドレは「お嬢様」に掃除や窓の修繕をさせるなど、想像するだけで恐ろしいのだろう。

わたしは幼少時からアンドレを好きなように扱ってきた。一方、厳しく律せられて来た彼の方が関係の変化を受け入れるのに困難を伴うだろう。しかし、わたしはもう「お嬢様」ではないし、今までの生活習慣をそのまま堅持することなどあり得ない。

少しかわいそうな気がした。無理押しはせず、執行猶予をつけてやろう。少しずつ、彼の中に根強く居座る主従の感覚を崩していく。この場合リードを取るのはわたしだ。わたし達は形だけでばなく本当に夫婦になる。

「物覚えは今でも速い方だ」
「知っているよ」

「そうか、では何から手をつける?」
「お、おい、ちょっと待てよ、そんなに急に言われても」

「おまえは知らないだろうが、最近の士官学校では裁縫と料理と掃除洗濯くらい教えるんだ。わたしは優等をとったのだぞ、何でもできる」

「大嘘つき」
「わたしを信じないのか」
「ほら吹き検定で一級をとったと言えば信じるよ」
「ほう、わたしが一級ならおまえは特級だ」

おっと。あぶない、あぶない。
形勢不利となるやいなや、ボケで煙に巻いてしまうのは、あいつの得意技である。危うく乗せられるところだった。その手に乗るつもりがないことをわざとらしい咳払いで示すと、話題を戻せと沈黙で脅した。

「えっと…」
「…」
アンドレがぐるぐると逃げ場を探し出した。はわたし強固な待ちの姿勢であいつを追い詰める。沈黙は金なりだ。

「あ~、その、つまり、当然士官学校でも勉強したと思うが、家事は二種類に分けられる。知っているだろ?」

しどろもどろとアンドレが反撃し始めた。しかも、早速皮肉を効かせてくれている。知るか、そんなもの。身じろぎもせずにだんまりを決め込んでやると、開き直ったあいつは次第に弁舌滑らかになった。

「失われたハンムラビ法典の十三条に記されていると、伝聞されている。重要なところだから、試験に出たはずだが、初心者はまず最初の一種からたしなむべし、とされている」
出たな、特級ホラ吹き男。

このまま黙っていてやろう。そうすれば、そら、どんどん話を広げざるを得ないだろう。宇宙まで飛んで行け。行って玉砕しろ。

「さて、二種の家事をそれぞれ定義せよ。できたら、オスカル。第一種はおまえのものだ」
な、なにい?そうくるか!くそ。

「わたしができる仕事と、できない仕事、だ」
それ以外に何があるというのだ、ふん。往生際悪くあがいていないでさっさと仕事をよこせ。
「お…お!さっすが」

アンドレが思い切りおどけて驚いて見せた。何だか懐かしいな、こんな風にふざけ合うのは。おまえの髪が長くて、まだ両の瞳がわたしを映していた頃のようだ。きゅん、と胸が鳴る。

「さすが、士官学校を主席で落第…いってえ!」
懐かしさ余って涙が出そうになったので、抱きついて右側の肩に食いついてやった。
「さあ、もういいだろう。わたしも参加させろ」
「参ったな」
「一つでいい。今からだ」

長い長い間があいた。
茜に染まった西の空が濃紺に変わってゆく。宵の明星が姿を現して一際明るく輝いた。

「わかったよ」

ようやく、アンドレが折れた。そのしぶしぶな様子が少し気の毒だったので、よしよしと子供を宥めるように頭を撫でてやる。

「井戸水が澄んだら、湯浴みの湯を沸かしてやるよ。残り湯で洗濯をしようと思っていたんだが…おまえに頼むかな」
「よし」

「う~~~~っ、おまえが洗濯かあ。おれに耐えられるかなあ、く~っ、心臓発作起こしたらどうしてくれるんだ」
「病める時も健やかなる時も、と誓ったろう?問題ない」
「……」

思い切り恨めしそうな顔を向けられたので、両頬をつぶれるほど強く挟んでキスしてやった。手のかからない男は手がかかる。お返しにふわりと抱擁が返され。

「さっきの問いの正解はな、刃物を使わない家事と、刃物を使う家事だ。おまえには当分前者を割り振ることにするよ」

いちいち小憎らしい。
短い悲鳴があがり、アンドレの首筋に歯型がもうひとつ増えた。

ふん、ではおまえの洗濯係りになってやろうじゃないか。刃物はなしで洗い上げてやるから、楽しみにしていろ。


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WEB CLAP



WEBCLAPにコメントを下さるお客様へ
コメントにはいつも元気を頂いています。もう、本当に嬉しいです。
で、使用しているこのシステム、どの作についてのコメントなのか、見分けがつかない構造になっているのです。もし良かったら、どの作に対する感想、ご意見なのか、ちょっとメモって下さると、もっと嬉しいです。ありがとうございます。

COMMENT

最初は何度も目をこすりました
ほ本物???って
topのコメントをやっと本物だあ~と,小躍りして確認した後,懐かしい物語を辿りました
天使の続きも読みたいですが狼谷も本当にもう一度読みたかったので,素敵な夏の贈り物をいただきました
ありがとうございます まこ MAIL 2024/07/14(日) 18:32 EDIT DEL
偽物疑惑が浮上するほど、ご無沙汰してしまって済みません。少し余裕ができましたので、未完作品もこれから完成できると思います。ときどき覗いてやってくださいね。よろしくお願いします!
まこさま もんぶらん 2024/07/15(月) 13:27 EDIT DEL
もんぶらん様
二十周年おめでとうございます。

ねこまたぎの部屋まで見せていただき感謝感激です。

今年の三が日もんぶらん様のおかげで幸せです。
NO-TITLE ゆさ 2024/07/15(月) 22:41 EDIT DEL
ゆささま、忘れていました。そうでしたね、ありましたね、猫またぎ部屋。ネコも跨いで通るようなしょうもないお話部屋。また作ろうかな。お祝いありがとうございます。また、時々覗きにお立ち寄りくださいませ。
ゆささま もんぶらん 2024/07/16(火) 18:59 EDIT DEL

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