30. 狼谷村Ⅱ 

2024/07/13(土) 暁シリーズ

1789年8月27日

母親に纏わり付く子供のようについてまわるわたしを、アンドレは何度も寝室に放り込んだ。触覚を駆使して家のメンテナンスに忙しく働く彼の手は擦り傷だらけだったから、視覚を補ってやりたかったのに、激しい抵抗にあった。

『いいんだ。おまえには効率悪く見えるだろうが、一通り作業をやり終える頃には物の位置関係がすっかり頭に入る。これは必要な過程なんだ』

強情っぱりめ。わたしが側にいれば、三時の方向に二歩、斜め45°下方に手を伸ばせばおまえが探しているハンマーの柄に触れると教えてやれる。

勤務日程を調整した当の本人のくせに知らぬようだから教えてやるが、一月ぶりに手にした二人きりの時間は明日の朝までだぞ。わたしはあと二日を村で過ごすが、わたしのマネージメントに忙しいおまえは明日から出勤だぞ。

貴重な今日の使い道について話し合う気がないのなら、せめて傍にいさせてくれてもいいだろう。

…つまり。

家事は後にしてそばにいてくれないか。

と言えればそれで済むのだが。子供の頃から素直な物言いが苦手なわたしは、つい乱暴な手段に出るのが習いで。そんなわたしに鍛えられたアンドレは、わたしの非言語的訴えを巧みに汲み取ることが上手くなった。

そんな風に甘やかされたわたしは進歩がないまま今日に至る。年だけはくったので、好きなように暴れることができなくなった分かえって不自由になった。

アンドレはわき目もふらずに働いている。明日から村で一人で過ごす時間が多くなるわたしのために、快適な住環境を整えることに照準を合わせてしまった彼は、今日一日を労働に費やすだろう。

四半世紀も人の住まなかったこの家にはまともな家具はなく、どこもかしこも埃の層で覆われ、掃除されるのを待っている。

昨夜眠った寝室以外は。ここだけは家具とリネン類が揃えられ、人のぬくもりが感じられる場所になっている。

南側には大きな両開きの腰高窓が設えてあり、この家の特徴である太い一本角材でできたがっちりした窓枠が埋め込まれ、枠の下辺は丁度書き物でもできるように幅広のぶ厚い板がせり出ている。

西側にも蔦に覆われた小さな窓があり、両方の窓を開け放っておくと、今日のように暑い日でも風が良く通る。石壁の感触も冷んやりと心地良い。

深緑色のカーテンは真新しく、無骨な一人用のベッドには、カーテンよりやや明るい緑色に濃いベージュでシンプルな縁取りがされた綿カヴァーがかかっている。

きちんとワックスがかけられた木製タイル張りの床には白とベージュで蔦模様の織り込まれた真新しい絨毯が敷かれている。窓ガラスは他の部屋のように、指で絵が描けそうな汚れ方ではなく、一度は綺麗に掃除された感じだ。

しつらえは違っても、ジャルジェ家のアンドレの部屋と雰囲気が似ている。何気なく選んだように見えるリネンのひとつひとつは平凡な色合いなのだが、部屋全体として見ると、白っぽい石壁と無骨に黒光りする建具の濃い木目が品の良い色配分で調和している。

この感じはとても居心地が良くて好きだ。素朴な調度がもともとのわたしの好みなのか、アンドレの部屋に子供の頃から入り浸っている内に好きになったのか、そんなことはもうとうの昔にわからなくなってしまっているけれど。

一つだけ置いてある小さな古い木の箪笥の引き出しを開けて見ると、白い綿シャツが二枚と見たことのある冬物の上着が入っていた。

アンドレがごく最近、ここへ来ていたのは間違いない。多分去年の秋から初冬にかけて。この部屋を整えたのもまだ視力の残っていたその頃だろう。ジャルジェ家を出るつもりでいたのかも知れない。今更それをどうこう蒸し返すつもりはないが、独りで寝台に寝転がったわたしは思いを過去へ飛ばした。

今は、煩いほど賑やかな鳥のお喋りと爽やかな緑色の風が部屋を満たしているけれど、乾いた晩秋の風が窓を叩く頃、アンドレはたった独りこの寝台に寝転び、将来の身の処し方を考えていたのかも知れない。彼のきつく閉じた目蓋、眉頭に寄せた皺までが目に浮かび、胸が苦しくなる。

突然求婚者が現れたあの頃、アンドレが別の道を選んでいた可能性もあったのだ。彼はバランスの良い家庭向きの男だ。しっかりと生活力のある健康で心優しい女性を妻にすれば、後に視力が衰えたとしても、ハンディを乗り越えて幸せな家庭を持てたはずだ。

だが、そんな彼の姿を目の当たりにしたわたしはどうしたろう。自分の気持ちにいくらか早めに気づいた可能性はあるが、すでに後の祭りといった展開か。だめだ、想像するだけであいつを殺してしまいそうだ。

苦しみしか与えてやれないわたしのそばに留まることを選んでくれた。どんなにか危ういぎりぎりの選択だったろう。

およそ結婚相手としては敬遠したくなる条件ばかり備えているわたしが、躊躇の一つもなく妻にしてくれと言えたのは、そんなおまえだからに他ならない。おまえの幸せを心からこれから望んでいる。それなのに、近い将来喪失の苦しみを与えるだろうわたしを受け止めて欲しいと願う矛盾を、おまえは一笑に付してくれた。

堂々巡りを始めた思考をうちきるべく、わたしは寝返りを打ち頬杖をついた。顔をあげ、窓の外に目をやると、ケヤキの大木が二本、この家を守るかのように南側に並んで立っている。

強い陽光を受けて光の屑を撒き散らしている梢が風にざわつく向うに、収穫を待つばかりの麦穂が重たげに波打ちながらどこまでも続いている。昨日まで身を置いていたパリとは別世界だ。

ありとあらゆる人間臭を吸収したパリの大気は、液体のように濃く重かった。ねっとりと纏わり付く空気の中でしばし過ごした後だけあって、窓から流れ込む風の軽やかで透明な緑の薫りに身が洗われるようだ。

身体に染み付いた血の匂いが少しずつ薄れていく。その空気の流れの中に、前庭で作業中のアンドレの気配を感じ、無性に彼の顔が見たくなった。

追いかけて捕まえて、幸せか?と何度でも聞き返したくなる。答えはわかっていても。彼に何もしてやれないわたしだが、せめて健康になって一秒でも長く傍にいたいと思う。ここにいるとそんなことも不可能ではないように思えてくる。

右に左に寝返りを打ちながら、しばらくじっと耐えていたが、そのうち我慢できなくなり、表で古井戸と格闘しているアンドレを覗きに行くことにした。ひとりで考えていると不毛なことばかり想像してしまっていけない。

飛び起きて居間に戻り、南向きに大きく両開きになっているフランス窓を押した。申し訳程度のテラスに石階段がついていて、ここから表へ出る方が玄関よりも広々していて気持ちがいい。

日差しが一番強く照り付ける時間になろうとしていた。急に外へ出たものだから、陽光が目に痛いほどで、濃い緑と光の乱舞が迫ってきた。

眩しくてアンドレの姿を見つけるより、井戸のある左手から聞こえる歓声を耳が捉える方が先だった。声はアンドレだけではなかった。

どろどろに汚れたアンドレが井戸のすぐ傍に座り込み、空を仰ぐようにして笑っていて、もうひとり、井戸の木枠に腰を降ろした大柄な男が目に入った。大きな楡が井戸に覆い被さるように立っているので、その男の姿は半分木蔭に隠れてはっきりしなかったが、アンドレより一回り年上のように見える。

アンドレは実齢より若く見えるし、農村で厳しい肉体労働に従事している人間は、しばしばわたしには実際より年老いて見える。男はわずかに年上なだけかもしれなかった。

肩より長い濃い茶色の髪を無造作に括り、擦り切れた綿のシャツを身に着けたその男は、その大柄な体とはやや不釣合いな人の良さそうな笑顔を浮かべてアンドレと言葉を交わしている。その様子は旧年の友のように親しげだった。

「そろそろ出てくる頃だと思ったよ。見てくれ、水路が貫通した。もう半日もすれば水が澄んでくるだろう。ここの水質はなかなか上質なんだ。これで美味いカフェを煎れてやれるぞ」

砂利のあぜ道を歩くわたしの足音に気付いたアンドレが、泥で汚れた顔を嬉しそうに崩してわたしの方を向いた。傍らの大男は、二足歩行する牛の姿を目撃したような驚愕した様相でわたしを凝視し、大口を開けた。アンドレは大男の驚愕など意に介せずわたしに紹介しようとしたが、わたしがその隙を与えなかった。わたしの注意は一点に注がれていた。

「アンドレ!傷が泥水を被っているじゃないか。また化膿したらどうする!見せてみろ!」

わたしがそう怒鳴るのと、アンドレの胸倉を引っつかんで肌蹴るのとは同時だった。案の定、包帯の中まで細かい砂利を含んだ泥水が浸透しぐっしょりと濡れている。作業に一生懸命になるあまり、こいつはまた我を忘れたのだ。誰かこいつを何とかしてくれ。

・・・ああ、それはわたしの役目だったか。わたしは居間に駆け戻ると、医師から譲り受けてきた医薬品一式の入った布袋を掴んでアンドレのもとに走った。

「オスカル…急に走るな」
息を切らせて戻ってきたわたしに、アンドレが顔を曇らせる。

「いいから動くな!」
性懲りもなく、わたしのことばかりを気遣うアンドレを一喝し、傷をあらためるべく彼の胸を開いた。濡れた包帯はアンドレの胸にぴったりと張り付いている。わたしは焦れた。

アンドレがロープの切断に使っていた小刀が草むらの上に転がっているのが目に入ったのでそれを手に取ると、包帯の束の下に何とか指を入れ、アンドレの胸と包帯の間にできた僅かな隙間に小刀を上へ向けて差仕込んだ。

「絶対動くな、動けば傷が増えるぞ」
アンドレはごくりと生唾を飲み込んだ。一気に包帯を切断すると、いまだ痛々しく炎症の残る傷跡が彼の左胸一杯に現れた。

左鎖骨の上の銃創は盛り上がった瘢痕と化していたので心配なさそうだったが、腋下を抜けた傷と、左大胸筋前壁を斜めに裂いた弾痕は赤紫に腫れて、縫合と縫合の間が小さく何箇所か開きかけていた。

そこに泥が入り込んでいる。肩関節周辺は動きが大きいので治りが遅いと医師がこぼしていた箇所だ。特にアンドレは無茶をするから尚更だった。

それでもシャルル・アンリが巻いてくれたギプスのお陰で大分治癒が進んでいたが、暑さと不便さに耐えかねたアンドレは、結婚式を良い口実に三日程前にそれも外していた。

開きかけて血が滲み出した傷の中に細かい砂利のようなものも見える。洗い流さなければ。洗浄用アルコールの入った瓶を取り出したが、汚れに汚れたアンドレの髪や肩から泥水が滴り落ちていた。これでは傷だけ消毒しても無意味だ。

「済まないが水を汲んできてくれないか?」
まだ、名も名乗りあわない男に声をかける。彼は呆気に取られたようにわたしの一連の行動を見守っていたが、声を掛けられるとはっと我に返り襟、アンドレが使っていた木桶を抱えて、正面に流れるイレーヌ川へ走って行ってくれた。

その間に私はアンドレの腕に貼り付いたシャツを脱がしにかかる。ええい、面倒だ。シャツも小刀で切り裂いてしまった。

「また傷が開きかけている。外科用の針と糸を譲ってもらっておいたのは正解だったな。わたしが縫ってやる」

脅しのつもりだったが、効果はてきめんでアンドレは顔を引きつらせた。銃弾の前に飛び出すのは平気なくせに、針は怖いのか。いや、怖いのはわたしの裁縫の腕の方だな、失礼な。傷を縫うくらい、薔薇を刺繍するよりはずっと簡単だ。

「ま、待て、せっかく治ってきたのに」
「……」
「あ、つまりだな、もう治ってるって!」
アンドレは失言に気付いたらしく、慌てて言い換えた。面白い。

「水だ」
桶を抱えて大男が戻って来た。わたしが切り裂いたシャツの残骸と転がる小刀に気づくと、よく日焼けした髭面が青ざめた。

「ああ、ありがとう」
桶を受け取ると、一気にアンドレの頭から水をぶっかけ、髪に手を差し入れて泥をはらう。アンドレが激しく咳き込んだが構ってなどいられない。
「済まないが、もう二、三杯頼む」
「え、あ、ああ、勿論」

大男は人の良い男らしく、言われるまま桶を持ってきびすを返したが、途中で何度か心配そうに振り向いた。

泥がだいたい洗い流せたところで、傷を点検する。傷に入りこんだ泥は少し指で創を開いて洗浄液を流し込むと大方綺麗になった。傷の表皮が開いただけだったので縫いはしなかったが、腫れた肉芽に挟まって取れない小砂利を針の先で突付いて取り出さねばならなかった。

細かい作業を細心の注意をはらって終えるともう一度洗浄液を流し込み、一息ついた。本当は一度煮沸してから使うべきだったが、そんな暇はなかったので、また今夜にでももう一度傷を蒸留アルコールで消毒して軟膏を刷り込んでやらねばなるまい。

アンドレは一言も発せず、黙ってされるがまま、井戸の木枠を背もたれにして、長い足を窮屈そうに折り曲げて草の上に身じろぎもせずに座っていた。わたしは新しい包帯を巻き直してやり、緊張を解いた。

鳥のさえずりと葉ずれのざわつく音が再び戻って来た。上半身素っ裸にされたアンドレの体はすぐ乾いて、木漏れ日が肌の上を踊っていた。太陽の下でアンドレの身体を見るのは初めてだった。命の躍動感に満ちている。

塞がりかけている銃創は、死の淵からアンドレがわたしの手に還された証だ。アンドレの左鎖骨を砕いた弾丸は、頚動脈をかすめて止まっていたという。胸にめり込んだ方は肺を傷つける手前で止まっていた。

いずれもマスケット銃の射程範囲に入るか入らないかの位置でアンドレが被弾したことを物語る。戦闘時、アンドレが馬をもう二三歩前進させていたら、今日の日は迎えられなかったかも知れない。

人知を超えた力が働いて私たちは生かされている。熱い塊が胸からこみ上げてきて、目頭からあふれた。

わたしの様子が変わったのを察知して、アンドレが慌てて身を起こし、両肩
を支えてくれた。

「心配かけて悪かった。俺の悪い癖だ、夢中になるとつい自分を忘れてしまう」
わたしも、気を取り直して彼の額を握りこぶしでど突いてやった。
「見ろ、おまえが無茶をするから、私は見知らぬ人を名も名乗らぬうちから顎で使ってしまったぞ」
「あはは、そうか、それは重ね重ね悪かった」

アンドレはさして申し訳なさそうでもなく笑い飛ばし、彼を紹介してくれた。大男は腕組みをして苦笑いしている。

「彼はガストン・プラスロー、…えっと、一応村の助役なんだよ…な?」
「一応ではない」

大男は…おっと失礼、ガストンと紹介された男は大げさにアンドレに威張って見せた。大きく見えるが、背丈はアンドレの方が頭半分高い。

しかし張りに張った広い肩幅と、分厚い胸板から伸びる二の腕が、これまた太腿と変わらぬ程発達している、アンドレとは別タイプの巨人である。

日に焼けた浅黒い四角い顔に一直線に太い眉、見事なわし鼻がごつい印象を与えるが、顔の大きさに不釣合いなほど小さくつぶらな濃茶の瞳が、優しげにその印象を和らげている。目じりの細かい皺が、柄とは対称的な、穏和そうな気質を物語っていた。

「司祭殿の話では、おまえが嫁さん連れて帰って来たということだったが、爺さん呆けたのかな?」

そう言いながらガストンが手を差し出したので、わたしも挨拶を返した。ほかにやりようもないので何時ものように。確かに嫁には見えんだろう。

「オスカル・フランソワです。先程は大変失礼した。どうかお許しいただきたい」
握手を交わした手が、男のそれではないことに気づき、わたしの名にもどうやら聞き覚えがあったようで、彼は吃驚して口をぱっくりと開いた。何度も忙しい人だ。

「え、オ・オスカル・フランソワってあの…?おい…アンドレどういうことだ?嫁さんって…!」
アンドレはわたしの肩をぽんぽんと叩くと微笑んだ。
「司祭様は呆けちゃいないよ、嫁さんだ」

ガストンは小さな可愛いらしい目を見開いて、ぐっともうっともつかない奇妙な唸り声を発して硬直した。悪いとは思ったがわたしもアンドレも声を出して笑ってしまった。

強い日差しの中でわたしが疲れてしまうことを心配したアンドレに促されて私たちは片付かない居間に戻り、非常食としてパリを発つときに調達してきた安ワインを開け、ハムだのチーズだのをそのままつまんだ。

牛舎だったという半地下室が昼間でも冷んやりとした温度を保っているので、食料はそこに置いたが、季節がら日保ちは期待できないので、僅かな在庫は全て持ち出した。

村の助役とは言っても、本業の農業と酪農で忙しいから、長居はできないと言うわりには最初の驚愕が落ち着いたガストンは、すっかり腰を落ち着けてしまった。

そしてわたしが男のなりをして軍を率いていること、明らかに身分で隔てられているはずのわたしたちがこうして一緒にいることなどに悪気のない好奇心を寄せ、アンドレも簡単にではあるが、自然に聞かれるまま答えていた。

そんな様子やら、次第に弾んでくる二人の話を聞いていると、彼ら二人が幼少の頃親しくしていたこと、去年の秋、アンドレがふらりと戻って来た折に彼らは再会し、帰郷するよう強く説得されていたことがおぼろげながら見えてきた。

「その…何と言うか、絵の中から出てきたような綺麗な兄さんが現れてたまげたところにまた豪快な行動だろ。でその人が実は女性で、新聞を賑わせている時の人で、あろうことかおまえの嫁さんだなんて、だめだ~、俺にはついて行けん!」

「まあ、落ちつけよ」
「司祭んとこには二人で挨拶に行ったんだろ?ジジイ、要点しか言わないんだからな」
「いろいろ事情があるから、どこまで明らかにするかは俺達に任せてくれたんだよ」
「おまえ、相変わらず優等生だな」
「…褒めてんのか、それ」

「羨ましい!ってぐれてんだよ。ちきしょ~っ!すんげえ美人じゃねえか。どおりでうちの親爺がおまえに見合いさせようとした時もうん、と 言わなかった訳だ。マリアンヌもナタリーもがっかりするぜ」

「おいおい、適当なところで止めてくれよな、誤解されるだろ」
「奥さ~ん、こいつはね~、俺んちのジュヌヴィエーヴを袖にしやがったんだ。許せねえ野郎ですぜ」

「オスカル、マリアンヌもナタリーもジュヌヴィエーヴもみんなこいつんちの牝牛の名前だからな!おまえ過去に振られた女の名前を牛につけるのは止めろ、紛らわしい」
「はっは~、見合いは本当の話ですぜ」
「してない、してないって」

どこまで本気でどこまでふざけ合っているのかわからないが、ガストンはバカをつけたくなるほど陽気な男で軽口を叩いてはアンドレを振り回していた。

最初はさすがに聞きたくもない事実が飛び出るかと、身構えてしまったが、そのうち、それがアンドレの帰郷を荒っぽく歓迎する彼流の愛情込めた言葉のジャブなのだ、ということがわかってきた。…多分だが…。

アンドレは私の反応が気になったと見えて、そっとわたしの手を握ってくれた。不安を吹き飛ばすにはそれで十分だったので、多分は撤回することにした。ガストンは目ざとくそんなわたしの様子を見ていた。

「いやあ、失礼、失礼。こいつがあまりにも羨ましすぎるんで、ぎゅうと言わしてやりたかったんだが、奥方まで心配させるつもりじゃなかった。申し訳ない」

そう言って頭をかきかき、目じりを下げると、アンドレになにやら耳打ちしたが、明らかにポーズだけで丸聞こえだった。
「おい、さっきはあんまり勇ましいんで度肝を抜かれたが、焼きもち焼くなんざ、かあいいな」

初対面でわたしをかわいいと評した男は、彼が初めてではなかろうか。衛兵隊勤務を経てあけすけな物言いにはすっかり慣れたつもりだったが、面食らった。何と反応すればいいんだ。

アンドレがガストンのみぞおちに拳骨をお見舞いした。
「おまえに可愛がってもらわんでも、間に合ってるよ」

まったくだ。それにアンドレを羨ましがるなんて、身の程知らずも甚だしいぞ。こいつは命がいくつあっても足りないやつだ。銃創を見ただろう。

「ぬおおお、何をする、優等生」
「おまえこそ、何しに来たんだよ」
「言ってくれるじゃないかね。俺ぁな、村の助役としてだな、新しい住人が慣れぬ土地で不自由していないか何かと世話をだな」
「ほんとか、怪しいな」
「本当だとも。そういう言う名目で仕事を抜けてきたのだ」
「なるほど、それで合点がいった」
「ばかたれ、ここは納得するところではないっ」

ほとんど喜劇だ。アンドレは言っている割には、楽しそうに言い返し、ワインを勧めてやっていた。勿論瓶ごとだ。ガストンは埃とわら屑だらけの床を気にする風もなく直に座り込み、莫迦話をしているかのように見えたが、注意して聞いていると、生活上必要な村の情報がちゃんとまじえてあるのだった。

「今日のミサでな、司祭がおまえのことを公示したぞ。レオン・グランディエの息子が帰郷した。ついては慣れるまでできる限り援助を、とさ」
「へえ、ありがたいな」

「それから、シモン爺さんが最近呆けて迷子になるので、見つけたら保護するように。ジャック・マローのかみさんがようやく機嫌を直して実家から戻って来るから、ジャックのためにもかみさんに会ったら美貌を褒めちぎっていい気分にさせておくこと。

よけいなことはバラさんこと。自警団の寄り合いは木曜の夜八時、俺ん家だ。合言葉はいやん、うっふんだ。後は水曜市場で季節がら、取り扱い休止令の出ている品目があるから確認すること」

「オスカル、半分は適当に聞き流せ」
おまえにまかせる、アンドレ。加減がわからん。ガストンはさらに気分良く続けた。

「どうせなら、今日からミサに来れば何かと話は早かったんじゃないか。おまえはともかくおまえの親父は皆が知ってるからな。俺、いろいろ聞かれたぞ」

「聞かれて何を適当に喋ったかは聞かないでおくよ。司祭様からオスカルが療養中だってことは聞かなかったか?人の集まるところは遠慮した方がいいと思ったんだ。病気のことは最初からはっきりしておきたい、と言っておいたんだが」

パリへの出動、バスティーユでの戦闘、アンドレの負傷、その後のわたしを巻き込んだパリでの政治的混乱、衛兵隊員達の処遇、ばあやの訃報…、わたし達のこれからについて考える時間など持てなかった中で、その事だけはアンドレと話し合って決めたのだった。新しい土地では最初から私の病のことは公にすると。

「おお、そういや聞いた聞いた。聞いたけど、その勇壮なおまえのかみさんとだなあ、病気療養中の儚げな美人ってえ俺のイメージと、あ、いや美人には違いないんだがな、まるで結びつかねえんで、すっかり忘れてたわ、わっはっは」

それは悪かったな、獰猛で。ところでかみさんってわたしのことか。アンドレは苦笑しながら、すっかり毒気を抜かれて脱力しているわたしの肩を抱いて、ちょいと引き寄せ、大丈夫、と言うように力を込めて数回撫でさすると、真顔になってガストンに向き直った。

「思い出したところでおまえならどう思う?気になるか?」
ガストンはあっけらかんとした笑みはそのままに、しかし目には真剣さを湛えて逆にアンドレに聞き返す。

「俺はもっと他のもんの方が怖いがな、胸の病はどこでも皆過剰に怖がるだろ。おまえは何であえて自分から明らかにしたんだよ?大した度胸じゃねえか」

アンドレは穏やかに微笑んで応えた。
「いらん気遣いはオスカルにさせたくない。生活環境が変わるだけでも負担なのに、その上何かを隠し通すのは気力を使いすぎる。

それに最初からきちんと真実を告げた方が、最終的には信頼を得られると思った。恐れられる病を隠していた、と後からわかったとなれば、その先まずいい関係は築けないだろう?甘いかな、俺」

そうだな、とガストンは呟いて顎に手を添えて捻りながら数刻考え込んでから言った。

「ぶっちゃけた話な、最初はきついと思うぞ。労咳っていやあ死神扱いだからな」
「だから余計に下手な隠し事をするより、誠実に対処した方がいいと思ったんだ。どっちに転ぶか賭けみたいなところもあるけどな」

「やっかいなのは病気だけじゃないぞ。おまえが村にいたのはほんのガキの頃だけだから、本来なら外来者扱いだ。しかしおまえの親父さんが一目置かれている関係でおまえも最初から仲間扱いされている。だがその仲間意識も良し悪しだ。おまえがひとりで帰って来たなら全く問題ないが…」

そこまで言うと、ガストンは真っ直ぐ私の方を見た。何か言いにくいことがあるのだろう。わたしは彼の意図を察して頷いた。かまわず続けてくれ、と。中途半端に気を遣われるよりは、はっきり状況を把握したい。

「去年の天候不良と飢饉とインフレで、壮年の働き手が村を出て行ったり死んだりで欠損家族が増えた。去年戻ってみてわかったろうが、おまえをうちの親父が強く引きとめようとしたのもそういうわけだ。若い働き手は貴重なんだ。

寡婦や嫁に行く先がない若い娘が大勢いるのに、失礼な言い方をかんべんしてもらえるなら、よそ者を、しかも貴族のご令嬢を連れ帰ったとなると、良くは思わない奴は多いかも知れん。
ここはパリからさほど離れちゃいないが、意識はまだまだ農村なんだ。全く新しい夫婦者を住人として迎え入れる方が、まだ摩擦が少ないくらいだ」

言葉を切ったガストンに、アンドレが無言で続きを促す。動じる様子もなく、明日のピクニックの予定で聞いているように淡々と。だからガストンも単刀直入に正直に切り込んでこられるのだ。

話の内容は私には厳しいものだが、その正直さは有り難かった。アンドレが握り締めてくれる手のぬくもりも手伝って、不思議とわたしの心は落ち着いていた。
 
「病気のことはともかく、せめて貴族だということは伏せておいたほうが良かあないか?彼女の経歴はまだ司祭しか知らないんだろ?」
アンドレは考えるまでもないといった風に、静かに首を横に振った。

「おまえの心配はありがたいよ。でも、オスカルが経歴を伏せるためには名を変えて、慣れない女のなりをして…別の人間として振舞わなければならない。オスカルの負担が大きすぎる。少しでも健康になって欲しくてここに連れて来たんだ。

オスカルはオスカルのままで、俺も誠心誠意こめて村人と付き合ってみる。それでどうしても受け入れてもらえなければ、また二人で別の場所を探す。それだけだよ」

「おまえ、簡単に言うけど、ここはおまえの故郷だぞ。だから家だって残しておいたんだろうが」
「俺の家?故郷?俺の居場所はここ」

アンドレはこともなげに笑うと、わたしの頭をぐりぐりとかき回した。思わず振り仰ぐと、アンドレは少し照れたような笑顔を向け、私の頭のてっぺんに口づけをひとつ落とした。あたりまえのようにそう言い切ってくれたアンドレを抱きしめたい衝動を、わたしは懸命に堪えた。ガストンは口笛を吹き、両手を胸の前に挙げた。

「ほ、降参、降参。おまえ、重症だな。救い難いほど惚れとんな」
「もう瀕死だね」
「ぬけぬけと~、んにゃろめ」
「悪いな、せっかくの気遣いを無にするようで。だが状況がわかったのは本当に助かったよ。間に入っておまえが難しい立場になってしまうようだったら言ってくれ、な」

ガストンは気になっていた事を一通り伝えることができて、ほっとしたのだろう。再びアンドレ相手に嬉しそうに絡みはじめた。

「そこまで覚悟を決めているなら好きにするさ。だがな、おまえにはつけてもらわにゃあならん落とし前があるぞ」
「なんだよ、それ」

「おまえが思わせぶりな態度をとるからだな、アンリエットが1日千秋の思いで待ってるんだぞお。ジュリーにしたっておまえの腕の感触が忘れられないと言っちゃ夜泣きする。どうしてくれるんだあ~」

「あのな」
「明日、会いに行ってやってくれよな。待ってるぞ」
「わかったよ」

え?

今、何かとんでもない返事をアンドレがしなかったか?混乱し始めたわたしの思考が正常に戻る間もなく、さて、とガストンはパンパンと腰まわりのわら屑を落として立ち上がった。彼を送り出すためアンドレも立ち上がった。

「それじゃあな、ご馳走さん。おお、そうだおまえ近い内に教会の給水所と、もう一つ上のサン・マルコ広場の井戸の水源、探って見てくれねえか?」

居間から直接外に出て、テラスに足を踏み出してから、大事な事を思い出したという風にガストンがアンドレを振り返った。

「はあ?俺が?」
「二年前から涸れちまってさ、不便してるのよ。今年はマルヌ川の水位も異常に低いしな。おまえんとこの井戸だって埋まっちまって長いだろ?俺絶対だめだって踏んでたんだけどな、半日で水脈を見つけちまうんだから驚いたぜ。おまえ嗅覚利くな。頼むわ」

「やってみるぐらいは構わんが…約束はできんぞ」
「な…に、ダメもとよ。ちょっとは名の知れたダウザーをパリから呼んじゃみたんだが、ダメだった」

「それじゃ、素人の俺なんか余計にダメだろ」

からからと大口を開けて笑うと、ガストンは構わん構わんと手をひらひら振りながら、石階段を降りた。

「もちっと傷が良くなってからでいいからな。美人の奥さんに心配かけちゃいけねえ」
そう言ってウィンクを飛ばすガストン。ちょっと待て、その前の問題をクリアするのが先だ!

「それじゃ、またな。つい長居しちまった。早く戻って、ジャンヌとシルヴィーのグラマラスな乳の面倒を見てやらんと破裂しちまうわ」
今度こそは牛の話だな?アンドレも呆れた顔でガストンのでかい背中に声をかける。

「そんな紛らわしい物言いばっかりして、ヴェロニークに逃げられるぞ。おまえこそあんまり心配かけるなよ」 

ガストンがピタリ、と歩みを止めた。一呼吸置いてからゆっくり振り返った彼は、相変わらずの馬鹿陽気な笑顔のままだったので、わたしはその彼の口から飛び出た言葉の意味がうまく捕えられなかった。

「もう逃げちまったさ、神さんのところにな。だから心配はいらねえってことよ。赤ん坊も一緒について行ったから寂しくもないだろうさ」

そう言うと、また肩越しに軽く手を二三度ひるがえして背を向けると、さっさと歩き出した。アンドレは絶句した。ほんの一瞬だったに違いないのだが、酷く長い間が空いたような気がした。

「おい、待てよ!」
急いで後を追うアンドレがガストンに追いついて、その広い肩をぐいっと後ろから抱え込む様子が目に入った。アンドレは短くガストンに何か問いかけていたが、二人はそのまま歩きながらケヤキの向こうに見えなくなった。わたしはテラスに座り込んで、ただ呆然と見送った。

白い石のテラスを一匹の黒い大きな蟻が、自分の身体よりも大きな昆虫の死骸を淡々と運んでいる。この世で何が起こっていようと、この至上の仕事の邪魔をするのはまかりならんとでも宣言しているような働きぶりだ。

小さな働き者が這っていく様子をぼんやりと目で追っていると、見慣れた輪郭の影が私の影と繋がり、頭上からアンドレの声が降ってきた。

「去年会った時、大きなお腹をしていたんだよ、ヴェロニーク。ガストンのおかみさんなんだけど。春には三人目が生まれるって言って楽しみにしていた。お産が重くて母子とも亡くなったそうだ。びっくりしたろ?大丈夫か?」

「うん…」
「俺も…参った…な」

アンドレは私の隣の石段にに腰を降ろすと、両手で顔を被い、黙って俯いてしまった。日ざしは優しく朱色に和らぎ、幾筋も斜めにケヤキの大木を真っ直ぐ貫いて、長く影を引き伸ばしている。重そうにざわざわとそよぐ麦畑に、大きくなった太陽が沈みつつあった。

アンドレのくせの強い毛先が光に透けて、泣いているように震える肩の上でそよいだ。

わたしはアンドレの背に後ろから腕を廻し、自分の頬を彼の肩に預け、ばあやを思った。きっとアンドレも同じ事を思っている。

さっき見かけた蟻が、同じ大荷物を抱えたまま、私の足元から三段も下の段を横切ろうとしているのが目に入った。更に巨大化した夕日が稜線に触れ、麦の穂波を金色に焦がした。誰が泣いても、誰が死んでも、森羅万象は歩みを止めずに変わらぬ時のリズムを刻むのだ。それは時に福音であり、残酷な現実にもなる。

『おまえは、俺をおいて行かないでくれ』
アンドレの背中から伝わってくるぬくもりが、言葉にならない彼の叫びとなって私に届いた。

わたしはその願いへの答えを持たない。答える代わりに頬を何度も押し付け、背を撫でる。消毒液の匂いがした。アンドレのシャツの下、不格好に私が巻いてやった包帯がごつごつと触れる。

おいて行かれるのはわたしだったかも知れないのだ。この瞬間が何物にも代えがたい贈り物のように思えて、何かに向かって頭を垂れたくなった。別離、喪失、出会い…。

人の力や意図を遥かに越えたところで、私たち人間は翻弄されているように見えるけれど、アンドレ、わたしは今ここにいて、存在しうる全てでおまえを愛している。それだけは、わたしの掌の中。だれも奪えはしない。


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