29. 狼谷村 

2024/07/13(土) 暁シリーズ

1789年8月27日

わたしの眠りは浅い。軍人だからどんな場所でも眠れはするが、睡眠中であってもあらゆる気配に敏感に反応するように身体を仕上げてある。宮廷で与えられた居室であろうと、衛兵隊の仮眠室であろうと、警戒態勢を解かない限りは、扉越しに人が通り過ぎただけで気配を察知して目が覚める。

そんなわたしが唯一無防備に熟睡できる場所は、我が家の自室だけだった。朝日が漏れ入らないように重厚なカーテンを下ろした私の寝室は、胎内のような小宇宙の温かさでわたしが憩える唯一の場所だった。

ジャルジェ家を出てからひと月半、アンドレと離れて暮らしていたせいもあり、マロン館に構えた居室は未だ心安らぐ場所になり得ていなかった。


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目覚めたのは真新しい深緑色のカーテンがゆれる、明るい寝室だった。

薄手の木綿は陽光を通し、むき出しの石壁に囲まれた室内は緑の湖水に沈んだようにうっすらと色づいている。硬めのマットレスには一応羽が詰まっているらしいが、使いつけない木綿のシーツの肌触りは粗かった。

シンプルな木の寝台には天蓋もレースの蚊帳もなく、その開放的な環境に目覚めて初めて少々驚いた。

ベッドヘッドが腰高窓にぴったりと寄せてあるものだから、カーテンの揺れにあわせ、細かな陽光が枕の上でちらちら舞い踊っている。

僅かに開いた窓からは賑やかな鳥達の大合唱。青草と藁の匂い。わたしが深い眠りを求めるにはいささか健康的すぎる環境と言えよう。

それなのに初めて夜を過ごした慣れぬ部屋で、わたしは太陽が高く上がってしまうまで熟睡していたらしい。

深い湖底から一気に急浮上するかのような目覚めだった。完全に無の世界に溶け込んでいたわたしのまわりで、一瞬のうちにありとあらゆるものが実像を結び、色彩を帯びた。その唐突な目覚めは、わたしが夢すら入り込む余地のないほど深く眠っていたことを教えてくれた。

何てことだ。今日は、曲がりなりにも新婚二日目であることを思い出す。つまり昨夜はアレだった。

そこに考えを巡らすと、かっと頭に血が上り頬が火照る。わたしは頭を振って思考をぶち切った。相方が幼馴染であると何かと好都合な面も多いが、新婚第一夜につけられた艶っぽい名は思い浮かべるだけでもこっ恥ずかしい。

ああ、世間一般の常識に当てはめて考えるのはやめよう。わたしは多分国一番の常識はずれな花嫁だったはずだから。慌ててシーツの間に潜り込み、昨日の記憶を急いで辿ってみた。

心に刻みつけられるような結婚式になった。

残念だったのは、思想上の立場を違えるがために、敬愛する両親に列席を望むどころか、報告さえできなかったことだ。納得し尽くした選択であっても、寂しいと思うのはまた別の話。そして、誰より大切な人を家族非公認の夫にするしかなかったことも。

けれど、仲間から贈られた祝福は、そんな痛みを払拭するに余りあるほど温かだった。街の片隅でひっそりと執り行うつもりだった婚礼が注目を集めてしまったのは予定外であったが、思いがけない部下の祝福には素直に感動するよりどうしろと言うのだろう。

もの珍しさで集まった市民も、挙式後教会を後にする頃には温かい眼差しで祝いの言葉を紙ふぶきのように投げかけてくれた。自分の為よりも、アンドレのために嬉しかった。彼こそ祝福に値する。集まった市民が秩序を保ってくれたことも、神から祝いの贈り物を賜ったと感謝している。

挙式後、勤務を抜け出して来た兵士は直ちに追い返したが、非番の兵士達はそのまま市門まで付き従い、門前では両沿道に居並び敬礼で送ってくれた。雇った御者は、パリで乗合い馬車を経営して三十年を越えるがこんなに注目されるのは初めてだ、土産話を持ち帰るのが待ち遠しいと興奮気味に居並ぶ兵の間を通り抜けた。

一頭立ての質素な箱馬車に、わたしの兵士達が捧げる大真面目な敬礼は妙に不釣合いながらどこかユーモラスで、愛しかった。

途切れることのない彼らの祝福の間には、相変わらずアンドレへの野次が飛び交った。中でも『人生の牢獄へ自らを投げ入れたアンドレ・グランディエ、幸運を祈る!』と叫んだ兵が誰だったかは必ず突き止めてやる。なぜアンドレに幸運が必要なのだ。覚えていろ。

しかも、アンドレの奴ときたら『ありがとう。当然の報いは受ける!』と余裕で返したのだ。そしてわたしに向かって『無期懲役でどう?』と両拳を胸の前で握り、お縄頂戴の姿勢をとって笑った。

まったくもってどういう意味だ!大勢の目撃者が居合わせる前でなかったら、間違いなくわたしはその場であいつの首を絞め上げていた。

そんな風に彼らの大歓声に見送られながら、わたしたちはこの狼谷村へやって来たのだった。


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『おまえをパリに住まわせることはできないよ』

まだ銃創による高熱で身体の自由を奪われているうちから、アンドレはこれだけは絶対に譲れないと主張していた。傷も癒えないうちから床を這い出し、わたしの病について情報を集めるうちにその決心はより一層固まったようだ。

彼が集めた情報を総合すると、日照時間の長い南部では労咳の治癒率が高く、反対に住宅密集地域で致死率が高いことが分かった。高層建築の立ち並ぶパリ市街の日照条件は劣悪だ。

南部地方の湯治場に隠匿する気など端からないわたしのために、せめてそれに近い環境をでき得る限り整えようと彼の頭は忙しく回転を始めた。

『それに…この街の空気と水。特に水はだめだ。どこの給水場も汲み上げているのはセーヌの水だ。おまえの今の身体には毒にしかならない』

パリでは瓶詰めのミネラルウォーターが買える。しかし、アンドレを放置しておけば、飲用だけでなく洗顔洗髪などわたしの水需要すべてに瓶詰めを使いそうだった。自分こそ怪我人だという自覚を持て、と何度も言ってやったが、そのつどこの男には一時的にフランス語が通じなくなった。

だがどんなに気をつけても、生活用水全てに汚染されたセーヌの水が使われるのだからきりがない。しかも人口に対しての水供給は絶対的に足りないのだ。

大気汚染もパリ名物だ。特に冬になれば煮炊きに加え、暖房の排気が狭い街の空間に充満し、換気の悪い室内では目を開けているのも辛い状況が当たり前になる。大都市とはありとあらゆる汚染が凝縮される場所なのだ。

軍人であるわたしは、そのような悪環境に神経質になりたくない。軍人なら泥水をすすり、木の根をかじっても生き延びるだけの気骨を持ちたいし、そのための訓練も積んだ。第一、パリでは六十万の人間が生きて生活しているのだ。わたしが暮らせぬはずはない。

そう主張したら、健康体なら文句は言わないが、常時と非常時の区別はあるだろうと、巌とした反撃が返って来た。分が悪いのはわたしの方である。彼を天涯孤独の身にしたくないわたしは、以前のような無鉄砲ができなくなっていた。

せっかくのマロン館にも居住するには問題があった。

マロン館ほどの規模となれば、屋敷を維持管理する雇人が必要だ。雇用管理するにも専任の人材が必要となる。ばあやの叩き上げ秘蔵っ子は充分にその能力を備えていたが、わたしは彼に今以上の役割を課したくはなかったし、アンドレ自身、優先事項を他に考えているため、気乗りしない様子だった。

またパリでは貴族の館に対する市民の焼き討ちが相変わらず頻発しており、アンドレはわたしの身を案じていた。マロン館は立派過ぎ、いつ次の標的にされても不思議ではなかったのだ。

そこでひねり出した解決案が国民軍と賃貸契約を結ぶことだった。国民衛兵隊司令部に隣接している利便性が重宝がられ、マロン館は不足していた将校用宿舎として有効に使用されるようになった。

単身や、家族を伴った将校がそれぞれ使用人を連れて二十名あまり入居して屋敷は大所帯になり、総管理人は軍が雇い入れた。司令部と共に24時間警備体制が敷かれることになり、管理とセキュリティの問題が二つ同時に解決されることになった。

アガットとリュシェンヌは総管理人の下で奉仕を続けるが、修道院の閉鎖が相次ぐ昨今のこと、彼女らが望むなら、正式な雇い人として給与を得られるように交渉してやりたいと思っている。

そんな訳でわたしはマロン館には勤務日のみ滞在し、生活の拠点は、パリ南西ヴァンセンヌの森を越えたところにある狼谷村に求めることとなった。

マルヌ渓谷に隠れるようにして開かれた狼谷村は、パリの東の市門から、徒歩でも約一時間程で辿りつける。小さいながら麦作と酪農と製粉業でパリの食料庫としての重要な役割を担う村だ。

綺麗な小川と空気に恵まれながら市内へのアクセスが良好という、わたし達に必要な条件を揃えた狼谷村は、アンドレの生まれた土地だった。

狼谷村は、マルヌ川へ注ぎ込むイレーヌ川がつくる緩やかな渓谷の中腹にある斜面の村で、人口は僅か千人ほど。豊かなイレーヌ川の水流を利用した製粉工場が点在し、近郊の村々からの穀物の加工も一手に引き受けている。

村の中心は、十六世紀に建てられたといわれる、ゴシック様式の小さいながらも見事なステンドグラスのある教会だ。教会広場周辺から石畳の坂道が放物線状に広がっているのだが、どの道をたどっても半時も歩かないうちに町並みが切れ、麦畑か森に突き当たる。

渓谷の上方の土地は畑にするには急高配すぎるが牧草地として上手に利用され、麦畑を見下ろしながら牛と羊がのんびりと草を食んでいる。

もう遥か昔のことになってしまったが、わたしは一度だけこの村を訪れたことがあり、その時の情景は鮮明に記憶に残っている。わたしが覚えている狼谷村は、もの悲しく泣いているようだった。夜明けの薄闇に包まれた真冬の村は、枝ばかりになった森に取り囲まれ、森閑と静まり返っていた。

収穫期を終えた田畑は荒れ野にしか見えず、寒々とした地肌が延々とうねりながら続くさまは、子供だったわたしには空恐ろしいほど空虚に見えた。

今思えば空虚だったのは村ではなくわたしの心だったのだろう。初めてジャルジェ家で過ごすノエルを前に、アンドレが一人で歩いて誰もいない家へ戻ってしまった翌早朝のことだったからだ。

万霊節の前には死者が家を懐かしがって帰ってくるから、ご先祖さまが里帰りをしている間は間違ってもほうきで掃きだしてしまわないように、11月前には大掃除を済ませるようにするんだよ、とばあやがアンドレに話したのが発端だった。

母を亡くして間もなかったアンドレがノエルに戻って来ると言う母親を求めて家出したのだろうとジャルジェ家の誰もが危惧した。

『おばあちゃんの言うようにもし母さんがノエルに家に帰って来たら、誰もいなくてさぞ寂しい思いをするだろうと思うと堪らなくて、気がついたら屋敷を飛び出していたのは確かだけど、家出するつもりじゃなかった。ちょっと頑張れば歩いて行ける距離だと思っていたしね』

実際の村とヴェルサイユの距離はちょっとお散歩で行けるほど近くはなかったので、アンドレは夜通し歩いてパリを斜めに横切り、深夜になって村にたどり着き、明け方疲れきって納戸の藁の中でまるくなっているところを発見された。

極寒の中、軽装のまま一晩を越した子供は絶望視されていたが、奇跡的な生還だった。わたしは捜索に同行させよと下男とばあやに食い下がり、無理やり狼村までついて行ったのだった。

昔の記憶とはうって変わり、狼谷村はその名に似つかわしくない可愛らしい姿で現れた。

毎水曜日に市が立つという広場に集まる道は綺麗に舗装された石畳で、大きめの荷馬車が通れる程の広さがある。日用品を扱う商店や、パリで言うならカフェとしての機能を持つのだろうか、よろず食料品を扱いながら、ちょっとした軽食や酒を飲ませる食堂とも商店ともつかない店が三軒ほど広場に面していた。

おもちゃのように小さく纏まった村落は、ベゴニアやつるばらが咲き乱れ、石垣の照り返しが眩しい、童話の挿絵にしたいような村だった。

昨日婚礼を終えたわたしたちは午後遅くにアンドレの生まれた家へ到着した。

堅牢な石造りのアンドレの生家は彼の母の遺言によって売却されずに残されており、アンドレが年に一度ほど石工と大工に点検と修繕を依頼していたので、屋根瓦を修理するだけで十分住める状態を保っていた。

家屋はシンプルな総二階屋が三棟連なっている形態で、このあたりの岩石の色なのだろうが、村の多くの石造り住居と同じ、セピア色の石で外壁が組まれている。

ここに住むことを決めてから急いで屋根の葺き替えをアンドレが手配したので、赤茶色の屋根瓦が真新しかった。

軍務の合間に一体どれだけの雑事をしたのだ、と問うと、結婚式まで私的に会えなかったから、そのくらい忙しくて丁度良かったんだ、とアンドレは照れて見せた。

家屋は小高い台地に広がる原生林を背にして建っていた。北側はその台地に視界を遮られるが、南と東側には一面の麦畑が広がり、西側には舗装されていない赤茶色のポプラ並木道が走る。その向こうの丘陵地帯も麦畑で、なだらかな曲線が幾重にも美しく重なる。

北側の台地の頂上まで上ると、水車小屋の並ぶマルヌ川とヴァンセンヌの森を越えて、パリの街が見渡せると聞いたので、わたしの疲労を気遣い渋るアンドレを追い立てて上って見た。

麦の穂波が広々と波打つ緑がかった黄金色の海に、所々こんもりと小さな森林が島のように浮かんでいる。畑が切れる境目に見える濃い緑の海がヴァンセンヌの森。そしてその更に向うには灰色にけぶるパリが広がっていた。

眼下に広がる景色にすっかり心を奪われて、アンドレにわたしの目に映る風景を描写してやるのを忘れていたことを後になってから気がついた。

結婚の秘蹟を受ける時、『生涯この者の目となる』という一節を入れて欲しいと神父に私自ら申し出たのに情けないことだ。アンドレは特に催促するでもなく、見えない瞳を丘陵地帯に向け、黙って風に髪をなびかせていた。

幼い頃から当たり前のように極彩色に囲まれて暮らしてきたわたしに、アンドレの生家は無彩色で味気なく映った。当惑気味のわたしを面白がって、アンドレはわざと追い討ちをかけた。

「豪邸だろ。何せ昔は家畜小屋だったらしいから」
家畜小屋と聞いて思わず一歩下がったわたしを捕まえたアンドレは、楽しげに説明してくれた。

家畜小屋として使われていたのは百年以上前のことだそうだ。石造りの建物は頑丈にできているし、人の住居として長い年月かけて改装を重ねていると聞いて少し安心した。

村の開墾が始まってしばらくの間、このあたりは牧場だったが、パリの人口が増えるにつれ耕作地がだんだん足りなくなり、牧場は村の高台に移された。厩舎はその後に民家として改修されたのだという。よくよく観察してみると、幾世代にもわたって手を入れた跡が確かに残っていた。

同じ形の棟が三つ連なっている形態は、言われてみれば厩舎の形状を成している。急勾配をつけた切妻屋根からは、後から取り付けたに違いない出窓が二つ、大きくせり出していた。

一見二階建てに見えるが、半地下の納戸(アンドレが発見されたところだ)の上に建っているので実質は三階建てだ。その辺がアンドレに『豪邸』と言わしめるゆえんらしい。

居住階に入るには十段ほどの外階段を上ることになる。二階は屋根の勾配を利用したいわゆる屋根裏部屋で、もともとから人の住居用だったようだ。天井の梁はアンドレが手を伸ばして跳躍しても届くか届かないかのところにあり、屋根裏部屋としては結構高天井である。

三棟の建物のうち中壁を壊して連結させた二棟だけが現在の居住空間として使われており、残る一つは未使用のまま置かれている。一階部分には居間と食堂兼厨房。敷地がやや傾斜しているのを調整するために、居間の床より階段二段分ほど高くなった寝室と、その奥にもう一部屋予備室がある。

居間の上の天井はぶち抜いてあり、天井の名残りである見事に太い梁だけが三本、豪快に頭上高く横切っていた。ジャルジェ家のわたしの居間よりも広いぞ、と言ったら居間だけど食事もするし作業もするし冬の寒い夜は暖炉前で家族全員で固まって眠るし、あらゆる用途に使ったんだ、と解説された。

床は綺麗に切りそろえられた素焼きタイル、壁はむき出しの岩石のままだが、隙間をしっかりと漆喰で塗り込め、厚みは外壁も内壁もたっぷり取ってあった。その厚みを利用して、内壁をくり抜いた棚が幾つも設えてある。

居間のフランス窓も寝室の腰高窓も、窓枠には面取りをした太くて立派な胡桃材が丸ごと一本ずつ贅沢に使われているが、きらびやかな塗装はなく木目が剥き出しになっている。その木肌は艶々とあめ色に磨き上げられ、手を入れつつ大切に住まわれていたことが想像できた。

わたしが見慣れた芸術装飾はないが、素人の手仕事である建具の仕上げなど、人の温もりが感じられる屋内だった。

「そしてこれは、勇気の梁と言って…」

居間の天井を横切る梁のうち、真ん中の一本を指し、アンドレが可笑しそうにもったいぶって解説を続ける。

「今はないけれど、ここの壁際に背の高い戸棚があった。そこによじ登ると二つ程足場にするのに都合のいい壁石が飛び出しているんだけど」
見上げると、確かにそれらしき石が見えた。

「そこを足場に梁の上まで行けたんだ。そして梁の上を這って反対側の壁までたどり着ければ勇者の証明だ。その目標は割と簡単に達成できたから、次は梁を抱きかかえて下にぶら下がる格好で居間を横切ることが目標になった」
「幾つ位の時だ?」

わたしもその場にいたとしたら、嬉々として挑戦しただろう。梁を見上げながら歯を食いしばってぶら下がる子供のアンドレの姿が目に浮かんだ。

「挑戦を始めたのは六歳の誕生日だった。でも太いだろ、この梁。手足の長さが足りなくて、終点までぶら下がったまま前進するのは容易じゃなかった。挑戦するたびに距離は少しずつ伸びたけど、結局途中で落ちる羽目になったんだ」

「落ちた?6才の子供がこの高さを?」
「ふふ、父さんが下で受け止めてくれた。父さんが見ていてくれる時だけ、挑戦してもいいことになっていて、落ちるのも楽しみだったんだよ」

当たり前のようにアンドレが語る子供時代。それが、わたしには持ちようも望みようもなかった経験であることを彼は知っているだろうか。わたしと父の関わりに愛情は確かにあったが、父と過ごす時間はすべてわたしの軍人教育に当てられた。

父は持ち時間を周到に計算し、何事をするにも具体的な教育上の目的があった。ただ、笑いあい、触れ合うためだけの親子の時間があることを、当時のわたしは知るよしもなかった。

そんな親子の時を与えられた上で奪われるのと、最初から知らずに育つことと、どちらが残酷かはわからないが、時々アンドレの持つ素直で健やかな感性には敵わないと敗北感を得る訳は、それぞれの父親との関係性の違いだろうか。

「では、目標達成ならずか?」
そう問いかけたわたしの肩を後ろから抱き、頬をわたしの頭にもたせ掛けて、アンドレは一瞬間をおいた。

「いや、最後に一度だけ成功したよ。でもひとりで挑戦したんだ。約束違反だと母さんは泣いて怒ったっけ」

つまり、その時には、父親の姿はもうこの家になかったのだ。
「で、あそこが母さんの観戦席」

感傷の風に吹かれたわたしをよそに、アンドレの口調は明るいままだ。彼が指さしたのは、居間の壁際にある頑丈そうな木製階段を上りきった先の小さな踊り場で、アンドレの人差し指は微妙に彼の意図する目標からずれていた。わたしはそんなことにまだ慣れずに、泣きたくなる。

もともとは二階の床の一部であったはずの踊り場は、壁からせり出したちょっとしたバルコンのようになっている。そこに立つと問題の梁は足元の高さになるわけだ。その踊り場からは、一階の寝室の真上にある屋根裏部屋へ行くことができる。

「母さんはいつも俺と父さんの挑戦をあそこからはらはらしながら見ていたんだ。可笑しいだろ、あそこに上ったって、手が届くわけじゃないのにな」
「幸せな家族だったのだな」
「うん、八年間で一生分以上の愛情をかけてもらったと思っている」

なぜか居たたまれない思いに襲われ、わたしはアンドレの首に両腕を廻すと力一杯抱きしめた。あいたた、と小さなうめき声が彼の咽もとからら洩れ、わたしは慌てて腕を彼の腰まわりに置き換えた。

彼の胸と肩の銃創は完全に癒えていない。視力を失い、銃弾で傷つき、何もできない労咳もちの世話のかかる女を背負い込んだ今のアンドレを彼の両親が見たら、どれほど嘆くだろうか。

機能だけをぶっきらぼうに剥き出して見せる無骨な家の温かみは、彼の両親の気配そのもののようで、わたしはアンドレの胸を包帯の上からそっと撫で、彼らに無言で詫びた。大丈夫そんなに痛くない、と小さく囁いてアンドレはわたしの両肩をすっぽりと包んでくれた。

アンドレはこの住居について、わたしの体調が落ち着くまでの仮住まいと考えてくれていい、と強調していた。言葉に出しはしないが、わたしをこの素朴な住居に住まわせることに多少なりとも躊躇を抱えていたのだ。

飢えた市民が富に対してナーバスな感情を膨らませている昨今、わたしは余計な摩擦を避けるために質素に暮らすことに異論はない。その覚悟なくしてジャルジェ家を出る選択肢はあり得ないことだ。

確かにいざ住んでみればいろいろ不満も出てくるかもしれない。けれど、柱や階段に刻まれた傷の中に子供が故意につけたと思える形を発見したり、八歳のアンドレなら、この目線でこのあたりに手をかけたのだろうかと思いながら、ドアを開閉したり窓の外を眺めたりするうちに、この家はわたしにとっても大切な場所となる予感がした。ここが仮住まいになる日は来ないだろう。

狼谷村を選んだ理由は、住環境だけではなかった。

パリのような大都会なら、適当なアパルトマンを借りて市民の一人として紛れ込むことは造作ない。しかし、村中が家族のような、悪く言えば排他的な小村に貴族丸出しのよそ者が迎え入れてもらうには、何がしかの縁がなければ難しい。

だから、その地に根をおろしていたアンドレの父の存在感の残る狼谷村に息子が帰郷するという形をとることが最も自然に思われた。

アンドレ自身は子供だったので、特に村人の印象に強く残っているわけではない。しかし彼の父、レオン・グランディエは、狼谷村の主要産業である製粉工場を統括する機械技師親方として村の経済を支える主要人物だったので、彼を知らない村人はいない。そして彼の死に様はさらに村人の記憶に強い刻印を残しているのだ。

おりしも七年戦争が末期を迎える頃、敗退に敗退を余儀なくされたフランス軍は民間人からも事実上の徴兵するようになっていた。大陸の植民地、ルイジアナを死守するために橋や砦や砲台を手早く建設したり修理の出来る工兵を探していた陸軍はレオン・グランディエに目をつけた。

狼谷村にやってきた徴兵将校は、徴兵対象が独身男子という慣例を無視し、彼が志願すれば、狼谷村からは一切他の男を徴兵しないという条件を提示した。

彼の人となりは想像するしかないが、レオン・グランディエは徴兵に応じた。アンドレの父は新大陸へ送られたが再び戻ることはなく、フランスは広大なルイジアナとカナダを失って戦争は終結した。

村人は今でも苦い思いとともに、レオン・グランディエを記憶に留めている。そして彼の1人息子は晩年の彼とそっくりなのだそうだ。昨日村に到着して早々に挨拶に伺った村の老司祭がそう話してくれた。

まるでレオンが帰って来たようだ、と涙ぐみ鼻をすする老司祭の手を握ったアンドレは、終始困ったような笑みを浮かべていた。

そこま計算していたわけではないんだよ、とアンドレは後にばつが悪そうに苦笑した。父親の縁を辿ることはしても、功績を笠に着るつもりなど露ほども考えていなかったのだろう。

余談になるが、アラスの別荘で働いていたばあやの娘、ジャクリーヌ・グラッセと、レオン・グランディエが出会うきっかけを作ったのはわたしの父である。

父が領地に新しい製粉機を導入するために、当時最新の遠心調速機の特許を持つグランディエ氏を呼び寄せた際にふたりは出会った。アンドレをわたしの護衛兼遊び相手としてわたしにあてがったのも父だ。何という不思議な巡り合わせなのだろう。

この革命騒ぎのさなか、貴族出身である上に、普通の男が連れ帰る花嫁としては常識から遥か遠く外れまくった変り種のわたしが、素朴な村で住人として受け入れて貰えるかどうかは、アンドレの計画の肝心要であった。

仲間として一旦受け入れられさえすれば、よそ者に対する村人の油断のない目がわたしを政治利用から守ってくれる。武力で守ってくれるという意味ではない。排他的かつ家族的コミュニティは侵入者を見逃すことなく警鐘を鳴らす。部外者が隠密活動をするには非常にやりにくい環境だ。

不穏な動きは事前に察知さえできれば、自分達で先手を打てる。だからアンドレは、わたしを地域社会に受け入れてもらうためにはどんな努力も惜しまない覚悟でいる。

挨拶に立ち寄った司祭館からの帰り道、行き会った数人の農夫達が、アンドレを認めると一様に幽霊でも見たように立ちすくむのに私は気が付いた。そしてレオン・グランディエの亡霊ではなくよく似たせがれと認識すると、皆一様に安堵の息をつくのだ。

アンドレが今回は帰省ではなく、永住するつもりで戻って来ましたと挨拶すると、荒っぽいもみくちゃな抱擁(豪打に近い)がアンドレを襲った。思わず間に割って庇いたくなった程だ。

そりゃ良かった、困ったことがあったら何でも相談しなと、温かな歓迎は本物でも、歯の欠けた髭面の農夫の目の奥には明らかに、悔悛の色が見えた。

「子供の頃はともかく、今なら親父が家族と村人の間でどれほど葛藤して苦しんだか想像がつく。だから、親父の選択を尊重しているし、おふくろが出産事故で死んだこととも結びつけて考えてはいない。

けれど、村人から見ると、おれは村から戦争寡婦や孤児を出さない代わりに、その役割を一身に引き受けた挙句、貴族の館に売り飛ばされた可哀相な坊頭…なんだよな」

アンドレは農夫を見送った後そう言って頭を掻いた。その哀れな坊主を買った当のお貴族様にそんなことを言っていいのか。ふん、お買い得だったぞとわたしは右の耳朶を引っ張ってやった。

アンドレは引っ張られるまま頭を傾げて何かを考え込んでいるので、左側も同じようにしてやった。どこまで伸びるか試してやっていると、アンドレは眉尻を下げてチャーミングな困惑の笑みを浮かべて言った。

「村人の受け入れがいいのは助かるよ。親父の残してくれた形のない遺産と思って素直に受け取るべきなんだろう、な」

彼は村人が抱く後ろめたさに付け入るつもりもなければ恩を売るつもりもない。彼は信頼関係を築きたいのであって、貸し借りの清算という意識はない。大丈夫、そんなことは村人が彼を知ればおのずとわかるはずだ。

そのあたりから、わたしの昨日の記憶はぼやけ始める。司祭館から帰り、パリで詰めてもらった『銀杯』の仕出し料理で簡単な夕食を済ませた。家具調度など殆どないので、運び込んだトランクに腰を降ろしてワインを瓶のままで乾杯した後、この野営風味満載の晩餐が婚礼の宴となることに気づいて二人で爆笑したところまでは覚えている。

食後、手探りで後片付けを始めたアンドレを手伝おうとしたのだが、おまえは休んでいろとこの寝室に放り込まれた。こういう時のアンドレは手の着けようがない頑固者になるので、わたしは無駄な抵抗をさっさと放棄した。

寝台でのびのびと手足を伸ばすと、久しぶりに心地良い酔いがまわった。そうだ、今夜中に火を、明日には水を使えるようにしたいと、わたしの相手をするより炉の掃除を優先させたアンドレが悪いのだ。

やっと私的な時間が持てたのに、新婚の花嫁を先に放り出したのはあいつの方だ。連れないアンドレに枕を投げつけ、寝室の扉は開けたままにしておけとごねた記憶がある。

ふて寝と洒落こんだわたしの意識は、彼が動き回る物音を子守唄にふわふわと漂い始めた。しばらくは彼の気配を楽しんでいたわたしだったが、気が付いたら朝だった、というわけだ。

ベッドカバーの上でごろごろしていたわたしがちゃんとシーツの間に納まっているのは、たとえ眠りかけていても身じまいをきちんとしないではいられないわたしの育ちの良さの賜物・・・なわけはないな。

わたしは思いっきり手足を伸ばした。よく眠ったせいだろうか、新しい体と入れ替えたように身が軽くて気持ちがいい。目覚めの気だるさがすっきりと消えた代わりに、強烈な空腹感を感じた。

どちらも、健康であれば当たり前の感覚なのに、もう随分と長いこと忘れていたような気がする。体は本当に正直だ。

つっ、つっ、と澄んだ細いさえずりが窓際から聞こえた。物音を立てぬように半身を起こして振り返ると、揺れるカーテンの合間から、片手に乗るほどの大きさで細長いシルエットの鳥が、つがいで窓枠にとまっているのが見えた。つんつんと細長い尾っぽで窓枠を叩いている。わたしは鳥に話しかけた。

「やあ、明日はもう少し早く起こしに来てくれ」

人の気配を感じても鳥の夫婦は逃げようともぜず、せわしなく羽繕いを始めた。
「ふん、どいつもこいつも忙しそうだ」

わたしはごろりとうつ伏せになって両頬杖をつくと、騒ぐ腹の虫をなだめすかしつつ結果的にほったらかしてしまった新婚の夫にどう挨拶してやろうかと考え始めた。ところで、あいつはどこで寝たのだろう。ちゃんとしたベッドがあるのはこの部屋だけだ。それより、あいつはどこにいる?

「多分セキレイだよ。人にはよく慣れる。餌付けしてみるか?」

背後から突然声が聞こえた。ふいをつくな、ふいを!わたしはうつ伏せのまま飛び上がった(ような気がした)。もそもそともう一度身を回転させ、何の防御にもならないシーツをひっかぶったまま寝台の上を壁際まで後退しながら振り仰ぐと、世にも気の毒な新婚の花婿が開いたままの寝室の扉に寄りかかって優しく笑っているのが目に入った。

途端にきゅん、とまるで小娘のように心臓が跳ね上がる。我ながら驚きだ。

すでに開いている扉を行儀良く一応ノックして見せてから、アンドレは床タイルの目地をつま先で数えるようにして正確にベッド脇にやって来た。ああ、バツが悪い。どんな顔を向ければ良いのだ。見えなくてもこいつには絶対わかるんだ。

「胸が黄色くて腹が白。黒いコートと長い尾っぽ?」
窓際に寄ったアンドレは鳥を脅かさないように、そっとカーテンに手をかけて陽を入れた。陽は思ったよりも高い。参った。正午近いではないか。

「うん」
わたしは拗ねた子供のような返事をし、アンドレは窓に向かっておおきく伸びをした。
「うーん、じゃあ間違いない。綺麗な水が好きな鳥で、この辺には沢山いる」

アンドレは全く普段どおりで、今日がありふれた日常の平凡な朝のように自然だった。窓を開けると、掌で寝台を確かめてからゆっくりとわたしの横に腰を降ろす。向けられた笑顔は差し込む光よりも眩しい。

わたしはそんなアンドレを木偶の坊のように眺めた。寝室の床に落ちているのと同じわら屑がアンドレの肩と背についている。そうだったか床で寝たか、新婚初日から災難だったな。わたしは爽快に目覚めたが、おまえは節々が痛いだろう。

「おはよう?」
わたしが静かなので、幾分心配そうにアンドレが身を屈めた。ミントの香りがする。彼は髭を剃り、髪にもブラシを当て、みなりをきちんと整えていた。朝から(昼か)うん、実にいい男だ。

対するわたしは暴発した髪をおっ立ててぼんやりとしている。何と哀れで気の毒な夫だろうとつい同情してしまったが、そんなことくらいで百年の恋が冷める事態にならないのが、幼馴染を恋人に選ぶ利点だ。いつもの優しい笑みをもらってわたしのきまり悪さはほやほやと気持ちよく溶けていった。

「うん」

莫迦かわたしは。安心したらしたでやっぱり子供みたいだ。彼の手が宙を左右に大きく彷徨い、わたしの跳ね上がった髪に触れ、髪を伝って額を探し当てた。大きな温かい掌がわたしの額を覆う。何という安堵を与えてくれる手なのだろう。

「熱はない・・・な」
「ない」
「良かった」
子供帰りついでにわたしは力任せに額を押し付けた。

ごりごりと頭突きするわたしをアンドレは掌ではなく体ごと受け止めてくれた。アンドレの匂いと大きな胸にすっぽりと収まって、夕べは勿体無いことをしたと少し後悔する。胸の傷を避けて彼の背に腕を回し首筋に顔を埋めた。

時間よ止まれ、とつい古典的で陳腐なフレーズが頭に浮かんだ。もしも、はいどうぞ、と天から掲示があったら、本当に今喜んで止めてもらうだろうか。いや、きっと止めてしまいたい瞬間は多すぎて甲乙つけがたく、わたしはどれ一つとして選ぶことができないと思う。

埒もない幸せな悩みを大きなため息にして吐き出したわたしを抱いたまま、アンドレはもっと長く息をついた。少し早足で打つ彼の鼓動が体全に伝わってくる。彼もわたしと同じ気持ちでいてくれるのだろうか。そうなら、こんな嬉しいことはない。

「気分は?」
「う~ん」

わたしが猫なら、ここでゴロゴロと喉を鳴らしてみせるのに。幸せな気分だと言葉にするのは恥ずかしい。

「なるほど」
アンドレが得心して頷いたので、わたしは彼の胸から顔を上げた。

「何が」
その私の鼻先に触れるところまでアンドレが顔を近づけた。
「甘えたい気分?」

う・・・おっ、危険極まりない甘い低音が背中にぞくりと走る。やめろ!せっかく鼻先が重なりかけたのに、わたしの中の天邪鬼が反射的に体をすっと引き、両手はアンドレの脇をつねった。大当たり、と素直に認めてしまえないわたしの性分がいまいましい。

ああ、くそ、いますぐ猫になりたい。引っ掻くためではなく、喉を鳴らすために!

と、思ったら本当に鳴った。喉ではなく、すきっ腹だ。思いっきりつねられてちいさく悲鳴を上げたアンドレだが、わたしの立てた音にも気づいた。彼は一瞬迷った様子を見せたが、大層礼儀正しく聞こえない振りをした。

つまり、素の彼より職業的反応を選んだわけだが、その一瞬の躊躇と場違いな選択がわたしに語った。自然体で余裕を見せている風のアンドレも、実は照れくさいのだ。はっは、そうだろうそうだろう。何せおまえとわたしだからな。

「ふふふ」
途端にわたしは勝ち誇った気分になる。くちづけの寸止めを食らいながら従者張りの礼儀を慌てて引っ張り出すとは隙あり、と言うか大間抜けだ。

「何?」
「ふふ、何でもない」

わたしは手を伸ばしてアンドレの両頬をがっしりと押さえ、再び鼻が触れ合うところまで引き寄せた。主導権さえ奪い返せば、落ち着いてこいつを味わってやれる。

急に機嫌が良くなったわたしをやや警戒しながらも、アンドレは素直に目を閉じてわたしのこんがらがった髪に苦労して何とか指を挿し入れた。

わたしとアンドレの付き合いの長さを考えれば、交わしたくちづけの回数はとても少ないと思うのだが、タイミングといい、角度といい、初めての時(いつをもってして初めてとするか、議論の余地があるが)からパーフェクトだ。まるで事前打ち合わせでもしたように(するか!)。

二人の間には何か黄金率があるとしか思えない。わたしは唇が触れ合ってからふわりと互いの唇が開くまでの僅かの隙が特に好きだ。胸が甘切ないもので一杯になる。

閉じたアンドレの濃く長い睫毛に軽くくちづづけてから、わたしも目を閉じて鼻先を彼の鼻の横に戻した。彼がわたしの耳もとにあてがった指先に優しく力が込められ、唇が触れ合う。

はずだった。のに。

「おれは痩せているし、食うならもう少し太らせてからの方が」

ああ?何だって?くちづけを待つ姿勢だったわたしが慌てて目を開くと、わたしの額にこつんと自分の額を合わせ、アンドレはくつくつと肩で笑っていた。

「何か他にお持ちしますから、お願い食わないで」
きゅるるる、きゅいーん。
何と、豪快にわたしの腹が空腹を訴えている。

それは、止むことなく明るくファンファンーレを奏で、恥をかかせてくれたアンドレに抗議の声を上げようとしたわたしを黙らせた。

「おれ、初めて聞いたと思う、そこまではっきりとしたのは」
いつからまた鳴り始めていたんだ、気が付かなかった、くそ。アンドレは今度こそ従者根性を捨て、遠慮なくくすくす笑い始めた。

「腹減ってる?オスカル」
「聞くな!聞けばわかったろう!」
「くっくっくっ、とって食われるかと思った」
そうとも。食うつもり満々だったのに。

ああ笑え笑え!好きなだけ笑うがいい!そんなことで恋は冷めはしない。

幼馴染万歳、くそ。

憮然としたわたしをきゅっと抱きしめるとアンドレはさっさと立ち上がり、額にキスをくれた。何なんだ、二十年以上も前から変わらないやつじゃないか。それじゃ勘定のうちに入らんぞ。

文句を言う暇もなく、わたしはアンドレの後ろ姿を見送ることになった。逃げるように去らなくてもいいだろうが。歩数を数えるまでもなく家の間取りをすでに把握したらしいアンドレは、大きなピッチャーと木製のバケツを下げて危なげない足取りで間もなく戻って来て一気にまくし立てた。

「井戸は埋まってしまったから、これから堀り起こすまで使えない。これは前の小川の水だが上流に村落はないから洗面には大丈夫だろう。

火は昨夜使えるようにしたからこっちのバケツに湯が入っている。少し熱めだから気をつけろ。リネンと石鹸はここ。化粧道具一式はおまえが自分で荷詰めしたんだから、なんとか自分で探し出してくれ。

楊枝と塩はこっちのトレイ、おまえのぶっ飛んだ髪は一人で収めるのは無理だろうから後で手伝ってやるよ。先に食事の用意をして来るからおまえは顔を洗ってろ。

火は使えるが、火を通すものは時間がかかるから、今朝はあるもので我慢してくれ。パンとチーズは昨日の残りで悪いけど、新鮮な果物とミルクを近所で譲ってもらえたよ。

だけど、ああ、ちくしょう、こんなことなら何か温かいものを煮込んでやる準備をしておけば良かったな。せめてミルクだけでも温めようか」

息を継ぐ様子もなく喋りまくりながら、アンドレの手は忙しく動いてわたしの洗面の支度が出来上がってゆく。

「食べ物に不平は言わんぞ、アンドレ」
「そんなこと言ったって!」

いつもの完璧主義が暴走しないよう牽制したわたしに、ぴたりと動きを止めたアンドレが嬉しくて堪らないといった風に私の手を取った。
「あまりにも妙なる調べ、これが踊らずにいられるかって、オスカル」
「馬鹿にするな」

怒気を含んだわたしの声に、アンドレははっと見えない目を見開き、床に膝をつくと改めてわたしの両手を大きな手で包みなおした。

「笑ったりしてごめん。そうじゃないんだ」
「からかうのも過ぎたるは興を削ぐ」

本当はからかわれて怒ったわけではない。大事な儀式が中断されて不満だとも、働き者も過ぎたるは、恋人の時間を食いつぶす・・・と素直に言えないわたしのささやかな抗議である。

「おまえの健康な食欲を久しぶりに見たら嬉しくて、ついはしゃいでしまった。誤解させて悪かった、オスカル」

そんな。わたしには返す言葉がなかった。

ちゃんとよく見れば、見えなくても雄弁な彼の瞳は、からかうどころか真摯な喜びに溢れていた。わたしを一番に思いやってくれる、ばあやゆずりの温かな色。

やっぱり馬鹿にしていい、是非そうしてくれ。


アンドレはこの一ヶ月、離れて生活しながらもわたしの衣食住の采配に心を砕いてくれた。特に食の進まないわたしのために、食事療養のハウツーを調べ上げ、少量でも滋養を凝縮したブイヨンやフォン各種、口当たりの良いプディング、香辛料を効かせた煮込み料理などをあちらこちらの店に発注した。

わたしの体力を取り戻すため、そうやって業者を厳選するために奔走してくれたのだった。彼の抱える心痛がどれほど深刻か、わたしは知っているはずだった。そんな彼にとって、わたしの腹の虫の音は何よりの福音だったのだ。

「笑ってくれていい。さあ、笑え」
「なんだよ、急に泣きそうな声を出して」
「腹が減り過ぎたんだ」
「そいつは一大事」

アンドレは急いで立ち上がったが、握った手は離さずに大丈夫か?と無言で問いかけていた。大丈夫に決まっている。わたしにはおまえがいるから。

「丸焼きにした豚を一頭も食べれば機嫌を直してやる」
思い切りわたしらしく偉そうに言ってやったから大丈夫だとわかったろう。
「そりゃ頼もしいね。じゃあ、俺には鼻と尻尾をくれ」
「ひづめもつけてやる」
「ありがたき幸せ」

アンドレは中腰になると、握った私の手の甲にうやうやしくくちづけた。
「すぐに戻るけど豚のローストは焼き上がるまで一週間みてくれ」
え?まさか、本気か。いや、おまえならやりかねないからこわい。
「気が変わった。水牛にしてくれ」
「・・・一ヶ月」

豚でも牛ででもおまえが喜ぶなら一頭丸ごと完食してやる。今朝はそれができそうなくらい、体に力がみなぎっている。おまえが取り戻してくれたものだ。まだ始めたばかりだけれど、こうして一歩一歩未来を持つ希望をつむいでいきたい。

「それから」
足早に寝室を出て行こうとしたアンドレが立ち止まり、一瞬何か言いにくそうな素振りを見せたが、にっこりと笑って言い放った。

「ポットは奥の部屋にある。おれは気にしないけど、おまえが嫌なら後始末は・・・」
「いいから行け!自分でできる!」
「はいはい。裏口から出て真っ直ぐ行って右側の潅木の傍に穴が掘ってある。落ちるなよ」
「落ちるか、馬鹿」

昨夜投げてしまった枕が見当たらなかったので、使用中の枕を投げた。アンドレは顔面で受け止めて、胸でキャッチした。アンドレは昨夜ベッドが使えなくてもあまり困らなかったのではなかろうか。穴掘りまで済ませていたとは。夜通し働いていたのかもしれない。わたしは何も気づず天下泰平だった。

相方が幼馴染であるのは何かと好都合な反面、困ることも多い。ロマンチックでない関係の歴史がやたらと長いものだから、つい慣れ親しんだ行動パターンが幅を利かす。アンドレが働き詰め、わたしは何もせず文句を垂れる。

「豚と牛以外に食べたいものは?」
アンドレが枕を投げ返してきた。

いつか、わたしの方がそんな風に尋ねてやる日が来るのだろうか。例え来なくても、こいつは全く気にしなさそうだが。しかし、根強く張った主従関係、身分意識はわたし達の間にも確かに存在する。

一般的な形態に縛られるつもりはないが、これからわたし達が重ねる時間が、不必要になった古いものを夫婦の絆で塗り替えていけるといい。

「何でも食べる」
「おれを食べたいと言ってくれるかと期待したんだが」

体はすっかり寝室の外、顔だけを覗かせたアンドレがおどけた。
「だから何でもと言っただろう!」
食ってやるとも。ああ、ロマンチックでない関係が長いと甘い囁きもこうだ!

「あ、おれも入るのね」
「好きにとれ」
「豚と同列か、おれは」

大げさに肩を落としてみせるアンドレに笑ってしまう。おまえのくちづけは飛びきり甘いから、デザートにとっておこう。待ちくたびれたわたしの腹が催促がましく再び大げさな音をたてた。アンドレの耳は離れていても当然聞き逃さない。

「ああ、男には落ち込むヒマもない、か。明日もまた是非それを聞かせてくれ、オスカル」

アンドレは慌てて小走りに出て行き、扉の向こうで何かに蹴つまづいて悪態を吐く声が聞こえた。幼馴染同士は何かと大変だ。結局大事な挨拶が後回しになっていないか、わたし達。夫婦への道のりはいまだ遠く、わたし達はこの狼村から出発する。



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